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COLUMN/コラム2015.07.20
プレップファッションとギャル語が満載!!みんながノーテンキでいられた時代のカルト映画『クルーレス』。
1995年に全米公開され、"ハイスクール・ロリータ"とも言われたファンシーなファッションとメイク、連発されるギャル用語、そして、主人公のブルジョワ女子高生、シェールの一見ノーテンキに見えて実は知的でイノセントなキャラクターが受けて、今でも少女たちの間でカルトムービーとして君臨する『クルーレス』。その根強い人気は、日本公開後にVHSが発売された後も、繰り返しDVDがリリースされ、公開後10年が経った2005年には"コレクターズエディション"と題する特典付きDVDが再度発売されたことでも明らかだ。何がそんなに受けるのか? まずは、ファッション。ビバリーヒルズの高校に通うシェールと親友のディオンヌが通学服として愛用している必須アイテムは、トラッドをガーリーにアレンジした'90's風プレップスタイル。冒頭で登場するタータンチェックのミニスカスーツを始め、女子高生たちが劇中で着るチェックの柄はシェールの7種類を始めトータルで実に53種類。また、シェールが散らかったワードローブの中から探し出そうとするお気に入りのシャツは、1961年にアメリカ西海岸で開業以来、複合セレクトショップとして人気の"フレッド・シーガル"でゲットしたもの。その日本一号店が、ようやく今年4月、東京の代官山にオープンしたのは記憶に新しい。また、男友達とドライブ中に喧嘩して、危険エリアのサン・バレーに置き去りにされる時にシェールが着ているのは、ボディコンシャスの権化、アズディン・アライアの赤いミニドレスだったり、狙いを定めたイケメン男子と初デートに出かける時に彼女が選ぶのは、カルバン・クラインの白いボディコンミニだったりと、表情はまだ子供なのに服は男の視線を刺激しまくり。そんな娘を見たパパが、「下着みたいだ」と怒るのも無理はない。この映画に"ロリータ"と形容詞が付く理由は、そんなところに起因するのだ。因みに、衣装デザインを担当しているのは、25歳のヒロインが17歳の女子高生に化けて高校に潜入する『25年目のキス』(99)や、同じ高校の同窓生たちが13年ぶりに再会する『アメリカン・パイパイパイ!完結編 俺たちの同騒会』(12)等、キャンパスルックのパイオニア、モナ・メイ。服好きで映画好きの女子たちの間ではレジェンドなデザイナーだ。 連発されるギャル語にも耳をそばだてよう。言葉は生きもの。時代の空気を映す鏡だ。今でもハリウッド映画やドラマでよく耳にする「whatever(どうでもいいじゃん)」や、「totally~(超なになに)」、「as if(サイテー~)」等々は、日本の女子高生用語としても転用できそうなフレーズだ。その場合は、シェールのように少しダレ気味に、相手を小馬鹿にする感じが必要だろう。また、お互いのパパとママが再婚し、2人が離婚した今も交流を続けている血が繋がらない兄のようなジョシュのことを、シェールが「ex-stepbrother(元・義兄)」なんて表現しているのも、アメリカの離婚事情の現れ。重ねて、言葉は生きもの。社会情勢の変化に伴い形を変えて当たり前なのだ。 シェールたちが学校で義務付けられているカリキュラムの中に、堂々と"ディベート"が組み込まれているのも、討論を重んじるアメリカならでは。ある日、国の移民政策に対して反対か賛成かを議論し合う授業で、シェールが賛成する理由を「パパが開くパーティにもっとたくさん人が呼べると楽しい。故に、移民も大歓迎」と発表してどん引きされるのだが、ロジックはどうであれ、反対意見と対決する姿勢こそが大事なわけだ。 監督と脚本を担当しているエイミー・ヘッカリングは、南カリフォルニアにある高校を舞台に、ロスト・ヴァージンを目指す女子高生の奮戦ぶりを描いた出世作『初体験 リッジモント・ハイ』(82)以来、不倫の末に産まれた赤ちゃん目線で母親や大人たちの騒動を眺める『ベイビー・トーク』(89)と、その赤ちゃんに妹ができる続編『リトルダイナマイツ★ベイビー・トークTOO』(90)、そして、年上の大学教授と不倫する女子大生に恋してしまう一途な男子学生の苦闘を綴る『恋は負けない』(00)等、愚かだけれど憎めない人々のささやかな物語を紡ぎ続け、今に至っている。ヘッカリング作品が時代や国境を超えて愛され続ける理由は、ファッションやカルチャーだけではない。難しい事は抜きにして楽しみ、時に懐かしみ、思い入れられるテーマが各々の作品のベースにあるからだ。それは、映画の公開後、『初体験 リッジモント・ハイ』『クルーレス』『ベイビー・トーク』の3作が次々とTVシリーズ化され、アメリカ国内のみならず全世界に拡散されていったことでも証明されている。 そして、『クルーレス』の世界観は、その後、シェールに負けず劣らずノーテンキなハイスクールギャルがハーバード大学に乗り込む大ヒット作『キューティ・ブロンド』(01)や、シェールたちの立ち位置をニューヨークのキャリアガールに置き換えた『セックス・アンド・ザ・シティ』(08)、さらに、ヘッカリング自身がエピソードの一部を監督したTVシリーズ『ゴシップガール』(12)にも引き継がれている。 偶然だが、シェール役の候補者の1人には、後に『キューティ・ブロンド』でブレイクするリース・ウィザースプーンがいたし、ライバルにはやはりブレイク前のアンジェリーナ・ジョリーやグウィネス・パルトロウ等、未来の大器がひしめいていた。そんな強者たちを押し退け、シェール役をゲットしたのがアリシア・シルバーストーンだ。15歳で映画デビュー後、18歳の時に出演した『クルーレス』でティーンエイジスターのトップに躍り出た彼女の、大人びたルックスと甘えた声のギャップは男女を問わず虜にし、一躍時代のアイコンにジャンプアップ。業界人としてもクレバーだったアリシアは直後、自ら製作プロ"ファースト・キス"を成立し、当時個性派俳優として注目され始めていたベネチオ・デル・トロを共演者に迎えた『エクセス・バケッジ シュガーに気持ち』(97)をプロデュースする等、活動の場を広げる。 しかし、9.11後、テーマ選びもバジェットに於いても守勢に回ったハリウッドに、アリシア等女優プロデューサーの出番は減り、かつて、エイミー・ヘッカリングが監督した、あのノーテンキなコメディ自体の需要が減ってしまったのは、実に嘆かわしいことだ。かつて、メディアの取材に応えて、「心が澱むから暗い話には興味がない」と明言したヘッカリングと、彼女の意図を汲み取ってお馬鹿だけど憎めない女子高生を好演したアリシアが、久々にコラボする機会を待ち焦がれているのは、何もファッションチェックに忙しい女子高生ばかりじゃない。夢見る男子だったオジサンたちだって、あの頃の自分に戻って泣き笑いしたいに違いないのだ。■ COPYRIGHT © 2015 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2015.03.18
