COLUMN & NEWS
コラム・ニュース一覧
-
NEWS/ニュース2017.01.20
1月27日(金)公開最新作『スノーデン』。オリバー・ストーン監督来日記者会見レポート!
3年半ぶりの来日となるオリバー・ストーン監督のジャーナリスト精神に溢れ、この世界をより良いものにしたいという強い思いを感じる記者会見の模様を、(ほぼ)全文レポートさせて頂きます!監督の「スノーデン」という人物に対する深いリスペクトも感じる熱い会見となりました。 日時:2017年1月18日(水)会場:ザ・リッツ・カールトン東京司会:有村昆さん(以下:司会)通訳:大倉美子さん 司会:さてこれより1月27日の公開に先駆けまして、本作のプロモーションの為に来日中のオリバー・ストーン監督をお招きし、記者会見を行わせて頂きます。それでは皆様大きな拍手でお迎えください。オリバー・ストーン監督です。通訳は大倉美子さんです。よろしくお願い致します。 まずは、オリバー・ストーン監督からみなさんにご挨拶を頂戴したいと思います。 監督:今日は皆様、お集まり頂きありがとうございます。興味を持っていらして下さったと思うので、感謝しています。映画をご覧になった方は楽しんで頂けたら良かったのですが、そうでない場合はちょっとどう答えていいかわかりません。(笑) 今回、映画を携えての来日になりますので、なるべく映画の話し、あまり政治の話しにならない様になればいいなと思っていますが、基本的にはなんでもお答えしたいと思っております。どうぞよろしくお願い致します。 司会:ありがとうございます。それではまず私の方から代表して質問をさせて頂ければと思います。2013年に広島に1度訪れてらっしゃると思いますが、3年半ぶりの今回の来日、日本はいかがでしょうか? 監督:3年ぶりに訪れたという事ですが、変わっているかどうかはわかりません!だってこのホテルに詰め込まれてずっと取材だらけですから、過労死(カロウシと日本語で)状態です。日本にくるたびそうです! 司会:まさか、初めに出てきた日本語が「過労死」というのは驚きですね!それほど過密スケジュールとうい事ですが… 監督の過去作、『プラトーン』、『7月4日に生まれて』など、監督ご自身もベトナム戦争を体験されてそれを映画化されたり、アメリカ大統領を題材にされた『JFK』、『ニクソン』、『ブッシュ』などアメリカの国家そのものを描かれていると思うのですが、今回最新作では何故スノーデンをテーマにしようと思ったのかお聞かせください。 監督:まず僕自身、他のテーマにも興味がありますが、自分の時代(自分の生きた時代)に非常に興味を持って映画作りをしてきました。『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』というシリーズを手掛けまして、そのプロモーションのために、最後に来日したわけですけれども、そのシリーズの中で、1890年から2013年の自国の歴史を扱ってきました。2013年というのはもちろん、オバマ大統領がリーダーとして監視社会を引っ張っている、その色合いを強めていた時代でした。その1月にこのシリーズをリリースし、その後、6月にエドワード・スノーデンが突然、あの様な形で告発を行ったわけです。 我々は『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』の10章目で「監視社会」というテーマを扱っており、まさにテーマ通り「そうなのだ」と感じさせられたニュースが世界中の耳に届く事になりました。 驚いたことに、たまたま縁があって彼の物語を映画化することになりましたが、僕自身、スノーデンの告発に対しては素晴らしいと、拍手喝采しておりました。が、映画にしようという興味は全くなかったんです。 もともと作家として、ニュースを追いかけようというスタンスはありません。なぜならニュースというのはどんどん内容が変わっていくものですし、映画製作というのは時間がかかるものだからです。ただ、偶々、2014年の1月に、スノーデン氏の人権派弁護士の方から連絡を頂き、モスクワの彼に会いに来てくれないかと誘われ、2年間で9回に渡って彼に会う機会がありました。その中で、スノーデンの視点から語られる、彼の物語を映画にしよう、という気持ちにだんだんなっていった、というわけです。 司会:ここからマスコミの方からの質疑応答にうつらせていただこうと思います。 IWJ岩上安身編集長:3年半前に来日された時に、監督にお話しを伺った事があります。このスノーデンという作品には、日本に関わる重要なくだりがあります。スノーデンが横田基地に居た時の事を回想するシーンなんですが、アメリカの機関が日本に対する監視を実行し、日本の通信システムの次には、インフラも乗っ取り、ひそかにマルウェアを送電網やダムや病院にもしかけている。もし日本が同盟国でなくなった日には、日本は終わりだ、と証言するくだりがあります。 大変ショッキングで、スノーデンの告発は事実に基づいていると思います。このスノーデンの告白の後、監督は日本列島から電気が全部消えていくシーンを挿入されていますが、もしこのマルウェアがあらゆるインフラに仕掛けられ、そして作動すると日本のインフラの電源が失わることになります。もしこれが原発にしかけられていた場合、全電源喪失が行われる、ということも意味します。 このスノーデンの告発というのは、どの程度事実なのでしょうか?また、映画にするために非常に短くされたと思いますが、彼からどの様な事を聞いていますでしょうか? これこそは同盟国でなくなった途端、サイバー攻撃を仕掛けるという米国からの脅しと、我々日本国民としては思うわけですが、事実か事実でないか、もちろん事実でないということはないと思いますが、どの程度事実なのか教えて頂ければと思います。 監督:今この部屋の中で、目覚めていらっしゃっている方がいる事を嬉しく思います。今まで、アメリカ、ヨーロッパでこの話しをいろいろしてきたのですが、こういう聞き方をしてくださった方は初めてです。しっかりと目をひらいてらっしゃる方がいて、とても嬉しく思います。 さきほど申し上げた様に、自分がこう思う、ということは(映画の中には)一切いれておりません。すべてスノーデンが自分に語ってくれた内容を映画化させてもらったということを申し上げさせてください。実際製作中に、NSAと全く話すことはできませんでした。唯一話せたのは(NSAの)PR局で、パンフレットを渡され、それでおしまいでした。 そんな中、映画を作ったわけですが、もし彼が言っている事が間違いであるならば、ぼく自身の経験値、そして今までの自分の心で感じた部分から言うと、彼は最も世界で素晴らしい役者だと言える、つまり、僕は彼が言っていることは全て真実だと考えています。そして、もちろん彼が僕らに話せなかった事というものもあります。それは起訴につながってしまう様な事、そういった部分は映画にしていません。ドキュメンタリーではなく、ドラマ化している作品ですので、話せない内容に呼応する様なパラレルな出来事、という描き方をしています。 そして横田基地にいた2010年くらいの話しに戻りますが、彼自身から僕が聞いたのは、アメリカが日本中を監視したいと日本の諜報機関に申し出ましたが、日本側が「それは違法であるし、倫理的にもいかがなものか」ということで拒否した。しかし構わず監視をした。そしてご指摘があった様に、同盟国でなくなった途端にインフラをすべて落とすことができる様に、民間のインフラにマルウェアを仕込んである、という風なことです。 言及されていました核施設に関しては、彼自身の言葉で僕は聞いていないのですが、僕自身の勝手な考えでは、きっと核施設に関してはまた違った形(の監視体制)をとったのではないかなぁ、と思います。 スノーデンが言っていたのですが、日本のみならず、メキシコ、ブラジル、オーストリア、これは定かではありませんが、イギリスもと、言ってた気がします。その国々も、同じ様なことがされている。これはいわばサイバー戦争ですよね。 しかもそれがすでに仕掛けられていて、そもそもの発端は2007年から2008年頃から、イランにマルウェアを仕込んだ事から始まります。2010年くらいにこれが成功し、イランのいくつかの核施設にウィルスを送り込む事に成功しました。ですがその数か月後にはあのウィルスがそこから中東に、そして世界へと広がっていきました。 当時の諜報機関のトップの方にいた、マイケル・ヘーデン氏がこの事を公言してしまったんですね。「イランという敵をこういう形でやり込める事が出来て良かった」という様な趣旨の事をちょっとにやにやしながら。この時のウィルスは、スタックスネット(stuxnet)というウィルスなのですが、イスラエルとアメリカがイランに仕掛けたものです。非常に醜い物語です。 そしてこのウィルスが発端となって、世界中が「ウィルス攻撃できるんだ」と、サイバー戦争というものが始まっていった。そもそも戦線布告なしに、イランに(ウィルスを)仕掛けたことがサイバー戦争に突入した行為と同義だと、これはすごい事だと思っています。 今、フェイクニュース(偽のニュース)が沢山、特にサイバー関係では流れてきます。特にアメリカから発信されるニュースというのは、皆さんも少し疑いの気持ちをもって見て頂きたいんですね。サイバー戦争に関して言えば、アメリカがリーダーなわけですから。大きなプログラムを持っているのもアメリカです。当然そこから出てくる、ロシア関係がどうだの、攻撃されただの、もちろん証拠があるものもありますが(中国の民間企業への監視など)ほとんどのものには証拠がなく、勝手に出て来ているニュースです。 そういったすべての事に、スノーデンは我々が注目するきっかけを作ってくれました。しかし、サイバー戦争の実態というのは表面しか判っていません。これは新しい戦争ですし、僕にとっては1945年に原子爆弾が日本に落とされた事も、また新しい戦争の始まりだったといます。「サイバー戦争」は新しい戦争の形であり、それはすでに始まっています。それが、この映画に描かれている、世界に対する監視システムの体制というものと共に、確かに存在することを知って頂きたいのです。 そしてもう1つだけ。法的な定義を鑑みても、今行われているサイバー攻撃的なものは、戦争行為だと思います。先ほど同盟国のことに関して質問して頂きましたが、アメリカにとって日本は同盟国ではありません。人質になっている、いう風に僕は考えています。もし日本が、中国でもいいですし、他の経済圏と協力関係を持とうとし、そしてこの同盟関係から離れようとした場合、脅迫されたり、この(仕込まれた)マルウェアなどが人質になる、そういう非常にシリアスな問題だと受け止めて頂きたいのです。 僕が見たいのは、一人でも多くの日本のジャーナリストが防衛相に行って「これは本当なのか?」と聞いて頂くこと。(笑みを浮かべながら)どう答えられるかはわかりません。もしかしたら「知らない」と否定するかもしれません。 もちろんアメリカの場合、NSAは否定します。スノーデン自体を「大したランクの人間ではなかったと」と言って、問題を小さくしようとしている事からもわかります。