映画の思考徘徊 第1回 エリック・ロメールの知られざる短篇時代

FEATURES 髙橋佑弥
映画の思考徘徊 第1回 エリック・ロメールの知られざる短篇時代
 このたび「ザ・シネマメンバーズ」サイト上で、毎月一度/一年間の連載させていただくことになりました。連載のタイトル「映画の思考徘徊」は、私の考えごとの仕方からつけました。ひとつの気になった事柄の周縁を、ふらふらと行ったり来たり、同じところを何度も通ったり、時に忘れたり思い出したりしつつ、特にこれといった結論が出なかったりするという…はたしてそれで良いのかは疑問ですが、毎回ひとつのテーマについて横で一緒に調べ物をしたり考えたり、意見をすり合わせたりしているようなつもり楽しんでいただけたら嬉しいです。

目次[非表示]

  1. “ヌーヴェル・ヴァーグ”とは何だったか
  2. 高校教師から“エリック・ロメール”へ
  3. ロメールの短篇時代──『ベレニス』『クロイツェル・ソナタ』
 いまや映画界において、「ヌーヴェル・ヴァーグ」は誰もが知っている“共通認識”といっていい。だが、それでいながら実際のところ、この言葉の由来や定義を把握している者はそう多くないのも事実である。たしかに知っているのだが、しかし同時に何も知らない。連載初回となる本稿のテーマはエリック・ロメールの初期作品であるが、ロメールの初期のキャリアを語るうえで、この言葉がいつ使い始められ、どのような映画を指し示すのかを避けて通ることはできない。まずはそこから始めたい。

“ヌーヴェル・ヴァーグ”とは何だったか

 フランス語で「新しい波」の意である“ヌーヴェル・ヴァーグ(nouvelle vague)”という語は、週刊誌『レクスプレス』の創刊者/編集長フランソワーズ・ジルーなる女性によって1957年の誌上で最初に用いられたことがわかっている。ジルーは出版業界に足を踏み入れる前に映画界で働いていた経験──ジャン・ルノワールやジャック・ベッケルなどの作品のスクリプター、脚本家、助監督を務めた──があったが、つまるところ英語に移し換えれば「ニュー・ウェーヴ」という程度に過ぎないこの言葉が初めて使われたのは映画記事などではなく、世代間の振舞いの違いを調査する目的で第二次大戦末期のパリ解放(1944年)時に未成年だった若者たちに行われたアンケート特集であり、未来を担う“新しい世代”総体を指した言葉であった。57年…! そう、いまや“ヌーヴェル・ヴァーグ”といえば誰もが想起するであろう代表的作品、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959)やジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1960)は当時まだ作られてすらいなかったのである。指し示されている映画よりも先に、まず言葉があったのだ。

 どの時点で映画に対してこの言葉が用いられ始めたのかについては諸説あるが、1980年に出版された『映画百科事典』の編著者であるロジェ・ブーシノは、1959年に『レクスプレス』が今度は若手映画作家たちに対して「ヌーヴェル・ヴァーグ」と題して行ったというアンケート特集の存在を示唆している。59年は、上で述べた『大人は判ってくれない』がカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した年であり、妻の祖母の遺産で映画会社を立ち上げたクロード・シャブロルが撮った二本の作品──『美しきセルジュ』と『いとこ同士』──が相次いで公開されてヒットし、若手監督の台頭が印象付けられた年だった。翌60年にはアメリカの有名紙『ライフ』も、フランスで頭角を現し始めた若手監督らの動向について「ニュー・ウェーヴ」という見出しをつけた特集を組んでおり、このころには“ヌーヴェル・ヴァーグ”という語が映画用語として浸透しはじめていたと考えていいだろう。とはいえ覚えておきたいのは、この語はあくまで“呼称”であって、彼らが自称した呼び名ではなかったということだ。ほかでもないクロード・シャブロル自身、「いったいヌーヴェル・ヴァーグってのはなんだったのか、わたしにはわかったためしがない。ジャーナリストたちが便宜上つけた呼称にすぎんと思うね¹ 」と述べている。

