年の終わりに近づき、すっかり空気も刺すような冷たさを帯び始めた。今年1月より始まったこの連載も、今回でちょうど1年ということになる。初回はエリック・ロメールの初期作品を取り上げたので、1年の締め括りもまたロメールとしたい──今回は、これ以上適した時機はない『冬物語』を取り上げよう。
失われた夏──長い冬
『冬物語』は、その命名と裏腹に“夏”から始まる。開幕早々、われわれの目に映るのは陽光、海、舟、浜辺、そして愛し合う若い男女の姿である。どことなくホームメイドな風合いを感じさせる、男女の日々の断片的な映像の連なり。そのあいだ、ほとんど台詞はなく、素朴でゆったりとした──あるいは思い切って正直に「洗練されていない」と表現してもいい──感傷的な旋律が流れる。しかし、主演女優シャルロット・ヴェリが浜辺ではしゃぐオールヌードの姿、性行為を直接的に捉えた場面など、どこかロメール“らしくなさ”が漂う、このひと夏のモンタージュはわずか3分ほどで唐突に終わりを迎えることになる。夏=ヴァカンス期間が終わり、どうやら仲睦まじい男女も離れ離れにならざるを得ないらしいことが、駅のホームで別れを惜しむふたりの様子から了解されるだろう。女は住所を口伝え、男はそれを書き留めて手紙を書くと誓う。女が電車からバスへと乗り継ぎ、自らが住むパリへと帰り着くまでが、律儀に映し出されたあと、暗転と共に「5年後」の白文字による無情な断絶がなされ、あっけなく夏は失われる──そして、そこから“冬物語”が始まるのだ。
『冬物語』は“迂回”の映画である。別れ際に住所を伝え間違えたため、相手からの手紙が届かず、再会も叶わず、5年の日々を過ごしてきた主人公の女性フェリシーが、今度こそ運命の相手に再会するまでの“迂回”として、映画の上映時間は設えられる。物語は、12月14日から31日までの17日間を描き、その間にフェリシーはふたりの男のあいだを移ろうが、結局のところ二者択一に背を向けて、5年前にひと夏を過ごしたきりの、手がかりのない運命の相手との再会に全てを賭けることになるのだ。ひとりの女性が、考えあぐねた末に自分なりの結論にたどり着き、決断を下すまでの過程が、約2時間を贅沢に用いて描かれる。それゆえ、本作は敢えて淡白さ、単調さ、退屈さが志向されてもいるだろう。主人公の思考が二転三転し、そのつど突発的な行動を起こすため興味の持続こそ保たれるものの、そのじつ、本作の構成はあらゆる二項の狭間を行ったり来たりするのみで、ほとんど前に進まない。同時に関係を持っているふたりの男の間、パリとヌヴェールの間、職場と実家の間……主人公が自らの住所について述べるさいの「居候」という語が象徴するように、どこにも居場所を定めることができずに動き続けるしかないのだ。ひとりの男を選び、彼の用意した新居に越してみても、即座にその決断を翻してパリに戻ることになるのは、つまるところいかなる二項も、主人公が真に求めているものではないからである。そして、もちろんそれは失われた夏に出会った、運命の相手──会える見込みはおろか、手がかりすらもない男性シャルルにほかならない。
“Leap of Faith” ──『モード家の一夜』との共鳴
ところで、運命の相手と出会い直すまでの物語というと、ロメールは以前も一度『モード家の一夜』(以下、『モード家』)という傑作を撮っているが、あらためて見返してみると予想以上に共通項が多いことに気が付くだろう。『モード家』の主人公は男性であり、性別こそ異なるものの、開幕早々に運命の相手を見出すし、その後の展開のすべては、その相手の元へたどり着くまでの長い旅路/迂回に充てられる。主な展開が冬の12月31日に至るまでの数週間の冬期に起こる点も同じだが、エピローグとして「5年後」の夏場面が設定されている点など、さながら『冬物語』を鏡写しにしたようだ。両作ともに、心に決めた──しかし関係性が成就する保証はどこにもない──相手がいる不確かな状況において、誘惑ないし妥協を拒むという決断をすること、すなわち“信心の跳躍”=“Leap of Faith”が最重要の主題として設定されていて、同工異曲というか、もはやセルフリメイクの趣すらあるといっていい。
その証拠──というと大袈裟かもしれないが──に、パスカルの「賭の論議」(『モード家』日本語字幕では「賭」とのみ表記されている)についての印象的な問答が両作ともに重要な位置を占める。ただし、ここで注目しておきたいのは、むしろ差異のほうだろう。『モード家』において主人公はインテリであり、「賭けの論議」への言及は、あくまでパスカルの存在を念頭においたものであるが、『冬物語』の主人公は「無教養」──主人公自らそう述べる──であり、パスカルのことなど知らないのだ。「再会できたら奇跡だろうし、(もしできても)私を忘れて結婚してるかも。でもあきらめる気はない。もし彼と再会できたらその時はすごくうれしいから人生を賭けるの」──自分なりの思索の果てに、図らずも同じ結論に辿り着き直す。