しかし彼は、これだけの膨大な情報を我々に提供しているわけですから、そんなことはないわけです。 これは日本だけではなく、マルウェアが仕込まれてると言われている全ての国、例えばメキシコ、ブラジル政府に対して、(ジャーナリストたちが)意見を求めるという事を、僕は見たいと望んでいます。ですが、アメリカでは一切ジャーナリストからこういった質問が出なかったことに、むしろ驚いています。こういった問題に対するアカウンタビリティー(説明責任)が一切ないということが、世界の大きな問題の1つだと思います。 司会:とういことで、サイバー戦争はすでに水面下で行われているとうい事実を語っていただきました。 スターチャンネル・加藤氏:主演のジョゼフ・ゴードン=レヴィットはとてもハマリ役だと思いました。なぜ彼を選んだのでしょうか?ちなみに彼が出演を決めた理由は、監督があなた(ストーン監督)だからだそうです。 監督:2014年にスノーデン氏に会って、実はすぐにジョセフには連絡をしました。まだ脚本もない段階で「興味があるか?」と聞いたら、「すごく興味がある」と答えてくれました。モスクワにも連れて行って、実際にスノーデン氏に会ってももらいました。二人は同世代なんです。そしてジョセフはスノーデンに対して非常に敬服しているところがありました。スノーデンの動き、物腰、全て模倣する様な、そういった演技になっていたと思います。 この『スノーデン』という映画では、典型的な「オリバー・ストーン・ヒーロー」を描いていないよね、ということで批判も受けたんです。いわゆる、行動を起こす、アクティブな主人公が今まで多かったせいなのかもしれません。対してスノーデンは非常に受け身なところがありますし、物静かで非外交的、どちらかというと一歩引いた、口数が少ない方なんです。 そしてシャイリーン・ウッドリー演じるリンゼイさんですが、むしろ彼女の方が積極的に行動を起こすタイプです。なのでスノーデンはこの関係性においても非常に抑圧されているのかなというのが僕の印象でした。ですが、お互いに違うところを持っているからこそ惹かれ合い、特にずっと人を監視しなければならないという機関で仕事をしている方というのは、どんどん人間性が失われていくと僕は思うんですね。そんな中でもスノーデンが人間性を保つことができたのは、彼女の存在が大きいと思いました。 司会:ジョゼフ・ゴードン=レヴィットさんに対して、監督は演技指導はされたんでしょうか? 監督:ジョセフは非常に自分自身を律することができるタイプの役者さんです。ですから、自分で決めて演技をすることが出来ますし、非常に頑固なところもあります(笑)。 僕自身は役者との関係はいつも「ギブアンドテイク」そして「トライアルアンドエラー」といった感じで、戦いつつ、そこから何かが生まれてくる、という感じなんです。 今回の彼の演技は大絶賛をされましたし、非常に説得力があるものだったと思います。けれども派手さがそんなにないのは、ご本人のエドワードが自分のことを「インドア・キャット(室内猫)」とおっしゃっていることからもわかる様に、なんと一日の75%を、夜間、コンピューターの前で過ごしてらっしゃる。日本で言うとちょっと引きこもりに近いコンピューターオタク、でもあるからなんですね。 しかし、そんなスノーデンは、この監視社会に対する警鐘を止めてはいけないと、ロボットだったり、テレカンファレンス(遠隔会議)だったり、衛星電話を通じて、非常に饒舌に語り続けていますよね。 ENECT編集長・平井氏:重要な映画をありがとうございました。日本では、昨年4月に電力の自由化が実現しましたが、原発事故を起こした東電から電力を(購入を民間に)変えたのは、人口の5%以下という状況です。劇中、スノーデンの「僕は選択肢を市民に提示したかった」というセリフがあります。監視されるか、されないか、選択肢を委ねられた市民の反応はどんなものでしたか? 監督:そもそも「セキュリティー対プライバシー、あるいは自由」という等式が間違っている、と僕は考えているんですね。映画の中でも描いている大きな部分なのですが、それぞれの意識だったり、魂といったものをきちんと持つ事が重要で、それを大きな、例えば主役的な国家などに明け渡してはいけない、ということです。例えばNSAの様な存在に。ですから「選択肢を委ねられた~」という形で質問して下さいましたが、それは間違ったものであって、だってアメリカ自体はアメリカ国民に安全を与える事なんでできないんです。 今までもたくさんの失敗をしてきました。例えば、一番顕著なのが9.11です。 NSAはテロリストを把握していました。イエメンにあるセーフハウスも把握していました。また、通信も傍受していました。CIAもFBIもそれぞれ同様に情報を持っていました。そしてサンディエゴにテロリスト達が到着した時には、FBIがそのことを把握していながら、他の機関に連絡しなかったり、あるいはパイロットの訓練というのがアメリカ中で行われていましたけれども、CIAはそれを把握していて上にあげ、ワシントンにも伝えられていたのですが、官僚主義の穴に落ちてしまい、それがちゃんと他の機関に伝わる事がなかった。失敗という意味ではイラク戦争もそうです。大量の殺戮兵器があるという「情報」で動いたというのは周知の事実です。 もっと歴史を紐解けば、ケネディ大統領のピッグス湾の事件もそうです。また、ベトナム戦争も最初から最後までCIAが作り上げた情報によるものでした。諜報機関から間違った情報しか与え続けられていないにも関わらず、アメリカ国民は、未だにその諜報機関というものをすごく大切なものだと思っていて、最近で言うと、ロシアにハッキングされたという様な事を諜報機関が言っていますけれども、証拠が一切ないわけなんですね。これはアメリカに限らずですが、世界の諜報機関がちょっと政治的になりかけてしまっている。そんな風に思います。 ですから9.11の後、アメリカは何十億ドルも費やして、安全のための機関というのを増やしました。けれども安全性はより低くなってると思いますし、よりカオスが強まってきていると思います。ですからさっき申し上げた様に、セキュリティとフリーダム、安全と自由という等式というのがそもそも間違っている。だってそもそも与えられない様なものなのだから。しかし、セキュリティは正しい形で用いれば、(監視システムというものも)効果的だとも考えています。これはスノーデンの映画の中にも何度も登場しますし、彼も言っていることです。ターゲットを選択した方法での監視システムというのは有効だと思います。きちんとした疑いを持つ相手だけを監視し、ネットワークに目を光らせるという形。先ほどのターゲットを決めた監視体制(ターゲティッド・サベーランス)に対して、アメリカは、マスに向けた監視体制(マス・サーベランス)を行っているわけなんです。これは全員に対する監視システムだと考えて頂いて構いません。非常に巨大なものになりますが、今のテクノロジーでは可能です。しかしそのことによって、モンスターの様な国になっていきますし、悪夢の様な世界が生まれています。 これはすなわち、個人、企業、機関、銀行、世界中全ての情報がアメリカによって掌握されている、という事に他ならないわけです。何故かというと、こういったサイバー戦争において、アメリカが一番大きなシステムを持っていて、一番大きなお金を費やしているからです。当然一番多くの情報を手にしているわけです。これは非常に危険な事だと思います。個人のみならず、企業、国までも変えることができる。そういう力を持っているからです。そういった意味でも、国家を不安定にさせ、政権を変えさせるという様なことは、クリントン、オバマ政権下でも行われていました。 最近で言えば、ブラジルでのクーデター。あれも僕からすれば全くの作り事だと思います。様々な介入によって左派候補をつぶしてしまった。またブラジルに関して言えばアメリカは、長年に渡ってテトログラスという会社をずっと監視し続けています。また、ルセフ大統領の事ももちろん監視し続けてのあの結果であります。「ここまで」というリミットがない状況なんですね。ウクライナ、イラク、そしてリビアでは成功、シリアでは不成功でしたけれども、他の国においても、政権の交代をいろんな形で図ろうというアメリカがいます。そのことにより中東はよりカオスの状態に追い込まれ、アメリカがすべてをコントロールしようとするこの動きは、止められていない状況です。 また、ロシアにおける政権交代というのをアメリカは長年望んで、図ってはいますけれども、まだ叶ってはいません。こういう状況は非常に危険だと思います。 それに対してアメリカの言うことなんて聞かないよ、と言っているのが、例えば中国であったりロシアであったり、イランだったりするわけなんですが、アメリカはしかし「帝国」状態なわけです。しかしその独裁的な帝国というのは、カオスを産むだけ。世界をより危険なものにするだけです。このままではいけない、と僕は考えています。 昔、20世紀のヨーロッパの警察の活動を見るだけでも、きちんとテロ対策はできているわけですよ。ですから、非常に男性的な「アメリカン・マッチョ」みたいなやり方、例えば、他の国に軍隊を送り込めばいいんだ!という様な考えは間違っている、他のやり方があるのではないか、と考えています。 そして、最後になるかもしれませんが、この『スノーデン』という映画はアメリカ資本が一切入っていません。フランス、ドイツなど、スノーデンを非常にリスペクトして下さっている国からの出資で作られています。もちろん、アメリカのメジャースタジオさんにもお話しはしましたが、全て断られています。理由はわかりません。おそらく僕が思うに、自分達で自己検閲したか、または恐怖心を感じた、そいういうことだったのかもしれません。 アメリカでの配給も小さな配給会社Open Road Filmsさんが配給して下さることになりました。製作する事も、いろいろな国でお見せすることも大変困難な作品になってはいるんですが、日本ではショーゲートさんが配給して下さるということで非常に感謝しておりますし、日本の方にもぜひ観て頂き、この問題の巨大さ、複雑さをぜひ考えてみて頂きたいと考えています。 司会:多くの方にご覧頂きたい1本です! ※フォトセッション終了後、監督退場 司会:Thank you very much! ありがとうございました!オリバー・ストーン監督でした!今一度、大きな拍手をお送りくださいませ!『スノーデン』は、1月27日(金)からTOHOシネマズ、みゆき座他にて全国ロードショーとなります。<終了> ■ ■ ■ ■ ■ 監督:オリバー・ストーン 脚本:オリバー・ストーン、キーラン・フィッツジェラルド 原作:「スノーデンファイル 地球上で最も追われている男の真実」著 ルーク・ハーディング (日経BP社)出演:ジョセフ・ゴードン=レヴィット、シャイリーン・ウッドリー、メリッサ・レオ、ザカリー・クイント、トム・ウィルキンソン、リス・エヴァンス、ニコラス・ケイジ 2016年/アメリカ・ドイツ・フランス/原題:SNOWDEN 配給:ショウゲート 公式HP:www.snowden-movie.jp ©2016 SACHA, INC. ALL RIGHTS RESERVED.
