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NEWS/ニュース2017.10.05
9月9日公開。クリストファー・ノーラン監督待望の新作『ダンケルク』監督来日記者会見レポート!!
▼登壇ゲスト 監督:クリストファー・ノーラン ファン代表:岩田剛典(EXILE/三代目J Soul Brothers) 日時:2017年8月24日(木) 場所:六本木アカデミーヒルズ タワーホール 司会:荘口彰久(以下司会) 通訳:今井美穂子 作品の巨大垂れ幕が印象的な記者会見会場。クリストファー・ノーラン監督を紹介するVTR上映後、監督本人が登壇。 司会:『ダークナイト』『インセプション』のクリストファー・ノーラン監督が初めて実話に挑んだ最新作『ダンケルク』。今見ていただいた映像やプロデューサーのエマ・トーマスさんが言っていたように、新たな究極の映像体験できる、まさにノーラン監督の最高傑作と言える作品です。いち早く全世界で公開されて、大ヒットを記録しておりますが、すでに多くのメディアでアカデミー賞を有力視されております。早速ご紹介しましょう。大きな拍手でお迎えください。『インセプション』以来、7年ぶりの来日を果たされました。クリストファー・ノーラン監督です。 クリストファー・ノーラン監督(以下監督):皆さん、今日は誠にありがとうございます。今回7年ぶりの来日となるわけですが、再び日本に来れてとても光栄に思います。訪れる場所としては世界の中でも一番好きな国のひとつです。日本の観客の皆さんにこうやって新作を届けることができ、ワクワクした気持ちでいっぱいです。 質問1:圧倒的な映像体験と臨場感がある作品と感じました。この作品は実話ということもあり、臨場感のある映像に込めた思いは? 監督:歴史的な史実に基づく映画を作るのは初めてですので、かなり徹底的にリサーチを重ねました。ダンケルクにいた方々の証言を聞き、入念に彼らの実体験を調べていきました。緊迫感溢れる映画、観客がまるで当事者であったかのような疑似体験できるような映画を作りたかった。作品を撮るにあたり、帰還兵たちの証言を集めている史学者のジョシュア・レヴィーンさんに歴史アドバイザーとして参加して頂きました。この映画を企画していく中で、まだご存命でダンケルクを体験された方々をジョシュアさんが紹介してくださり、彼らにインタビューすることができました。直接お話を聞くことができ、非常に心揺さぶられるものがありました。実際に彼らの実体験、体験談は反映されていて、脚本を書いていく上で取ったアプローチは、架空の人物に彼らの体験談を語ってもらう、そういう手法を取りました。 質問2:この作品は戦争映画ではつきものである残虐なシーンがあまり描かれていない印象です。今回そのような手法を取られた理由は? 監督:今回なぜその手法を取らなかったのか、つまり血を見せなかったのか。それはダンケルクの話は、他の戦争とそもそも性質が違うからです。これは戦闘の話ではなくて撤退作戦なわけです。この物語を語る手法として、サスペンススリラーを描くというアプローチを取りました。従来の戦争映画であれば、戦争がいかに恐ろしいか、目を背けたくなるホラーとして語る手法がありますが、ダンケルクはホラーではなく、サスペンスを語るという手法にしました。目をそむけたくなるどころか、目が釘付けになってしまう、そういうアプローチを取っています。この作品にある緊張感は他の戦争映画とはちょっと違うモノだと思います。グロテスクなもの、敵の姿さえも見せていません。これはサバイバルの話であり、何かジリジリと寄ってくる敵の存在感を感じさせる、そういう手法でサスペンスフルな映画にしています。そして何よりも、タイムリミットがあるという部分も非常にこの作品を緊迫感あるものにしています。 質問3:監督はスピルバーグやジョージ・ルーカスがお好きと伺っております。本作の製作にあたってまたは、同じフィルムメーカーとして彼らから影響を受けたことは? 監督:スピルバーグ監督やルーカス監督から影響は受けています。僕が7歳の時に見た『スターウォーズ』は、非常に決定的な出来事でした。映画を撮ることとなる私にとって非常に影響を受けました。またスピルバーグ監督は、自身が持っていた『プライベート・ライアン』の35ミリのプリントを貸してくださいました。それをスタッフ全員で観させて頂き、非常に参考になりました。今見ても名作ですし、この作品と競争するわけにはいかないと思いました。スピルバーグ監督が『プライベート・ライアン』で成し遂げた緊張感というのは、私たちが『ダンケルク』で狙っている緊張感とは違うこともわかりました。またスピルバーグ監督は水上で撮影する時はどうしたらいいのかという、貴重なアドバイスもたくさん下さいました。ジョージ・ルーカス監督やスピルバーグ監督に加え、ヒッチコック監督、デビッド・リーン監督の影響も受けています。監督として重要だと思うのは、彼らがどういったことをどのようにして成し遂げたのか、これを学ぶということです。これらを参考にして自分の映画作りをしていくということが大事だと思っています。 質問4:世界中で対立が深まっている中、あえて逃げるという題材を選んだ監督の思いは? 監督:映画の作り手として、世の中で起きていることに影響を受けずにはいられないので、少なからず映画の中に反映されているかもしれませんが、故意にそうしているのではありません。世の中で起きていることを描くためにモチーフ使って描き、あるいは説教するというつもりは全くありません。今日の世界は、個人の業績などをもてはやす傾向にありますが、そうではなくみんなが協力し合ってできるものの偉大さ。『ダンケルク』は英国人であれば昔から聞いている物語であり、みんなで力を合わせればどんな逆境でも超えることができるということを思い出させてくれる話なんです。この話はイギリスのみならずどんな文化圏であっても、どんな地域の方々でも共感してもらえると思います。~ノーラン監督のファン代表、EXILE/三代目J Soul Brothers 岩田剛典さんが登壇~ 司会:目の前にノーラン監督がいらっしゃいます。今の気持ちどうですか。 岩田さん:感激です。本物のノーランだと思って。すごく光栄です。この作品は本当に今までのノーラン作品とテイストもどれも違いますし、実話をもとに作られた作品ということで、いい意味でノーランっぽくない作品なのかなと思って拝見しました。