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COLUMN/コラム2015.07.06
フランスの気鋭監督が創出した“立てこもり活劇”の醍醐味~『スズメバチ』
本作が2002年の秋に日本公開された際に、ポスターやチラシに添えられたキャッチコピーは今でもよく覚えている。「12000発喰らえ」。しかし謳い文句通りの“ド派手なドンパチ”を期待して劇場に足を運んだ観客は、実際に本編を目の当たりにして面食らったのではないか。何せ序盤の約30分、これといった見せ場がほとんどない。観客を退屈させないための“方程式”に則った昨今のハリウッド・アクションや、本家のハリウッド以上にハリウッド的な娯楽性に富んだヨーロッパ・コープ製のフレンチ・アクションに慣れ親しんだ映画ファンは、本作のいささか冗長で無愛想にも映る導入部に焦れったさを感じるかもしれない。 正直なところ決して洗練されたタッチの導入部ではないが、作り手の狙いははっきりしている。「荒野の七人」のテーマ曲を口笛とアカペラで奏でながら、練りに練った犯罪計画を実行に移そうとしている若い窃盗犯グループ。人身売買、武器密輸などの凶悪犯罪を繰り返してきたアルバニア・マフィアのボスを、物々しい装甲車で護送しているフランス警察の特殊部隊。そして職場に向かおうとしている元消防士のしがない中年警備員。7月14日のパリ祭を背景に、そんな見ず知らずの登場人物たちが偶然にも“ある場所”に集結していく過程が描かれる。そう、この映画は冒頭30分を長々と費やして、アクション映画を形成する重要な要素のひとつであるシチュエーション=状況設定を組み立てているのだ。その30分を乗りきった観客には、ご褒美として中盤以降に怒濤のシークエンスが待っている。 その“ある場所”とは、ストラスブールの工業地帯にたたずむ黒い外壁の巨大な倉庫だ。ここに忍び込んだ窃盗犯グループは、前述の中年男ともうひとりの若い警備員を拘束し、大量のノートパソコンを強奪してトンズラしようともくろんでいる。ところが時同じくしてストラスブール近郊の別地点で、ボスを奪還しようとするマフィアの武装軍団が特殊部隊の護送車を襲撃。からくも生き延びた女性中尉リボリと数名の部下は、まだ窃盗犯グループがとどまっている倉庫に一時避難する。倉庫はあれよあれよという間に武装マフィアに包囲され、外界への連絡手段を断たれたリボリに残された道はただひとつ。その倉庫に身を潜めたまま窃盗犯や警備員たちと力を合わせ、軍隊並みの重装備を誇るマフィアを迎え撃つことだ。 言わば、これは倉庫を“砦”に見立てた伝統的な“立てこもり型”のアクション映画である。逃げるという選択肢を奪われた登場人物が、閉塞した限定空間に籠城して必死の抵抗を試みる。孤立無援にして、圧倒的な多勢に無勢。まともに闘ったら絶対に勝ち目はない。ゆえに登場人物がすべきことは敵の侵入を“防ぐ”ことであり、そこにヒリヒリするような極限状況のスリルが生まれる。スカッとした爽快さ&豪快さを売りにしたアクション大作とは真逆の、首を真綿で締められるがごときマゾヒスティックな緊張感。生き抜くためには命知らずの度胸や腕っぷしの強さよりも、ひたすら忍耐力と臨機応変の対応力が求められる。そこに立てこもり活劇の醍醐味がある。 このジャンルの代表作というと、ジョン・カーペンター監督の『要塞警察』(76)とその原点であるハワード・ホークス監督の西部劇『リオ・ブラボー』(59)がすぐさま思い浮かぶ。とりわけこの映画と『要塞警察』の類似性は誰の目にも明らかだ。しかしながら本作には「このシチュエーションの活劇が撮りたかった!」という作り手の並々ならぬ意欲が全編にみなぎっており、パクリや二番煎じと誹る向きはどこにもいないだろう。浮ついたギャグや、二丁拳銃などのアクロバティックな描写は一切ない。その代わりに戦闘中の登場人物が残りの弾薬数を確認したり、状況がじわじわと切羽詰まっていくプロセスをリアルに見せる工夫が随所に盛り込まれ、本格的な立てこもり活劇に仕上がっている。 『スズメバチ』というタイトルも言い得て妙だ(原題は『Nid de guêpes(スズメバチの巣)』)。目の部分が不気味に赤く光る暗視ゴーグルを装着した武装マフィアが、暗闇の中からうようよと無数にわき出ては、容赦なく倉庫に群がってくるイメージは、まさしくスズメバチを想起させる。生憎、筆者はその筋には詳しくないが、銃器の演出にもそうとうこだわりがあるのだろう。立てこもる側の登場人物にはそれぞれのキャラクターの個性に合わせてショットガン、カービン銃、自動小銃といった新旧織り交ぜた武器を持たせ、武装マフィアはサイレンサー付きの銃でひたひたと攻め入ってくる。撃ち抜かれた壁の銃痕の穴から光が差し込むというガン・アクション映画には定番のショットにも、“スズメバチの巣”のヴィジュアル化を意識した美学が宿っている。ちなみに監督は本作の成功がきっかけでハリウッドに招かれ、ブルース・ウィリス主演の『ホステージ』(05)を発表し、最近では「マイウェイ」の共作者として名高いポップスター、クロード・フランソワの伝記映画『最後のマイ・ウェイ』(12)を手がけたフローラン・エミリオ・シリ。『スズメバチ』は彼の長編第2作であり、本邦初登場作品である。 「ここを突破されたらヤバい!」というギリギリの切迫感が少々物足りず、クライマックスへのなだれ込み方が大味になってしまったことなど難点はいくつか見受けられるが、『TAXi』(97~07)シリーズで名を馳せた某俳優が演じるキャラクターが早々に戦闘不能に陥ったり、誰が最後まで生き残るのかは予測不可能。「12000発喰らえ」のキャッチコピーに引かれた観客の期待にも応えるであろう“フレンチ立てこもりアクション”のカタルシスを、ぜひ堪能してほしい。■ © 2002 - CINEMANE FILMS - CARRERE GROUP - PATHE IMAGE PRODUCTION - FRANCE 2 CINEMA
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COLUMN/コラム2015.05.01
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2015年5月】うず潮
クリント・イーストウッドが製作・監督・主演した戦争ドラマ。海兵隊に再入隊した渋コワ鬼軍曹イーストウッド。彼が任された仕事は、だらけきった若い兵士たちの訓練。彼らを徹底的に鍛え上げるため、ある時は実弾をぶっぱなし、またある時は自分の着ているTシャツと違う理由で半裸で走らせたり…理不尽極まりない厳しい訓練で若い兵士を振り回す。そんな鬼軍曹に反発する兵士たちだったが、イーストウッドの元でひとつに結束していく。そんな彼らに救出作戦の命令が下る。 訓練でも戦場でも淡々と冷静に背中で語るイーストウッドの姿は、かっこ良すぎます。さらに緊張感溢れる戦闘シーンも必見!またザ・シネマでは、『スペース カウボーイ』『マディソン郡の橋』など彼の出演作を5月に特集放送。こちらもぜひご覧ください! TM & © Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2015.03.04
【未DVD化・ネタバレ】滅多に観られない1970年代のよく出来たシチュエーションコメディ〜『ニューヨーク一獲千金』
