ザ・シネマ サトウムツオ
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COLUMN/コラム2016.09.05
小さな巨人ルイ・ド・フィネスの大げさな身ぶりを観るがいい。イヴ・モンタンとのくされ縁的主従関係で笑わてくれる。〜『大乱戦』〜
フランスの喜劇俳優ルイ・ド・フィネス(1914-1983) は、1960年代から1980年代初頭まで、フランス国内の興行収入ナンバーワンの俳優だった。ジャン=ポール・ベルモンドでもなく、アラン・ドロンでもなく、ジャン・ギャバンでもなく、みんな彼を観に行ったのだ。 実際に、1966年のジェラール・ウーリー監督の、ルイ・ド・フィネスとプールヴァル(1917-1970) 主演作品『大進撃』(原題La Grand Vadrouille〔大ブラブラ歩き〕) が1,700万人を動員。これは、1997年にジェームズ・キャメロン監督のアメリカ映画『タイタニック』(およそ2,075万人) に抜かれるまで、30年以上もフランスにおける興行収入の最高位だった。フランス映画では、2008年にダニー・ムーン監督の『Bienvenue chez les Ch'tis』(およそ2,048万人) に抜かれるまで、42年間も最高位を保ち続けた。いまだに(2015年現在)、本作はフランスでは興行収入第5位なのだ。 ルイ・ド・フィネスのユーモアの原動力は「パントマイムとしかめっ面」にあった。何を演じるにしても大げさにジェスチャーした。彼は164センチという低身長ながら、そうした大げさな身ぶりでスクリーンを所狭しと動きまわり、目上にはへつらいながら目下には厳しく叱るというキャラクターで大人気だった。彼はまた、「役者泥棒」として有名だった。彼がスクリーンに出てきたらおしまいで、人々は彼しか見なくなるのだ。 1971年のジェラール・ウーリー監督・脚本、マルセル・ジュリアンとダニエル・トンプソン脚本によるフランス映画『大乱戦』(原題La Folie des Grandeurs〔誇大妄想〕)は、企画当初はこのルイ・ド・フィネスと、『大追跡』(原題Le Corniaud〔馬鹿者〕) や『大進撃』の迷コンビだったプールヴィルの再会として注目されたが、後者の死によってこの撮影計画は中止になった。フランスの女優シモーヌ・シニョレが、夫である俳優・歌手イヴ・モンタン(1921-1991) に新たなコンビの可能性を見いだし、モンタンを監督のジェラール・ウーリーに推薦した。 監督のジェラール・ウーリーによると、「私はプールヴィルにスナガレルの召使役を構想していた。モンタンにはスカバンのほうが適役だった」 「スナガレル」と「スカバン」はともに17世紀の劇作家モリエールが創り出した喜劇のキャラクターで、スナガレルは『スナガレル: 疑りぶかい亭主』(1661年初演) の主人公でパリの商人。スカバンは『スカバンの悪だくみ』(1671年初演) のレアンドルの従僕で、悪だくみの名人。恐るべきことに、フランス映画は実に奥が深い。すべてのキャラクターがモリエールの傑作喜劇を下敷きにしているのだ。 おもしろさの証といえる、タイトルに「大」が付いている。だから1974年1月の日本公開時、かすかな記憶だが、ルイ・ド・フィネスに笑わせてもらいたくて、観たと思う。実際に観たら、従者役イヴ・モンタンのほうが主役だった‼︎ たしかに、ミシェル・ポルナレフのフランス盤サウンドトラックを本作を観た10年後くらいに買ったが、イヴ・モンタンの名前が左に書いてあり、ルイ・ド・フィネスの名前は右だった。 映画はスペインの宮廷劇のようで、中学1年生の僕には少々退屈だったが、フランスのシンガーソングライター、ミシェル・ポルナレフによる音楽のシンセサイザーの音が胸に刺さり(何てメロウなんだ!)、ものすごく良かった。ポルナレフの父レイブ・ポルナレフもユダヤ系ウクライナ人の音楽家で(1923年フランスに移住) 、なんと、この映画の主演であるシャンソン歌手イヴ・モンタンに親子二代で楽曲を提供したことになる。 『大乱戦』は、中世スペインを舞台にした抱腹絶倒コメディである。強欲な大蔵大臣サリュスト(ルイ・ド・フィネス) は、その悪評ゆえに王妃から爵位も剥奪され追放される。彼は自分の従者(イヴ・モンタン) をイケメン伯爵に仕立てて、彼に王妃を誘惑させて、宮廷への復帰を図るが‥‥‥。 僕のかすかな記憶によると、ルイ・ド・フィネスがいつものように大げさなジェスチャーとパントマイムで笑わせてくれた。威張り屋の大臣ルイ・ド・フィネスに、従者イヴ・モンタンという顔ぶれのスラップスティック(ドタバタ) コメディだった。他の共演は、アルベルト・デ・メンドーサ、ガブリエル・ティンティ、カリン・シューベルト、アリス・サプリッチ、ポール・プレボワ、ドン・ハイメ・デ・モラなど。中世スペインが舞台で、ほとんどの登場人物が「えりまき」(正しくは、襞襟) をしている。 イヴ・モンタンといえば、ジョン・フランケンハイマー監督のカーレースアクション『グラン・プリ』(1966)や、コンスタンタン・コスタ=ガヴラス監督のサスペンス『Z』(1969) や同監督のサスペンス『告白』(1969) や、ジャン=ピエール・メルヴィル監督のフィルムノワール『仁義』(1970) や、クロード・ベリ監督のドラマ『愛と宿命の泉』(1986) に代表される「シリアスな顔」が有名だがそれはここにはなく(シブさがあり、アメリカのスティーヴ・マックィーン並にカッコいい)、彼はコメディ路線で大いに笑わせてくれた。