-
COLUMN/コラム2017.01.14
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年2月】飯森盛良
シン・シティ1&2は短編集みたいな映画で、それぞれのエピソードはユルくつながってる。けど、時系列が映画も、原作コミックでさえもメチャクチャで、わかりづらい。そこで、時系列順で見るならこうだ!という懇切丁寧なガイドをここに発表! まず①1のブルース・ウィリス主役のエピソード前後編をセットで ↓②2のアバンタイトル、ミッキー・ロークがホームレス狩りしてる調子コイてる大学生どもをシバくくだり ↓③2のエヴァ・グリーンがファム・ファタル無双のノワールなお話 ↓④2のジョゼフ・ゴードン=レヴィット主役の前後編セット ↓⑤2ラストの、逆襲のジェシカ・アルバ ↓⑥1のミッキー・ロークが一発ヤラせてくれたマブい女の仇を討つお話 ↓⑦1のクライヴ・オーウェン主役エピソード と、いう順番なんです実は。これでもう安心ですね?2本丸ごと録画して、ぜひ2度目はこの順番で再生してみてください。当方で編集してこう流すと著作権侵害で訴えられそうなのでゴメン無理! ©2014 Maddartico Limited. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2017.01.14
1/27(金)公開『スノーデン』。アメリカを激怒させたエドワード・スノーデンとは何者なのか?史上最大の内部告発を行った若者の実像に迫る社会派サスペンス
もはやエドワード・スノーデンの名前を聞いたことのない人は、ほとんどいないだろう。2013年6月にアメリカ政府による国際的な監視プログラムの存在を暴露した元NSA(米国国家安全保障局)職員。NSAやCIAが対テロ捜査の名のもとに、同盟国の要人や自国の一般市民を含むあらゆるケータイの通話、メール、SNSなどの情報を違法に大量収集していた実態を、世界中に知らしめた張本人だ。 この“史上最大の内部告発”とも呼ばれる大事件においてもうひとつ特筆すべき点は、“ミスターX”のような匿名で行われる通常のケースとは違い、本人の強い希望により顔出し付きの実名で堂々と告発が行われたことだ。メガネをかけた青白い顔、ひょろっとした体型。それに何より見た目の若さ、普通っぽさに驚かされる。スパイ映画を見慣れた者にとっては、この手の重大な機密情報を握るキャラクターはいかにも老練で険しい顔つきのベテラン俳優が演じるのが常だからだ。 NSAとCIAで極秘機密へのアクセス権を与えられていたスノーデンは、さぞかし高給取りだっただろう。将来のさらなる出世を約束されていた若者は、なぜそれを捨てて告発に走ったのか。捨てたのはカネだけではない。こんな告発をすれば外国に無事亡命できたとしても、国際的なお尋ね者となって二度と祖国の地を踏めなくなってしまうことはわかりきっている。繰り返しになるが、アメリカ政府を敵に回した“事の重大さ”と、スノーデンの“見た目の若さ、普通っぽさ”とのギャップがとてつもなく大きな事件なのだ。 いささか前置きが長くなったが、『プラトーン』『JFK』『ワールド・トレード・センター』などでアメリカ現代史を描いてきたオリバー・ストーン監督の最新作『スノーデン』は、上記のさまざまな疑問や謎を解き明かしてくれる実録サスペンスである。すでにスノーデンに関してはアカデミー賞にも輝いた『シチズン・フォー/スノーデンの暴露』という極めて優れたドキュメンタリー映画が作られているが、そちらは2013年6月、香港の高級ホテルの一室を舞台に、スノーデンとジャーナリストによる“告発の始まり”を記録したもの。それに対して『スノーデン』は、告発を決意するに至るまでのスノーデンの約10年間の軌跡を描いている。いわゆる実話に基づいたフィクション=劇映画だ。若き実力派俳優のジョゼフ・ゴードン=レヴィットが入念な役作りを行い、スノーデンの外見はもちろん、仕種やしゃべり方までほぼ完全コピー。ルービックキューブを手にした彼が初めてスクリーンに姿を現すオープニングから、あまりの違和感のなさに逆にびっくりさせられ、一気に映画に引き込まれる。 先述した2013年6月、告発を決意したスノーデンが香港でジャーナリストと初めて会うシーンで幕を開ける物語は、そこから2004年へとさかのぼる。9.11同時多発テロ後のアメリカ社会に役立ちたいと考えていたスノーデンは、この年、大怪我を負って軍を除隊。2006年には持ち前のコンピュータの知識が生かせるCIAに合格するのだが、この頃に運命の女性リンゼイ・ミルズとめぐり合う。ふたりを結びつけたのは“Geek Mate Com.”なるオタクたちが集う交流サイト。劇中、ほんの数秒だけ映るサイトの画面には「『ゴースト・イン・ザ・シェル』が好き!」などというチャットのテキストが表示されている。スノーデンは日本のサブカル愛好家でもあるのだ。そんな国を愛し、シャイでオタク気質の青年と、リベラルな思想の持ち主で趣味がポールダンスという奔放なくらいアクティブなリンゼイは、性格も物の考え方も正反対だったが、その後のCIAやNSAにおけるスノーデンの転勤に合わせ、スイスや日本での海外生活を共にすることになる。 こうした“私”の部分のエピソードが観る者の親近感を誘う一方、“公”のスノーデンは政府による諜報活動のダークサイドを垣間見て、不安や疑念に駆られていく。自分が構築した画期的なコンピュータ・システムが、まったく意図せぬ一般人への大量情報収集プログラムに使われていたことを知らされたときの衝撃。守秘義務ゆえにリンゼイに相談することさえできず、その苦悩を内に溜め込んだスノーデンの危うい二重生活のバランスは激しく揺らぎ出す。さらに厳格なCIA上官からの脅迫めいたプレッシャーが追い打ちをかけ、映画はサイコロジカル・スリラー、すなわち異常心理劇の様相を呈していく。 ここで興味深いのは“極限の危機”に陥ったスノーデンにも、まだその悪夢のような状況から脱出しうるふたつの道が残されていたことだ。ひとつは情報機関を退職し、守秘義務に則りながら別世界で穏やかに生きること。もうひとつは国家や組織の論理に染まって、違法行為だろうと何だろうと仕事として受け入れること。スノーデンはどちらも選択しなかった。最も過酷で険しい3つめの道、“告発”へと突き進んでいったのだ。 およそ6:4の割合でスノーデンの公私両面の歩みをたどった本作は、極めて複雑怪奇な題材を取っつきやすく、わかりやすい社会派エンターテインメントとして見せていく。同時にスノーデンの“心の旅”を映画の中心軸にすえることで、現代のサイバー諜報活動の非情さや薄汚さと、それを黙って見過ごすことができなかったひとりのナイーヴな若者の高潔さとのコントラストを鮮やかに浮かび上がらせてみせた。 ちなみに本作の宣伝キャッチコピーは「世界を信じた、純粋な裏切り者」というものだが、ラスト・シーンにおけるスノーデンのスピーチを聞けば言い得て妙と感じるほかはない。たったひとりの普通の若者が、なぜアメリカを激怒させ、世界を震撼させるほどの告発を行ったのか。この文章の始めのほうにも記したそのギャップが埋まったとき、多くの観客がスノーデンが発する“純粋な”メッセージに心揺さぶられるに違いない。■ ©2016 SACHA, INC. ALL RIGHTS RESERVED.
