COLUMN & NEWS
コラム・ニュース一覧
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COLUMN/コラム2017.05.20
同業者からリスペクトされるジョージ・クルーニーの映画人としての使命感が映像に結実した、入魂の『グッドナイト&グッドラック』〜05月09日(火)ほか
『シリアナ』(05)でアカデミー助演男優賞を受賞した時、壇上に上がったジョージ・クルーニーのスピーチに耳を傾ける同業者たちの、尊敬と憧れに満ちた表情が今でも忘れられない。クルーニーはこう言い切った。『映画に携わる仲間の一員であることを誇りに思う』と。場内に割れんばかりの拍手と歓声が沸き上がったことは言うまでもない。 同年、クルーニーが2度目の監督作に選んだ『グッドナイト&グッドラック』を見ると、まさしくオスカーナイトでの言葉通り、彼が映画人としての使命にいかに忠実であるかがよく分かる。選んだネタは、1950年代のアメリカ社会で吹き荒れたマッカーシー上院議員による反共産主義活動、いわゆる赤狩りに敢然と挑み、マーカーシズムの悪夢を終焉へと導くきっかけになったTVマンたちのリアルストーリーだ。宗教や思想の自由を束縛する政治の横暴に立ち向かおうとした人々を映像で蘇らせること。それはそのまま、今のハリウッドに求められるミッションだと、彼は確信したに違いない。その決断が、10年後のまさに今の今、これほど重い意味を持つことになるとは、当時のクルーニー自身、想像だにしていなかったかも知れないが。 物語のキーマンは、アメリカ3大ネットワークの1つ、CBSの人気ニュース番組"シー・イット・ナウ"のキャスター、エド・マローだ。ある空軍兵士が赤狩りによって不当に除隊処分されようとしている事実を掴んだマローと番組スタッフが、マッカーシー側の圧力を受けながらも、虚偽と策謀の実態を生放送の中で告発していくプロセスを、クルーニーは当時のニュースフィルムと自ら撮った映像とを交えて構成。そこまでなら、多くの監督が取ってきた既存の手段だ。1950年代にはモノクロだったTV番組を克明に再現するため、カラーで撮ったフィルムをポスト・プロダクションであえて彩度を落としてモノクロに変える方法も、さほど珍しくはない。 監督としてのジョージ・クルーニーが同業他者と少し違うのは、その徹底した美意識だ。マローはCBS入社後、第二次大戦下のロンドンでラジオ・ジャーナリストとして番組を担当していた時、毎夜ナチスの空襲に脅えるロンドン市民に対して、番組終了間際に『グッドナイト、アンド、グッドラック』と呼びかけることで知られていた。もしかして就寝後、爆死するかも知れない人々の耳に『おやすみ、そして、幸運を祈ります』がどう届いたか?想像に難くないが、"シー・イット・ナウ"でもその決まり文句が番組の結びにも使われていたことから、クルーニーは映画のタイトルとして流用。しかし、そんなキザな文句を台詞としてかっこよく決められる俳優はそう多くない。 そこで、発案段階から監督のファースト・チョイスだったのがデヴィッド・ストラザーンだ。映画デビュー前の数年間を舞台俳優として全米各地を巡演したこともあるストラザーンの口跡の良さを見抜いていたクルーニーは、信念を持って彼を主役に抜擢。一語一語が視聴者の心に届くようなその紳士的な抑揚と発音は、社会を覆う赤狩りの暗雲を切り裂く鋭利な刃物のようで、監督の狙いはどんぴしゃだったはず。声だけじゃない。ストラザーンの顔の輪郭、特に美しい眉と目が、本番中、左下に置かれた原稿とカメラの間をゆっくりと往復する時、観客は思わず惹きつけられて当時のTV視聴者になったような錯覚を覚えるほど。実物のマローはストラザーンとは似ても似つかぬルックスだが、左下と正面を往復する目線は全く同じ。監督が事実を忠実にコピーしていることが伺える。『シリアナ』でクルーニーと組み、後に『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(07)でオスカーに輝くカメラマン、ロバート・エルスウィットの、ストラザーンの輪郭を熟知したアングルとライティングにも注目して欲しい。 クルーニーは脇役にもこだわった。台詞がある役には1950年代のアメリカ人らしい顔と雰囲気を持った俳優たちが集められた。番組スタッフ役のロハート・ダウニーJr(『アベジャーズ』の前は『チャーリー』(92)で赤狩りでハリウッドを追われたチャップリンを好演)、同じくパトリシア・クラークソン(『エデンより彼方に』(02)で'50年代のブルジョワ主婦役)、同じくテイト・ドノヴァン(『メンフィス・ベル』(90)で第2次大戦を戦った米軍パイロット役)、放送局幹部役のジェフ・ダニエルズ(『カイロの紫のバラ』(85)で往年の映画スター役)、そして、プロデューサー役にはクラシックビューティの権化とも言うべきジョージ・クルーニー本人という、まさにパーフェクトな布陣である。 音楽も粋だ。シークエンスとシークエンスを繋ぐグッド&オールドなジャズナンバーを歌うのは、現役最高峰のジャズシンガーと言われるダイアン・リーヴス。劇中でリーヴスのバッグハンドを務め、映画で使われる全曲のアレンジを担当しているのは、監督の叔母で歌手兼女優だったローズマリー・クルーニー(02年に他界)のラスト・アルバムをプロデュースしたマット・カティンガブだ。 マローが"シー・イット・ナウ"と同じくホストを務めるインタビュー番組"パーソン・トゥ・パーソン"で、伝説のピアニストでワケありのリベラーチェに白々しく結婚観を質問した直後の気まずい表情、同番組で話題に上がるミッキー・ルーニーのほぼレギュラー化していた新婚生活情報(ルーニーは93年の生涯で計8回結婚)等、クルーニーとグラント・ヘスロブが執筆した脚本には、けっこうな毒も含まれている。その最たるものは、劇中のほぼ全ショットにタバコの煙が充満している点だ。番組スタッフは四六時中タバコを吹かし、マローに至っては本番間際にプロデューサーから火を点けて貰い、カメラが回り始めても吸い続けていると言った具合だ(ストラザーンはノンスモーカーらしいが)。これには理由があって、CBSのオーナー、ウィリアム・ペイリーがタバコ会社の御曹司で、社会の喫煙には寛容だったようなのだ。 つまり、ペイリーは反マッカーシズムを貫いた結果、スポンサー離れを招いた"シー・イット・ナウ"のスタッフを危険視しつつも、社員の健康には無頓着だったということになる。そんな、ある意味古き良き企業の矛盾を炙り出しながら、赤狩り時代のTV界をヒントに、ニュース番組の、ひいては映画産業のあるべき姿を問い質そうとしたとした監督・脚本・出演のジョージ・クルーニーは、やはり業界人にとって眩しい存在に違いないという、再び冒頭の結論に立ち戻ってしまう。 結婚以来、俳優としてはどうやら一段落つき、今秋の全米公開に向けて製作中の最新監督作『Suburbicon(原題)』は、マット・デイモンを主役に迎えた初のミステリーだとか。そんなクルーニーに新たなラックが訪れることを祈りたいと思う。■ ©2005 Good Night Good Luck, LLC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2017.05.16
21ジャンプストリート
新米警察官のシュミットとジェンコ。ふたりは高校時代それぞれイケてないグループとジョックス・グループに属していたため犬猿の仲だったものの、卒業後に入学した警察学校で偶然再会して意気投合、今では大の親友だ。そんなふたりに、高校生になりすまして学内のドラッグ・ルートを突き止める潜入捜査が言い渡された。トラウマを思い出して浮かないシュミットと「黄金時代再び!」と張り切るジェンコだったが、潜入先の高校のカーストで頂点に立っていたのは何故か文化系だった。慌てて当初の予定と逆転して潜入捜査にあたるものの、現役時代とスクールカーストが逆転したことでシュミットとジェンコの仲はギクシャクしてしまう。そのせいで一向に捜査は進まず、署長(アイス・キューブ!)は怒り狂う。はたしてふたりは犯人を逮捕できるのだろうか? 『21ジャンプストリート』は、ジョニー・デップが80年代に主演していた同名テレビドラマの映画化作品だ。デップ扮する若手刑事が高校に潜入して事件を解決していくこの青春ドラマは、彼を一躍ティーンの人気者に押し上げた。ある時期までのデップにカルトなイメージがあったのは、同作で得たイメージを払拭するためにトンがった映画ばかりに出演していたからだ。そんな伝説のドラマの映画化に際して製作、原案、主演の三役を任されたのは、デップとはまるで正反対のイメージを持つジョナ・ヒルだった。 83年ロサンゼルスに生まれたヒルは、幼い頃から演劇と映画にハマり、ニューヨークの映画学校に進学。そこでジェイク・ホフマンという男と親友になった。ある日、ヒルは自作の劇をバーで上演。これを偶然観に来ていたジェイクの父ダスティン(そう、あの名優の)が面白がって、自分の出演が決まっていたデヴィッド・O・ラッセル監督作『ハッカビーズ』(04年)のオーディションを受けるように進言。