ドイツにおけるサッカーの“起源”に迫り、このスポーツの精神と喜びをみずみずしく紡いだ珠玉作~『コッホ先生と僕らの革命』
2014年のサッカー界で最もインパクトを放った出来事のひとつは、何と言ってもブラジル・ワールドカップにおけるドイツ代表の優勝である。とりわけ準決勝で開催国を容赦ないほど圧倒し、7-1というありえないスコアで撃破した試合は、ブラジルのサポーターからすれば救いのないディザスター・ムービーのようだっただろう。同時にそれは世界中のサッカー・ファンが、ドイツの時代の到来を思い知らされた試合でもあった。 そんな誰もが知るヨーロッパの伝統的な強豪国であり、21世紀の先端をゆくドイツという国のサッカーの“起源”を描いたのが『コッホ先生と僕らの革命』だ。1846年にブラウンシュヴァイクに生まれ、父親の後を追うように教育者となったコンラート・コッホ。故郷の名門カタリネウム校の主任教師となった彼は、ドイツのスポーツ教育に初めてサッカーを導入し、のちにサッカーのルールブックを最初に出版した人物とされている。おそらく「そんな人の名前、聞いたことがない」という人がほとんどだろうが、それも当然。大のサッカー好きでバルセロナの熱烈なサポーターでもある主演俳優ダニエル・ブリュールも「まったく知らなかった」とインタビューで告白しているように、ドイツ国内でもあまり知られていない偉人らしい。 映画は1874年、イギリス留学から帰国したコッホがカタリネウム校に英語教師として赴任してくるところから始まる。当時のドイツ帝国の体育の授業では器械体操が重んじられ、生徒たちは頭の固い権威主義的な教師たちに抑圧されていた。リベラルな考え方を持つコッホは、生徒たちがイギリスを“野蛮な国”と誤解し、英語の授業にさっぱり身が入らないのを察して、彼らを体育館へと連れ出す。そこで自分が持ち込んだサッカーボールを蹴ってみるように指示したコッホは、シュート、パス、ディフェンス、アタックといった英語のサッカー用語を教えるという奇策に出る。かくして生徒たちは初めて触れたサッカーの面白さの虜になっていくが、コッホの指導方針を快く思わない守旧派が妨害工作を仕掛けてきて…。 実際のコッホは英語教師ではなく古典が専門だったらしく、いろいろ映画向けの“脚色”が施されているようだが、彼がチームプレーやフェアプレーをリスペクトするサッカーの精神を教育に応用したエピソードは事実に基づいているようだ。さらに本作は、いじめっ子、いじめられっ子という相容れない関係だった特権階級と労働者階級の生徒ふたりが、格差の壁を軽やかに乗り越えてサッカーの平等性を体現していく姿を描出。またコッホの指導によって自我に目覚めた生徒たちが、服従を強いる大人たちへのささやかな抵抗を見せるくだりは、このジャンルの傑作『いまを生きる』の名場面を思い起こさせたりもする。教育映画としても青春映画としても、そして師弟の絆を謳い上げた学園ドラマとしても、実にウェルメイドな仕上がりである。 それに何よりサッカーにまつわる描写がいちいちすばらしい。だだっ広い公園に即席のゴールポストを立てた生徒たちが、初めて屋外のピッチでサッカーに興じるシーンの素朴さ! そしてクライマックスでは、何とサッカーの母国イギリス・オックスフォードから遠征してきた少年チームとの初の“対外試合”が繰り広げられるのだ。この試合には通常のスポーツ映画とは異なり名誉もプライドも懸かっておらず、勝敗さえも問題にならない。戦術や駆け引きの類も一切ない。あるのはオフサイドという反則の説明だけで、ひたすらサッカーをプレーする喜びが牧歌的な風景の中にいきいきと紡がれていく。 ベルリンから視察にやってきた教育界のお偉いさんたちは、初めて目の当たりにするサッカーなるものをどう受けとめていいのかわからない。少年たちはそんなことお構いなしに無心でプレーを続け、ゴールを決めたり決められたりと一喜一憂。チビだがボールの扱いが抜群にうまいいじめられっ子が敵陣の右サイドをドリブル突破し、そこから送られたクロスを長身のいじめっ子がダイビングヘッドでシュートするシーンには、観ているこちらまで思わず身を乗り出しそうになってしまう。セバスチャン・グロブラー監督を始めとするスタッフは、よほどのサッカー好きなのだろう。非公式記録ながら名もなき少年たちが経験する“ドイツ史上初の失点”や“初のゴール”を、このうえなく丹念に映像化している。コッホ役のダニエル・ブリュールがちらりと垣間見せる、リフティングやドリブルのテクニックも見逃せない。 とかく筆者も含めたサッカー・ファンはやたら細かいシステム論などに気をとられがちだが、この映画はそこにサッカーというスポーツが存在することの幸福感をみずみずしく伝えてくれる。まさしく“心洗われる感動”に浸れる珠玉のサッカー映画なのであった。■ ©2011 DEUTSCHFILM / CUCKOO CLOCK ENTERTAINMENT / SENATOR FILM PRODUKTION
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COLUMN/コラム2014.08.11
【3ヶ月連続キューブリック特集その1】キューブリック、その究極の個人芸術〜『2001年宇宙の旅』『シャイニング』
