ザ・シネマ 清藤秀人
-
COLUMN/コラム2017.10.02
ニール・ジョーダンのアイルランド愛が充満する現代のおとぎ話『オンディーヌ 海辺の恋人』には、苦い隠し味も〜10月12日(木)ほか
■かつて水の精霊を演じた女優たち オンディーヌとは、もともとドイツの作家、フリードリッヒ・フーケ(1777~1843)が書いたおとぎ話『Undine』に登場する"水の精霊"の名前。人間の世界に憧れ、年老いた漁師夫婦の養女となったオンディーヌが、騎士のハンスに恋してしまい、その恋が破綻するまでを描いたその物語は、後にフランスの劇作家、ジャン・ジロドゥの手によって戯曲化される。1954年にはそれを基にした舞台『オンディーヌ』がブロードウェーで上演され、主演のオードリー・ヘプバーンは見事トニー賞を受賞。余談だが、オードリーが『ローマの休日』(53)でアカデミー賞の主演女優賞に輝いた時、ニューヨークの授賞式会場に現れた彼女のアイメイクが異常に濃かったのは、まだ上演中だったオンディーヌのメイクを落とす時間がなかったためだと言われている。余談ついでに、それから7年後、ロンドンのロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが再演した『オンディーヌ』で主役を演じたのは、レスリー・キャロン。オードリーが一躍その名を知られるきっかけになった舞台『ジジ』のミュージカル映画版で、9個のオスカーを独占した『恋のてほどき』(58)でヒロインを演じた女優である。映画界にはよくある"因縁の関係"というヤツだ。 ■脚本はほぼ100%ジョーダンのオリジナル さて、ニール・ジョーダンが脚本と監督を手がけた『オンディーヌ 海辺の恋人』は、幾多の脚色と因縁を紡いできた戯曲とはほぼ無関係の100%オリジナル。しかし!神秘的なオープニングは何やらマジカルで悲劇的なことが起きそうな予感を掻き立てる。舞台は現代のアイルランド南部、コリン・ファレル扮する漁師のシラキュースが、いつものように海中から引き上げた網に、見知らぬ美女が引っかかって来るところから始まる。彼女はシラキュースに名前を聞かれて、「オンディーヌ」と震えながら答えるのだった。 そこから始まる、過去に傷を持つ孤独で貧しいフィッシャーマンと、同じく、背後に謎めいた空気を漂わせる"水の妖精"の如き美女のラブロマンスは、ところどころに、貧困、離婚、アルコール依存、肉体のハンデ、麻薬犯罪、等々、タイトルとは縁遠い生々しい要素を書き加えつつ進んでいく。本作が2009年に世界各地で公開された際(日本ではなぜかDVDスルー、故に必見!)、多くの批評家たちが及第点を与えつつも、散らばった要素が一気に束ねられる現実的過ぎる幕切れに疑問符が付いた。それをカバーして余りあるのがジョーダンの母国アイルランドへの愛だ。 ■ロケ地を設定したプロダクション・デザインが秀逸だ シラキュースが日々船出する入江の漁港の、寂れてはいてもほのかな陽光に輝く姿と、その先に広がる灰色の海の絶妙な配色。ダークグリーンに澱んだ海中を引き摺られていく黒い網と水の泡、そして、緑濃い岬の先に立つ真っ白い灯台。すべてが中間色で統一された絵画のような風景描写は、理屈抜きに、観客を映画の世界へと引き込んで行く。映画のロケ地をアイルランド南部のコーク州に設定し、作品の成否を分けるとも言われるオープニングシーンをセッティングし、それを監督のジョーダンに託したのは、ロケ地の選択やセット作りまでをトータルで受け持つプロダクション・デザイナーのアナ・ラッカード。ラッカードが本作のプロダクション・デザインで、主演のファレル等と共にアイリッシュ・フィルム&テレビジョン・アワードにノミネートされたのも頷ける。 ■コーク州には美しい灯台がいっぱい ラッカードはコーク州内をロケハンで周遊し、大西洋に向けてエッジィな半島が何本か突き出る中の1つで、美しい漁港があるビーラ半島のキャッスルタウンベア、それを観るためにわさわざ観光客がやってくるというコーク名物の灯台の中から、ローンキャリングモア灯台、アードナキナ・ポイント灯台をロケ地としてピックアップ。灯台は映画のクライマックスでも印象的に登場する。海と灯台、半島、漁港、網漁、神話、、、それら、どこか懐かしく、それでいてワンダーランドのような世界は、同じ島国に暮らす我々日本人のノスタルジーを掻き立てもする。撮影監督として本プロジェクトに加わったクリストファー・ドイルが、同じく港町シドニーの生まれで、香港映画や日本映画でカメラを回してきたことも、作品の世界観を決定づける要因の1つだっただろう。 ■アイルランド人は基本的に魚を食べない? ニール・ジョーダンはコークとは反対側に位置するアイルランド北部の都市で、同じ入江を望むスライゴーの生まれだ。南部に美しい山々と湖水地帯を望むスライゴーの主産業は主に牧畜と漁業。画家と大学教授を両親に持つジョーダンが、少年時代に漁業と接点を持ったかどうかは定かではないが、劇中には、港町の祭でレガッタや綱引きに興じる漁師たちの逞しい姿が映し出される。それは、アイルライドでは漁業が1つの文化として今も息づいていることを証明するシーケンスだと思う。一方で、島国でありながらアイルランドでは漁業が発達できない理由があった。カトリックの教えに従い、多くの国民にとって魚は肉食を禁じられる金曜日と断食日にのみ食する肉の代用品と位置付けられ、貧しい人の食べ物という認識が浸透しているのだ。中でも、海で獲れる魚は最下層の食材と受け取られるのだとか。つまり、そもそも漁業は需要の少ない産業なのだ。国土が海に囲まれていながら。シラキュースが貧しさから酒に溺れた過去を引き摺っているのには、そのような社会的かつ宗教的背景があるのだろう。だからこそ、彼はオンディーヌとの出会いに希望を見出し、がむしゃらに絶望からの脱却を図ろうとする。そこに深く共感し、大切なプロットとして書き加えたジョーダンの思いが(脚本も兼任)、半ばファンタジーとして推移する物語に真実味をもたらしている。 ■漁師と人魚はセットの外でも恋に落ちた!! 普段、ハリウッド映画では封印しているアイリッシュ訛りの早口英語を、水を得たように流暢に操るコリン・ファレルが、本来のワイルドに回帰してとても生き生きしている。オンディーヌ役のアリシア・バックレーダはメキシコ生まれのポーランド人女優で、弱冠15歳で祖国が誇る映画界のレジェンド、アンジェイ・ワイダ監督の『Pan Tadeusz』(99)で映画デビュー後、世界へと羽ばたいた。歌手でもある彼女が劇中で人魚の歌を口ずさむシーンがある。そして、美しい裸体や下着姿で無意識という意識でコリンを誘惑する場面も。オードリー、レスリー・キャロンに続く現代のオンディーヌは、そのカジュアルさで先人たちを軽く凌駕している。 やがて、とても自然な成り行きでコリンとアリシアはセット外でも恋に落ち、アシリアはコリンの子供を妊娠→出産。コリンは生まれた息子を彼女に託して、結婚はしないまま、その後別れて現在に至っている。 ■現在、ジョーダンはダブリンで新作を撮影中です! そして、ニール・ジョーダンは2012年に同郷の女優、シアーシャ・ローナン主演で『インタビュー・ウィズ・ザ・ヴァンパイア』(94)以来の吸血鬼映画『ビザンチウム』を監督したのを最後に、新作が途絶えている。と思ってデータベースをチェックしてみたら、さにあらず。現在、若いヒロインが歳の離れた未亡人と交流するうちにミステリアスな世界に誘われていくというスリラーを、クロエ・グレース・モレッツ、イザベル・ユペール共演で撮影中であった。それも、やっぱりアイルランドの首都、ダブリンで。ジョーダンの母国愛は不滅なのだ。■ ©Wayfare Entertainment Ventures LLC 2010
-
COLUMN/コラム2017.09.15
【未DVD化】バーブラ・ストライサンド執念の監督デビュー作『愛のイエントル』、完成までの長~い道のり~09月07日(木) ほか
■バーブラは高らかにビグローの名前を読み上げた! 思い出して欲しい。第82回アカデミー賞で栄えある監督賞のプレゼンターとしてステージに登壇したバーブラ・ストライサンドが、封筒を開いた途端、思わず口走った「the time has come!(遂にこの時が来たわ)」という台詞を。そうして、バーブラは誇らしげにキャサリン・ビグローの名前を読み上げたのだ。対象作は言うまでもなく『ハート・ロッカー』。オスカー史上初めて女性が監督賞を手にした瞬間だった。 DVD未発売「愛のイエントル」の苦難の道程 当夜、バーブラが手渡し役を務めたのには訳があった。と言うか、まるで予め受賞者を知っていたかのようなキャスティングだった。何しろ、バーブラにはビグローよりもずっと前に監督賞受賞の可能性があったにも関わらず、候補にすら挙がらないという苦渋を、1度ならず2度も味わっていたからだ。『サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方』(91)と、彼女の監督デビュー作である『愛のイエントル』(83)だ。今月は、日本語字幕付きVHSは国内で流通したものの、DVDは未発売の女傑、バーブラ・ストライサンドによる初監督作について、その舞台裏を簡単に振り返ってみたい。 ■思い立ったのは『ファニー・ガール』の直後 バーブラがポーランド生まれのアメリカ人ノーベル賞作家、アイザック・バシェヴィス・シンガーの短編"イェシバ・ボーイ"を読み、映画化を思い立ったのは、自ら主演したブロードウェー・ミュージカルの映画化で、巨匠、ウィリアム・ワイラーが監督した『ファニー・ガール』(68)でアカデミー主演女優賞を獲得した直後、1969年のことだった。映画化を思い立った、というのは温い表現で、資料に因ると、次は絶対これで行く!と強く確信したというのが正しいようだ。