たとえば風呂で鼻歌を歌いながら、タオルを左耳に入れ、右耳に通して、左右ゴシゴシするギャグは40年経っても忘れられない。 撮影監督は、ルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』(1958) 、フランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』(1959) 、クロード・シャブロル監督の『いとこ同士』(1959) 、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』(1960) や『危険がいっぱい』(1964)、ルイ・マル監督の『ビバ!マリア』(1965) 、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の『サムライ』(1967) の名手アンリ・ドカエだった。■ © 1971 Gaumont (France) / Coral Producciones (Espagne) / Mars Film Produzione (Italie) / Orion Film (Allemagne)
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COLUMN/コラム2016.08.06
【未DVD化】タイトルに「大」が付くジェラール・ウーリー監督作はフレンンチ・コメディのなかでもとびきりの面白さの証し〜『大頭脳』〜
1969年8月9日日本公開なので、おそらく1961年生まれの僕は8歳だった。育った岩手県盛岡市には映画館が密集する映画館通りというのがあり、きっとそこのど真ん中にあった盛岡中劇で観たと思う。1968年4月日本公開の、フランクリン・J・シャフナー監督の『猿の惑星』はのちにテレビの洋画劇場で観たので、ラストに自由の女神像を初めて観たのも(『猿の惑星』のラストで驚愕させるのも自由の女神像だった)、この映画だったはずだ。いまでも鮮明に記憶している。 ともかく、デヴィッド・ニーヴン演じるブレインが、脳みそが詰まっていると見えて、事あるごとにカックンと首を傾けるのがおかしかった! ジェラール・ウーリー監督作品には、『大追跡』(1965) 『大進撃』(1966) 『大頭脳』(1969) 『大乱戦』(1971) 『大迷惑』(1987) と「大」が付くタイトルが多かったが、フランス映画のコメディのなかでもそれは、とびきりの面白さの証しだった。 脚本チーム、ジェラール・ウーリー監督と、『大追跡』『大進撃』のマルセル・ジュリアンと、『ラ・ブーム』(1980) のダニエル・トンプソンが紡いだ物語は、イギリスで実際に起こった大列車強盗事件を背景にした、軽いタッチのコメディ・サスペンス。NATOの軍資金、14か国の紙幣で1,200万ドルを、「悪党」と「野郎」と「奴ら」が三つ巴で同じ日、同じ時刻、同じ場所で狙うというものだった。 その「悪党」とはイギリスの紳士らしい列車強盗事件の首謀者で、その名も「ブレイン(頭脳)」というすこぶる付きの切れ者、イギリスのデヴィッド・ニーヴンが演じている。 その「野郎」とはかつてのブレインの共犯者で、相変わらずの汚い野郎ぶりで笑わせてくれる、美しい妹ソフィアと病的に溺愛するシシリーのマフィアのボス、スキャナピエコ。アメリカのイーライ・ウォラックが演じている。 その「奴ら」とはアナトールとアルトゥールのコンビ。アナトールは今はタクシー運転手だが、その秘密軍資金をいただこうと刑期満了の4日前にかつての相棒アルトゥールを脱獄させるのだ。フランスのジャン=ポール・ベルモンドとブールヴィル(『大追跡』『大進撃』といったウーリー監督作品常連のコメディアン) が演じている。 かくして大金は、パリからブリュッセルへ、ロンドンからシシリーを通ってニューヨークまで行ってしまう。大西洋上の豪華客船の船上に札束は舞い、三つ巴の戦いは引分けに終わる。ブレインは、敵ながら天晴れとばかりに、次の大仕事でアナトールとアルトゥールと手を組もうとする。で、ちゃんちゃんと終わる。 素晴らしいドタバタコメディだ。『八十日間世界一周』(1956) のデヴィッド・ニーヴンも、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(1966) のイーライ・ウォラックも最高だが、『リオの男』(1963) のジャン=ポール・ベルモンドと『大進撃』(1966) のブールヴィルのコンビがとぼけた味で、抱腹絶倒なのだ。 この英米仏の素晴らしい配役が、傑作のカギとなった。また、紅一点で活躍するスキャナピエコの妹ソフィアを演じるのはイタリア人女優シルヴィア・モンティ。黒いビキニ姿が艶かしい。その彼女がブレインに恋しちゃうので、面白いことに、マフィアのボスの嫉妬の炎は燃え盛る。彼女の存在そのものはもしかしたら、ハワード・ホークス監督作品『暗黒街の顔役』(1932) のトニー・カモンテ(ポール・ムニ) が溺愛した妹チェスカー(アン・ドヴォラーク) を狙ったのかもしれない。 