1968年、人類がまだ月に到達していない時代。当時の最先端をいく科学理論を尽くし、宇宙開拓と惑星間航行が可能となった未来をリアルに視覚体験させた映画『2001年宇宙の旅』。人類の進化に影響を与えた謎のモノリス(石板)との遭遇や、地球外知的生命体の存在を示唆しながら、それらの謎を探査する宇宙船ディスカバリー号のミッションと、操縦する人工知能HAL9000が制御不能に陥っていくサスペンスを、壮大なスケールで展開させる。 製作から既に46年を迎え、映画としては古典の類に属する本作。だがその魅力は恒久的に映画ファンをとらえ、熱狂的な信者を今も絶やすことなく生み出している。人工知能が人間にもたらす可能性と危険性への言及や、そして人工知能が人間に反乱を起こすスリリングな展開など、設定年代から既に13年も過ぎながら、それでも「起こりうる将来」の迫真性と新鮮さをもって、今も観る者の眼前に立つのである。 しかし、そんな『2001年』の圧倒的な存在感をガッシリと支えているのは、本作が商業映画という立場にありながら、監督であるスタンリー・キューブリックの完全なる「個人芸術」となっている点だろう。スクリーンをキャンバスに、あるいは壁面に見立て、まるでピカソやミケランジェロが緻筆をふうるがごとく、荘厳なビジュアルアートを異能の天才監督は展開させているのである。 そのためにキューブリックは、絵筆ともいうべき撮影テクニックに労や手間を惜しまなかった。とりわけ顕著なのは、本作を経て飛躍的に進化したといわれる視覚効果の数々だろう。キューブリックは視覚効果に絡む撮影パートをすべて自分の統括下に置き、既存の特殊撮影技法を使わない方針のもと、このSF映画きっての超巨大キャンバスと対峙したのである。 そして本作の要となる「形而下」と「形而上」、つまり具象と抽象の両極の映像づくりを、先のアプローチで見事に果たしている。前者は「人類の夜明け」そして「木星使節」のチャプターにおける、類人猿が生息する有史以前の光景や、宇宙空間と宇宙船を捉えた未来図像で、それらは「ナショナル・ジオグラフィック」や科学雑誌に掲載されても違和感のいようなフォトリアルなイメージだ。 そして後者は「木星 そして無限の宇宙の彼方へ」のチャプターでの、ディスカバリー号の乗組員ボーマン(キア・デュリア)を未知の領域へといざなう光の回廊、すなわち[スターゲイト・コリドー]に代表される抽象映像である。 スターゲイト・コリドーのような抽象映像は「アブストラクト・シネマ」と呼ばれるもので、幾何学図形や非定形のイメージで画を構成した実験映画のムーブメントだ。1930年代にオスカー・フィッシンガーやレン・ライといった実験映像作家によって形成され、『2001年』が誕生する60年代には、美術表現の多様と共に大きく活性化した。この個人作家のパーソナルな取り組みによって発展を遂げた光学アートを、キューブリックは大規模の商業映画において成立させようと企図したのである。 かってディズニーが音楽の視覚化を標榜した長編アニメーション『ファンタジア』(40)を製作するために、アブストラクト・シネマの開祖であるオスカー・フィッシンガーに協力を求め、優れたアーティストのイマジネーションを商業映画に取り込もうとした(残念ながらフィッシンガーは途中でプロジェクトを降りる)。キューブリックもまた、スターゲイト・コリドーのシーンを作るためのリファレンスを実験映像作家に求めている。その結果、コンピュータ・アニメーションの分野で抽象映像を手がけてきた、ジョン・ホイットニー・シニアらの作品をヒントに創造が成されたのだ。 スターゲイト・コリドーのシーンを生み出したシステム「スリット・スキャン」は、そんなジョン・ホイットニー・シニアが発表した映像力学の考察レポート「視覚におけるブレの効果」に基づき、視覚効果スーパーバイザーとして本作に招かねた特撮監督のダグラス・トランブルが開発したものだ。カメラが前後に移動できる台の前に、上下左右にスライド可能なスリット(隙間)を設置し、被写体となる光をスリットごしに長時間露光撮影することで、奥行きと移動感のあるアブストラクトなイメージが生み出せるシステムである。だが1日にわずか1テイクしか撮れず、スターゲイト・コリドーのシーンは時間にして1〜2分に満たないにも関わらず、じつに半年もの製作期間を要している。 こうした緻密に細心を重ねた撮影へのこだわりは全般におよび、そのため『2001年宇宙の旅』は1966年の初めから暮れまでおよそ1年間は「人類の夜明け」などのライブアクションシーンを撮影し、そしてさらに1年と6ヶ月間、ポストプロダクションとして宇宙ショットの特殊効果に費やしている。つまり脚本執筆などの準備期間を含めない実製作期間だけでも、本作はじつに2年間以上もかかっているのだ。 キューブリックのこうした商業性や経済性を度外視した姿勢は、キャスティングにもあらわれている。その端的な例が『シャイニング』だ。 自作にあまりスターを起用しないキューブリックだが、本作にはジャック・ニコルソンという、ハリウッドを代表する名優が主演だ。キューブリックが幻に終わった史劇大作『ナポレオン』のナポレオン役にニコルソンを想定していたことが起用の近因だが、なにより前作『バリー・リンドン』の興行的失敗から、コマーシャリズムに気を配った作品をキューブリックは手がけなければならなかった。そのためにホラーという扇動的なジャンルに着手し、狂気を表情に湛えられる名優ニコルソンを自作に求めたのである。 だが実のところ、キューブリックの映画にスターが出ない最大の理由は、彼の創作への執拗なまでのこだわりから撮影期間が長くなり、必然的に人気のある多忙な役者は拘束できないからだ。案の定、キューブリックは『シャイニング』でニコルソンを1年間も拘束し、彼のフィルモグラフィに2年もの空白期を作っている。 同様のケースに『アイズ ワイド シャット』(99)の主演トム・クルーズの長期拘束がある。当時トムは『ミッション:インポッシブル』シリーズを展開するなど、俳優として最盛期ともいえる状況にあった。だがキューブリックはそんな彼を、およそ2年間近くも『アイズ ワイド シャット』の撮影で拘束しているのだ。そのためトムは1年と間の空かない自身のフィルモグラフィにおいて、なんと3年間もの空白期を生じさせているのである。 ニコルソンも『シャイニング』撮影当時は43歳。