すでにグラミー賞を受賞する等、その歌手としての類い稀な才能を認められてはいたものの、『ファニー・ガール』でハリウッドデビューしたばかりの映画女優としてはまだ新人の彼女が、である。なぜか? 1904年のポーランド、ヤネブの町。学問は男の専門分野で、女はそれ以外の雑事を受け持つものと教えられていた時代に、ヒロインのイエントルは、あっけなく旅立った父が秘かに教えてくれたタルムード(ユダヤ教の聖典)に触発され、何と大胆にも、男に変装してイェシバ(ユダヤ教神学校)に入学してしまう。そうして、イエントルは性別を偽ることで、人々の偏見を巧みにかわしながらも、それ故に激しい自己矛盾に苦しむことになる。これが『愛のイエントル』のプロットでありテーマだ。 ■動機は亡き父親への熱い思いか? バーブラ自身は1942年にニューヨーク、ブルックリンでロシア系ユダヤ人の母親、ダイアナと、イエントルの父と同じくポーランド系ユダヤ人の父親、エマニュエルとの間に生まれている。しかし、高校で文法学の教師をしていたという父親は、彼女が生後15ヶ月の時に他界。その後、ダイアナは中古車セールスを生業にしていたルイス・カインドと再婚するが、継父とバーブラの折り合いは悪く、彼女の中では幼い頃に接し、薄れゆく記憶の中で生き続ける実父の面影の中に、自分の体の中に流れるユダヤ人としてのルーツを見出していく。 ■バーブラに立ちはだかった年齢の壁 自らのユダヤ人としてのアイデンティティを映像で手繰り寄せ、実感し、広く告知したい!!そう願った時から、バーブラの苦難が始まる。彼女が原作の映画化権を取得するのは前記の通り、1969年のこと。製作はバーブラがポール・ニューマンやスティーヴ・マックイーン等と共に成立したスタープロの草分け"ファースト・アーティスト"が受け持ち、原作者のシンガーが脚本を、チェコのイヴァン・パッセルが監督を各々担当することで一旦話は進むが、シンガーは当時40歳のバーブラが10代のイエントルを演じることに難色を示し、プロジェクトから退出。そこで、バーブラは当時の恋人だったヘアスタイリスト上がりのイケイケプロデューサー、ジョン・ピータースに脚本を渡すが、彼もパッセルと同じ理由で乗り気になれなかったという。厳しくもちょっと笑える話ではないか!? ■ピータースを驚愕させた荒技とは? 時は流れて1976年。ピータースと『スター誕生』を撮り終えた時、バーブラはさすがに自分がイエントルを演じるのは無理があると判断し、監督に回ることを決意する。当然、会社側は彼女の監督としての才能には懐疑的だった。2年後、遅々として進まない状況を見かねたバーブラの友人、作詩家のアラン&マーヴィン・バーグマン夫妻(『愛のイエントル』も担当。作曲はミシェル・ルグラン)は、作品をミュージカル映画にすることを提言。それならバーブラのネームバリューで企画が実現すると踏んだからだ。一方、まだイエントル役に固執していたバーブラは男装で自宅に乱入し、ソファで寛いでいたピータースを驚愕させると共に、男装なら年齢が目立たないという利点に気づかせるという荒技に出て、遂にピータースを屈服させる。 その後、一旦製作を請け負ったオライオンが『天国の門』(80/マイケル・チミノ監督によるデザスタームービーの代名詞)が原因ですべての巨額プロジェクトの中止を発表。最終的にユナイテッド・アーティストとMGMの製作で『愛のイエントル』にGOサインが出たのは、バーブラが映画化を思い立ってから13年後の1982年4月のこと。その間、20回も脚本が書き直されていた。 結果的に、バーブラは製作、監督、脚本、主演、主題歌の1人5役を兼任。イエントルが恋する学友のアヴィドールを演じたマンディ・パティンキンには、ブロードウェーのトップスターでありながら、劇中で一曲も歌わせず、歌唱シーンを独り占めしたのは、苦節を耐えて夢を実現させた彼女流の"落とし前"だったのか?恐るべき女優の執念をそこに見た気がする。 ■わがままバーブラはマッチメイカーだった!! ところで、ユダヤの世界にはマッチメイカー、日本で言う縁結び役が存在する。同じユダヤ人コミュニティが舞台の『屋根の上のバイオリン弾き』(71)でもマッチメイカーは歌に登場するほどお馴染みだ。『愛のイエントル』の編集段階でバーブラに協力したと言われているスティーヴン・スピルバーグは、それが縁で一時は関係を絶っていたエイミー・アーヴィング(アヴィドールのフィアンセ、ハダスを演じてバーブラを差し置いてアカデミー助演女優賞候補に)とよりを戻し、1985年に結婚。その後、アーヴィングと離婚したスピルバーグは『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(84)に出演したケイト・キャプショーと再婚し、今も仲睦まじい。実は、キャプショーをスピルバーグに紹介し、『魔宮の伝説』へのきっかけを作ったのもバーブラだった。場所は『愛のイエントル』の編集室。嫌味なくらい自分の希望を押し通したバーブラが、舞台裏では縁結び役を演じていたという皮肉。世紀のディーバには、そんな風に人を幸せにする才能があるのかも知れない。例え、是が非でも欲しかったアカデミー監督賞はその手をすり抜けたとしても。■ YENTL © 1983 LADBROKE ENTERTAINMENTS LIMITED. All Rights Reserved
-
COLUMN/コラム2017.08.15
みんな大好きポルノをオンライン決算で見やすくしたアダルト業界のイノベーターに肉薄〜『ミドルメン/アダルト業界でネットを変えた男たち』〜8月17日(木)ほか
■冒頭にピーウィー・ハーマンも登場する 恐らく劇中に下半身ネタが満載されているのと、スター不在のせいで、日本では劇場未公開となった『ミドルメン/アダルト業界でネットを変えた男たち』を観ると、そんなインターネット創生期のカオスがひしひしと伝わって来る。時代はまさにソーシャルメディアが劇的に変化しようとしていた1997年。例えば、それ以前にポルノ映画を自宅で鑑賞しようと思ったら、レンタルビデオ店に足を運ぶか、(海外からこっそり持ち込むか@日本)、製作元から直接取り寄せるか、しかなかったはず。よくもまあ、そんな面倒臭いことができたもんだと思う。仕方がない。みんな大好きなんだから。映画の冒頭に誰だってポルノを観ながらオ○ニーするのが大好きというコーナーがちゃんと用意されているし。コーナーの最後を飾るのは、ポルノ映画館でオ○ニーしているのが見つかって逮捕され、社会復帰後、時代に関係なく特にアメリカでは絶対×の児童ポルノ所持で再逮捕されたオ×ニー大好きセレブ、コメディアンのピーウィー・ハーマンことポール・ルーベンスだ。 ■オンライン決算のパイオニアはアダルトだった? さてそこで、立ち上がった直後のネット上にポルノ画像専門のサイトを開設し、有料での閲覧を思いつくのが、物語の言わば発起人である元獣医のウェインと元科学者のバックの2人組。堅気の人生を送るのはそもそもかなり難しい享楽的ジャンキーの2人だったが、システムに精通していたバックが"オンライン・カード決済システム"をたったの15分でプログラミングしたことで、上がりは一気に100万ドル超え。このシステムのおかげで、地球上の男たちは誰にも知られず、何ら手を煩わせることなく、ワンクリックで視聴料を決済するだけで、各々が好みの女性(または男性)、好みのプレイにアクセスできるようになったわけだ。実話にインスパイアーされたという本作だが、アダルト産業に革命をもたらした男たちの成功と、必然的に訪れる挫折のプロセスを描く上で、どこまで事実を踏襲しているかは定かではない。しかし、"オンライン・カード決済システム"を最初に導入したのはアダルト産業だったとも言われていて、着眼点は下半身を見据えている分、ある意味鋭い。同時期に公開され、比較された『ソーシャル・ネットワーク』(10)のFacebookに匹敵するメディア革命を扱った野心作、という見方だってできそうだ。 ■『ソーシャル・ネットワーク』とはここが違う その『ソーシャル・ネットワーク』は、開発したシステムがセンセーショナルで想定外の巨額マネーを生んでしまったばっかりに、若者たちの人間関係がマネーゲームに取り込まれ、破綻していく様子を描いて、そこはかとない虚しさを漂わせていたのとは違い、『ミドルメン』はアダルトだけに裏社会もの。かなり血生臭い。ユーザーからの注文でオリジナル動画を製作しようと、ロシアン・マフィアが経営するストリップ・クラブに入り浸り、そこでマフィアとの契約を破って窮地に陥った2人組を助けるために、弁護士を介してこのカオスに加わることになる実業家、ジャックを主軸に、これ以降の物語は進んでいくことになる。 ■成功依存症に二日酔いはないってか? 最初はポルノになど関わりたくなかったジャックだったが、オンラインシステムの導入でビジネスが一気に巨大化した時、顧客とポルノ業者の間を取り持つ仲介業(=ミドルメン)を発案。それが大成功を収めたためにもはや後戻りできなくなる。本来は真面目で家族思いのジャックが、金と権力と女を手にした途端、何かに憑かれたように浮き足立っていく様は、終始喧噪の中で展開する物語の中で、妙に胸に突き刺さる部分。男として望むものをすべて手に入れた状態に依存し、それが異常であることに気づかないジャックは、モノローグの中でそんな自分をこう振り返る。「この依存症に二日酔いはないのが怖い」と。成功とは、現実に直面する不快な翌朝は決して訪れない、永遠に続くかに思われる祭のようなものかも知れないと、この独白からは想像できる。本作に製作者として関わり、ジャックのモデルとも言われているクリストファー・マリックなる人物が、虚実入り乱れた物語の中に注入した数少ない真実が、もしやコレなのではないだろうか? ■プロデューサーもアダルト業界も変わった! 