これが映画デビュー作となった。なおヒルとジェイクは後に『もしも昨日が選べたら』(06年)と『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(14年)でも共演している。 続いてヒルは、ジャド・アパトー監督、スティーブ・カレル主演の『40歳の童貞男』(05年)のオーディションに合格し、クレーマーっぽい客を好演。これをきっかけにアパトーの監督作『無ケーカクの命中男/ノックトアップ』(07年)やスティーブ・カレルの主演作『エバン・オールマイティ』(07年)にも出演し、アパトー・ギャングに欠かせないバイ・プレイヤーになっていった。 そんなヒルに全てを賭けたのが、アパトー・ギャングにおける兄貴分セス・ローゲンだった。彼は、自ら製作と脚本を手がけた半自伝コメディ『スーパーバッド 童貞ウォーズ』(07年)の主人公”セス”役にヒルを指名したのである。「意中の女子(ちなみに演じていたのは当時全くの無名だったエマ・ストーン!)の家で開かれるパーティに酒を調達してくればヤラせてもらえるかもしれない」そう思い込んだヒルが暴走を繰り広げる同作は大ヒットを記録し、学園コメディの新たな古典となった。 その後もヒルは、ギャング仲間のジェイソン・シーゲル主演作『寝取られ男のラブ♂バカンス』(08年)やアパトー監督、アダム・サンドラー主演のお笑い賛歌『素敵な人生の終り方』(09年)、マザコンのニートに扮した『僕の大切な人と、そのクソガキ』(10年)、アニメ声優に挑戦した『ヒックとドラゴン』(10年)で脇を固めつつ、ロックスターに振り回されるレコード会社の社員に扮した主演作『伝説のロックスター再生計画!』(10年)をスマッシュ・ヒットさせたのだった。 アパトー関連作以外の出演作としては、ベン・スティラー主演の『エイリアン バスターズ』(12年)や、KKKに扮したタランティーノ作品『ジャンゴ 繋がれざる者』(12年)もあるものの、やはりそれぞれブラッド・ピットとレオナルド・ディカプリオの参謀格を演じた『マネーボール』(11年)と『ウルフ・オブ・ウォールストリート』が代表作だろう。この二作で彼はアカデミー助演男優賞にノミネートされている。 こうした俳優としての名声の一方で、クリエイターとしてのヒルは、『ベビーシッター・アドベンチャー』を彷彿とさせる一夜物コメディ『ピンチ・シッター』(11年)でのプロデュース経験をあったものの、その才能は未知数だったといっていい。しかし『スコット・ピルグリムVS.邪悪な元カレ軍団』の脚本家マイケル・バコールと組んで作り上げたストーリーは、本人曰く「『バッドボーズ』ミーツ・ジョン・ヒューズ」なぶっ飛んだものだった。 学芸会やホームパーティ、そしてプロムといったティーンムービーのお約束シチュエーションが全部出てくるところもスゴいけど、素晴らしいのはそこにヒネリがあること。『ロミーとミッシェルの場合』(97年)や『25年目のキス』(99年)など、主人公が高校に舞い戻ることになるコメディは普通、主人公が高校時代の立ち位置に引き戻されるものなのだが、この作品の場合、ふたりのカーストは現役時代と逆転してしまうのだ。 生まれて初めて勝ち組になって浮かれるヒルもちろんだけど、下層カーストに落ちたチャニング・テイタムが、現役時代だったらバカにしていたであろう化学部員のギークたちと友情を育むシークエンスはマジで泣かせる。ふたりは高校時代をやり直すことで、ティーンの頃には得られなかった大切な何かをつかんでいく。だからこそ終盤、シュミットがジェンコに語りかける名セリフ「俺とプロムに行ってくれるか」が笑いとともに魂にぐぐっと効いてくる。 それまでぶっきらぼうなマッチョ役ばかりを得意にしていたテイタムが、俳優として覚醒したのは本作からだろう。その効果が顕著だったのが、プロデュースも兼ねた主演作『マジック・マイクXXL』(15年)。前作『マジック・マイク』(12年)自体、男性ストリッパーをやっていた頃の経験を売り込んで作ってもらった持ち込み企画だったのだが、この続編では『21ジャンプストリート』で得たコミカルな要素やブロマンス・テイストが大幅に導入された快作に仕上がっている。 アニメ『くもりときどきミートボール』(09年)をきっかけに本作の監督に抜擢されたフィル・ロードとクリストファー・ミラーの演出も、これが実写がはじめてとは思えない的確さだ。大ヒットした本作の後、このコンビは14年に続編『22ジャンプストリート』と『LEGO MOVIE』(ヒルとテイタムも声優として出演)をダブル・ヒットに導き、来年には若き日のハン・ソロをフィーチャーした『スター・ウォーズ』スピンオフ作が公開予定だ。 『21ジャンプストリート』のもうひとつの魅力は、何気に豪華な助演陣。ふたりが潜入する先の高校生を演じるのは後のアカデミー主演女優ブリー・ラーソンとデヴィッド・フランコ。校長役はこの年に放映開始された『New Girl / ダサかわ女子と三銃士』でブレイクすることになるジェイク・ジョンソンだ。この頃はまだテレビの人気者だったニック・オファーマンやエリー・ケンパーの姿も見える。 そしてあえてサプライズをバラそう。ジョニー・デップが相棒役だったピーター・デルイーズとともにオリジナル版のキャラクターとして登場するのだ! 長年デップはこの番組を黒歴史と捉えていると聞いていたので、それを覆す本作でのハジケっぷりにはビックリさせられた。というわけで、どこで彼が登場するかも楽しみにしながら観てほしい。 21 JUMP STREET © 2012 Columbia Pictures Industries, Inc. and Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc.. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2017.05.15
フィルムメディアの“残像”〜『フッテージ』と監督スコット・デリクソンの映画表現〜5月15日(月)ほか
一家殺人事件の真相を追い、事件現場の空き家へ移り住んだノンフィクション作家のエリソン(イーサン・ホーク)。彼はある日、同家の屋根裏部屋で現像された8ミリフィルムを発見する。しかもそのフィルムには、件の一家四人が何者かの手によって、絞首刑される瞬間が写っていた……。 スコット・デリクソン監督によるサイコロジック・ホラー『フッテージ』は、タイトルどおり「ファウンド・フッテージ(発見された未公開映像)」という、同ジャンルでは比較的ポピュラーなフックによって物語が吊り下げられている。例えば同様の手法によるホラージャンルの古典としては、1976年にルッジェロ・デオダート監督が手がけた『食人族』(80)が知られている。アマゾンの奥地へ赴いた撮影隊が現地で行方不明となり、後日、彼らが撮影したフィルムが発見される。そのフィルムを映写してみたところ、そこに写っていたのは……という語り口の残酷ホラーだ。日本ではあたかもドキュメンタリーであるかのように宣伝され、それが奏功して初公開時にはヒットを記録している。また、その『食人族』の手段を応用し「行方不明の学生が残した記録フィルム」という体で森に潜む魔女の存在に迫った『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(99)は、昨年に続編が作られたことも手伝い、このスタイルでは最も名の挙がる映画ではないだろうか。 しかし、それら作品におけるフッテージは、あくまで本編の中の入れ子(=劇中劇)として従属するものであって、それ自体が独立した意味を持ったり、別の何かを連想させることはない。ところが『フッテージ』の場合、劇中に登場するフッテージは「スナッフ(殺人)フィルム」という、極めて具体的なものを観客に思い至らせるのである。 スナッフフィルムとは、偶発的に死の現場をカメラが捉えたものではなく、殺人行為を意図的に撮影したフィルムのこと指す。それが闇市場において、好事家を相手に高値で売られていると、70年代を起点にまことしやかに噂されていた。実際には「殺人を犯すリスクに見合う利益が得られるのか?」といった経済的な疑点もあり、あくまでフォークロア(都市伝説)にすぎないと結論づけられているが。 しかし、そんなフォークロアが当時、個人撮影のメディアとして主流を成していた8ミリと結びつくことで、あたかもスナッフフィルムが「存在するもの」として、そのイメージが一人歩きしていったといえる。同フォーマットならではの荒い解像度と、グレイン(粒状)ザラッとした映像の雰囲気、また個人映画が持つアンダーグラウンドな響きや秘匿性など、殺人フィルムの「いかがわしさ」を支えるような要素が揃っていたことも、イメージ先行に拍車をかけたといっていい。 事実、こうしたイメージに誘引され、生み出された映画も存在する。