1970年代に一斉を風靡した、『ゴッドファーザー』(1972年)『ゴッドファーザー PART II』(1974年)のジェームズ・カーンと、『ロング・グッドバイ』(1973年)のエリオット・グールドの主演作だ。監督は、本作ののちにベット・ミドラー主演の『ローズ』(1979年)、ヘンリー・フォンダ&キャサリン・ヘプバーン主演の『黄昏』(1981年)、ベット・ミドラー&ジェームズ・カーン主演の『フォー・ザ・ボーイズ』(1991年)を撮る名匠マーク・ライデルだ。 サウンドトラックがすばらしい出来で、『ロッキー』のタイア・シャイアの旦那さん、デヴィッド・シャイアが担当。撮影監督はアメリカン・ニューシネマを代表するカメラマン、『イージー・ライダー』(1969年)や『ペーパー・ムーン』(1973年)や『未知との遭遇』(1977年)のラズロ・コヴァクスだ。脚本がよく練られていて、『マホガニー物語』(1975年)のジョン・バイラムと、『フリービーとビーン/大乱戦』(1974年)のロバート・カウフマンだ。 主人公は2人の売れないヴォードヴィリアン、ハリー(ジェームズ・カーン)とウォルター(エリオット・グールド)で、1892年、マサチューセッツ州のコンコード刑務所に2人が護送されてきた。そこで、金庫破りの名人アダム・ワース(マイクル・ケイン)の奴隷同然の召使いにさせられる。ワースは豪華な特別室におさまり、刑務所長、看守を顎で使っている。彼は腹心のチャトワースが持って来たマサチューセッツ州ローウェルの銀行になる金庫の青写真をカーテンの裏に貼って研究を始める。 その頃ニューヨークの左系新聞の記者リサ・チェストナット(ダイアン・キートン)が刑務所の取材に訪れた。ハリーはこっそり青写真をリサの助手のカメラで撮ったのだが、マグネシウムの火がカーテンに引火して銀行の見取り図の青写真は燃えてしまった。怒ったワースは看守に命じて2人を石材場の重労働に追いやる。ハリーがその石切場からニトログリセリンを持ち出し、2人は刑務所の門を破って逃走する。 ニューヨークに着き、その新聞社で青写真を撮ったネガを入手。だが、出所してきた強盗のプロ、ワースに見つかって見取り図は取り上げられる。 現像した写真を前に、リサはワースに対抗して金庫破りをすることになる。ただし金は社会正義のために使うことを提案する。その計画にスタッフも賛成し、一同はローウェルに向かって、銀行の上の部屋からトンネルを掘り始める。ところが隣の部屋へ銀行の頭取ルーファス・クリスプ(チャールズ・ダーニング)が女を連れこんでいた。頭取がいてはトンネルが掘れないので、リサは頭取に巧みに近寄り翌日の夜、2人でオペレッタを見に行く。そのオペレッタの主演がワースの恋人グロリア・フォンテーン(レスリー・アン・ウォーレン)なのに気が付いたリサが楽屋を探ると、やはりワース一味がいた。 彼らは劇場の地下室から銀行までトンネルを掘り、次の日のショーが終ったら金庫破りを決行する計画だと判明する。 リサたちは何とか先手を打って、劇場に忍びこみ、ショーの途中に金庫を開けようとする。だが、なかなか金庫は開かず、ショーは終りそうになる。ヴォードヴィリアンのハリーとウォルターが衣裳をつけて舞台に加わる。オペレッタは、めちゃくちゃになるがそれまで退屈であくびを噛み殺していた観客に大いに受ける。 見事に大金を盗み出したリサ、ハリー、ウォルターらはニューヨークに戻った。そこで彼らと再会したワースは、いさぎよく敗北を認めるのだった。 コーエン兄弟の監督作品『オー!ブラザー』にも通じる、すこぶる軽快な強奪ものである。銀行強盗をゲーム感覚で描いた犯罪アクションで、キャストの顔ぶれだけでもおもしろさは約束されている。何よりも楽しいのは、『探偵<スルース>』(1972年)のマイクル・ケイン、『狼たちの午後』(1975年)のチャールズ・ダーニング、『アニー・ホール』(1977年)のダイアン・キートン、『チューズ・ミー』(1982年)のレスリー・アン・ウォーレン、『イナゴの日』(1975年)のデニス・デューガン、『ロッキー』(1976年)のバート・ヤングら、1970年代を彩った「名脇役たち」が多数出演していること。ソニー・コルレオーネでトップ俳優となった能天気なジェームズ・カーンが、若かりし頃のダイアン・キートンに手助けされるというお楽しみもある。 ある意味で、サクセスストーリーだと解釈できる。そのギャグが緻密に計算されてシチュエーションコメディなので、何回観ても飽きないのだ。 本作は1988年ぐらいにビデオソフトになったが、シネマスコープサイズの作品をTVサイズにトリミングしたため、大団円の最高におもしろいシーンが左端で起こっていてカットされるという憂き目にあっている。その意味で、今回の放送はもしかしたら、これがマトモなかたちで観られる最後かもしれず、1970年代のコメディ映画ファンにとって、これほど喜ばしいものはない。■ © 1976, renewed 2004 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2014.10.18
【3ヶ月連続キューブリック特集 最終回】キューブリック映画の偽造空間〜『フルメタル・ジャケット』『アイズ ワイド シャット』
今や映画は、劇中の舞台が世界各国のどこであろうと、再現に不可能はない。俳優をグリーン(ないしはブルー)スクリーンの前で演技をさせ、CGによって作られた仮想背景と合成する[デジタル・バックロット]によって、映画は地理的な制約を取り去ったのだ。 ただ、あくまで作り手が現場の持つ風景や空気にこだわるか、あるいは演じる俳優の感情を高める場合、実地におもむいて撮影をする。それが容易でなければ、舞台となる土地とよく似た場所を探しだし、パリならパリ、香港なら香港のように見せかけて撮る。デジタルの時代にあっても、映画作りの基本はやはりそこにあるといえるだろう。 スタンリー・キューブリック監督の映画の場合、舞台を実地に求めることはなく、ほとんどが後者だ。1962年の『ロリータ』以降、アメリカからイギリスに移り住んだキューブリックは、自作を全て同国にて撮影している。アメリカが舞台の『博士の異常な愛情』(64)も『シャイニング』(80)も、主要なドラマシーンはイギリスにて撮影が行われているのだ。 既存からではない、世界の創造。これぞ完璧主義の監督らしい果敢なチャレンジといえるだろう。だが完璧を標榜するのならば、コロラドが舞台ならコロラドで撮影するのが理にかなっている。たとえば東京をロンドンで再現したところで、東京で撮影する現場のリアリティや説得力にはかなわないのだ。 そのせいか、キューブリックの映画に登場する風景やランドスケープは、その場所を徹底的に造り上げながらも決してその場所ではない、どこか不思議な人工感を覚える。自然光を基調とするリアルなライティングや、徹底した美術設定がより違和感を際立たせているのだ。そしてこの「ナチュラルに構築された人為性」もまた、氏の超然とした作風の一助となっているのである。 『フルメタル・ジャケット』(87)も先の例に漏れず、劇中に登場するベトナムは、そのほとんどがイギリスでの撮影によるものだ。特に後半、海兵隊員たちが正体不明のスナイパーから狙撃を受け、兵士が一人、また一人と息の根を止められていくシークエンスは、ロンドン郊外のコークス精錬工場の跡地がベトナムの都市・フエ(ユエ)として演出されている。ベトナム映画によく登場する密林地帯ではなく、市街地が舞台ということもあって、そこにひときわ異質さを覚えた人は多いだろう。 