 呼び名こそ違えど、一挙に新世代の作り手が台頭する“ニューウェーヴ”自体はその後もあらゆる国で起きた。しかしながら、50年代末に起きたとされるフランスのヌーヴェル・ヴァーグの面々がその他の“波”たちと大きく異なるのは、彼らがみな映画批評家から転身した監督であるという点である。当時は現場での長い下積みを経て、やっとのことで監督に昇格する…というのが監督業参入の道だった。しかし、幼いころから映画にのめりこんだ野良の映画狂たちが、やがて自身の膨大な鑑賞経験を武器に批評を書き、その延長としてカメラを手にとることで、すべての常識を覆したのだ。彼らはみな、元々いち観客であったころから劇場で頻繁に顔を合わせていた顔馴染みであり、次第に親交を深め、映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』誌上で批評家として凌ぎを削るようになった友情集団であった。

高校教師から“エリック・ロメール”へ

 さて、長くなったが、そろそろエリック・ロメールに筆を向けよう。

 いまでこそ、ロメールはヌーヴェル・ヴァーグの代表的な監督とされているが、調べれば調べるほどに異端の存在でもあったことがわかる。というのも、彼は周囲の面々と異なり、根っからの映画狂などではなかったからだ。ひと回り年長だった1920年生まれのロメールにとって青年期に重要だったのは文学であり、映画に関心を持ち始めたのは成年後の1940年台の後半である。1949年、当時すでに狂ったように映画を貪り見ていた18歳のトリュフォーと初めて出会った時、すでにロメールは30代を前にした高校教師だった。そもそも「エリック・ロメール」という名は映画業界に関与していることを母親に知られないために考え出された偽名で、彼の本名はモーリス・シェレルという。ロメールは事実を隠すために公の場に姿を現すことを避け続け、ついに母親は亡くなるまで息子が映画監督であることを知ることはなかった。

 映画好きになるのは比較的遅かったロメールだが、その後の活動は精力的なものだった。まず書き手として『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』に批評を発表し始め、同誌の廃刊後は自らの手で映画雑誌『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』を創刊──若かりし日のリヴェットやゴダールやトリュフォーに最初に批評を書く場を提供した。また、進行役を務めた毎週木曜の「シネクラブ・デュ・カルチエ・ラタン」では、選定した作品の上映と討論会を主導していた。のちに『カイエ』誌上で共に腕を振るう未来の批評家仲間たちは、当初ロメールのシネクラブに通うことで知識を深め、ロメールの雑誌で批評を書く訓練をしていたのだ。ロメールは年下の面々にとって、兄貴分のような存在で「グラン・モモ(モモ兄貴)」の愛称で親しまれた。周囲の年下の友人たちに比べ、経済状況が安定していたロメールは、金銭的にも援助を惜しまなかった──ただし、友人のポール・ジャコフの弁によれば「引き換えに証拠になるものを出さなければならなかった。地下鉄の切符とか電車の乗車券とか、時にはしぶしぶ食料品店の勘定書きを出したりした² 」という…“経費精算”方式の金銭援助である。のちにゴダールも、生計を立てるためにロメールから援助を受けていた時期があったと述懐している。

 59年から60年にかけての華々しい“ヌーヴェル・ヴァーグ”の幕開けに反し、ロメールの長篇初監督作『獅子座』が公開されたのはひと足遅れをとった1962年のことだった──撮影自体は59年に行われていたが、3年も塩漬けの憂き目に遭っていたのだ。加えて、長篇デビュー作から早々に興行的惨敗を経験し、ロメールが順調に作品を量産することが可能になるのは更にもっと後のことになる。そんな事情から、どこか「ひと足出遅れた」印象のあるロメールだが、その実、誰よりも早く短篇を撮り始めていたのは彼であるという事実はあまり知られていない。「ロメールの撮ったものにはみんなに見せるものと絶対にわたしたち仲間にも見せてくれないものとがあって、見せてくれない16ミリ短篇のなかに本当にすばらしいものがあるんです ³」とトリュフォーは語っている。また、シャブロルはこう断言さえしている──「ロメールが最初に16ミリで短篇を撮り始めた。そこからヌーヴェル・ヴァーグは始まったのだ⁴ 」。

