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コラム・ニュース一覧
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COLUMN/コラム2018.05.24
『クリムゾン・ピーク』⑤ 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え
イーディス・ウォートンとブロンテ姉妹 イーディス・ウォートンは『エイジ・オブ・イノセンス』(1921年)で知られるが、実は短編怪奇小説の名手でもあり、「祈りの公爵夫人」(1900年)や「小間使いを呼ぶベル」(1902年)などの初期短編は典型的なゴシックロマンスである。そして、本作の作家志望のヒロイン、イーディス・カッシングと、その実在の小説家イーディス・ウォートンは、ほとんど同世代の同じ米国女性のはずだ。イーディス・ウォートンは1899年に小説家デビューし上記の初期短編を物した。一方、本作『クリムゾン・ピーク』は1901年という時代設定で、我らがヒロインのイーディス・カッシングは冒頭、怪奇小説の原稿を出版社に持ち込んでボツにされ、後に映画を通して描かれていくその年の冬の恐怖体験を『クリムゾン・ピーク』という長編小説に仕立てて上梓する、という設定なのだから(劇中劇と解釈する余地も大いにあるが…)、両者は完全に被っているのである。 ヒロインのイーディス・カッシングは、デビュー作を「女なんだから恋愛小説を書くべきだ」との理由で男性編集者にボツにされた後、タイプライターで原稿を打ち直す。手書きだと女の筆跡というだけで偏見にさらされ、まともに作品を評価してもらえないと感じたからだ。実在のイーディス・ウォートンもフェミニズムの先駆的な作家だと位置付けられているのだが、実際問題その時点からさかのぼること約1世紀前の作家ではあるものの、例のジェーン・オースティンもメアリー・シェリーも、前者はby a ladyとして匿名で、後者は女であることさえ伏せて、作品を発表していたのである。さらにはかのブロンテ姉妹ですら、1901年のほぼ半世紀前という時代になってもまだ、男性名のペンネームで男として執筆した。姉の『ジェーン・エア』(1847年)も妹の『嵐が丘』(同年)もそうだ。 そして、『ジェーン・エア』も『嵐が丘』も、実はゴシックロマンスをベースにしたノベルなのである。ジェーン・オースティンがゴシックロマンスをパロディとしてイジり倒して純文学に到達したのに対し、ブロンテ姉妹は決してパロディにはしなかった。姉はジェーン・オースティンの作風を「彼女が描いた紳士淑女たちと一緒に、あのエレガントな屋敷に引きこもって暮らしたい、なんて私には全然思えない」、「激情というものを彼女はからっきし理解してない」と、何度も酷評している。姉妹は、ゴシックロマンスのフォーマットである「貴族のお屋敷に閉じ込められた純真無垢なお嬢様が、夜ごとの心霊現象、秘密の地下室と屋根裏部屋、怪人めいた当主、恐ろしい狂人、忌まわしい婚礼、一族の呪われた秘密、おぞましい近親相姦といった、建物に染み付いた深い闇に怯える」という“お約束”を踏襲しつつも、同時に“人間を深く描き”、通俗的読み物としての怪奇小説には着地させずに、不滅の文学的価値をも獲得したのである。 ところで、ミア・ワシコウスカは、2011年にイギリス・アメリカ合作の文芸映画『ジェーン・エア』にて、ジェーン・エア役も演じたことがある。不遇な孤児ジェーン・エアが成長し家庭教師として住み込むことになったお屋敷には狷介な貴族の当主(怪人めいた主人)がいて、やがてそんな彼に見そめられ結婚しかけるが(忌まわしい婚礼)、次第に心霊(っぽい)現象、秘密の屋根裏部屋、恐ろしい狂人、一族の呪われた秘密(同時にもう一つの忌まわしい婚礼でもある)が明かされていき、その一方でジェーン・エアは従兄からのしつこい求愛も受けるのだ。(続く) <次ページ『クリムゾン・ピーク』(完)~ミア・ワシコウスカとジェシカ・チャステイン、そしてトム・ヒドルストンのこと~> © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.05.24
『クリムゾン・ピーク』④ 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え
メアリー・シェリー作『フランケンシュタイン』(1818年) 弱冠20歳にも満たないメアリー・シェリーが書いた『フランケンシュタイン』は、ゴシックロマンスの原点『オトラント城奇譚』同様、作者がある晩に見た「マッドサイエンティストがおぞましい人造人間を作ってしまって後悔し、後悔しながらもまどろんでハッと目が醒めると、その怪物がベッド脇でこっちを見下ろし立っていた!」という悪夢がインスピレーションとなってシュールレアリスティックに執筆された物語だ。しかし重要なのは、この作品がゴシックロマンスの到達点にして最高傑作と評されている、もしくは、ゴシックロマンス50年の成果の上により普遍的なテーマを打ち立て、ゴシックロマンスの枠を超えた不朽の名作へと深化したと評されている、という点だ。『クリムゾン・ピーク』のヒロインがジェーン・オースティンよりもメアリー・シェリー(どちらもヒロインと同じ二十歳前後で傑作小説を物した)の方が好きだと言い切るのは、それが理由だろう。下らない、子供じみた、人間が全然描けてない、低俗な娯楽だとレッテルを貼られてきたジャンルを極限まで磨き上げ、永久に色褪せぬ芸術の域にまで昇華させたような作品を、私は作りたいんだ!という決意表明である。 そんな決意を本当に達成してしまった実在の偉大なクリエイターが、メアリー・シェリー以外に少なくとももう1人いる。その人物は、少女が迷い込む妖精地底王国だの、デーモン族vs悪魔の力身につけた正義のヒーロー(赤)だの、汎用人型決戦兵器vsカイジューの特撮バトルだの等々、荒唐無稽なファンタジーやSFのジャンルムービーばかりを撮ってきた、いい歳したヲタクの映画監督であり、いわゆる“人間が描けている”、“上質なヒューマンドラマ”的な作品が評価されがちなアカデミー賞において、ついに監督賞と作品賞を勝ちとった男である。それも、半魚人映画で! なお、メアリー・シェリーについては、エル・ファニング主演の伝記映画の公開が2018年内に控えている。ここでは詳述しないが、ロリ略奪婚など波乱万丈のドラマチックな人生を駆け抜けた女性で、本作ヒロインが憧れ、目標とする女流作家がどのような人物だったのかを知るために、『クリムゾン・ピーク』を見た人ならあわせて必見の映画となりそうだ。期待しよう。 それはさておき、小説『フランケンシュタイン』は、科学が好奇心の赴くままに弄んだ生命(ひいてはテクノロジー)が暴走し、コントロール不能に陥る恐怖、という、優れて今日的な主題で、SFジャンルの“種の起源”として評価されることが多いが、もう一つのテーマである、異形者の救いなき疎外感、「望んでこの状態で生まれてきた訳ではないのに、そのせいで自分は孤独だ。誰かの愛が欲しい」という、怪物が抱く絶望的孤独の方が、永遠のヲタク少年デル・トロにとっては重要だろう。そちらの方こそ、彼が自作の中で繰り返し描き続けてきたテーマなのだから。その孤独がついに癒され救済される。そんなロマンティックを、どれだけ表面上バイオレントでもグロでも、彼の映画はしばしば見せてくれた。デル・トロはハッピーエンドの『フランケンシュタイン』を撮り続けている作り手なのだ。 本作においては、ヒロインの「メアリー・シェリーの方が好き」の台詞に加え、デル・トロはヒロインの名前を通じても『フランケンシュタイン』に重ねてオマージュを捧げている。ヒロインの名前はイーディス・カッシング。ラストネームの「カッシング」はピーター・カッシングから採ったのだろう。1957年のハマー映画『フランケンシュタインの逆襲』でタイトルロールのフランケンシュタイン博士を演じたホラー俳優だ。 前述した彼の怪奇屋敷風アトリア「荒涼館」には、人の背丈ほどもある巨大なお面や、等身大のリアルなスタチューなど、フランケンシュタインの怪物のオブジェが複数飾られてもいる。コレクションの目玉扱いだ。いかに『フランケンシュタイン』が彼にとって重要か! ところで、ファーストネームの「イーディス」の方は何からかというと、米国の女流作家イーディス・ウォートンからの引用である。(続く) <次ページ『クリムゾン・ピーク』④~イーディス・ウォートンとブロンテ姉妹~> © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.05.24
『クリムゾン・ピーク』③ 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え
ジェーン・オースティン作『ノーサンガー・アビー』(1817年)『ノーサンガー・アビー』の「アビー」とは、ご存知ドラマ『ダウントン・アビー』のアビーと同じで「僧院」の意。元修道院だった建物が払い下げられ富裕層の住居として転用されるという特殊な住宅事情が英国にはあった。16世紀宗教改革期にローマ教会と対立したヘンリーVIII世が1536~39年にかけ強行した大修道院解散法の結果だ。築数百年の宏壮な元僧院の現住宅というだけで不気味なイメージが付きまとい、いかにもゴシックロマンスの舞台にはうってつけである。『ノーサンガー・アビー』のヒロインは、ゴシックロマンスにハマっている、いわばラノベヲタクの少女である。本物の中世の古城だと信じ込んで最近建てられたゴシック風テーマパーク城の聖地巡礼に胸ときめかすような無邪気な娘が、複雑な同性・異性の友人関係に悩まされながら精神的成長をとげていく。 物語後半でノーサンガー僧院に招待され長逗留することになり、そこの息子であるゴシックロマンスヲタク男子とも話が合って意気投合、恋心を抱く。お話に出てくるようなオカルト現象やドラマチックすぎる展開がこの館で我が身にも訪れてくれるのではと彼女は期待する。そう期待するようヲタク男子が煽るからだ。がしかし、ことごとく「思ってたんと違う」式もしくは「幽霊の、正体見たり、枯れ尾花」式に期待は裏切られていく。終いには、思い込みが激しすぎて館の当主を“怪人めいた主人”=極悪人だと早合点。尻尾を掴もうと人の家をコソコソ嗅ぎ回っている現場を押さえられてしまい…というのが『ノーサンガー・アビー』のあらすじだ。つまりこのノベル、ゴシックロマンスのパロディであり、ゴシックロマンスあるあるでもある。 illustration of Nothhanger Abbey, Artist Unknown, 1833 Bentley Edition of Jane Austen's Novels またも脱線するが、人生に夢を見すぎて平凡な現実との落差に苦しむ心理状態のことを「ボヴァリスム」と呼ぶ。フランスのノベル『ボヴァリー夫人』(1856年)がその語源だ。ヒロインのボヴァリー夫人はロマン主義の時代を生きる女性で、人生に劇的な出来事の訪れを夢見、ロマンティックな結婚生活に期待を膨らませるが、結婚後のあまりにも退屈な日常に失望して不倫と浪費を繰り返し、最期は身の破滅を招く。この小説が元となって「ボヴァリスム」という言葉が生まれたのだが、『ノーサンガー・アビー』のヒロインもまた、軽度のボヴァリスム症状と言える。 ところで、ミア・ワシコウスカは、2014年にドイツ・ベルギー・アメリカ合作の文芸映画『ボヴァリー夫人』にて、マダム・ボヴァリー役を演じたことがある。ロマンティックな夢が全て破れ、森のぬかるんだ泥道で毒をあおって孤独に野垂れ死ぬ場面からその映画は始まる。 