ビクトル・エリセの31年ぶりの長編映画『瞳をとじて』に仕掛けられたものとは──

LETTERS ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊
ビクトル・エリセの31年ぶりの長編映画『瞳をとじて』に仕掛けられたものとは──

目次[非表示]

  1. 押さえておきたいこと
  2. 質感の違う映像
  3. やがて、まなざしは向けられる。
  4. 映っていたのは何か?
 ビクトル・エリセはその50年以上におよぶキャリアのなかで3本しか長編映画を撮っていなかった。1992年制作の『マルメロの陽光』を最後に、短編作品はあったものの、実に31年もの間、長編映画としての新作は世に出ることはなかった。実際には後述するように長編でもいくつかのプロジェクトを動かしてはいたものの、実現には至らなかったのだが──。

 その寡作すぎる映画作家ビクトル・エリセの31年ぶりの新作に世界中が驚いたのが2023年のカンヌ国際映画祭だった。

 ザ・シネマメンバーズでも過去、すでに2021年の1月に『ミツバチのささやき』、『エル・スール』を配信し、一旦権利期間が終了してしまっていたのだが、このニュースを受けて急遽、諸々を整えて2023年の6月から再度の配信に至ったのだった。

 新作『瞳をとじて』は、ビクトル・エリセが、自身によって撮られるはずだった2つの作品をミックスした映画を撮り、さらにそのフィルムを自身の映画の劇中で、映画館で上映するに至るという映画だ。これを軸としながら、失踪した俳優の真相を追うという推理小説の要素を使って、まなざしに対する考察がなされていく。

『瞳をとじて』2月9日(金)TOHOシネマズ シャンテ 他 全国順次ロードショー

 この作品には、ビクトル・エリセ自身のこれまでの人生や過去の作品、影響を受けた映画などからの引用がふんだんに盛り込まれている。その意味では、まさに集大成的な作品だ。そのため、『ミツバチのささやき』、『エル・スール』はもちろん、押さえておいた方がより楽しめる要素や関連がたくさんある。それらをまず羅列したあと、作品についても触れようと思う。

押さえておきたいこと

ヤヌス像
『瞳をとじて』の冒頭から映し出されるのがこの像。ギリシャ神話の時間の神で、前後を向く二面像。一つの顔は過去を向き、もう一つの顔は未来に向いており、物事の始まりと終わりを見据えている。後述するボルヘスの短編小説『死とコンパス』において、このヤヌス像についての記述が出てくる。
1947年
『瞳をとじて』冒頭の劇中劇である映画『別れのまなざし』が1947年という時代設定。この1947年という年は、フランコ政権下のスペインで国家首長継承法が制定され、スペインは王国であり、フランコが国家元首で、その王国の終身摂政となることが決定した年。つまり国王は不在のまま、半永久的にフランコが君臨することが決まった年。
フランコ政権
軍人フランシス・フランコは、スペイン内戦で台頭し独裁政権を樹立。ヒトラーをまねて自らをカウディーリョ(総統)と称した。あのピカソが抗議し作品にしたゲルニカの空爆もフランコがスペイン内戦で形勢逆転のためドイツ軍に要請したもの。政権下では政治的抑圧、閉鎖経済政策がおこなわれ国民は困窮した。フランコは1975年死去。