作品が始まってすぐ5秒くらいで一気に戦場に連れていかれる。本当に自分があたかも戦場にいるかのような、VR体験じゃないですが、そういう疑似体験をさせてもらえる、映画ならではの表現というか、そういうところも細部までこだわってらっしゃって。エンターテインメント作品でもあり、本当にドキドキハラハラさせられる映画っていう意味ではテーマ性というのは抜きにしても楽しめるし、登場人物ひとりひとりにストーリーがあるので共感できる作品と思いました。監督:どんな年齢の観客でもご堪能いただけるような映画になっていると思いますが、特に若い世代に訴えかけるような映画になればと思います。キャスティングをする上でも、ハリウッドにありがちな、例えば40歳の俳優に若い兵士役をやってもらうとか、そういうことはやりたくなかった。実際、戦場で戦っていたのは18歳、19歳、20歳そこそこの兵士でしたから、色んな若者を見てきました。例えばドラマスクール、演劇学校に行ってスカウトしたり、まだ駆け出しの若い俳優さんを見てみたりと。キャスティングするにあたって、映画初出演という方々にも出てもらっています。これは非常に大事なポイントでした。戦場の現実というものを見せていかなければならないと思ったからです。自分の年齢の人たちがこういう現状を突き付けられていた現実を共感していただければと思います。 司会:岩田さんはインタビューの中で、ノーラン監督が「頭の中をのぞいてみたい人ナンバー1」とおっしゃっていました。 岩田さん:監督の作る作品は、完成図を想定してどう作り上げていくのかというところを、結果がわかった上で逆算して作っているようなイメージをもっています。その映像を撮るにあたって色んなインスピレーションや表現したいものが明確になっていないと、色んなスタッフ、や様々な人の協力がないと形にすることが難しいと思います。それをハリウッドで毎回、作りたいものを作っているという監督は本当に稀有な存在と感じています。この人の頭の中どうなっているだろうと。才能がうらやましいです。 監督:優しいお言葉ありがとうございます(笑)。監督業の面白いところは、何かひとつのことに秀でてなくても構わない(笑)。やるべきことは自分の興味を持った対象、思ったことだとか、やり遂げたいことをやるのに、才能ある人々を集めればいいわけです。彼らの意見やと視点を束ねる、これが監督業の仕事だと思います。つまり、色んな意見に一貫性を持たせるということ。カメラに例えるならばレンズの部分かもしれません。色んな視点の焦点を定めるというとことだと思います。それがうまくいけば、洗練された映画ができると思います。映画のビジョンをうまく明確にし、様々なパズルを一緒にくっつけ合わせるという作業です。他の職業に例えるならば、例えば建築家。図面をスケッチするのは建築家であっても、実際に現場で働くのは色んなスタッフであるわけです。あるいは才能あるミュージシャンを束ねていく、楽団の指揮者にも似ているかもしれません。 司会:岩田さん、せっかくですので監督に質問はありますか? 岩田さん:シンプルに、現場感を大切にされる監督だと伺っていて、いつもモニターというよりは、カメラのすぐわきでディレクションされているそうですが、作品作りで最も重点を置いていることというか、大切にしているポイントを伺いたいと思います。 監督:映画作りは色んな段階を経て完成します。撮影当初は、みんなエネルギッシュで意気揚々と取り組めて、現場は楽しいです。撮影がしばらく続くとそのうち疲弊して、皆疲れ切った状態になりますが、それが終了すると今度は編集です。撮った映像をどういう風につなぎ合わせて、どういう風にベストな映画を作るかというのを四苦八苦しながら、色々考えながらやっていくわけですが、楽しい作業であります。中でも一番好きなのは音のミックシング。これは数か月がかりですが、その頃には編集も終わっていて、絵としては完成しています。サウンドミックシングは、何千という音や効果音と音楽をつなげ合わせて、より良い作品にするにはどうしたらいいのかを考えます。そしてお客様にとってベストな体験となるように工夫していく、非常に充実感のある作業です。 岩田さん:世界各国を飛び回られて映画のことばかり聞かれていると思いますので、日本の訪れた場所で好きな場所、好きな食べ物は何ですか? 監督:前回は家族と一緒に来日しました。新幹線で京都へ行って、旅館に泊まりました。子供たちも連れていけたので、非常にいい思い出になりました。子供たちもよく覚えてくれていて。木刀を買って障子に穴をあけてしまった(笑)。私たちも非常に京都旅行はいい思い出になっています。もう一回来たいと思っています。 司会:実はここでノーラン監督から岩田さんにサプライズプレゼントが 監督:『ダンケルク』の英語版の脚本です。中の方にサインを入れています。岩田さん、今日は本当にご一緒させてもらって本当にありがとうございました。優しい言葉もたくさんいただけて、とても楽しいひと時を過ごせました。本当にありがとうございます。 岩田さん:むちゃくちゃ嬉しいです。童心に帰りました。ありがとうございます。 フォトセッション後、会見終了となりました。■ 『ダンケルク』 原題:Dunkirk上映時間:106分監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン出演:トム・ハーディ、キリアン・マーフィー、ケネス・ブラナー、 マーク・ライランス、ハリー・スタイルズ、フィン・ホワイトヘッドほか2017年/アメリカ/2D・MX4D・IMAX©2017 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED配給:ワーナー・ブラザーズ映画2017年9月9日(土)より全国公開
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COLUMN/コラム2017.09.15
【未DVD化】バーブラ・ストライサンド執念の監督デビュー作『愛のイエントル』、完成までの長~い道のり~09月07日(木) ほか
