ある人は野球に、ある人はマラソンに、映画『海辺の家』はそれを家にたとえた物語である。

今作ほど家族ドラマという言葉がしっくりくる作品も珍しい。

突如、長年勤めてきた建築事務所をクビになり、さらにその当日、癌で余命幾ばくもないという告知を受けるジョージ(ケヴィン・クライン)。

ジョージと別れ、今は新しい夫と暮らすロビン(クリスティン・スコット・トーマス)。

ロビンに引き取られ、新しい父と一緒に暮らしてはいるものの、パンクとドラッグにのめり込み、ろくに口も聞かないジョージの息子サム(ヘイデン・クリステンセン)。

時を経て心が離れ、現実的にも距離を置いていた家族の絆。ジョージは病気をきっかけにそれを取り戻そうとするのである。
そのためにジョージは、長年の夢だった海辺に建つ我が家を建て直すことを決意する。

言うまでもないことだが、それは彼にとって家族の絆、そして残り少ない人生をもう一度新たに築くことも意味していた。

反抗する息子に、この夏だけは一緒にいろと無理矢理手伝わせ、自分の体にも鞭打ちつつ、家を完成に近づけてゆくジョージ。最初は何も手伝わなかったサムもやがて心を開き、家作りに打ち込んでゆく。その姿を見て、ロビンは再びジョージに心を寄り添わせてゆく。

正直なところ『海辺の家』はこのようにメロドラマ的であり、ありふれたものであり、目新しい部分はほとんどない。

だからこそ、僕は作品を観たあと、取立てて新鮮さのない映画が、どうしてこうも上質な人間ドラマに変貌(あえて変貌と書きたい)したのかを考えることになった。
僕が思うに、その理由は『海辺の家』が泣かせどころを意識的かつ徹底的に外しているからではないだろうか。

まだ観たことのない方が今作のストーリーを人づてに聞いたとき、僕と同じように「メロドラマ的」で「ありふれていて」「目新しくない」と感じる人は少なくないと思う。

しかし幸か不幸か、実際のところ『海辺の家』は手軽な感動が味わえる物語でもなければ、安易に「癒し」を与えるわけでもなく、むしろその対極にある映画である。

その意味は、ケヴィン・クラインとヘイデン・クリステンセンの演技を見れば分かる。

ヘイデン・クリステンセンはパンク好き、ドラッグ好きという定番の不良を演じながら、内側に青年期特有の繊細さ、苛立ち、サムが本来持っているであろう優しさを感じさせる。しかしここで大事なのは、あくまでそれらが内側にうっすらと見えることだ。わざわざ説明する場面はほとんどない。

ケヴィン・クラインも同じ。物語上、どうしてもセンチメンタルに転びそうなところは演技を抑えてそれを濁し、容易な感動を与えることを徹底的に避けている。

あと一言説明してしまったら、演技があと少し大げさだったり過剰だったりしたら、観客の感情が一気にスリップして冷めてしまうところを、『海辺の家』はぎりぎりのところで踏みとどまる。絶妙のさじ加減、というほかない。

ラストシーンでも手抜きがない。

こういった人間ドラマの(そのなかでも駄作の)場合、最後は気が緩むのか、どうしても説明的で感傷的になり、誰もが予想するシーンをそのまま映像にしがちになる。ところが『海辺の家』のラストシーンでは役者達の表情を見せず、美しい風景を映しながら、彼らの話だけが聞こえてくる方法をとっている。これも感傷的なシーンを徹底して外すという『海辺の家』ルールに基づいている気がしてならない。

自分が考えていたり、相手が感じているであろうことを、わざわざ言葉にすると興ざめすることが多々あるが、『海辺の家』はそのあたりのバランス感覚がとりわけ演技面で素晴らしく、地味ではあるけれど、静かに、確かに深い余韻を残す一本になった。

「なんかベタそうな映画だなあ」と思っている方(僕もそうでした)は、だまされたと思って、秋の夜長に一度ご覧下さい。ヘイデン・クリステンセンがなぜ『スター・ウォーズ』のアナキンに大抜擢されたのかがわかりますから。

(奥田高大)

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