そして面白いのは、冒頭にブレインが現金強奪の計画を仲間に説明するシークエンス。なんと、その説明にはカタカタ鳴る映写機を使うのだ。そこで上映されるのは計画の進行を表すアニメーション。軽快なコーラス(音楽がいい) 入りで流れるそのアニメのデヴィッド・ニーヴンは、走る列車の屋根をかっこよく駆け抜けたりする。ところが実際の本番ではアニメとは大違いで、ニーヴンときたら列車の屋根をよろよろと歩く始末。このギャップが大笑いだった。 音楽を担当したのはフランス人作曲家ジョルジュ・ドルリュー。『ピアニストを撃て』(1960) 『突然炎のごとく』(1962) 『柔らかい肌』(1963) 『恋のエチュード』(1971) 『私のように美しい娘』(1972) 『映画に愛をこめて アメリカの夜』(1973) 『逃げ去る恋』(1978) 『終電車』(1980) 『隣の女』(1981) 『日曜日が待ち遠しい』(1982) といったフランソワ・トリュフォー監督作品の音楽はどれも珠玉の名作で、とんでもなく好き。エンニオ・モリコーネを別格としてジョン・バリーらと並んで最も好きな映画音楽の作曲家のひとり。トリュフォー以外にも、ジャン=リュック・ゴダールの『軽蔑』(1963)、ケン・ラッセルの『恋する女たち』(1969)、ベルナルド・ベルトルッチの『暗殺の森』(1970)、フレッド・ジンネマンの『ジュリア』(1977)、ジョージ・ロイ・ヒルの『リトル・ロマンス』(1979)、オリヴァー・ストーンの『プラトーン』(1986) といった傑作揃いの音楽を手がけている。ジェラール・ウーリーの『大追跡』(1965) も手がけているが、フィリップ・ド・ブロカとも『リオの男』(1963) 『カトマンズの男』(1965) 『まぼろしの市街戦』(1967) 『ベルモンドの怪人二十面相』(1975) などを手がけており、フランスのコメディにはなくてはならない人だった。 この『大頭脳』は1970年半ばにはテレビの洋画劇場などでかかったものだった。DVD化を望みたい。■ © 1969 Gaumont (France) / Dino de Laurentiis Cinematografica (Italie)
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COLUMN/コラム2015.03.04
【未DVD化・ネタバレ】滅多に観られない1970年代のよく出来たシチュエーションコメディ〜『ニューヨーク一獲千金』
1970年代に一斉を風靡した、『ゴッドファーザー』(1972年)『ゴッドファーザー PART II』(1974年)のジェームズ・カーンと、『ロング・グッドバイ』(1973年)のエリオット・グールドの主演作だ。監督は、本作ののちにベット・ミドラー主演の『ローズ』(1979年)、ヘンリー・フォンダ&キャサリン・ヘプバーン主演の『黄昏』(1981年)、ベット・ミドラー&ジェームズ・カーン主演の『フォー・ザ・ボーイズ』(1991年)を撮る名匠マーク・ライデルだ。 サウンドトラックがすばらしい出来で、『ロッキー』のタイア・シャイアの旦那さん、デヴィッド・シャイアが担当。撮影監督はアメリカン・ニューシネマを代表するカメラマン、『イージー・ライダー』(1969年)や『ペーパー・ムーン』(1973年)や『未知との遭遇』(1977年)のラズロ・コヴァクスだ。脚本がよく練られていて、『マホガニー物語』(1975年)のジョン・バイラムと、『フリービーとビーン/大乱戦』(1974年)のロバート・カウフマンだ。 主人公は2人の売れないヴォードヴィリアン、ハリー(ジェームズ・カーン)とウォルター(エリオット・グールド)で、1892年、マサチューセッツ州のコンコード刑務所に2人が護送されてきた。そこで、金庫破りの名人アダム・ワース(マイクル・ケイン)の奴隷同然の召使いにさせられる。ワースは豪華な特別室におさまり、刑務所長、看守を顎で使っている。彼は腹心のチャトワースが持って来たマサチューセッツ州ローウェルの銀行になる金庫の青写真をカーテンの裏に貼って研究を始める。 その頃ニューヨークの左系新聞の記者リサ・チェストナット(ダイアン・キートン)が刑務所の取材に訪れた。ハリーはこっそり青写真をリサの助手のカメラで撮ったのだが、マグネシウムの火がカーテンに引火して銀行の見取り図の青写真は燃えてしまった。怒ったワースは看守に命じて2人を石材場の重労働に追いやる。ハリーがその石切場からニトログリセリンを持ち出し、2人は刑務所の門を破って逃走する。 ニューヨークに着き、その新聞社で青写真を撮ったネガを入手。だが、出所してきた強盗のプロ、ワースに見つかって見取り図は取り上げられる。 現像した写真を前に、リサはワースに対抗して金庫破りをすることになる。ただし金は社会正義のために使うことを提案する。その計画にスタッフも賛成し、一同はローウェルに向かって、銀行の上の部屋からトンネルを掘り始める。ところが隣の部屋へ銀行の頭取ルーファス・クリスプ(チャールズ・ダーニング)が女を連れこんでいた。頭取がいてはトンネルが掘れないので、リサは頭取に巧みに近寄り翌日の夜、2人でオペレッタを見に行く。