ザ・シネマメンバーズが、その映画作家のフィルモグラフィにおいて外せない作品群をセレクトする特集、“エッセンシャル”シリーズ。ジャームッシュの次にお届けするのは、ウォン・カーウァイ。今回は、1994年から2000年という20世紀の終わりの時期に制作された、まさに彼を象徴する4作品をお届けする。
『恋する惑星』や『天使の涙』の印象的なスタイリッシュさから、“表面的”と誤解されがちな彼の作品の前提として、まずはざっくりとした世の中の背景のおさらいをしておくと、これらの4作品をより楽しめるので、ごく簡単に整理しておこう。
『恋する惑星』や『天使の涙』の印象的なスタイリッシュさから、“表面的”と誤解されがちな彼の作品の前提として、まずはざっくりとした世の中の背景のおさらいをしておくと、これらの4作品をより楽しめるので、ごく簡単に整理しておこう。
織り込まれる様々な背景
イギリス領としての香港
アヘン戦争後、中国の領土であった香港島と九龍半島南端がイギリス領に。さらに付随する地域であった新界もイギリスの期限付き領土となった。1984年12月19日、英中共同声明によって1997年7月1日に中華人民共和国への返還が取り決められたわけだが、小さなエリアが社会主義国家から期間限定で分離していることによって、国際色豊かで独特な文化が発展した。ウォン・カーウァイの映画における香港という街、パイナップル缶の賞味期限、過ぎていく時間と日付の描写などに代表される登場人物の期限や年月日へのこだわりは、この背景を織り込んでいるのだろう。
アヘン戦争後、中国の領土であった香港島と九龍半島南端がイギリス領に。さらに付随する地域であった新界もイギリスの期限付き領土となった。1984年12月19日、英中共同声明によって1997年7月1日に中華人民共和国への返還が取り決められたわけだが、小さなエリアが社会主義国家から期間限定で分離していることによって、国際色豊かで独特な文化が発展した。ウォン・カーウァイの映画における香港という街、パイナップル缶の賞味期限、過ぎていく時間と日付の描写などに代表される登場人物の期限や年月日へのこだわりは、この背景を織り込んでいるのだろう。
英中共同声明
1984年12月19日に宣言された英中共同声明(香港返還の約束)の中で、鄧小平は香港において、社会主義政策を2047年(つまり2046年の終わり)までは実施しないとした。『花様年華』において、新聞の連載小説を始めるチャウが借りる部屋は2046号室であり、その後制作された『2046』もこれとリンクする。
1984年12月19日に宣言された英中共同声明(香港返還の約束)の中で、鄧小平は香港において、社会主義政策を2047年(つまり2046年の終わり)までは実施しないとした。『花様年華』において、新聞の連載小説を始めるチャウが借りる部屋は2046号室であり、その後制作された『2046』もこれとリンクする。
シンガポール独立
1963年マレーシアがイギリスからの独立を宣言、シンガポールもその1州となる。さらにシンガポールは1965年、シンガポール共和国としてマレーシアから分離独立した。『花様年華』でチャウがシンガポールに移り、働き始めるのが1963年であることもこの事情による。
1963年マレーシアがイギリスからの独立を宣言、シンガポールもその1州となる。さらにシンガポールは1965年、シンガポール共和国としてマレーシアから分離独立した。『花様年華』でチャウがシンガポールに移り、働き始めるのが1963年であることもこの事情による。
1966年
この年は毛沢東による文化大革命が起きた年であり、それは様々な影響を近隣諸国へ及ぼし、香港でも翌年六七暴動が起こっている。『花様年華』でチャウがカンボジアに渡るのが1966年。フランス領から独立した歴史を持つこの国を、支配国であったフランスのド・ゴール大統領がこの年に訪れ、それを歓迎する人々の姿が本作では映し出される。
この年は毛沢東による文化大革命が起きた年であり、それは様々な影響を近隣諸国へ及ぼし、香港でも翌年六七暴動が起こっている。『花様年華』でチャウがカンボジアに渡るのが1966年。フランス領から独立した歴史を持つこの国を、支配国であったフランスのド・ゴール大統領がこの年に訪れ、それを歓迎する人々の姿が本作では映し出される。
フォークランド紛争
