ゴダール流「ミッション:インポッシブル」であり、早すぎた遺書「右側に気をつけろ」

LETTERS ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊
ゴダール流「ミッション:インポッシブル」であり、早すぎた遺書「右側に気をつけろ」

目次[非表示]

  1. ミッションは必ず映画の冒頭に
  2. 光(Lumière/リュミエール)
  3. “死”のイメージと映画史
  4. 天使について
拝啓 ジャン=リュック・ゴダール
あなたがこの世から去り1年が経ちますが、
この「右側に気をつけろ」という作品は、
あなたの死【以前/以後】で、
観た時の感じ方が
変わってしまいました。

ミッションは必ず映画の冒頭に

 この作品を解説する文章にはよく、「ゴダール演じる“白痴”公爵殿下のもとに1本の電話がかかってくる―。」と書いてあるのだが、そのシーンを観た者は一人もいない。なぜなら、スクリーンにはそういう風には映っていないからだ。鳴っている電話も、その電話をとる人も、何も映っていない。黒バックにスタジオなどのクレジット。そこに電話のベルが鳴る。

 画面は出演者などのクレジットを映しつつ、カットが挿入されること数回、雲がかかった山間を滑らかに飛ぶ視点からの映像へと変わり、飛行する視点からの風景は次第に地上へと近づいてくる。その一連のなかで、この映画の語り手によって、見ている我々に向かって、台本のト書きのような、映画をガイドする言葉とともに「ミッション」が伝えられる。
―――
“大至急 物語を作れ”
“それを映画にして夜までに首都に届けろ”
“映画はその夜のうちに封切ること”
“駐車場で車が待っている”
“飛行機も手配済み”
―――
ゴダールがそれをやる。という映画だ。

 しかし当然、ミッションをコンプリートする男だけが描かれるわけではないのは、「ミッション:インポッシブル」も同じだろう。物語は時に脱線し、飛行機は飛び、モノは破壊され、車は走り、人々は言葉を発する。

 「右側に気をつけろ」でも、ゴダールは黄色いフェラーリに頭から飛び込むし、人は愛したり殺したりするし、飛行機が飛び、車は走る。だから、哲学的なナレーションや風変りな人たちがつぶやく詩で、「難しい!」と引いてしまわず、それらを長いカーチェイスや急に素手で格闘する場面などと同列でとらえていい。この映画は、ミッションをコンプリートする映画なのだ。

「右側に気をつけろ」

光(Lumière/リュミエール)

 そうして、ゴダールによってこのミッションがコンプリートされるとき、つまり、劇中、届けられたフィルムが映写機にセットされ、それが光とともに回りはじめるとき、「地上にひとつの場所」が映し出される。

 その時、聞こえている(字幕として見えている)言葉はこうだ。
―――
だが沈黙を見ようとすると
もはや見えなかった

夜が最後の力を集めて
光に打ち勝とうとしているからだ
だが光は背後から夜を襲うだろう

まず初めに とても優しく
沈黙をいたわるように
人が昔 聞いた
ささやきが聞こえる
かくも遠く―
人が生まれるはるか以前に
ささやきは始まっていたのか―
―――
 是非、このシーンにたどり着いて、そして味わってほしい。言葉と映像が重なり、そのどちらでもない“なにか”を生み出す瞬間を。そして、エンディングに向かっていく一連を。

“死”のイメージと映画史

「右側に気をつけろ」

 この極上の時間ともうひとつ、本作で際立っているのが、「死」のイメージがこんなにも多いのかということ。それ以前にも、いや、長編デビュー作からゴダールは死を描いてきた。かもしれないが、その種類が異なっている。どちらかというと「恋の物語は悲劇に終わる」という、ベタな結末としての、まさに絵に描いたような死であったのが、この「右側に気をつけろ」では、ゴダールが“死”そのものについて考察している。

列挙していくと、
―――
悲しそうね
地上を去るのはいつも悲しい
置き去りにするものがあるから?
違います。
―――
年ごとに俺の声は小さくなっていく
―――
いつも—
自分の中に死体があるような感覚がある
―――
人生という部屋があり
死後という部屋がある
そして死は二つの部屋の間にある扉だと
だが なぜ扉を大げさに考える?
人は死ぬために生まれ
意思によって死は選べる
―――
だが いかなる文明においても
人が死を選んだことはない
生が選べないだけで十分だ
―――
古い時の層から立ち昇るもの
それは私の唇に のぼる前に
蘇生する
死との戦いは深い声を内包している
永遠に向き合っても
―――
 こうして、一部を取り上げただけでも、本作を撮った時、ゴダールが死について様々なイメージをめぐらせ、考えていることが窺えるだろう。(但し、重要なことは、「死にたい」と考えているのではないということだ。)

 “死”についての解釈は様々あるにしても、この「右側に気をつけろ」という作品は、ひとつのターニングポイントとして意識して良いだろう。事実、この作品以降、「JLGフィルム社」は、1990年に「ゴダールの映画史」第一章、第二章を世に出し、「映画史」以外の活動を停止、別会社で作られた作品においても、映画史全体を振り返るということがより強く織り込まれていくのだ。

天使について

 最後にもうひとつ、
―――
小説を書くには天使でなければならない。
我々は魂の外で生きている唯一の生物だ
だが同時に 常に魂の内側でも生きている

だから時には—
天使になるものもいる
―――
 まるでヴェンダースの「ベルリン・天使の詩」に向けて寄せられた序文であるかのような一節だが、「右側に気をつけろ」と「ベルリン・天使の詩」は、同じ1987年の作品だったという実に興味深い偶然。この二つの作品を見比べてみるというのも面白いかもしれない。

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この記事のライター

ザ・シネマメンバーズ 榎本  豊
ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊
レトロスペクティブ:エリック・ロメールを皮切りにした2020年4月のザ・シネマメンバーズのリニューアルローンチから、ザ・シネマメンバーズにおける作品選定、キュレーションを担当。動画やチラシその他、宣伝物のクリエイティブなども手掛ける。

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