話を『ノーサンガー・アビー』に戻そう。こちらのヒロインはジェーン・オースティンのノベルらしく、野垂れ死になどはせずにハッピーエンドに無事たどり着くのだが、作中、例の家捜しがバレてヒロインが大恥をかくくだりの直後、作者オースティン自身の言葉として、ゴシックロマンスは魅力的ではあるが「おそらく、そういった小説の中には、人間の性質などは求めるべきではないのだろう」との一文がある。「人間が描けていない」という、よくある批判だ。いつだって通俗小説や娯楽映画はこの手の批判にさらされてきた。 実はこの『ノーサンガー・アビー』、ゴシックロマンス流行期に書き上げられていたのだが、作者がまだ無名だったため版元に原稿を死蔵され、ようやく世に出たのは20年後のブームも末期の頃で、名が売れた作者の死後だった(執筆時は二十代前半)。決定打となるこのパロディ小説の刊行により、ゴシックロマンスとその愛読者は“イジられる”対象となってしまい、ブームは下火へと向かっていく。この中では、子供っぽい厨二病的空想よりも、現実の恋愛を知り、そこに大人として人生の本物の喜びを見出すこと、つまりは、少女時代からの卒業が、リアリズムをもって描かれた。 ジェーン・オースティンは「田舎の村の三つか四つの家族というのは格好の題材です」「細かい毛筆を使って、どんなに手間をかけても効果がほとんど目に見えないものを描いた小さな(二インチ幅の)象牙のような私の作品」との言葉を残している。彼女のノベルはどれも、田舎の狭いソサエティを舞台に、上流社会に触れた中産階級女子の心の機微が、ブリジット・ジョーンズ的な恋のから騒ぎの中でユーモラスに活写される。等身大の近代女子の内面をリアルに描出する(=人間が描けている)ことで普遍性を持ち、近代文学・純文学として不動の地位を獲得したのである。ロマンスからノベルへ。18世紀の通俗小説から19世紀の純文学へ。しかし、そのための踏み台にゴシックロマンスはされてしまったと言えなくもない。 映画『クリムゾン・ピーク』の開始早々、ミア・ワシコウスカ演じる怪奇作家志望のヒロインが、「まるで現代のジェーン・オースティン気取りね」と、周囲の、着飾るばかりで能のない、夢は玉の輿に乗ることというレベルの同性たちから揶揄されるシーンが出てくる。彼女らは、英国から渡米してきた貴族の殿方とお近付きになりたいわ、舞踏会でお相手してほしいの、求婚されたらどうしましょ、などとキャピキャピやっているのだが、この雰囲気、ダンスやプロポーズがどうしただの、玉の輿に乗るだの乗らないだのは、きわめてジェーン・オースティン的であり、彼女のノベルではお馴染みの女子トークであり、そして『クリムゾン・ピーク』のヒロインが心底どうでもいいと思っていそうなことである。彼女はそういう作品を書きたいわけではないのだ。それ以上に、ゴシックロマンスや怪奇小説を愛し、そのジャンルの物書きになりたいと夢見ているヒロインとしては、それのパロディを書きイジり倒してブームを終わらせてしまった作家になぞらえられて気分が良かろうはずがない。 そこで彼女はこう切り返す。「ありがと。でも私どちらかと言うとメアリー・シェリーの方が好きなの」 そう言われても、玉の輿狙いのパリピ女どもに、この当意即妙のウィットは通じたかどうか。(続く) <次ページ『クリムゾン・ピーク』④~メアリー・シェリー作『フランケンシュタイン』(1818年)~> © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.05.24
『クリムゾン・ピーク』② 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え
~大脱線~ 宮崎駿『カリオストロの城』の話、他 以下しばらく余談が続く。デル・トロ監督のアトリエ「荒涼館」も、改築を繰り返し、古風なインテリアにしつらえられており、そこに、グロテスクなコレクションが所狭しと陳列されている(YouTube動画「ギレルモ・デル・トロ - 荒涼館へようこそ」参照)。自作に登場した小道具まで、制作費を監督自身が一部負担することで、撮影後に貰い受け、そこに飾っているのだ。元祖ウォルポールと同じ普請道楽と蒐集癖にデル・トロもまた血道を上げているのである。自作をそこで創造している点も同じ。趣味人の道楽が創作意欲へとつながり、偉大な仕事として結実している。 余談、其の二。『オトラント城奇譚』は、作者ウォルポールがくだんのレプリカ城にてある明け方に見た夢をもとに、寝食も忘れ一気呵成に書き上げた、シュールレアリスムの萌芽のようなお話。怪人めいた城主の息子に異国の姫が輿入れする当日、天から自動車ほどもある巨大な兜が落ちてきて(シュール!)、新郎が下敷きになり圧死するところから物語は始まる(忌まわしい婚礼)。怪人城主は、不肖の息子は死んでも惜しくないが跡取りが途絶えるのは御家の一大事と、自分が妻と離縁して義理の娘と再婚し子作りに励むと言い出す。城内に閉じ込められそうになった姫は、舅とのおぞましい近親婚を忌避して秘密の地下室から辛くも脱走し、その後の展開で、城主一族の呪われた秘密、超巨大ヘルメットの謎が明かされていく、という因縁譚である。 これを素材に、チェコの魔術的ストップモーションアニメの作り手ヤン・シュヴァンクマイエルが、1973~79年にかけて(制作が難航した)20分弱のショートフィルム『オトラントの城』を監督している。歴史家が『オトラント城奇譚』は実話に基づいているとのトンデモ学説を実写パートで解説するフェイクドキュメンタリーで、『オトラント城奇譚』のあらすじ紹介パートはアニメで描かれる。『オトラント城奇譚』の古書から切り抜かれコラージュされた銅版画挿絵がカクカク動くその映像は、悪夢じみていてトラウマ的だ(彼の作品は全てそうだが)。手っ取り早く『オトラント城奇譚』の梗概に触れたい向きにはうってつけの短編映画である。シュヴァンクマイエル監督は実際シュールレアリストなのだから、題材との相性は良い。 そもそも、大雑把に言うと「夢の中のヴィジョンの再現を試みた芸術運動」となるシュールレアリスムと、その具体的実践法として、心に浮かんだことを滅茶苦茶に一心不乱に書きつけて意識下を形にとどめようというオートマティスムは、1924年に詩人ブルトンが、夢から着想を得たウォルポールの『オトラント城奇譚』執筆という160年前の故事に倣って創始したものなのである。整理すると、作家ウォルポールによる1764年の文芸創作→詩人ブルトンによる1924年のシュールレアリスム宣言→シュールレアリスト監督シュヴァンクマイエルによる1973~79年のウォルポール作品映像化、の順で連関しているわけだ。ゴシックロマンスと『オトラント城奇譚』を知ると、シュールレアリスムの源流にたどり着く。 さらに余談。アニメつながりで言えば、ご存知『カリオストロの城』(1979年)もまた、宮崎駿が意図したものか偶然かは定かではないが、実はゴシックロマンスなのである。何世代も増改築が繰り返され迷路と化した古城(ゴシック様式の特徴も部分的に見受けられる。モデルは1952年のフランスのアニメ『やぶにらみの暴君』だが)、秘密の地下室と屋根裏部屋、閉じ込められたお姫様、怪人めいた城主、一族の呪われた秘密、忌まわしい婚礼、おぞましい近親相姦(クラリスと伯爵は親戚)…全てゴシックロマンスの定石どおりだと分かるだろう。ただ、およそこのジャンルには似つかわしくないルパンが、アクションで軽口まじりの大立ち回りをコミカルに演じるせいと、決してダークすぎに描いてはいない絵づらの匙加減のせいと、TVシリーズからも盛大に流用された大野雄二のお馴染みの劇伴の印象のせいで(“っぽい”BGMは唯一、地下の華燭の典で流れるパイプオルガンの調べ、バッハのパストラーレ ヘ長調 BWV590だけだ)、まさかあれがゴシックロマンスだとは一見して気づきづらいのだが、完全にこのジャンルのフォーマットを換骨奪胎しているのである。そう考えると、「ゴート札」、「死滅したゴート文字」、「古いゴートの血が流れている」といったセリフも、実はヒントだったのかもしれない。中世の城に隠された宝は、蛮族ゴート人が滅ぼした古典古代のローマの美そのものだ(アルセーヌ・リュパン・シリーズ小説『緑の目の令嬢』からの引用でもあるが)。もう一つ、怪人めいた主人が城内の私設印刷所で大規模な凸版印刷事業を営んでいる点は、元祖ウォルポールへと繋がる別の手がかりだったのかもしれない。 ようやく閑話休題。嚆矢とされる1764年の『オトラント城奇譚』以降、ゴシックロマンスは半世紀にわたって流行し続け、あまたのエピゴーネンが現れ、ブームは英国から海を渡り欧州本土やアメリカにまで飛び火した。ブームの最後の頃に本家英国で発表された重要な2作品が、ジェーン・オースティンによる『ノーサンガー・アビー』(1817年)と、メアリー・シェリーのお馴染み『フランケンシュタイン』(1818年)である。(続く) <次ページ『クリムゾン・ピーク』③~ジェーン・オースティン作『ノーサンガー・アビー』(1817年)~> © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.05.24
『クリムゾン・ピーク』① 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え
日本の漫画・アニメ・特撮をこよなく愛するヲタク監督ギレルモ・デル・トロ。サブカル愛あふれるジャンル映画しか作らない男の『シェイプ・オブ・ウォーター』が今年(2017年度)、アカデミー作品賞・監督賞ほかに見事輝いた。そんなデル・トロが、この『クリムゾン・ピーク』(2015年)では怪奇映画愛を炸裂させている。 「プラチナ・シネマ」は第1回がタランティーノの『ジャンゴ 繋がれざる者』だったが、このギレルモ・デル・トロの『クリムゾン・ピーク』なら、最終回に相応しいだろう。 6月「プラチナ・シネマ」について何か書く、ということで他に4作について書いてきたが、最後となる本稿は、他の倍以上の長さとなってしまいそうだ。個人的に好きだからではなく、書くべきことが膨大にあるからだ。つまりこの映画、奥が深い! だがその前に、まずはあらすじから。 20世紀元年の米国。ゼネコン成金の令嬢で、怪奇小説家志望のうら若き女性イーディス・カッシング(ミア・ワシコウスカ)は、作家としての芽が出ず行き詰まっていた。そんな彼女の前に、英国貴族シャープ姉弟が現れる。シャープ家領地で採土される深紅(クリムゾン)色の赤粘土は王室御用達の上質な赤レンガの材料であり、姉弟は掘削設備の新規導入に投資してくれる出資者を募るためにはるばる渡米してきたのだった。弟のトーマス・シャープ準男爵(トム・ヒドルストン)はイーディスの父に出資を打診するが色よい返事は得られない。しかしイーディスと準男爵が恋に落ち、やがて結婚の運びとなる。シャープ夫人の座に収まったイーディスは渡英し、赤土の丘に建つ古い屋敷で共に暮らし始めるが、そこで、恐ろしい義姉ルシール・シャープ(ジェシカ・チャステイン)と同居することに。吹雪が吹きすさび、積もる雪に溶け出た赤土が血のように滲んで、辺り一面が「クリムゾン・ピーク(深紅の丘)」と化す時、イーディスの恐怖と危機もピークに達するのだった。 デル・トロ監督は言う。 「ハロウィンの時期に公開されたからホラーとして宣伝されたが、実際は違う。ホラー映画の様式とはかけ離れていて、おとぎ話の空気が漂うゴシックロマンスだ」 監督は本作で、「ゴシックロマンス」という18世紀後半~19世紀初めにかけて流行った文芸ジャンルの再生と進化を図ろうとしているのである。 