ブラアン・デ・パルマをメジャーな存在へと押し上げた出世作

ブライアン・デ・パルマ監督の出世作である。ニューヨークのインディーズ業界からハリウッドへ進出したものの、初のメジャー・スタジオ作品『汝のウサギを知れ』(’72)が勝手に再編集されたうえに2年間もお蔵入りするという大きな挫折を経験したデ・パルマ。その後、『悪魔のシスター』(’72)や『ファントム・オブ・パラダイス』(’74)がカルト映画として若い映画ファンから熱狂的に支持され、敬愛するヒッチコックへのオマージュを込めた『愛のメモリー』(’76)も好評を博す。そんな上昇気流に乗りつつあった当時の彼にとって、文字通り名刺代わりとなるメガヒットを記録した作品が、スティーブン・キング原作の青春ホラー『キャリー』(’76)だった。

主人公は16歳の女子高生キャリー・ホワイト(シシー・スペイセク)。狂信的なクリスチャンのシングルマザー、マーガレット(パイパー・ローリー)に厳しく育てられた彼女は、それゆえに自己肯定感が低く内向的な怯えた少女で、学校ではいつも虐めのターゲットにされている。宗教本を押し売り歩く母親マーガレットも、近所では鼻つまみ者の変人。アメリカのどこにでもある平凡な田舎町で、隔絶された世界に住む母子は完全に浮いた存在だ。

そんなある日、学校のシャワールームでキャリーが初潮を迎える。だが、知識のないキャリーは下腹部から流れ出る鮮血に慄いてパニックに陥り、その様子を見たクラスメートたちは面白がってはやし立てる。そればかりか、帰宅して生理の来たことを報告したキャリーを、母親マーガレットは激しく叱責する。それはお前が汚らわしい考えを持っているからだと。神に祈って許しを請うよう、嫌がる娘を狭い祈祷室に無理やり閉じ込めて罰するマーガレット。この一連の出来事が起きて以来、キャリーは自らの特異な能力に気付いていく。実は彼女、怒りの衝動によって周囲の物を動かすことが出来るのだ。図書館で調べたところ、それはテレキネシスと呼ばれるもので、世の中には他にも同様の能力を持つ人がいるらしい。自分は決してひとりじゃない。そう思えた時、キャリーの中で何かが少しずつ変わり始める。

一方、学校ではシャワールームの一件に腹を立てた体育教師コリンズ先生(ベティ・バックリー)が、虐めに加わった女生徒たちに放課後の居残りトレーニングを課す。さぼった生徒はプロム・パーティへの参加禁止。これに不満を持ったリーダー格の人気者クリス(ナンシー・アレン)が抵抗を試みるものの、コリンズ先生の怒りの火に油を注いでしまい、彼女だけがプロムから締め出されることとなる。そんな懲りないクリスとは対照的に、虐めに加わったことを深く反省する優等生スー(エイミー・アーヴィング)は、ボーイフレンドのトミー(ウィリアム・カット)にキャリーをプロムへ誘うよう頼む。それは彼女なりの罪滅ぼしだった。

学校中の女子が憧れるハンサムな人気者トミーからプロムの誘いを受け、思わず頬を赤らめて舞い上がるキャリー。烈火のごとく怒り狂い猛反対する母親をテレキネシスで抑えつけた彼女は、精いっぱいのおめかしをして意気揚々とプロムへと出かけていく。さながら醜いアヒルの子が美しい白鳥へと変貌を遂げた瞬間だ。プロム会場では人々から羨望の眼差しを向けられ、そのあどけない笑顔に自信すら覗かせるようになったキャリーは、トミーに優しくリードされて夢心地のチークダンスを踊る。これまでの惨めな人生で味わったことのない高揚感と幸福感に包まれるキャリー。だが、その裏で彼女を逆恨みするクリスが、恋人の不良少年ビリー(ジョン・トラヴォルタ)や腰巾着ノーマ(P・J・ソールズ)らと結託し、公衆の面前でキャリーを貶めるべく残酷ないたずらを仕組んでいた…。