-
COLUMN/コラム2017.01.10
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年2月】うず潮
ルイ・ペルゴーの小説「ボタン戦争」を原作にした1961年のフランス映画。インターネットもケータイもTVゲームもなかった頃のケンカを描く、子供抗争映画の名作。演技経験ゼロの子供たちが元気いっぱいに暴れまわる、フランス版「あばれはっちゃく」とも言える作品です。見ているうちに、自然と自分の子供時代に戻って、いつの間にか彼らの一員になっています。また、劇中の子供たちはフランス憲法を理解し、全てにおいて平等の精神で描かれているところも注目です。 「フニャチン」「〇〇はケツの穴」といった大人になって決して口にしなくなったことを叫び、全員まっ裸で戦ったり、秘密基地を作ったり、男子たるもの子供の頃、絶対にやりたかった、やっていたことを満載に描いた映画です。さらに映画の中では、両津勘吉バリに子供たちだけで商売をはじめ、軍資金をつくって必要な備品を揃える始末(逞しすぎ!)。そして色々見つかって、当然、親たちにめっちゃ怒られます(笑)。40歳以上の男子は是非見てほしい1本。見た後は、思わず竹馬の友に連絡したくなりますよ! 余談ですが、本作は1995年に『草原とボタン』のタイトルでリメイク。さらに、劇中で「来るんじゃなかった」が口癖の小さな男の子を演じたアントワーヌ・ラルチーグは、愛くるしい笑顔で本作公開後に人気者となり、彼が主演の映画『わんぱく旋風』が作られました。 © 1962 ZAZI FILMS.
-
COLUMN/コラム2017.01.09
飲んで食ってファックしてゲロ吐いて糞尿まき散らして死んでいく、ブルジョワたちの快楽自殺。エログロなブラックコメディ〜『最後の晩餐』〜01月11日(水)深夜ほか
フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』('60)とミケランジェロ・アントニオーニ監督の『情事』('59)が、'60年の第13回カンヌ国際映画祭でそれぞれパルムドールと審査員特別賞を獲得。黄金期を迎えた'60年代のイタリア映画界は、巨匠の芸術映画からハリウッドばりの娯楽映画まで本格的な量産体制に入り、文字通り百花繚乱の様相を呈した。 そうした中で、戦後イタリア映画の復興を支えたネオレアリスモの精神を、新たな形で高度経済成長の時代へと受け継ぐ新世代の社会派監督たちが台頭する。『テオレマ』('68)や『豚小屋』('69)のピエル・パオロ・パゾリーニ、『悪い奴ほど手が白い』('67)や『殺人捜査』('70)のエリオ・ペトリ、『アルジェの戦い』('66)のジッロ・ポンテコルヴォ、『ポケットの中の握り拳』('65)のマルコ・ベロッキオ、『殺し』('62)や『革命前夜』('64)のベルナルド・ベルトルッチなどなど。権力の腐敗や社会の不正に物申す彼らは、保守的なイタリア社会の伝統や良識に対しても積極的に嚙みついた。 中でもパゾリーニと並んで特に異彩を放ったのが、当初は『女王蜂』('63)や『歓びのテクニック』('65)といったセックス・コメディで注目された鬼才マルコ・フェレ―リだ。 美人で貞淑な理想の女性(マリナ・ヴラディ)を嫁に貰った中年男(ウーゴ・トニャッツィ)が、子供を欲しがる嫁や女の親戚たちにプレッシャーをかけられ、頑張ってセックスに励んだ末にポックリ死んじゃう『女王蜂』。 全身毛むくじゃらの女性(アニー・ジラルド)と結婚した男(ウーゴ・トニャッツィ)が、嫁を見世物にして客から金を取ったり、その処女を物好きな金持ちに売ったりして荒稼ぎした挙句、難産で死んだ後も彼女をミイラにして金を儲けるという『La donna scimma(類人猿女)』('64)。 イタリア映画お得意のセックス・コメディを装いながら、イタリア社会に蔓延る偽善や拝金主義、さらには家族制度や男尊女卑などの伝統的価値観を痛烈に皮肉りまくったフェレ―リ。 その後も、女王然とした女(キャロル・ベイカー)が愛人の男たちを足蹴にする『ハーレム』('68)や、逆に男(マルチェロ・マストロヤンニ)が女(カトリーヌ・ドヌーヴ)を犬扱いする『ひきしお』('70)、男尊女卑の男(ジェラール・ドパルデュー)が妻にも恋人にも見捨てられ最後は自分のペニスを切り落とす『L'ultima donna(最後の女)』('76)など、'60年代から'70年代にかけてエキセントリックかつ強烈な反骨映画を撮り続けたフェレーリだが、その最大の問題作にして代表作と呼べるのが、カンヌでも賛否両論を巻き起こした『最後の晩餐』('74)である。 あらすじを簡単にご紹介しよう。パリのとある大邸宅に4人の裕福な中年男たちが集まって来る。有名レストランの料理長ウーゴ(ウーゴ・トニャッツィ)、テレビ・ディレクターのミシェル(ミシェル・ピッコリ)、裁判官のフィリップ(フィリップ・ノワレ)、国際線機長のマルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)。美食家の彼らは大量の食料品を屋敷に運び込み、連日連夜に渡って豪華な晩餐会を開くことになる。その目的は、美食三昧の果てに死ぬこと。しかし、食欲だけでは飽き足らなくなった彼らは、たまたま屋敷を訪れた豊満な女教師アンドレア(アンドレア・フェレオル)と3人の娼婦たちを招き、やがて事態は美食とセックスと汚物にまみれた酒池肉林のグロテスクな宴へと変貌していく。 要するに、人生に悲観したブルジョワたちが快楽の果ての自殺を目論み、飲んで食ってファックしてゲロ吐いて糞尿まき散らして死んでいく姿を赤裸々に描いた、エログロなブラックコメディ。見る者の神経をあえて逆撫でして不愉快にさせるフェレーリ監督の、悪趣味全開な演出が圧倒的だ。今となって見れば性描写もグロ描写もさほど露骨な印象は受けないものの、'70年代当時としては相当にショッキングであったろうことは想像に難くない。 しかも主人公4人を演じるのは、いずれもイタリアとフランスを代表する一流の大御所スターばかり。そのネームバリューにつられて見に行った観客はビックリ仰天したはずだ。これが一部からは大変なブーイングを受けつつも、カンヌで審査員特別賞を受賞したというのは、やはり'70年代のリベラルな社会気運の賜物だったと言えるのかもしれない。 面白いのは、主人公たちが自殺をする理由というのが最後まで明確ではないという点だろう。とりあえず、ウーゴが女房の尻に敷かれて頭が上がらない、フィリップは女にモテず独身で年老いた乳母に性処理してもらっているっていうのは冒頭で描かれるが、それ以外の2人が抱えた事情については全く触れられていない。いずれにしても、恐らく取るに足らないような漠然とした理由であることが想像できる。そんな甘ったるいブルジョワ親父たちが、快楽の限りを尽くして死のうとするわけだ。全くもってバカバカしい話なのだが、その根底には行きつくところまで行きついた現代西欧文明の物質主義に対する大いなる皮肉が込められていると見ていいだろう。 そんな男たちの愚かで滑稽な最期を見届けるのが、プロレタリアートの女教師だというのがまた皮肉だ。しかも、これがフェリーニの映画に出てくるようなアクの強い巨体女。食欲も性欲も底なしの怪物で、終始男たちを圧倒する。それでいて、母性の塊のような優しさで男たちを包み込む。まるで庶民の強さ、女の強さを象徴するような存在だ。演じているアンドレア・フェレオルは、なんと当時まだ20代半ば。いやはや、その若くしての貫録には恐れ入るばかりだ。その後もフォルカー・シュレンドルフやリリアーナ・カヴァーニ、フランソワ・トリュフォーらの巨匠たちに愛され、ヨーロッパ映画を代表する怪女優として活躍していくことになる。ちなみに、舞台となる屋敷の管理人をしている老人を演じているのはアンリ・ピッコリ。そう、ミシェル・ピッコリの実父だ。 恐らくルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』('62)や『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』('72)にインスパイアされたものと思われる本作。マルコ・フェレ―リならではの社会批判や文明批判が、最も極端かつ過激な形で結実した希代の怪作と言えるだろう。その後の彼は酔いどれた詩人(ベン・ギャザラ)の苦悩と再生を描く『町でいちばんの美女/ありきたりな狂気の物語』('81)、自由奔放な母親(ハンナ・シグラ)とその娘(イザベル・ユペール)の複雑な愛憎を描く『ピエラ 愛の遍歴』('83)と、より内省的なテーマへと移行していく。日本ではあまり注目されることなく'97年に他界したフェレーリだが、もっと評価されてしかるべき孤高の映像作家だと思う。■ © 1973 Mara Films – Les Films 66 – Capitolina Produzzioni Cinematografiche ( logo EUROPACORP)