ゴシックロマンスとは何か あるブームがピークに達した後、次にその反動が来るのは世の常。中世の迷妄を恥じギリシア・ローマの古典古代を鑑とした17~18世紀の古典主義、啓蒙思想、近代合理精神や理性崇拝。それらが広まりきったなら、次の時代には必ずその揺り戻しが来る。人間本来の激情や恋愛を賛美し、滅び去った神秘や迷信に代わるオカルト趣味を偏愛し、中世を再評価し懐かしむようなカウンタームーブメントが現れたことは、歴史の必然だった。それが大きくは「ロマン主義」であり(古典主義⇔ロマン主義は対概念)、その中の下位分類として、特にオカルト趣味に偏った文芸運動がゴシックロマンスだ。 「ゴシック」+「ロマンス」、2つの語を足して、ゴシックロマンス。「古城や貴族のお屋敷に閉じ込められた純真無垢なお嬢様が、夜ごとの心霊現象、秘密の地下室と屋根裏部屋、怪人めいた当主、恐ろしい狂人、忌まわしい婚礼、一族の呪われた秘密、おぞましい近親相姦といった、建物に染み付いた深い闇に怯える」という怪奇ジャンルである。はたして本作『クリムゾン・ピーク』には、このうち幾つが当てはまるのか、または当てはまらないのか、ぜひカウントしてみていただきたい。 ゴシックロマンスの「ロマンス」は、現代語のロマンスというニュアンスではなく、「物語」とか「お話」といった広義の意味であって、狭義の恋愛モノには必ずしも限定されない(それも一要素だが)。おとぎ話的な性格の強い娯楽読み物を指す。それに対し、キャラクターの内奥を掘り下げて人物描写するリアリズムのフィクションが、次の時代にさらなるカウンターとして登場し流行った「ノベル」なのだと、近代文学史では区別されている。ロマンス⇔ノベルも対立概念であり、「通俗小説」⇔「純文学」の違いに近い(「通俗小説」が悪いと言っているわけではない)。 『イギリスの老男爵』(1777年)という初期のゴシックロマンスで知られる女流作家クララ・リーヴは、「ロマンスは、伝説上の人物や出来事を扱うヒロイックな寓話。ノベルは、現実の生活と習慣、そして執筆時点の同時代を写実的に描くもの。またロマンスは、高尚で格調高い文体で、かつて起こったこともなく、今後も起こりそうにないことを描く。対してノベルは、我々の目の前で我々自身や我々の友の身に日々起きている出来事を描く」と定義している。 さて、ゴシックロマンスのもう一方「ゴシック」は、高校世界史の文化史ページで習う建築・美術用語であり、中世ヨーロッパで流行した。ゴシックロマンスの読み物が英国で流行したのは18世紀後半なので、ゴシックはその時点から500年も昔の建築様式であり、当時は即「廃墟」、「荒城」、「遺棄された僧院」といったイメージと結びついた。 ゲルマン民族大移動により西ローマ帝国が滅亡。古代が終わり中世が始まるが、そのゲルマン民族の有力な一派に「ゴート族」があり、現スペインに西ゴート王国、現イタリアに東ゴート王国を建国するなど一時は強勢を誇った。「ゴシック」とは「ゴートチック」、すなわち本来は「ゴート的な」という語義であり、ただちに中世を連想させる形容詞だった。 日本の民放の旅番組などではよく「中世ヨーロッパの息吹きを今に伝える古都ホニャララ」のようにポジティブなイメージで使われるが、当のヨーロッパの歴史観においては「中世」とは本来、ダークでネガティブなイメージが基礎となる。ローマが確立した古典古代の美と知性と秩序が、蛮族の侵冦によって崩壊。光は失われ、続く混乱と殺戮、その後の教会支配による狂信によって覆われた、永き闇の時代。それが中世だと認識されているのだ。ゆえに別名「暗黒時代」。その記憶はまさに怪奇モノのモチーフに相応しい。ローマ=古典古代⇔ゴート=中世もまた対概念だ。 そこから発して「ゴシック」の語は今日では「ゴス」と略され、ほぼ「ダークテイストな貴族風の」といった程度の気軽なニュアンスで日常的に用いられ、80年代にはロックのいちジャンルとなり、さらにティーンファッションの一派を形成。それが我が国にも輸入されてアニメ文化と混淆し日本語の「ゴスロリ」となって、今度はそれが欧米にクールジャパンなkawaiiカルチャーとして逆輸入され、新たな興隆を見せているのである(ゴスの歴史をたったの5分でサクッと学べるTED動画もあるので、そちらもご参照いただきたい)。 さて、ゴシックロマンスの舞台は、建て増しに建て増しを繰り返し迷宮化した先祖伝来の城館、と相場が決まっている。中世の冷気がまだ暗がりに残留していそうな古い建物。ゴシックロマンスの元祖『オトラント城奇譚』(1764年)の作者で、大英帝国初代首相の息子であるホレス・ウォルポール自身が、中世のダークな浪漫と大昔のゴシック建築に惹かれ、憑かれたように別荘をゴシック風に何十年もかけ改装した。このレプリカ建築が最初の「ゴシック・リヴァイヴァル様式」となった。 ウォルポールによるゴシック風レプリカ城 本作『クリムゾン・ピーク』の幽霊屋敷もこの様式だ。かの有名なロンドン観光2大名所、ロンドン橋と勘違いされがちなタワーブリッジの二つの塔と、時計塔ビッグベンまで含むウエストミンスター宮殿(=英国国会議事堂)もまたこの様式なのだから(お隣のウエストミンスター寺院は本物の中世ゴシック建築だが)、日本人が英国建築と聞いてまず真っ先にイメージするのがこのゴシック・リヴァイヴァル様式ではないだろうか。 本作『クリムゾン・ピーク』の幽霊屋敷 タワーブリッジの二つの塔 時計塔ビッグベンまで含むウエストミンスター宮殿 貴族作家ウォルポールは、そのこだわりの元祖ゴシック・リヴァイヴァル建築の館内に、珍奇な文物や浩瀚な稀覯本を蒐集し陳列してアトラクション化したのだが、それだけでは飽き足らず、夢想してやまない中世の古城を舞台にした怪奇物語『オトラント城奇譚』を執筆し、このジャンルの祖となったのである。さらには城内に印刷所も併設して、そこで自著の印刷出版まで行った。(続く) <『クリムゾン・ピーク』②~大脱線~ 宮崎駿『カリオストロの城』の話、他> © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存
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COLUMN/コラム2018.05.23
『ツーリスト』6/23(土)字幕、24(日)吹き替え
アンジー×ジョニデの大型共演が話題を呼んだ本作。アンジーが企画を主導しドイツ人監督に白羽の矢を立て、その監督が、アンジーと吊り合う相方にはブラピを除けばもうハリウッドにはジョニデしか存在しないと切望してジョニデに打診したのだ。しかし、ジョニデの『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』撮入時期との兼ね合いで、脚本を起稿してからジョニデの撮影を終えるまで5ヶ月間、編集して映画を完成させるまででもトータル11ヶ月間しか制作期間がなかったという。ものすごい早撮りで作られた映画だ。 以下、あらすじ。 パリでスコットランドヤードの監視対象となっているエリーズ(アンジェリーナ・ジョリー)。超大物犯罪者の情婦だからだ。大物を警察も追っているしマフィアも追っている。大物は整形して今どんな顔なのか誰も知らないので、エリーズを張っていればそのうち接触してくると警察は踏んでいる。その通りの展開になり、「ヴェネチアに向かえ、俺と背格好が似た男に接近して警察の目をくらませ」との秘密指示を受けたエリーズは、ヴェネチア行きの特急の中で米国人ツーリストの平凡な男フランク(ジョニー・デップ)に接近。2人してヴェネチアに向かうのだが、その後を警察とマフィアも追ってくる。 アンジーとジョニデの初共演を華麗に彩るのが、普段はティム・バートン組のコスチューム・デザイナー(ジョニデが連れてきた?)コリーン・アトウッドによる衣装だ。ゴージャス!特にアンジーは大物犯罪者の情婦役にもかかわらず、なぜかハリウッド黄金期の大女優か、あるいは往年のヘップバーンもかくやというハイファッションに身を包んでいる。芝居も極端なハイソ女の演技で、仕草も過剰に優雅。ディスっているのではない。これは確信犯でわざとやっているのだ。 一方のジョニデは数学教師の冴えない男ということで、ファッションは、冒頭はカジュアルなジャケットスタイル。ジョニデの超カッコいいジャケットカジュアルスタイルといえば、知的色気がダダ漏れの稀覯本専門古書店オーナー役を演じた『ナインスゲート』を思い出すが、本作もあの衣装の雰囲気と似ている。そちらではラッキーストライクを口角でくわえタバコしていて、それも大変カッコよかったが、本作では先端がLEDで赤く光る電子タバコで禁煙しており、ちょっと滑稽。 ジョニデがスッピンで出ているというのも珍しい。ジョニデが男子がアイライナーを引くブームを始め「ガイライナー」という言葉まで生んだ。最近も日本のビールのCMでアイメイクばりばりでギターを弾いていたが、しかし!本作でも結局いつの間にか、なし崩し的にほんのりアイラインを下まぶただけ引きはじめるのである!それがいつの瞬間かを見極めていただきたい。本作ではアンジーの方もアイメイクは尋常じゃない濃さだが、実はそれは、地味な中年男性数学教師の旅人がなぜかアイメイクし始める不自然さから目をそらすための陽動作戦ではないのか?なお、同じくなし崩し的に、滑稽電子タバコから本物のタバコに戻す瞬間にも注目である。もちろんこれも確信犯でやっている。 なぜ確信犯と分かるかというと、本作が確信犯的にコメディ映画として作られているからだが、それについては後述する。 キャストは他も豪華で、開始早々、ルーファス・シーウェル(ヴェネチア舞台の歴史映画『娼婦ベロニカ』にも出ていた)とポール・ベタニーという『ROCK YOU!』コンビが出てきて、さらにティモシー・ダルトンまで出てきて(この映画の観光映画っぽさは007を彷彿させる。ヴェネツィアは007でも何度か舞台になっているし)、並々ならぬオールスター映画感がみなぎる。これら主演スター級の脇役が、はたしてどういう活躍を見せるのか?(あるいは見せないのか?)にもご注目いただきたい。 しかし、この映画の主役は何と言っても、やはりヴェネツィアの街だろう。スター映画であると同時にヴェネツィアを舞台にした観光映画でもあるのだ。わざわざこんな↓宣材写真まで撮ってきているほど。こういう単なる風景写真が宣材として用意されていることは極めて異例。 本作は、ソフィー・マルソーとイヴァン・アタル共演のフランス映画『アントニー・ジマー』(2005)のわずか数年後のリメイクだ。それを、豪華絢爛に盛って盛って盛りまくり、オリジナルとはだいぶ趣きを異にする映画に仕上げている。スタッフが、とにかくゴージャス方向に作った、とインタビューで語っている。わざとなのだ。 フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督に至っては「この映画を作るからには、美の極みを目指すしかない!」とまで豪語している。「美の極み」というのもまた凄い言葉だ。監督は、初の長編監督作であるドイツ映画の大傑作『善き人のためのソナタ』で、33歳にしてアカデミー外国語映画賞を受賞した天才。貴族の名家の出身でもある。ヴィスコンティもそうだが、本物の貴族が描くと映画でリアルな貴族趣味と高級感を再現できているような気がするのは庶民の引け目だろうか? オリジナル『アントニー・ジマー』も南仏ニースが舞台の観光映画ではあったが、本作よりは地に足のついたリアルな情景。一方の本作は、絵になる観光絵葉書的なヴェネツィアの風景だけをつないだリッチさが1シーンたりとも途切れることがない。