1975年の『カッコーの巣の上で』でアカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞し、押しも押されもせぬ名優としての地位を確立し、俳優として最も脂の乗った時期だ。劇中、ニコルソン演じるトランスがひたすらタイプし続けた「All work and no play makes Jack a dull boy.(勉強ばかりで遊ばない、ジャックは今におかしくなる)」というワードは、映画の中だけの恐怖を指し示したものとはいえないのである。 もちろん、トムもニコルソンもキューブリックに心酔しているからこそ、彼の作品に出演したのだろう。とはいえ、この経済効果の高いトップクラスの俳優を数年間も封じ込めてしまう効率の悪さは、映画界のバランスを考えると許容のレベルを超えている。この驚異もまた、表現欲求に忠実なあまり商業映画としてのバランスを欠く、キューブリックの個人芸術ぶりを象徴するエピソードといえるだろう。 話の腰を折って恐縮だが、筆者はこの『2001年』と、昨年公開されたスタジオジブリの劇場長編アニメーション『かぐや姫の物語』(13)が、なぜか寸分の狂いもなくぴったりと重なる。 どちらも月に存在する謎の英知に触れている点で同じだから? そんなロマンチックな理由ではない。ジブリは常に優れた興行成績を維持して自社経営が成り立ち、製作委員会方式でリスク分散をしないため、世界で数少ない「作家主義」の作品展開が図れるスタジオだ。巨匠・高畑勲の手による『かぐや姫の物語』は、監督の表現追求のために最新の技術を投入し、作画や動画に納得のいくまでチェックが重ねられ、商業映画としては破綻した製作体勢のもとに生み出されている(事実、製作の遅れから公開日が延期にもなった)。ジブリに利益をもたらすどころか圧迫さえもたらしかねない同作は、キューブリックが実践した「個人芸術」の轍を踏む身近なケースといえるだろう。 思えば高畑は前作『ホーホケキョ となりの山田くん』(99)で、セルアニメでは不可能な淡彩描写に挑み、ジブリアニメのデジタル製作体勢への移行を、表現へのあくなき執着でもって果たさせている。奇しくもその年、キューブリックは『アイズ ワイド シャット』を遺作に、スターゲイトの彼方へと旅立っている。個人芸術の継承という点においてキューブリックと高畑勲をシンクロさせる考えは、1999年のこの時点で布石が敷かれていたのかもしれない。 映画が「商品か、アートか?」と問われたとき、間違いなく後者だと断言できるキューブリック作品。ことに『2001年宇宙の旅』は、今の商業映画の製作システムではもはや成立させることのできない個人芸術の到達点であり、まさしく劇中のモノリスのごとく映画界に鎮座する驚愕のシンボルなのである。■ 『2001年宇宙の旅』© Turner Entertainment Company 『シャイニング』TM & © Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2014.07.06
『13日の金曜日』シリーズ〜物質主義の権化、ジェイソンがまかり通る!
混迷のアメリカが、せめて物に執着することで、心に余裕と平穏を欲したのかもしれない。そんな1980年にスラッシャー映画の金字塔『13日の金曜日』が劇場公開された。その1作目は、ジョン・カーペンター監督の低予算のホラー映画『ハロウィン』(78)が製作費の数十倍もの興収を記録するほどの大ヒットによって、各社がホラー映画の企画を考えはじめる。厄介なスター俳優は不要で、恐怖と緊迫感こそが作品の命だと考えたショーン・S・カニンガムらは、70年代の殺人鬼ホラー映画……『呪われたジェシカ』(71)、『恐怖のメロディ』(71)、『悪魔のいけにえ』(74)、『ハロウィン』等を研究・解析し、イエス・キリストが磔にされた忌わしき“13日の金曜日”を題名にした映画を作り、大ヒットさせた。 クリスタル・レイクのキャンプ場で若者たちが次々惨殺されてゆく様を、いろいろな凶器を用いて、趣向を凝らした殺戮シーンとショック描写を展開して観客のド肝を抜いた。ただし犯人像には、70年代サイコ・キラーの残像を見ることができるし、特殊メイクを手がけたトム・サヴィーニが『ゾンビ』(78)でベトナム戦争での体験を生かした凄惨な残酷描写をクリエイトした実績があったことから、本作でも彼の才能はより洗練された形で表現されていた。でも少なからず、まだ70年代の陰はひきずっていた。サヴィーニは、現実味が伴った殺人シーンにより、80年代の特殊メイク映画ブームの一翼を担うことになる。 ホラー映画ファンなら御存知のように、1作目では、クリスタル・レイクのキャンプ場で不慮の事故で亡くなった醜い少年ジェイソンが回想シーンのみに登場する。まだ殺人鬼ジェイソンは存在しないのだ。その代わりに息子ジェイソンを溺愛していた母ヴォーヒーズ夫人が暗躍! 劇中のテーマ曲ともいえるような“キッキッキッ、マッマッマッ”と聞こえる効果音みたいな囁き声は、死んだジェイソンが“KILL MAM(殺して、ママ)”と母にお願いしている声をシンボリック化したもの。ちなみに殺される青年役で、無名時代のケヴィン・ベーコンが出演していた。 そして『~PART2』(81)でようやくジェイソンが登場するが、被っているのはホッケーマスクではなく、『エレファント・マン』(80)のように目出し穴が一つだけ開いた布袋だった。妙に人間臭い動作をし、森の奥にある家で密かに生きながらえ、ミイラ化した母の頭を隠し持ち、復讐のために殺戮していく。 『~PART3』(82)で、ようやくホッケーマスクをつけたジェイソンが現れ、ひたすら若者たちを殺しまくるキリング・マシーンというイメージが定着してくる。当時は3D映画として公開され、その立体感は当時作られた3D映画の中でも群を抜いていた。意味もなく画面手前に飛び出すショットが多いため、2Dで観ると、馬鹿っぽい映像がたくさんあって、これまた楽しい。 そして4作目の『~完結篇』(84)は前作の結末から始まり、前半ではジェイソンが様々な凶器で繰り広げるパワフルな殺戮テクニックが見もの(ジェイソンが走る姿が見られるのは本作まで!)。監督は『ローズマリー』(81)のジョゼフ・ジトーで、その映画で組んだサヴィーニが再び『13金』の特殊メイクに返り咲き、存分な手腕を発揮してシリーズ最高の見せ場をクリエイト。