タイトルもズバリの『スナッフ/SNUFF』(76)は、クライマックスで出演者の一人が唐突に殺されるという、フェイク・ドキュメンタリーを装った作りでスナッフフィルムを標榜しているし、またニコラス・ケイジ主演による『8mm』(05)は、スナッフフィルムを出所を追うサスペンスとして、劇中に迫真に満ちた当該シーンが組み込まれている。 『フッテージ』では、そんなスナッフフィルム、ひいてはアナログメディアの“残像”ともいえるものを、現実と幻想とを繋ぐ重要な接点として劇中に登場させている。殺人を写し撮ったフィルムの向こうに潜む、邪悪な存在ーー。本作がホラーとして、その表情をガラリと変えるとき、この残像は恐ろしい誘導装置となるのだ。デリクソン監督は言う、 「不条理な世界を確信に至らせるのならば、細部を決しておろそかにしてはいけない」 (『フッテージ』Blu-rayオーディオコメンタリーより抜粋) ■『フッテージ』から『ドクター・ストレンジ』へ もともとデリクソン監督は、こうしたフィルムメディアの「残像」を常に追い求め、自作の中で展開させている。氏のキャリア最初期を飾る劇場長編作『エミリー・ローズ』(05)は、エクソシズム(悪魔祓い)を起因とする、女子大生の死の真相を明かしていく法廷サスペンスで、その外観は『フッテージ』のスナッフ映像と同様、フィルムライクな画作りが映画にリアリティを与えている。さらに次作となる『地球が静止する日』(08)は、SF映画の古典『地球の静止する日』(51)をリメイクするという行為そのものがフィルムへの言及に他ならない。続く『NY心霊捜査官』(14)を含む監督作全てが1:2.35のワイドスクリーンフォーマットなのも、『エミリー・ローズ』でのフィルム撮影を受け継ぐ形で、デジタル撮影移行後もそれを維持しているのだ。 そんなデリクソンのこだわりは、今や充実した成果となって多くの人の目に触れている。そう、今年の1月に日本公開された最近作『ドクター・ストレンジ』(16)だ。 同作は『アイアンマン』や『アベンジャーズ』シリーズなど、マーベル・シネマティック・ユニバースの一翼を担う風変わりなヒーロー映画だが、その視覚体験は近年において飛び抜けて圧倒的だ。ドクター・ストレンジはスティーブ・ディトコとスタン・リーが1963年に生み出したクラシカルなキャラクターで、当時の東洋思想への傾倒やドラッグカルチャーが大きく作品に影響を与えている。その証が、全編に登場するアブストラクト(抽象的)な視覚表現だろう。VFXを多用する映画の場合、その多くは存在しないものをリアルに見せる具象的な映像の創造が主となる。しかし『ドクター・ストレンジ』は、ストレンジが持つ魔術や多元宇宙の描写にアブストラクトなイメージが用いられ、誰も得たことのない視覚体験を堪能させてくれるのだ。 それは俗に「アブストラクト・シネマ」と呼ばれるもので、幾何学図形や非定形のイメージで画を構成した実験映画のムーブメントである。1930年代にオスカー・フィッシンガーやレン・ライといった実験映像作家によって形成され、原作の「ドクター・ストレンジ」が誕生する60年代には、美術表現の多様と東洋思想、加えてドラッグカルチャーと共に同ムーブメントは大きく活性化された。 このアブストラクトシネマの潮流も、フィルムメディアが生んだもので、デリクソンは実験映像作家のパーソナルな取り組みによって発展を遂げた光学アートを、メジャーの商業映画において成立させようと企図したのである。 デリクソン監督が作中にて徹底させてきたフィルムメディアの“残像”は、ここまで大規模なものになっていったのだ。 ■日本版ポスター、痛恨のミステイク このような流れを踏まえて『フッテージ』へと話を戻すが、原題の“Sinister”(「邪悪」「不吉」なものを指す言葉)を差し置いて、先に述べた論を汲んだ邦題決定だとすれば、このタイトルをつけた担当者はまさに慧眼としか言いようがない。 しかしその一方で、我が国の宣伝は本作に関して致命的なミスを犯している。それは日本版ポスターに掲載されている8ミリフィルムのパーフォレーション(送り穴)が、1コマにつき4つになっていることだ。 8ミリを映写するさい、プリントを送るためのパーフォレーションは通常1コマにつき1つとなっている。しかしポスター上のフィルムは4つ。これは35ミリフィルムの規格である。つまりポスター上に写っているのは8ミリではなく、35ミリフィルムなのだ。 まぁ、そこは経年によるフィルムメディアへの乏しい認識や、フィルムということをわかりやすく伝えるための誇張だと解釈できないこともない。しかし、単にアナログメディアを大雑把にとらえた措置だとするなら デリクソン監督のこだわりに水を差すようで、なんとも残念な仕打ちといえる。 ©2012 Alliance Films(UK) Limited
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COLUMN/コラム2017.05.15
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年6月】キャロル
私立探偵イージー・ローリンズを描くウォルター・モズレイの超人気ハードボイルド小説を映画化。主演はデンゼル・ワシントン、製作総指揮は『羊たちの沈黙』の名監督ジョナサン・デミ、ヒロインを演じるのは『フラッシュ・ダンス』のジェニファー・ビールス。 1995年製作のこの映画、見ごたえがあって実に面白い。物語のはじめでは、主人公の人柄や置かれた状況、いよいよ事件に巻き込まれる様が、適度な緊張感を保ちながらもじっくりと描かれ、あっという間に引き込まれてしまう。さらに、事件の鍵を握る女が一体どれほどの女なのか否が応でも期待が高まる中、ついに登場する“青いドレスの女”ジェニファー・ビールスの神々しい美しさときたら。 最近の映画ってものすごくカットが短い上に、展開がとにかく早い。勢いに任せて見せられてしまう感じがあって、面白かったとしてもすぐに忘れてしまうことが多いような気がしている。そんな折、偶然出逢った本作は、私の中で何日も何週間も、ずっといい後味を残している。6月のザ・シネマで、是非ご覧下さい。■ © 1995 TriStar Pictures, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2017.05.12
シュールでキュートでカルトなギリシア映画『籠の中の乙女』の意味不明な箇所に解説を付けてみた
怪作『籠の中の乙女』に妹役で出演していたマリー・ツォニさんが亡くなりました。亡くなった詳しい状況は報じられていないようですが、これはWHO(世界保健機関)が定めた報道の国際ガイドラインにのっとってのことでしょう。日本でも内閣府のHPにそれは掲載されています。 要は、自殺報道を詳細に報じてはいけない、という国際ルールでして。そういうことすると後追い自殺を生みますからね。日本でも定着しつつある考え方です。 ということでマリー・ツォニさんが亡くなった話題はあまり深掘りせずに、彼女が我々映画ファンに遺してくれた、とてつもなく変な映画、まごうかたなき怪作、であると同時に2009年カンヌ映画祭「ある視点」部門受賞、2010年度アカデミー外国語映画賞ノミネートと、国際的にたいへん高く評価されたギリシア映画『籠の中の乙女』について、緊急で書きます。7月、ワタクシのやってる平日深夜「シネマ解放区」ゾーンで再放送もしますんでよろしく。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ いやはや、ほんと変な映画です。カンヌの「ある視点」部門ってのは変な映画が獲る賞なのですが、とりわけ本作は変。まずBGMが無い。それと大半のシーンがカメラ据え置きで、ズームとか移動撮影とかが極端に少ない。カメラが追わないから役者がよく見切れており、見た目的にとっても変なのです。あまりに「静的」と言うか。 舞台は一軒の家ワンシチュエーションからほとんど出ず、その家は広い庭のある豪華な白亜の平屋で、しかもプール付き。各部屋、窓が大きく取られており、そこからギリシアのカラッとした日差しが差し込んで、わたせせいぞうか鈴木英人のイラストみたいでちょっと素敵です。でも、あまりに清潔感あふれすぎていて、ここまでくると逆に異常。むしろ寒々しく殺風景に感じられてくる始末。 だから、「静謐な」という形容動詞がいちばんしっくりくる印象の映画です。「閉塞感」と言うのも近い。それはなぜか? これは、籠の中に乙女たちを閉じ込める映画だからです。父親が娘2人(マリー・ツォニさんは下の妹役)と息子1人、3人の子供達(と、もしかしたら奥さんのことも)を自宅に監禁して育てているというお話なのです。 外界から隔絶されているため、当時おそらく外の世界では国債暴落とかデフォルト危機とか、緊縮財政と民営化の圧力がメルケルさんあたりからかかったりとかで、ギリシアは国全体が蜂の巣を突ついたような大騒ぎだったはずなんですけど、このお宅だけは異常なまでに「静謐」。文字通り「閉塞感」で窒息しそうな日常が来る日も来る日も繰り返されます。 