『アントニー・ジマー』ではありふれた地下駐車場で悪漢の乗用車に追われていたチェイスシーンも、本作になるとヴェネツィアの水路でのモーターボートを使ったチェイスに置き換えられていたり。それにソフィー・マルソーも良い女だったが、本作のアンジーほどハイソ感は漂わせていなかったし、衣装も常識的レベルのゴージャスさだった。本作は、わざと意図的に浮世離れさせている。なにせ美の極みなので! オリジナルの方は真剣なサスペンスだったのだが、本作の方は、どこまでが本気でどこからが狙いかわからないコミカルさも魅力だ。本作の制作スタンスはコミカル&ゴージャス。どちらもわざと、確信犯でやっているのだと重ねて強調しておきたい。監督は、とにかく軽い映画にしたいとも心がけ、時に“ミスディレクション”して(『善き人のためのソナタ』ばりに)真面目モードで撮ってしまった時もあるが、そういう場合にはわざわざ撮り直しまでした、とも語っている。 しかし、そもそもが上質で重い人間ドラマ『善き人のためのソナタ』で評判を得た監督で、名家の出なのである。本作にまつわるインタビューでは真面目な人柄が隠そうにもにじみ出ていて、口数も少なく、朴訥な印象の人だ。そんな、いいとこのおぼっちゃまの高学歴の超優等生が、面白い奴と証明しようと無理しておチャラけている、という、若干の無理も感じられ、それが滑稽さにつながり、アメリカン・コメディの爆笑とはまた違うたぐいの、えも言われぬ独特のぬるたい味わいが生まれている。 ということで、本作は見事、ゴールデングローブ賞のコメディ部門に、作品賞、主演男優賞、主演女優賞でノミネートされ、授賞式当日も司会者に大きく取り上げられて大変な話題となった。軽い気持ちで、街の美しさ、スターの華やかさに見とれるという見方が正解で、大真面目なサスペンス・スリラーを期待してはいけない。公開時にはボタンのかけ違いで「サスペンス・スリラーだと思って見に来たのに!」といった声も聞かれたが、最初から、コミカル&ゴージャスの2点が見どころなんだと思って、まったり見ていただきたい。 最後に。スコットランドヤードの警部役ポール・ベタニーは、劇中ではあまりジョニデとの絡みはないものの、プロモーションでは漫才コンビのような好相性を見せ、後に『トランセンデンス』と『チャーリー・モルデカイ 華麗なる名画の秘密』でも再共演を果たす。特にジョニデがプロデュースしベタニーに自らお声がけしたという『チャーリー・モルデカイ』の方は、この2人の軽妙な掛け合いがメインディッシュとなっているほど。むしろジョニデ×アンジーよりもジョニデ×ベタニーのBLカップリングのケミストリーを生み出したことの方が、本作『ツーリスト』の功績ではなかっただろうか。今後も、このコンビでどんどん映画を作っていってもらいたい。■ © 2010 GK Films, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.05.21
『LUCY』 6/16(土)字幕、17(日)吹き替え
まず、あらすじ。 台湾に留学中の女性ルーシーは、元カレから謎の荷物の運び屋仕事を強引に押し付けられる。不安的中、中身は麻薬で、しかも届け先で韓国系ヤクザに拉致され昏睡させられ外科手術までされ、体内に麻薬のビニールを詰められる。飛行機で某所に密輸しろというのだ。挙げ句、暴行され腹部を蹴られた衝撃で体内で袋が破裂してしまう。人間の脳は通常10%しか使われていないが、その結果、彼女の脳の不活性領域は活性化し、彼女は超人化していく。 その超人化がほとんど超サイヤ人レベル。ザ・シネマがこのところ大量にお届けしている“最強オヤジ”ことセガールだが、彼の偉大なる発見は、ヒーローがひたすら一方的に強い映画は見ていて気持ちが良い、という映画の禁じ手に気づいてしまったことである(コマンドーの発展的解釈)。絶対ピンチに陥らない。一度はボロ負けし雪辱のため歯を食いしばり鍛え直し逆転という、ロッキー的なドラマ性も無い。そういうスリルや感動は無いかもしれないが、とにかく最初から最後まで一方的にヒーローが悪者をブチのめし続けていけば、見ている側としてはこの上もなく快感なのだ。本作『LUCY』はそれにも通じる、脳の快楽中枢を直接刺激してくるようなドーパミンがドバドバの痛快さがあり、そのため見ているこっちの脳の不活性領域までもが活性化しそうになってくる。 まず、体内でビニール袋が破れ麻薬を超オーバードースしてしまった直後、映画開始25分頃、浮く!早くも物理法則を無視できる能力をルーシーは身につけてフォースの覚醒。ここで第2幕の幕が上がる。2幕目では覚醒のプロセスが描かれていく。 34分頃にはお母さんに電話し、「地球の自転を感じる」とか「重力を感じる」とか、“嗚呼、時が見える”系の禅問答発言を連発。ニュータイプの覚醒だ。そして“時が見える”は、冗談ではなくて本当に終盤のキーワードになってくる。つまり本作、ここらへんから、哲学SFの趣きになっていく。 …のだが、この先の展開を記すと若干のネタバレに踏み込まざるをえなくなっていくので、まずは、キャスト・スタッフの話から先に済ませておこう。 主演のスカヨハと言えば『アベンジャーズ』のブラック・ウィドウが超最高だが、実は『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』に『her/世界でひとつの彼女』に本作と、他のSFに出る場合はSFアクション系よりも哲学SF系への出演が目立っているように思う。『アイランド』と『ゴースト・イン・ザ・シェル』にも、アクション要素も多いものの哲学SFのムードだって色濃い。ヒロインが持つ豊満な肉体美×物語が持つ深い思索性、というミスマッチが互いに引き立て合うから?とにかく、スイカに塩のごとく相性が良い。なお、本作で吹き替えを担当するのは『プロメテウス[ザ・シネマ新録吹き替え版]』でお馴染み、我らが佐古真弓だ。 さらに個人的な感想を述べると、本作はスカヨハの衣装も良い。チープで逆に良い。ベッソン組オリヴィエ・ベリオ氏のグッジョブだ。豹柄フェイクファーのライダースジャケット、その中もド派手プリントのボディコンで、大阪のオバチャンもかくやという凶悪なセンス。マニキュアはムラに剥げ、雑にブロンドに染めた髪はプリンでパサパサと、登場時からただごとならぬチープ感を全身にみなぎらせているのだが、逆にムラッとくるお水的な魅力がある。拉致られ強制外科手術された後の、トロロ昆布状態まで生地と襟ぐりがクタって黒ブラが透けている白T×激安レーヨン混ジーンズの上下姿もまた、大いに結構!良い女、良い体、グラマラス、というLUX的オーラで普段は巧みに目をくらまされているが、実は、田舎のヤンキーっぽさはスカヨハの身上だと個人的には信じている。本作は珍しく、そんな天性のDQN美を隠すことなく全身から発散してくれており、実に眼福である。 一方、モーガン・フリーマンが、Eテレの教養番組シリーズ『モーガン・フリーマン 時空を超えて』まんまの役で出演している。脳科学について講義する博士の役で、いなくても物語上まったく問題ない役なのだが、Eテレのお堅い教養番組的な知的風格をこの映画が醸し出す上で効果的に機能している。『時空を超えて』は米本国で2010年にスタートし17年まで毎年作られており、『LUCY』が2014年製作なので、どう考えてもモーフリの本作への起用は『時空を超えて』でのイメージを踏まえた上でのことだろう。吹き替えは、Eテレの菅生隆之ではなく本作では坂口芳貞が担当しているが、坂口モーフリにはやはり安定のFIX感があり、こっちはこっちで実に鼓膜が気持ち良い。 そしてチェ・ミンシクが、韓国麻薬ヤクザ役で、韓国暴力映画から抜け出してきたような役どころを演じており(下のスチール↓は決して『悪いやつら』の宣材ではありません。お間違いなく)、しかも英語なりを一切しゃべらず韓国語だけで押し通す(なので吹き替え版でも本人セリフ原音ママイキ)という力押しで国際デビューを果たしている。韓国ヤクザのセリフは字幕も無く、ヤクザ同士のドスのきいた会話の内容は観客にもさっぱり分からなくて逆に猛烈に怖いのだが(「パリパリ」というのが「急げ」という意味なんだろうとは推測できた)、とにかく、チェ・ミンシク大兄の世界デビューは、人ごとながら、韓国人ほどではないかもしれないが、日本の映画ファンとしても、これはかなり嬉しい!『シュリ』以来20年ぐらい日本の映画ファンもずっと注目し続けてきた俳優なので、そんな彼の国際的な活躍は、半分我が事のように嬉しい。「世界よ、気づくの遅かったね」って感じだ。まして私こと筆者は英語弱者なので、「母国語だけでも力押しでどうにかなるんだ!」と、(間違った)希望を抱かせてくれて、心強い。 監督は、ご存知リュック・ベッソン。90分前後のサクッとお気軽に楽しめる英語の娯楽アクション作品を大量生産しているフランスの映画会社ヨーロッパ・コープの首領(ドン)でもあり、最近ザ・シネマではそこの映画をよく流しているが、近頃ではベッソンはプロデュースと脚本に回って、メガホンは子分の中堅どころの職人監督に委ねるケースが多い。自身が監督も務めた作品としては、最近だと『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』という、『アバター』のような『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のような原色キラキラのサイケSFで、「歴史修正主義、ダメ。ゼッタイ。」もしくは「歴史修正主義やめますか?それとも人間やめますか?」という、意外にも高潔なメッセージが込められた映画があったばかりだが、やはり、何と言っても最高傑作が『レオン』であることは論を待たないだろう(絶賛放送中)。ちょっと作品ごとに毀誉褒貶いちじるしいクリエイターではあるものの、『LUCY』は個人的には彼の近年のベストワークだと評価している。この痛快さ、とにかく堪らない! ヨーロッパ・コープ社のトレードマークと言えば無茶苦茶なカーアクション。ハリウッド映画を軽く凌駕しているのだが、本作でもそれは健在で後半に凄い見せ場が用意されており、「TAXi」シリーズや「トランスポーター」シリーズ(こちらは絶賛放送中)で蓄積されたノウハウが惜しげもなく投入されているのだろう。 そもそも『TAXi』第1作(1997)製作時、15年間お世話になった世界最古のフランスの映画会社ゴーモンと揉めたことが、ベッソンが01年にヨーロッパ・コープ社を立ち上げたきっかけだ。ベッソン側の主張によると、ゴーモン社は『TAXi』で彼がプロデュースに回り監督を人任せにすることが不満だったという。 ベッソンという漢は現場叩き上げだ。高校を中退しゴーモンの門を叩き映画業界に飛び込んでまずアシスタントから始め、後に渡米して武者修行。帰仏してまたゴーモン社のご厄介になり、監督デビュー後、『サブウェイ』(1985)以降の作品をずっと撮ってきたのだが、そのすったもんだで袂を分かった。 なお、『LUCY』の大詰めの銃撃戦で、ソルボンヌ大学の研究所にある坐像が銃弾の雨あられで木っ端微塵にされるシーンがあるが、それは創設者ソルボンさんの像。ベッソンはこのクライマックスシーンについて「高校中退の俺が、“知”についての映画を撮るために“知”の象徴ソルボンヌをブッ壊してやったぜガーッハッハ!!」と豪語しており、たいへん好感が持てる人柄である。 ただ、ここで残念なお知らせがひとつ。「人間の脳は普段は最大でも10%しか使われていない」という、この映画の大前提となる、そして我々もどこかで聞いたことのある説が、実は、良く言ってもトンデモ系疑似科学、悪く言えば単なる都市伝説であることが、こんにちでは科学的に証明されているのである! 