1982年3月、イギリス-アルゼンチン間の領土問題から戦争に発展。前述の英中共同声明で香港返還が決定する1984年に先駆けて、このフォークランド紛争を受け、当時のイギリス首相サッチャーに対し、「香港はフォークランドではない」と鄧小平は強く主張した。アルゼンチンを舞台にした『ブエノスアイレス』は、この背景と無縁ではない。
1982年3月、イギリス-アルゼンチン間の領土問題から戦争に発展。前述の英中共同声明で香港返還が決定する1984年に先駆けて、このフォークランド紛争を受け、当時のイギリス首相サッチャーに対し、「香港はフォークランドではない」と鄧小平は強く主張した。アルゼンチンを舞台にした『ブエノスアイレス』は、この背景と無縁ではない。
鄧小平死去
1997年2月19日、香港返還の日(同年7月1日)をみることなく鄧小平が死去。『ブエノスアイレス』でチャンが世界の涯ての灯台に立つのが97年1月。映画の中で鄧小平死去が報じられる97年2月、ファイはブエノスアイレスを離れ、チャンの家族の屋台がある台北(ここも国をめぐる諸問題がある)を訪れる。
1997年2月19日、香港返還の日(同年7月1日)をみることなく鄧小平が死去。『ブエノスアイレス』でチャンが世界の涯ての灯台に立つのが97年1月。映画の中で鄧小平死去が報じられる97年2月、ファイはブエノスアイレスを離れ、チャンの家族の屋台がある台北(ここも国をめぐる諸問題がある)を訪れる。
もちろんこうした様々なことをウォン・カーウァイがどれくらい意図して作品へ織り込んでいるかはわからないし、本人も語らないだろう。さらにはその読み解きが映画の価値を決めるわけでもない。それでも、映画がどんな状況や文脈、世の中の情勢のなかで作られたのか、あるいはその作品の時代として設定されたのかということは、作り手が望むと望まざるとにかかわらず、影響を与え合うものだろう。
90年代のおとぎ話
スタイリッシュで思わせぶりな映像、そこにナイーブなモノローグが重ねられ、同じ音楽が繰り返し使われる。1994年に制作され、日本では1995年に公開された『恋する惑星』は、その時代の憧れや躍動感をそのまま封じ込めたような“おとぎ話”だった。音楽クリップを流し続けるMTVが隆盛を極め、CDが飛ぶように売れた時代。この作品は、その時代の気分みたいなものをリアルタイムで映画にしてみせ、渋谷系と呼ばれたカルチャーが消費されていく日本においても影響を与えた。
映画はMichel Galasso作曲『Baroque』の悲しげで謎めいた旋律とともに、残像を残しながら重慶マンションの中を走り抜けてゆく映像で始まる。そして、「雑踏の中ですれ違う見知らぬ人々の中に将来の恋人がいるのかもしれない」というモノローグ。「その時 彼女との距離は0.1ミリ。57時間後 僕は彼女に恋をした」と続くあたりで、心を鷲掴みにされてしまうことだろう。
登場する人物は皆、どこかストイックで孤独だ。自分だけのルールで行動し、自分の世界に住んでいる。その“恋する惑星”同士は、それぞれの周回軌道を変えることはできず、どうやらお互いを意識しながらもすれ違うらしい。
イメージショットとモノローグ
『恋する惑星』が(『天使の涙』も含めて)、表面的/表層的といわれてしまうのは、物語を撮っていないからだろう。“匂わせ”のイメージショットをBGMとともに積み重ねることで物語を形成しているともいえる。それは文字にすると、「あらゆる国籍の人々が行きかう重慶マンション、麻薬の密売、用心深くなってレインコートを脱がない女、ジュークボックスから流れるラヴァーズロック、失恋し、体の水分を蒸発させて涙が出ないようにするためにジョギングをする刑事。その刑事が通うエクスプレスという名の飲食店で、A面からB面へ変わるように今度は別の失恋した警官がやってくる。飲食店の新人店員は『夢のカリフォルニア』をかけ、警官のアパートに忍び込む。」といった具合にイメージが物語を結ぶ。
このことによって、そのスタイリッシュさから、表面的/表層的とされてしまうのだが、実は、イメージを捉え、音楽とモノローグをつけたものが連なることで物語が形成されるというのは、「映画」の原始的な姿でもあるのだ。