外の世界は危険がいっぱい、おうちが一番安全なんだ、ということで、お父さんは家族が家から出ることを禁じています。 ワタクシ事ながら、ウチも子供3人いる貧乏子だくさん一家ですが、こういう考え方には、恐ろしいことに、父親としてちょっとだけ賛同しちゃう面も無くはない。レェ・ティ・ニャット・リンさん事件とか通学児童の列に車が突っ込んだとか、そういう子供が犠牲になる痛ましいニュースを見るたびに、学校にも行かせず家から一歩も出さないでいられないものかなぁ…と、一瞬どうしたって考えちゃいますよそりゃ。 あるいは海外旅行。ワタクシが若かった90年代とか、冷戦が終わってこれから世界は明るい21世紀を迎えるんだ、と信じきっていた時代であれば、バンバン海外行って見聞広めてきてくれ、バックパッカーみたいな貧乏旅行でいい、多少トラブルに巻き込まれたとしても、よっぽどのことでなければそれもまた良い人生勉強だよ、打たれて強くなれ!ぐらいに思ったかもしれない。実際そういう感覚でワタクシの世代はフットワーク軽く世界中に飛び出して行ってましたし、送り出す親御さんが海外行くごときで気を揉んだなんて話も周囲ではついぞ聞かなかった。世界は夢のように平和でしたから。しかし2001年9月のあの日以来、世界は決定的に変わってしまった。今では海外に出かけようとして「テロ」という言葉が頭をよぎらない人なんていないのではないでしょうか。子供が海外に行く!? 正直やめてほしいと思っちゃいますねぇ…。 しかし、子供を家に縛りつけておこうなんていうのは、ろくな考え方じゃない。この映画では、そうすることによって、事件やテロに巻き込まれない代わり、とんでもない家庭崩壊、人の道を踏み外すことになっていくのです。それが、静かに静かに、静謐に、どこまでも美しく描かれていく。 本作における子供達は、幼少の頃から「外には怪物がいる!」とシャマラン映画みたいな、あるいは湯婆婆みたいな、もしくはラプンツェルの母ちゃんみたいなウソを信じ込まされてきたので、おそらく全員二十歳前後ぐらいになっているでしょうが家から出たことがなく、顔に生気がなく、表情に乏しく、精神年齢は小学校低学年ぐらいでストップしているような感じです。 しかし当然カラダだけは大人。湯婆婆んちの坊が湯屋のあのペントハウスで二十歳過ぎになっちゃったと思ってくださいよ。たまらんですよ!とっくのとうに第二次性徴期も完了し、すでに息子の息子はいつでも発射可能状態。これを狭い家に閉じ込めておくのですから、溜まったものを定期的に放出させないと暴発しちゃうであろうことは想像に難くありません。ということで父親は自分の勤め先の女ガードマン・クリスティーナにお金を払い、お兄ちゃんにあてがっています。とても段取りめいた、決まった動作でテキパキとコトに及んでいるところから察するに、お兄ちゃんとクリスティーナのSEXは定例になっているみたいです(このこと覚えておいてください)。 いやはや、エロ映画やAVって、人間にとって必要なんですなぁ!エロ映画もAVも見たことがないお兄ちゃんは(メディア禁止なので)、ただ入れて出すだけの犬猫の交尾のようなSEXしかできないんですから悲しい話です。女の方は全然イケない。クリスティーナの好きなコト、それはもちろんクンニです! あるとき、入れられて出されるだけで欲求不満きわまったクリスティーナはお兄ちゃんに「舐めて」と頼みますが、拒否されます。相手は精神年齢子供レベルなので「これはあなたのためにいいことなのよ」とウソつきますが騙せず、逆に後背位でヤリたい(犬猫みたいに)と要求されて、サセちゃいます。自分はイケなかった…。 そこで、事の後で、今度はお姉ちゃんに百合クンニを頼みます。その家の女の子たちとも、いちおう口をきく程度の接点はあるのです。「消しゴム付き鉛筆あげるから」とか「カチューシャあげるから」とか「ヘアジェルあげるから」とか言って釣って(相手は精神年齢小学生ですから)。依頼主である一家のパパには内緒で。 監督のヨルゴス・ランティモスさんは、本作の公式サイトでこう述べています(以下コピペ)。 「(前略)男の子の方が性的欲求が強いとみなされていて、女の子より多くの課題を課せられる。両親も、姉妹には性教育の必要を感じていませんし、より保守的に育てています。彼女らの性生活なんて考えもしない。でも両親は長男がセックスしていることを誇らしく感じています。少なくともギリシャでは一般的な考え方ですね。古臭い考えですが、よその国にも残っているのではないでしょうか。」 こういう女子への偏見というか聖処女願望というか変な思い込みから、両親にとっては完全ノーマークだったお姉ちゃん。それがレズ舌技で性に目覚め、自分も舐められてみたいという欲望が芽生えます。崩壊の序曲、パンドラの箱が半開きになりました。お姉ちゃんは末っ子の妹(故マリー・ツォニさん扮演)に後日、何か物あげるから自分のことも舐めてくれと要求。最初は肩を舐めてくれと頼みます。肩舐められても無意味ですが精神年齢小学生ですからカタとクリの違いをわかってない。ただ、次には内腿を舐めてとか、腰骨とかヘソとか、だんだんとリクエスト部位がリクエリトリスに、もといリクストエがクリストスに、ええいまどろっこしい、陰核、じゃなかった核心へと近づいていきます…何言ってんだオレは。 そしてとうとう、お姉ちゃんが禁断の智慧の実を喰らってパンドラの箱を全開にしちゃう瞬間が訪れます。クリスティーナがお姉ちゃんに次またクンニさせようとした時、お姉ちゃんは、クリスティーナ側から提示されたあらゆる子供の好きそうなお土産には興味を示さずに、クリスティーナが持っていた映画のレンタルビデオをバーターでよこせと強硬に要求します。 この家にはデッキとTVは有る。と言ってもビデオカメラで撮影したホームビデオを何度も何度も繰り返し見るためだけに有るもので、TV放送とか映画ソフトとかはこれまでは見れなかったわけですが、こうしてお姉ちゃんはレンタルビデオを見ることができるようになるのです。これでパンドラの箱が開きます。 と、ここまでがあらすじ。ここまでは未見の人でも読んでてネタばれということはありません。しかし、ここから先はネタばれに踏み込んでいきます。未見の人は本編をご覧になった後でぜひ再読しに戻ってきていただければ幸い。またいつの日かお会いしましょう、さようなら! ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ で、さて、「いや〜映画って、本っ当にいいものですね!」って、ことですよね、ここから先の展開は。映画のおかげで世界が広がる。家の中だけ、家族5人だけで閉じていた狭い世界が一気に開けます。ロッキーIVにハマる!ジョーズにハマる!フラッシュダンスにハマる!そうして体験したことのない人生を疑似体験する。亡き友のリベンジのため成功と平和の日々に別れを告げふたたび命がけの戦いに臨むとか、責任を背負う者たちが圧倒的脅威・深刻な危機と向かい合って打ち勝つとか、自分の特技にひたむきに打ち込むことで成功をつかむとかは、そうそう誰もが体験できるものではありません。それを疑似体験できてしまう。それが映画、それこそが映画を見るって行為の本質でしょう。お姉ちゃんはそれらを疑似体験して、弟と妹を置いて一気に覚醒していくのです。 ちなみにロッキーIVを見て、お姉ちゃんは窓ガラスをミラー代わりにロッキーのマネをします。その時、某主演スターの顔マネ声マネで、口を「へ」の字にひん曲げ完全になりきっており、ここは思わずフイた!な名シーン。「ハイここ笑うとこですよ〜」と親切過剰な演出になっていないので気づかないかもしれませんけど、ここ確信犯で笑わせようとしてますよね?ランティモス監督は、 「映画全体のトーンとして物事を誇張して描いていて、そこには、嗤うしかないバカげたユーモアがたくさんある。大爆笑じゃなくたっていいんだ。ユーモアはいつも爆笑と決まったものじゃないから。ただ、多くの試写会場ではほとんど爆笑に近いところまでいっていたけどね。でもその一方で、別の会場は静まり返っていたこともあったな」 と別のインタビューで語っています。ま、わかる人にはわかるギャグセンスってことですな。シュールで「静謐」でアートフィルムっぽいルックではありますが、吹くような笑いも果敢に獲りにきている、意外に狙ってる映画なのです。 とにかく、映画によってお姉ちゃんの知覚の扉がパッカ〜ンと開く。それを開けるのはLSDではなく映画なのでした。海外で貧乏旅行とか武者修行しなくたって、それで人生経験は仮想で積めるのです。それが映画を見る意味です。彼女はまず、映画によって「名前」を手に入れます。千と千尋の湯婆婆のように、父親は子供たちに名前さえ付けず自我を封じて支配しており、名無し状態でその歳まで育ててきたのですが、お姉ちゃんは「名前」という概念がこの世にあることを知って自分を「ブルース」と名付け、弟妹にもブルースと呼ぶよう命じます。自我の芽生えです。 「ブルース」というキャラクターは、ロッキーIVにもジョーズにもフラッシュダンスにも確か出てこないはずですが、実は!