因みに、『ミドルメン』に引き続き、同じジョージ・ギャロ監督と組んでセルマ・ブレア主演のクライムミステリー『Columbus Circle』(12)を製作する等、映画プロデューサーとしての人生も開拓してしまったマリックは、その傍らでしっかり仲介業は続けているとか。どうやら、祭は場所と形を変えてしぶとく続いているようだ。 ところで、アダルト産業はさらに状況が変化している。レンタルDVDは勿論、PCでのオンデマンド視聴も減少の一途を辿り、今やスマホでポルノを見るのが主流になって来ている。アダルトサイトの"Pornhub"によると、女性の視聴者が年々増加しているとか。思えば、こんなジェンダーフリーの時代に、『ミドルメン』で描かれるような女性は見せる側、男性は見る側という区分は、過ぎ去った前世紀の遺物になりつつあるのだ。 ■ルーク・ウィルソンが"下ぶくれ"過ぎ ジャック役のルーク・ウィルソンを見て、それがルーク・ウィルソンだと気づく人は少ないかも知れない。そうでもないか。だが、かつて、ウェス・アンダーソン監督の『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』(01)に兄のオーウェン・ウィルソンと出演し、ドリュー・バリモアやグウィネス・パルトロウと交際していた頃のイケメンぶりはどこへやらの"下ぶくれ顔"には、正直どん引きである。だからこそ、見方を変えれば巻き込まれ型のジャックを演じるのに、彼のヌーボーとしてつかみどころのないルックは効果てきめんだったとも言えるのだが。 ■76歳のロバート・フォスターが脇で渋い!! 地味だが脇役がけっこう充実している。ジャックにハイエナの如く付きまとう初老の弁護士、ハガティを演じるジェームズ・カーンを筆頭に、FBI捜査官役のケヴィン・ポラック、ギャング役のロバート・フォスター等は、各々1960年代から2000年代にかけて、長くハリウッド映画を支えてきたベテランたちだ。世代によって、記憶を刺激する顔は違ってくると思うが、特にアメリカン・ニュー・シネマの隠れた傑作『アメリカを斬る』(69)で、人種差別の実態を追求するTVカメラマンを演じて以来、76歳の今も現役バリバリのフォスターにシビレる人は多いはず。今現在、フォスターは『アメリカを斬る』から数えて79作目になる長編映画『What They Had』で怪優、マイケル・シャノンと共演中だ。これが日本では劇場未公開にならないことを願うばかりだ。日本にもコアなファンが多いマイケル・シャノンだから大丈夫だとは思うが。■ Middle Men © 2017 by Paramount Pictures. All rights reserved.
-
COLUMN/コラム2017.07.10
廃れゆくミシシッピ河岸の風景と、マーク・トウェインと現代を繋ぐ少年の冒険談〜『MUD マッド』〜07月11日(火)ほか
ウディ・アレンにとってのニューヨーク、M・ナイト・シャマランにとってのフィラデルフィア、ベン・アフレックにとってのボストン、等々、映画監督にとって生まれ育った土地は自作の撮影地になりやすい。何しろ、町のディープな情報に精通しているし、第一、思い入れが半端ないはずだ。 ジェフ・ニコルズの場合はアーカンソーだろう。マイケル・シャノンと初めてコラボした「Shotgun Stories」(07)がアーカンソーで、以後「Midnight Special」(12)はすぐ南のルイジアナ(共にミシシッピ川流域)、同じシャノン主演の『テイク・シェルター』(11)はやや北上してエリー湖に接するオハイオだ。場所は微妙に異なるがすべて水辺であることは偶然だろうか?ミシシッピ川とその支流の1つ、アーカンザス川に接するリトルロックで育ったニコルズが、同じエリアの川縁にハウスボートを浮かべて暮らす人々にフォーカスした『MUD マッド』は、彼の故郷への、川への思いが最も顕著な作品だ。 14歳の少年、エリスはアーカンソーの河岸にあるハウスボート(ボートハウスとも言う)に住み、川で採った魚をトラックに乗せ、家々に売りさばく父親の手伝いをしている。父親はボートで川に出て、魚がいそうなスポットに着くと潜水服に着替え、川底まで潜ってそこで蠢く魚たちに狙いを定める。まるで、水温と水の濁りまでが観る側に体感として伝わって来るような冒頭のシーンは、監督であるニコルズの原体験がベースになっている。ノースカロライナ大学の芸術学部で映画製作を学んでいた頃、お手製の潜水服を着てムール貝を採るミシシッピ流域に住まう漁師たちの写真集に惹きつけられた彼は、それをきっかけに流域のライフスタイルと歴史、そして、現状について調査を開始したのだ。 すると、彼の親族の多くがハウスボートの住人であり、彼らの住まいは法律上、住人が居住権を有する資産とは認められず、転出後、破棄される運命にあるという厳しい現実に直面する。それはミシシッピ流域に限らず、アメリカ南部全体に広がる伝統的ライフスタイルの消失を意味していた。劇中で、エリスの父親が漁師として充分な収入が得られず、本来ボートの持ち主である母親が転出を望む以上、川での暮らしは断念するしかないと息子に語るシーンには、そんな流域住民の逃れられない宿命が描き込まれているのだ。 南部独特の泥で茶色く濁った水、アーカンザス川が合流する大河ミシシッピに浮かぶ砂の小島、小島の沼に巣くう毒蛇の群れ。それらは、監督が美しくも恐ろしい故郷の自然に対して捧げた映像のオマージュに他ならない。その最たるものが、川の氾濫によって木の上に持ち上げられたままのボートだ。そして、主人公のマッドはそのボートで秘かに生を繋ぐ謎めいたアウトサイダーである。 仲違いが絶えない両親の目を盗み、こっそりマッドに食料を調達するエリスが、そのうち、失った初恋の痛みを、女絡みで犯罪を犯し、命を狙われる身のマッドと共有して行くプロセスは、世代も背景も異なる2人を主軸にすることで、甘くほろ苦いだけの初恋ものとも、単なる犯罪ドラマとも違う入り組んだ和音を奏でていく。さらに、男子にとっての父権不在、単純に善悪では判別できない男女の関係性と、2層3層になった脚本は自分自身の体験をベースに監督自らが認めたもの。風景と人間関係が瑞々しく、且つ強烈に観客の心に突き刺さってくるのはそのためだ。 ミシシッピを舞台にした少年の冒険談と言えば、誰もがマーク・トウェインを思い浮かべるはず。トウェインもミシシッピ流域で少年時代を過ごし、代表作の『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』は少年期の体験がベースになっているからだ。また、そのペンネーム(本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ)はトウェインが川を航行する蒸気船で働いていた頃、水深を測る担当者が船底が川底に激突するすれすれの深さを船長に知らせる時に叫ぶ、「Mark Twain(2つめのマーク)」から取ったものだとか。Twoを南部訛りで発音するとTwainになるらしい。 トウェインとニコルズの出会いは彼が13歳の頃に遡る。ある日、学校の教室で『トム・ソーヤーの冒険』を秘かに読みふけっていたニコルズは、特に文中にあったあるフレーズに強く触発される。そこには、主人公のトムが川を泳いで河口に浮かぶ無人島に渡り、昼寝をするという、何とも自由で幸せな情景が独特の文章を用いて書かれていたのだ。それが後に『MUD マッド』のプロット作りに繫がったのは言うまでもない。 トウェインの作品に登場する人物にはすべて実在のモデルがいると言われる。トム・ソーヤーはトウェイン自身で、ハックルベリー・フィンは近所に住んでいたトム・ブランケンシップという少年がモデルだとか。そう、『MUD マッド』ではサム・シェパードが演じている役名と同じだ。トウェインは回想録の中でトムについて、「他人に縛られることなく自由に生きる町で唯一の人間」と語っているが、それは名優シェパードによって見事に具現化されている。マッドとエリスの交流を終始対岸で見守りつつ、クライマックスでは俄然存在感を発揮するアウトロー像は、この物語が最後に行き着く失われた父親のイメージを体現して余りあるものがあるのだ。 ニコルズは脚本執筆段階からトム役にサム・シェパードを想定していたというから、そのハマリ役ぶりは半端ないし、同じく『真実の囁き/ローン・スター』(96/未公開)を観て以来、監督がマッド役に決めていたというマシュー・マコノヒーの存在感が傑出している。犯罪を犯しても尚、自らの思いを全うしようとする傍迷惑なほど頑固で純粋なキャラクターは、確かに『真実〜』で演じたメキシコ国境の町で発生した人種問題が絡んだ難事件に挑む若き保安官に通じる透明感がある。 この後、『ダラス・バイヤー・クラブ』(13)での減量によるメソッド演技でオスカー以下数多くの演技賞を受賞し、今や役のためなら体型と見かけを変えられる、否、まるで"肉体改造依存症"に陥っているかのようなマコノヒーだが、『MUD マッド』は彼がまだ美しくいられた時代の最後を飾る作品。物語の後半ではあんなに大切にしていたアイボリーのシャツを脱ぎ捨て、鍛え上げた上半身を開示してしまうナルシストぶりは、当時も今も変わらない性癖なのだが。 マコノヒー、シェパード、ヒロイン役のリース・ウィザースプーン、熾烈なオーディションによって選ばれた子役たち、そして、マッドを追いつめる組織のボスを演じる悪役の権化、ジョー・ドン・ベイカー等を巧みに配置し、気鋭の監督が故郷への立ちがたい思いを注入した『MUD マッド』は、廃れゆくアメリカ的風土への、そして失われた少年時代へのオマージュとして、重ねて味わい深い作品だ。■ © 2012, Neckbone Productions, LLC.