ビクトル・エリセの長編1作目『ミツバチのささやき』は1973年の作品であり、このフランコ政権下で作られたため、様々な隠喩をふくむ表現がとられているほか、『エル・スール』の物語にも父親の背景として織り込まれている。
悲しみの王(トリスト・ル・ロワ)
劇中映画『別れのまなざし』で主人公が訪れる邸宅の名前。敷地の片隅にはヤヌス像がある。そこに住むミスター・レヴィが、短編小説からとった名前だと劇中で語っているが、この短編小説は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの代表作である『伝奇集』に所収されている短編『死とコンパス』と思われる。この推理小説の中で、捜査官レンロットが最後におびきだされる別荘の名前が、トリスト・ル・ロワ。
死とコンパス
ボルヘスの短編の中でも偏愛する読者が特に多いとされる推理小説。ビクトル・エリセは、この作品を映画化しようと脚本を書いたが、制作されることはなかった。(ちなみにアレックス・コックスが1996年に映画化している。)エリセは、この『死とコンパス』という推理小説を土台にし、様々な置き換えとともにイマジネーションを広げ、『瞳をとじて』の全体の設計をしているように思える。
ミスター・レヴィ
劇中映画『別れのまなざし』で、フランクを呼び出し、仕事を依頼するユダヤ人。“Mr. Levy”という役名になっており、Levyは、“なにかを課す、召集する”の意味を持ち、フランクに役割を課す男としての、記号的な役名と思われる。フランクは、失踪した俳優フリオが演じている役名。フランクのことは、理想のために闘ったアナキストであり、フランコ政権が続くことが決定し、彼が夢破れた闘士であることがレヴィによって示される。
上海ジェスチャー
劇中映画『別れのまなざし』で、ミスター・レヴィの生き別れた娘ジュディスに中国人の妻が教えた、扇子を使って視線を強調する舞踊のポーズ。なのだが、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督のフィルム・ノワールのタイトルでもある。スタンバーグはビクトル・エリセが敬愛する映画作家の一人で、スタンバーグを論じた文章も書いている。また、後述する『上海の呪文』において、エリセは、この上海ジェスチャーをするシーンを撮りたかったのではないだろうか。
夜の人々
『別れのまなざし』の編集担当だったマックスの家に飾ってあるポスターで、マックスは本作の16㎜フィルムも持っていると自慢する。こちらもビクトル・エリセが敬愛する映画作家の一人、ニコラス・レイの初監督作にして最高傑作との呼び声高いフィルム・ノワールであり青春映画。
フアン・マルセー
古本市でミゲルが店主に、あるかどうかを尋ねて買うのが、フアン・マルセー『夢たちの筆跡』(Caligrafía de los sueños)。フアン・マルセーは、ビクトル・エリセが映画化しようとして叶わなかった『上海の呪文』(El embrujo de Shanghai)の著者でもある。エリセは、この『上海の呪文』の映画化に取り掛かったが、プロデューサーとのクリエイティブの相違で実現せず、その後、同プロデューサーがフェルナンド・トルエバを監督に起用し映画化した。
別れのまなざし
『瞳をとじて』の中で、失踪した俳優が出演していた映画であり、主人公ミゲルはこの作品の監督だった。TV局の取材に応じてフィルムを貸し出すが、2つのシーンのうち冒頭のシーン、“悲しみの王”に住むレヴィを訪れたシーンのみを渡す。プロデューサーのマルタに「なぜ冒頭のシーンだけ渡したの?」と訊かれるとミゲルは「マックスが反対した」と噓をつく。何故、ミゲルはラストシーンを貸さなかったのか?そこになにが映っていたのか?のちに私たちは観ることになる。

ちなみに、『別れのまなざし』の原題:LA MIRADA DEL ADIOSは、『瞳をとじて』の制作プロダクションの社名でもある。

『瞳をとじて』2月9日(金)TOHOシネマズ シャンテ 他 全国順次ロードショー

ラ・シオタ駅への列車の到着
リュミエール兄弟による50秒間の作品。駅に列車が到着する様子を固定したカメラの視点から撮影し、遠くから列車がやってきて、スクリーンを見ている観客に向かって列車が突き進み、スクリーンの左端まで交差していく一連を1ショットで収めた映像は、映画の原始的な興奮がみなぎっているもので、ビクトル・エリセは、『ミツバチのささやき』において、同様のシーンを撮っている。

『瞳をとじて』劇中、ミゲルがバスの中で倉庫から持ってきた品々の中からFlip Book(パラパラ漫画)をめくるシーンがあるが、この『ラ・シオタ駅への列車の到着』の動画をパラパラ漫画にしたもの。
エストレリャ
海辺の村に戻ったミゲル(村ではマイクと呼ばれている)は、同じコミュニティの住人同士で夕食をとる。住人の一人であるトニは、ギターを弾きながら、妻のおなかの中にいる子の名前は、エスメラルダかエストレリャにすると言う。エストレリャは、『エル・スール』の主人公である少女の名前。

『エル・スール』
© 2005 Video Mercury Films S.A.