なんと『ジョーズ』のあの伝説の撮影用サメロボット、スピルバーグが作ったあれのスタッフ内輪での呼び名が「ブルース」だったのです。お姉ちゃん、プールですっかりサメになりきってジョーズごっこしてましたからね。 もっともレンタルビデオの『ジョーズ』本編中にはそのコードネームは出てこなかったはずですし、DVDではなくなぜか今時VHSなので映像特典やコメンタリーが付いているはずもなく、どうやってロボの内輪の呼称がブルースだとお姉ちゃんが知ったのかは謎なのですが。ということでこの推理、ハズレてるかもしれませんけどね。 とにかくプールで弟とジョーズごっこをしている時にジョーズ劇中のセリフを完コピで空んじて、弟に「姉ちゃん一体どうしたんだろ…急に物知りになっちゃって」と怪しがられ、チクられたっぽくって、パパに映画見たことバレちゃいます。 パパは激怒です。不潔な外界の不浄な大衆文化に長女が触れてしまった!けしからん!! 取り上げたVHSで長女の頭をこてんぱんに殴りつけ、さらにはクリスティーナこそが元凶と、その住まいまで乗り込んで行って、今度はVHSデッキ本体で脳天を力一杯ぶん殴ります。 …く、狂ってやがる!このお父さんこそ諸悪の根源なのですが、どうしてここまで極端に外界を遮断しようとしているのか?奥さんまで外に一歩も出れないようなのですが、一体どういう訳なのか? 勤め先で、父親は同僚とこんな会話を交わします。 同僚「奥さん 具合は?」父親「同じだ」同僚「外出は?」父親「しない」同僚「車イスでも たまには出ないと」父親「妻は来客もイヤがるんだ。私は君をビールにでも呼びたいが」同僚「奥さんは悲惨な目に遭ったんだ。うつ状態にもなる。写真では活発な女性に見えた。バレーボールのチャンプ?」父親「ハンドボールだ」 …うつ状態?悲惨な目に遭った?車イス?って普通に歩いてましたけど!? これらのことはその後、言及も説明もされません。言いっぱなしです。 さらにお父さん、下の娘に足の爪を切らせながら、こんな物悲しい歌を口ずさみます。 「♪愛する君を失って 僕の青春も終わった 見上げれば星が涙を流し 鳥たちも悲しげに鳴いている 寂しい夕暮れに ふさぐ心(ここから、なぜか勤務先の工場の外観ショットが映し出されながら)君がいなくなって 何もかも悲しげだよ いとしい人よ 君は今 どこに? 捜し求めても むなしいだけ」 なぜこの映像に合わせてこの曲を?どういう意図か?若い頃にここの職場で、女がらみ痴情のもつれ系で何か一悶着あったのか!? それが家族監禁と何か関係しているのか!? 謎は深まるばかりです。 インタビューでランティモス監督はこう言っています。 「(両親が狂った監禁育児をしている背景をまったく描かないこと)は私にとってとても重要でした。でなければ全く違う映画になっていたでしょうね。観客が夫婦の背景を知っていたら、彼らの行為が良いか悪いかという目で見てしまったのではないでしょうか(後略)」 ということで、観客に深読みさせてあえて翻弄し興味関心を持たせて、「んもぉ〜気になって仕方ないじゃない!」と言わせようという、これは作り手の焦らしテクかもしれませんな。あまりここ真剣に謎解きしても、まんまと監督の術中にハマるだけで徒労かもしれません。答えは「答えは無い」じゃないかと。なのでワタクシとしては、ここは華麗にスルーしておこうと思います。 さてさて。お父さんがVHSデッキでクリスティーナの脳天カチ割ったため、息子の性欲処理係がいなくなっちゃった。「今度は熟女にしよう。その方が安心だ」と夫婦で相談していた直後に、話がどう転がったらそうなるのか、お姉ちゃんと妹、どちらかがお兄ちゃんの性欲処理係になるという話になっちゃって、お兄ちゃんが風呂場で2人の女体をすみずみ検分吟味した結果、お姉ちゃんの方を選ぶという、おぞましい展開に。懐かしの赤さんなら「まさに外道」と言うところですな。外界から隔離したら外道に育っちゃった。 そして、娼婦みたいなケバいメイクをお母さんが(!)お姉ちゃんに手ずから施して、ついにお姉ちゃんはお兄ちゃん(いや、おそらく彼女からしてみたら弟か)の部屋に入ってSEXをします。まさに外道!ここが冒頭の、クリスティーナとの段取りめいたSEXとの対比になっている。今回は初組み合わせの対戦カードなので段取りが決まってません。特にお姉ちゃんはもちろん処女で、SEXについて真っ白の無知ですから、何をどうしていいかわからず、弟のなすがままにされます。無知すぎて、これがSEXだとも近親相姦だとも認識できていないでしょうし、近親相姦がタブーということも理解できないでしょう。 ただ、動物としての本能が、この穢らわしい行為が犬畜生にも劣るような、生殖の常道を踏み外した鬼畜のおこないなのだと、お姉ちゃんに気づかせます。そして事が終わった後のベッドで、隣で賢者タイムにひたっている弟に向け、彼女は血を吐くようにして絞り出し、映画のセリフを暗唱するのです。 「もし またやったら八つ裂きにしてやる。いいか、娘に誓って言う。お前の一族は生かしちゃおかねえ。とっとと町から出てけ」 これは何の映画からの引用なのか?この作品の英語版Wikiに、ハッキリとこう明記されています。 「姉はSEXのあいだじゅう不快で、事の後で弟に向かい『ロッキーIV』から引用した脅しのセリフを暗唱する」 ロッキーIVだって?ソ連に行っちゃうあの?ドラコが出てきて最後はゴルビーまで出てくるあれ?あれにそんなセリフあったか?「娘」とか「一族」とか「町」とか、一切そんなファクター出てこない映画だったですよね!? 変だと思って今TSUTAYA行って借りてきて再生してますけど、案の定そんなセリフ出てきませんね。これはWikiの間違いではないでしょうか。 では、一体これは何の映画からの引用なのか?正解はわかりませんが、海外の批評では「どれか特定の映画からの引用という訳ではないが、映画からインスピレーションを受け、長女が生み出した言葉」との見立てが複数紹介されています。ただし、そう監督本人が語っている発言は、ちょっと探してみましたがネット上では発見できませんでした。日本版セルパッケージソフトの映像特典は予告編だけみたいで監督によるコメンタリーは収録されていないようですから、その線でも調べはつかず、裏取りができておりません。 ただ、「長女が生み出した言葉」という解釈が当たっているとしたら、それはこの映画においては重大すぎる意味が込められていて、長女のフォースの覚醒を描いていることになります。あの狂った父親は、子供達に名前を付けないだけでなく、普通の名詞すら教えていないのです。言葉を奪った訳です。言葉つまり社会とつながるためのコミュニケーションツールを奪った。千尋の名前を奪ってコントロールした湯婆婆どこの騒ぎじゃありません。例えばお塩、テーブルソルトのことを「電話」だと教え込んでいます。この家では外界との接触を断つため電話は子供達には隠しているので、想像するに、子供達が本か何かで「電話」という言葉を知ってしまった時に、「電話とはこれだよ」と塩を見せたのでしょうか。また、イヤらしい言葉も無いことになっていて、女性のアソコのことは「キーボード」と呼ばせており「マ×コ」という言葉は存在しないことになっています(それは普通どこの家庭でもそうか)。また「海」や「高速道路」というものを子供達は知りませんので、それは「アームチェアー」と「強風」の別名だよと教えています。言葉をメチャクチャに教えることで、家族以外とはコミュニケーションとれない人にしちゃっている。 そういう前提があって、長女が映画からインスピレーションを受けて言葉を自分で生み出したのだとしたら、それはものすごい進歩じゃないですか!映画がお姉ちゃんを一気に成長させ、外に出て行くトレーニングとして役立った、ということですから、本作の解釈としてこの見立ては魅力的ですし説得力もあるのですけれど、いかんせん裏が取れませんので、とりあえず今の段階では「そういう説もある」とだけご紹介しておきましょう。 さて、弟とSEXさせられちゃいました。この決定的な出来事により、お姉ちゃんの中で、何かが壊れます。 SEXの後、今日は両親の結婚記念日だということで一家はパーティーを催します。子供達も演し物をやる。姉妹はダンスを。そしてお姉ちゃんが全身全霊をかけて激踊りするのは、『フラッシュダンス』クライマックスでのジェニファー・ビールスによるダンスの真似なのです。説明一切ありませんが、ある世代なら振り付けを見ただけで一発でピンときます。それは見ていて恥ずかしくなるほど下手くそきわまりない、でも一生懸命ではある、必死の踊りです。ジェニファー・ビールスは審査員を一人一人指差す振りを組み入れた空駆ける激ダンスにて見事にチャンスをつかみ、望んでいた人生のスタートを切るところで映画『フラッシュダンス』は終わりましたが、お姉ちゃんが家族一人一人を指差しながら一心不乱に踊っても、「もう沢山!」と打ち切られてしまい、穢らわしいものでも見せられたようにあしらわれるだけ。しかも、穢らわしい近親相姦を仕組んだ張本人である、お母さんその人によって。