-
COLUMN/コラム2017.01.09
ラブ・アゲイン
平凡な日常に満足しきっていた44歳の中年サラリーマン、キャル・ウィーバー(スティーブ・カレル)に、突然人生の危機が訪れた。25年間連れ添った妻のエミリー(ジュリアン・ムーア)から離婚を切り出されたのだ。理由は彼女と職場の同僚デヴィッド(ケヴィン・ベーコン)の浮気。 ショックが冷めやらない中、家を出てひとり暮らしをすることになったキャルは、夜な夜なバーに繰り出すようになったものの、口から出るのは恨み言や泣き言ばかり。ドン底状態のそんな彼に、ある夜救いの手が差し伸べられた。「男らしさを取り戻す勇気を与えよう!」 言葉の主は、同じくバーの常連でありながら、毎晩異なる美女をお持ち帰りする若きプレイボーイ、ジェイコブ(ライアン・ゴズリング)だった。これまでエミリーとしか付き合ったことが無いキャルは尻込みしてしまうが、「彼女をもう一回振り向かるチャンスだ」と言われ、ジェイコブへの弟子入りを決意する。彼の厳しい指導のもとファッション・センスやトーク術を磨いたキャルは、努力が実ってイケてる中年プレイボーイへと変身を遂げるのだった。 しかしある日を境にジェイコブはバーに姿を見せないようになってしまう。彼は弁護士を目指す真面目女子のハンナ(エマ・ストーン)と真剣な恋に落ちていたのだ。そう、エミリーと出会った頃のキャルのように。 一方、キャルの13歳になる息子ロビー(ジョナ・ボボ)は、ベビーシッターとして家に訪れる17歳の女子高生ジェシカ(アナリー・ティプトン)に熱を上げていた。しかしジェシカには片思いの相手がいた。それは何とキャル。それぞれの恋はヒートアップしていき、ロビーと妹モリー(ジョーイ・キング)が企画したキャルとエミリーの仲直りパーティで大爆発するのだった……。 『ラブ・アゲイン』(11年)は原題『Crazy, Stupid, Love.』の通り、イカれてバカげた恋愛を描いた群像コメディだ。監督を務めたのはグレン・フィカーラとジョン・レクアのコンビ。もともと彼らは『キャッツ&ドッグス』(01年)、『バッド・サンタ』(03年)、リチャード・リンクレイター監督作『がんばれ!ベアーズ ニュー・シーズン』(05年)といったコメディの脚本を手がけてきたチームで、監督としてはジム・キャリーとユアン・マクレガーがカップルに扮して話題を呼んだ『フィリップ、きみを愛してる!』(09年)でデビューしたばかりだった。本作以降もウィル・スミス主演作『フォーカス』(15年)では脚本を兼務している。 本来は脚本家の二人が本作で監督に専念しているのは、脚本が彼らも唸るクオリティだからだ。脚本を手がけたのはダン・フォーゲルマンという人物なのだが、その彼のキャリアが凄い。脚本チームに参加したピクサー・アニメ『カーズ』(06年)であのジョン・ラセターに才能を認められ、再建期のディズニーアニメ『ボルト』(08年)、『塔の上のラプンツェル』(10年)の脚本を一手に引き受けていた才人なのだ。しかし大人向けのコメディを作りたいという欲望を抑えることができずに製作の予定もないまま影で執筆していたのが『ラブ・アゲイン』だったというわけだ。 本作の見どころは、四十代(キャルとエミリー)、二十代(ジェイコブとハンナ)、十代(ロビーとジェシカ)という異なる世代の恋愛が鮮やかに書き分けられる一方、それらが思いもかけぬ形で繋がっていることが終盤で明かされるトリッキーな展開にある。ヒントはそこかしこに転がっているので、未見の映画ファンは謎解きにチャレンジしてみるのも一興だろう。 ちなみにフィカーラとレクア、フォーゲルマンの3人は昨年テレビドラマ『This Is Us』(16年〜)でリユニオン(フォーゲルマンがクリエイター兼脚本、ほかの二人がプロデュース&監督)。本作同様、複数のカップルのドラマを平行して描いていたと思ったら、途中からそれぞれが暮らす時代が異なっていたことが明らかになる驚愕の展開で絶賛を巻き起こしている。こうしたトリッキーな仕掛けのルーツは『ラブ・アゲイン』にあるのだ。 本作の脚本執筆にあたって、フォーゲルマンは当初からキャル役をある俳優を想定して書いていたという。それがスティーブ・カレルである。カレルが当時出演していたテレビコメディ『ザ・オフィス』(05〜13年)で演じていた最低上司マイケルの<善人バージョン>こそキャルなのだ。『ザ・オフィス』そのままにダサかった彼が、洗練された男に大変身するところに本作の面白さがある。 対する妻メアリーを演じるのはジュリアン・ムーア。カレルより2つ年上の60年生まれなので、撮影時は五十代に突入していたはずなのだが、全くそうは見えない美魔女ぶり。キャル言うところの「セクシーとキュートが混じった存在」を演じきっている。 今年のアカデミー賞で本命視されているミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』(16年)でハリウッド随一のゴールデン・カップルになったライアン・ゴズリングとエマ・ストーンの初共演作としても本作は記憶されるべきだろう。本作で相性の良さが買われた二人はまず『L.A. ギャング ストーリー』(13年)で再共演を果たしている。 1940年代から50年代にかけてのロサンゼルスを舞台にLA市警とギャングの戦いを描いたこのクライム・ドラマで、ふたりは警察官とギャングの情婦という立場にありながら恋に落ちるカップルを熱演。レトロなコスチュームの着こなしも評価された。これを見込まれて三度目の共演を果たしたのが、舞台が現代のロサンゼルスでありながら何処かレトロなムードが漂う『ラ・ラ・ランド』なのだ。『ラブ・アゲイン』を観た者なら、歌い踊るふたりに、『ダーティ・ダンシング』の主題歌「タイム・オブ・マイ・ライフ」を踊る本作のシーンがフラッシュバックして思わずニヤリとすることだろう。 またブレイク前のアナリー・ティプトンとジョーイ・キングが出演していることも、今では貴重である。ティプトンはもともとリアリティ番組『America's Next Top Model』で世に出たファッション・モデルで、メインキャストを務めたのは本作がはじめて。しかし明後日の方向に暴走を繰り広げるジェシカ役を見事に演じきり、新世代コメディエンヌとして注目されるようになった。以降も『ダムゼル・イン・ディストレス バイオレットの青春セラピー』(11年)、『ウォーム・ボディーズ』(13年)で脇でキラリと輝くキャラを好演。出会い系アプリを題材にした今どきのコメディ『きみといた2日間』(14年)ではマイルズ・テラーの相手役を堂々と務めている。 ジョーイ・キングは、児童文学のベストセラー「ビーザスといたずらラモーナ」の映画化作『ラモーナのおきて』(10年)で主演に抜擢されたスーパー子役。「ダークナイト」三部作の最終作『ダークナイト ライジング』(12年)では一瞬の出演ながら物語の鍵を握るキャラを好演し、陶器人形を演じた『オズ はじまりの戦い』(13年)で共演したジェームズ・フランコとザック・ブラフから可愛がられており、ふたりの監督作の常連に。またティーン文学のベストセラーの映画化作『スターガール』の主演も決まるなど、次世代のエースとして期待されている。 つまり『ラブ・アゲイン』は、現在ではそれぞれ単独で主演を張る人気者が、一堂に会していた作品ということになる。だから本作が将来的に伝説のコメディ映画として語り継がれることになっても全然おかしなことではないのだ。 © Warner Bros. Entertainment Inc.