ライフルと愛馬(My Rifle, My Pony And Me)
海辺の村で夕食後、トニに「あの映画の歌を歌ってくれ」とリクエストされたミゲルがギターを手にとって歌う曲。この曲は、西部劇全盛期にハワード・ホークスが撮った『リオ・ブラボー』劇中、酔いどれ保安官補役のディーン・マーティンと若き早撃ちガンマン役のリッキー・ネルソンがデュエットで歌う名シーンでの曲。『瞳をとじて』においても、ミゲルとトニがデュエットで歌う。このシーンを本当に撮ってみたかったのだろうなという、エリセの映画愛を感じる場面。
ガルデル
人気絶頂で飛行機事故によって急逝してしまったアルゼンチンの国民的英雄で伝説のタンゴ歌手、カルロス・ガルデルに由来。劇中、タンゴを愛する修道女が、フリオがよくタンゴを歌っていることから彼につけた呼び名。
私はアナ(Soy Ana)
『ミツバチのささやき』のアナ役:アナ・トレントが『瞳をとじて』でもアナ役で出演。そして、「私はアナ」とは、『ミツバチのささやき』の劇中で、巡回上映の『フランケンシュタイン』を見た後、アナに姉のイザベルが、あの怪物は精霊で、「目を閉じて、私はアナと呼びかければいつでも会える」とちょっとした噓をつくのだが、アナは最後に窓辺で、「私はアナ」と呼びかけ、“目を閉じる”。この、目を閉じて、呼びかければいつでも会えるということが、そのまま『瞳をとじて』へと受け継がれており、重要な要素となっていると考えている。

『ミツバチのささやき』
© 2005 Video Mercury Films S.A.

三段峡ホテルのマッチ
ガルデルが病院に搬送されたときに持っていた品々の中にあったもの。広島県に実在する宿。ビクトル・エリセと親交のある映画作家:宮岡秀行が広島県出身で、エリセは2006年に広島に来ている。宮岡秀行は、ジョナス・メカスやビクトル・エリセ、青山真治などの様々な映画作家たちに、映画を撮ることの意味についてビデオによる返答を依頼し、それらを1本の映画としてまとめた作品『セレブレートシネマ101』を1996年に発表している。
ドライヤー
映画の編集担当だった相棒のマックスがミゲルに対して、「1本の映画が奇跡を起こすとでも?」「ドライヤー亡きあと、映画に奇跡は存在しない」と戒めるが、このドライヤーとは、もちろんカール・テオドア・ドライヤーのこと。彼の作品『奇跡』は、『裁かるゝジャンヌ』とともに映画史に残る名作で、まさに奇跡が描かれる奇跡のような映画。ザ・シネマメンバーズでも配信していたが、残念ながら期間はすでに終了。このサービスをずっと見ていれば映画史でリンクする大切な作品は観られますので、お見知りおきを。

質感の違う映像

『瞳をとじて』2月9日(金)TOHOシネマズ シャンテ 他 全国順次ロードショー

 『瞳をとじて』には、3つの種類の映像がある。一つ目は劇中劇の映画『別れのまなざし』、二つ目は失踪した俳優をめぐるドラマのパート、そして三つ目は、ミゲルがフリオのことを想像した映像だ。この3つの種類の映像の中で、最も映画だと感じるのは、当然のことながら劇中劇の、映画として撮られた『別れのまなざし』だ。まちがいなく映画の光、色彩、構図がある。 

 一方で、『瞳をとじて』を観ていて不思議に思ったのは、大部分を占める失踪した俳優をめぐるドラマのパートが、なぜこんな風に撮られているのかということだった。“近い”のだ。そしてほとんどが会話なのだ。その質感に、これが今のビクトル・エリセが撮った映画なのか…。と多少の違和感を覚えながら観たのは自分だけではないと思う。

 しかし、ビクトル・エリセは、わざと質感を変えているのだと思う。映画のようには見えづらいパートと映画であるべきパートとが際立つように。なぜならば、それは、劇中における現実の場面と、映画の中の「映画」だからだ。