チャンスなど与えてくれません。 そして、この映画はとうとう、とんでもない終局を迎えるのであります。ついにお姉ちゃんが行動を起こすのです。ここまでネタバレ全開で書いてきて今さらナンですが、あえてラストについてだけは、野暮もきわまれりなので具体的にこれ以上は書きますまい。ただ、この結末、おそらくは決定的な破局なのではないでしょうか。そこはハッキリとは描かれませんけどワタクシはそう思っています。一週間ほどして異臭が漂ってきて…ってことになったに違いない、とワタクシは想像するのです。 再びランティモス監督のインタビュー。 「(前略)映画は、自分なりの方法で見てもらえるよう、余地を残しておきたいですね。ですから結論を示し過ぎないようにして、皆さんにはスクリーンで起きていることに自由に反応してもらえたら。啓蒙的な映画にはしたくありません。」 はたして、お姉ちゃんはどうなったのか?もしかしたら内側から開けられて外の世界へと飛び立ち、ジェニファー・ビールスのように新たな人生を始められたのかもしれません。その可能性も無くはない。が、腐って異臭の発生源となり後日発見されたかもしれない。どっちか答えを観客に見せる気なんかさらさら無い、という、ものすごい突き放した終わり方をこの映画はします。最後まで謎やほのめかしやメタファーに満ちた、知的に感性的にとてもエキサイティングな作りの作品です。きっとカルト化して永遠に残り、在りし日のマリー・ツォニさんの美しい姿を閉じ込めたまま、その時代時代の映画ファンたちを翻弄しつづけるような、不朽の一本になっていくのでしょうね、この『籠の中の乙女』は。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 蛇足ながら、ランティモス監督、この長編デビュー作の次に撮った作品が『ロブスター』という、コリン・ファレル、レイチェル・ワイズ、ジョン・C・ライリー、ベン・ウィショー、レア・セドゥと、そうそうたる面々が出ている(『籠の中の乙女』で長女役だった女優さんも出ている)オールスターキャスト映画。であるにもかかわらず、あいかわらずランティモス節全開で、これまた無茶苦茶にシュールで奇っ怪きわまりない、ゴリっゴリのカルト映画です! 綺麗すぎる風景ショット、惨殺される動物たちや、見ているこっちが恥ずかしくなる下手くそ素人ダンスなど、『籠の中の乙女』と共通するイメージも数多く散りばめられているのですが、いちばん共通しているのはテーマでしょう。『ロブスター』は次のような物語です。 結婚しない者は動物に変身させられるという、体制が結婚を強いている社会。夫婦者は都会で普通に暮らせ(ただし独りで出歩いていると職質受ける)、独身者はホテルでの官製ねるとんパーティーに強制参加させられ、期日内にカップル成立しなかった者は獣に姿を変えられてしまう。国家は「動物も悪くない生き方ですよ」などと口では言うが、明らかに“処分”しているようにしか見えない。ねるとんで早く自分と“共通点”のある相手を見つけてカップルにならないとヤバい(“共通点”なきゃいけないの?そこそんなに大事か!?)。カップルになれた者は得意満面、まだの人を露骨に見下します。それと、ねるとんホテル滞在中はオナニー禁止。そんな無駄なことするヒマあったら異性とヤれ、早く結婚して早く子供作れ、と。あと、ねるとん出席者はハンティングにも参加が必須で、森の中に潜む独身者を狩らねばならない。1人狩ると人でいられる期間を1日延長してもらえる。 独身者というのは、その結婚強制国家体制から逃れてきた独身者たちが、ゲリラのように森の奥に潜伏して組織を作っていて、こっちでは恋愛は御法度(オナニーはOK)。影で男女がイチャついていたら“総括”されるという、これはこれで恐い社会です。全体主義国家と極左暴力集団の対立みたくなってます。 主人公コリン・ファレルは最初ねるとんに参加し、そこで事件を起こしてしまい独身者の森に逃れてきて、レイチェル・ワイズと運命の出会いを果たし、愛し合うようになるのですが、そこは恋愛禁制の集団で…さて、そこからどうなっていくか、というお話。とんでもない丸投げな終わり方をするところも『籠の中の乙女』と同じです。 晩婚・非婚のご時世に、またとんでもなくセンセーショナルな作品をブチ込んできましたな。どうもこのランティモス監督という人は、結婚して家庭を築くって何!? というテーマに取り憑かれている人のようなのです。 「幼いころに両親が離婚して母親に育てられたのですが、母は私が17歳の時に死にました。ですから私は若くして天涯孤独の身で世の中に出て、ひとりで生活して勉強してきました。」 と語ってもいますが、こうした生い立ちから、家族制度や結婚制度、親が子供を育てるといったことに対する、一種独特の視座をランティモスさんは確立していったのかもしれません。 それでは最後に、『籠の中の乙女』の時のランティモス監督のインタビュー発言をもう一つご紹介して、終わりにしましょう。 「(前略)ある日、友人との会話の中で、みんなどうせ離婚してしまうのに、なぜ結婚して子供をもうけるのか、とからかったんです。だって最近では離婚するカップルが多く、片親に育てられる子供が多いのに結婚する意味なんてあるのかと。そうしたら、明らかに軽いジョークだというのに、みんな僕のことを怒りました。よく知っている友人が、家族の話題となるとそんなにムキになるなんて!それがきっかけで、自分の家族を極端に守ろうとする男、というアイディアが芽生えたのです。外界からの影響が一切なく自分の家族だけで永遠に一体となっていこうとする男。それが子育ての最高の形とかたくなに信じる男です。」 © 2009 BOO PRODUCTIONS GREEK FILM CENTER YORGOS LANTHIMOS HORSEFLY PRODUCTIONS – Copyright © XXIV All rights reserved
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COLUMN/コラム2017.05.04
韓国映画界の最重要人物ナ・ホンジンの大傑作!史上最強の悪役ミョン社長の大暴れを見ろ!〜『哀しき獣』〜05月17日(水)ほか
国策として政府が映画界に公的資金援助をしているというだけでなく、才能豊かで多士多才な人材が、様々なジャンルで恐ろしいほどエンターテインメント性にあふれる作品を発表し、それが韓国国内で大ヒットを記録するという好循環が生まれている。そんな多士多才な面々の中でも、寡作ながら作る映画がすべて強烈なパンチ力で観る者をノックアウトするパワーを持つ傑作ばかりというのが『哀しき獣』のナ・ホンジン監督だ。 ナ・ホンジン監督は1974年生まれの42歳。私立の名門・漢陽大学校から韓国芸術総合学校に入学している。ちなみに韓国芸術総合学校は国立の芸術家養成学校であり、キム・ドンウク、オ・マンソク、ユン・ソンホ、イ・ソンギュン、イ・ジェフン、チョン・ジェウンといった多くの映画人を輩出する名門校だ(映画だけでなく芸術全般をフォローする学校である)。韓国芸術総合学校を卒業したナ・ホンジンは、短編映画の制作を開始。初の短編映画は2003年の『5 Minutes』、2005年には短編『完璧な鯛料理』、2007年に短編『汗』を発表。その才能は次第に認められていく。 そして満を持して2008年に、初の長編映画作品となる『チェイサー』を発表する。『チェイサー』は2004年に起きた“ソウル市20人連続殺人事件”をベースにした作品。この事件は、風俗嬢を中心に20人が殺された連続殺人事件(犯人は26人殺害を主張)で、元刑事でデリヘル経営者ジュンホ(キム・ユンソク)が、自店の風俗嬢が殺されたことをきっかけに連続殺人犯(ハ・ジョンウ)と対決する姿を描くアクション・スリラー。捕えても捕えても釈放されてしまう連続殺人鬼と、それを執念で追う主人公の構図はまさに21世紀の『ダーティハリー』。凄まじい残酷描写と救いの無い展開、そしてド迫力のアクションを圧倒的な映像美で描き切った『チェイサー』は、韓国で500万人以上の観客を動員するメガヒット映画となった。『チェイサー』は韓国のアカデミー賞とも言える大鍾賞の主要6部門を制覇し、大韓民国映画大賞も受賞。それと共に監督のナ・ホンジンは一躍ヒットメーカーの仲間入りを果たしたのだった。 そんなナ・ホンジン監督の長編第2作が、今回ご紹介する『哀しき獣』である。 中華人民共和国吉林省の東端に位置する延辺朝鮮族自治州のある街。脱北ビジネスの盛んなこの街で、タクシー運転手のグナム(ハ・ジョンウ)はひたすら麻雀にのめり込んでいた。しかし生来の博打下手であるグナムは、今日もタクシーの売上をすべてスッてしまう。グナムは妻を韓国に出稼ぎに行かせるために多額の借金を背負っていたが、借金返済目的で始めた麻雀でさらに借金が膨らむという悪循環に陥っていたのだ。さらに出稼ぎに行ったはずの妻は音信不通となり、周囲からは「妻は男を作って逃げた」と言われる始末。一人娘は祖母と暮らしている。