■バーブラは高らかにビグローの名前を読み上げた! 思い出して欲しい。第82回アカデミー賞で栄えある監督賞のプレゼンターとしてステージに登壇したバーブラ・ストライサンドが、封筒を開いた途端、思わず口走った「the time has come!(遂にこの時が来たわ)」という台詞を。そうして、バーブラは誇らしげにキャサリン・ビグローの名前を読み上げたのだ。対象作は言うまでもなく『ハート・ロッカー』。オスカー史上初めて女性が監督賞を手にした瞬間だった。 DVD未発売「愛のイエントル」の苦難の道程 当夜、バーブラが手渡し役を務めたのには訳があった。と言うか、まるで予め受賞者を知っていたかのようなキャスティングだった。何しろ、バーブラにはビグローよりもずっと前に監督賞受賞の可能性があったにも関わらず、候補にすら挙がらないという苦渋を、1度ならず2度も味わっていたからだ。『サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方』(91)と、彼女の監督デビュー作である『愛のイエントル』(83)だ。今月は、日本語字幕付きVHSは国内で流通したものの、DVDは未発売の女傑、バーブラ・ストライサンドによる初監督作について、その舞台裏を簡単に振り返ってみたい。 ■思い立ったのは『ファニー・ガール』の直後 バーブラがポーランド生まれのアメリカ人ノーベル賞作家、アイザック・バシェヴィス・シンガーの短編"イェシバ・ボーイ"を読み、映画化を思い立ったのは、自ら主演したブロードウェー・ミュージカルの映画化で、巨匠、ウィリアム・ワイラーが監督した『ファニー・ガール』(68)でアカデミー主演女優賞を獲得した直後、1969年のことだった。映画化を思い立った、というのは温い表現で、資料に因ると、次は絶対これで行く!と強く確信したというのが正しいようだ。すでにグラミー賞を受賞する等、その歌手としての類い稀な才能を認められてはいたものの、『ファニー・ガール』でハリウッドデビューしたばかりの映画女優としてはまだ新人の彼女が、である。なぜか? 1904年のポーランド、ヤネブの町。学問は男の専門分野で、女はそれ以外の雑事を受け持つものと教えられていた時代に、ヒロインのイエントルは、あっけなく旅立った父が秘かに教えてくれたタルムード(ユダヤ教の聖典)に触発され、何と大胆にも、男に変装してイェシバ(ユダヤ教神学校)に入学してしまう。そうして、イエントルは性別を偽ることで、人々の偏見を巧みにかわしながらも、それ故に激しい自己矛盾に苦しむことになる。これが『愛のイエントル』のプロットでありテーマだ。 ■動機は亡き父親への熱い思いか? バーブラ自身は1942年にニューヨーク、ブルックリンでロシア系ユダヤ人の母親、ダイアナと、イエントルの父と同じくポーランド系ユダヤ人の父親、エマニュエルとの間に生まれている。しかし、高校で文法学の教師をしていたという父親は、彼女が生後15ヶ月の時に他界。その後、ダイアナは中古車セールスを生業にしていたルイス・カインドと再婚するが、継父とバーブラの折り合いは悪く、彼女の中では幼い頃に接し、薄れゆく記憶の中で生き続ける実父の面影の中に、自分の体の中に流れるユダヤ人としてのルーツを見出していく。 ■バーブラに立ちはだかった年齢の壁 自らのユダヤ人としてのアイデンティティを映像で手繰り寄せ、実感し、広く告知したい!!そう願った時から、バーブラの苦難が始まる。彼女が原作の映画化権を取得するのは前記の通り、1969年のこと。製作はバーブラがポール・ニューマンやスティーヴ・マックイーン等と共に成立したスタープロの草分け"ファースト・アーティスト"が受け持ち、原作者のシンガーが脚本を、チェコのイヴァン・パッセルが監督を各々担当することで一旦話は進むが、シンガーは当時40歳のバーブラが10代のイエントルを演じることに難色を示し、プロジェクトから退出。そこで、バーブラは当時の恋人だったヘアスタイリスト上がりのイケイケプロデューサー、ジョン・ピータースに脚本を渡すが、彼もパッセルと同じ理由で乗り気になれなかったという。厳しくもちょっと笑える話ではないか!? ■ピータースを驚愕させた荒技とは? 時は流れて1976年。ピータースと『スター誕生』を撮り終えた時、バーブラはさすがに自分がイエントルを演じるのは無理があると判断し、監督に回ることを決意する。当然、会社側は彼女の監督としての才能には懐疑的だった。2年後、遅々として進まない状況を見かねたバーブラの友人、作詩家のアラン&マーヴィン・バーグマン夫妻(『愛のイエントル』も担当。作曲はミシェル・ルグラン)は、作品をミュージカル映画にすることを提言。それならバーブラのネームバリューで企画が実現すると踏んだからだ。一方、まだイエントル役に固執していたバーブラは男装で自宅に乱入し、ソファで寛いでいたピータースを驚愕させると共に、男装なら年齢が目立たないという利点に気づかせるという荒技に出て、遂にピータースを屈服させる。 その後、一旦製作を請け負ったオライオンが『天国の門』(80/マイケル・チミノ監督によるデザスタームービーの代名詞)が原因ですべての巨額プロジェクトの中止を発表。最終的にユナイテッド・アーティストとMGMの製作で『愛のイエントル』にGOサインが出たのは、バーブラが映画化を思い立ってから13年後の1982年4月のこと。その間、20回も脚本が書き直されていた。 結果的に、バーブラは製作、監督、脚本、主演、主題歌の1人5役を兼任。イエントルが恋する学友のアヴィドールを演じたマンディ・パティンキンには、ブロードウェーのトップスターでありながら、劇中で一曲も歌わせず、歌唱シーンを独り占めしたのは、苦節を耐えて夢を実現させた彼女流の"落とし前"だったのか?恐るべき女優の執念をそこに見た気がする。 ■わがままバーブラはマッチメイカーだった!! ところで、ユダヤの世界にはマッチメイカー、日本で言う縁結び役が存在する。同じユダヤ人コミュニティが舞台の『屋根の上のバイオリン弾き』(71)でもマッチメイカーは歌に登場するほどお馴染みだ。『愛のイエントル』の編集段階でバーブラに協力したと言われているスティーヴン・スピルバーグは、それが縁で一時は関係を絶っていたエイミー・アーヴィング(アヴィドールのフィアンセ、ハダスを演じてバーブラを差し置いてアカデミー助演女優賞候補に)とよりを戻し、1985年に結婚。その後、アーヴィングと離婚したスピルバーグは『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(84)に出演したケイト・キャプショーと再婚し、今も仲睦まじい。実は、キャプショーをスピルバーグに紹介し、『魔宮の伝説』へのきっかけを作ったのもバーブラだった。場所は『愛のイエントル』の編集室。嫌味なくらい自分の希望を押し通したバーブラが、舞台裏では縁結び役を演じていたという皮肉。世紀のディーバには、そんな風に人を幸せにする才能があるのかも知れない。例え、是が非でも欲しかったアカデミー監督賞はその手をすり抜けたとしても。■ YENTL © 1983 LADBROKE ENTERTAINMENTS LIMITED. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2017.07.20