「賭の論議」を発見し直す。むろん、創り手であるロメール自身は(すでに『モード家』で用いていることからも明らかなように)パスカルを知っているし、『冬物語』の主人公の無知はあくまで“設定”に過ぎないのだが、敢えて意図的に“知らないこと”を選びとったということに意味がある。幾度か口にされる「自分になる」ということの尊重。『モード家』の主人公が敬虔だったのに対し、『冬物語』の主人公はそうではない。“信条”はあるが、宗教的なものではなく、あくまで個人的な「内的なもの」だと言い直す。いち個人として、あることを信じて決断し、リスクを引き受けて“信心の跳躍”を実践すること。それが讃えられているからこそ、映画は長い迂回の果てに、御都合主義といってさえよいほどの“偶然”を主人公に授けるのだ。
その証拠──というと大袈裟かもしれないが──に、パスカルの「賭の論議」(『モード家』日本語字幕では「賭」とのみ表記されている)についての印象的な問答が両作ともに重要な位置を占める。ただし、ここで注目しておきたいのは、むしろ差異のほうだろう。『モード家』において主人公はインテリであり、「賭けの論議」への言及は、あくまでパスカルの存在を念頭においたものであるが、『冬物語』の主人公は「無教養」──主人公自らそう述べる──であり、パスカルのことなど知らないのだ。「再会できたら奇跡だろうし、(もしできても)私を忘れて結婚してるかも。でもあきらめる気はない。もし彼と再会できたらその時はすごくうれしいから人生を賭けるの」──自分なりの思索の果てに、図らずも同じ結論に辿り着き直す。「賭の論議」を発見し直す。むろん、創り手であるロメール自身は(すでに『モード家』で用いていることからも明らかなように)パスカルを知っているし、『冬物語』の主人公の無知はあくまで“設定”に過ぎないのだが、敢えて意図的に“知らないこと”を選びとったということに意味がある。幾度か口にされる「自分になる」ということの尊重。『モード家』の主人公が敬虔だったのに対し、『冬物語』の主人公はそうではない。“信条”はあるが、宗教的なものではなく、あくまで個人的な「内的なもの」だと言い直す。いち個人として、あることを信じて決断し、リスクを引き受けて“信心の跳躍”を実践すること。それが讃えられているからこそ、映画は長い迂回の果てに、御都合主義といってさえよいほどの“偶然”を主人公に授けるのだ。
迂回の発生地点──序盤のある場面
最後に、序盤のある意味深な場面に目を向けたい。冒頭の夏から5年が経ち、主人公が職場へ通勤する場面である。本作では、随所で移動が異様な丁寧さを以て描かれる。この場面でも、交通機関の乗り換え、車中、歩道、車道横断……それぞれいくつものショットを細かく連ねて、言葉なき往路を描き出していくのだが、ある瞬間、主人公は突然小走りになり、路上のマーケットに入っていく。カメラは、人混みの中を掻き分けて進んでくる主人公をマーケット内部から待ち伏せるような位置で撮影し、とうとう主人公はカメラの目の前までやってくるのだが、暫しの逡巡のあと、踵を返して遠ざかって行ってしまう──その後の主人公の道程を見ていると、どうやらマーケットは職場への通り道ではないことが判るが、なぜ主人公は無用なコースを通ろうとしたのか。それは、中盤以降で明かされるように「シャルルを見かけた気がした」からである。しかし、ならばなぜそんな無用の展開を挿入したのだろうか。5年間会えておらず、物語の最後に再会する人物を、一度「見かけた気がした」ことにする理由はどこにあるのか。画面の隅々に目を凝らしても「見かけた気がした」場面の人混みのなかにシャルルの姿を認めることはできない。たんに、会いたいと切望するあまり見かけた気がしてしまう……という表現なのだろうか。いや、たぶんそうではないだろう。なぜなら、意味深に序盤に置かれたマーケット場面の数秒は、中盤以降で事情が明かされるまで説明がなされず、何を意図した場面か全くわからないからだ。それを、あえてわざわざ残すのは、明確な“意図”あってのことだろう。そしてきっとそれは、ふたりを引き離しておくという創り手の“介入”を暗示することのように思える。最後まで作品を見れば、明白なように、シャルルはすでにパリにいる可能性があり、いつ遭遇してもおかしくない状況ではあった──要は、あの場面で再会しても良かったのだ。それを、あえて行わず、ならば描く必要もなさそうな「見かけた気がした」=会うことはなかったという事実を画面に残すという選択。それは、あの場面が再会すべきタイミングではなかったという無言の提示にほかならない。本作のラストの運命的偶然、用意された恩寵としての然るべき再会の瞬間まで、主人公を迂回させておくという意思が刻まれているのだ。ゆえに、ここから始まった迂回がようやく終わったとき、映画もまた終わるのである。
© Les Films du Losange