-
COLUMN/コラム2017.05.20
同業者からリスペクトされるジョージ・クルーニーの映画人としての使命感が映像に結実した、入魂の『グッドナイト&グッドラック』〜05月09日(火)ほか
『シリアナ』(05)でアカデミー助演男優賞を受賞した時、壇上に上がったジョージ・クルーニーのスピーチに耳を傾ける同業者たちの、尊敬と憧れに満ちた表情が今でも忘れられない。クルーニーはこう言い切った。『映画に携わる仲間の一員であることを誇りに思う』と。場内に割れんばかりの拍手と歓声が沸き上がったことは言うまでもない。 同年、クルーニーが2度目の監督作に選んだ『グッドナイト&グッドラック』を見ると、まさしくオスカーナイトでの言葉通り、彼が映画人としての使命にいかに忠実であるかがよく分かる。選んだネタは、1950年代のアメリカ社会で吹き荒れたマッカーシー上院議員による反共産主義活動、いわゆる赤狩りに敢然と挑み、マーカーシズムの悪夢を終焉へと導くきっかけになったTVマンたちのリアルストーリーだ。宗教や思想の自由を束縛する政治の横暴に立ち向かおうとした人々を映像で蘇らせること。それはそのまま、今のハリウッドに求められるミッションだと、彼は確信したに違いない。その決断が、10年後のまさに今の今、これほど重い意味を持つことになるとは、当時のクルーニー自身、想像だにしていなかったかも知れないが。 物語のキーマンは、アメリカ3大ネットワークの1つ、CBSの人気ニュース番組"シー・イット・ナウ"のキャスター、エド・マローだ。ある空軍兵士が赤狩りによって不当に除隊処分されようとしている事実を掴んだマローと番組スタッフが、マッカーシー側の圧力を受けながらも、虚偽と策謀の実態を生放送の中で告発していくプロセスを、クルーニーは当時のニュースフィルムと自ら撮った映像とを交えて構成。そこまでなら、多くの監督が取ってきた既存の手段だ。1950年代にはモノクロだったTV番組を克明に再現するため、カラーで撮ったフィルムをポスト・プロダクションであえて彩度を落としてモノクロに変える方法も、さほど珍しくはない。 監督としてのジョージ・クルーニーが同業他者と少し違うのは、その徹底した美意識だ。マローはCBS入社後、第二次大戦下のロンドンでラジオ・ジャーナリストとして番組を担当していた時、毎夜ナチスの空襲に脅えるロンドン市民に対して、番組終了間際に『グッドナイト、アンド、グッドラック』と呼びかけることで知られていた。もしかして就寝後、爆死するかも知れない人々の耳に『おやすみ、そして、幸運を祈ります』がどう届いたか?想像に難くないが、"シー・イット・ナウ"でもその決まり文句が番組の結びにも使われていたことから、クルーニーは映画のタイトルとして流用。しかし、そんなキザな文句を台詞としてかっこよく決められる俳優はそう多くない。 そこで、発案段階から監督のファースト・チョイスだったのがデヴィッド・ストラザーンだ。映画デビュー前の数年間を舞台俳優として全米各地を巡演したこともあるストラザーンの口跡の良さを見抜いていたクルーニーは、信念を持って彼を主役に抜擢。一語一語が視聴者の心に届くようなその紳士的な抑揚と発音は、社会を覆う赤狩りの暗雲を切り裂く鋭利な刃物のようで、監督の狙いはどんぴしゃだったはず。声だけじゃない。ストラザーンの顔の輪郭、特に美しい眉と目が、本番中、左下に置かれた原稿とカメラの間をゆっくりと往復する時、観客は思わず惹きつけられて当時のTV視聴者になったような錯覚を覚えるほど。実物のマローはストラザーンとは似ても似つかぬルックスだが、左下と正面を往復する目線は全く同じ。監督が事実を忠実にコピーしていることが伺える。『シリアナ』でクルーニーと組み、後に『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(07)でオスカーに輝くカメラマン、ロバート・エルスウィットの、ストラザーンの輪郭を熟知したアングルとライティングにも注目して欲しい。 クルーニーは脇役にもこだわった。台詞がある役には1950年代のアメリカ人らしい顔と雰囲気を持った俳優たちが集められた。番組スタッフ役のロハート・ダウニーJr(『アベジャーズ』の前は『チャーリー』(92)で赤狩りでハリウッドを追われたチャップリンを好演)、同じくパトリシア・クラークソン(『エデンより彼方に』(02)で'50年代のブルジョワ主婦役)、同じくテイト・ドノヴァン(『メンフィス・ベル』(90)で第2次大戦を戦った米軍パイロット役)、放送局幹部役のジェフ・ダニエルズ(『カイロの紫のバラ』(85)で往年の映画スター役)、そして、プロデューサー役にはクラシックビューティの権化とも言うべきジョージ・クルーニー本人という、まさにパーフェクトな布陣である。 音楽も粋だ。シークエンスとシークエンスを繋ぐグッド&オールドなジャズナンバーを歌うのは、現役最高峰のジャズシンガーと言われるダイアン・リーヴス。劇中でリーヴスのバッグハンドを務め、映画で使われる全曲のアレンジを担当しているのは、監督の叔母で歌手兼女優だったローズマリー・クルーニー(02年に他界)のラスト・アルバムをプロデュースしたマット・カティンガブだ。 マローが"シー・イット・ナウ"と同じくホストを務めるインタビュー番組"パーソン・トゥ・パーソン"で、伝説のピアニストでワケありのリベラーチェに白々しく結婚観を質問した直後の気まずい表情、同番組で話題に上がるミッキー・ルーニーのほぼレギュラー化していた新婚生活情報(ルーニーは93年の生涯で計8回結婚)等、クルーニーとグラント・ヘスロブが執筆した脚本には、けっこうな毒も含まれている。その最たるものは、劇中のほぼ全ショットにタバコの煙が充満している点だ。番組スタッフは四六時中タバコを吹かし、マローに至っては本番間際にプロデューサーから火を点けて貰い、カメラが回り始めても吸い続けていると言った具合だ(ストラザーンはノンスモーカーらしいが)。これには理由があって、CBSのオーナー、ウィリアム・ペイリーがタバコ会社の御曹司で、社会の喫煙には寛容だったようなのだ。 つまり、ペイリーは反マッカーシズムを貫いた結果、スポンサー離れを招いた"シー・イット・ナウ"のスタッフを危険視しつつも、社員の健康には無頓着だったということになる。そんな、ある意味古き良き企業の矛盾を炙り出しながら、赤狩り時代のTV界をヒントに、ニュース番組の、ひいては映画産業のあるべき姿を問い質そうとしたとした監督・脚本・出演のジョージ・クルーニーは、やはり業界人にとって眩しい存在に違いないという、再び冒頭の結論に立ち戻ってしまう。 結婚以来、俳優としてはどうやら一段落つき、今秋の全米公開に向けて製作中の最新監督作『Suburbicon(原題)』は、マット・デイモンを主役に迎えた初のミステリーだとか。そんなクルーニーに新たなラックが訪れることを祈りたいと思う。■ ©2005 Good Night Good Luck, LLC. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2017.04.15
【本邦初公開】労働者階級出身のアルバート・フィニーが自らを反映した渾身の監督&主演作『チャーリー・バブルズ』は日本未公開!?〜04月13日(木)深夜ほか
直近では『ボーン・アルティメイタム』(07)と続く『ボーン・レガシー』(12)で演じたドレッドストーン計画の生みの親であるアルバート・ハーシュ博士役や、『007 スカイフォール』(12)の終幕間近に登場するボンド家の猟場管理人、キンケイド役が記憶に新しいアルバート・フィニー、現在80歳。言わずと知れたイギリス王立演劇学校OBの生き残りである。一学年下のアンソニー・ホプキンスは健在だが、同級生のピーター・オトゥールはすでにこの世にはいない。 1959年に舞台デビュー直後、名優ローレンス・オリビエやヴァネッサ・レッドグレイヴ等と互角に渡り合い、翌年には映画デビューも果たしたフィニーが、最初に世界的な評価を得たのは『土曜日の夜と日曜日の朝』(60)。"怒れる若者たち"の作者として知られ、1950年代のイギリスで起きた労働者階級の苦境を台所の流しを用いて描いたムーブメント、"キッチン・シンク・リアリズム"と繫がるアラン・シリトーの原作を脚色した社会派ドラマだ。1960年代に"スウィンギング・ロンドン"が巻き起こる前のイギリスでは、このような北部の貧困地域で怒りを溜め込んで生きる若者にフォーカスした演劇や小説、TVドラマ、そして、映画がカルチャーシーンをリードしていたのだ。 "キッチン・シンク・リアリズム"と最も敏感に響き合ったのは映画で、新鋭監督たちが"ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ"を形成。