『ディア・ハンター』(78)や『地獄の黙示録』(79)など、これまでベトナム戦争を描いてきた作品は、タイやフィリピンなど東南アジアでロケが敢行されてきた。ことに『フルメタル〜』の公開された頃は、米アカデミー作品賞を受賞した『プラトーン』(86)を皮切りに『ハンバーガー・ヒル』や『ハノイ・ヒルトン』(87)『カジュアリティーズ』(89)など、多くのベトナム戦争映画が量産されている。これら作品はよりベトナム戦争のアクチュアルな描写に食い込んでいこうと、苛烈を極めたジャングルでの戦いに焦点を定め、リアルな画作りを標榜している。そのことが『フルメタル〜』の、市街での戦闘シーンをより独自的なものに感じさせたのだ。 こうしたキューブリックの偽造空間は、批評のやり玉にあげられることもある。「あの映画を二回くらい観れば、パリス島のシーンに灯火管制下の英国の道路標識みたいなものがあるのに気づくようになる」とは、軍史家リー・ブリミコウム=ウッドの弁だ(デイヴィッド・ヒューズ著「キューブリック全書」フィルムアート社刊より)。しかしウッドはそう指摘しながらも、本作が兵器考証や歴史考証の精巧さでもって、この映画が多くの観客をあざむいていることを認めているのである。 ともあれ、こうした『フルメタル〜』の持つ異質な外観が、ベトナム戦争映画という固有のジャンルに留まらず、ひいては争いという行為の真核へと迫る「戦争映画」としての性質を高めているのもうなづける。手の込んだキューブリックの偽造空間術は、イビツながらも相応の効果を生んでいるといえるだろう。 ■ロンドンにニューヨーク市街を築いた『アイズ ワイド シャット』 『フルメタル・ジャケット』の次に製作された『アイズ ワイド シャット』(99)は、こうしたキューブリックの偽造空間主義に、いよいよ終止符が打たれるのでは? と思われた作品だ。 原作は1920年代のウィーンを舞台とする官能サスペンスだが、それを現代のニューヨークに変更した時点で、本作は現地ロケの可能性を臭わせていた。もともとニューヨーカーだったキューブリックだけに、場所に対する土地勘もある。なにより多忙な世界的スターであるトム・クルーズを、ロンドンに長期拘束するはずがないというのが、映画ジャーナリスト共通の見解だったのである。 しかし秘密主義だったキューブリック作品の常で『アイズ ワイド シャット』の全貌は公開まで伏せられた。そして公開された本作を観客は目の当たりにし、舞台のニューヨークは明らかに「ニューヨークでありながらもニューヨークではない」キューブリックの偽造空間演出の継続によって作られたことを知るのである。そしてアジアをロンドンに再現した『フルメタル〜』を凌ぐ「ニューヨークをロンドンで再現する」という、ねじれ曲がった撮影アプローチに誰もが驚愕したのだ。 さらに公開後『アイズ ワイド シャット』のそれは、もはや常規を逸した規模のものだったことが明らかになる。 アメリカ映画撮影協会の機関誌「アメリカン・シネマトグラファー」1999年10月号で、ロンドン郊外にあるパインウッドスタジオの敷地内に建設された、ニューヨーク市街の巨大セットのスチールが掲載された。さらには2008年11月には、500ページ・重量5キロに及ぶ豪華本「スタンリー・キューブリック アーカイブズ」の中で、トム・クルーズがスクリーンの前に立ち、そのスクリーンにニューヨークの実景を映写して撮影する[スクリーン・プロセス]のメイキングスチールが掲載されている。どれもニューヨークでロケ撮影をすれば容易なショットを、まるで『2001年宇宙の旅』(68)もかくやのような特撮ステージと視覚効果によって得ていたことが明らかになったのだ。 その大掛かりな撮影のために、同作にかかった製作費は6500万ドル。トム・クルーズの高額の出演料を考慮しても、あるいはギネスブックに認定されるほどの長期撮影期間を差し引いても、キューブリック映画史上最高額となるこの数字が、偽造空間に執着することの異常さを物語っている。 ■キューブリック、偽造空間主義の真意 それにしてもキューブリックは、なぜそこまでしてイギリスでの撮影に固執するのだろう? 大の飛行機嫌いで遠距離の移動を嫌うとも、あるいはアクティブな性格でないために、日帰りできる範囲を撮影現場にするといった、数限りない伝説が氏を勝手に語り、イギリスを出ないキューブリック映画を一方的に裏付けている。 『アイズ ワイド シャット』は公開を待たずにキューブリックが亡くなったため、その偽造空間の真意を知ることはままならない。しかし『フルメタル・ジャケット』に関しては、本人のホットな証言が身近に残されている。月刊誌「イメージフォーラム」(ダゲレオ出版刊)1988年6月号の特集「戦争映画の最前線」における、キューブリックのインタビューだ。 同記事は『フルメタル』日本公開のパブリシティに連動したものだが、聞き手は日本人(河原畑寧氏)によるもので、それだけでも相当なレアケースといえる。 この文章中、キューブリックは「現地ロケをするつもりはなかったのか?」という問いに対し、 「東南アジアへ行くことも考えたが、英国で格好の場所が見つかった。石炭からガスを抽出する工場の廃墟だ。建物は三十年代のドイツの建築家の設計で、とても広くて、記録写真で見るユエやダナンの風景ともよく似ていた。(中略)しかも、爆発しようが火をつけようがかまわないという。そんなことが出来る場所が、世界中探しても他にあるかね? (中略)たとえベトナムの現地に出かけたところで、建物を破壊したり燃やしたりは出来ない」 と、自身のイギリス拘束をむげに正当化するものではなく、極めて合理的な回答をしている。さらには劇中に登場するベトナム人は、英国にあるベトナム人居住区に人材を求めたことなど、無理してイギリスを出る理由がなかったことも付け加えている。詳細を追求してみれば、真実は意外にあっさりしたものだ。 同時にキューブリックはこのインタビュー中「日本に来ませんか?」という問いかけに対し、 「行きたいと思っている。ここから(ロンドン)だとロサンゼルスと同じくらいの時間で行けるはずだね」 と、ささいな会話のやりとりながら、飛行機アレルギーや出不精といった伝説を自らやんわりと否定している。 ハリウッドに干渉されないための映画作りを求め、イギリスに移り住んだキューブリック。そこで気心の知れたスタッフや、ウェルメイドな製作体制を得たことが、氏にとって創作の最大の武器になったのだ。 キューブリックの偽装空間は、こうした作家主義の表象に他ならない。そして、その作家主義を商業映画のフィールドで行使できるところに、この人物の偉大さがうかがえるのである。 生前、キューブリックが日本にくることはかなわなかった。しかし氏の遺した作品が、時間や場所を越境し、今もこうして議論が費やされ、さまざまな角度から検証されている。 三回にわたる集中連載、まだまだ語り足りないところがあるが、次に機会を残して幕を閉じたい。■ TM & © Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2014.09.22
【3ヶ月連続キューブリック特集その2】理想を果たせなかったキューブリックの“リターンマッチ”〜『ロリータ』『バリー・リンドン』