『20センチュリー・ウーマン』も公開中のマイク・ミルズ監督。監督の長編2作目もやはり彼が良く知る人物と彼自身の物語。『人生はビギナーズ』。
マイク・ミルズの長編2作目となる『人生はビギナーズ』は、彼の半生をもとにしたユニークな物語である。若い人たちにはなじみがないかもしれないけれど、 もともとマイクは90年代にビースティ・ボーイズやソニック・ユースのアートワークを手がけ、ユースカルチャーの重鎮として活躍したグラフィックデザイナー。主人公のオリヴァー(ユアン・マクレガー)の職業もグラフィックデザイナーであり、作中のオリヴァーによるドローイングはマイク自身が手がけている。75歳の父親からゲイだとカミングアウトされたのは、老いた母親をがんで亡くした半年後のことだ。 オリヴァーは父親の告白を受けて、当然だが動揺する。なのに当の父親はといえば、生まれ変わったようにうきうきとして楽しそうだ。さらにオリヴァーの心をゆさぶったのは、母親は結婚する前からその事実を知っていたらしいということだった。ユダヤ人であった母親は、すねに傷持つもの同士と思ったかどうだか、高校の同級生であったゲイの男と結婚した。いまではずいぶん時代も前進しているが(現アメリカ政権になってそうとも言えない状況になったけれど)、マイクの両親が結婚した1950年代には、まだユダヤ人に対しても同性愛者に対しても、あきらかな差別が存在していた。同性愛は法律で禁止さえされていたのだ。合意の上で結婚したわけだけれど、マイクの母親は、自分のことをまるで気にかけない夫が本当は不満だったのにちがいない。マイクいわく、父親はめったに家におらず、家族とほとんどかかわりを持たなかった。映画の中で母親は「生まれ変わったら、もっと心のあるユダヤ人と結婚する。お父さんには心がないから」と、幼いオリヴァーにこぼしている。(余談だけれどこの母親、じつは髪型やエキセントリックな仕草が、マイクの妻である人気アーティストのミランダ・ジュライにそっくりなのである。えーと、それではオリヴァーの恋人になるアナ(メラニー・ロラン)がミランダとは似ても似つかない理由は……? 答えは簡単、マイクがこの脚本を書いていた2004年当時に、まだ二人は出会っていなかったからだ。彼らの出会いは、マイクが『サムサッカー』、ミランダが『君とボクの虹色の世界』というそれぞれのデビュー作をお披露目した、翌年のサンダンス映画祭まで待たなくてはならない。) ところで、めったに家にいなかったというマイクの父親は、いったいどこで何をしていたんだろう? そこでその人物、ポール・ミルズ氏について調べていくと、だんだんとおもしろいことがわかってきた。彼はサンタバーバラ美術館の館長を’70年から’82年までの12年間つとめており(これはマイクの4歳から16歳までの時期にあたる)、アメリカ美術のコレクターとして、現在も美術館を代表する主要作品の収集に奔走していたようだ。スペインやメキシコへの出張も多く、いそがしい人であったということはまちがいなさそうだ。サンタバーバラには虹をモチーフとした有名な巨大パブリックアートがあるのだが、これもマイク父の尽力によってできたものである。そしてもうひとつ。彼は、フラッグ(旗)に異常ともとれる愛情を注いでいたことでも知られている。いまでもサンタバーバラを訪れると、防波堤にならぶ色とりどりの旗を目にすることができるだろう。氏の旗に対する情熱は、映画では花火に置き換えられて表現されている。 さあて、映画の話にもどらなくちゃ。グラフィックデザイナーであったマイクがペンをカメラに持ち替えて、自分には無縁だと思っていた長編映画に取りかかることになったのは、母親の死のショックがきっかけだったという。父親もまた、妻の死がスイッチとなり、残りの短い人生をほんとうの自分らしく生きる勇気を得たのかもしれない。だれかが死んだりなんかしなくても、もっと自分の思うように生きていいはずなのに、わたしたちはふだんそのことを忘れてしまっている。若い男を求め、素直な恋をし、初々しいよろこびを見せる魅力的なハル(クリストファー・プラマー/アカデミー賞助演男優賞受賞)よ! その姿を見ていると、複雑な思いを抱えながらもオリヴァーが父親を応援したくなった気持ちはよくわかる。 近くにいるからといって、ぼくたちはその人のことをよく知っているわけではないんだ。というのは、昔なにかのインタビューでマイクが話していたことだ。本作で晩年の父親をあたたかく見つめた彼は、最新作『20センチュリー・ウーマン』で、今度は、自分をひとりで育ててくれたハンフリー・ボガートのような母親を描くことに挑戦している。マイクにとって映画とは、自分や身近な人をとことん掘り下げて理解するための手段なのかもしれない。そして父親、母親、ときたら、その次のテーマはもしかして妻のミランダなのでは?とつい期待してしまうが、それはいつか発表されるときまで、楽しみに待つことにしよう。 ©2010 Beginners Movie, LLC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2017.07.10
廃れゆくミシシッピ河岸の風景と、マーク・トウェインと現代を繋ぐ少年の冒険談〜『MUD マッド』〜07月11日(火)ほか