10%しか使っていないのであれば、残りの90%の部分に外傷的ダメージや脳梗塞で損傷を受けても支障は一切無い、それまで通り普通に生活できるということになり、「そんな訳ないだろ!」とは素人でも少し考えれば考えつく。私ごとき素人の言うことなんか信用できないって?ならば以下をご参照あれ。 ・脳の10パーセント神話(Wiki)→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E3%81%AE10%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E7%A5%9E%E8%A9%B1 ・あなたは脳の何%を使ってる?(TED動画)→ https://www.youtube.com/watch?v=5NubJ2ThK_U&feature=youtu.be 話の出発点からしてそもそも根本的に間違っていたということで、いやはやベッソン、なんともオチャメな、憎みきれないウッカリ屋さんである。もはや好感しか持ちようがない人柄だ。 さて、そろそろ、あらすじ紹介を再開しよう。 【この先ネタバレが含まれます。】 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 映画開始から55分後頃に脳の50%が活性化。またここで物語の位相が変わってクライマックスである3幕目に突入する。活性化率はまだ半分なのだが、この時点でもはや凄いことになっており、救世主ネオの域に達し、さらにDr.マンハッタン、イデの発動、アルティメットまどか路線を突き進んでいく。もちろん、とっくに韓国ヤクザごときが束になっても敵う相手ではなくなっており、もはや、人か!?神か!?という存在になっていくのである。 そして最後にはスターゲート・コリドーが彼女を待っているのだ。かの映画で(どの映画だ!)ボーマン船長は宇宙の成り立ちを高次の存在に垣間見せられ新人類への進化を許されたが、本作では、脳が進化しすぎたスカヨハが勝手にスターゲート・コリドー幻視までたどり着き、ついに最初の人類である原始猿人ルーシーと“時空を超えて”めぐりあい、宇宙の始まりを見て(これぞまさしく、めぐりあい宇宙!)、スカヨハ自身が高次の存在へと自力で進化を遂げるのである。ちなみに、最初の人類とされる300万年前のアウストラロピテクス化石が「ルーシー」と名付けられているのだ。 と、こういう映画である。公開時にはオチだけを見て日本では「『攻殻』に似てる!」という感想ばかり聞こえてきたが、その他の様々な和洋のSF作品とも豊かにリンクしているのだ。ここまで、『攻殻』以外はあえてタイトルを伏せてきたが、元ネタ探しに興じはじめたら、この作品は何度でも楽しく見返していただけること請け合いだ。■ © 2014 EUROPACORP-TF1 FILMS PRODUCTION - GRIVE PRODUCTIONS. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存
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COLUMN/コラム2018.05.10
『ターミネーター:新起動/ジェニシス』 6/2 (土) 字幕、3 (日) 吹き替え
最初に、あらすじから。 近未来。人類は機械軍に滅ぼされかけたが、英雄ジョン・コナーが現れ反撃に転じ機械軍を逆に壊滅寸前に追い詰めた。機械軍は、タイムマシンでジョン・コナー誕生前にさかのぼりその母サラ・コナーを殺せば歴史改変で一発逆転できると、暗殺用アンドロイド「ターミネーター」を84年に送り込む(ここまで『ターミネーター』第1作目と全く同じ展開)。 (ここからが怒涛の新展開)だが84年に現れた途端ターミネーターは、もともとその時代で待ち構えていた同型ターミネーターと、屈強な女戦士サラ・コナーに襲撃される!! 一方、未来のジョン・コナー司令官は母親が84年に殺される事態を阻止するため、腹心の部下カイル・リースをその時代にボディガードとしてタイムマシンで送り込むが、そこでカイル・リースも、姿を変えられる液体金属型ターミネーターT-1000の待ち伏せ攻撃を受ける。 一体全体、何がどうなっているのか!? このように、しょっぱなから構成の妙で魅せる本作。懐かしの第1作をなぞる冒頭パートで若い頃のシュワが出てきて、思わず目を疑う。どうやって撮った!? しかも若いシュワvs年取ったシュワの格闘シーンまであるのだが(本当にどうやって撮った!!!!!)、若いシュワは実はフルCGなのだ。『ターミネーター4』(2009)でも終盤で若いシュワが出てきて刮目したが、あれはボディビルダーの身体に若いシュワの顔だけデジタル合成したもの。それでも大したものだったが、本作はフルCG(下画像)。これが、CGだと意識して見ていても全く見分けがつかない超絶クオリティ(本当に下画像↓はCGなんです!)。特撮会社ムービング・ピクチャー・カンパニー公式垢がYouTubeに上げている動画を見ると、何も無い空間にCGで若いシュワがマッピングされていくプロセスをつぶさに確かめることができ、恐い!このテクノロジーがあれば、ある人物が実際にはやっていない犯罪的行為をやっている映像だって余裕で捏造できるのでは…?これってスカイネット級にヤバくないか…?『コングレス未来学会議』(2013)の世界はもうすぐそこだ。 本作は2015年の映画で、2017年という“超近未来”が後半の舞台。タイトルにもなっている「ジェニシス」とは架空の商品名で、その2017年に発表されるという設定の、スマホ・タブレット・コンピュータ共通のAI型OSみたいなもの。カーナビにも軍のネットワークにも、ありとあらゆる物にIoT的にインストールされている。こいつが、人類を滅ぼす! Genesisとは旧約聖書のド頭、「はじめに神は天と地とを創造された」から始まる、日本語だと「創世記」のことだ。SFファンには『スター・トレック』旧シリーズのIIとIIIで耳馴染みがある。あのシリーズにおいては「ジェネシス計画」という、月のような岩石だらけの不毛な惑星を一発で緑・水・大気が存在する居住可能惑星にテラフォーミングする秘密計画の暗号名だった。 しかし本作は、スペルが違う。正しくはGenesisだが本作はGenisysだ。本作のタイトルも当初は正しいスペルでいく予定だったが、途中でモジった「ジェニ・シス」表記に変更された。「シス」はSYSなので「システム」の「シス」だろう。「ジェニ」のGENIは、軽く調べたが確実なことは分からなかったものの、「genius(天才)」のgeniではないかとの一意見がネット上にあった。Genesisを「天才システム」とも読める間違ったモジり方でGenisysと表記したのではないだろうか。 ここからはキャスト・スタッフの話。本作でサラ・コナー役を演じるのは、「ゲーム・オブ・スローンズ」で大人気、“焼けずのデナーリス”ことエミリア・クラーク。ちなみにTVシリーズ「ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ」ではサーセイことレナ・ヘディがサラ・コナー役だった。ターガリエン家とラニスター家がサラ・コナー役を取り合っている?デナーリスが歳とるとサーセイ顔になるのか?という楽しみ方もGOTファンならできるが、もちろん「ゲーム・オブ・スローンズ」を見ていない人だって、そんなこと一切気にせずとも楽しめる内容であることは言うまでもない。 本作の監督さんはTV畑の人で、まさにその「ゲーム・オブ・スローンズ」も演出している。映画は本作と『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』ぐらいしか撮っていない。TVドラマ監督ということは一般論として、独特の持ち味とか作家性を前面に出すタイプではなく、雇われ監督だけど手堅い仕事をし、エンタテインメント商品としてカッチリ仕上げて納品してくる、優れた職人さんだということ。これは「ターミネーター」シリーズがフォーマットとしてすでに完成されていることの証しだ。腕のある人になら誰に任せたとしても回していけるということ。映画だとヨーロッパ・コープ映画のような、マーベル映画のような、盤石のフォーマットだと言える。 イ・ビョンホンが液体金属型ターミネーターT-1000役でチラッと登場するが、『G.I.ジョー』(2009)以降順調にハリウッドでもキャリアを重ねていってくれていることは、人ごとながら、韓国人ほどではないかもしれないが、日本の映画ファンとしても、これはかなり嬉しい!『JSA』以来20年ぐらい日本の映画ファンもずっと注目し続けてきた俳優なので、そんな彼の国際的な活躍は、半分我が事のように嬉しい。「ハリウッドよ、気づくの遅かったね」って感じだ。 イ・ビョンホンだけでなく、カイル・リース役とジョン・コナー役(『エベレスト』のジェイソン・クラーク扮演)の2人はオージーで、シュワはオーストリア(「ラ」が無い方)出身、エミリア・クラークは英国人ということで、ちょい役JKシモンズを除く主要キャストは全員が非アメリカ人だが、にもかかわらず典型的な娯楽ハリウッド大作に見える。 それはスカイダンス・メディアというプロダクションの持ち味もあるかもしれない。スカイダンス社は「ミッション:インポッシブル」、「G.I.ジョー」、「新スタトレ」、「ジャック・リーチャー」などパラマウント社の人気娯楽アクションシリーズを製作している、That’sハリウッドなイメージのプロダクションだ。とは言えしかし、よく考えると、多国籍スタッフ・キャストが英語で娯楽映画作りすることこそが、ハリウッドの伝統そのものであり、その伝統に正統に連なる典型なのだとも言える。 来年には新作もくる。キャメロンがプロデュースで『デッドプール』の監督、シュワとリンダ・ハミルトンがまさかの再共演で、2019年公開予定とのこと。その前に本作を見ておいてほしい!■ © 2018 Paramount Pictures. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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NEWS/ニュース2018.05.02
【イベントレポート】ハル・ハートリー監督『トラスト・ミー』試写イベントレポート Part.2