ひとつのジャンルにとどまらず、さまざまなジャンルの作品を手がける作家のことだ。クリスチャン・ベールが出演に際し、30キロ減量したことで話題となった映画『マシニスト』(04)のブラッド・アンダーソン監督にインタビューしたとき、次回作がサルサを扱ったダンスムービーになるという話題になった。『マシニスト』とはえらく方向性の違うジャンルを手がけるんですね、と筆者が問うと、アンダーソンは即座にこう答えたのだ。 「ジャンルホッパーだよ。キューブリックみたいなね」 巨匠と呼ばれる多くの映画監督は、良く言えば高尚な、悪く言えば通俗的なものに背を向け、世界観に飛躍のない、社会性や文学性の強い作品によって名声を得ている。 だがスタンリー・キューブリックはこうした歴史的名監督の一人でありながら、SF、コメディ、戦争、史劇、ホラー、エロスといったさまざまなテーマを手がけ、そのどれもが高い評価をもって支持されている。こうした作品展開は受け手の間口を広げ、多くの信奉者を生み出す。先に例を挙げたアンダーソン監督にとどまらず、スティーブン・スピルバーグやジェームズ・キャメロンといった、現代ハリウッドを代表する巨匠たちにその継承を見ることができるだろう。 そう、影響力という点において、キューブリックほどに大きな存在の映画監督はいないのである。 だが、こうしたジャンルにこだわらない映画製作は、監督自らに作品を自由に扱える権限がなくては果たせない。「映画はスタジオとプロデューサーのもの」というハリウッドの原則のなかで、キューブリックは自前のプロダクションをキャリアの早い段階から有し、MGMやワーナーといったメジャーの映画会社と良好関係を築きあげ、作品に関するイニシアチブ(主導権)を握ってきた。そして自分が創作に没頭できる題材に取り組むことで、その独自の映像、演出センスに磨きをかけてきたのである。 キューブリックがこうした取り組みにこだわったのには、強い理由がある。自身が32歳のときに監督した大作『スパルタカス』(60)でファイナルカット(最終編集)権を得られず、自分の意向を作品に反映できなかったからだ。主演のカーク・ダグラスから『突撃』(62)を認められてのオファーだったが、作品を更迭されたアンソニー・マン監督の代理であり、立場的には雇われの身にすぎなかったのである。 このときの苦い経験が、スタジオ側の作品干渉に対する、キューブリックの強いアレルギーとなった。そして『スパルタカス』を反骨のバネとし、スタジオが手がけないようなリスキーなテーマへと踏み込んでいくのだ。それが『ロリータ』なのである。 少女に隷属する中年男の堕落を描いた本作は、ロシア人作家ウラジミール・ナボコフによる文学史に残る名編だ。しかし性倒錯心理に迫った本著はたびたび発禁処分を受けるなど、当時としてはセンセーショナルな小説として世を賑わせた。 そんな『ロリータ』の映画化に、キューブリックは果敢にも着手したのである。おりしもヘイズ・コード(アメリカ映画の検閲制度)によって、公序良俗に反する表現は芽を摘まれる時代。スタジオが回避するようなテーマに敢えて挑むーー。とりもなおさずそれはキューブリックにとって、自分の意志のもとに作品を創造するという証でもあり、作り手としてスタジオやプロデューサーに魂は売らないという、意思表示の意味合いをもっていたのである。 しかしアメリカ映画倫理協会が警戒するような原作ゆえ、『ロリータ』を映画へと昇華させるために、キューブリックは苦心惨憺の手を尽くしている。原作者のナボコフ自身に脚本を執筆させ、合理的に原作を圧縮したり、あるいは検閲機関の干渉を避けるためにイギリスで撮影(キューブリックがイギリスに拠点を置くきっかけとなった)したりと、テーマの本質を損ねないようにした。また構成上、ラストの悲劇を冒頭に掲げてブックエンド形式にするなど、ロリータことドロレス(スー・リオン)に熱を上げるハンバート(ジェームズ・メイソン)の顛末を、どこか冷笑ぎみに捉えたアレンジがなされている。 そう、キューブリックの映画を観た人が、他の監督の作品と違いを覚えるのは、その超然とした語り口ではないだろうか。登場人物に観客が感情移入できる余幅のようなものが、およそ彼の作品からは感じられない。あるのは主人公の行く末を高台から眺望するような、視線の冷たさと客観性だ。『シャイニング』(80)で、オーバールックホテルにある迷路をさまようダニーとウェンディの姿を、俯瞰から覗き込むジャック・トランスのようである、演じるジャック・ニコルソンの様相が監督に似ているということもあって、かの名場面はじつに説得力を放つ。それは極端な例えにしても、『2001年宇宙の旅』(68)のボーマン船長や『時計じかけのオレンジ』(71)のアレックス、『シャイニング』のジャックに『フルメタル・ジャケット』(87)のパイルやジョーカーなど、暴力や性、恐怖や戦争と対峙した彼らの物語は、どれもそれを見つめるカメラのまなざしが一様に寒々しい。 『バリー・リンドン』は、こうした超然さが『ロリータ』以上に目立つ作品である。 レイモンド・バリー(ライアン・オニール)の栄光と没落の生涯を激動の時代に絡めながら、18世紀イギリス貴族の生態をディテール豊かに描いた本作は、キューブリックが自主的に手がけた初の歴史劇だ。 キューブリックはサッカレーの原作にある、バリー自身の一人称の語りを三人称に変更し、より対象から距離を置いた「観察記録」のように仕上げ、達観したような視点を強く印象づけている。キューブリックはこの変更について、一人称の読み手を煙に巻くようなあやふやさが、映画では成立しないことを理由としている。いわく、 「映画は小説と違い、いつも客観的な事実が目の前にある」 (ミシェル・シマン著「キューブリック」スタンリー・キューブリックとの対話『バリー・リンドン』より) 『バリー・リンドン』における「客観的な事実」とは、七年戦争に揺れた18世紀イギリスの時代模様であり、キューブリックはそれを徹底してリアルに再現することで、バリーの置かれた状況を明確にし、説明的な演出や芝居を極力少ないものにしている。スタジオ映画のようにまんべんなく照明のあたった世界ではなく、自然光をベースとした画作りを標榜。ロウソクの灯火を光源とするジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵画のような、そんな18世紀の景観をフォトリアルに描写するため、わずかな光で像を捉える50mm固定焦点の高感度円筒レンズを使い、時代の空気を見事なまでに創出している。この飽くなきビジュアルへの追求もまた、キューブリック作品の超然たる様式に拍車をかけているのだ。 この時代再現に対する執拗なまでのこだわりは『ナポレオン』という、果たせなかった企画が背後にある。 キューブリック幻の企画として名高い『ナポレオン』は、フランスの皇帝ナポレオン一世の生涯を俯瞰し、数々の伝説を視覚化しようとしたプロジェクトだ。そのため彼は500冊以上に及ぶ文献を読破し、世界じゅうの関連資料を収集。ナポレオン研究の権威に顧問を依頼し、徹底したリサーチを重ねた。キューブリックにとって、まさに執念の企画だったのだ。 しかし残念なことに、莫大な製作費が計上されたこの超大作に映画会社が尻込みし、クランクインには至らなかった。キューブリックは費やした労苦を闇に葬りさらないためにも『ナポレオン』の企画をスピンアウトさせ、同じ時代物の『バリー・リンドン』を撮りあげたのだ。 2009年、幻に終わった『ナポレオン』の資料や記録写真、脚本などを収録した“Stanley Kubrick's Napoleon: The Greatest Movie Never Made”が出版され、作品の全貌が明らかになった。それに目を通すと、衣装やセットなどのプロダクションデザイン、ロケーション案や演出プランなど多くの部分で『バリー・リンドン』への置換を実感することができる。なにより徹底した時代空間の再現によって、英雄ではなく人間としてのナポレオン像をあぶりだそうとした創作の姿勢は、そのまま『バリー・リンドン』における人間バリーの描き方に受け継がれているといっていい。 『ロリータ』そして『バリー・リンドン』ーー。どちらも時代設定や世界観、そして方向性がまったく異なる、広い振り幅の両極にある作品だ。ジャンルホッパーの巨匠の、まさに面目躍如だろう。 しかし、両作ともにキューブリックが果たし損ねた理想への「リターンマッチ」という側面を持ち、その関係は“執着”という濃い血を分けた、まるで兄弟のように近しい。■ TM & © Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2014.06.11