ウディ・アレンにとってのニューヨーク、M・ナイト・シャマランにとってのフィラデルフィア、ベン・アフレックにとってのボストン、等々、映画監督にとって生まれ育った土地は自作の撮影地になりやすい。何しろ、町のディープな情報に精通しているし、第一、思い入れが半端ないはずだ。 ジェフ・ニコルズの場合はアーカンソーだろう。マイケル・シャノンと初めてコラボした「Shotgun Stories」(07)がアーカンソーで、以後「Midnight Special」(12)はすぐ南のルイジアナ(共にミシシッピ川流域)、同じシャノン主演の『テイク・シェルター』(11)はやや北上してエリー湖に接するオハイオだ。場所は微妙に異なるがすべて水辺であることは偶然だろうか?ミシシッピ川とその支流の1つ、アーカンザス川に接するリトルロックで育ったニコルズが、同じエリアの川縁にハウスボートを浮かべて暮らす人々にフォーカスした『MUD マッド』は、彼の故郷への、川への思いが最も顕著な作品だ。 14歳の少年、エリスはアーカンソーの河岸にあるハウスボート(ボートハウスとも言う)に住み、川で採った魚をトラックに乗せ、家々に売りさばく父親の手伝いをしている。父親はボートで川に出て、魚がいそうなスポットに着くと潜水服に着替え、川底まで潜ってそこで蠢く魚たちに狙いを定める。まるで、水温と水の濁りまでが観る側に体感として伝わって来るような冒頭のシーンは、監督であるニコルズの原体験がベースになっている。ノースカロライナ大学の芸術学部で映画製作を学んでいた頃、お手製の潜水服を着てムール貝を採るミシシッピ流域に住まう漁師たちの写真集に惹きつけられた彼は、それをきっかけに流域のライフスタイルと歴史、そして、現状について調査を開始したのだ。 すると、彼の親族の多くがハウスボートの住人であり、彼らの住まいは法律上、住人が居住権を有する資産とは認められず、転出後、破棄される運命にあるという厳しい現実に直面する。それはミシシッピ流域に限らず、アメリカ南部全体に広がる伝統的ライフスタイルの消失を意味していた。劇中で、エリスの父親が漁師として充分な収入が得られず、本来ボートの持ち主である母親が転出を望む以上、川での暮らしは断念するしかないと息子に語るシーンには、そんな流域住民の逃れられない宿命が描き込まれているのだ。 南部独特の泥で茶色く濁った水、アーカンザス川が合流する大河ミシシッピに浮かぶ砂の小島、小島の沼に巣くう毒蛇の群れ。それらは、監督が美しくも恐ろしい故郷の自然に対して捧げた映像のオマージュに他ならない。その最たるものが、川の氾濫によって木の上に持ち上げられたままのボートだ。そして、主人公のマッドはそのボートで秘かに生を繋ぐ謎めいたアウトサイダーである。 仲違いが絶えない両親の目を盗み、こっそりマッドに食料を調達するエリスが、そのうち、失った初恋の痛みを、女絡みで犯罪を犯し、命を狙われる身のマッドと共有して行くプロセスは、世代も背景も異なる2人を主軸にすることで、甘くほろ苦いだけの初恋ものとも、単なる犯罪ドラマとも違う入り組んだ和音を奏でていく。さらに、男子にとっての父権不在、単純に善悪では判別できない男女の関係性と、2層3層になった脚本は自分自身の体験をベースに監督自らが認めたもの。風景と人間関係が瑞々しく、且つ強烈に観客の心に突き刺さってくるのはそのためだ。 ミシシッピを舞台にした少年の冒険談と言えば、誰もがマーク・トウェインを思い浮かべるはず。トウェインもミシシッピ流域で少年時代を過ごし、代表作の『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』は少年期の体験がベースになっているからだ。また、そのペンネーム(本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ)はトウェインが川を航行する蒸気船で働いていた頃、水深を測る担当者が船底が川底に激突するすれすれの深さを船長に知らせる時に叫ぶ、「Mark Twain(2つめのマーク)」から取ったものだとか。Twoを南部訛りで発音するとTwainになるらしい。 トウェインとニコルズの出会いは彼が13歳の頃に遡る。ある日、学校の教室で『トム・ソーヤーの冒険』を秘かに読みふけっていたニコルズは、特に文中にあったあるフレーズに強く触発される。そこには、主人公のトムが川を泳いで河口に浮かぶ無人島に渡り、昼寝をするという、何とも自由で幸せな情景が独特の文章を用いて書かれていたのだ。それが後に『MUD マッド』のプロット作りに繫がったのは言うまでもない。 トウェインの作品に登場する人物にはすべて実在のモデルがいると言われる。トム・ソーヤーはトウェイン自身で、ハックルベリー・フィンは近所に住んでいたトム・ブランケンシップという少年がモデルだとか。そう、『MUD マッド』ではサム・シェパードが演じている役名と同じだ。トウェインは回想録の中でトムについて、「他人に縛られることなく自由に生きる町で唯一の人間」と語っているが、それは名優シェパードによって見事に具現化されている。マッドとエリスの交流を終始対岸で見守りつつ、クライマックスでは俄然存在感を発揮するアウトロー像は、この物語が最後に行き着く失われた父親のイメージを体現して余りあるものがあるのだ。 ニコルズは脚本執筆段階からトム役にサム・シェパードを想定していたというから、そのハマリ役ぶりは半端ないし、同じく『真実の囁き/ローン・スター』(96/未公開)を観て以来、監督がマッド役に決めていたというマシュー・マコノヒーの存在感が傑出している。犯罪を犯しても尚、自らの思いを全うしようとする傍迷惑なほど頑固で純粋なキャラクターは、確かに『真実〜』で演じたメキシコ国境の町で発生した人種問題が絡んだ難事件に挑む若き保安官に通じる透明感がある。 この後、『ダラス・バイヤー・クラブ』(13)での減量によるメソッド演技でオスカー以下数多くの演技賞を受賞し、今や役のためなら体型と見かけを変えられる、否、まるで"肉体改造依存症"に陥っているかのようなマコノヒーだが、『MUD マッド』は彼がまだ美しくいられた時代の最後を飾る作品。物語の後半ではあんなに大切にしていたアイボリーのシャツを脱ぎ捨て、鍛え上げた上半身を開示してしまうナルシストぶりは、当時も今も変わらない性癖なのだが。 マコノヒー、シェパード、ヒロイン役のリース・ウィザースプーン、熾烈なオーディションによって選ばれた子役たち、そして、マッドを追いつめる組織のボスを演じる悪役の権化、ジョー・ドン・ベイカー等を巧みに配置し、気鋭の監督が故郷への立ちがたい思いを注入した『MUD マッド』は、廃れゆくアメリカ的風土への、そして失われた少年時代へのオマージュとして、重ねて味わい深い作品だ。■ © 2012, Neckbone Productions, LLC.