トミー少年(コリー・フェルドマン※子役時代は『グーニーズ』『スタンド・バイ・ミー』『ロストボーイ』等に出演)の意味深なラストが光っています。また脇役で出た個性派俳優クリスピン・グローヴァーにも注目(翌年の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で存在感を発揮していた)。 1~4作目までで一区切りで、『新~』(85)は成長したトミー少年の新機軸の物語。ジェイソン復活の妄想に悩まされるトミー少年は精神病院に入院していて、彼の周囲にホッケーマスクの殺人鬼が現れる……。スプラッタ色の強い、サイコ・ホラーとしての味わいもある。 6作目『~PART6/ジェイソンは生きていた!』(86)では、ジェイソン復活の妄想に苦しむトミーが、フォレスト・グリーンに名称を変えたクリスタル・レイクへ行き、ジェイソンの墓を掘り起して死体を灰にしようとする。ジェイソンに墓があること自体が驚きだし、そこに雷が落ちて高圧電流によって復活する様は、まるで“フランケンの怪物”ではないか! 実はこのあたりから、『13金』シリーズが、独特の物質主義で構成されるホラーだと感じるようになってきた。1、2作目では母親との歪んだ愛情関係がジェイソンの重要な構成要素になっていたが、それは徐々に希薄になり、4~6作目では完全にボディ・カウントする怪物に変貌した。ジェイソンは殺戮するための“マシーン=モノ”になって、あれこれ趣向を凝らした殺戮法を披露するとはいえ、人間たちを次々と殺し、異形の物質主義者のように“死体=モノ”を量産してゆく。不死身の肉体を持ったモノが、人間の肉体を損壊してモノに変えてゆくカタルシスは、ある意味フェティッシュであり、それまでのスラッシャー映画にはなかった感覚であった。まさにモノがモノを量産するという、80年代の物質主義と奇妙なリンクを果たしたような稀有なシリーズだと思う。 そして『~PART7/新しい恐怖』(88)では、湖に沈められたジェイソンが復活する理由が痛快(正直いい意味で笑えます)。マッチョな怪物ジェイソンと超能力少女との対決に思わずワクワクしたのは、完璧な“モノ=キリング・マシーン”に対抗するには、平凡な人間では敵うはずがないのだから。 次いで『~PART8/ジェイソンN.Y.へ』(89)では、再び高圧電流で復活したジェイソンが客船に乗り込んで修学旅行生を次々と惨殺しN.Y.へ。上陸してからのジェイソンの行動と、それを目撃する人間たちの反応が笑えて面白い。このあたりになると完全にスラプスティックな狙いが感じられてしまうが、これまた楽し。 その後、ジェイソンのエネルギー体(魂)がボディスナッチされた人間をジェイソン化するという奇っ怪な9作目『~ジェイソンの命日』(93)、400年後に覚醒したジェイソンが宇宙船内で暴れるSFホラーの10作目『ジェイソンX~』(01)が作られたが、今回放送されないのは、とても残念だ。 一応以上がオリジナルの『13金』シリーズで、番外編として人気ホラーの2大キャラが激突する『フレディVSジェイソン』(03)が作られている。実はこの作品がユニークなのは、実体あるジェイソンと悪夢の中で暗躍する非実体のフレディが対決するところにあった。巨躯を堅持するかのようなジェイソンと、細身なフレディがまともに戦ったら、最初から勝敗は分かりきったこと。だがフレディが非実体なので、ジェイソンにとっては捉えどころがなく苦戦を強いられる。とても残念だが、『フレディVSジェイソン』も今回の放映ラインナップには入っていないので、機会があれば、そのあたりを注意して観ると、また違った面白さが味わえると思う。 そして、マイケル・ベイが09年に製作したリメイク版は、オリジナル・シリーズの1~4作目の要素を詰め込んで一本の作品にしたような仕上がりだ。監督には、これまたベイが製作した『悪魔のいけにえ』のリメイク版『テキサス・チェーンソー』(03)を手がけたマーカス・ニスペルで、凄惨な描写も手加減なし。イケメンのジャレッド・パダレッキとヒロインのダニエル・パナベイカーが、よくぞ出てくれた(と思う)。 ジェイソンが、ホラー映画のアイコンになるほどの人気を得てきた魅力は、感情を配したホッケーマスクを装着し、モノと化した不死身の巨躯で、馬鹿な人間どもを次々と殺し続けてモノに変えてゆくインモラルな要素、とにかくそこに尽きるのだ。■ (c) 2014 BY PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2014.05.17
【ネタバレ】イザベル・コイシェ監督の2作品に隠された秘密、それは、“もうひとりの別の存在”
サラ・ポーリーと組んだ『死ぬまでにしたい10のこと』『あなたになら言える秘密のこと』の2作品で日本でも広く知られるようになったスペイン人監督イザベル・コイシェは、自らの制作会社を“ミス・ワサビ”と名付け、菊地凛子主演作『ナイト・トーキョー・デイ』を東京で撮ったほどの親日家だ。筆者は過去に二度インタビューしたことがあるが、とてもお洒落でユーモラスかつフレンドリーな女性で、つねに新作を楽しみにしている監督のひとりである。 2007年に日本公開された『あなたになら言える秘密のこと』は、筆者がその年の洋画ベストワンに選んだ思い入れの深い作品なのだが、題名から連想されるようなロマンティックな映画ではない。主人公ハンナ(サラ・ポーリー)はつねに思い詰めたような険しい顔つきをしており、極度の潔癖症で、あからさまに他人を拒絶するオーラを放っている。そんな彼女が勤務先の工場の上司から半ば強制的に休暇を取るよう勧められ、ひょんなことから海上に浮かぶ石油掘削施設で大火傷を負ったジョゼフ(ティム・ロビンス)の看護をすることになる。一時的に視力を失っているジョゼフは、ぶっきらぼうなハンナになぜか好意を抱き、少しずつ彼女の頑なな心を溶かしていく。しかしハンナは、ジョゼフの想像も及ばない衝撃的な“秘密”を抱えていた……。 ここから先はネタバレで恐縮だが、実はハンナはバルカン半島からイギリスに移住してきたクロアチア人で、ボスニア紛争における拷問被害者である。映画のクライマックスで語られるハンナの告白の内容は残酷なまでに悲劇的で、公開当時、そのような重い題材が扱われているとは夢にも思わなかった筆者を含む観客は心底驚愕し、戦慄さえ覚えることになった。