出口の見えない無限地獄の中で苦しむグナム。ある日麻雀で負けた際に「チョーセン野郎め」と罵られて雀荘で暴れてしまう。その自暴自棄な様子をじっと見つめる男。男は延辺一帯と韓国の密入国ルートを掌握するギャング団のボスであるミョン(キム・ユンソク)だ。ミョンはグナムにある仕事を持ちかける。それは、韓国に密入国してキム・スンヒョンなる人物を殺し、殺害の証としてその親指を持ち帰るという請負殺人だった。悩んだ末に仕事を受けるグナム。ターゲットの所在を確かめ、綿密な計画を立てて殺害に臨むグナムだったが、グナムが殺害を実行しようとしたその時、別の暗殺者がスンヒョンを殺してしまう。現場に居合わせたことから殺人容疑者として全国に指名手配されたグナムは、必死で韓国からの脱出を図るが……。 出演は前作『チェイサー』に引き続き、ハ・ジョンウとキム・ユンソク。『チェイサー』と同様に追うユンソクと追われるジョンウという構図と役割は一緒のままではあるが、視点を変えただけでここまで印象が変わるか!という目から鱗な映画になっているのだ。 ケンカは強いがやることなすことポンコツなダメ男グナムを演じるのはハ・ジョンウ。しかしこのグナムは殺人者として韓国に密入国してから思わぬ才能を開花させ、また追われる立場になってからは、追い詰められれば追い詰められるほど過剰なまでに火事場のクソ力を発揮する様に、観客はひたすらグナムを応援せざるを得ない心理状態になってく。寡黙なグナムのセリフは極限まで削られており、表情だけで訴えるハ・ジョンウの演技は見事である。 しかし本作で何よりも強烈なインパクトを与えるのは、キム・ユンソクが演じたミョン社長だ。初登場時は気のいいガハハオヤジのように見えるミョン社長だが、第3部では暴力の塊のようなその本性を露わに。韓国ヤクザの襲撃をたった一人で撃退し、部下を連れて韓国に乗り込んでからは縦横無尽な大殺戮ショーを繰り広げる。詳述は避けるが、クライマックス近くで(ありえない)ある武器で無双状態になる姿は観る者を唖然とさせる名シーンなので決して見逃さないように。触る者皆殺しまくるミョン社長は、『ノーカントリー』の暗殺者アントン・シガー(ハビエル・バルデム)のような、言ってみれば天災のような存在として描かれている。ミョン社長は全世界の映画史に残る最恐のヴィランと言って良いだろう。 他にも冷徹な韓国ヤクザのキム・テウォン、殺し屋ソンナム役のイ・チョルミンなど、すべての主要登場人物について、初登場時の印象や設定が映画の進行とともに少しずつ(あるいは突然ドラスティックに)変化していくというのもポイント。追う者が追われる者となり、強気が弱気になり、生きる意味を失っていた者が最後の生を振り絞って戦いに挑む。キャラクターの意思が映画の転換点で上手く活用されており、最初から最後まで変化の無いキャラクターは一人もいないのだ。こんな映画観たことが無い。 アクションシーンの多くは牛刀や出刃包丁、斧や鉈といった日常感溢れる、だからこそそれを使って襲われることの恐怖を身近に感じる武器を利用したもの。そしてハ・ジョンウをはじめとして登場人物が走る走る。この”逃走描写”も、ただ道路を走るだけでなく、ビルの上下への逃走、森の中の逃走、雪山の逃走、海での逃走……など書ききれないほどバラエティ豊かな”逃走描写”になっており、まったくビタ1ミリたりとも冗長感を感じることはないだろう。特にカーチェイスについては、『ブルース・ブラザース』や渡瀬恒彦の『狂った野獣』なみに大量のカークラッシュが準備されており、車が折り重なる絵面で興奮するカークラッシュマニアの諸兄も大満足するものであることを約束しよう。 140分という長い映画であり、所々に分かりづらい部分がある作品であるのは事実。しかしそれでも、新鋭ナ・ホンジンのユーモアを交えた緩急のある演出、俳優陣の熱のこもった演技合戦、二転三転する物語、疾走感溢れる逃走劇、怒涛のカーチェイス、そして凄惨なスプラッターシーンが高次元で融合した本作は、すべての映画ファンに捧ぐ大傑作なのである。公開中のナ・ホンジン監督の新作『哭声/コクソン』(こちらも大傑作!)を観る前に、是非ご覧頂きたい逸品だ。■ © 2010 WELLMADE STARM AND POPCORN FILM ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2017.05.03
今ハリウッドが最も注目する映画監督、ドゥニ・ヴィルヌーヴとその作品。最新作『メッセージ』に至る彼の映画とは。
※ヴィルヌーヴ監督の過去作のネタバレが含まれます。未見の方はご注意ください。 ドゥニ・ヴィルヌーヴが『メッセージ』という、変則的ではあれどポジティブなメッセージを持った映画を撮った。ただそれだけのことが大事件に思えるのが、ヴィルヌーヴという才気と野心に満ちた映画監督の作家性と言える。それほどまでにヴィルヌーヴは、強烈で、苛酷で、風変りな映画を作り続けてきたのだ。 『灼熱の魂』で自ら命を絶った母親の苛酷すぎる人生、『複製する男』の迷宮の如き精神世界、『プリズナーズ』でヒュー・ジャックマンが見せた狂気じみた暴走、『ボーダーライン』の法律などお構いなしの歪んだ正義。映画を観てスカッとしたい、ロマンチックな展開にキュンとしたい、腹を抱えて笑いたいなんて気持ちは鉄槌で粉々にされるのがオチだ。もちろんそんな目的でヴィルヌーヴ作品を選ぶ時点で、取り返しのつかない間違いを犯してしまっているわけだが。 とはいえ、ヴィルヌーヴを“わかっている”顔で語るのは危険極まりないことでもある。このカナダ人監督は、観客に解釈の余地を残すタイプの映画作家で、スト―リーを理解する上で重要な要素さえも韜晦のベールに包んでしまう。もはや“よくわからない”ことすらトレードマークになっているにも関わらず、最注目の気鋭監督としてハリウッドで受け入れられている現状は“奇跡”と呼んでいいだろう。 ではヴィルヌーヴの作品はなぜ、どこか観客を突き放したような印象を受けるのか。本人の発言を追ってみると「何度観ても考えさせられ、それでも答えがわからない『2001年宇宙の旅』が大好きだ」と言っていて、乱暴に言えば結論を提示しないオープンエンディングを好む監督ということになる。一方で「どんな題材でも観客に身近な物語として感じて欲しい」とも発言している。 過去作に当てはめてみると、精神的に極限まで追い詰められるような状況を描き、あなたにも起こることかも知れませんよと観客に物語への参加を促しつつ、「すべての答えは風の中さ」と嘯くような作風……いや、かなり歪曲しているのは承知の上ですが、当たらずとも遠からず、ではないだろうか。 もうひとつ、一般的な作劇と異なる要素として、ヴィルヌーヴの映画は主人公が一定しないケースが非常に多い。『灼熱の魂』の主人公は誰かと問われれば、2人の子供に遺書を残した母親と、その遺言によって見知らぬ兄と父を探す旅に出る子供たち、ということになる。しかし物語が終わってみると、冒頭にだけ登場した小さな刺青のある少年こそが、誰よりも重要な人物だったとわかる。 『プリズナーズ』の主人公はヒュー・ジャックマン扮する、娘を誘拐された父親だ。父親は釈放された容疑者の青年を拉致監禁して、娘の居場所を聞き出そうと苛酷な拷問にかける。しかしこの事件は、娘を想うがゆえの常軌を逸した暴力とは別のところで、別の刑事がひょっこり解決してしまう。 『プリズナーズ』はジャンルとしてミステリーの形式を取っていて、『灼熱の魂』は精神的な意味でのミステリーだ。そしてどちらの映画も、複雑に絡み合った糸を解きほぐし、ひとつの筋道にたどり着く類の作品ではない。ヴィルヌーヴの映画に明快な解はない。観終わった時に「これって誰の物語だったのだろう?」と思考を促され、検証すればするほど語られていない物の大きさに愕然とするのである。 『複製された男』は、同じ流れにありながらとんでもない変化球だ。ある大学講師が自分と瓜二つの見た目の役者が存在していることを知り、興味を持って接触しようとする。しかし役者の方が性質の悪い男で、大学講師は美しい恋人を差し出すように脅迫を受けるのだ。 単純化を試みると、『複製された男』は物語自体が「妻(もしくは恋人)には文句ないけど浮気もしてみたい!」という分裂した気持ちのメタファーである。ミもフタもない言い方だが、2人の男は分裂したひとつの人格で、劇中で描かれるストーリーは男の精神世界か妄想ということになる。われわれは見たものすべてを疑ってかからなくてはならない類の作品なのだ。 そしてやっかいなことに、随所に挿入される空撮の目線が誰なのかがよくわからない。神、と言ってしまうのは短絡的すぎる。原作小説に登場する3人目の自分なのかも知れないが、とにかくこの痴話じみた葛藤の物語を、まったく第三者の目線から見下ろしている何者かがいる。ここでも「じゃあこれは誰の物語か?」という疑問が頭をもたげてくるのだ。 前作『ボーダーライン』でヴィルヌーヴと主演のベニチオ・デル・トロは、デル・トロが演じたアレハンドロという男のセリフを9割がた削除した。