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COLUMN/コラム2017.07.05
ホウ・シャオシェン監督の真骨頂、“感じる”新感覚武侠映画『黒衣の刺客』〜07月19日(水) ほか
“侠”とは、強きをくじき弱きを助ける仁義の世界に生きる人々を指す。日本ではヤクザとイコールで結ばれがちだが、“侠”は職業ではなく本来は生き様のことである。 侠の歴史は春秋戦国時代までさかのぼる。司馬遷の歴史書『史記』には数多くの侠客が登場し、国家を揺るがす刺客が大活躍している。春秋戦国時代を終わらせた中国初の統一国家・秦が滅びた後、漢帝国を立ち上げたのは侠客出身の劉邦。さらに後漢末期に登場し、三国時代の一翼を担った『三国志演義』の主人公・劉備玄徳もまた、関羽と張飛と共に世の混乱を憂いて立ち上がった侠客であった。 時は下り、唐の時代には今回ご紹介する『黒衣の刺客』の原作となった伝奇小説『聶隠娘』が生まれ、宋代になると傑作武侠小説『水滸伝』が登場。武術を極めた侠客が、悪政に立ち向かう姿に大衆は喝采を送った。 近代に入ると娯楽色をさらに強めた作品が多く登場。『江湖奇侠伝』『羅刹夫人』などの作品が人気を博す。そして第二次世界大戦後、香港の新聞記者である金庸が登場。処女作の『書剣恩仇録』から『越女剣』まで15作品は、すべて世界的なベストセラーとなり、武侠小説界最大のスター作家となった。また『白髪魔女伝』の梁羽生、『多情剣客無情剣』の古龍は、金庸と合わせて武侠三大家と称されている。 三大家の大ブームに乗って、香港映画界では黎明期から多くの武侠映画が登場した。クワン・タッヒン主演の『黄飛鴻』シリーズは戦後すぐの1949年から制作が開始され、様々な映画人によってギネス記録になるほどシリーズ化されている。金庸の『碧血剣』は1958年、『書剣恩仇録』『神鵰侠侶』は1960年といった具合に次々と映画化。さらに新興のショウブラザース社では1960年代からキン・フー監督とチャン・チェ監督という2大巨匠が独自の世界観で武侠映画全盛期を築いていく。 キン・フー監督は『大酔侠』(66年)で頭角を現し、『残酷ドラゴン・血斗!竜門の宿』(67年)では香港最大の大ヒットを記録。さらに『侠女』(71年)でカンヌ映画祭を席巻し、『山中傳奇』(79年)で台湾アカデミー賞(金馬奨)をゲットした。 チャン・チェ監督はさらに娯楽寄りの武侠映画を連発。ジミー・ウォングを主演に据え、金庸作品にインスパイアされた『片腕必殺剣』(67年)がメガヒットを記録してシリーズ化され、『ブラッド・ブラザース 刺馬』(73年)や『五毒拳』(78年)といったカンフー系武侠映画まで、多くのカルト的人気作品を監督した。 70年代に入ると日本の『座頭市』シリーズなどの日本の時代劇が香港をはじめとするアジア全域で大ヒットし、その影響で残酷描写やトリッキーな武侠映画が多く生まれた。 カンフー映画全盛の80年代には、還珠楼主原作、ツイ・ハーク監督の出世作『蜀山奇傅 天空の剣』(83年)が公開。カンフー+ワイヤーアクション+VFXという画期的な作品は世界各国で支持された。ツイ・ハークは90年代にも『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズで、黄飛鴻武侠映画を復権させ、『残酷ドラゴン~』のリメイク作『ドラゴン・イン/新龍門客棧』(92年)、『秘曲 笑傲江湖』を原作とする『スウォーズマン』シリーズ(90年~)など多くの作品をヒットさせている。 さらに90年代後半には、武侠漫画原作という新しい形態の武侠映画が登場。武侠+ワイヤー+CGIという『風雲 ストームライダーズ』(98年)は、馬栄成の原作の人気も相まって世界中で大ヒットしている。 そして00年代に入ると画期的な映画が公開される。アン・リー監督の『グリーン・デスティニー』(00年)だ。王度廬の武侠小説『臥虎蔵龍』を原作とする本作は、世界各国の映画賞を総なめにし、第73回アカデミー賞では非英語映画であるにも関わらず、作品賞をはじめとした10部門にノミネートされて4部門を受賞する快挙を成し遂げた。本作が画期的なのは、元々“父親三部作”で知られる文芸映画の巨匠として評価されていたアン・リーが、アクションたっぷりの武侠娯楽大作を制作したことにある。アン・リー自身、幼少時から武侠映画の大ファンであり、武術指導の大家ユエン・ウーピンを武術指導に迎えて制作された『グリーン・デスティニー』は、最上級のカンフー&剣劇アクションだけでなく、アン・リーの紡ぎ出す抒情的な物語、タン・ドゥンとヨーヨー・マの美しい劇伴、ピーター・パウによる幻想的な画作りが高次元で融合し、映画史を塗り替える化学反応が起きた作品となった。 『グリーン・デスティニー』以降、多くの文芸映画の巨匠が武侠映画にチャレンジするようになっていく。『紅いコーリャン』(87年)のチャン・イーモウは、ジェット・リー主演の『HERO』(02年)を制作。チン・シウトン指導の美しいアクションも話題となり、日本でも興行収入40億円を超える大ヒット作品となった。チャン・イーモウは続けて『LOVERS』(04年)を制作し、直近ではエンタメ方面に振り切ったモンスター武侠映画『グレート・ウォール』(16年)も制作している。 またウォン・カーワイは金庸の『射鵰英雄伝』を原作とする『楽園の瑕』(94年)、近代中国を舞台にした武侠映画『グランド・マスター』(13年)を制作。『さらば、わが愛/覇王別姫』(93年)のチェン・カイコーは『PROMISE 無極』(05年)を発表している。 