(Part.1はこちら) 村山:インディペンデントっていう意味では、ハル・ハートリーって、デビューからほぼ一貫して自分で音楽を作っているわけです。すごくインディーズの音楽シーンとの親和性のある方で、もう一人のゲストをここでお呼びしたいです。ハル・ハートリーの『ブック・オブ・ライフ』っていう映画でも音楽を提供されている、ミュージシャンの嶺川貴子さんをお迎えしたいと思います。どうぞ拍手でお迎えください。 (拍手) 村山:嶺川さんというと、さっきも言ったようにハル・ハートリーの映画に音楽を提供したりされたわけですけど、あれはそもそもどういうきっかけだったんですか? 嶺川:私もいろいろ思い返してみているんですけど、たぶんその前後あたりに、私が前にいたレーベルで…レコード会社が、90年代だったからわりと自由にどんどんリリースをしてくれて。私がたぶんアルバムを出した後とかに、ちょっとその辺は私も記憶が曖昧なんですけど、その当時『シンプルメン』と『トラスト・ミー』を観てすごく好きになって、「いい」って言っていたから。ハル・ハートリーは映画の音楽も自分でやっていたりして。 村山:(ハル・ハートリーは)ネッド・ライフルっていう名義でやっていました、あの頃は。 嶺川:すごく簡単なメロディーなんだけど、印象に残ってけっこう好きだったので、そのサントラをカバーしようみたいな企画があって。たぶん、それをやったことで、私の曲が提供されたということだったと思います。 村山:その「ア・シンプル・マン」というタイトルは… 嶺川:はい。不思議な。 村山:不思議な…嶺川さん以外にも曽我部恵一さんであるとかいろんな方が、寄ってたかってハル・ハートリーの作った、言葉は悪いですけど、ちょっと素人感のある音楽をカバーするアルバムを出されたんですね。 嶺川:そうですね。 村山:(会場の中で)そのアルバムを買った人っています? (数人手が挙がる) 僕も買いました!だからやっぱり、僕ら一観客とかオーディエンスでしたけど、あのころ嶺川さんがハル・ハートリーっていう名前を広めるのに一役買ってた感っていうのを僕はすごく感じていた。 嶺川:そうなんですか。 村山:その後に、直接お会いしたことがある? 嶺川:たぶん、そのプロモーションの後、VHSの短編集を出したりとかしたことがあったので、ハル・ハートリーの。だからそれで一度お会いしているんですよね。でも、遠くのほうに記憶が… 村山:それはその時、どんな人だったかみたいな記憶っていうのはまだ残っていますか? 嶺川:すごく、写真のとおりの感じの。 村山:本当、文系の大学生みたいなビジュアルしていますよね。 嶺川:そうですね。 村山:深田監督もそうですけど。ではその時に何をしゃべったかとかもあまり覚えていない? 嶺川:うん…たぶん何かに残っているはずなんですけど、ちょっとそれを見つけられなかった。 村山:それは雑誌の対談みたいな? 嶺川:何かこう、ちっちゃな冊子になっているはずなんですけど。 深田:映画系の冊子とかですか? 嶺川:いえ、たぶん当時のプロモーションの。 村山:持っている人います? (手が挙がる) 深田:実は持っている人がいるのか・・・。 村山:お持ちですか?ハートリーと嶺川さんがお話ししている…見せてもらっていいですか?個人的に(笑)。 深田:貴重な歴史的な資料として。 「ああ、こういう映画、音楽アリなんだ」みたいな、コロンブスの卵みたいな気持ちで観ていた 村山:さっきちょっと素人くさいって言いましたけど、なんとなくハートリーの音楽ってやっぱりすごく特徴的だと思ったし、「ああ、こういう映画、音楽アリなんだ」みたいな、コロンブスの卵みたいな気持ちで観ていたんですけど。もともとミュージシャンである嶺川さんとかが聞いたときって、どんな印象だったんですか?映画音楽として。 嶺川:本当にこう、簡単なというか。でも、私も作る音楽はけっこうそういう、鼻歌から出てきたりとかあるし、弾いていてぽろぽろって出てきたりするから、そういう部分で共感したのかもしれないし。映画の音楽って、残ったりするものが多いから。特にハル・ハートリーの音楽、「ヨ・ラ・テンゴ」とかも。 村山:そうですよね。「ヨ・ラ・テンゴ」を日本に紹介したのは誰かわからないですけど、日本版が出る前にハル・ハートリーの映画で認知したっていう印象があって。 嶺川:ああ、そうですか。 村山:「ヨ・ラ・テンゴ」を日本に紹介したのはハル・ハートリーなんじゃないかなってちょっと思ったりしていたんです。 嶺川:そうかもですね。でも彼らは長いから、キャリアが。 村山:まあ、そうですね。でも本当にインディーズバンドからみたいな人たちだから。そもそもそのコンピレーションアルバムを出そう、みたいに思われるほどに、入れ込んだくらいお好きだったってことですよね、ハル・ハートリーの映画が。 嶺川:そうですね。当時、フランス映画社が…『アンビリーバブル・トゥルース』とか、後から観て、その辺でずっと好きで。あのあたりはよく映画館に行っていた。 村山:シャンテとか行っていた。 嶺川:それでハル・ハートリーの映画は、先ほどお話を聞いていて、深田監督の言っていることが、「正に」というか。そういうちょっと外れたオフな人たち。最近も観直したら、やっぱり自分もすごく重なるところもあるし。 村山:どの映画を観ても、世の中で生きづらいっていう人たちの映画ですよね。 嶺川:そうですね。そういうのがすごく、何か共感していたのかもしれないです。 村山:やっぱりさっきおっしゃった、音楽の世界でそういう企画があったみたいに、当時のミニシアター文化の風通しの良さみたいなものと、音楽の世界とちょっと近い雰囲気ってあったんですかね。 嶺川:ああ、そうかもしれないですね。20年くらい…20年? 村山:『トラスト・ミー』が公開されて25年ですね、ちょうど今年で。 『トラスト・ミー』を鑑賞したら、今の親子の関係とか、お母さんの関係とか… すごく現代的ですよね。 村山:深田監督は、我々が思い出話をするより、新しい世代として…我々はやっぱり思い出補正みたいなものが入っているんじゃないのかという心配があって・・・。 深田:いえ、自分は本当にハル・ハートリーについては、むしろ村山さんにいろいろ教えてもらって、今はそういう位置づけなのかとか知っているくらいで。『トラスト・ミー』についても、今回このトークに先立って観ているんですけど、うっかりすると「あれ、これいつの映画なんだろう」っていうのがわからなくなるんですね。 ハル・ハートリーって実はけっこう最近もコンスタントに撮っているじゃないですか、日本に来ていないだけで。携帯電話が出てこないから、「そうか、初期の作品だ」っていう。やっぱりあそこで描かれている家族の姿…さっきの繰り返しになっちゃうんですけど、本当に最近のハリウッドはある種、家族とかそういうことに対してけっこう保守的になってきているなというふうに感じるんですね。 最初、親子が喧嘩していて、仲良くなって終わるっていう。本当にそんなものばっかりですけど。それに比べると、全然『トラスト・ミー』のほうが現代を描いていると思うし、逆にすごくしっくりくるなっていうふうに… 嶺川:私も特に『トラスト・ミー』を観直したら、今の親子の関係とか、お母さんの関係とか… 深田:すごく現代的ですよね。 嶺川:すごく「ああ…」って。 村山:深田監督の『淵に立つ』も、家族の温もりとかを全否定してかかるようなおそろしい映画でしたけれど。 深田:いえ、否定すればいいってものではもちろんないんですけど。回復することを前提に描かれる家族の悲劇ほど…結局それって家族はまとまって生きているのが正しい姿だよねっていう前提で捉えるから、家族が壊れていくことが悲劇みたいな感じで描かれちゃうんだけど、たぶん『トラスト・ミー』で描かれている家族の喧嘩とか親子の葛藤とか母との葛藤とか、ある意味テクニカルにというか、すごく対義的に描かれている。ですけど、やっぱりそこにあるものが予定調和になっていかない感じがあるので。そこがすごくいいですよね。 嶺川:すごく正直すぎて、グサッてくるくらい。 村山:だから、本当にひどい親御さんとかよくハートリーの映画に出てくるんですけど、それが別にひどいから悪いとか、それを解決すればいいとか、そういうレベルで物語は語っていないですね。 深田:語っていないですね。それで、なんだろう…難しいですよね、まだご覧になっていないので。いくつかいい台詞があったなと思いながら、思い出せないし、思い出しても言えないんだよなという、いろいろ考えてしまって。 村山:それはこれから楽しみに観ていただいて。 深田:いいなと心に残る台詞がいくつもあります。 村山:それで、今日は嶺川貴子さんがミニライブをこれからやってくださるという。すごく貴重なライブだと思って、すごく楽しみにしておりますが、嶺川さん、準備の方をよろしくお願いします。 『ブック・オブ・ライフ』に提供した「1.666666」、 『トラスト・ミー』より「End Credits」「Cue #16」を披露 村山:嶺川さん、ありがとうございました。最初にやっていただいた曲が、さっき言っていた『ブック・オブ・ライフ』という映画のオープニングでかかる曲で、本当にリクエストまで聞いていただいてありがとうございました。 こんなにハル・ハートリーばっかりやるライブってやったことないんじゃないですか。 嶺川:初めてです。カバーをしてみました。 村山:カバーアルバム以来の。 嶺川:そうです。 村山:まだ、今日この中でハル・ハートリーの映画を観たことがない方がいらっしゃったら、観終わった後に、嶺川さんがハル・ハートリーの…ミュージシャンのときはネッド・ライフルって名乗っていたことが多いんですけど、その世界をライブでやってくださっていたな、っていうことが多分わかっていただけると思います。ありがとうございます。 嶺川:私なりの、追加したものはありますけど。 村山:お時間も迫ってまいりまして、トークセッションはここまでに、ということになります。最後に、二人から何かご挨拶的なことをお願いしていいでしょうか。 深田:さっきの様子だと、けっこうハル・ハートリーの映画を観ているっていう方が多く集まっているのかなと思うんですけど、でも若い人もいらっしゃるみたいですし初めての方もいると思います。本当に若い世代にどんどん観てほしい作家だなと、30代の人にも20代の人にも10代の人にも観てほしい作家だなと思うので、特にこの『トラスト・ミー』なんて女子高生の話なので、今の高校生が観ても共感できるんじゃないかなと思うので、これを機会に、もっと広まってほしいなと思います。 村山:ありがとうございます。嶺川さんもお願いできますでしょうか。 嶺川:私もそうですね。このお祭りがシネマさんで放送されるということで、観直したりして、また私の今の歳で観ると深いものがあって。でも深田監督がおっしゃっているように、10代とか20代とかの若い方にも、観てどんなふうに思ったのか聞いてみたいです。 村山:ありがとうございます。ザ・シネマさんで放送が4月からありますし、4月・5月には大阪・東京でハル・ハートリー作品の劇場公開もございます。さっき言ったように『ヘンリー・フール・トリロジー』というものが日本語字幕でBOXになって、今Amazonで買えたりもしますので。皆さん、ハル・ハートリーという監督を再び我々日本人が取り戻すためにご協力を、感想をつぶやいたりとかそういうことでも全然構わないので、いただければと思います。どうぞよろしくお願いします。本日はありがとうございました。 ================================ 「NYインディーズ界最後のイノセンス ハル・ハートリーの世界」 特設サイト:https://www.thecinema.jp/special/halhartley/ ================================ ザ・シネマの視聴方法はこちらから https://www.thecinema.jp/howto/ ザ・シネマ カスタマーセンター TEL:045-330-2176(受付時間 土・日・祝除く 9:30-18:30) ================================ スカパーならお申込みから約30分で見られます! 「ザ・シネマ」1chだけでも契約できます。更に加入月は0円! (視聴料は月額700円(税抜)+基本料金 390円(税抜)) https://promo.skyperfectv.co.jp/guide/ TEL:0120-556-365(年中無休 10:00-10:20) ================================
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COLUMN/コラム2018.04.13
【男たちのシネマ愛ZZ⑧】『ソルジャー・ボーイ』