紆余曲折を経た映画版製作までの道のり

学校では虐められ、家庭では虐待を受ける孤独な超能力少女の復讐譚。幸福の頂点から地獄へと叩き落されたキャリーが、いよいよ強大なテレキネシスの能力に覚醒し、炸裂する怒りのパワーによって凄まじい大殺戮が繰り広げられる終盤の阿鼻叫喚は、スプリット・スクリーンやジャンプカットの効果を存分に活かしたデ・パルマ監督のダイナミックな演出も功を奏し、ホラー映画史上屈指の名シーンとなった。とはいえ、本質的には大人への階段を上り始めた少女の自我の目覚めと、若さゆえに残酷な少年少女たちが招く悲劇を丹念に描いた普遍的な青春ドラマ。超能力はあくまでもヒロインの自我を投影するギミックに過ぎない。だからこそ、劇場公開から45年近くを経た今もなお、観客に強く訴えかけるものがあるのだろう。そもそも、スティーブン・キング作品の映画化に失敗作が少なくないのは、こうしたストーリー上の超常現象的なギミックに惑わされてしまい、核心である日常的なドラマ部分を軽んじてしまいがちになるからだ。そう考えると、原作の本質を見失うことなく映画向けに再構築した脚本家ローレンス・D・コーエンの功績は計り知れない。

スティーブン・キングの処女作として’74年に出版され、翌年にペーパーバック化されると大きな反響を巻き起こしたホラー小説『キャリー』。当時、映画製作者デヴィッド・サスキンドのアシスタントとして働いていたコーエンは、持ち込まれた多くの企画の中から2つの作品に目をつける。それが『アリスの恋』(’74)のオリジナル脚本と、まだ出版される前の『キャリー』の原稿だった。中でも、10代の若者の純粋さや残酷さを鮮やかに捉えた『キャリー』に強い感銘を受けたという。だが、前者はマーティン・スコセッシ監督による映画化がすぐ決まったものの、後者はボスであるサスキンドのお眼鏡に適わなかった。なにしろ、ホラー映画はB級という先入観がまだまだ強かった時代だ。基本的にフリーランスの立場だったコーエンは、折を見て幾つもの映画会社や製作者に『キャリー』を持ち込んだが、しかしどこへ行っても眉をひそめられたという。

製作主任を務めた『アリスの恋』の撮影終了後、新たな仕事を探していたコーエンは、親しい友人の勧めで『明日に向かって撃て』(’69)の製作者ポール・モナシュの面接を受ける。しかし興味を惹かれるような企画がなかったため立ち去ろうとしたところ、モナシュから「そういえば、もうひとつ企画があったな。『キャリー』っていうんだけれど、知っているかね?」と声をかけられて思わず振り返ってしまったという。実はモナシュが既に映画化権を手に入れていたものの、まだベストセラーになる前だったため埋もれていたのだ。運命を感じたコーエンは、モナシュのもとで『キャリー』の企画を担当することに。テキサス在住の若い新人女性が書いたという脚本の草稿を読んだところ、原作に忠実でもなければ本質を捉えてもいないため、コーエンが一から脚本を書き直すこととなったのだ。

こうして出来上がった新たな脚本を、当時モナシュと配給契約を結んでいた20世紀フォックスに提出したコーエン。通常、映画会社が判断を下すのに数週間はかかるのだが、本作はその翌週にフォックスから却下の返答があったという。当然ながら、脚本の仕上がりに自信のあったモナシュとコーエンは落胆する。しかし捨てる神あれば拾う神あり。世の中には不思議な偶然があるもので、ちょうど同じ時期に『キャリー』の映画化権をモナシュに売却した出版エージェント、マーシア・ナサターがユナイテッド・アーティスツ(UA)の重役に就任し、『キャリー』の映画化企画を持ちかけてきたのである。

原作に惚れぬいた2人の才能の奇跡的な出会い

一方その頃、『キャリー』の映画化に情熱を燃やす人物がもう一人いた。ブライアン・デ・パルマ監督である。原作本を読んですっかり夢中になったデ・パルマは、なんとしてでも自らの手で映画化したいと考え、エージェントを介してモナシュにコンタクトを取ったという。当時まだデ・パルマのことをよく知らなかったモナシュは、何人もいる監督候補のひとりとして面接することに。しかし、これが上手くいかなかった。長い下積みを経て映画プロデューサーへと出世した典型的なハリウッド業界人であるモナシュの目には、口数が少なくて控えめな芸術家肌のデ・パルマは理解し難い人種だったのだろう。結局、モナシュとコーエンはデ・パルマを監督候補から外し、ロマン・ポランスキーやケン・ラッセルを有力候補として検討する。