【ネタバレ】『ロング・グッドバイ』 グールドだって猫である ― 「不思議の国/鏡の国のマーロウ」
カンヌ国際映画祭のパルム・ドールに輝き、彼の一大出世作となった『M★A★S★H』(1970)を皮切りに、とりわけ1970年代、『BIRD★SHT』(1970)、『ギャンブラー』(1971)、『ボウイ&キーチ』(1974)、『ナッシュビル』(1975)、『ウエディング』(1978)、等々、既存のジャンル映画の枠組みやさまざまな神話を根底から問い直す、斬新で型破りな作品を次々に発表して破竹の快進撃を続け、現代映画界に変革と衝撃の波をもたらした、今は亡きアメリカの鬼才ロバート・アルトマン。 この『ロング・グッドバイ』(1973)も、そんな彼ならではの大胆不敵で奇抜な発想と遊び心に満ちた実験的手法が随所で観る者を挑発的に刺激する、異色の傑作群のうちの1本。初公開時にはこれに当惑する従来のミステリ・映画ファンたちの不平不満や非難の声が相次いで、商業的には失敗に終わったものの、今日では、世代や国籍を超えて、これを支持し、偏愛する者たちが後を絶たない、極上のカルト映画の逸品といえるだろう。 本作の原作にあたる『ロング・グッドバイ』といえば、1953年にアメリカで刊行され、ハードボイルド小説の古典として不動の人気を誇る、レイモンド・チャンドラーの代表作のひとつ。日本のミステリ・ファンの間では長らく、清水俊二の訳による『長いお別れ』の題で親しまれて、海外ミステリの名作を選出するさまざまなベストもののアンケート調査でも常に上位を占め、雑誌「ミステリマガジン」が2006年に行なった「オールタイム・ベスト」では堂々の第1位を獲得。その後、村上春樹による新訳の登場も話題を呼んだ。 そしてつい先頃、この原作をNHKが日本版に翻案して連続TVドラマ化し、巷でそれなりに好評を博したのも記憶に新しいところだ。レトロモダンな昭和の戦後日本を舞台に、シックでダンディな衣装に身を固めた浅野忠信扮する主人公が、おのれの信ずる友情のためにたえずタフで毅然とした態度で奔走する姿は、なかなか貫録十分で、チャンドラーが生み出した現代の孤高の騎士たるハードボイルド探偵、フィリップ・マーロウをこれまでスクリーン上で演じてきた歴代の名優たち―ハワード・ホークス監督の古典的名作『三つ数えろ』(1946)においてマーロウ像の決定版を打ち立てたハンフリー・ボガートや、人生の憂愁を色濃く滲ませた『さらば愛しき女よ』(1975)、『大いなる眠り』(1978)のいぶし銀の味わいのロバート・ミッチャムなど―に決してひけをとらない好演を披露していた。 しかし、アルトマン監督が本作で主役のマーロウに抜擢したのはなんと、先に『M★A★S★H』でも組んで独特の飄々とした持ち味と存在感を発揮した個性派俳優のエリオット・グールド。しかも映画を、原作をそのままなぞってレトロ趣味に満ちた時代ものとして作り上げるのとは反対に、物語の時代設定を映画製作当時の1970年代にアップ・トゥ・デイト化するという、意外で思い切ったアプローチを選択した。その一方でアルトマン監督は、本作でのマーロウを、“アメリカ版浦島太郎”というべきワシントン・アーヴィング原作の有名なお伽噺の主人公の名をもじって、リップ・ヴァン・ウィンクルならぬ“リップ・ヴァン・マーロウ”とひそかに名づけ、「20年の大いなる眠りから覚めて70年代初めのロスの景観の中をうろうろしているマーロウ、ただし心情的には過去のモラルを喚起しようとしている男」(「ロバート・アルトマン わが映画、わが人生」の中の本人の発言)という斬新なコンセプトのもと、まったく独自の解釈を施した。 ■「不思議の国マーロウ」 かくして、薄着や裸の恰好のまま、他人の目など一向に気にすることなく、向かいのバルコニーでヨガや自己瞑想に耽る、いかにも当世風の若い女性たちなどとは対照的に、グールド扮する本作のマーロウは、ただひとりダークスーツに白シャツ、ネクタイという古風な服装を頑なに貫き通し(ただし、いつもヨレヨレのだらしない恰好)、1948年型のリンカーン・コンチネンタルのクラシックカーを愛車として乗り回し、さらには健康志向の時代などどこ吹く風と言わんばかりに、ひっきりなしに煙草を吸い続ける。そして、他人や社会のことよりあくまで自己中心的な個人主義が幅を利かせる、“ミー・ディケイド”とも呼ばれた1970年代の時代風潮に戸惑いを覚えつつも、それをマーロウは、「It’s OK with me.[=ま、俺はいいけどね]」という、彼一流の韜晦とぼやきの入り混じった独り言をぶつぶつつぶやきながら、どうにか受け流していく。それでもなお友情と忠節を重んじる昔気質の彼は、妻殺しの容疑のかかった友人テリー・レノックスの身の潔白をどこまでも固く信じて、どこか奇妙でシュールな異世界の中を懸命に駆けずり回るのだ。過去から現代にタイムスリップし、不思議の国アメリカをさまよう、時代遅れで場違いな“リップ・ヴァン・マーロウ”…。 そう、本作もまた、あの『ナッシュビル』や『ウェディング』などと同様、さまざまな奇人・変人たちがお呼びでないのにあちこち出没してはとんだ場違いな珍騒動を繰り広げる、アルトマン独特の皮肉と諷刺に満ちた人間悲喜劇のまぎれもない一変種といえるだろう(その一例として、映画監督のマーク・ライデル演じるチンピラ一味のボスが、まるでお笑い芸人さながら、マーロウや手下の連中を交えて突拍子もない掛け合い漫才を繰り広げる爆笑場面があり、その一員に扮した当時はまだ無名の若きアーノルド・シュワルツェネッガーが、ボディビルで鍛えた自慢の肉体美をしれっとした表情で誇示するのも妙におかしい)。 ■「鏡の国のマーロウ」 いや、そればかりではない。アルトマン監督は、『ギャンブラー』以来3作たて続けにコンビを組むヴィルモス・ジグモンドという撮影の名手を得て、たえずキャメラがゆるやかなズームやパンを伴いながら動き回り、さらには鏡や窓ガラスの反映が幾重にも屈折して乱反射を起こす重層的な迷宮世界を構築し、その中へマーロウを閉じ込めようとするのだ。 少女のアリスを不思議な国へといざなう白兎に代わって、続編『鏡の国のアリス』でアリスを鏡の国へと導くのは子猫だが、本作の冒頭、自室で大いなる眠りに就いていたマーロウを深夜に叩き起こし、現代の異世界へと彼を連れ出す役割を果たすのも、やはり猫。