『土曜日の夜と日曜日の朝』の監督、カレル・ライスは、その後『孤独の報酬』(63)を製作し、同作の監督、リンゼイ・アンダーソンは『If もしも…』(68)を発表し、トニー・リチャードソンは『蜜の味』(61)、『長距離ランナーの孤独』(62)に続いて、再びムーヴメントの旗頭的スター、アルバート・フィニーを主役に迎えて『トム・ショーンズの華麗な冒険』で第36回アカデミー作品賞を奪取する。それは"ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ"がハリウッドをもその大きなうねりの中に巻き込んだ瞬間だった。 前置きが長くなった。『チャーリー・バブルズ』はその後、イギリス演劇界を飛び越え、ハリウッドを起点に華々しく活躍することになるアルバート・フィニーが、かつて身を以て体験した"ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ"に思いを馳せつつ挑戦した、最初で最後の監督(&主演)作品である。 主人公のチャーリーは人気作家として名声を確立しているものの、同じ成功者たちが集う社交クラブでメンバーが交わすビジネストークには心底辟易している。そこで、チャーリーは友達のスモーキー(後に『オリエント急行殺人事件』(74)でポワロ役のフィニーと探偵ハードマン役で共演しているコリン・ブレイクリー)と周囲がどん引きなのも気にせず頭から食べ物をぶっかけ合い、そのまま通りを闊歩し、デパートで買ったラフな服に着替えた後、プールバーで玉を突き合い、パブで一杯引っ掛ける。チャーリーがいかに現在の生活に退屈しているかをデフォルメして描いた若干奇妙で強烈な導入部だ。 この後、チャーリーは秘書のエリザベス(なぜかブレイクスルー前のライザ・ミネリ)を成金の象徴のようなロールスロイス/シルバークラウドⅢの助手席に乗せ、ロンドンから完成したばかりのハイウェイ、M1に沿って一気に北上していく。向かう先はチャーリーの故郷であり、"ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ"の舞台であり、同時に、自身も労働者階級に生まれ育ったフィニーのホームタウンであるマンチェスターだ。つまり、今や(当時)若き演技派俳優として未来を約束されたフィニーが、チャーリーを介してあえて失った過去に向けて舵を切った疑似自伝的ストーリー、それが『チャーリー・バブルズ』なのだ。 久々に故郷の土を踏んだチャーリーが、果たして、その目で確かめたものは何だったのか?そこで描かれる変わらぬ厳しい現実と、たまにしか帰還しない訪問者としてのチャーリーの間に横たわる隔たりに、監督、または俳優としてのフィニーのジレンマを感じ取ることは容易い。むしろ、"ブリティッシュ・ニュー・ウエイヴ"を牽引した監督のほとんどが一流校オックスブリッジの卒業生であり、その他人事のような視点が、結局この潮流を1960年代後半で途絶えさせた原因だったことを考えると、結果的に、アルバート・フィニーこそが労働者の光と影を身を以て体現できる数少ない生き証人だと今更ながら痛感する。製作時、当の本人は想像だにしてなかっただろうが。 これを機にイギリスに於ける階級社会の問題点をさらに膨らませると、今やかの国では演劇学校の月謝が高騰し、もはやワーキングクラス出身の俳優志望者たちは夢を捨てざるを得ない状況に陥っているとか。それは、一昨年のアカデミー賞(R)でオックスブリッジ卒業生のエディ・レッドメインとベネディクト・カンバーバッチが主演男優賞候補に挙がった時、労働者階級出身の名女優、ジュリー・ウォルターズがメディアにリークしたことで一躍注目された話題だ。一説によると、労働者階級出身のスターはジェームズ・マカヴォイを最後に登場していないとか。それが事実だとすると、映画ファンはもう2度と第2のショーン・コネリーやマイケル・ケインや、そして、アルバート・フィニーに会えなくなるということだ。3人ともまだ健在だが。 そんなことにまで思いを至らせる『チャーリー・バブルズ』だが、何と日本では劇場未公開。フィニーは初監督作品を自ら主宰するMemorial Enterprisesで製作を請け負い、配給元としてハリウッドメジャーのユニバーサルを迎え入れる等、万全の体制で臨んだものの、映画がイギリスとアメリカで公開されたのはクランクアップから2年後の1968年だった。チャーリーの妻を演じたビリー・ホワイトローが英国アカデミー賞と全米批評家協会賞の助演女優賞に輝き、レビューでも高評価を獲得したにも関わらずだ。結果、フィニーはその後再びディレクターズチェアに腰を沈めることはなかった。この映画のためなら得意ではないキャンペーンも精力的にこなすつもりでいたフィニーだったが、出席を予定していた第21回カンヌ映画祭が、政府の圧力に屈した映画祭事務局に抗議するジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォー等、ヌーベルバーグの監督たちによる抗議活動によって中止に追い込まれるという不運にも見舞われる。後に、この映画祭粉砕事件はカンヌ映画祭に"監督週間"という新規部門を作るきっかけになり、ここから多くの新人監督たちが羽ばたいていったことを考えると、同じく監督を目指したフィニーにとっては皮肉な結果と言わざるを得ない。 しかし、『チャーリー・バブルズ』を観れば分かる通り、階級社会を果敢に生き抜いてきた骨太の個性とユーモア、そして、溢れる人間味は、彼の演技と無骨な風貌を介して永遠に生き続けるもの。何しろ、妖精オードリーを劇中で"ビッチ!"と蔑んだのは(『いつも2人で』67)、後にも先にもフィニーだけなのだから。■ © 1967 Universal City Studios, Inc. Copyright Renewed. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2017.03.18
『ラ・ラ・ランド』に繫がるビビッドな色彩と、伝説のセレブカップル、ドヌーブ&マストロヤンニの不変の愛が宿る〜『モン・パリ』〜03月02日(木)深夜ほか
デイミアン・チャゼルがアカデミー賞史上最年少の32歳で監督賞を受賞し、ここ日本でもブレイクスルーの兆しを見せている『ラ・ラ・ランド』のおかげで、にわかに脚光を浴びているジャック・ドゥミである。ご存知の通り、監督のデイミアン・チャゼルが『ラ・ラ・ランド』に忍ばせたオマージュの中で顕著なのが、ドゥミの代表作『シェルブールの雨傘』(64)や『ロシュフォールの恋人たち』(67)を模したジャジーなメロディと、カラーリング=配色。意図的に配置された原色のイエローやレッド、ピンクやグリーンの衣装やインテリアが、物語の楽しさとも相まって、いかに観客の気持ちを和ませるかを、映画史上、最も熟知していたフィルムメーカーの一人がドゥミだった。 決して巨匠の範疇ではなかったが、その59年の生涯でドゥミは映画監督として幾つかのイノベーションを試みている。1つは、長編デビュー作『ローラ』(61)から『シェルブール』『ロシュフォール』ヘと繫がるラブロマンス路線。イノセントなヒロインの運命を、盟友、ミシェル・ルグランの音楽に乗せて描いたミュージカルという表現ツールは、『シェルブール』から『ロシュフォール』を経て『ロバと王女』(70)へと引き継がれる。そして、またもカトリーヌ・ドヌーブを主役にカラーリングを意識し、当時フランスでは"エディット・ピアフの再来"と騒がれたミレーユ・マチューと彼女の歌声をフィーチャーし、さらに、"男の妊娠"という斬新なデーマに切り込んだのが『モン・パリ』(73)だ。 まず、この映画のカラーリングは過去のどの作品より攻めている。モンマルトルで美容院を経営するヒロイン、イレーヌに扮した当時30歳のドヌーブが、いきなりグリーンのパフスリーブのニットにハートマーク入りTシャツ、そして、デニムのつなぎで登場したかと思えば、場面が変わると、次はブルーのフェイクファージャケット、さらに毛足の長いピンクやパープルのニットコートと立て続けに着替え、その都度、ドヌーブのブロンドヘアにはニットと同じ色のヘアピンが止められているという念の入れようだ。ドヌーブ自身も映画全体に溢れるカラフルな色に触発されたのか、ノーブラの上に薄いサーモンピンクのニットセーターを着て現れる。ニットの下で揺れる豊満な乳房をアピールしつつ! さて、マルチェロ・マストロヤンニ演じるイレーヌのパートナー、マルコはイタリアからやって来たバツイチの自動車学校経営者。最近、あまり体調が芳しくない彼は、イレーヌを伴い訪れた病院で、何と妊娠4ヶ月だと告げられてパニックになる。