映画の思考徘徊 第8回 終わらざる『エル・スール』──撮られなかった“南”

FEATURES 髙橋佑弥
映画の思考徘徊 第8回 終わらざる『エル・スール』──撮られなかった“南”

目次[非表示]

  1. “BASAD EN UN RELATO DE ADELAIDA GARCIA MORALES”
  2. いまいちど映画に立ち返って

“BASAD EN UN RELATO DE ADELAIDA GARCIA MORALES”

 上のスペイン語の一文は、寝室に徐々に光がさす有名な冒頭場面に先立って暗転画面に現れるクレジットのひとつだ。「アデライダ・ガルシア=モラレスの物語に基づく」──ヴィクトル・エリセの長編第2作『エル・スール』(1983)に“原作”が存在するという事実は、わりあい知られているが、実のところ、その原作小説であるガルシア=モラレスの『エル・スール』(野谷文昭、熊倉靖子訳、株式会社インスクリプト、2009年)に邦訳があることはあまり認知されていないように思われる。また、読んだことがある者はさらに少ないことだろう。予めエリセの映画を見たことがあり、並々ならぬ思い入れがあればあるほど、この原作小説を手にした印象は奇妙なものになる──その印象から小説をそっと棚に戻してしまい読まずにいる人も少なくないかもしれない。その薄さ(訳者解説を除くと、わずか107頁)、そして開くと目に飛び込んでくる行間の広さ。果たしてこれが、本当にあの素晴らしい映画の“原作”なのだろうか……手元の軽さはどこか頼りなさげで、映画への思い入れと食い違う。しかし本書を読むことで、“映画版”すなわちエリセの『エル・スール』の特徴はいっそう際立って浮かび上がる。映画に感銘を受けた人にこそ、一読を勧めたい。
 映画(および原作)の題名である『エル・スール』=“El Sur”とは“南”の意であり、主人公エストレーリャの父の故郷を指していることは、既に作品を見たことがあれば自明であろう。しかし、映画に“南”は存在しない。エストレーリャは見たことのない父の故郷に思いを馳せるが、画面に南は映らない。父親は「故郷を捨てた」のであり、帰ることはないからだ。父の死後、エストレーリャは父親の人生を遡ろうと南に旅立つ。けれど、映画はそこで終わってしまう。
 初めて映画を見たとき、少なくとも私の目には、このラストは意外なものには映らなかった。むしろ、端正なものにさえ思えたことを覚えている。「この映画は、エル・スール(南)へ向かうまでの物語だったのだ」と。しかし、作り手への興味から雑誌や書物に目を通してみると、エリセがたびたび主張し続けている言葉が目につく。「シナリオでは二時間半を予定していました。全篇は二部に分かれ、第一部が北部を、第二部が南部を舞台とするはずでした。南部に物語が移ってからを一時間と考えていたのです。しかし、途中で後半部分が財政的に無理だとわかったので、第二部のために撮ったいくつかのシーンは編集で切らなければならなくなってしまった。大変残念なことです。そこでは、私の母親も、父親役のオメロ・アントヌッティも素晴らしい演技を行っているのです。こうした役者のためにも残念でなりません。いまの上映時間は、撮影中に起こったこうした不可抗力によって決定されたのです。それが結果として一時間半となってしまった」「この映画のもともとの企画では、ふたつのイメージ群を観客に提供することになっていたのです。つまり、北部と南部、そのまったく異なったふたつの風景、そして大きな違いのあるふたつの生き方も含めたイメージ群です。企画の中のこの側面に私は強く惹かれていたのですが、残念ながら実現できなかった」「私にとっての『エル・スール』は未完の作品です。アンダルシアを背景としている物語の部分、まさにタイトルから想像される南部(エル・スール)が欠けています」「あるとき撮影が中断したのですが、経済的理由から、そして映画が長いということで、撮影は再開されませんでした。理由のいくつかはもっともなものですが、そこから生まれた結果全部に私が責任を持つことはほとんど不可能です。撮った素材を編集し始めたとき、撮り終えたフィルムを見て、私は撮影を再開できるのではないかとまだ希望を捨てずにいました。語りの面から見ると『エル・スール』はまるで完成した作品にはなっていないのに、完成作として公開されてしまったという事実、私の心に葛藤を生むようなこの事実を受け入れざるをえなかったのです」「製作の面から『エル・スール』が完成作として公開されるのは理解できます。しかし脚本家であり監督である私の立場からすると、実体としては映画的に未完の物語なのです」。長くなったが、この度重なる訴えからも、エリセの忸怩たる思いがわかるだろう。しかしそのいっぽうで、当初の作り手のビジョンを共有していない、いち観客=私にとっては「語りの面から見ると『エル・スール』はまるで完成した作品にはなっていない」ようにはとても見えず、何度見返しても“完成”されたもののように見える。「まだ可能性の余地があること。実現していないことの方がいつだってより良く見えるのだ」──映画化をめぐる経緯を知ったあとに読むと、この原作小説の一文はどこか意味ありげに響く。