飯森:〆は『ソルジャー・ボーイ』です。これって、アメリカでDVD出てるんですかね? なかざわ:日本では最近ようやく出ましたよね。 飯森:というのも、これも画面サイズが4:3で、もし本国でちゃんとしたDVDが出ていればワイドなニューマスターを作り直しているはずで、ウチもそれを取り寄せて放送できたと思うんですが。 なかざわ:どうやらアメリカでは、少なくとも現時点でビデオ・オン・デマンドのDVDしか出てないみたいですね。注文するとDVD-Rに焼いて郵送してくれるというサービス。しかし、そちらもやはり画面サイズは4:3。先ごろ発売された日本盤DVDも同じ。でも、IMDbのデータベースを調べてみると、1.85:1のビスタサイズが本来の画面サイズだったらしいですね。 なかざわひでゆき…映画&海外ドラマ・ライター。雑誌「スカパー!TVガイド BS+CS」で15年近くに渡ってコラム「映画女優LOVE」を連載するほか、数多くの雑誌やウェブ情報サイトなどでコラムや批評、ニュース記事を執筆。主な著作は。「ホラー映画クロニクル」(扶桑社刊)、「アメリカンTVドラマ50年」(共同通信社刊)など。ハリウッドをはじめとする海外の撮影現場へも頻繁に足を運んでいる。 飯森:いまだにトリミング版しか出回っていないということか。残念ですね。しかし、その理由も分からなくはない。それについては後で述べるとして、いずれにせよ、これはアメリカでも長らく見れなかった幻の作品で、ようやく最近になって徐々に陽の目を見ることになったわけですから、激レアか激レアじゃないかで言えばやはり激レアと言っていいだろうと。これが、ズバリ、『ランボー』の元ネタなんですよね! なかざわ:まさに!一目瞭然ですよね。 飯森:ここでちょっと『ランボー』をおさらいしておきましょう。アメリカの田舎町に流れ着いたベトナム帰還兵のランボーが、保安官から「おい、そこの長髪のアンチャン、お前みたいな薄汚い連中にはこの町に来て欲しくないんだよ、町外れまで送ってくからさ、出て行ってくれないかな、戻ってくんじゃねえぞ!」という、まるで先月ご紹介した『おたずね者キッド・ブルー』みたいな酷いレッテルを貼られて追っ払われる。で、そんなのに従う義務はないからランボーが再び町に戻っていくと、今度は保安官に不当逮捕されて拷問まがいの取り調べを受ける。ブチ切れたランボーは保安官どもを殴り倒して脱獄し、山中に逃げ込む。山狩りで追いかけてきた保安官たちやハンターや州兵と、元陸軍特殊部隊グリーンベレー出身でゲリラ戦のプロであるランボーによる、数百対1ぐらいの“戦争”が、2時間にわたって描かれる。…と、いきなりのネタバレで恐縮ですが、それが『ソルジャー・ボーイ』のラスト15分間クライマックスと完全に重なるんです。保安官による不当逮捕にキレて、アメリカの田舎町で戦争おっぱじめる構図が。 なかざわ:そのラスト15分までは、わりとノンビリしたロードムービーなんですよね。 飯森:ベトナムからアメリカに帰還して復員したばかりの軍人4人組が、あれは恩給なのか除隊一時金なのか、お金を引き出すんですよね。それを皆で出し合ってアメリカの象徴キャデラックを中古で買い、西部を目指してロードトリップするわけです。 なかざわ:まさしくアメリカの原風景みたいな景色が広がっていく。 飯森:西部を目指すのもアメリカを象徴してますが、これは、カリフォルニアで牧場の共同経営をしようと計画してるからなんです。でもこいつらが、タチ悪いんだ。中古車の買い叩き方なんか、あれではカツアゲですよね。お店の人が値段を決めれないという。「俺の言い値で売ってくれるよね?じゃないとどういう目に遭うか分かってる?」みたいな。道中で女も回してヤリ捨てるし。 なかざわ:要するに、彼らは戦場の荒くれ者なんですよ。もともとどのような若者だったのかは分からないけど、少なくともベトナムの戦場では荒くれ者でないと生き残れなかったはず。そのメンタリティから抜けきらないまま、アメリカ本国に戻ってきてしまった。 飯森:当時のアメリカ版ポスターの惹句には、「Danny, Shooter, Fatback and the Kid are carrying a deadly disease. War」とあります。4人の若者ダニーとシューター、ファットバック、キッドが、戦争という死の病を抱えている、つまりベトナムで感染してアメリカに菌を持ち帰ってきてしまったと。 なかざわ:それって、戦場で地獄を見てしまった人間の「心の病」みたいなものなんでしょうね。 飯森:当時は「ポスト・ベトナム症候群」と呼ばれるメンタルの病気があって、今で言うPTSDのようなものなんですけれど、単に心が折れて鬱になるばかりか、攻撃的な性格になることもあったみたいですね。ポスト・ベトナム症候群を描いた映画としてはこれが元祖かもしれません。その後『ローリング・サンダー』が出ましたけど、『ソルジャー・ボーイ』が1971年で、『ローリング・サンダー』はいつでしたっけ? なかざわ:’77年です。だいぶ後になりますね。 飯森:あれは「ホームカミング作戦」という、国務省による捕虜返還交渉の成果でせっかく帰国できた男がしでかす話でしたが、その’77年の時点ではベトナム戦争はもう終わってます。’75年がサイゴン陥落ですから。アメリカが手を引いて「俺もう付き合いきれねえ、カネもあんま出せねえから、これからはお前らで勝手にやんな」とトンズラこくのが’73年。それをニクソンはカッコ良く「ベトナマイゼーション」なんて呼んで誤魔化してましたけど、最悪のハシゴ外し外交ですよ。さんざん引っ掻き回しといて酷い話なんですが、とにかく、『ローリング・サンダー』の’77年のベトナムは、北が南を飲み込んで赤化統一されてから数年がたっている。でも『ソルジャー・ボーイ』の頃はまだバリバリ戦争中だったんですよ。そこが凄い!この描き方アリなのかよ!?と。 なかざわ:そういう時代背景を踏まえたうえで見ると、いろいろな発見や驚きがあるかもしれませんね。 飯森:そう!ぜひ踏まえて見ていただきたい。これ、冷静に考えると酷い話なんです。ベトナム戦争に行った人間は、要するに、おかしくなって帰ってきましたと。さっきの惹句にもありましたけど、戦争菌に感染してきちゃいましたと。もうバイ菌扱いなんですよ。酷い!これって、戦後40年以上経った今になってみれば、ベトナムへ行かされた人に対して失礼だろ!とも思えてしまいますよね。先ほど申した、アメリカでもきちんとソフト化されていない理由ってのは、これじゃないのかな。帰還兵の在郷軍人団体がクレーム入れてきてもおかしくない。 「近えよ」 でもあの頃、反戦運動をしていた人たちのうち一部は、確かにそういうレッテル貼りをしていたんですよね。例えば、当時はベトナム帰還兵のことを「ベイビー・キラー」とか「レイピスト」とか呼んで戦争犯罪人扱いする人たちもいたわけです。でも、兵隊がみんながみんな向こうで戦争犯罪をやってたわけじゃないでしょ?まして当時は徴兵制ですよ! なかざわ:そうなんですよね。意外と忘れがちなんですけど。僕も昔、高校生の頃かな、『イエスタディ』というカナダ映画を五反田の名画座で見て、そのことを初めて知りました。『ある愛の詩』と『シェルブールの雨傘』を足して2で割ったような甘い恋愛メロドラマなんですけど、主人公の若者が徴兵で無理やりベトナム戦争へ行かされて、恋人と離れ離れになるんです。アメリカ人男子とカナダ人女子のカップルなんですけどね。 飯森:切ないですねえ…同じ北米にいて、英語も通じて、なのに男子の方は祖国が東南アジアで戦争してるってだけで、そっちで死ぬかもしれない。カナダ人男子だったらそんな心配は無用なわけですからね。この差は、このリスクはどういうことだと。誰のせいの何リスクなんだと。カナダ政府はベトナム戦争に反対でジョンソン政権と険悪になったぐらいですからね。ちなみに僕の世代になると、ベトナム徴兵映画と言ったら『1969』なんですよね。ロバート・ダウニー・Jr.とキーファー・サザーランドとウィノナ・ライダーの。徴兵逃れをして逃げる若者たちのロードムービーでしたが。まあ、とにかくですねえ、はっきり言って、当時のアメリカ男子はほとんど赤紙に近かったんですよ。いや、赤紙というか商店街の福引に近い。 なかざわ:はぁ?…どういうことです!? 飯森:全米各地に徴兵委員会という行政があって、そこで福引のガラガラみたいなやつを回すんです。コロンと出てきた玉には誕生日が書いてある。それを365回繰り返す。出ちゃった順番が早いほど兵役に持ってかれる可能性が高くなる。まさに、ベトナム行く行かないは運次第だったんです。そんなので運悪くベトナムへ行かされた人が、命からがら帰ってきたら「このベイビー・キラー野郎め!」と罵倒され、唾かけられたりウンチ投げられたりする。 なかざわ:理不尽も甚だしい!! 飯森:戦犯みたいな野郎に唾かけたりウンチ投げたりするならともかく、戦争へ行かされた人たちをみんな一括りにして非難するのはどうなのかと。 なかざわ:でも、今だってすぐ極論に走る人たちっているじゃないですか。右とか左とかいった政治的スタンスの違いに関係なく。そのどちらにも極端な人たちはいる。もう少し理性をもって、バランスを考えながら振る舞えないのかと。 飯森:この『ソルジャー・ボーイ』という作品は、そうした反戦側の極論的なスタンスにわりかし乗っちゃっているように思うんですよね。帰還兵は人殺しと暴力に慣れきっている危険な奴らだから気をつけろ!というレッテル。『ローリング・サンダー』も同じ問題点がある。それ繋がりで言えば『タクシードライバー』にも。 なかざわ:なるほど。ただ、彼らの暴力的な言動の源を遡っていくと、やはり戦争がそもそもの原因で、もともと彼らが悪かったわけじゃ決してない、と思えるような気もするんですが。 飯森:でも、そうは劇中では描いていませんよね?なんで彼らがこうなってしまったのか、この映画では一切触れられていない。まるで「帰還兵=ベイビー・キラー」みたいな描き方がされているし、実際そうとしか見えない。しかも、まだベトナム戦争の真っ最中で、帰還兵や廃兵がどんどんアメリカへ戻ってきているような時期にですよ!? なかざわ:そう言われると確かにそうですね。そうか!もしかすると僕なんかは先に『ランボー』だとか『地獄の黙示録』みたいな、後のベトナム戦争映画を色々と見てしまっていて、予め情報が刷り込まれているから、勝手に深読みをしてしまったのかもしれませんね。 飯森:確かに我々は後続の作品群から客観的な視点を得ているので、それをもとに印象がおのずと補正されてしまうことはあるかもしれません。でも、例えば僕自身がベトナムから帰ってきて、戦死せずに祖国に生還できてよかったとホッと一息つきながら最初に地元の映画館でこの映画を見たら、わりと傷つくと思うんですよ(笑)。 この、不当な偏見と差別の修正を図っていったのが、僕は’80年代とスタローンという漢だったと思うんです。キレる理由を’82年の『ランボー』で初めてちゃんと描いた。なんで俺がアメリカを敵に回して、一人だけの軍隊で同胞を相手に戦争しなきゃいけないんだ!という理由をスタローンは言語化したんです。俺たちが国のためにベトナムでどれだけ酷い目に遭わされてきたか!それなのに祖国に帰ってきて受けるのがこんな扱いなのか!アメリカ社会は俺たちを何だと思ってるんだ!と最後にトラウトマン大佐に泣きじゃくりながら物凄い長ゼリフで訴えるじゃないですか。あそこはゴッソリ原作に無い展開、映画のシナリオ用に書かれたセリフです。スタローンは共同脚本にも名を連ねてますが、誰の手で盛り込まれたものなのか…なんにしても「俺たちに代わってよく言ってくれた!」と、当時の帰還兵ならスタローンに泣いて拍手喝采したと思いますよ。 飯森盛良…ザ・シネマ開局準備段階から異動もなくずっと居座り続けている唯一のスタッフでヌシ的存在。