-
COLUMN/コラム2017.01.05
オリジナル版の要素を取り込みながら、異なるムードを醸しだした〜『パトリック 戦慄病棟』〜01月21日(土)深夜
ある種、変態的なラヴストーリーともいえるオーストラリア映画『パトリック』(78)は、79年のアボリアッツ国際ファンタスティック映画祭グランプリを受賞しながらも、日本では劇場未公開。でもSF&ホラー映画ファンの熱い支持を得てきたカルト映画だ。 監督には、ヒッチコック監督の『トパーズ』(69)で撮影現場を経験したことのある、根っからのヒッチコッキアン、リチャード・フランクリン(1948年生まれ~2007年死去)。『パトリック』では、『サイコ』(60)のように母親にトラウマをもった青年を主軸にし、『疑惑の影』(43)、『ダイヤルMを廻せ!』(54)、『マーニー』(64)等、随所に師匠へのオマージュを盛り込んでサスペンスを盛りあげていた。また1983年には、師匠の大ヒット作の続編『サイコ2』を監督してヒットさせた。 今回の作品は、大まかな流れはオリジナル版と似たような展開を見せるが、大胆な脚色を施して全体のムードを変え、結末も異なるリメイク版になっている。監督には、オーストラリア出身で、ジャンル系映画の異色ドキュメンタリー『マッド・ムービーズ~オーストラリア映画大暴走~』(08)で注目された気鋭マーク・ハートリーが務めた。 そのためか、オリジナル版にあったヒッチ作品へのオマージュの数々が、本作でも異なる形で散見できる。例えば、病院へと連なる断崖沿いの道路を自動車が這うように走行してゆく場面は『断崖』(41)風だし、病院に入る真俯瞰ショットは『北北西に進路を取れ』(59)を彷彿させ、キャシディ婦長の妖しい存在感は『レベッカ』(40)のダンヴァース夫人を匂わせるし、妖しい雰囲気を放ちつつ地下室に秘密が隠されているあたりは『サイコ』のサイコ・ハウスを意識している。オリジナル版が、ヒッチへのリスペクト&オマージュ描写がサスペンスを醸成する一要因を担っているところから、新たにヒッチ・サスペンスの要素を盛り込むことも、リメイクの重要な要素だと考えたのかもしれない。 とはいえ、オリジナル版との最も大きな違いは、海沿いの崖の上に建つ古びた私立病院ロジェット・クリニック(修道院を改装して再利用した設定)の陰湿なたたずまいと、重度の昏睡状態の患者を実験体にし、電気実験による脳研究を推し進めるロジェット院長の存在だろうか。ロジェット・クリニックは海沿いにあるため、霧が立ち込める時があり、実に怪しげで幻想的な雰囲気を醸しだしている。そのうえ研究で高い電磁波を使っているためか、院内では植物が育たないという(コワッ)。そこの院長ロジェットが、かつて医学界でフランケンシュタインの異名を取り、医学界から追放されたのち、密かにスポンサーの資金力を得、非道な研究をずっと続けている。脳がたとえ損傷した患者であっても、投薬直後に高圧電流を流して刺激し、眠っている神経を呼び覚ましてつなぎ変えようとする驚きの実験だった。 ロジェットのパトリックに対する見解はこうだ。「24時間、彼の脳電図を観察している。生理現象から神経衰弱まで、脳波の記録を。すべてのパトリックの動作は、意識の有無にかかわらず電流次第。神経中枢を刺激すれば、いいだけ。植物状態とはいえ、彼の脳内には電流が流れている。時々、いずれかが作用して体を動かすだろう。ただそれだけのこと。彼は、73kgの動かぬ肉塊。死んだ脳を抱えたな。すべて私の指示に従え。この扉が開いたら、今までのやり方は忘れろ!」 ロジェットは、実験体パトリックを治療したいわけでなく、あくまでも持論の証明が欲しいだけ。そのための“生ける屍”だと思っている。その下で“氷の女王”の威厳を漂わせる看護師長ジュリアがいる。彼女はロジェットの娘で、噂では一度ここを出て結婚するが、夫が自殺し戻ってきたといういきさつがある。 ゴシックホラーのような舞台に、我が道をゆくマッドサイエンティストの凶行は、まるで怪奇映画のたたずまい。そんな異常な世界に、オリジナル版より、だいぶ美少年になったパトリックと、彼が好意を抱くキャシー・ジャカード看護師との奇妙な関係が描かれる。クリニックの地下室は、ロジェットとジュリア以外は立ち入り禁止。 キャシーは、恋人エド・ペンハリゴン(オリジナル版でキャシー役を熱演したスーザン・ペンハリゴンに敬意を表した役名)との関係が悪化し、ストーカーのような彼から離れるため、ロジェット・クリニックの看護師業務に就くことになった。 キャシーを演じたのが、ビーチ系映画やホラー映画で活躍してきたスレンダー女優、シャーニ・ヴィンソン。サーフィン系OVA映画『ブルークラッシュ2』(11)ではしなやかなスレンダーボディを充分拝ませてくれたし、『パニック・マーケット3D』(12)では津波によるサメ・パニックに対峙するスクリーム・ヒロインを全身で熱演! 『サプライズ』(11)では、サヴァイバル・スキルを身につけたヒロインが襲撃者たちを相手にキリング・マシーンと化してゆく変貌ぶりがたまらなかったぞ。これらの作品で一気にシャーニのファンになった筆者としては、オリジナル版のキャシー役を演じた癒し系のスーザン・ペンハリゴンとは異なり……ちょっと見、健気に見えそうなシャーニが、白衣(映画では白ではなく水色だけど)に身を包み、恐怖と気丈に対峙していく姿に萌え萌えなのだ。 そして、シャーニ扮するキャシーが、ロジェット・クリニックで最初に担当を任された患者が、15号室(オリジナル版も同じ15号室。タロットカードで15は、悪魔に属するカードで、拘束・束縛・誘惑・妬みなどの意味がある)のパトリックだった。 キャシーがベッドに寝たきり状態のパトリックと初接見の日、キャシーがパトリックに顔を近づけた時、彼の口から飛ばされた唾が彼女の顔にかかった。ロジェットやこの病院を“植物園”と揶揄する同僚の看護師は、無意識に筋肉が反応しただけだと言うのだが……。 キャシーは、同僚の看護師がパトリックのシーツを取り換える際、彼の体をぞんざいに扱っている姿を目撃し内心驚いてしまう。優しいキャシーに対し、パトリック流のあいさつがツバを吐くことだった。でもキャシーにとって、その後もパトリックが彼女の前で唾を吐き続けることから、彼の意識を感じ取るようになる。でもパトリックが意識を伝えてくるのは、キャシーだけ。 知り合ったばかりの精神科医ブライアンにパトリックのことを相談すると、ブライアンがいきなりキャシーに対しツバを吐いた。驚いたキャシーはブライアンに激怒するが、どうやらパトリックの超能力によって、ブライアンの意識に侵入してやらせた行為だった。パトリックにしてみたら、2人だけの秘密を、他人に、しかも男に話したことが許せなかったらしい。観ているうちに、パトリックが吐く唾にはいろいろな思いが込められているように見え、時にパトリックの想いの一つ……キャシーへの性的な隠喩も込められているように思う。 キャシーが、パトリックの体をあちこち触り、股間の方に手を伸ばすと股間が膨らんでくるくだりはエロティックだし、パトリックがパソコンを使って、キャシーに「オナニーして欲しい」と伝えてくるところはちょっと怖い。 パトリックはキャシーを好きになるが、やがてそれが執着へと変化し、脳で思い描いたことを超能力で強引に変えてしまう。でも彼の超能力で大概なものは思い通りにできるが、真に操りたいのは、一人の看護師キャシーの心だが、それがほんとに難しい。 怪奇幻想的なムードを漂わせながら、拘束されたようなパトリックが超能力という絶大な力を持ってしても、キャシーの女心を拘束できない変態的なラヴストーリー。オリジナル版にとらわれず、新たな要素とオリジナル版の魅力を巧みに融合させたエンタメ・ホラーだと思う。■ © MMXIII Roget Clinic Pty Ltd, Screen Australia, Melbourne International Film Festival Premiere Fund, Film Victoria, Screen Queensland, Cherryhill Holdings Pty Ltd, PDER Pty Ltd and FG Film Productions (Australia) Pty Ltd
-
COLUMN/コラム2016.12.29
飲んで食ってファックしてゲロ吐いて糞尿まき散らして死んでいく、ブルジョワたちの快楽自殺。エログロなブラックコメディ〜『最後の晩餐』〜01月11日(水)深夜ほか
フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』('60)とミケランジェロ・アントニオーニ監督の『情事』('59)が、'60年の第13回カンヌ国際映画祭でそれぞれパルムドールと審査員特別賞を獲得。黄金期を迎えた'60年代のイタリア映画界は、巨匠の芸術映画からハリウッドばりの娯楽映画まで本格的な量産体制に入り、文字通り百花繚乱の様相を呈した。 そうした中で、戦後イタリア映画の復興を支えたネオレアリスモの精神を、新たな形で高度経済成長の時代へと受け継ぐ新世代の社会派監督たちが台頭する。『テオレマ』('68)や『豚小屋』('69)のピエル・パオロ・パゾリーニ、『悪い奴ほど手が白い』('67)や『殺人捜査』('70)のエリオ・ペトリ、『アルジェの戦い』('66)のジッロ・ポンテコルヴォ、『ポケットの中の握り拳』('65)のマルコ・ベロッキオ、『殺し』('62)や『革命前夜』('64)のベルナルド・ベルトルッチなどなど。権力の腐敗や社会の不正に物申す彼らは、保守的なイタリア社会の伝統や良識に対しても積極的に嚙みついた。 中でもパゾリーニと並んで特に異彩を放ったのが、当初は『女王蜂』('63)や『歓びのテクニック』('65)といったセックス・コメディで注目された鬼才マルコ・フェレ―リだ。 美人で貞淑な理想の女性(マリナ・ヴラディ)を嫁に貰った中年男(ウーゴ・トニャッツィ)が、子供を欲しがる嫁や女の親戚たちにプレッシャーをかけられ、頑張ってセックスに励んだ末にポックリ死んじゃう『女王蜂』。 全身毛むくじゃらの女性(アニー・ジラルド)と結婚した男(ウーゴ・トニャッツィ)が、嫁を見世物にして客から金を取ったり、その処女を物好きな金持ちに売ったりして荒稼ぎした挙句、難産で死んだ後も彼女をミイラにして金を儲けるという『La donna scimma(類人猿女)』('64)。 イタリア映画お得意のセックス・コメディを装いながら、イタリア社会に蔓延る偽善や拝金主義、さらには家族制度や男尊女卑などの伝統的価値観を痛烈に皮肉りまくったフェレ―リ。 その後も、女王然とした女(キャロル・ベイカー)が愛人の男たちを足蹴にする『ハーレム』('68)や、逆に男(マルチェロ・マストロヤンニ)が女(カトリーヌ・ドヌーヴ)を犬扱いする『ひきしお』('70)、男尊女卑の男(ジェラール・ドパルデュー)が妻にも恋人にも見捨てられ最後は自分のペニスを切り落とす『L'ultima donna(最後の女)』('76)など、'60年代から'70年代にかけてエキセントリックかつ強烈な反骨映画を撮り続けたフェレーリだが、その最大の問題作にして代表作と呼べるのが、カンヌでも賛否両論を巻き起こした『最後の晩餐』('74)である。 あらすじを簡単にご紹介しよう。パリのとある大邸宅に4人の裕福な中年男たちが集まって来る。有名レストランの料理長ウーゴ(ウーゴ・トニャッツィ)、テレビ・ディレクターのミシェル(ミシェル・ピッコリ)、裁判官のフィリップ(フィリップ・ノワレ)、国際線機長のマルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)。美食家の彼らは大量の食料品を屋敷に運び込み、連日連夜に渡って豪華な晩餐会を開くことになる。その目的は、美食三昧の果てに死ぬこと。しかし、食欲だけでは飽き足らなくなった彼らは、たまたま屋敷を訪れた豊満な女教師アンドレア(アンドレア・フェレオル)と3人の娼婦たちを招き、やがて事態は美食とセックスと汚物にまみれた酒池肉林のグロテスクな宴へと変貌していく。 要するに、人生に悲観したブルジョワたちが快楽の果ての自殺を目論み、飲んで食ってファックしてゲロ吐いて糞尿まき散らして死んでいく姿を赤裸々に描いた、エログロなブラックコメディ。見る者の神経をあえて逆撫でして不愉快にさせるフェレーリ監督の、悪趣味全開な演出が圧倒的だ。今となって見れば性描写もグロ描写もさほど露骨な印象は受けないものの、'70年代当時としては相当にショッキングであったろうことは想像に難くない。 しかも主人公4人を演じるのは、いずれもイタリアとフランスを代表する一流の大御所スターばかり。そのネームバリューにつられて見に行った観客はビックリ仰天したはずだ。これが一部からは大変なブーイングを受けつつも、カンヌで審査員特別賞を受賞したというのは、やはり'70年代のリベラルな社会気運の賜物だったと言えるのかもしれない。 面白いのは、主人公たちが自殺をする理由というのが最後まで明確ではないという点だろう。とりあえず、ウーゴが女房の尻に敷かれて頭が上がらない、フィリップは女にモテず独身で年老いた乳母に性処理してもらっているっていうのは冒頭で描かれるが、それ以外の2人が抱えた事情については全く触れられていない。いずれにしても、恐らく取るに足らないような漠然とした理由であることが想像できる。そんな甘ったるいブルジョワ親父たちが、快楽の限りを尽くして死のうとするわけだ。全くもってバカバカしい話なのだが、その根底には行きつくところまで行きついた現代西欧文明の物質主義に対する大いなる皮肉が込められていると見ていいだろう。 そんな男たちの愚かで滑稽な最期を見届けるのが、プロレタリアートの女教師だというのがまた皮肉だ。しかも、これがフェリーニの映画に出てくるようなアクの強い巨体女。食欲も性欲も底なしの怪物で、終始男たちを圧倒する。それでいて、母性の塊のような優しさで男たちを包み込む。まるで庶民の強さ、女の強さを象徴するような存在だ。演じているアンドレア・フェレオルは、なんと当時まだ20代半ば。いやはや、その若くしての貫録には恐れ入るばかりだ。その後もフォルカー・シュレンドルフやリリアーナ・カヴァーニ、フランソワ・トリュフォーらの巨匠たちに愛され、ヨーロッパ映画を代表する怪女優として活躍していくことになる。ちなみに、舞台となる屋敷の管理人をしている老人を演じているのはアンリ・ピッコリ。そう、ミシェル・ピッコリの実父だ。 恐らくルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』('62)や『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』('72)にインスパイアされたものと思われる本作。マルコ・フェレ―リならではの社会批判や文明批判が、最も極端かつ過激な形で結実した希代の怪作と言えるだろう。その後の彼は酔いどれた詩人(ベン・ギャザラ)の苦悩と再生を描く『町でいちばんの美女/ありきたりな狂気の物語』('81)、自由奔放な母親(ハンナ・シグラ)とその娘(イザベル・ユペール)の複雑な愛憎を描く『ピエラ 愛の遍歴』('83)と、より内省的なテーマへと移行していく。日本ではあまり注目されることなく'97年に他界したフェレーリだが、もっと評価されてしかるべき孤高の映像作家だと思う。■
-
COLUMN/コラム2016.12.29
極限の緊張サスペンスに込めたクルーゾ監督の狙いと、それを継受した1977年リメイク版との関係性を紐解く〜
わずかの振動でも爆発をおこす膨大な量のニトログリセリン(高度爆発性液体)を、悪路を眼下にトラックで輸送する--。それを耳にしただけでも、全身の毛が逆立つような身震いをもたらすのが、この『恐怖の報酬』だ。この映画が世に出て、今年で63年。その間、いったいどれほど多くの類似ドラマや引用、パロディが生み出されてきたことだろう。 だが一度は、それらを生み出したオリジンに触れてみるといい。先に挙げた設定をとことんまで活かした、観る者を極度の緊張へと至らしめる演出と仕掛けが、本作にはたっぷりと含まれている。 「この町に入るのは簡単さ。だが出るのは難しい“地獄の場所”だ」 アメリカの石油資源会社の介入によって搾取され、スラムと化した南米のとある貧民街。そこは行き場を失ったあぶれ者たちの、終着駅のごとき様相を呈していた。そんな“地獄の場所”へと流れてきたマリオ(イブ・モンタン)を筆頭とする四人の男たちは、貧困がぬかるみのように足をからめとる、この呪われた町から脱出するために高額報酬の仕事に挑む。その仕事とは、爆風で火を消すためのニトログリセリンを、大火災が猛威をふるう山向こうの石油採掘坑までトラックで運ぶことだった。 舗装されていないデコボコの悪路はもとより、道をふさぐ落石や噴油のたまった沼など、彼らの行く手には数々の難関が待ち受ける。果たしてマリオたちは無事に荷物を受け渡し、成功報酬を得ることができるのかーー? 仏作家ジョルジュ・アルノーによって書かれた原作小説は、南米グァテマラの油田地帯にある石油採掘坑の爆発と、その消火作業の模様を克明に描いた冒頭から始まる。その後は、 「四人が同じ地に集まる」「ニトログリセリンを運ぶ」 と続く[三幕構成]となっているが、監督のアンリ・ジョルジュ・クルーゾはその構成を独自に解体。映画は四人の男たちの生きざまに密着した前半部と、彼らがトラックで地獄の道行へと向かう後半の[二部構成]へと配置換えをしている。そのため、本作が爆薬輸送の物語だという核心に触れるまで、およそ1時間に及ぶ環境描写を展開していくこととなる。 しかし、この構成変更こそが、物語をどこへ向かわせるのか分からぬサスペンス性を強調し、加えて悠然とした前半部のテンポが、どん詰まりの人生に焦りを覚える男たちの感情を、観る者に共有させていくのだ。 そしてなにより、視点を火災に見舞われた石油資源会社ではなく、石油採掘の犠牲となった町やそこに住む人々に置くことで、映画はアメリカ資本主義の搾取構造や、極限状態におけるむき出しの人間性を浮き彫りにしていくのである。 ■失われた17分間の復活 だが不幸なことに、クルーゾによるこの巧みな構成が、フランスでの公開から36年間も損なわれていた時代があったのだ。 今回ザ・シネマで放送される『恐怖の報酬』は、クルーゾ監督の意向に忠実な2時間28分のオリジナルバージョン(以下「クルーゾ版」と呼称)で、前章で触れた要素が欠けることなく含まれている。 しかし本作が各国で公開されたときにはカットされ、短く縮められてしまったのだ(以下、同バージョンを「短縮版」と呼称)。 映画に造詣の深いイラストレーター/監督の和田誠氏は、脚本家・三谷幸喜氏との連載対談「それはまた別の話」(「キネマ旬報」1997年3月01日号)での文中、封切りで『恐怖の報酬』を観たときには既にカットされていたと語り、 「たぶん観客が退屈するだろうという、輸入会社の配慮だと思うんですけど」 と、短縮版が作られた背景を推察している。