いまいちど映画に立ち返って

 原作小説を読み終えた私は、すぐに映画版を見返してみた。そして、この映画は当初の作り手の理想とは異なるかたちで、“未完”であるがゆえに、はからずも映画独自の偶発的完成をみたのではないかと考えた。
 映画における父親の存在は“謎”である。理由があって故郷=南部を捨てて北部に住んでいるが、南部の光景は一度たりとも映らないし、 過去もあまり語られない。だからこそ、主人公は父の書斎に忍び入って過去の痕跡を探し求めたり、映画館にいる父を待ち伏せ、追いかけてみたりする。謎多き父親に接近しようという試みが、『エル・スール』の前半部を構成する主な要素であり、だからこそ主人公が成長し次第に父への憧れ/関心を失い、どこか哀れみの対象となる後半部が痛切に感じられる。しかし原作においては少々印象が異なる。父親は必ずしも“謎”ではない。開幕が父の自死をめぐる場面という点は映画と同じだが、原作においてはその死からすでにある程度の時間が経過した地点の独白で物語が始まるのだ──「明日夜が明けたら、お父さん、すぐにお墓参りに行きます。人の話だと、墓石は割れ目から雑草が伸び放題で、花が供えられることもないようです。あなたのお墓を訪ねる人などひとりもいません」。“死”はすでに実感をもって受け入れられている。その後、幼少期の回想が語られていく構成も映画と同様であるが、“死”が咀嚼された時点で語られるという事実は、過去の挿話への印象を大きく異なるものにする。もちろん、それだけでなく人物造形の違いやディテールの差異も印象の違いを際立たせているだろう。たとえば、原作において母親や叔母、お手伝い、主人公の友人などが映画以上に丁寧に描かれており、必ずしも父娘関係ばかりに焦点が当たるわけではない。夫婦不和は強調され、母は娘に攻撃的で…家庭内での確執が“未来”の視点で言語化される。語り手にとっては“過去”にすぎず、すべてが明快で、当時はわからなかったことも推察され「腑に落」とされている。父は“沈黙”という言葉で形容されるが、饒舌な“語り”で構成されているがゆえ作品自体に言葉少なな印象はない。そして、すでに書いた通り、原作には“南”がある。父の死後、主人公は南部へ赴き、父の謎を解明する。想像していた父の過去に、答えが与えられる。父をめぐる旅は通過儀礼であり、主人公は“成長”することになる。
 映画において、物語の円環構造は父の死のすぐあとに設定されている。“回想”の主体はその地点にあり、死はまだ咀嚼されていない。過去の場面において、母親の存在は希薄で、お手伝いの人物像はほとんど描かれないし、(幼少期の)友人も出てこない。なにより、印象的な場面の多くが、映画版独自のものであることに改めて驚かされる。基本的に、原作の大部分は家で展開する──映画版における父親の記憶と紐づいた“場所”の数々、すなわち映画館もバルもホテルも出てこないのだ。また、観客にのみ提示される“主人公不在の場面/情報”も少なくない。父親が綴るかつての恋人への手紙やその返信はその最たるものだろう。ゆえに、主人公にとって父親は一貫して理解しきれない謎であるということを、われわれは了解することができる。
 映画のラスト、主人公は“南”へと旅立つ。それは“謎”が依然として“謎”のままだからこそ胸を打つ。そして映画はその“謎”を解き明かすことなく、維持して終わる。どこか“閉じた”印象を受ける原作と正反対の“開かれた”終幕である。撮られなかった“南”で回収されるはずだったという伏線、鞄の中の絵葉書や日記や電話の明細も、意味付けを免れたがゆえにどこまでも解放されている。だから、これで良かったのだ。“南”で何が起こるのかは、誰にもわからない。
 
 余談だが、かつて批評家としても活動していた時期があり、(この連載でも幾度か言及した)ニコラス・レイと知り合いであったというエリセは、レイの遺作『We Can’t Go Home Again』について、ドキュメンタリー『あまり期待するな』の中でこう述べていた──「『We Can’t Go Home Again』は失敗作だ。だが、1つ手本になるのは映画が生きていること。時間経過は無意味だが、映画の価値を強めていて、1度見たら忘れられない。未完成な状態であっても」。まったく関係のない発言には違いないのだが、それでもどこか『エル・スール』のもつ魅力についての言葉には思えてこないだろうか。原作を読んだのち、再度『エル・スール』を見終えたあと、まず最初に思い出したのがこれだった。

※文中で引用したエリセの発言は、蓮實重彦『光をめぐって 映画インタヴュー集』(筑摩書房、1991年)および 遠山純生編『紀伊國屋映画叢書2 ビクトル・エリセ』(紀伊國屋書店、2010年)より引用させていただいた。


「エル・スール」© 2005 Video Mercury Films S.A.

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この記事のライター

髙橋佑弥
髙橋佑弥
97年生。映画文筆。『別冊映画秘宝 絶対必見!SF映画200』『別冊映画秘宝 決定版ツイン・ピークス究極読本』などに寄稿アリ。共著『「百合映画」完全ガイド』(星海社新書)。「映画の原稿仕事、何でも何時でも何字でも!」が信条だが…五本指を使いこなすことができず左右の人差し指だけでぽちぽちキーボード操作。文字打ちがあまりに遅すぎ、すぐに締切日が来てしまう。

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