映画の思考徘徊 第9回 フィリップ・ガレル『ジェラシー』再訪〈前編〉──奇妙な自伝性

FEATURES 髙橋佑弥
映画の思考徘徊 第9回 フィリップ・ガレル『ジェラシー』再訪〈前編〉──奇妙な自伝性

目次[非表示]

  1. フィリップ・ガレルの声
  2. 奇妙な自伝性

フィリップ・ガレルの声

 今年の7月末に刊行された書物、魚住桜子著『映画の声を聴かせて フランス・ヨーロッパ映画人インタビュー』(森話社)を一読して、まず浮かんできた考えが「フィリップ・ガレルを再見したい」ということだった。本書は、2004年よりフランス在住のジャーナリストである魚住が行った総勢29名の映画人へのインタビューをまとめたもので、監督はもちろん、脚本家、撮影監督、批評家、俳優……と取材対象は多岐に渡る。もちろん、すべてのインタビューでガレルへの言及があるわけではないが、本書に収められたフィリップ・ガレル本人へのインタビュー、そして名だたる撮影監督たち自らの仕事を語るさいに時折窺い知ることができるガレルの現場のエピソードはどれもきわめて興味深い。
 まず『パリ、恋人たちの影』(2015)の日本公開時期に行われたというガレルへのインタビューは、“嫉妬をめぐる三部作”──『ジェラシー』(2013)、『パリ、恋人たちの影』、『つかのまの愛人』(2017)から成る──について語ったもので、本サイトで配信中の2作を見た後に読むべき格好のサブテキストと言える。ガレル曰く、“嫉妬をめぐる三部作”は「嫉妬をめぐってうつろう男女の感情を描いて」いるのだといい、そのために「登場人物を三人に限定」し「どの映画もモノクロフィルムで撮影し、上映時間は一時間一五分に統一した」うえで「短編を三本編んだかのような構造」になっているという。「三作に共通することは「メソッド」です。一作一作、話を広げていくのではなく、書く作品ごとに一つのテーマを絞り込んだ。そして三作とも二一日間で撮影され、シナリオの順番に沿って撮影されている。しかも撮影と並行して編集していったので、それまでの物語を把握しながら映画を作り進めていくことができた。だから快適に演技できる環境を俳優たちに提供できたとも思っています」と語るガレルは、『白と黒の恋人たち』(2001)以降、フランス国立高等演劇学校で教鞭を執っており、インタビューの端々でもいかに俳優への演技指導を重視しているかを語っているが、作品でも実際に教え子を多く起用している(「私の映画に登場する若者たちは皆、演劇学校の本教え子や元在籍生たちで、エキストラは一切使いません」)──息子のルイ・ガレルも“教え子”の1人である。「演出の要は的確な演技指導、映画の核は俳優なのです」と言うガレルの作品は、クランクインするまでに贅沢にリハーサルの期間を設け(「毎週土曜に集まってリハーサルを繰り返したのです」「撮影に入るまでに一年近くかかりました」)、しかしいざクランクインすると「シナリオに沿って時系列通りにワンテイクで撮る」。
 しかし、そのいっぽうで面白いのはガレル作品に携わった撮影監督が語る現場の様子である。『愛の誕生』(1993)、『彷徨う心』(1996)、『白と黒の恋人たち』でガレルと協働したラウル・クタールは、『愛の誕生』を振り返り「あの映画ではリハーサルがまったくありませんでしたから。俳優はただ座って、シナリオを読み合わせるだけ。そしてガレルの準備ができたら「撮影スタート!」となる。だから私は俳優のところまで行って、「次は歩くのですか? 座るのですか?」と聞くしかなかった。そのうちにもう、彼のやり方についていくしかないと、腹をくくりましたけどね」「ガレルは全く俳優の演出を知りません」「それにガレルは怠け者で、サボってばかりいるのです」とまで言ってのけるが、『パリ、恋人たちの影』、『つかのまの愛人』、『涙の塩』(2020)と近年三作連続で撮影を担当したレナート・ベルタは「ガレルは撮影前に徹底的に準備し、膨大な時間をかけて俳優とリハーサルを重ねるのです。だから撮影現場に入った時にはもう演じる準備はできている。だからガレルの撮影現場では、俳優たちは素晴らしい芝居を見せるのです。それを引き出すのがガレルの演出の核心なのです」と証言していて、認識にかなりの差異があるのだ。これはガレルが演技を重視し始めた時期=“転換点”を機に、演出方法を一変させたと見ることもできるだろう。