腹を空かせた飼い猫にエサを与えようとして、猫お気に入りの銘柄のキャットフードが切れていたことに気づいたマーロウは、スーパーまで買い出しに行くが、あいにく店にも欲しい品は置いておらず、やむなく購入した別の銘柄のキャットフードをいつもの銘柄の空き缶に入れ替えてから皿によそって猫に差し出す。しかし彼の涙ぐましい偽装工作も空しく、猫はそれにそっぽを向いて、そのままいずこともなく去って行ってしまうのだ。それにしても、チャンドラーの原作にはない本作独自の創作で(ただし、チャンドラー本人も猫好きとして知られていた)、一見物語の本筋には関係ないようでいて、実はさまざまな伏線が張り廻らされたこのオープニング場面は、何度見てもやはりケッサクで素晴らしい。 そしてそれ以後、その猫は飼い主たるマーロウのもとへ戻ることはなく(その代わり、やがてマーロウは行く先々で犬と出くわしては、彼を敵視する犬から威嚇され続けることになる)、猫と入れ違うようにして彼の元へ姿を見せた親友のレノックスも、マーロウを自分の都合のいいように利用するだけ利用すると、思いも寄らぬトラブルだけを置土産に残して彼の前から去って行く。 その後、一体どういう事情かもさっぱり分からないまま、マーロウは刑事たちに連行され、警察署の取り調べ室で尋問されることになるが、ここで先に軽く紹介した、鏡や窓ガラスを巧みに利用したアルトマン監督ならではの特徴的な演出が凝縮した形で示されるので、少し詳しく見てみることにしよう。この秀逸な場面では、画面の中央に配置された透過性のガラスを介して(ただし、アルトマンはそこに無数のひっかき傷や、黒インクで汚れたマーロウの手型をつけさせて、ガラスの存在を強調してみせている)、奥にマーロウと彼に質問を浴びせる刑事、そしてその手前には、別室からその様子を見守る別の刑事たちの姿が、背中のシルエットとガラス窓に映る顔の反射像として示されるという、印象的な空間設定・人物配置が施されている。実は2つの部屋を繋ぐ/隔てる中央のガラスはマジックミラーで、奥の部屋で尋問されるマーロウの姿を、相手に見られることなく一方通行的に見守る手前の部屋の上官たち、というフーコー的な視線の権力装置が、ここには鮮やかに示されている。マーロウはそのマジックミラーの仕掛けにいち早く気づき、自分からは姿の見えない別室の窃視者たちの前で、滑稽な物真似の仕草をして虚勢を張ってみせるのだが、レノックスをめぐる一連の事件の流れをはじめからしっかり把握していたのは、やはり警察の連中の方で、マーロウはそれをよく見通せないまま、哀れなピエロよろしく右往左往していたにすぎなかったことが、その後明らかとなるのだ。 マーロウの視界の無効性を映画の観客により深く実感させるのが、スターリング・ヘイドン扮するアル中の老作家ウェイドが、海辺で入水自殺を遂げる場面。ここでもまたアルトマンは、技巧を凝らした卓抜な画面設計と演出の冴えを存分に発揮している。この場面でははじめ、マーロウとウェイド夫人が海辺にあるウェイド邸内の窓際で立ち話をする様子が映し出され、次第にキャメラの焦点が2人を逸れて画面奥の遠景へゆるやかにズームアップしていくと、ガラス窓越しに夜の浜辺を歩くウェイドの後ろ姿が浮かび上がり、やがて波の中へ身を躍らせる彼の姿をキャメラは捉えるのだが、マーロウは話に夢中になって一向に戸外のその様子が目に入らない。そして先にそれに気づいたウェイド夫人に一歩遅れて、マーロウも慌てて屋敷の外へ飛び出し、ウェイドの姿を波間で探すものの、時すでに遅く、彼の命を救い出すことはもはやできないのだ。 ■ちょっと待って プレイバック、プレイバック! そしてこれを見届けた後、観客はこの場面に先立って、ウェイド邸を訪れたマーロウが、いったんウェイド夫妻とあいさつを交わした後、深刻な夫婦喧嘩を始めた2人を家に残して、ひとり浜辺をぶらつくという、よく似たような場面があったことを即座に思い返すに違いない。こちらは先述の夜の場面と違って、陽光きらめく白昼の光景で、浜辺にいるのは、ウェイドではなくマーロウ。しかもマーロウは、波打ち際で波と戯れはしても、ウェイドのように海中に身を躍らせて自殺するわけではない。夜と昼、ウェイドとマーロウ、死と生、といった具合に、この2つの場面は、まるで鏡の像のようにお互いを反転させた形で対峙している。さらにそれを増幅させるかのように、白昼、浜辺をぶらつくマーロウの姿は、たえずウェイド邸のガラス窓に映る反射像として映し出され、その遠くてちっぽけなマーロウの反射像の上に、アルトマン監督は、今度はいわば合わせ鏡のようにして、家の中で妻と口論するウェイドのガラス窓越しの透視像を重ね合わせてみせるのだ。 ここで改めて思い起こすと、アーネスト・ヘミングウェイを戯画化したようなマッチョで大酒飲みの老作家ウェイドも、本作の中では既に時代遅れのお荷物的存在であり、なぜかマーロウとだけはウマが合う貴重な同志として描き出されていた。これらを考え合わせると、ウェイドとは、マーロウのもうひとりの自己=鏡像にほかならず、いわばその身代わりとなって自殺を遂げたウェイドの死をくぐり抜けて、マーロウは新しく生まれ変わることになるのだ。まるで、9つの命を持つとされる猫が、いくたびも死んでは生まれ変わるように。 主人公の転生という本作の隠れた主題は、物語の終盤でも再び繰り返される。夜道を車で走るウェイド夫人の姿を偶然見かけ、彼女を呼び止めようと必死で車のあとを走って追いかけたマーロウは、その最中に別の車に轢かれ、危うく命を落としかける。そして、病院のベッドで意識を取り戻した彼は、同じ病室にいる、全身を白い包帯でぐるぐる巻きにされた、見た目はミイラそっくりの不可思議な重傷患者と対面することになるのだ。勝手に病室を抜け出そうとして、看護婦から呼び止められたマーロウは、「マーロウは僕じゃなくて彼ですよ」とミイラの患者を指し示し、自らの古びた肉体と生命を彼に譲り渡す形でまたもや生まれ変わったマーロウは、ミイラの患者から交換で渡された生命の象徴たるハーモニカを手に活力を取り戻し、親友だとばかり思い込んでいたレノックスといよいよ最終的な決着をつけるべく、死んだと見せかけて実は隠れて生きていた彼のアジトへと乗り込んでいく。 ■さらば愛しきひとよ… そして、公開当時、原作を大きく変更して踏みにじったとして何かと論議の的となり、チャンドラーの信奉者たちを激怒させた、あの悪名高いラストのクライマックス場面が訪れる。ここはやはり、ぜひ見てのお楽しみということで詳細はいちおう伏せておくことにするが、実はこのラストの改変は、アルトマンが本作の監督として起用される以前に、既に脚本家のリー・ブラケットがシナリオの中に書き込んであったものであり、その大胆な案を知ってアルトマン監督もこの企画に大いに乗り気になったこと、そしてまた、このブラケットは名匠ホークス監督とのコンビで知られる女性脚本家であり、何よりも同監督が主演のボガートと組んで作り上げた、あのチャンドラー映画の決定版というべき『三つ数えろ』に共同脚本のひとりとして参加していたことは、ここで特記しておく必要があるだろう。 あるインタビューでの彼女の言い分によると、「マーロウは、親友として信頼していた相手に裏切られ、心のもっとも奥深くで傷ついているにも関わらず、原作の結末では、一向にさっぱり要領を得ない。我々ならどうするか、よし、堂々と問題に正面から立ち向かうことにしよう」となったのこと。さらには、「『三つ数えろ』を作った頃には、たとえそうしたいと望んでも、検閲があってそれは許されなかった。