今、『ミツバチのささやき』という映画を観ることとは──

LETTERS ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊
今、『ミツバチのささやき』という映画を観ることとは──

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  1. 怪物
  2. そして“怪物”と出会う
  3. 作品が人々に観られる時
 『ミツバチのささやき』を何回観ても、自分にはこの映画がフランコ独裁政権批判のメッセージを込めた作品であるようには見えなかった。

 たしかに本作はフランコ独裁政権下で制作されたため、検閲を逃れるために様々な隠喩の形で政府批判のメッセージが劇中に盛り込まれている──。そうなのかもしれないが、政府批判をすることが映画を撮る動機ではないだろうし、さらに言えば、たとえ検閲や思想統制が無かったとしても、ビクトル・エリセは『ミツバチのささやき』をこのような映画にしただろう。

 そのことがずっと引っかかっており、一度それについて書いておこうと思った。あえて言うが、何人の人が映画冒頭の「1940年頃 カスティーリャのある村」というテロップでスペイン内戦、フランコ独裁を読み取っただろうか。全ては事後の調べものなのだ。

怪物

 『ミツバチのささやき』冒頭からほどなくして、アナの父親であるフェルディナンが、書斎で本を読み始めると、公民館で上映されている『フランケンシュタイン』の音声がもれて聞こえてくる。ミツバチの生態についてと同じくらい長い尺をとっているこのシーンで聞こえる音声(字幕)はこうだ。
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こんな不完全な怪物は壊そう
分かってくれ 危険なんだ  
危険?
先生は危険を冒した事がないんですか?
未知に挑まずして何の研究です?
雲や星のかなたを見たいと思いませんか?
なぜ 樹木は育つのか?
なぜ 夜が朝になるのか?
こんな事を言うと気狂いといわれますが
これらの問いの一つにでも答えたい
永遠とは何か?
気狂いといわれても私は平気です
若い君は成功に目がくらんだのだ
目を覚まして現実を見なさい
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 これだけを今、文字で見ると、『オッペンハイマー』を想起する人が多いかもしれない。つまり、上の会話の“怪物”を原爆や水爆と読み替えるとそうなる。実際、『オッペンハイマー』の劇中で、同じようなやりとりがあったと思う。

 では、この“怪物”を“国”、あるいは“社会”、“未来”などと読み替えたら?それがビクトル・エリセがこの映画で試みていることなのではないだろうか。
 この “怪物”は、『フランケンシュタイン』の中で、形をともなって現れる。少女メアリーは、怖がることなく「あんた誰? 私はメアリーよ 一緒に遊ぶ?」と言い、(場内で映画を観ている子供たちの、そんなことして、知らないよ?…という表情のカットバック)「お花、あげようか?」と、摘んできた花を“怪物”に差し出すと、“怪物”はそれを受け取る。このシーンを観る時のアナの表情は、『ミツバチのささやき』において最も強い印象を与える名場面だ。

 アナは、その“怪物”と少女メアリーが心を通わせることに魅せられ、家に帰ってからも姉のイザベルにしつこく聞く。
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なぜ怪物はあの子を殺したの?
なぜ怪物も殺されたの?
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 悪は本当に悪なのか?悪は始末されなければならないのか?この本質的な問いにイザベルは答えられるはずもなく、怪物もあの子も殺されてない、映画は作り物だから──。と言い、村はずれで彼を見たと嘘をつく。そして、次の言葉をアナに言うのだ。
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精霊なのよ
目を閉じて 彼を呼ぶの 
私はアナです 私はアナよって
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 目を閉じて、呼べば会える──。それがこの物語のキーとなるわけだが、ビクトル・エリセの最新作『瞳をとじて』でもこのことが重要なキーとなっていた。ただ、『瞳をとじて』は、劇中の表現において、説明する部分と説明しない部分のバランスがあまりにも悪く、題名にし、ラストシーンにもしているほど重要なこととして映画に持ち込んでいるのに、誰に会いたいと思って目を閉じたのかが伝わりづらいことになっている。本当に不思議なくらい、そのことに触れている人が少ないのはネタバレに気を使ったというよりも映画の中の表現で説明が足りていなかったためなのだろう。あの映画は一言で言うと──いや、今はやめておこう。