さて、ホウ・シャオシェン監督。二・二八事件を扱った『非情城市』(89年)でヴェネツィア映画祭金獅子賞を獲得して世界中から注目を集め、『好男好女』(95年)で台湾金馬奨の最優秀監督賞を獲得した、台湾を代表する名監督だ。そして社会派ドラマを得意とするホウ・シャオシェンが、2015年に発表したのが『黒衣の刺客』(15年)。寡作で知られる監督の8年ぶりの新作が武侠映画とのことで、大きな話題となっていた。 唐の時代。美しいインニャンは13年ぶりに帰郷する。しかしインニャンは、あらゆる殺人術を学んだ最強の暗殺者であった。インニャンの帰郷は、軍閥の節度使ティエンを暗殺するためであったが、かつての許嫁であるティエンを暗殺することをためらうインニャンは……。 5年にも及ぶ長期の撮影を経て完成した本作は、カンヌ映画際のコンペティション部門への出品作品としてプレミア上映され、監督賞を受賞する快挙を達成。2015年の台湾金馬奨を総なめにし、アジア・フィルム・アワード、香港電影金像奨でも旋風を巻き起こした。 本作の特徴は、武侠映画としてはあまりにも静かで、あまりにも美しい展開。前述の文芸監督たちが制作したエンタメ系武侠映画とはまったく異なり、ホウ・シャオシェン監督のこれまでの作品の延長線上から一歩も踏み外さずに作られた武侠映画ということで、まさに稀有な作品と言えよう。 とにかく主人公インニャンのセリフが圧倒的に少ない。インニャンを演じたスー・チーの美しさを最大限に引き出し、「後はお察しください」とでも言うように突き放しておきながら、あまりにも豊かな表現力に圧倒されること請け合い。直観的に“感じる”ことで映画的快楽に浸る新感覚武侠映画なのである。 ホウ・シャオシェン作品のファンだけでなく、武侠映画ファンだけでなく、多くの映画ファンに堪能してほしい傑作である。■ ©2015光點影業股份有限公司 銀都機構有限公司 中影國際股份有限公司
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COLUMN/コラム2017.05.15
フィルムメディアの“残像”〜『フッテージ』と監督スコット・デリクソンの映画表現〜5月15日(月)ほか
一家殺人事件の真相を追い、事件現場の空き家へ移り住んだノンフィクション作家のエリソン(イーサン・ホーク)。彼はある日、同家の屋根裏部屋で現像された8ミリフィルムを発見する。しかもそのフィルムには、件の一家四人が何者かの手によって、絞首刑される瞬間が写っていた……。 スコット・デリクソン監督によるサイコロジック・ホラー『フッテージ』は、タイトルどおり「ファウンド・フッテージ(発見された未公開映像)」という、同ジャンルでは比較的ポピュラーなフックによって物語が吊り下げられている。例えば同様の手法によるホラージャンルの古典としては、1976年にルッジェロ・デオダート監督が手がけた『食人族』(80)が知られている。アマゾンの奥地へ赴いた撮影隊が現地で行方不明となり、後日、彼らが撮影したフィルムが発見される。そのフィルムを映写してみたところ、そこに写っていたのは……という語り口の残酷ホラーだ。日本ではあたかもドキュメンタリーであるかのように宣伝され、それが奏功して初公開時にはヒットを記録している。また、その『食人族』の手段を応用し「行方不明の学生が残した記録フィルム」という体で森に潜む魔女の存在に迫った『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(99)は、昨年に続編が作られたことも手伝い、このスタイルでは最も名の挙がる映画ではないだろうか。 しかし、それら作品におけるフッテージは、あくまで本編の中の入れ子(=劇中劇)として従属するものであって、それ自体が独立した意味を持ったり、別の何かを連想させることはない。ところが『フッテージ』の場合、劇中に登場するフッテージは「スナッフ(殺人)フィルム」という、極めて具体的なものを観客に思い至らせるのである。 スナッフフィルムとは、偶発的に死の現場をカメラが捉えたものではなく、殺人行為を意図的に撮影したフィルムのこと指す。それが闇市場において、好事家を相手に高値で売られていると、70年代を起点にまことしやかに噂されていた。実際には「殺人を犯すリスクに見合う利益が得られるのか?」といった経済的な疑点もあり、あくまでフォークロア(都市伝説)にすぎないと結論づけられているが。 しかし、そんなフォークロアが当時、個人撮影のメディアとして主流を成していた8ミリと結びつくことで、あたかもスナッフフィルムが「存在するもの」として、そのイメージが一人歩きしていったといえる。同フォーマットならではの荒い解像度と、グレイン(粒状)ザラッとした映像の雰囲気、また個人映画が持つアンダーグラウンドな響きや秘匿性など、殺人フィルムの「いかがわしさ」を支えるような要素が揃っていたことも、イメージ先行に拍車をかけたといっていい。 事実、こうしたイメージに誘引され、生み出された映画も存在する。タイトルもズバリの『スナッフ/SNUFF』(76)は、クライマックスで出演者の一人が唐突に殺されるという、フェイク・ドキュメンタリーを装った作りでスナッフフィルムを標榜しているし、またニコラス・ケイジ主演による『8mm』(05)は、スナッフフィルムを出所を追うサスペンスとして、劇中に迫真に満ちた当該シーンが組み込まれている。 『フッテージ』では、そんなスナッフフィルム、ひいてはアナログメディアの“残像”ともいえるものを、現実と幻想とを繋ぐ重要な接点として劇中に登場させている。