「シネマ解放区」および「厳選!吹き替えシネマ」の黒幕。また「プラチナ・シネマ」の解説番組と、「ふきカエ ゴールデン・エイジ」「町山智浩のVIDEO SHOP UFO」『(吹)プロメテウス[ザ・シネマ新録版]』『(吹)ブレードランナー[ザ・シネマ新録版]』プロデューサー。 なかざわ:確かにその通りですね。 飯森:あれでバッシングの潮目が変わった。’85年の『ランボーII』のラストでもまた言うんですよ。「俺たちの望みは、俺たちが国を愛したように、国も俺たちを愛して欲しいんだ」と、今度は手短に。短いながらこれも帰還兵たちの声なき声をスタローンが代弁したんだと思うんです。映画で世論の流れを変えた。どんだけ偉大な漢なんだと僕は声を大にして言いたい! あと’87年になると『ハンバーガー・ヒル』という映画も出ましたよね。「アパッチ・スノー作戦」という激戦を描いた作品ですけど、あの中でいったん兵役が終わって除隊したのに再志願してベトナムに戻ってくる兵士が一人いるんですよ。その彼がなぜ舞い戻って来たのか訊かれて、空港では誰も歓迎してくれないし「ご苦労様」と言うかわりにウンチを投げつけてきて、祖国はとんでもないことなっていたと。あんな所にはいたくないから、仲間がまだ戦っているベトナムに戻ってきたんだ、としみじみ言うんです。ランボーのセリフとこのセリフで、だいぶベトナム帰還兵の名誉回復がはかられて、ようやく我々はニュートラルにこの戦争のことを歴史として見ることが出来るようになった。『プラトーン』と『カジュアリティーズ』でも、レイピストもいたかもしれないけど正義感を失わない兵士も当然いたんだと描かれた。とにかく、政治の季節が終わった’80年代、まず『ランボー』がやりすぎカウンターカルチャーとしての帰還兵差別を終わらせたことは意義深いですな。もちろんベトナム人民の苦難はもっとずっと筆舌に尽くしがたいわけですが。 そういえば、この『ソルジャー・ボーイ』の若者たちがグリーンベレーだって、劇中で言及していましたっけ? なかざわ:いや、覚えていませんね。ごめんなさい。 飯森:実は彼らもグリーンベレーなんですよ。軍服を見れば分かる。一目瞭然ですけど、冒頭、帰国した時にグリーンベレーを被っていて、その左オデコの部分に黄色い盾型の布が付いているんですが、あれは「ベレーフラッシュ」といって土台となる布で、その土台の上から米陸軍は金属の階級章か紋章をさらに付ける決まりなんです。で、その黄色のベレーフラッシュが「第1特殊部隊グループ」というグリーンベレー部隊のものなんですよ(下写真左)。あと着ている「グリーン・サービス・ユニフォーム」という緑色の制服の左肩に「特殊部隊群章」と呼ばれる水色のワッペンが付いている(下写真右)。そこから、彼らは100%確実に元グリーンベレーだと断言できるんです。ランボーと同じだったんですよ。これは、グリーンベレーの男たち4人組が復員して、人殺しに慣れきってしまったせいで大殺戮を犯すという話だったんですね。先ほど、この映画は原因を描かずにベトナム帰還兵は全員ヤバいと描いてる点が問題だと述べましたが、強いて理由を探るなら「グリーンベレーってのは悪い奴らだ!」ってことなのかもしれません。 (Wikipediaからのパブリックドメイン画像) なかざわ:なるほど!そうか(笑)。 飯森:グリーンベレーって一時期、人殺し集団のように言われていたことがありましたよね。その元凶になった人物っていると思うんですよ。 なかざわ:…ジョン・ウェインだって言いたいんでしょ? 飯森:そう(笑)!あの人の『グリーン・ベレー』ってのはまあ、とんでもない映画でしたから。まるで西部劇。 なかざわ:彼の映画は全部西部劇のフォーマットになっちゃいますよね。晩年の刑事アクション『ブラニガン』でロンドンに行っても、結局はロンドンで西部劇をやってますから。 飯森:こっちの作品ではベトナム戦争で西部劇やってる。グリーンベレーは助けに来た騎兵隊、ベトナム人がインディアン。南は良いインディアンで北は悪いインディアンだと。そういう旧態依然とした現状把握で物事を単純化しようとした。これが、プロパガンダ目的のタチの悪い戦意高揚国策映画なのかと思いきや、ジョン・ウェインが作りたくて好きで自分で作っていたという(笑)。 なかざわ:なにしろ、インディアンに対する虐殺の歴史にしたって、「土地を必要としている白人がいるというのに、それを独り占めしようとしたあいつらが悪いんだ!」なんて平気で言っちゃう人でしたからね。 飯森:…笑っちゃいかんのですが、もはや酷すぎて笑うしかない!『グリーン・ベレー』は’68年でしたけど、’68年に反戦運動とか学生運動やっていたような人たちは、ジョン・ウェインがその手の人だってことはとっくに分かりきっていたから驚かなかったかも。もう、あきらめてた。でも、そのとばっちりを受けたのがグリーンベレーですよ。変な人から変に褒められちゃって。こういうのを「贔屓の引き倒し」と言う(笑)。そのせいでグリーンベレーってのは何をするか分からない危険な連中だというイメージが付いちゃった。その頂点がカーツ大佐。 そういえば、『ランボー』って、映画は’82年ですけど、原作が出版されたのは実は’72年なんですよ。 なかざわ:なるほど、『ソルジャー・ボーイ』とほぼ同時期ですか。 飯森:これって偶然なのか何なのか、ビックリしちゃいますよね。 なかざわ:でも、同じ時代の空気を吸った人たちが、たまたま同じような着想を得てそっくりな物を作るということは、ままあることだと思うんですよ。 飯森:同感です。実際、『ソルジャー・ボーイ』の劇場公開と、『ランボー』原作の出版時期って、ほとんどタイムラグありませんから。パクることすらできないぐらい時期が被っている。 映画版『ランボー』では描かれていなかったと思うんですけど、ブライアン・デネヒーの演じた保安官って、原作では実は朝鮮戦争の退役軍人で英雄なんですよ。で、『ソルジャー・ボーイ』にも同じく朝鮮戦争の退役軍人が出てきましたよね?主人公たちのことを軟弱者呼ばわりする。「戦争が終わってもいないのに尻尾巻いて逃げ帰って来やがって、この腰抜けどもめ」と、わざと聞こえよがしに飲み屋で大声で言って喧嘩を売る。同じように従軍経験があっても、朝鮮戦争世代とベトナム戦争世代では何故かジェネレーションギャップがあるみたいなんですが、原作版『ランボー』の方にも全く同じ要素が存在するんですよ。 なかざわ:その感覚って、戦争を知らない我々にはよく分かりませんよね。もしかすると、「俺たちの若い頃は凄かった!それに比べて今時の若いもんは…」という、よくあるオヤジの戯言なのかもしれませんが。 飯森:そもそも朝鮮戦争とベトナム戦争って似てるじゃないですか。一つの国が北と南に分裂して、北を共産圏が支援して南をアメリカが支援すると。構造が似ているので比較がしやすいってこともあるのかも。で、原作版『ランボー』における保安官って、実はランボーとほぼ同格の主人公として描かれていて、なぜ彼があんな人になってしまったのかということも掘り下げられているんです。ずばり『グラン・トリノ』なんですよ。朝鮮戦争から帰った若いイーストウッドが、フォードの工場で働かずに田舎町で保安官になってドーナツ食ってるうちにブクブク太って中年のブライアン・デネヒーになっちゃった(笑)。確かに頑固者で問題のあるオヤジだけど、決して根っからの悪人ではない、正義感もあるという描かれ方をしていて、映画版とは全くの別物です。また、ランボーの方も、ベトナムでの捕虜体験と拷問のトラウマが暴力を爆発させてしまう彼個人の特殊な事情なのだとして、’72年という早い時点でちゃんと描写している。 でも一方の同時期の『ソルジャー・ボーイ』の主人公たちは、地元住民や保安官が持つ銃の影を見ただけで、あるいはカチャっというコッキング音を聞いただけで、いきなりスイッチが入っちゃって、冷静沈着な殺人マシンと化し女子供まで殺しまくる。アメリカ版ソンミ村虐殺事件みたいなことをヤラかしちゃう。「しまった!カッとなってヤッちまった!」という後悔さえなく、皆殺しにした後で溜飲が下がったようなスッキリ顔までする始末。あのヤバさはほとんど『影なき狙撃者』です。 なかざわ:あちらは、最近話題になったスリーパー・セルみたいなもんですけどね。 飯森:朝鮮戦争で捕虜になって敵に洗脳され、暗示をかけられていて、帰国後ある条件でスイッチが入ると無感情な殺人マシーンに変身するんですよね。ソルジャーボーイズたちも、戦場で暴力に慣れきったというよりも、そっちに近い。要は、ちょっとマトモじゃないヤバい奴という、酷い扱われようですよ。まあ、『ローリングサンダー』の方は捕虜体験が原因だとは描いてるんですが、とにかく、どっかおかしくなっちゃってる危険人物、という酷いスタンスは変わりないですからね。そこがランボーと違う。あっ!今気づきましたけど、さっき名前をあげた『タクシードライバー』もそう考えると『影なき狙撃者』に通じるものがありますね。あっちでおかしな人になって帰って来た帰還兵が大統領候補の暗殺を企てる。なぜならマトモじゃないから、という映画ですもんね。 なかざわ:にしても、主演のジョー・ドン・ベイカーってそういうヤバい役が似合いますよね(笑)。 飯森:なかざわさんと初めて対談した際のお題も、ジョー・ドン・ベイカー主演『ウォーキング・トール』でしたね。我々にとっては縁の深い役者ですな。あれでもキレて手が付けられないヤバい人の役だった。町の治安悪化が気に入らないからと保安官になって、なぜかブッとい丸太ン棒でチンピラの脳天を次々とカチ割って回るという。 なかざわ:ヤバいアメリカ人を演じさせたら彼の右に出る者はいませんよ。顔がそうだもん。 飯森:ただ、ジョー・ドン・ベイカーにしてもジョン・ウェインにしても、あの時代のアクション俳優のカッコ良さと言ったらね!手に持った拳銃が小さく見えてしまうくらいデカいんですよね。アサルトライフルがサブマシンガンぐらいに見えちゃうし。あと、今のアクション俳優って鍛えすぎちゃってて、無駄な贅肉を落としているから逆に強そうに見えないんですよ。見せびらかすための自意識過剰な筋肉で。それに比べてジョー・ドン・ベイカーやジョン・ウェインは、人目なんて一切気にしてない。欲望のままに厚切りのステーキを何枚も貪り食って、毎晩のようにバーボンをガンガン飲まないと、あんな体型になりませんからね。見せびらかすという感覚すら理解しない獰猛なだけの野獣みたいな、あれはカッコ良い! なかざわ:全身から醸し出すオーラがマッチョなんですよね。いくら一所懸命に筋肉を鍛えたって、あのオーラを出すことは絶対に出来ない。晩年の『ブラニガン』だって、よく考えるとお爺ちゃんが拳銃持ってノソノソ歩いてるだけなんですけど(笑)、ものすごくマッチョに見える。 飯森:ちょうど『ペンタゴン・ペーパーズ』も劇場公開されたばかりですが、ベトナム戦争というのはとてもタイムリーなテーマだと思うんですよね。当時は政治の季節でしたけど、今もまた、すっかりそうなってしまった。しばらくはあの時代について考えていきたい。『ソルジャー・ボーイ』もその材料となる一本で、今回ぜひとも見ていただきたいと思います。 と、いうことで、前後編に分けた今回の対談もこれでおしまいですが、おそらくまた遠からぬうちにやるでしょうから、その時はまたよろしくお願いします! なかざわ:こちらこそ、次回を楽しみにしています!■ 写真撮影/中島繁樹 © 1971 Twentieth Century Fox Film Corporation. Renewed 1999 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存