そのオペレッタの主演がワースの恋人グロリア・フォンテーン(レスリー・アン・ウォーレン)なのに気が付いたリサが楽屋を探ると、やはりワース一味がいた。 彼らは劇場の地下室から銀行までトンネルを掘り、次の日のショーが終ったら金庫破りを決行する計画だと判明する。 リサたちは何とか先手を打って、劇場に忍びこみ、ショーの途中に金庫を開けようとする。だが、なかなか金庫は開かず、ショーは終りそうになる。ヴォードヴィリアンのハリーとウォルターが衣裳をつけて舞台に加わる。オペレッタは、めちゃくちゃになるがそれまで退屈であくびを噛み殺していた観客に大いに受ける。 見事に大金を盗み出したリサ、ハリー、ウォルターらはニューヨークに戻った。そこで彼らと再会したワースは、いさぎよく敗北を認めるのだった。 コーエン兄弟の監督作品『オー!ブラザー』にも通じる、すこぶる軽快な強奪ものである。銀行強盗をゲーム感覚で描いた犯罪アクションで、キャストの顔ぶれだけでもおもしろさは約束されている。何よりも楽しいのは、『探偵<スルース>』(1972年)のマイクル・ケイン、『狼たちの午後』(1975年)のチャールズ・ダーニング、『アニー・ホール』(1977年)のダイアン・キートン、『チューズ・ミー』(1982年)のレスリー・アン・ウォーレン、『イナゴの日』(1975年)のデニス・デューガン、『ロッキー』(1976年)のバート・ヤングら、1970年代を彩った「名脇役たち」が多数出演していること。ソニー・コルレオーネでトップ俳優となった能天気なジェームズ・カーンが、若かりし頃のダイアン・キートンに手助けされるというお楽しみもある。 ある意味で、サクセスストーリーだと解釈できる。そのギャグが緻密に計算されてシチュエーションコメディなので、何回観ても飽きないのだ。 本作は1988年ぐらいにビデオソフトになったが、シネマスコープサイズの作品をTVサイズにトリミングしたため、大団円の最高におもしろいシーンが左端で起こっていてカットされるという憂き目にあっている。その意味で、今回の放送はもしかしたら、これがマトモなかたちで観られる最後かもしれず、1970年代のコメディ映画ファンにとって、これほど喜ばしいものはない。■ © 1976, renewed 2004 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2015.02.17
美しく切なく残る余韻にひたれる、すごくシニカルなファンタジー・コメディ〜『チキンとプラム 〜あるバイオリン弾き、最後の夢〜』
原作のタイトルにもなっている「鶏のプラム煮」は主人公ナセル・アリの大好物であり、主人公に死ぬのを諦めさせようと、妻が料理するエピソードがある。 主人公の自殺しようとする男ナセル・アリに、『キングス&クイーン』(2004年)『ニュンヘン』(2005年)『潜水服は蝶の夢を見る』(2007年)『00'7/慰めの報酬』(2008年)のフランス人俳優マチュー・アマルリック。妻ファランギースに、『ヘンリー&ジューン/私が愛した男と女』(1990年)『パルプ・フィクション』(1994年)のポルトガル人女優マリア・デ・メデイロス。主人公のかつての恋人イラーヌに、『ワールド・イズ・ライズ』(2008年)『彼女が消えた浜辺』(2009年)の、ピアニストとしても活躍するパリ在住のイラン人女優ゴルシフテ・ファラハニが扮している。 物語はこうだ。天才的音楽家・ナセル・アリ(マチュー・アマルリック)は、愛用のバイオリンを壊されたことをきっかけに自殺を決意。自室にこもって静かに最期の瞬間を待つ8日間、ナセルは思い通りにならなかった過去の人生を振り返るのだ。空っぽな音だと師匠に叱られた修業時代。音楽家として絶大な人気を得た黄金時代。妻ファランキースとの誤った結婚。怖くて愛しい母パルヴィーンの死。大好きなソフィア・ローレンと鶏肉のプラム煮。そして今も胸を引き裂くのは、イラーヌ(ゴルシフテ・ファラハニ)との叶わなかった恋。やがて明かされる、奇跡の音色の秘密とは? いろんな死に方を考えるが、すべての方法が怖くなって踏み切れず、自室のこもり、食事も摂らず、ただ寝ることにするのが何ともコミカルだ。 そして思い返す過去の人生。弟アブティと何かと比較された少年時代、美しい女性イラーヌと大恋愛するも、女性の父親の反対に遭って別れてしまったこと、バイオリン修行で世界を20年間放浪したあと、母親パルヴィーンの強い勧めでいまの妻ファランギースと結婚したことなどがおもしろおかしく描かれていく。原作がコミックだけに、すごくファンタジー色が強く、ちょっと変わったサトラピ=パルノー・タッチになっている。フランス映画独特の影絵のような雰囲気もいい。 どちらかというと、エリック・ロメール監督の『獅子座』(1958年)のような既視感(デ・ジャ・ヴ)のあるフランス映画あたりの教訓話で、実に笑うに笑えない男の話だ。彼は子育てはさぼり、楽器店の主人には因縁を付け、妻には逆切れするとんでもない男。だが、話が進むにつれ、主人公の心情が少しずつわかるようになり、ストーリーにもどんどん引き込まれていく。そして何より、幻想的な映像がすべてを優しく包んでいて、愛おしい。 これをハッピーエンドと言わずにいられない。