やがて、まなざしは向けられる。

 そして、観ていくうちに“視線”に気付く。失踪した俳優をめぐるドラマのパートは、会話をする二人をとらえたショットが多い。バストアップの構図、顔のクローズアップで映る人々──。そうすると、否応なくその視線が印象付けられる。事実を確かめる時の視線、思い出を語る時の視線、想いをつたえる時の視線、相手に応えるときの視線、水平線を見つめる視線──。様々な視線をビクトル・エリセは真相に迫るために何人もの人と話すというミステリーの設定の中で撮って積み重ねていく。

 映画の文法によって、やや斜めにずらした視線の切り返しによって会話がなされ、時にその視線は、まともに正面から撮られる。過去の愛を問われたかつての恋人ロラがそれに答える時、そして、ミゲルが施設での昼食のテーブルでガルデルの向かいに座り、彼の顔を見る時、それに気づいたガルデルがミゲルを見る時、それぞれのシーンでスクリーンを観ているこちら側をまともに見てくるのだが、それらの視線は、どれも“別れのまなざし”ではないのだ。

 そしてついにその“まなざし”が向けられた時、気づくだろう。ビクトル・エリセが延々とあの構図で様々な種類の視線を撮り重ねた理由に。なぜならば、それらとはあきらかに異なるその“別れのまなざし”は、観る者を射抜いてくるからだ。

映っていたのは何か?

 また、過去の作品同様、本作でも物語の肝心な部分をビクトル・エリセは見せてくれない。過去に起きたその場面はスクリーンには映らず、過去を語る人々が映るだけだ。これまでの作品においても『ミツバチのささやき』では、母親が手紙を出している相手を観客は見せてもらえないし、兵士がなぜ逃亡したのか、父親が電話で話しているどうやら政治関連のことについても説明されない。『エル・スール』でも、少女に嫌がらせをする少年は最後まで映らないし、父親がなぜ今だに想いを寄せているのか、その女性はどうしているのかも映らなかった。

 『瞳をとじて』において、というより、全ての映画において、ということにもなるのだが、スクリーンに映っていたのは何か?そして、スクリーンに映らなかったのはなにか?を見ること、そこから自分の中に沸き上がったものを受け止めることが、ひとつの理解の方法であると考えている。

 失踪した俳優をめぐって『別れのまなざし』という映画に関わった人々を訪ねていくストーリーのなかで、亡くなっていないはずなのに会っていないのは誰か? 大切に持っていた写真に写っていたのは誰か? そして、ついに“別れのまなざし”が向けられた時、その視線をそっと外す者と、目を閉じる者がいる──。瞳をとじたのは誰か? あなたの目で確かめてほしい。そして思い出そう。ビクトル・エリセの作品において、目を閉じるということがどんなことだったのかを──。

 しかし、これも全てビクトル・エリセの仕掛けに嵌っただけなのかもしれない。彼が映画化しようとした『死とコンパス』において、犯人が意図した通りに捜査官が推理し、存在しなかったストーリーを組み立ててしまったように。劇中でミゲルも言っているが、あらゆる仮説が可能なのだ。

『瞳をとじて』
2月9日(金)TOHOシネマズ シャンテ 他 全国順次ロードショー
監督:ビクトル・エリセ 
脚本:ビクトル・エリセ、ミシェル・ガズタンビデ
撮影:バレンティン・アルバレス
出演:マノロ・ソロ、ホセ・コロナド、アナ・トレント

配給:ギャガ  
原題:Cerrar los ojos  英題:Close your Eyes
2023年/ スペイン / カラー /ビスタ / 4K / 5.1chデジタル / 169分
字幕翻訳:原田りえ

© 2023 La Mirada del Adiós A.I.E, Tandem Films S.L., Nautilus Films S.L., Pecado Films S.L., Pampa Films S.A.

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この記事のライター

ザ・シネマメンバーズ 榎本  豊
ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊
レトロスペクティブ:エリック・ロメールを皮切りにした2020年4月のザ・シネマメンバーズのリニューアルローンチから、ザ・シネマメンバーズにおける作品選定、キュレーションを担当。動画やチラシその他、宣伝物のクリエイティブなども手掛ける。

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