映画の思考徘徊 第14回 『夏物語』、背中の主導権

FEATURES 髙橋佑弥
映画の思考徘徊 第14回 『夏物語』、背中の主導権

目次[非表示]

  1. 主役──決断する者として
  2. 夏──冬の鏡像として
  3. 背中──主導権の証として

主役──決断する者として

 船上に佇む一人の男。航海中のあいだ、画面に背を向け続けている彼は、本作『夏物語』の主役だが、船を降りてもなお一向に喋る気配がない──ひとりだからだ。食事を摂り、町中を歩き、部屋でギターを弾く。彼は、ひたすらに押し黙り、時間を過ごしている。これでは、端からは何を考えているかわかるまい。しかし、それは特段変わったことではない。ひとりなのだから。
 映画は、開始から8分ほど経とうかという時点で、彼に発声の機会を与える。「いいですか?」に「ウィ」、「コーヒーは?」に「ノン」、「お勘定?」に「ウィ」……食事をしたクレープ店ウェイトレスとの最低限のやりとりとして。だが、このウェイトレスの女性=マルゴこそ、全篇を通して登場する最重要人物であることが次第に判明する。いやむしろ、主導権こそ握ってはいないものの、幾度か本作を見返すにつけ、彼女がほんらい“主役”的役柄なのではないかとすら感じることになるだろう。物語は、たしかに男=ガスパールの行動に付き従うかたちで提示されていくのだが、そのじつ彼はほとんど主体的な判断を下せない。優柔不断な彼は、無責任にも近づいてくる女たち全員の誘いに乗ってしまうし、そのつど「彼女こそ一番」と表明し、過去の自身の発言を裏切る。次から次へと、安直な選択肢に飛びつき、以前の自らの選択から逃避しようとする。流され続ける男なのだ。そんな彼には、困惑や動揺はあっても葛藤など存在しないように見える。問題が起こったとき、彼は対峙するのではなく、やりすごす、あるいは回避する。関係性を固定させようとせず、やっかいな状況から離れようとする。
 本作を見終えたわれわれが気づくことになるのは、結局のところ、“決断”をしたのはマルゴだったということだ。画面に登場している間はもちろん、描かれていないあいだも、彼女にこそ葛藤があったのだと思わせる。そう感じる所以は、たびたび登場しガスパールと時を過ごす彼女の発言、振る舞いが、それまでの場面と食い違っていたりするからかもしれない。以前の自身の発言と矛盾した言動をするという点ではガスパールとも共通しているが、同時にその動機は決定的に異なってもいるだろう。ガスパールは、自身が置かれた状況を都合よく正当化するために、過去の発言を捻じ曲げる。しかし、マルゴはそうではない。彼女の状況は一貫して変わっていない。彼女の発言の変化は、外部すなわちガスパールの状態に起因してのものだ。描かれない場面と場面のあいだで、揺れ動いた結果としての変化であり、本作はそんなマルゴの恋心の行方を、それに気づかない男の視点から拾い上げるのである。