このアレハンドロこそが原題でもある「SICARIO」であることが終盤で明らかになるのだが、物語の形式上の主人公はエイミー・ブラント扮するFBI捜査官ケイトであり、アレハンドロは登場する分量も少なければ、セリフに至ってはほんのわずか。しかし最も尺を割いているケイトは最後まで傍観者以上の役割を与えられない異様さが、作品のテーマにも繋がってくる仕掛けだ。 ヴィルヌーヴはアレハンドロをまるで脇役であるかのように描写し、クラマイックスで一気に主役交代を成し遂げる。得意の主人公のかく乱だ。ちなみにアレハンドロが愛する妻と娘を亡くしているという設定は実は序盤で示唆されている。メキシコの街フアレスで、車に乗っているアレハンドロの顔から町の壁に貼られている「行方不明者」の張り紙にフォーカスが移動する。共演者のジェフリー・ドノヴァンによると、その行方不明者こそがアレハンドロの妻なのだという。 この伏線に気づく観客はほとんどいないだろうし、気づくにしても2度目以上の鑑賞でなければ不可能に近い。そして気づいたとしても、アレハンドロは貼り紙に一瞥もくれていない。視界の端に入っていて、表情を押し殺して苦悶に耐えているのだ、と想像することはできるが、これも想像でしかない。こういう小さな要素を繋ぎ合わせ、自分なりの答えを探り当てることがヴィルヌーヴ作品の鑑賞法なのである。 そんなヴィルヌーヴが「ダークな作品が続いてさすがに疲れた」と言って撮った『メッセージ』も、素直にハッピーな映画などではない。謎の宇宙船が地球に現れ、未知の地球外生物の言葉を解析しようとする言語学者の物語であると同時に、大切な人を亡くした喪失感にまつわるとてもパーソナルなヒューマンドラマでもある。ただし自分の感情に折り合いをつける方法が「宇宙人の言語体系を通じて既成概念を転換させる」ことなので、やはりゴリゴリの知的SFと呼ぶべきかも知れない。 『メッセージ』の主人公は明確にヒロインのルイーズであり、珍しく単独主人公の作品になっている。が、敢えて言うとこの映画の主人公は「言語」と「概念」である。ついに人間だけでなく概念が主人公になってしまった。この概念と『スローターハウス5』との相似は映画ファンには気にならずにはいられないところだが、ヴィルヌーヴは筆者とのインタビューで「その映画は知らない」と明言したし、原作者のテッド・チャンは小説を執筆してから『スローターハウス5』を知ったというから、偶然の一致以上の答えが出ないのはいささか残念ではある。 そしてヴィルヌーヴの次回作はかの『ブレードランナー』の続編、『ブレードランナー2049』。『ラ・ラ・ランド』のライアン・ゴズリングが主演を務めるだけでなく、前作からデッカード役のハリソン・フォードも再登場する。つい短絡的に「また主人公が複数いる!」と飛びつきそうになるが、そこはヴィルヌーヴ。こちらの予想など鼻で笑うような斜め上をいく怪作に仕上がることを期待したい。■ 『メッセージ』5月19日(金)TOHOシネマズ六本木ヒルズほか全国ロードショー配給:ソニー・ピクチャーズ
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NEWS/ニュース2017.04.28
ザ・シネマ presents 特別イベント『全身映画人・古澤利夫の映画人100人斬り』開催いたします!!
その名も『全身映画人・古澤利夫の映画人100人斬り』 お迎えするのは元20世紀FOX映画の宣伝部長を務めた伝説の映画人・古澤利夫氏。 「映画の仕事は常に人ありき」。 そう語る氏は、約800本に渡る映画の宣伝/興行/製作を手掛け、現在も映画の未来のために精力的な活動を続ける、まさに「映画人生」を爆走し続けた男。長きに渡る映画人生の中で出会ってきた数々の映画人達。 ルーカス、キャメロン、黒澤明、ハリソンフォード、マコーレカルキン、角川春樹…。 監督、俳優、女優、スタッフ、興行主、裏方などなど、その数厳選して100名の人々との、どんな映画史にも載っていない、エピソードを緊急放談! 今だからコッソリ話す事の出来る裏話に思い出、ハチャメチャなエピソードの数々、そして映画に対する情熱。 今の現役で活躍する全ての映画人、映画好きに聞いてほしい、古澤利夫が駆け抜けた映画人生を公開します。 <キャスト>メイン:古澤利夫MC/アシスタント:ザ・シネマ編成部<詳細>日時:2017年6月8日(木)18:00 OPEN/19:00 START場所:LOFT9 Shibuya(渋谷・円山町のトークライブハウス)
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COLUMN/コラム2017.04.26
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年5月】キャロル
冒頭からキャメロン・ディアスの全裸が出てきて、かなり期待できる!・・・と思いきや、肝心のSEX自撮り撮影するシーンになると、あれ?あれあれあれ?!コトが始まる直前で、アッという間に翌朝の疲れ果てたシーンに切り替わってしまったではありませんか。・・・まだ何もヤッてないのに!そのシーンだけを楽しみに映画観てたのに!! (とまあ取り乱したものの、気を取り直して)主演のキャメロンは昔に比べて「老けたな~」と感じるものの、やっぱり明るいテンションと最強のスマイルは健在。やっぱりキャミーはかわいい!共演のジェイソン・シーゲルとも相性抜群で、二人の仲睦まじさは見ていて清々しい気さえしてきます。さらに特筆すべきはこの人、ロブ・ロウ!キャミーの上司役で出演しているのですが、この映画、どこか身に覚えのあるストーリーだったんじゃなかろうか(この方もかつて自撮りテープが流出する大失敗を経験している)。出演しているだけでギャグになるという、最高にオイシイ役どころは必見です。 ちなみに、最後の最後で、期待以上のオモシロSEX映像がちゃーんと入っていました(あ~、最後まで観てヨカッタ!)。私ったら恥ずかしげもなく社内のデスクで堂々と試写してしまったけれど、今思うと隣の席の男性上司&先輩的には大分迷惑だったかも。今更ですが、ごめんなさ~い! それにしても、あんだけ素っ裸なのにキャミーのニップルは一切見えないというのが不思議。撮影・編集マンの苦労を考えると脱帽です。ドタバタエロコメディですが、途中でグッとくる素敵なメッセージが込められていたりして、とにかく期待は裏切りません。5月のプラチナ・シネマでどうぞお楽しみに~!■ © 2014 Columbia Pictures Industries, Inc., LSC Film Corporation and MRC II Distribution Company L.P. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2017.04.20
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年5月】飯森盛良
ソダーバーグによる伝染病パニック映画だが、この“新型インフルのパンデミックで人が死にまくり社会が麻痺して文明社会が一時停止状態におちいる”は、いずれ確実に起きる! 国立感染症研究所のHPには「どの程度可能性があるか、それがいつくるかは、誰にもわからないというのが事実です。しかしながら、インフルエンザ専門家の間では、『いつ来るかはわからないが、いつかは必ず来る』というのが定説」とある。厚労省はHPで死亡者「17万人から64万人」との試算を公表しているが…ただし! 09年1月2日付け産経新聞は「政府(筆者注:麻生政権)は、死者数の見込みを現在の『最大64万人』から上方修正するなど、より厳しい被害想定を立てる方針を固めた。他の先進諸国に比べ、死者数や感染率の見積もりが低すぎるという指摘が専門家らから強く出されたことが理由となった」と報じている。なお、厚労省は自治体に向けて「埋火葬の円滑な実施に関するガイドライン」を策定しており、その中では「感染が拡大し、全国的に流行した場合には、死亡者の数が火葬場の火葬能力を超える事態が起こり」と想定。「火葬の実施までに長期間を要し、公衆衛生上の問題(筆者注:死体山積み野ざらし腐敗)が生じるおそれが高まった場合には、都道府県は、新型インフルエンザに感染した遺体に十分な消毒等を行った上で墓地に埋葬(筆者注:土葬)することを認めることについても考慮するものとする。その際、近隣に埋葬可能な墓地がない場合には、転用しても支障がないと認められる公共用地等を臨時の公営墓地とし」との指針まで示している。一方、農水省は、我々国民に向けて「新型インフルエンザに備えた家庭用食料品備蓄ガイド」を配布しており、その中では「電気、ガス、水道の供給が停止した場合への備えについて」なんて章まで設けている…ヤバい!これはマジでヤバいぞ!! 全国民、この映画を心して見て、もっと本気で怖がって、各自がXデーに備えるべき!!!■ © Warner Bros. Entertainment Inc.