ロメールの短篇時代──『ベレニス』『クロイツェル・ソナタ』

 ロメールが初めて完成させた作品は1950年の『Journal d'un scélérat(悪党の日記)』であると言われているが、この30分の短篇はフィルムが失われてしまい、もはや見ることはできない。そして、その次に完成したのが、今回ご紹介する『ベレニス』(1954)と『クロイツェル・ソナタ』(1956)である。生涯一貫して「16ミリの巨匠」であり続けたロメールだが、この初期二作品も多分に漏れず16ミリで撮影された。両作とも映像自体に音はなく全篇通して音楽とロメールによるナレーションが付されている共通した作りで、いずれもロメール自身が主演も務めている。

 現在、この二作を見て驚かされるのは、その堂々たる出来栄えである。“習作”然としたところは全くなく、はやくも類稀な才能の萌芽を感じさせる。周囲の面々がまだ短篇制作に乗り出す前、先陣を切って手探りで作り始めたとはとても信じがたい。

 エドガー・アラン・ポーの同名小説を原作とする18分間の短篇『ベレニス』は、ロメール演じる痩身の男が従姉妹の“歯”に執着するあまり狂気に陥る…という筋書きの恐怖映画である。二人が共に育った建物内の二部屋──ガラス張りの壁から光が射す一室と壁一面の本棚が圧迫感を感じさせる暗い部屋──と広い庭を舞台に物語は展開するが、いずれも決して広い空間ではないにも関わらず、やたらと登場人物が歩き回るさまがいかにもロメール作品らしい。終盤に主人公の執着が“狂気”と呼べる段階まで昂ぶると、それに呼応するように自由闊達さを増す撮影/編集は圧巻で、カメラが何度も何度も何度も円を描くように執拗にパンを続けるなか、暗闇に従姉妹の姿が浮かび上がり、これ見よがしに高らかな笑い声を上げると歯がのぞく…ほとんど光のない真っ暗闇の書斎空間で、取り憑かれたように“歯”を見つめるロメールの爛々とした眼差しが忘れ難い印象を残す。

 短篇というには些か長い42分の“中篇”『クロイツェル・ソナタ』は、トルストイの同名小説を原作としているが、映画化に際して少々変更が加えられている。列車移動の最中、乗り合わせた謎めいた老人が「愛のない結婚が原因で妻を殺した」と過去の悲劇を主人公に語り聞かせる…という原作は、全篇が列車の中で展開する“語り”の物語であったが、ロメールは、この“語り”要素を画面上で排除し、とめどなく流れる自らのナレーションで“語り”を代行する。画面で描かれるのは、男女が出会い、結婚し、不和に陥り、最終的に夫が妻を殺めるまで──原作で老人が語る“過去”──の様子だが、話を聞いているはずの“私”は存在しない。本作において、原作の聞き手たる主人公の役割は観客が担うのである。

 以降のロメール作品を知っているわれわれにとって、本作は驚きの連続だ。夫婦喧嘩の折、つねに背後の壁には怪奇映画を思わせる大きな影が落ちる。妻と自らの知人との不貞を疑う男をロメールは演じているが、激情に駆られ、忙しなく手足を振り回し、汗を滲ませ、顔を歪めて怒鳴り続ける様は、おそろしさと同時に痛ましさを見るものに植え付ける。怒りの表明が度を越した身ぶりであるがゆえに、取り返しのつかぬパラノイアから逃れられないのだという残酷さが伝わってくるのである。結婚に至るまでの序盤の場面や、中盤に不貞を疑い始めるあたりの展開は、むしろロメールらしいと言えるかも知れないが、怒りに任せて妻を刺し殺す人物造形というのは以後のロメールの作品世界には例がない。