主人公は大切なバイオリンを妻に壊されて、絶望して死ぬのだけれど、見方によっては、彼はけっして不幸ではないのだ。若き日に出会った美しい人との別れなくして、彼の音楽家としての覚醒はなかったのだ。切ない別れだからこそ、一生に一度きりの恋を胸に秘めて生きられたのだ。嫉妬のあまり、彼のバイオリンをひったくって壊してしまった妻も、報われない恋を夫に対して抱いていたのではないのか? 壊れたバイオリンの代わりを探す主人公は、街で孫を連れたイラーヌと再会する。彼女は、ナセル・アリのことを知らないと冷たくあしらう。それを悲嘆する主人公はいよいよ自殺するけれど、実のところ彼女はまだナセル・アリを愛していて、彼の葬儀をひっそりと見つめている最後がすごく心に残る。 イラーヌとの恋の別れの引き換えに、音楽の道をきわめたナセル・アリ。彼が奇跡の音色を奏でられるのは、奏でることでイラーヌの存在を身近に感じることができたからだ。 この映画は、イスラム教で死を司る天使アズラエルの視線で描かれる。ファンタジー色が強いのも、そのせいだ。このストーリーにすごい説得性を持たせるのが、ナセル・アリのかつての恋人イラーヌの息を飲むような美しさだ。彼が一生をかけて愛し続けたこと、また彼が晩年に再会するけれど、彼女の記憶にすら残っていなかった虚しさが、彼の自殺の引き金になったこと、そのすべてが完全に納得できてしまう。 主人公がバイオリニストで、随所に流れるバイオリンの名曲が、切ない物語を心により刻みつけるのもいい(音楽はオリヴィエ・ベルネ)。 仏独などの合作映画であり、母パルヴィーンはイザベラ・ロッセリーニ、娘リリはキアラ・マストロヤンニなど、国際色豊かなキャストが集まっているのもミソだ。 前半はやや退屈だが、ラスト15分に怒濤の感動が襲うので、サトラピ=パルノー・タッチの独創的映像をじっくりと観てほしい。 結局、人間は絶望と希望を繰り返す生き物なのだ。そうした教訓を含ませながら美しく切なく残る余韻にひたれる、すごくシニカルなコメディである。■ ©Copyright 2011Celluloid Dreams Productions - TheManipulators – uFilm Studio 37 - Le Pacte – Arte France Cinéma – ZDF/ Arte - Lorette Productions– Film(s)
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COLUMN/コラム2015.01.05
【未DVD化】ハル・アシュビー、人生をやり尽くした巨匠の最後の挽歌〜DVD未発売『800万の死にざま』
その原作を名手オリヴァー・ストーンらが脚色(『ゴッドファーザー』や『チャイナ・タウン』の脚本をフィニッシュしたロバート・タウンも、クレジットなしで脚本に参加している)、『夜の大捜査線』(1967年)『チャンス』(1979年)の名匠ハル・アシュビーが監督した劇場用映画の「最期の作品」となった。つまり、遺作になったわけだ。 ハル・アシュビーの遺作として記憶するのは、ローレンス・ブロックというクライムストーリーの名手が紡いだ物語にしては若干破綻のあるストーリーかもしれない。ロサンゼルスを舞台にしたハードボイルドな映画でいえば、『チャイナタウン』や『ロング・グッドバイ』ほど緊密な映像が続くわけではない。しかし、最後のミニケイブルカーの銃撃戦のシーンだけは、とても強く記憶に残っている。 アルコール中毒で警察を辞めた元刑事の主人公がジェフ・ブリッジスで、黄金の魂を持った高級娼婦役がロザンナ・アークエット、そして本作のヴィラン(悪役)となる麻薬の売人役がアンディ・ガルシア。ガルシアは、スプラッターホラーさながらで、末期の顔が笑わせる。 時は1980年代半ばであり、この3人のビジュアルはピークといえる。 J・ブリッジスは『カリブの熱い夜』(1984年)の後で、『タッカー』(1988年)の前。R・アークエットは『アフター・アワーズ』(1985年)の後で、『グラン・ブルー』(1988年)の前。A・ガルシアは『アンタッチャブル』(1987年)の前なのだ。 その後、ブリッジスはアル中もので『クレイジー・ハート』(2009年)などにも出ているが、枯れた男のアル中話より、男真っ盛りという感じの当時のたたずまいがいい。主人公スカダーと女性たちのやりとりにじんわりと来るものがあって、彼は誰よりも傷つきやすくて、アル中でグチャグチャになっていきながらも酒を断って禁酒する感じが、強いだけのハードボイルド・ヒーローと違って、とても親近感がある。彼は据え膳食わぬは男の恥ではないが、目の前に裸の女がいても、彼はけっして手を出さないのだ。それにブリッジスは何よりも、『恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ』(1989年)や、『ファッシャー・キング』(1991年)や、『ビッグ・リボウスキ』(1998年)といった僕の「偏愛する映画」(どうしても嫌いになれない映画)に3本も主演しているのだ。 それに、ガルシアもブレイク寸前で、サイコキラースレスレのぶち切れキャラを演じている。これが、痛快だ。