ハンナの心身の耐えがたい痛みを知ったジョゼフが、それでも彼女とともに未来を歩もうとする物語はこのうえなく感動的で、極めて純度の高いラブ・ストーリーに仕上がっている。 ところが筆者が本当に驚かされたのは、しばらくしてから本作をもう一度観直したときだった。この映画の初鑑賞時に漠然と感じていた違和感のようなものが具体化し、大いなる謎が浮かび上がってきたのだ。 もともとこの映画には、誰もが気づくスーパーナチュラルなエッセンスがちりばめられている。物語の語り手というべき少女の“声”である。「ハンナは私の顔を知らない。でも唯一の友だちよ」と語るこの正体不明の“声”は何者なのか。前述したハンナの“秘密”を踏まえると、(1)拷問のトラウマゆえに幼児退行したハンナ自身の声である、(2)ハンナが紛争中に亡くした子供の声である、など幾つかの推測が可能だ。筆者は精神分析の知識が乏しいうえに、映画はあえて“声”の主を曖昧にしているので、明快な答えは見つからない。 二度目に観て気づいたのは、物語の主な舞台となる石油掘削施設の一室でハンナとジョゼフが心を通わせていくシーンに、これまた正体不明の何者かの視線のショットが何度か挿入されていることだ。物陰からひっそりとハンナとジョゼフのやりとりを見つめているかのような、そこにいるはずのない第三者の存在が感じられてしょうがないのだ。こうなるともはや心霊映画の領域だし、「たまたま手持ちカメラのアングルがそう思えるだけではないか?」という向きもあろう。しかし、この映画はコイシェ監督自身がカメラ・オペレーターを兼任(撮影監督はジャン=クロード・ラリュー)しており、物陰に潜む何者かの視線を感じさせるような主観ショットが“たまたま”撮られたとは思えない。むしろ監督は明確な意思をもって超自然的な存在がハンナにつきまとっていて、その部屋に存在していることを表現したのではないかと考える。この世を見ぬまま生命を絶たれたハンナの子供なのか、それとも非業の死を遂げた大勢の拷問被害者の魂なのか、筆者には断定しようがない。ここではまず霊的な何かが“そこにいる”可能性を指摘しておきたい。この映画の原題は『The Secret Life of Words』であり、正体不明の“声”が語る言葉が極めて重要であることは疑いようがないのだから。 ■最大の謎はラスト・シーンの“窓”の向こう側にある そして筆者が最も驚き、未だ脳裏に焼きついて離れないのがラスト・シーンである。石油掘削施設から工場勤めの孤独な日常に戻ったハンナは、再会したジョゼフからのひたむきな求愛を受け入れ、ふたりは情熱的な抱擁を交わす。続いて映し出されるのは、ハンナがキッチンでひとりたたずんでいる光景だ。どうやらハンナは、この家でジョゼフと穏やかに暮らしているらしい。ストーリーの流れとしては、明らかにハッピーエンドである。 しかし、ここにもあの少女の“声”が聞こえてくる。「私はもういない。ときどき日曜日の朝に来るだけ」。そう語る“声”は「彼女には子供がふたりいる。私の弟たち」と呟き、ハンナとジョゼフが2児をもうけたことを告げる。そして“声”が「子供たちが帰ってくる。もう行くわ」と消えようとするなか、キッチンの窓の向こうには隣家に遊びに行っていたハンナの子供たちの姿が映る。ここにこそ本作の最大の謎がある。“声”いわく“私の弟たち”なのだから、窓の向こう側を歩いてくるのは“ふたりの男の子”でなくてはならない。それなのに何度もスロー再生して確認した筆者が見るに、そこに映っているのは赤い服を着た“ふたりの女の子”なのだ! いったい、これはどういうことなのか。明らかにつじつまが合わない。おまけにこの窓の外を捉えたショットは微妙にフォーカスがずれており、子供たちがおぼろげに映っている。その撮り方から察するに、コイシェ監督はそれが女の子かどうか観客が気づかなくても構わない、というスタンスでこのショットを設計している。しかし、どうしても女の子でなくてはならかった何らかの理由があるのではないか。そうとしか考えようがない。 このあまりにも奇妙で、不可解なミステリーに関しても、筆者は答えを持ち合わせていない。ただし想像することはできる。ハンナがたたずむキッチンはまぎれもなく“現実”のシーンだが、ひょっとする窓の向こう側は“幻”なのではないかと。では、ふたりの女の子は誰なのだろう。ひょっとすると祖国のクロアチアでまだ無邪気だった幼少期のハンナと、その友だちなのかもしれない。もう幸せだったあの頃には帰れない。そんなスーパーナチュラルな心霊的ニュアンスがこもったエピローグは、表面的にはジョゼフと結ばれたことで心の平穏を取り戻したように見えるハンナの奥底に残る、もうひとつの複雑にして不穏な“秘密”を表現したシーンとして、何年経っても筆者の中で謎めき続けているのだ。 ■頻出する“ダブル”=“もうひとりの別の存在”のイメージ もう一点、筆者にとって興味深いのは、なぜ“ふたり”なのか、ということだ。ここで言う“ふたり”とは“もうひとりの別の存在”に置き換えることもできる。エピローグにおける窓の向こうの子供はなぜか“ふたり”であり、劇中には戦時中の拷問体験で精神を病んだハンナが“もうひとりのハンナ(=おそらく彼女自身)”について涙ながらに語るシーンもある。 こうした疑問を抱いた後に、コイシェ監督の前作にあたる『死ぬまでにしたい10のこと』を観直してみると面白い。この映画の冒頭では、ガンに蝕まれて死にゆく運命にある主人公アンが雨の中にたたずんでいる。そのオープニングに被さる彼女自身のモノローグは、日本語字幕では「私」という一人称で訳されているが、なぜかサラ・ポーリーがしゃべる英語セリフでは「You」という二人称になっているのだ。つまり「これが私」という日本語字幕は、本来「これはあなた」と訳されるべきなのだが、想像するに字幕担当者はそれでは不自然と判断して「私」にしたのだろう。ウィキペディアを参照してみると、代名詞に「You」が使われた理由についてこんな記述がある。「あたかも映画を観ているあなたが、この映画の主人公だ、あなたの余命が2ヵ月なのだ、と訴えかけるようになっている」。確かにそうかもしれない。しかし筆者には、超自然的な霊魂のような“もうひとりの別の存在”がアンを客観的に見つめながら、このモノローグを語っているように思えてならない。 “ふたり”もしくは“もうひとりの別の存在”、すなわちペアともダブルともいえる概念は、『死ぬまでにしたい10のこと』にさらに盛り込まれている。自らの死期が迫ったことを悟ったアンは、この世に残される夫にふさわしい再婚相手を見つけ出そうとするのだが、タイミングよく空き家だった隣家に美しく心優しい女性が引っ越してくる。レオノール・ワトリングが演じるその女性の名前は、何と主人公と同じ“アン”である。しかも隣人の“アン”はかつて看護師だった頃、患者が出産後にまもなく死亡したペアの赤ん坊=シャム双生児を看取った悲痛な体験をアンに打ち明けるのだ! 以上の文章には筆者の妄想も少々入り混じっているかもしれないが、コイシェ監督がダブルのイメージに執着しているという指摘は、まんざら的外れではないと思う。なぜなら2013年に彼女が撮ったばかりの最新作の題名は『Another Me』。“もうひとりの自分”につきまとわれる若い女性(ソフィー・ターナー)を主人公に据え、まさしくダブルをモチーフにしたミステリー・スリラーらしいのだ。現時点で日本公開は未定だが、すでに期待が膨れ上がりっぱなしの筆者は観る気満々である。■ ©2005 El Deseo M-24952-2005
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COLUMN/コラム2014.02.23
2014年3月のシネマ・ソムリエ
■3月1日『死ぬまでにしたい10のこと』 カナダ人女優S・ポーリーが、スペインのI・コイシェ監督と組んだヒューマン・ドラマ。ガンで余命2、3ヵ月と宣告された23歳の女性の生の輝きを見つめていく。 妻であり母親でもあるヒロインは、誰にも病のことを告げず“死ぬまでにしたいこと”を実行していく。劇場公開時には、その10の秘密のリストの内容が物議を醸した。 脇役も含めたユニークな人物描写、小道具や音楽へのこだわりが感じられるディテールが魅力的。お涙頂戴の“余命もの”とは異なる視点で人生の哀歓を綴った秀作だ。 ■3月8日『第七の封印[HDデジタルリマスター版]』 十字軍の遠征からスウェーデンに帰還した騎士が、疫病や魔女狩りで荒廃した祖国の現実を目の当たりにする。そんな騎士の行く手には不気味な死神が現れるのだった。 中世ヨーロッパに死神を出現させ、信仰や人生の意味といった根源的なテーマを問いかける異色作。I・ベルイマン監督のファンに熱狂的に支持されている寓話である。 幻想的なイメージと哲学的な思索に富んだ映像世界は、巨匠のフィルモグラフィの中でも異彩を放つ。“死神とのチェス”や“死の舞踏”などの名場面も鮮烈な印象を残す。 ■3月22日『狩人と犬、最期の旅』 妻や愛犬とともにロッキー山脈の大自然のまっただ中で暮らす実在の猟師ノーマン・ウィンター。彼の一年間の生活ぶりを密着取材したドキュメンタリー・ドラマだ。 昔ながらの狩猟法を実践し、厳しい自然と共生する男の生き様を記録。とりわけ犬たちとの絆を育み、凍てつく湖上や山道をソリで走るエピソードが驚きと感動を呼ぶ。 ブリザードが吹き荒れる雪原やオーロラなどの雄大にして幻想的な風景も観る者を圧倒。著名な冒険家で、自然の魅力を熟知したN・ヴァニエ監督ならではの逸品である。 ■3月29日『コレラの時代の愛』 ラテンアメリカを代表するノーベル文学賞作家G・ガルシア=マルケスの同名小説を映画化。19世紀末から20世紀にかけてのコロンビアを舞台にした純愛映画である。 貧しい郵便局員の青年が裕福な商人の娘にひと目惚れ。身分違いゆえに離ればなれになりながらも、初恋の女性を50年以上も想い続ける主人公の数奇な人生を映し出す。 主演は『ノーカントリー』、『007 スカイフォール』のH・バルデム。一途な愛を貫く一方で多くの女性と関係を持つ男の悲哀や滑稽さを、老けメイクを施して体現する。 『死ぬまでにしたい10のこと』©2002 El Deseo D.A.S.L.U.& Milestone Productions Inc. 『第七の封印[HDデジタルリマスター版]』© 1957 AB Svensk Filmindustri 『あなたになら言える秘密のこと』©2005 El Deseo M-24952-2005 『狩人と犬、最後の旅』©2004 MC4 /TF1 International / National Film Board of Canada / Pandora / JMH / Mikado 『コレラの時代の愛』©Copyright 2007 Cholera Love Productions,LLC ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2013.09.28
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2013年10月】うず潮
自身で決めたルールを遵守し100パーセントの成功率を誇る凄腕ヒットマン役のニコラス・ケイジ。しかし、引退を悟ったニコラス・ケイジは、最後の仕事としてバンコクへ。いつものように現地で若いチンピラの相棒を調達し、クールに仕事をこなしていく。しかし、チンピラに若かれし日々の自分を重ね、相棒は消すという自分のルールを破り、チンピラを一人前に育て始める。そんな中、仕事で手負いを負ったケイジに優しく接する薬や店員に心惹かれていく。そんなヒットマンとしての心の綻びが、彼を追い詰めていく。タイの気鋭監督として知られるパン兄弟が、初期の代表作『レイン』をハリウッドでリメイク!。9月はザ・シネマでニコラスケイジ特集もやってます! © 2007 Bangkok Dangerous, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2013.08.02
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2013年8月】招きネコ