 以降のフィルモグラフィを踏まえると、この二作は異色な感じがするものの、同時にこの二作品同士は似通ってもいる。どちらも“結婚”をめぐる悲劇であり、妻の死で物語が幕を下ろす。『ベレニス』で暗闇に独り佇む姿や、『クロイツェル・ソナタ』での怒りの発露場面におけるロメールは、照明も相まってどこかF・W・ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)のように見える。しかしよくよく考えてみれば、ロメールは批評家時代にムルナウの研究をしていたのだし、意図的な類似という可能性も考えられなくはない。あるいは逆に、シャブロルが初めてロメールと出会ったときの印象で語っているように──「背が高く、痩せていて、この茶色い髪の文学の先生は、まるで吸血鬼ノスフェラトゥのようだった⁵ 」──単に見た目の相似が引き起こす想起なのかもしれないが。いずれにせよ、両作ともに、以降のロメール作品にみられる“軽やかさ”とは無縁であり、徹頭徹尾仰々しく深刻で、過剰な悲壮感を漂わせ、微かに滑稽さを感じさせる焦燥感/混乱がまとわりつく…この方向性での作品を以降に撮っていないことが悔やまれてならない。
 また、余談だが”結婚”といえば、ロメールの結婚生活についてはあまり知られていない。ロメールは、自らが映画界の一員であることを母に徹底的に隠し続けていたことはすでに書いた通りだが、その“隠蔽”には妻のテレーズが大いに貢献したという逸話が残っている…夫の教師生活を知らせる嘘手紙を量産していたというのだ。ロメールは終生、私生活と映画領域の間に線を引くことを望み、妻を同僚に紹介することも、オフィスに招くことも、撮影現場に連れて行くことも決してなかったという。そんなふたりが結婚したのは『クロイツェル・ソナタ』の翌年1957年のことで、ロメールは上の二本を完成した後、クロード・シャブロルとの共著『ヒッチコック』を出版した頃であった。彼の長篇初監督作『獅子座』が公開されるのは、このさらに5年先のことである。

 トリュフォーが書いているように「映画作家の才能とキャリアは、最初に回した五十メートルのフィルムにすべて結集されている⁶ 」ならば、“最初”の『Journal d'un scélérat(悪党の日記)』を見ることができない以上、この二作がロメールの根源に最も近いといっていいだろう。両作ともに海外でリリースされているソフトに収録されており、また現在配信サービスMUBIなどでも鑑賞自体は可能なものの、残念ながら今のところ日本語字幕で見る手段はない。しかし、原作はどちらも邦訳が出ているので、それを読むことで内容を補完することはできる。どちらも、その後のロメール作品とは少々印象が異なるものの、優れた傑作には違いなく、ぜひ手を尽くして見てみてほしい。

 本稿では何度もトリュフォーの発言を引いてきたが、最後もこの二作品を評したトリュフォーの発言を引用して筆を置くことにしたい。「エドガー・アラン・ポー原作による『ベレニス』、そしてとくに『クロイツェル・ソナタ』という二本の短篇は、ともに16ミリで撮影され、テープレコーダーで音をとった「テープ式トーキー」の作品だが、じつに見事な映画だ。何度もくりかえして見て、そしてつい最近もまた見なおして、そのすばらしさをあらためて確認した。この五年間に35ミリで撮られたプロの映画の最高のものに比肩しうるすばらしさであることはまちがいない⁷ 」。

¹ 山田宏一『増補 友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』、平凡社ライブラリー、2002年、389頁。
 また「ヌーヴェル・ヴァーグ」初出をめぐる記述については、複数書籍を参照したものの、
 結果的に同書の内容に多くを依っていることを付記しておきたい。

²アントワーヌ・ド・ベック、セルジュ・トゥビアナ『フランソワ・トリュフォー』稲松三千野訳、原書房、2006年、66頁。

³ 山田宏一『トリュフォーの手紙』、平凡社、2012年、152頁。

⁴『増補 友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』、前掲書、336頁。とはいえ、シャブロルはこう述べているものの、
 本当にロメールが”最初”だったかはわからない。というのも、近年発見されたリヴェットの初期短篇の中に
 『四隅で』という1949年の作品があるからだ。

⁵Antoine de Baecque, Noël Herpe. Éric Rohmer A Biography. Steven Rendall, Lisa Noel,
 tr. New York: Colombia University Press, 2018, 49p.

⁶『トリュフォーの手紙』、前掲書、412頁。

⁷『増補 友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』、前掲書、335頁。

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この記事のライター

髙橋佑弥
髙橋佑弥
97年生。映画文筆。『別冊映画秘宝 絶対必見!SF映画200』『別冊映画秘宝 決定版ツイン・ピークス究極読本』などに寄稿アリ。共著『「百合映画」完全ガイド』(星海社新書)。「映画の原稿仕事、何でも何時でも何字でも!」が信条だが…五本指を使いこなすことができず左右の人差し指だけでぽちぽちキーボード操作。文字打ちがあまりに遅すぎ、すぐに締切日が来てしまう。

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