医者はホルモン異常と加工食品の摂取が原因だと言うが、そんなのあり得るだろうか?やがて、イレーヌとマルコは"人類が月に降り立って以来の出来事"(←原題)とメディアに持てはやされ、マルコは男性用マタニティウェアのモデルとして売れっ子に。このあたり、ファッショニスタとしてはドヌーブより数段上のマストロヤンニが、お腹の部分が突き出たマタニティデニムや、ベルボトムのコーデュロイを小粋に着こなしてイタリア仕込みのセンスを披露。カールしたヘアとチョビ髭が人類初の"妊夫"になってしまった男の居場所のなさを現して、味わい深いことと言ったらない。 脚本を兼任するドゥミは、男の妊娠を受けて雄叫びを上げる女性たちの台詞に、折しも1970年代初頭に世界中で巻き起こった女性解放運動=ウーマンリブの風潮を盛り込んでいる。女たちは、「これで不妊のプレッシャーから解放されるわ!」とか、「自由に中絶できるじゃない!?」とか意気盛んだが、この問題は40年以上が経過した今も議論の的だし、さらに、劇中ではジェンダー(性別に基づいて社会的に要求される役割)についてさりげなく言及するシーンもある。妊娠したマルコに憧れる美青年が、「僕も性転換したい」と言い放つのだ。当時、ドゥミがどこまで真剣に考えていたかは不明だが、ジェンターという概念をいち早く受け容れていたことは確かで、ここにも彼のイノベーターぶりを感じる。マルコの妊娠そのものより、それを叩き台に性的定義への問いかけを、フランスのエスプリをたっぷり注入したラブコメディというフォーマットに落とし込むとは!? バックステージでは真逆のことが起きていた。正確な時期は定かではないが、製作当時、または直前にドヌーブはマストロヤンニの子供を出産したばかりだったのだ。そう、それから遡ること2年前、『哀しみが終わるとき』(71)で愛児を亡くした夫婦を演じたのが縁で恋に落ち、直後『ひきしお』(71)で孤島に残された男女に扮した2人にとって、『モン・パリ』は3度目の共演作。3度目ともなればツーカーなのは当然だが、ところどころよく見ると、2人の間で交わされるボディタッチが過剰に感じる場面もなくはない。モンマルトルのアパートのキッチンで、マルチェロの手が席を立とうとするカトリーヌのお尻にそっと添えられたり、シャンプー台に上向きに座った彼の手が、自然に彼女の後ろに回ってハグしたり、等々。これら、まるで、ドゥミの演出を無視して私生活での距離感が自然に画面に現れたかのような瞬間を、是非見逃さないで欲しい。 当時、未婚のまま公私共に堂々と行動を共にするセレブカップルとしての2人の認知度は、今で言えば正式に結婚する前のブランジェリーナ以上。映画雑誌ではほぼ毎号、コートダジュールやパリのクラブで頻繁にデートを重ねるプライベートショットがグラビアを飾ったものだ。しかし、この恋はやがて終わりを告げる。評伝"運命のままにーわが愛しのマストロヤンニ"(日之出出版)に因ると、2人が『哀しみの終わるとき』のロケで出会ったのは、マストロヤンニが『恋人たちの場所』(69)の共演者、フェイ・ダナウェイと、ドヌーブが『暗くなるまでこの恋を』(69)の監督であるフランソワ・トリュフォーと、各々別れた直後だったという。そうして、自然に惹かれ合い、交際を始めたものの、約3年が経過したある日のこと、突然、ドヌーブの方から一方的に別れが告げられる。予期せぬ言葉に狼狽えるマストロヤンニに対して、「もう刺激がないの」と言い放ったというドヌーブの冷酷なほどの正直さもさることながら、一方で、愛する女への未練を率直に口にするマストロヤンニの、ドヌーブ以上に自分の感情に忠実でいられた男としての器の大きさを感じるエピソードではないか。 しかし、晩年、癌を患ったマストロヤンニが暮らすパリの自宅を幾度となく訪れ、最期を看取ったのは、誰あろうドヌーブと、彼女がマストロヤンニとの間に設けた愛娘で、後に女優デビューするキアラ・マトスロヤンニだった。その後、ドヌーブはマストロヤンニについて、「マルチェロと関わった人間は、誰1人として彼のことを忘れることはできない」とコメント。そう聞くと、改めてスターの世界の移ろいやすさと、それでも変わらず相手を認め、尊ぶ気持ちの強さを感じないわけにはいかない。『モン・パリ』が描くホラ話とも言える大胆かつコミカルな物語の裏側に、そんな生々しく温かいドラマが隠されていることを含んだ上で見ると、また違う味わいがあるのではないだろうか。■ L'EVENEMENT LE PLUS IMPORTANT DEPUIS QUE L'HOMME A MARCHE SUR LA LUNE
-
COLUMN/コラム2016.09.17
ジャン・マレーの"陰"とルイ・ド・フュネスの"陽"がガチで渡り合う魅惑の「ファントマ」シリーズ
怪盗とドシな警視が端から勝敗が分かった出来レースを展開する。とても映画ファンフレンドリーなプロットだ。そこから、「ピンク・パンサー」の怪盗VSクルーゾー警部を思い浮かべる人もいるだろうし、一方で、スパイ・アクションとして切り取れば、ジェームズ・ボンドが世界制覇を狙うスペクターを追撃する「007」シリーズも想定内だろう。でも、ピーター・セラーズがシリーズ第1作『ピンクの豹』(64)でその天才的な"間の演技"で一世一代の当たり役、クルーゾーを世に送り出した同じ年、そして、『007 ドクター・ノオ』(63)でボンドが特命を受けてジャマイカに飛んだ翌年、フランスから発射された大ヒット怪盗シリーズがあった。それが「ファントマ」だ。 基の原作はピエール・スーヴェストルとマルセル・アラン共著による大衆小説で、後に母国フランスでサイレントやモノクロ映画にもなっているが、映画史的にはフランスのGaumont製作で20世紀フォックスによって世界配給されたシリーズが最も有名。でも、同じ時代のヒットシリーズ「ピンク・パンサー」や「007」に比べるとも知名度で劣る気がする。実際、映画マニアの中でも未見の人が多いと聞く。しかし、改めて観てみるとこれが楽しいことこの上ない。「007」と比較するのは申し訳ないような緩いアクションと俳優の個人芸、笑いの中に漂う不気味さと癒やし、それらが、シリーズの肝でもあるフランスのエスプリの皿に乗せられ、大衆食堂のテーブルにサーブされるかの如く。 神出鬼没の怪盗、ファントマが街を賑わせる中、パリ警視庁のジューヴ警部と新聞記者のファンドールが怪盗の素顔を暴き、逮捕に漕ぎ着けようとするが、ファントマは頭脳戦でこれに抵抗。両者の攻防はシリーズ第1作『ファントマ 危機脱出』のパリから、第2作『ファントマ 電光石火』のローマへ、さらに第3作『ファントマ ミサイル作戦』のスコットランドへと舞台を移して行く。そんなヒット映画のルーティンに則ったロケーション・ムービーとしての視覚効果はさておき、このシリーズ最大の楽しさは変装術にある。 ファントマの特技は野望達成のために生来の鉄仮面(設定上)の上に他人の顔をコピーして被り、相手を巧みに欺くこと。『危機脱出』の冒頭でヴァンドーム広場の宝石店からハイジュエリーを強奪するシェルドン卿と、物語の後半では刑務所の看守に化けて現れるファントマだが、『電光石火』では、ファントマによって拉致される科学者、ルフューヴル教授自身と、教授に化けたファントマ、さらに、ファントマを欺くために教授になりすましたファンドールが三つ巴で絡み合う。それらのキャラクターは、全員、主演のジャン・マレーが特殊メイクで1人2役、3役、またはそれ以上を演じているのを見逃す人はいないだろう。(勿論、ファントマは誰か?という秘密も)この種のシーンで当時常識とされていたのはスタンドイン。マレー演じる人物が同じ画面で対峙する時、片方はマレーが、もう片方は顔を隠して似た体型の他人が演じるお馴染みの手法だ。映画史に於いて、同じ人物同士が合成によって画面で対面した最初の作品は,恐らくケヴィン・クラインがアメリカ大統領とそのそっくりさんを1人2役で演じた『デーヴ』(93)ではなかったかと思う。いずれにせよ、「ファントマ」ほどスタンドインが堂々と、むしろ意図的に活躍する映画は少ないので、是非、その際の確信犯的カメラアングルに注目して観て欲しい。 変装するのはファントマやファンドールだけじゃない。『電光石火』では孤児院の子供がファントマのマスクを被って仲間を驚かせ、劇中のハイライトである仮装舞踏会では、ファントマが鉄仮面の上にアラブ王子のメイクを施して登場。『ミサイル作戦』では犬がキツネの着ぐるみを着てハイランドを疾走する。それを見てジューヴは『犬までが!?』と嘆くが、変装、仮装、仮面というアイテムは『オペラ座の怪人』『ジゴマ』『アルセーヌ・ルパン』を例に挙げるまでもなく、フランス大衆文学の必須要素。その脈々たる伝統を『ファントマ』も受け継いでいる。 