我々は、マーロウを負け犬(loser)とみなすチャンドラー自身の価値判断にどこまでも忠実に付き従って、彼を何もかも失った本物の負け犬として設定した」とも彼女は述べている。 かくして映画の中で、「俺が何をどうしようが、どうせ誰も構いやしないやしないさ」と開き直ってうそぶくレノックスに対し、「ああ、俺以外にはな」と切り返し、「You’re a born loser.[=お前は、生まれついての負け犬さ]」とせせら笑うレノックスに、「Yeah, I even lost my cat.[=ああ、俺は猫も失ってしまったしな]」とシニカルに言い放つマーロウの決め台詞が効いてくるのである。 さて、こうして映画『ロング・グッドバイ』を、幾つかの顕著なアルトマン的主題をざっと辿りながら見てきても分かるように、この作品は、アルトマン監督がチャンドラーの原作を単に適当にぶち壊して、勝手気ままに浮薄な現代の社会に物語の設定を移し替えただけというような、安易な諷刺やパロディ映画などでは決してない。それどころか、往年のハリウッド映画のスタイルを借用して、『三つ数えろ』のような古典的フィルム・ノワールを現代にそのまま再生産するのは、もはや不可能であり、失われた神話にすぎないことを充分に自覚したアルトマン監督が、過去と現在をたえず対比させて、その時代的距離を浮き彫りにしつつ、しかしそのどちらか一方にだけ加担して他方を断罪するのではなく、その両者のはざまで必死に自らの居場所を見つけようとしてあがくマーロウの姿を、彼独自の複眼的視線と実験的手法を駆使して描いた、まぎれもない野心的傑作の1本であると言えるだろう。 鏡や窓ガラスの反映を巧みに用いた空間設計と、卓抜なキャメラワークを緊密に連携させることで、さまざまな主題が幾重にも交錯して乱反射し、幾つもの鏡像・分身を生み出しながら、めくるめく重層的なアルトマンの映画世界が形作られるさまを、これまで見てきたが、これはなにも、映像だけの話に限らない。この『ロング・グッドバイ』では、音楽の使い方がまた何とも心憎いまでに粋でふるっていて、その後『JAWS/ジョーズ』(1975)や『スター・ウォーズ』(1977)でハリウッド随一の人気映画音楽家の座に上り詰める、あのジョン・ウィリムズの作曲した主題曲の印象的な同一のフレーズが、時には車のラジオから流れる男性ボーカルのバラード、時には深夜のスーパーにかかるミューザック、はたまたメキシコの楽団スタイルやゴスペル調、といった具合に、アレンジだけ変えながら、多彩なスタイルで次々と反復・変奏されていくさまには、思わず誰もがニヤリとさせられること間違いなしだろう。 その一方で、この主題曲の作詞を手がけた20世紀のアメリカを代表する名作詞・作曲家のひとり、ジョニー・マーサーが若き日にやはり作詞を担当した「ハリウッド万歳」というハリウッド讃歌の明るいナンバーが、この映画の冒頭と最後に本編を枠取る形で流されるが、そのなんともお気楽で能天気なメロディは、『ロング・グッドバイ』という作品の内容自体を効果的に彩る音楽というより、時と場所をわきまえずに不意に出現する場違いなアルトマンの作中人物たちにも似て、むしろその異質さと空虚さを際立たせるばかりで、ここでも、楽天的なハリウッド神話の夢が、もはや今日では成り立たずに終焉したことを、観客にはっきり告げ知らせる異化装置として機能している。 ことほどさように、アルトマンの映画は複雑で厄介で、とうてい一筋縄ではいかない不可思議な魅力と面白さに満ち溢れている。彼本人は残念ながら、もはやこの世に別れを告げてあの世へ旅立って行ってしまったが、見返すたびに新たな発見がある彼の多面的な映画世界に、我々はまだまだ、ロング・グッドバイをすることなどできはしない。■ LONG GOODBYE, THE © 1973 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. 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COLUMN/コラム2014.05.25
2014年6月のシネマ・ソムリエ
■6月1日『ロリータ』 ロリータ・コンプレックスの語源となったナボコフの小説を映画化。巨匠S・キューブリックが『スパルタカス』と『博士の異常な愛情?』の間に発表した異色恋愛劇だ。 中年の文学者が下宿先の未亡人の娘ロリータに心奪われ、人生を狂わされていく。物語は原作に忠実だが、ヒロインの年齢設定などが変更され、モノクロで撮影された。 規制が厳しかった時代の作品ゆえに性描写は一切なく、犯罪映画風の冒頭に続いて、人間のエゴをえぐる破滅的なドラマが展開。脇役P・セラーズの怪演も見逃せない。 ■6月8日『砂漠でサーモン・フィッシング』 中東イエメンの砂漠に川を造り、鮭釣りができるようにしたい。大富豪からそんな壮大なプロジェクトの実現を依頼された、英国人水産学者の奮闘を描くコメディである。 原作はポール・トーディの小説『イエメンで鮭釣りを』。イメージアップをもくろむ英国政府の思惑も絡む物語はシニカルなユーモア満載で、恋愛映画としても楽しめる。 堅物の学者に扮したE・マクレガーと、投資コンサルタント役のE・ブラントの機知に富んだ掛け合いが魅力的。夢や理想といったテーマを爽やかに謳い上げた珠玉作だ。 ■6月15日『スコット・ピルグリムVS.邪悪な元カレ軍団』 『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』の俊英E・ライトが放ったラブ・コメディ。理想の女の子と交際するため、彼女の元カレ7人と対決する青年の物語だ。 ポップカルチャーから多大な影響を受けた監督の漫画やロックへの偏愛が爆発。主人公が次々と出現する元カレとのバトルを突破していく展開は、まさにゲームのよう! 凝った視覚効果や編集テクを駆使し、ファミコンのチープな電子音まで導入。マニアックな小ネタとギャグも詰め込んだ映像世界は、これぞ究極のオタクワールドである。 ■6月22日『パーフェクト・センス』 人間の嗅覚や聴覚といった五感が順次失われていく奇病が世界中で蔓延。そのさなかに恋に落ちたシェフのマイケルと感染症学者スーザンの身体も異変に見舞われていく。 CGによるディザスター描写に依存せず、人類存亡の危機を描いた英国製の終末映画。五感の喪失という現象が一般市民の日常を混乱に陥れる過程をリアルに映し出す。 世界が静寂と暗闇に覆われていく悲劇的な物語が問いかけるのは、愛と希望というテーマ。他者を“感じる”ことの尊さを感動的に映像化したラブストーリーでもある。 『ロリータ』TM & © Warner Bros. Entertainment Inc. 『砂漠でサーモン・フィッシング』©2011 Yemen Distributions LTD. BBC and The British Film Institute All Rights Reserved. 『スコット・ピルグリムVS.邪悪な元カレ軍団』©2010 Universal Studios. All Rights Reserved. 『パーフェクト・センス』© Sigma Films Limited/Zentropa Entertainments5 ApS/Subotica Ltd/BBC 2010
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COLUMN/コラム2014.03.30
2014年4月のシネマ・ソムリエ