オリヴァー・ストーン脚本作品『スカーフェイス』(1983年)の後であり、あのトニー・モンタナの延長線上のような演技で、『ゴッドファーザー PARTIII』(1990年)のアル・パチーノの後継者は決まったようなもんである(笑)。 アークエットも化粧っけもなく、素顔に近い。元ダンサーで、娼婦をやっている自分の身の上話を主人公スカダーにとつとつと話す場面が、叙情的ですばらしい。彼女はかなりのファニーフェイスで、悪くいえば漫画のようなコケティッシュなアヒル顔をしている。このときの彼女の表情はあるときは素の少女であり、またあるときは無垢な女性そのもので、思わず感情移入してしまうのだ。さすが、ロックバンドTOTOのヴォーカル、スティーヴ・ボーカロに「ロザーナ」を歌わせるだけはある(ボーカロとアークエットの消滅した恋愛関係を歌ったものだと思われていたが、その後にただ単にコーラスに合う名前だと判明した)。ともかく、彼女の魅力を存分に味わえるわけだ。ちょっと胸が大きいのも、すばらしい。こんなにも胸に沁みる映画なのに、彼女がステキなのに、いまのところセルビデオでしか観る機会がないというのが、本当に残念で仕方がない。 1970年代のハル・アシュビーといえば、『真夜中の青春』(1971年)『ハロルドとモード』(1971年)『さらば冬のかもめ』(1973年)『シャンプー』(1975年)『ウディ・ガスリー/わが心のふるさと』(1976年)『帰郷』(1978年)『チャンス』(1979年)といった、とてもシニカルな傑作ばかりを連発した。 ヘリコプターの羽音で始まるジェームズ・ニュートン・ハワードの音楽も、全体に緊迫感(サスペンス)を植え付けて、最後のミニケイブルカーの場面まで、一気呵成に見せてすばらしかった。だが、「あれ、この急展開って何?」という脚本上の些細な綻びはあるけれど、その音楽のおかげで僕には、最後にはズシリと来た。いわば、感動がである。 そして何よりも、主役3人のキャラクターが立っていて、彼ら3人がビジュアル的にピークにあったことから、彼らのアンサンブルが絶妙であり、何ともいえぬエモーションをかきたててくれたのだ。ちょっとぬるいアクション映画に感じる部分は少々残念だが、ハル・アシュビーの遺作と呼ぶにふさわしい、記憶に残るいい作品に仕上がっている。何しろ観終わって30年近く経つのに、最後のミニケイブルカーでの銃撃戦はフィルムのひとかけらひとかけらを憶えており、けっして忘れていないのだ。これはすごいことだ。まさに人生をやり尽くした巨匠の、最後の挽歌といえるかもしれない。■ © 1986 PSO Presentations. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2014.11.12
【未DVD化】砂漠に映える白色が似合う、芳紀18歳のブルック・シールズ〜 DVD未発売『サハラ』
ウォン・カーウァイ監督の『花様年華』が熟した女性マギー・チャンの美しさをとどめた映画だとすれば、アンドリュー・V・マクラグレン監督の『サハラ』は、また蕾のような少女ブルック・シールズの熟し切っていない美しさをとどめたアドベンチャー・ロマンス映画だ。まだティーンだったが、『青い珊瑚礁』(1980年)や『エンドレス・ラブ』(1981年)により世界的に人気を集め、当時の「美少女」の代名詞となった。 ブルーネットの髪と青い目に特徴がある美少女で、シールズは美しさの片鱗を見せている。実は183センチの大女なのだ。 監督のアンドリュー・V・マクラグレンは、ジョン・ウェインやジェームズ・スチュワートなどが主演した西部劇に定評がある人で、父親は『静かなる男』(1952年)でジョン・ウェインと素手で延々と殴り合ったヴィクター・マクラグレン(ジョン・ウェインとの共演作も多い)。それは、スティーンヴン・スピルバーグ監督が『1941』でオマージュを捧げた名シーンだった。 『サハラ』はこんなストーリーだ。やや大味なのは否めない。1927年、デトロイト。父親を亡くしたばかりの少女デイル(ブルック・シールズ)は父の遺志を受け継ぎ、サハラ砂漠で行われる国際ラリーに出場することを決意する。そのラリーは女人禁制のため、デイルは長い髪を帽子の中にたくし込み、付け髭を付け、男になりすまして、ラリーに参加にするのだ。彼女のチームは砂漠の最短コースを進むが、そこはシャンブラ族とハマンチャ族が部族抗争(ドンパチ)を繰り広げている危険地帯であり、デイルはシャンブラ族に族長ラズールに捕まってしまう。彼女を救ったのは、ラズールの甥で一族の長であるジャファールだった。 国際ラリーレースが映画のおもな舞台になる。それに砂漠を背景に、エキゾチックなジャファールとのロマンスが味付けされるのだ。シールズのお相手ジャファール役は、ウォシャウスキー兄弟が監督した『マトリックス・リローデッド』『マトリックス・レボルーションズ』(2003年)のメロビンジアン(マトリックス最古のプログラムで、モニカ・ベルッチ演じるパーセフォニーの夫)役で有名なランベール・ウィルソンである。 第一、物語の発端となる父親の死がやや唐突すぎる。ラリーに挑む車の最終テストでミッションの事故により事故死するのだが、その前後のシーンを丸々抜け落ちたかのようで、何か釈然としない。また、ハリウッド映画によくあるようなハッピーエンドであるから、ラリーの勝敗の結果なんかどうでもいい。