『恋する惑星』、『天使の涙』におけるモノローグ。それは今スクリーンに見えていること、その心情を語っているのだろうか。それぞれの人物が自分に起きていることを外側から語るこの声は、物語を進めていくことをしない。断片化されたそれは思い出の自分語りのようであり、どこか他人事のようでもあり、変更する意思、変えたいという切実な思いのようなものが無い。起きたことを淡々と受け入れるために、自分だけにしか通用しないルールによって、あまりにもナイーブな儀式をする。傷ついたことにしないために。
予感が描かれる映画たち
街中の人々の生活とは違う、ある意味浮世離れしたキャラクターの登場人物たちは皆、感情の表面張力を保ったまま、そこにさざなみをたてられるのを恐れているようだ。距離を詰めに行かない自意識とでも言おうか。何も起こりはしないのに、バーやカフェで近くに座っている見知らぬ誰かを意識しながら、目の前の友達としゃべっている感覚に似ている。今回お届けする4作品で描かれるのはどれも、出会いと恋と予感だ。しかし、観客はそれが成就する光景は見せてもらえず、予感と余韻だけを残して映画は終わっていく。
それでも『恋する惑星』は、砂糖菓子のような甘いじれったさを超えて、まるでドキドキする未来の予感が自分にもあるかのような気分でエンディングロールを体験してしまうことにこの作品の不思議な魅力があるように思う。その時代、その時の衝動で突き動かされるようにして取り組むことでしか実現しえないものがこの作品には宿っている。
『天使の涙』は『恋する惑星』の替え歌のようなバージョン違いだ。バー、ジュークボックス、パイン缶、夜の街のネオンとともに映るのは、パートナーとの関係に感情を持ち込んでしまった殺し屋とエージェント、恋を必要とする金髪の女、話すことができなくなった青年と、『恋する惑星』を形を変えて織り込みなおしたイメージショットが連なっていく。CA姿のセルフパロディまで登場する本作は、ウォン・カーウァイ自身が元々は3つのストーリーで構成されるはずだった『恋する惑星』の一話として作った物語を一本の映画に膨らませた作品と語る通り、まさに『恋する惑星』の副産物という位置づけのように見える。
猛スピードで円熟を極める
その後、『ブエノスアイレス』では作風はガラリと変わる。モノローグが物語をガイドはするものの、モノローグが入ることによって見えているものから意識のピントが遠のいてしまうような他人事感覚はなく、物語がしっかりと撮られている。前の2作のスタイルを要所要所で使いはするものの、第一人称のようで他人事のようでもあったカメラの視線は、本作では映画の物語を語るため、それがそこに起きているのを見ている視線へと変わっている。自分だけにしか理解できないようなルールや小物に頼ることなく、心の揺れが人物の表情、しぐさや動きとともに情景となり、それらを写し取っていくことで物語となっている。これがウォン・カーウァイの映画作家としての本筋なのだろう。
そして、『花様年華』。本作がウォン・カーウァイの最高傑作といっていいのではないだろうか。ここでも印象的にシーンに合わせて同じ楽曲は繰り返され、またも観客は想いが成就する光景を見せてはもらえない。しかし、この映画では、ファッションやインテリア、小物に至るまでの完璧な美術、意図的に登場させない人物たち、ひっそりと覗き見るような画面構成で撮る陰影に富んだ映像、それらを究極のバランスによって芸術へと昇華させている。この作品では、実らぬ恋、そのうつろいゆく想いが、うつろいゆくままには消えてはいかないという状態が丁寧に描き出される。それはもはや物語と呼んでいいものなのかもわからない。映画だとしか言えないものを見ている快楽がそこにはある。
時代の空気を吸い込んでセッションをするように創られた2作、そして、心の揺れ動くさまを繊細なカットや描写によって表現した2作と、4作品を通してウォン・カーウァイのエッセンスを味わい尽くせるセレクション。是非お楽しみください。
「恋する惑星」
©1994, 2008 Block 2 Pictures Inc. All Rights Reserved.
「天使の涙」
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「ブエノスアイレス」
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「花様年華」
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