■4月5日『ダウンタウン物語』 登場するすべてのキャラクターを、平均12歳の子役たちが演じたミュージカル風のギャング・コメディ。名匠A・パーカーの軽妙な語り口が光る劇場デビュー作である。 禁酒法時代のニューヨークの雰囲気を本格的なセットで再現。才人、ポール・ウィリアムズ作曲による歌とダンス、パイ弾を放つマシンガンなどの小道具も楽しい! キャストで圧倒的な存在感を放ったのは撮影時13歳のJ・フォスター。にぎやかな抗争劇のさなか、主人公バグジー・マローンが出入りする酒場の歌姫を妖艶に演じた。 ■4月12日『バンテッドQ』 鬼才テリー・ギリアムのイマジネーションが炸裂するファンタジー。孤独な11歳の英国人少年が自宅の寝室に突如現れた6人の小人に導かれ、時空を超えた冒険に旅立つ。 ナポレオン、海坊主、悪魔らのキャラクターが次々と登場し、奇想天外な逸話が脈絡なく展開。その理屈を超越した馬力とスラップスティックなギャグに引き込まれる。 英国流のブラックな味わいの作風は、ハリウッド製ファンタジーとは異質の面白さ!アガメムノン王ともうひと役を演じるS・コネリーの出演シーンもお見逃しなく。 ■4月19日『サン★ロレンツォの夜』 ドイツ軍占領下のトスカーナ地方を舞台にした戦争ドラマ。イタリアのタヴィアーニ兄弟が幼少期の体験を基に撮った、カンヌ国際映画祭・審査員特別賞受賞作である。 物語の背景となるのは、1944年にサン・ミニアートの大聖堂で起こった虐殺事件の史実。ドイツ軍が街を爆破して撤退を図るなか、危険を感じた市民の脱出劇が展開する。 幼い純真な少女の視点をとり入れた映像世界には、素朴なユーモアや魅惑的な詩情が漂う。戦時下の痛切な悲劇を寓話へと結実させ、胸に染み入る感動を呼ぶ一作だ。 ■4月26日『バーティ』 鳥をこよなく愛し、空を飛ぶことに憧れる風変わりな青年バーディとその親友アル。共にベトナム戦争で心身に傷を負って帰還した若者たちの友情を描く感動作である。 1970?80年代に量産された“ベトナム後遺症”ものの1本だが、青春映画としてのみずみずしさは絶品。デビュー間もない主演俳優2人のナイーブな演技も好感度高し! 多彩なジャンルの傑作を放ったA・パーカー監督が鮮烈なイメージを創出。裸のバーディを“籠の中の鳥”に重ねた場面や、鳥の眼差しを表現した空撮シーンが印象深い。 『ダウンタウン物語』© National Film Trustee Co Ltd 1976 『バンデットQ』© Handmade Film Partnership 1981 『サン★ロレンツォの夜』©1983 RAIUNO/Ager Cinematografica Srl. Licensed by SACIS-Rome-Itary.All Right Reserves 『バーディ』© 1984 TriStar Pictures, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2013.10.30
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2013年11月】銀輪次郎
悪者のように描かれながらも、NASA(アメリカ航空宇宙局)協力の下で作られた本作。よくある宇宙ものSF作品かと思いながら物語に引き込まれていると、物語は終盤、いつのまにかにアクション映画と化します。SFとしてもサスペンスとしてもアクションとしても秀逸なこの作品。臭いものには蓋をしろ的なお話から、乗組員達の葛藤、そして彼らの生き残りを賭けた戦いへ・・・と脚本が素晴らしい。序盤の政府&NASA幹部の隠蔽工作のお話も、現実にありえそうなところにまとめているところが上手い。見る価値に値する作品でこれはオススメです。 ©ITV plc (Granada International)
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COLUMN/コラム2013.05.26
2013年6月のシネマ・ソムリエ
■6月1日『不良少女モニカ』 I・ベルイマン監督の初期作品の中で最も広く知られた青春映画。みずみずしさと冷徹さが共存するその演出は、のちの仏ヌーベルバーグの作家たちにも影響を与えた。内気な若者ハリーと奔放な少女モニカが恋に落ち、着の身着のままの旅に出る。やがて厳しい現実的問題に直面した2人の選択が、残酷なコントラストを成していく。 ベルイマンに見出されたH・アンデルセンが、野性味あふれるモニカを圧倒的な存在感で体現。北欧の夏の空気感をシャープに取り込んだモノクロ映像も、実に魅惑的だ。 ■6月8日『冬の光』 田舎町の牧師トマスは4年前に妻を亡くして気力を失い、愛人の女性教師との関係にも煩わしさを感じている。そんなある日、信者のひとりが自殺したとの知らせが届く。I・ベルイマンが『鏡の中にある如く』と『沈黙』の間に発表した“神の沈黙”3部作の第2作。信仰心が揺らいだ牧師の苦悩を、恐ろしいほど深く静かに見すえていく。窓辺の“光”を印象的に捉えたカメラは名手S・ニクヴィスト。I・チューリンらの名優が脇を固め、神の不在という主題の解釈を観る者に委ねる結末も重い余韻を残す。 ■6月15日『青春群像』 フェデリコ・フェリーニが生まれ故郷の港町リミニを舞台に撮り上げた自伝的な青春映画。イタリアン・ネオリアリスモ的なテイストが色濃く残る初期の秀作である。 結婚後も浮気性が治らない駄目男ファウストを中心に、あてどない日々を過ごす若者5人の姿を描出。いつの時代も変わらぬ青春期の高揚感と鬱屈が観る者の郷愁を誘う。カーニバルの狂騒、浜辺に漂う寂寥感など、フェリーニらしいバイタリティや詩情に満ちた場面が随所に見られる。物語&映像と見事に融合した音楽はニーノ・ロータ。 ■6月22日『ニューヨーカーの青い鳥』 ニューヨークを舞台にした摩訶不思議な恋愛喜劇。雑誌の恋人募集広告が縁でめぐり合った男女と、彼らのかかりつけのセラピストたちが珍妙な騒動を繰り広げていく。原作&共同脚本は、不条理な作風で名高い劇作家クリストファー・デュラング。登場人物は変人だらけで、会話もまったく噛み合わない。唖然とするような怪作である。唐突なオープニングから大団円のラストまで、まさにR・アルトマン監督の独壇場。巨匠の作品中ではマイナーな1本だが、予測不可能な驚きを生む演出力はさすが。 ■6月29日『ネイキッド・タンゴ』 『蜘蛛女のキス』『太陽を盗んだ男』などで知られる脚本家L・シュレイダーの監督作品。1920年代アルゼンチンのタンゴ・バーを舞台に、男女の壮絶な愛憎模様を描く。 裕福な人妻から酒場の娼婦へと堕ちていくヒロイン役のM・メイが艶やかな魅力を披露。タンゴしか愛せない殺し屋に扮した怪優V・ドノフリオとの共演が見ものだ。ギャング映画の様式に則った映像世界の中に、派手な原色の照明に彩られたタンゴ・シーンを挿入。“血”の赤に染まった破滅的な結末まで濃厚な仕上がりの一作である。 『不良少女モニカ』©1953 AB Svensk Filmindustri Stills Photographer: Louis Huch 『冬の光』©1963 AB Svensk Filmindustri 『青春群像』RIZZOLI 1953 『ニューヨーカーの青い鳥』©1996 Lakeshore International Corp. All Rights Reserved. 『ネイキッド・タンゴ』©TOHO-TOWA