奇妙な自伝性

 ガレルの作品について語る時、たいていの場合“自伝性”がつきまとう。そして、たしかにそれは仕方のないことでもある。じっさい、ガレルは自身の人生を基に多くの自伝的映画群を作り続けてきたからだ。加えて、自らの家族を出演させることも多い。しかしそのいっぽうで、作品を容易に“自伝性”に回収して良いのかという疑問が残るのも事実である。作品を作家の人生と紐づけて語ることは、どこか答えを知りながら問題に取り組んでいるような心地良さがあり、それは時に作品自体を見ることを阻害するノイズとなりうる。本稿の〈後編〉では、『ジェラシー』を取り上げ、作品の“背景”をいったん努めて忘れ、画面の推移に言及していく。しかし、そのために〈前編〉では少しだけ目を瞑る対象である“自伝性”を確認しておきたい。
 『ジェラシー』は奇妙な自伝である。なにが奇妙なのかといえば、それは“自伝”の主体が曖昧糢糊としているからだ。本作が、フィリップ・ガレルの父である俳優のモーリス・ガレルの人生をモチーフとしていることは知られているが、それを演じるのがガレルの息子であるルイであり、役名までも「ルイ」とされていることが混乱に拍車をかける。「ルイ」がモーリスなのだとすれば、その子供が作り手であるガレル自身ということになろうが、劇中の「ルイ」の子供は“娘”「シャルロット」である。また、「ルイ」の妹として登場する「エステル」を演じるのは、実際にルイ・ガレルの妹であるエステル・ガレルだ。奇妙に入り組んだ自伝構造。そもそもガレルの幼少期の自伝としての側面を内包しつつも、作品の主人公は「ルイ」=モーリスであり、そう言う意味では父の評伝的物語でもある。
 また作品の後半で、「ルイ」が会いにいく老人は、ガレルにとって「非常に重要な人物」であったというモンテーニュ高校時代の老教師をモデルとしていると言う事実が、boid編『フィリップ・ガレル読本』(株式会社boid、2014年)所収のインタビューで語られているが、作品内の「ルイ」はフィリップでなくモーリスのはずだ。もちろん“自伝的”作品であったとしても、あくまで“フィクション”である以上、整合性に拘る必要はないし、むしろ改変が加えられていない作品など絶無だろう。だが、この異様なまでの主体の交錯は無視しがたい。ガレルはインタビューでこうも言っている。「脚本に直接関わってはいないが、もちろん私たち脚本家は彼がこの役を演じることをもともと知っていた。だからあの「ルイ」という登場人物は、あれやこれやのシチュエーションで彼自身がどう反応するか、ということを想定しながら書かれている。だから作品内のルイは当然ルイ・ガレルに似ているだろう」。前掲『フィリップ・ガレル読本』所収の「ガレルを知るための20章」において、映画ライターの月永理絵は、“自伝性”と人生の関わりについて、以下のように記述している。「かつて「両親が離婚した子供」とはガレル自身のことだった。彼が幼い頃に家を出た父モーリスとは、週に一回会うのが習慣となっており、その際には父の若い恋人も一緒だった。しかし一九六五年に製作された『訪問の権利』では明らかにガレル自身が主人公の青年のモデルとなっているのに対し、二〇一三年に撮られた『ジェラシー』のシャルロットには、息子ルイ(あるいは娘エステル)の姿をも見いだすことができる。彼らの母親であるブリジット・シィと別れたガレルもまた、父と同じく「離婚した両親」となったからだ」。この事実を踏まえた上でより一層興味深いのは、『ジェラシー』の“パーソナル”な脚本がガレル独りの手によるものなどではなく、ガレルを含めた4名(ガレル、キャロリーヌ・ドリュアス、アルレット・ラングマン、マルク・ショロデンコの男女2名ずつ)による共同脚本であるという事実である。ガレルは言う──「非常にシンプルなあらすじから出発し、そこから各自がいくつかシーンを選び、それぞれにシーンを書き、そしてそれらすべてをまとめてみて、どんなことになるのか」「ときにはふたりが同じシーンをそれぞれ書いてしまうこともある。そのときはどちらがより適切か選ばないといけない」「物語のそこかしこに担当のシーンがあるんだ」「それぞれに持ち寄られた異なるテキストからスクリプトが生まれるということだ。最終脚本は四人の参加者が持ち寄ったものをまとめた、ひとつのコラージュだといえる」。

※文中で引用した発言は、魚住桜子『映画の声を聴かせて フランス・ヨーロッパ映画人インタビュー』(森話社、2021年)およびboid編『フィリップ・ガレル読本』(株式会社boid、2014年)より引用させていただいた。
『ジェラシー』
©2013 Guy Ferrandis / SBS Productions

この記事をシェアする

この記事のライター

髙橋佑弥
髙橋佑弥
97年生。映画文筆。『別冊映画秘宝 絶対必見!SF映画200』『別冊映画秘宝 決定版ツイン・ピークス究極読本』などに寄稿アリ。共著『「百合映画」完全ガイド』(星海社新書)。「映画の原稿仕事、何でも何時でも何字でも!」が信条だが…五本指を使いこなすことができず左右の人差し指だけでぽちぽちキーボード操作。文字打ちがあまりに遅すぎ、すぐに締切日が来てしまう。

髙橋佑弥の他の記事

関連する記事

注目のキーワード

バックナンバー