夏──冬の鏡像として

 ここで思い起こしたいのは、本作の4年前に製作された『冬物語』(1992)の記憶である。まだご覧になっていない方は『夏物語』と続けてぜひ見ていただきたいのだが、この2作を並べてみると鏡像のような関係性にあることに気づくはずだ。季節や性別こそ反転して設定されているものの、いずれも主人公は不在の“運命の相手”を待っているし、そんななかで別のふたりを加えた選択肢のなかで彷徨うことになる。いっぽう細かな設定や展開は対照的で、『冬物語』の“運命の相手”は実際にお互いの揺るがぬ想いを一度は確かめあった相思相愛の恋人であるのに対し、『夏物語』では主人公が一方的に惚れているに過ぎず相手側はさほど本気ではないことが折に触れて示唆される。加えて、前者の主人公は意志が固く、決断と行動の人物として表現されるが、後者の主人公は前述のように優柔不断の極みと言える人物造形である。ゆえに、同じ揺れ動くという展開にしても、表明されている状況は異なるのだ。『冬物語』の彷徨はあくまで諦観の結果であり、『夏物語』の三者択一とは違っている。だからこそ、似通った人物配置で始まった二つの物語の帰結は正反対のものになる。『冬物語』の主人公は、最後に決断する。叶うあてのない“運命”のために留保していた選択肢のすべてを切り捨てる。『夏物語』では、選び取るべき時機が訪れても決断はなされず、唐突な1本の電話が主人公に逃避の口実を与え、宙づりな状況を半ば容認する。
 最終的に、『冬物語』では主人公の決断が恩寵としての運命を呼び寄せる。しかし、『夏物語』での決断の回避が招き寄せるのは、逃避の口実であると同時に、近しい者の別の決断だろう。ふたりの女のあいだを行ったり来たりするガスパールに対し、たえず“友人”として傍におり、当人の行動を尊重し、約束を反故にすることもなく、誠実に対話を続けてきたマルゴは、われわれ観客の目からは明らかにガスパールへの好意を秘めているように見える。だが、マルゴは最後に明確にガスパールを拒否するのだ。つまるところ、ガスパールのみならず、マルゴ以外の『夏物語』の登場人物は主体的な決断に踏み切らない。「あなた次第」と相手に選ばせたり、一度撥ねのけたのにも関わらず身勝手に撤回したり、結局は意思/状況を自ら確定させる責任を負わずにいようとする。両作ともに、勇気ある決断を称揚しているが、『夏物語』の決断は、主人公によるものでないがゆえに逃したものを重要性を強調しているだろう。もっとも身近なところに常にあったかもしれぬ、気づかなかった“運命”。

背中──主導権の証として

 関係性の“主導権”について多くの会話が交わされる本作において、マルゴの背中を捉えたショットが物語を締めくくる(最後のショットは、去りゆくガスパールの船をとらえたものだが、冒頭の撮影が船上に据えられたカメラからのものであった事実と対照をなしている──カメラは岸に据えられ、もう彼を追いかけない)のは偶然ではないだろう。物語の開幕を、主人公=必然的に主導権を手にしているガスパールの背中が担っていたのとは反対に、幕引きに際し、とうとうマルゴは“主導権”を託される。彼女がわれわれに見せるのは、背中を向けて去ることだけだが、物語の終劇後の展開がもしあるとすれば──たんなる妄想に過ぎないが──それはまたマルゴの行動によって決定されるに違いないことが暗に示されているように思える。じっさい、ガスパールのことを振っていながら、どうやら依然として好意は抱き続けているらしい彼女は、「ときどきレンヌに行くから会いましょ」と再会の機会を用意しようとするのだし、すすんで接吻することになるのだから、ふたりの関係性に今後の発展の可能性が残されていないとは言えない──ただ、結局のところガスパールは本作の通じて全く“成長”などしているようには見えず、もし再会したとて幸福な成就をするかは疑問ではあるけれど。そんな“その後”に思いを馳せたとき、この映画がもうひとつ示そうとしたことは、マルゴの決断が、ガスパールに何らかの影響を与えるかもしれぬというささやかな希望的観測なのかもしれないという気もしてくる。なんだかんだで基本的にはガスパールの行動や言動を尊重することで介入せずに容認していたマルゴだが、最後の最後の別れの場面では、明らかに彼に“気づき”を促しているからだ──「自業自得よ」「よく考えて」。次に会うときまでに、彼が少しでも変わっているといい……私には、そんな切実な背中に見えた。
© Les Films du Losange

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この記事のライター

髙橋佑弥
髙橋佑弥
97年生。映画文筆。『別冊映画秘宝 絶対必見!SF映画200』『別冊映画秘宝 決定版ツイン・ピークス究極読本』などに寄稿アリ。共著『「百合映画」完全ガイド』(星海社新書)。「映画の原稿仕事、何でも何時でも何字でも!」が信条だが…五本指を使いこなすことができず左右の人差し指だけでぽちぽちキーボード操作。文字打ちがあまりに遅すぎ、すぐに締切日が来てしまう。

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