確かに当時、上映の回転率が悪い長時間の洋画は、国内の映画配給会社の判断によって短くされるケースもあった。事実、本作の国内試写を観た成瀬巳喜男(『浮雲』(55)監督)が、中村登(『古都』(63)監督)や清水千代太(映画評論家)らと鼎談した記事「食いついて離さぬ執拗さ アンリ・ジョルジュ・クルゾオ作品 恐怖の報酬を語る」(「キネマ旬報」1954年89通号)の中で、試写で観た同作の長さは2時間20分であり、この時点でクルーゾ版より8分短かったという事実に触れている。 しかし本作の場合、短縮版が世界レベルで広まった起因は別のところにあったのだ。 1955年、『恐怖の報酬』はアメリカの映画評論家によって、劇中描写がアメリカに対して批判的だと指摘を受けた(同年の米「TIME」誌には「これまでに作られた作品で、最も反米色が濃い」とまで記されている)。そこでアメリカ市場での公開に際し、米映画の検閲機関が反米を匂わすショットやセリフを含むシーンの約17分、計11か所を削除したのである。それらは主に前半部に集中しており、たとえば石油の採掘事故で夫を亡くした未亡人が大勢の住民たちの前で、 「危険な仕事を回され。私たちの身内からいつも犠牲者が出る。死んでも連中(石油資源会社)は、はした金でケリをつける」 と訴えるシーン(本編37分経過時点)や、石油資源会社の支配人オブライエン(ウィリアム・タッブス)が、死亡事故調査のために安全委員会が来るという連絡を受けて、 「連中(安全委員会)を飲み食いさせて、悪いのは犠牲者だと言え。死人に口なしだ」 と部下に命じるシーン(本編39分経過時点)。さらにはニトログリセリンを運ぶ任務を負った一人が、重圧から自殺をはかり「彼はオブライエンの最初の犠牲者だ」とマリオがつぶやく場面(本編45分経過時点)などがクルーゾ版からカットされている。 こうした経緯のもとに生み出された短縮版が、以降『恐怖の報酬』の標準仕様としてアメリカやドイツなどの各国で公開されていったのである。 なので、この短縮版に慣れ親しんだ者が今回のクルーゾ版に触れると「長すぎるのでは?」と捉えてしまう傾向にあるようだ。それはそれで評価の在り方のひとつではあるが、何よりもこれらのカットによって作品のメッセージ性は薄められ、この映画にとっては大きな痛手となった。本作は決してスリルのみを追求したライド型アクションではない。社会の不平等に対する怒りを湛えた、そんな深みのある人間ドラマをクルーゾ監督は目指したのである。 1991年、マニアックな作品選定と凝った仕様のソフト制作で定評のある米ボイジャー社「クライテリオン・コレクション」レーベルが、本作のレーザーディスクをリリースするにあたり、先述のカットされた17分を差し戻す復元をほどこした。そしてようやく同作は、本来のあるべき姿を取り戻すことに成功したのである。この偉業によってクルーゾの意図は明瞭になり、以降、このクルーゾ版が再映、あるいはビデオソフトや放送において広められ、『恐怖の報酬』は正当な評価を取り戻していく。 ■クルーゾ版の正当性を証明するフリードキン版 こうしたクルーゾ版の正当性を主張するさい、カット問題と共に大きく浮かび上がってくるのは、1977年にウィリアム・フリードキン監督が手がけた本作の米リメイク『恐怖の報酬』の存在である。 名作として評価の定まったオリジナルを受けての、リスクの高い挑戦。そして製作費2000万ドルに対して全米配収が900万ドルしか得られなかったことから、一般的には失敗作という烙印を捺されている本作。しかし現在の観点から見直してみると、クルーゾ版を語るうえで重要性を放つことがわかる。 フリードキンは米アカデミー賞作品賞と監督賞を受賞した刑事ドラマ『フレンチ・コネクション』(71)、そして空前の大ヒットを記録したオカルトホラー『エクソシスト』(73)を手がけた後、『恐怖の報酬』の再映画化に着手した。その経緯は自らの半生をつづった伝記“THE FRIEDKIN CONNECTION”の中で語られている。 フリードキンは先の二本の成功を担保に、当時ユニバーサル社長であったルー・ワッサーマンに会い「わたしが撮る初のユニバーサル映画は本作だ」とアピールし、映画化権の取得にあたらせたのだ。 しかし権利はクルーゾではなく、原作者であるアルノー側が管理しており、しかも双方は権利をめぐって確執した状態にあった。だがフリードキン自身は「権利はアルノーにあっても、敬意を払うべきはクルーゾだ」と考え、彼に会って再映画化の支えを得ようとしたのだ。クルーゾは気鋭の若手が自作に新たな魂を吹き込むことを祝福し、『フレンチ・コネクション』『エクソシスト』という二つの傑作をモノした新人にリメイクを委ねたのである。 こうしたクルーゾとフリードキンとの親密性は、作品においても顕著にあらわれている。たとえば映画の構成に関して、フリードキンはマリオに相当する主人公シャッキー(ロイ・シャイダー)が、ニトログリセリンを輸送する任務を請け負わざるを得なくなる、そんな背景を執拗なまでに描写し、クルーゾ版の韻を踏んでいる。状況を打破するには、命と引き換えの仕事しかないーー。そんな男たちの姿をクローズアップにすることで、おのずとクルーゾーの作劇法を肯定しているのだ。 しかしラストに関して、フリードキンの『恐怖の報酬』は、シャッキーが無事にニトログリセリンを受け渡すところでエンドとなっていた。そのため本作は日本公開時、このクルーゾ版とも原作とも異なる結末を「安易なオチ」と受け取られ、不評を招く一因となったのである。 ところがこの結末は、本作の全米興行が惨敗に終わったため、代理店によってフリードキンの承認なく1時間31分にカットされた「インターナショナル版」の特性だったのだ。アメリカで公開された2時間2分の全長版は、クルーゾ版ならびに原作と同様、アレンジした形ではあるがバッドエンドを描いていた。にもかかわらず場面カットの憂き目に遭い、あらぬ誤解を受けてしまったのである。 そう、皮肉なことにクルーゾもフリードキンも、改ざんによって意図を捻じ曲げられてしまうという不幸を、『恐怖の報酬』という同じ作品で味わうこととなってしまったのだ。 さいわいにもクルーゾ版は、こうして自らが意図した形へと修復され、本来あるべき姿と評価をも取り戻している。なので、クルーゾ版の正当性を証明するフリードキン版も、多くの人の目に触れ、正当な評価を採り戻してもらいたい。それを期待しているのは、決して筆者だけではないはずだ。■
-
COLUMN/コラム2016.12.26
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年1月】キャロル
鬼才デヴィッド・フィンチャーを一流監督へと伸し上げた、『セブン』と並ぶ90年代の代表作。若くして投身自殺した父親の莫大な遺産を相続して、自身も投資家として成功したニコラス。金はあるけどハートは無いみたいな嫌味な男で、家族とも疎遠だ。そんな彼の誕生日に、弟コンラッドが、あるゲームに参加できるカードをプレゼントする。ところがゲーム会社に行って参加試験を受けた後、ニコラスの周辺で不可解な事件が次々と起きる。これはスリルを味わわせるためのゲームなのか、あるいはゲーム会社を装い金持ちを狙う詐欺なのか。さんざんな目に遭い続け恐怖のドツボにハマッていくニコラスは、もはや誰も信じることができなくなり、父と同じ道を行こうとするのだが・・・。というお話。(いいのかしら。結構ギリギリまで書いてしまった。)初めて観たのは中学2年生くらいのとき。“エロそうなDVDを夜更かしして観よう!”という趣旨の女子同士のお泊り会にて、なんとなく「これパッケージがエロそうだね!」という理由で選んだのが本作『ゲーム』(今思うと一体どこがエロそうなのか見当もつきませんが)。ドキドキしながら再生するも、全くエロそうな気配が無いと判明したころには、友人たちは既に爆睡。そんな中、続きが気になってひとりで最後まで観てしまったことを今でも覚えているのは、アノ衝撃的なラストがあったからじゃないかと思うのです。今回ザ・シネマで放送するにあたり、(今となってはもはや有名な)アノ結末をもう一度見てみようと、興味本位でラストシーンだけ見直すことにしたのですが。いや、仕事忙しいんですけどね?でもね、いえね、なんだかんだ、どんどん巻き戻してしまって、結局全編まるごと観てしまいましたよ。当時J-POPに夢中で洋画情報に超ウトかった私は、マイケル・ダグラスのことはおろか(その後何年も「『ゲーム』のおじさん」と言っていたし)、デヴィッド・フィンチャーのことなんてまるで何も知らなかったけれど(『セブン』を初めて観たのはそれから10年後だし)、まさかエッチそうなビデオだと勘違いしたこの作品が、私にとって一生記憶に残るものになるとは想像だにしていませんでした。一度目は「一生忘れられない衝撃のラスト」、二度目は「結局最後まで観ちゃった」。三度目はしばらく先にとっておこうと思いますけど、どんな印象が残るんでしょうね?ニコラスと同じ年齢になるまで見るのは待っておこうかな。(ところで皆さま、長々と読んでいただいてありがとうございます。)何度観ても面白いとはいえ、あんまり積極的な頻度で見ると飽きてしまうのでね。みなさんがザ・シネマで『ゲーム』に偶然出くわしたときには、ぜひ最後までご覧になっていただきたいなぁと思うのであります。2017年1月から放送します。お楽しみに。 © 1997 POLYGRAM FILMED ENTERTAINMENT,INC ALL RIGHTS RESERVED