本作は彼女が女性であることを忘れてしまったかのようだ。そのせいか、第5回ゴールデンラズベリー(ラジー)賞で、ブルック・シールズは最低女優賞と最低助演男優賞(付け髭を付けて男装した姿で)の2部門でノミネートされ、最低助演男優賞を受賞した。ゴールデンラズベリー賞で最低助演男優賞を受賞した唯一かつ初めての女優になった。 ランベール・ウィルソンとのラブロマンスは、彼女を砂漠に引き寄せるかのようだ。ある意味でそれは映画の一服のオアシスであり、彼とのキスは魅惑的だ。 それにダメ押しするように、名匠エンニオ・モリコーネの音楽が繰り返し繰り返し流され、ラブロマンスを劇的に盛り上げている。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)の前年の作品だが、名曲揃いの巨匠の作品の中でも比較的印象が薄い。 「男装の麗人」について触れたい。むかしの日本にも、どこかアブノーマルで秘めた雰囲気があった、東洋のマタハリといわれた川島芳子がいた。しかし、映画の中では、ブレーク・エドワーズ監督の『ビクター/ビクトリア』(1982年)のジュリー・アンドリュース、トレヴァー・ナン監督のシェクスピア『十二夜』(1996年)のイモジェン・スタップス、ジョン・マッデン監督の『恋におちたシェイクスピア』(1998年)のグウィネス・パルトロー、キンバリー・ピアース監督の『ボーイズ・ドント・クライ』(1999年)のヒラリー・スワンク、レア・プール監督の『翼をください』(2001年)のハイパー・ペラーポ、ロドリゴ・ガルシア監督の『アルバート氏の人生』(2011年)のグレン・クローズらがいる。演技の上手い名女優の独壇場であり、性同一性障害や男性社会に対抗するためとかの深刻な例を除いて、作劇上ではコミカルな場合が多い。『十二夜』と『恋におちたシェイクスピア』は、ヴァイオラというシェイクスピアが生んだキャラクターであり、「男装の麗人」は悲喜劇に笑いをもたらす。 だが、これは、日本のドラマ『花ざかりの君たちへ』(2007年)の堀北真希、韓国のドラマ『美男ですね』(2009年)のパク・シネに近く、少女が男性の格好を真似ているにすぎない(ラジー賞も納得だ!)。どこからどう観ても女性にしか見えないのだ。悪くいえば、未熟な宝塚もどきレベルだ。 とはいえ、ブルック・シールズの美しさを観るだけで大変満足出来る。彼女は不思議なほど、神秘的な砂漠(オレンジ色? 薄茶色?ベージュ色?)に映える、実に白い布切れがよく似合うのだ。 最初登場するのは、上流社会のお転婆娘ではフラッパースタイルの白いドレス姿。次に登場するのは「男装の麗人」で、白を基調にしたスーツ姿。その次は白いつなぎのドライビングスーツ姿。そのドライビングスーツを脱いで白い下着姿でシャンブル族のオアシスの滝で水浴びするシーンもある(スケスケで乳首がウッスラと見える)。その次のアラブの白い花嫁衣装姿の彼女は化粧もバッチリで黒いアイラインが描かれ、息を飲むような美しさだ(その後にラブシーンもある)。最後はジャファールから逃げ、レースに再び参戦するときの白いドレス姿。これも半裸状態になるシーンがあって、たまらなく超セクシーだ。 だからこそ、蕾のような少女ブルック・シールズの美しさを永遠に記憶の中にとどめたいのだ。ルイ・マル監督の『プリティ・ベビー』(1978年)で12歳の娼婦を演じて、悩殺的な演技がセンセーショナルな話題を呼んだ。『青い珊瑚礁』や『エンドレス・ラブ』よりも、少々大人になった17〜18歳ぐらいの彼女の姿が観られるのだ。 まさしくブルック・シールズにとって、芳紀である。 「大辞林」(三省堂)によれば、芳紀とは、年頃の女性の年齢。女性の若く美しいころ。 それは映画の欠点を補って余りある最大の美点だ。それほどまでに、ブルック・シールズは輝いている。■ COPYRIGHT © 2014 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2014.08.06
『ダウンタウン物語』『バーディ』〜普通とは「違った世界」を見せてくれる監督、アラン・パーカーによる、二つの映画
『小さな恋のメロディ』(71年)の原作・脚本者であるアラン・パーカーは、そんな大好きな監督だ。彼の作品にはいつも普通とは「違った世界」を見せられる思いがした。『ミッドナイト・エクスプレス』(78年)、『フェーム』(80年)、『バーディ』(84年)、『ミシシッピ・バーニング』(88年)、『ザ・コミットメンツ』(91年)とぼくの中で永遠不滅の大傑作が5本もある。思えば、彼の作品を一生かけて追いかけてきた。 このたびザシネマで、『ダウンタウン物語』と『バーディ』が放映されるという。それぞれの見どころを指摘しておこう。 『ダウンタウン物語』(76年)は、禁酒法時代のニューヨークのダウンタウンを舞台に2つのギャング団の抗争を描いたミュージカル映画だ。日本映画の大傑作『用心棒』(61年)のような話なのだ。ところが、出演しているのは全員13歳以下の子どもで、20世紀初頭のファッションに身を包んだ彼らがパイ投げマシンガンを乱射しギャングを演じている。公開当時14歳(撮影時13歳だった)のジョディ・フォスターが妖艶な歌姫を演じていて、話題になった。