出世作『美女と野獣』(46)で恩師、ジャン・コクトーから獣のメイクを施されたジャン・マレーが、20年後に巡ってきたヒットシリーズで、再びメイクを駆使した役で脚光を浴びるという宿命も感じないわけにはいかない。マレーが『危機脱出』で老紳士、シェルドン卿に扮して画面に現れた時、マレーの美貌にクラクラだった日本の女性ファンは、そのリアルな老けメイクを見て、彼が本当に老け込んでしまっと勘違いしてショックを受けたという逸話も。もし、それが本当なら、本人はさそがし愉快だったことだろう。 変装で魅せるマレーに対して、変幻自在の顔芸と、まるでコマ送りしたような俊敏な動きで笑いを取るのは、フレンチコメディ界のレジェンド、ルイ・ド・フュネスだ。ジューヴ警部に扮したフュネスは、画面にいる時は常時、喋りのスピードに合わせて顔の筋肉を躍動させ、体もそれに連動してまるで瞬間移動を繰り返しているかのよう。深夜、ベッドの上で奇怪な音に反応して飛び起きたり、防音のため耳栓をしていたのを忘れて、朝、寝室に音もなく現れた部下のベルトラン(『グリーンフィンガース』(00)等で知られるフランスのバイプレーヤー、ジャック・ディナムがフュネスと絶妙な掛け合いを見せる)に悲鳴を上げたり等々、人として普通の行動がフュネスの肉体を通すと問答無用で爆笑に繫がるシーンが、不気味なファントマとの対比で絶好のスパイスになっている。 スペイン、カスティーリャ地方の没落貴族の末裔から叩き上げ、フランス屈指のコメディアンになったフュネスの、これは『大混戦』(64)で始まる"サントロペ・シリーズと並ぶヒット作。様々な職業人の特徴を演じ分け、その人物独特の動きをパントマイムで表現する彼の演技手法は、俳優を正業にするまであらゆる仕事をこなしたというフュネスの実地体験から派生しているものだろう。 人気役者に美貌は決して求めず、人間味こそがエスプリの源と信じるフランス人にとって、フュネスがいかに偉大なアイコンだったかは、1964年の年間フランス国内興収の1位に『大混戦』、4位に『ファントマ 危機脱出』が、明けて1965年の1位に人気コメティアン、ブールヴィル共演の『大追跡』、4位にサントロペ・シリーズ第2弾『ニューヨーク大混戦』、6位に『ファントマ 電光石火』が同時ランクインしていることでも明らかだ。因みに、1966年に興収トップとなったフュネス&ブールヴィルの『大進撃』は、1997年に『タイタニック』に抜かれるまでフランス歴代興収最高位を維持し続けた。 そう考えると『ファントマ』シリーズは詩人、ジャン・コクトーに見出された美男俳優、ジャン・マレーの"陰"と、大衆に愛され続けたコメディアン、ルイ・ド・フュネスの"陽"がガチで渡り合った、別の意味での対決映画と取れなくもない。一説によると、撮影中マレーとフュネスの関係は良好ではなかったとか。それはもしかして本当かも知れない、と思ってみたりして。■ © 1964 Gaumont
-
COLUMN/コラム2016.07.02
フレンチ・リビエラの海岸でジーン・セバーグの太股が揺れる!! アメリカ人には不向きだったアナニュイな夏〜『悲しみよこんにちは』〜
ユベール・ド・ジバンシーと言えばオードリー・ヘプバーン。映画ファッション史に名を刻む2人のトレンドセッターが最初にコラボしたのは『麗しのサブリナ』(54)だが、時系列的にはそれから約4年後、『昼下りの情事』(57)でアリアンヌ役のオードリーか着る数点のドレスをデザインし終えた直後あたりに、ジバンシーが非オードリー作品に衣装デザイナーとして駆り出される。それが『悲しみよこんにちは』(58)だ。 映画はまるでジバンシー、もしくはジバンシー的ミニマリズムのオンパレード。彼が衣装を担当したどのオードリー映画より、オードリーがいない分、むしろジバンシー色が強いと言っても過言ではない程だ。なので、ここで衣装の解説に少し字数を割きたい。 冒頭でジーン・セバーグ演じるヒロインのセシルが着て現れる黒いベアトップのカクテルドレスは、もろ『麗しのサブリナ』でオードリーが着ていた"デコルテ・サブリナ"のアレンジ。両肩のリボンストラップを首元に移行させてはいるが、タイトな上半身と膨らんだパニエのドラマチックな対比、モノクロを意識したミニマルなシルエットは、どちらもジバンシーならでは。『悲しみ~』はストーリー展開に伴いカラーとモノクロをカットバックで切り替える手法だ。因みに、セシルやデボラ・カー扮するアンヌが身に付けるジュエリー類は、パリのハイブランド、カルティエとエルメスから提供されている。 セシルとデヴィッド・ニーブン演じる富豪でプレイボーイの父親、レイモンが夜な夜なパリの街に繰り出し、パーティに明け暮れる刹那的な冒頭シークエンスから、父娘が夏を過ごした1年前のフレンチ・リビエラに時間が巻き戻ると、画面は一転、モノクロからカラーにシフト。ここでカラフルなジバンシーファッションが一気に炸裂する。レイモンに招待されてコテージに現れる、後のフィアンセで、セシルにとっては継母になるはずだったアンヌがセシルにプレゼントする、胸にフローラル刺繍が施されたドレスを筆頭に、セシルと、レイモンまでが多用する(アンヌもやってる)シャツの裾結びとショートパンツの組み合わせ、セシルが履く楽ちんそうなバレエシューズ等々、否が応でもサブリナやアリアンヌを連想させる服と着こなしは、ジバンシー本人と、衣装コーディネーターのホープ・ブライスが場面毎にデザインまたは用意した品々。ブライスは本作の監督、オットー・プレミンジャー夫人で、夫が監督した計9作で衣装コーデを手がけている。ジバンシーのセンスとブライスの統括力のお陰で、映画はさながらジバンシーによるビーチリゾート・ファッションショーの趣きだ。 さて、ここらでファッションから映画の背景に話題を移そう。『悲しみよこんにちは』はフランソワ・サガンがブルジョワのアンニュイな生活と孤独を綴って作家デビューを飾ったベストセラー小説の映画化。これにインスパイアされたサイモン&ガーファンクルが、名曲"サウンド・オブ・サイレンス"を発表したとも言われる。確かに、父親の愛を繋ぎ止めるために、何の罪もないアンヌに惨い制裁を加えてしまうセシルが引き摺る後悔と、永遠に逃れられない孤独との共存を意味する映画のタイトルは、"S.O.S"の歌い出し"hello darkness my old friend~"と符合する。プレミンジャーは小説の世界観に魅せられ、映画化を決意。そして、完成した作品は、ヒッチコックの『泥棒成金』(55)と同じ ゴート・ダ・ジュールの海岸線や、オープンカーでのドライブ、ラグジュアリーなリゾートファッション等で共通するし、映画史的に見ると、1950年代のハリウッドではこの種のヨーロッパを舞台にした観光映画がちょっとしたブームだった。『ローマの休日』(53/ローマ)然り、『愛の泉』(54/同じくローマ)然り、『旅情』(55/ベニス)然り。 それは、当時のアメリカ人にとってヨーロッパはまだまだ遠く、いつか訪れてみたい憧れの地だったからだろう。そのため、作られた映画はほぼ間違いなく、旅には付きもののラブロマンスと決まっていたものだ。でも、『悲しみよこんにちは』は少しテイストが異なる。南仏でのバカンスを無邪気に楽しむレイモンとセシルが、遊びの延長でアンヌを排除してしまった罪悪感が、風景の彩度と反比例して、観客の気持ちまでアンニュイにするからだ。その刹那でデカダンなムードが映画の魅力とも言えるし、レイモンとセシルは毎夏リビエラに南下して来るパリ在住のブルジョワ。外国人が異国の地で萌える他のハリウッド映画とはそもそもキャラ設定が違う。だからだろうか、公開当時、アメリカメディアの評価は芳しくなかった。反面、原作者サガンの母国フランスでは映画人たちが絶賛。ジャン=リュック・ゴダールは1958年のベストンワンに選び、エリック・ロメールは"シネマスコープで撮られた最も美しい映画"と評している。 オットー・プレミンジャー自身も"自作中最も好きな映画"と自画自賛する本作で、誰よりも幸運を手にしたのは、言うまでもなく主演のジーン・セバーグだっただろう。トランジスターグラマーなボディライン(160センチ)から溢れ出る若々しさと、"セシルカット"と呼ばれたブロンドのショートヘアは一種のムーブメントとなり、特にそのヘアスタイルは、女優がイメージチェンジする際の必須アイテムとして定着。パーマネントが必要な"ヘプパーンカット"と比べてナチュラルな分、より一般的、普遍的に広がっていった。そして、ジバンシーがデザインしたリゾートウェアも、もしかして、スリムな体型に恵まれたオードリーより、むしろ、セバーグを通して女性たちの着るハードルを低くしたのかも知れない。