映画館で号泣してエンドクレジットが流れる暗闇の中で明るくなる前に必死に涙を拭いた記憶ってありますよね?この作品を映画館で見た25年前のその記憶がまだ鮮明にあります。この作品のエンディングを私は生涯決して忘れないでしょう。 1944年、第二次世界大戦末期のナチス占領下のフランス。パリから田舎のカトリックの寄宿学校に疎開している12歳の少年ジュリアンは、転校生のジャンと仲良くなる。だが、ジャンは実はユダヤ人でナチスの探索の手を逃れて学校に匿われていたのだった。そして、ある事件をきっかけに密告があり、学校にナチスがやってくる・・・。 「死刑台のエレベーター」の巨匠ルイ・マルは自らの少年時代の生涯忘れられない記憶を約半世紀の時を経て遂に映画化しました。彼自身、この体験があまりに重くて、撮影中本当に辛かったと語っています。いわば、この作品はそんな思いをしても映像化しなければならなかった、彼が伝えなければいけないメッセージを持った作品なのです。それは、「戦争のむなしさ」そして「人間の素晴らしさ」。この映画は静かで美しい、一切戦闘シーンのない反戦映画です。殺伐とした昨今の世情の中、ぜひ多くの人に見て欲しい。 © 1987 Nouvelles Editions de Films
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COLUMN/コラム2013.07.27
2013年8月のシネマ・ソムリエ
■8月3日『ミレニアムドラゴン・タトゥーの女』 スティーグ・ラーソンの世界的なベストセラー小説「ミレニアム」3部作の第1作を映画化。原作者の母国スウェーデンなど3ヵ国合作によるオリジナル版である。大財閥一族の少女が40年前に失踪した怪事件。社会や人間の闇に切り込みながら、その解明に挑むジャーナリストと異形の女性天才ハッカー、リスベットの姿を描き出す。リスベットの人物像を強調したハリウッド・リメイク版(11)よりも謎解きのパートが充実。手がかりの写真や暗号の解析場面など、随所に魅惑のサスペンスが宿っている。 ■8月10日『さよなら子供たち』 『死刑台のエレベーター』の名匠ルイ・マルが、ベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した後期の秀作。1944年、ナチス占領下のフランスを舞台にした自伝的な物語である。 主人公は親元を離れ、カトリック系寄宿学校に疎開してきたジュリアン。12歳になっても寝小便の癖が抜けない彼は、偽名を使って転入してきたユダヤ人少年と出会う。あえて劇的な起伏を抑えた詩情豊かな映像世界は、終盤に急展開を迎える。子供の目線にこだわった友情の尊さ、そして戦争の不条理に胸締めつけられずにいられない。 ■8月17日『ブラック・スネーク・モーン』 米国南部を舞台に、妻に捨てられた黒人の元ブルースマンとセックス依存症の若い白人女性の交流を描く異色作。S・L・ジャクソン、C・リッチが衝撃的な役柄に挑んだ。主人公が半狂乱のヒロインを極太の鎖で監禁する場面など、序盤から驚愕シーンが続出。その半面、ブルース音楽や信仰を題材に、愛の喪失と再生を描いた寓話でもある。 ジャクソンが渋い歌声を聴かせ、リッチが血まみれシーンやヌードも辞さない熱演を披露。傷だらけの男女の“魂の叫び”を体現した、彼らの渾身の演技に圧倒される。 ■8月24日『さよなら、僕らの夏』 米国の新人監督J・A・エステスが発表した青春映画である。いじめっ子への復讐のためにボートでの川下りを計画した少年少女5人が、思わぬ悲劇を招き寄せてしまう。 主人公たちが直面するのは、友人の“死”というこのうえなく痛切な現実。夏の陽光きらめくオレゴン州のノスタルジックな情景とのコントラストが鮮烈な印象を残す。 思春期の子供たちの無邪気さと背中合わせの残酷さを、緊迫感をこめて繊細かつリアルに描出。一日の出来事の中に、その劇的な感情の移ろいを刻み込んだ演出が見事だ。 『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』© Yellow Bird Millennium Rights AB, Nordisk Film, Sveriges Television AB, Film I Väst 2009 『さよなら子供たち』© 1987 Nouvelles Editions de Films 『ブラック・スネーク・モーン』COPYRIGHT © 2013 BY PARAMOUNT VANTAGE, A DIVISION OF PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED. 『さよなら、僕らの夏』©2004 Whitewater films
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COLUMN/コラム2013.05.25
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2013年6月】飯森盛良
この良い面したオッサンがジョン・ミリアス監督です。かけてるグラサンはレイバンのアビエーター。着てるのはどうも実物っぽいA-2。この手のフライト・ジャケット姿(ナイロン系含む)で演出してるこの人のバックステージ写真は大量に残ってます。 はい、こういう格好してる漢ってのは、まず信頼してOK!だって亀山薫を見てくださいよ!かつて大空を駆ったヒコーキ野郎どもが戦場でまとった“現代の鎧”を蒐集し、わざわざ普段着として着るって行為は、自らそのイズムの継承者をもって任じているということの表明です。監督作を並べてみりゃ一目瞭然。『デリンジャー』、『風とライオン』、『ビッグ・ウェンズデー』、『コナン・ザ・グレート』、『若き勇者たち』、そして本作…ほら、全部、矜持を貫こうと意地になった漢たちの、実存を賭した大勝負の話ばっか! この格好で、さらに葉巻までふかしまくるミリアス監督。ちなみに『風とライオン』撮影中に男気映画の最高神ジョン・ヒューストンから葉巻を一子相伝されたパダワンであり、かつ『コナン』の現場でシュワに葉巻を直伝したマスターでもあるのです。このハリウッド葉巻閥、全員が一生ついて行きたい面々だな! 蛇足。『ビッグ・リボウスキ』の、リボウスキのダチのベトナム・ベテラン。モデルはこの監督です。 ® & © 2013 Paramount Pictures. All Rights Reserved.