ところがその後、UAの制作部長からモナシュに、デ・パルマを監督に起用するようお達しが来る。というのも、『キャリー』を諦めきれなかったデ・パルマがエージェントを通してUAに売り込みをかけたところ、たまたま制作部長がデ・パルマのファンだったというのだ。かくして、UA側の意向でブライアン・デ・パルマが『キャリー』の演出を任されることに。ちょうど同じ頃、完成したばかりの『愛のメモリー』を試写で見たコーエンは、もしかするとデ・パルマはこの作品に適任かもしれないと考えを改めるようになり、実際にニューヨークで本人と打ち合わせしたことで、その予感が確信に変わったという。改めて本人と話をしてみると、キング作品の本質的な魅力はもちろんのこと、コーエンが書いた脚本の意図も十分に理解していた。デ・パルマが要求した脚本の大きな改変は2つだけ。キャリーが母親マーガレットを殺すシーンと、劇場公開時に話題となったクライマックスの結末だ。

原作ではキャリーがテレキネシスで母親の心臓を止めるのだが、しかしこれをそのまま映像にすると地味でパッとしない。コーエンも頭を悩ませていたシーンだったが、最終的にデ・パルマが見事な解決策を思いつく。キッチンの包丁やハサミをテレキネシスで次々と飛ばし、まるで殉教者セバスティアヌスのごとく母親マーガレットを磔にしてしまうのだ。さらに、原作ではキャリーと同じような能力を持つ少女がほかに存在することを示唆して終わるものの、コーエンの書いた初稿では惨劇をただひとり生き延びた優等生スーが精神病院へ幽閉されて幕を閉じていた。しかし、これまた映画のエンディングとしてはインパクトが弱い。結局、撮影が始まっても結末を決めかねていたデ・パルマとコーエンだったが、ギリギリの段階でデ・パルマはジョン・ブアマン監督の『脱出』(’72)をヒントに、後に数々のエピゴーネンを生み出す衝撃的なラストを考えついたのである。

そのほか、『ファントム・オブ・パラダイス』のオーディションで知り合い惚れ込んだ女優ベティ・バックリーをキャスティングするため、コリンズ先生の役柄を膨らませて出番を増やしたり、原作では卑劣な悪人であるクリスやビリーのキャラクターにユーモアを加えることで、ともすると重苦しくなりかねないストーリーにある種の口当たりの良さを盛り込んだりと、いくつかの細かい改変をコーエンに指示したデ・パルマ。ちなみに、原作だとキャリーは超能力を使って町を丸ごと破壊してしまうが、さすがにこれは予算の都合を考えると不可能であるため、当初からプロム会場を全滅させるに止める方針だったようだ。

さらに、デ・パルマの功績として忘れてならないのは、イタリアの作曲家ピノ・ドナッジョの起用である。当初、デ・パルマは『愛のメモリー』に続いてヒッチコック映画の大家バーナード・ハーマンに音楽を依頼するつもりだったが、同作の完成直後にハーマンが急逝してしまう。そこで彼が白羽の矢を立てたのが、ダンスティ・スプリングフィールドもカバーしたカンツォーネの名曲「この胸のときめきを」で知られるイタリアの人気シンガーソングライター、ドナッジョだった。もともとドナッジョが手掛けたニコラス・ローグ監督の『赤い影』(’73)のサントラ盤を気に入っていたデ・パルマは、随所でハーマンのトレードマークだった『サイコ』風のスコアを要望しつつも、ホラー映画のサントラには似つかわしくない甘美なメロディをドナッジョに書かせる。これは英断だったと言えよう。その結果、キャリーの深い孤独や悲しみを際立たせるような、実に繊細でロマンティックで抒情的な美しいサウンドトラックが出来上がったのだ。本作で見事なコラボレーションを実現したデ・パルマとドナッジョは、これ以降も通算8本の映画でコンビを組む。なお、プロム会場のチークダンス・シーンで流れるバラード曲を歌っているのは、当時スタジオのセッション・シンガーだったケイティ・アーヴィング。スー役を演じている女優エイミー・アーヴィングの姉だ。

かくして、スティーブン・キングの小説に惚れ込んだブライアン・デ・パルマにローレンス・D・コーエンという、2人の優れた才能が奇跡的に巡り合ったからこそ生まれたとも言える傑作『キャリー』。実際、原作者のキング自身が高く評価しているばかりか、小説版よりも良く出来ていると太鼓判を押している。映画の作り手にとって、恐らくこれ以上の誉め言葉はないのではないだろうか。■

『キャリー(1976)』© 1976 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.