太い太股や足首を隠そうともせず、リビエラの海岸をゴム毬のように走り抜けるセシルを見て、改めてそう思う。 そんなセシル=セバーグに魅了されたジャン=リュック・ゴダールは、彼にとっての初監督作『勝手にしやがれ』(59)のヒロインにセバーグを抜擢。その際、セバーグは個人的にもお気に入りだった"セシルカット"を続行し、そのヘアにマッチしたボーダーのカットソーと黒のロングスカートは、ジバンシーによるセシルのリゾートウェア以上に強烈なトレンドとなる。結局、セバーグのたった15年にも満たなかった女優人生(映画出演は1957〜71。1979年、パリ郊外で遺体で発見される)で、『悲しみよこんちには』は『勝手にしやがれ』と並ぶ彼女の代表作として記憶されることとなる。 ところで、タイトルシーケンスを飾る人が涙を流すグラフィックデザインは、プレミンジャーの『カルメン』(54)以来、ヒッチコックの『めまい』(58)等、数多くの映画でアートワークを手がけた伝説的なデザイナー、ソール・バスの手によるもの。また、劇中に登場するペインティング類は、日本人洋画家、菅井汲(すがいくみ。1919〜1966)の作品だ。本作にスタッフとして正式に参加した彼の名前がタイトルロールでもちゃんと紹介されるので、是非目を懲らして欲しい。■ Copyright © 1958, renewed 1986 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2016.06.04
フランス映画史に名を刻む元アイドル女優、ソフィ・マルソーの誇れる起動点~『ラ・ブーム』1&2~
『ラ・ブーム』とはフランス語でホムパの意味。それも、リセに通うまだ10代半ばのリセアン、リセエンヌたちが、週末の夜、友達の家に集まって、ダンスやキスやハグをして盛り上がる(タバコも)、要は大人禁制の持ち寄り出会い系パーティを差す俗語。1980年に映画が公開された時、なるほど思春期に突入すると同時にこんな場が与えられるから、フランスの子供は概ね早熟なんだ!?、それを許す大人社会は寛容なんだ!?と、人知れず納得したものだが、パリ在住の日本人によると、このラ・ブーム、今でも子供たちの間でレギュラー行事として浸透しているらしい。一時のブーム(流行)じゃなかったのだ。 13歳のリセエンヌ、ヴィックがバカンス明けに学校に戻ってから、歯科医の父、フランソワ(クロード・ブラッスール)とイラストレーターの母(ブリジット・フォッセ-)の別居騒動に悩まされながらも、やたらさばけた曾祖母のアドバイスを受けつつ、ブームで出会ったマチューとの恋擬きを経て、14歳のバースディ・ブームを主催するまでが、第1作『ラ・ブーム』のプロット。公開時、若い観客狙いの凡庸な青春ラブロマンスとしてカテゴライズされていた本作だが、蓋を開けてみると、母国フランスで450万人を動員し、ヨーロッパ各国とアジア、特に日本で大ヒットを記録。この結果は監督のクロード・ピノトーにとっても想定外だったらしく、当時ピノトーは「日本の若者がどういう状況に置かれているか不明だが、恐らく、どこにでもある親子の話だから理解してくれたのでは?」という驚きのコメントを残している。 でも、改めて映画をチェックしてみると、フランスのエスプリと、懐かしい80年代カルチャーと、何よりも、主人公のヴィックを演じるソフィ・マルソーを始め、俳優たちが奏でる演技のアンサンブルが程よいバランスで配置されたヒット作であることが分かる。第1作のバレエ教室が、第2作『ラ・ブーム2』ではモダンダンスに変わるリセの自由なカリキュラム、最初のブームでマチューがヴィックに"ウォークマン"を介して聴かせる主題歌"愛のファンタジー"の痺れるメロディ、休日子供たちが集まるローラーディスコやキックボクシング会場、それでもさすがに文化大国らしく、子供の頃から親しむミハイル・バリシニコフやアレキサンダー・ゴドノフ等、超一流のクラシックバレエetc。 中でも、“シネマ解放区”視聴者の肝をくすぐるに違いない映画ネタは見逃し厳禁だ。ヴィックたちが『お熱いのがお好き』(59)を観に出かけたパリの名画座では、ダスティン・ホフマンの『小さな巨人』(70)が同時上映されていて、第2作のヴィックのボーイフレンド、フィリップは『クロサワ映画は雨のシーンが淋しい』と、墨汁の雨を知ってか知らずか生意気なコメント。モダンダンスを踊っていたヴィックが『雨に唄えば』(52)のデビー・レイノルズやシド・チャリシーに変身するイメージショットや、80年代、フランスでもセックスシンボルだったロバート・レッドフォードとジャン=ポール・ベルモンドのポートレートが相次いで登場する等、脚本も担当したピノトーのフランス映画だけに特化しないフラットな姿勢が、ディテールに滲み出て楽しいことこの上ない。 そして、ソフィ・マルソーだ。ヴィック役のオーディションに参加した、役柄と同じく当時まだ13歳の彼女のラッシュを見た配給元、ゴーモンの社長は、迷わず長期契約を決断したという。生粋のフランス人であるにも関わらず、どこかオリエンタルな雰囲気を漂わせるルックといい、ヴィックの揺れ動く心理を素直に表現できる天性の感性といい、彼女はこのヒロインに必要な要素を兼ね備えていたからだ。そして、社長の判断は正しかった。映画は前記のようにヨーロッパとアジアで大ヒットし、ソフィはヴィック役を踏み台にして80年代を代表するアイドル女優として脚光を浴びることになるのだから。 庶民的な点もソフィの魅力だ。ヴィックは歯科医とイラストレーターの娘だから、フランスでは中産階級に属すると思われるが、ソフィ自身はトラック運転手とデパート店員を両親に持つ貧しい家で育ち、ヴィックとは違い、9歳の時に父母は離婚。ヴィック役をゲットしたのは、母親と2人でモデル事務所を行脚していた矢先のことだったという。そんな家庭の事情もあったのか、『ラ・ブーム』2作を撮り終えた時点で、ゴーモンと100万フランで長期契約を締結。初恋に胸をときめかせるヴィックとは違い、しっかりと先を見据えていたソフィである。 さらにここから、彼女は怒濤の女優人生を歩むことになる。ゴーモンと長期契約を結んだ同じ年の1982年、『ラ・ブーム2』でアイドル女優としては極めて稀なセザール賞最優秀新人賞を受賞。その後、大人の女優へのシフトチェンジは難しいと踏んでいた多くのファンや業界関係者の予想を覆し、大作戦争ロマン『フォート・サガン』(84)でジェラール・ドパルデュー、カトリーヌ・ドヌーブというフランス映画界の両巨頭と堂々対峙。続くドストエフスキーの『白痴』を基にした『狂気の愛』(85)では、『ラ・ブーム2』でちょっぴり垣間見せた豊満なバストを惜しげもなく晒してヌードシーンに挑戦。撮影中恋に落ちた26歳年上の監督、アンジェイ・ズウラスキーとは、その後、実に17年間に渡り生活を共にし、一児を設けている。これを怒濤と言わずして何と表現する!? 1990年代には、メル・ギブソン監督、主演の『ブレイブハート』(95)や007シリーズ『ワールド・イズ・ノット・イナフ』(99)でボンドガールを演じる等、果敢にハリウッドに出て行ったのは、もしかして、映画人としてボーダレスな視点を持っていた恩師、クロード・ピノトーの影響だろうか? 2003年には、フランス人の理想像を海外に示した長年の功績に対して、フランス政府から芸術文化勲章が授与される。それは、かつて共演したドヌーブ、ドパルデュー、そして、ベルモンド等、映画界のレジェンドに次ぐ快挙であり、栄誉だった。また、シトロエンは中国で展開するキャンペーンモデルに同国でも依然人気が高いソフィを指名。その際の契約金も含めて、2013年の彼女の年収は締めて16億円だったことが、フランスの女性向けウェブサイト"テラフェミナ"上に掲載されている。 筆者は『ワールド・イズ・ノット・イナフ』のキャンペーンで来日した生ソフィをこの目で目撃しているが、記者会見の会場に現れた時のオーラは半端なく、同席したもう1人のボンドガール、デニース・リチャーズがまるで付き人に見えたほど。黒いシルクのパンタロンの上からでもはっきり分かるプリケツに釘つげになった記者は多かったはずだ。あれから17年、きめ細かい肌の艶とストレートのブルネットは49歳の今も少しも変わらず、各国のメディアは"理想的エイジング"のロールモデルとして熱い視線を送っている。そんなソフィ・マルソーがイザベル・ユペールやジュリエット・ビノシュのような演技派路線とは一線を画し、監督もこなす傍らで小説家としても認知される元アイドル女優の生き残りとして今も輝いていられるのは、一重に『ラ・ブーム』のおかげ。シリーズ2作は、大女優の起動点として誇るに値する懐かしさと瑞々しさに溢れている。■ © 1982 Gaumont - Dassault Multimedia