『アリスの恋』(74年)や『タクシードライバー』(76年)で子役として有名になったフォスターは、当時映画雑誌の花形だった。どこかの雑誌のインタビュ―記事で、愛読書を訊かれた彼女の答えは「ジャン=ポール・サルトルの『自由への道』」だった。1歳年上の筆者はあわてて、『水いらず』など、サルトルの実存主義小説の著作を読み出したのはいうまでもない。 ミュージカル映画的な側面もあるが、ミュージカル仕立てのナンバーはちと弱いと思う。『アニー』の「トゥモロー」のように、胸に迫らないのは事実である。とはいえ、銃撃戦もカーチェイスも、観客を飽きさせない凝った演出がなされており、学芸会的な芝居になりそうな内容を、ひたすらエンターテイメント性を持たせているのは好材料だ。 最後はみんなでパイ投げをする。これが両陣営入り乱れてのパイ投げ合戦で、ひたすら楽しい。大人を演じていた子どもたちは見る見るパイだらけになり、いつしか本来の子どもの笑顔に戻り、「仲良くなろう!」とストーリー的に大団円を迎える。これは、スタンリー・キューブリック監督の『博士の異常な愛情』(63年)のラスト、完成版からカットされたアメリカ合衆国国防総省の作戦室で行うパイ投げ(キューブリック監督の写真集にこの模様は取り上げられている)と非常に似ているのだ。キューブリック監督は、スニークプレビュー(覆面試写会)の観客の反応と、「これは喜劇(コメディ)ではなく、笑劇(ファース)だ」という理由でカットしたというが、背後にはジョン・F・ケネディ暗殺事件(63年11月22日)の影響もあるのだはないか。キューブリック監督はロンドン郊外のパインウッド撮影所を本拠地にしているが、『博士の異常な愛情』のラストのパイ投げの噂が、ロンドンで活躍するパーカー監督の耳に届いたとも十分に考えられるのだ。 『バーディ』(84年)は、カンヌ国際映画祭の審査員特別賞受賞作である、心に響く友情物語だ。公開当時大学を出たての筆者は、とある雑誌で御巣鷹山の日航機墜落事件を追っていて、完全に精神的な鬱病になり、主人公バーディ(マシュー・モディーン)とアル(ニコラス・ケイジ)のどちらにも共感して観ることができた。もちろん、傷をなめてくれるような、こういう友達がほしかったのである。 簡単に書くと、ウィリアム・ワートンの原作をもとに、ベトナム戦争のショックで精神科病院に入れられて、頑なに自らの幻想に心を閉ざしている青年バーディと、彼を立ち直らせようとする、同じくベトナム負傷兵の青年アルの心の交流を、鳥になることを夢見るバーディの幻想を交えて描いたヒューマンドラマである。 ピーター・ゲイブリエルによる音楽も素晴らしい。過去のアルバムに収録された既成曲が中心だが、的確に選び出された楽曲は全てのシーンで見事にフィットし、映像と一体になって観る者の心に迫ってくる。終盤、現実を逃避して鳥になったバーディが、自由に空を羽ばたく視点のショットはまさに圧巻。これは、最近では『海を飛ぶ夢』(04年)でも使われた演出手法だが、より必然性がある『バーディ』の方が遥かに印象的で胸に迫ってくる。 映画の基本イメージは、精神科病院の一室で、バーディに向かって話しかけるアルである。しかし、バーディの心にはアルの言葉は届かない。裸で部屋の隅に隠れ、ただ窓から空を見上げるだけ。苛立つアル。そうした出口の見えない現代のシーンの合間に、物語は一気に2人の過去へのフィードバックする。2人の出会いからベトナムへ向かうまでが丹念に描かれ、同時にベトナムで精神的に傷つくシーンまで丁寧に描かれる。このあいだのリッチー・バレンスの「ラ・バンバ」が彩るフィラデルフィアでの青春を謳歌する2人がすこぶる楽しい。巨乳の女の子に興味を持ち、そのおっぱいを触ることが目的なのだ、 鳥が大好きで、鳥とともに暮らし、自らも空を飛ぼうとし、鳥になることを夢想していたバーディは、本当に何を思っているのか。バーディの心を開かせることができないアルも、次第に追いつめられていく。 バーディとアルの叫びをとことん感じてほしい。ベトナムで傷ついた2人のやりきれない思いと閉塞感で観ている我々は心を痛めることになるが、自由に生きたいと願うバーディに共感し、バーディを正気に戻したいと願うアルにも共感できるはずだ。そして、人から必要とされる喜びも感じることができるだろう。ここまで誰かが誰かを想うことの尊さを素直に自分の中にとりいれて感動できる作品もめずらしいのだ。 だが、途中でバーディーがしでかす奇天烈な行動もクスッと笑えるので、暗いばかりの映画ではない。戦争という悲惨な現実と精神を病むという重いテーマを取り入れた作品なのに、観た後に爽やかな気持ちになれる、救いのある映画である。 2時間のドラマはもちろんスゴいが、それに輪をかけて深い余韻を残すラストシーンがすばらしい。バーディとアルの性格づけが違うのもいい。アルは「彼は俺の一部なんだ」というセリフにジーンとくれば、「何だ?」といい返すバーディ。それから畳みかけるような、全体的に重苦しい雰囲気を一掃するラストには唸った。もはや「やられた!」としかいいようのないラストなのだ。 まったく最後までお騒がせな鳥男(バ—ディ)である。■ © 1984 TriStar Pictures, Inc. All Rights Reserved.