そして“怪物”と出会う

 『ミツバチのささやき』に話を戻す。物語の後半にさしかかるあたりで、一人の兵士が汽車から飛び降りる。村はずれの小屋にたどり着いたその脱走兵とアナは出会うことになる。映画で見た“怪物”を、恐れや善悪とは切り離れた形でとらえ、未知の来訪者として憧れにも似た感情を抱いていたアナは、前の晩に一人こっそりと夜中に抜け出して、月明かりの下でイザベルに言われた通り、目を閉じて唱えていた。そのことと呼応するように、村はずれの小屋に現れた脱走兵は、アナにとって、心を通わせることへの憧れを抱いていた“怪物”と完全に重なったのだ。
 『フランケンシュタイン』同様、その“怪物”は始末されることになり、強いショックを受けたアナは、走り去って家に戻らず、行方不明になる。そしてその晩、以前キノコ狩りの時に父から毒キノコだと教えられたキノコを発見する。そのキノコに手を伸ばすアナ。食べるシーンこそ描かれないが、そのキノコを食べたことで、幻覚のなかで“怪物”と会う。

 朝、発見されたアナは弱り切って寝込み、医師は母に言う
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テレサ、 アナはまだ子供なんだ
ひどい衝撃を受けてはいるが 時がたてばなおる
本当に?
少しずつわすれていくよ
大切なのは あの子が生きてるって事だ
アナは生きてる
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 それを言われたテレサは、その言葉をアナだけのこととは受け取っていない表情だ。そしてそれは観ている我々もそうなのではないだろうか。

作品が人々に観られる時

 本作では、このアナの物語を軸にしながらも内戦が人々の生活に落とす影が執拗に描かれる。母親のテレサは、生き別れた恋人への手紙にはっきりと内戦によって心が弱ってしまっていると書いているし、彼女が家で弾くピアノは、全体的に調律が狂っており歪んだメロディを奏でる。巡回上映の『フランケンシュタイン』のなかで、殺された少女を抱きかかえて歩く村人のシーンを観る大人の表情は、とても映画を観ているとは思えない深刻な表情で、これがカットバックされることで、それが実際の戦争で起きたことのように見える。生徒が朗読する詩を聞く教師の顔は、心ここにあらずといった、うつろな表情だ。

 加えて、フェルディナンが蜂の生態について、“狂ったように働くその報われることの無い過酷な努力”とノートに綴り、巣や生態が人の営みに重ね合わせてイメージされるように織り込まれている。
 映画冒頭で土地と年代が示されていることで、これらのことがスペイン内戦、フランコ独裁ということに収斂していくのだが、“スペイン”、“フランコ独裁”という固有のワードが無くてもこの作品のテーマを受け取ることは可能だという立ち位置でこの作品とは向き合いたい。なぜならば、それが、今、この映画を観る時に必要な、作品の本質に触れるということだと考えているからだ。ある時代の知らない国...とされていたとしても、この映画が持つテーマも価値も変わることはない。

 スペインという国で、その社会的状況を織り込みながら作られた50年以上も前の作品が、映画として人々に観られる時、ユニバーサルな言語として新たな意味を持つ。そのことに思いを巡らせたい。

 この映画の原題は、『El espíritu de la colmena(巣の精霊)』。英題も『The Spirit of the Beehive(蜂の巣の精霊)』だ。この言葉自体は、蜂の生態の、何か理解を超えた強い力のことを示しているのだろうが、あえて映画を振り返ってみよう。この映画で“精霊”と呼ばれていたのは何だったのか──。それは、あの『フランケンシュタイン』の“怪物”だ。不完全で危険だから壊そうと言われ、だからといって諦めるべきではないと議論された、あの“怪物”なのだ。

 映画で見た“怪物”とのふれあいに憧れ、脱走兵に“怪物”を重ね、心を通わせたアナは、その脱走兵=“怪物”が壊されたことで、自分も一時的に壊れてしまうが、また立ち直っていくことが示される。

 “怪物”を何と読み替えるか──。それによってこの『ミツバチのささやき』という映画は、スペイン内戦、フランコ独裁政権といったコンテクストから自由になり、今と接続する。

 そんなことを書き留めておく。

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この記事のライター

ザ・シネマメンバーズ 榎本  豊
ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊
レトロスペクティブ:エリック・ロメールを皮切りにした2020年4月のザ・シネマメンバーズのリニューアルローンチから、ザ・シネマメンバーズにおける作品選定、キュレーションを担当。動画やチラシその他、宣伝物のクリエイティブなども手掛ける。

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