殺人を写し撮ったフィルムの向こうに潜む、邪悪な存在ーー。本作がホラーとして、その表情をガラリと変えるとき、この残像は恐ろしい誘導装置となるのだ。デリクソン監督は言う、 「不条理な世界を確信に至らせるのならば、細部を決しておろそかにしてはいけない」 (『フッテージ』Blu-rayオーディオコメンタリーより抜粋) ■『フッテージ』から『ドクター・ストレンジ』へ もともとデリクソン監督は、こうしたフィルムメディアの「残像」を常に追い求め、自作の中で展開させている。氏のキャリア最初期を飾る劇場長編作『エミリー・ローズ』(05)は、エクソシズム(悪魔祓い)を起因とする、女子大生の死の真相を明かしていく法廷サスペンスで、その外観は『フッテージ』のスナッフ映像と同様、フィルムライクな画作りが映画にリアリティを与えている。さらに次作となる『地球が静止する日』(08)は、SF映画の古典『地球の静止する日』(51)をリメイクするという行為そのものがフィルムへの言及に他ならない。続く『NY心霊捜査官』(14)を含む監督作全てが1:2.35のワイドスクリーンフォーマットなのも、『エミリー・ローズ』でのフィルム撮影を受け継ぐ形で、デジタル撮影移行後もそれを維持しているのだ。 そんなデリクソンのこだわりは、今や充実した成果となって多くの人の目に触れている。そう、今年の1月に日本公開された最近作『ドクター・ストレンジ』(16)だ。 同作は『アイアンマン』や『アベンジャーズ』シリーズなど、マーベル・シネマティック・ユニバースの一翼を担う風変わりなヒーロー映画だが、その視覚体験は近年において飛び抜けて圧倒的だ。ドクター・ストレンジはスティーブ・ディトコとスタン・リーが1963年に生み出したクラシカルなキャラクターで、当時の東洋思想への傾倒やドラッグカルチャーが大きく作品に影響を与えている。その証が、全編に登場するアブストラクト(抽象的)な視覚表現だろう。VFXを多用する映画の場合、その多くは存在しないものをリアルに見せる具象的な映像の創造が主となる。しかし『ドクター・ストレンジ』は、ストレンジが持つ魔術や多元宇宙の描写にアブストラクトなイメージが用いられ、誰も得たことのない視覚体験を堪能させてくれるのだ。 それは俗に「アブストラクト・シネマ」と呼ばれるもので、幾何学図形や非定形のイメージで画を構成した実験映画のムーブメントである。1930年代にオスカー・フィッシンガーやレン・ライといった実験映像作家によって形成され、原作の「ドクター・ストレンジ」が誕生する60年代には、美術表現の多様と東洋思想、加えてドラッグカルチャーと共に同ムーブメントは大きく活性化された。 このアブストラクトシネマの潮流も、フィルムメディアが生んだもので、デリクソンは実験映像作家のパーソナルな取り組みによって発展を遂げた光学アートを、メジャーの商業映画において成立させようと企図したのである。 デリクソン監督が作中にて徹底させてきたフィルムメディアの“残像”は、ここまで大規模なものになっていったのだ。 ■日本版ポスター、痛恨のミステイク このような流れを踏まえて『フッテージ』へと話を戻すが、原題の“Sinister”(「邪悪」「不吉」なものを指す言葉)を差し置いて、先に述べた論を汲んだ邦題決定だとすれば、このタイトルをつけた担当者はまさに慧眼としか言いようがない。 しかしその一方で、我が国の宣伝は本作に関して致命的なミスを犯している。それは日本版ポスターに掲載されている8ミリフィルムのパーフォレーション(送り穴)が、1コマにつき4つになっていることだ。 8ミリを映写するさい、プリントを送るためのパーフォレーションは通常1コマにつき1つとなっている。しかしポスター上のフィルムは4つ。これは35ミリフィルムの規格である。つまりポスター上に写っているのは8ミリではなく、35ミリフィルムなのだ。 まぁ、そこは経年によるフィルムメディアへの乏しい認識や、フィルムということをわかりやすく伝えるための誇張だと解釈できないこともない。しかし、単にアナログメディアを大雑把にとらえた措置だとするなら デリクソン監督のこだわりに水を差すようで、なんとも残念な仕打ちといえる。 ©2012 Alliance Films(UK) Limited
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COLUMN/コラム2017.05.03
今ハリウッドが最も注目する映画監督、ドゥニ・ヴィルヌーヴとその作品。最新作『メッセージ』に至る彼の映画とは。
※ヴィルヌーヴ監督の過去作のネタバレが含まれます。未見の方はご注意ください。 ドゥニ・ヴィルヌーヴが『メッセージ』という、変則的ではあれどポジティブなメッセージを持った映画を撮った。ただそれだけのことが大事件に思えるのが、ヴィルヌーヴという才気と野心に満ちた映画監督の作家性と言える。それほどまでにヴィルヌーヴは、強烈で、苛酷で、風変りな映画を作り続けてきたのだ。 『灼熱の魂』で自ら命を絶った母親の苛酷すぎる人生、『複製する男』の迷宮の如き精神世界、『プリズナーズ』でヒュー・ジャックマンが見せた狂気じみた暴走、『ボーダーライン』の法律などお構いなしの歪んだ正義。映画を観てスカッとしたい、ロマンチックな展開にキュンとしたい、腹を抱えて笑いたいなんて気持ちは鉄槌で粉々にされるのがオチだ。もちろんそんな目的でヴィルヌーヴ作品を選ぶ時点で、取り返しのつかない間違いを犯してしまっているわけだが。 とはいえ、ヴィルヌーヴを“わかっている”顔で語るのは危険極まりないことでもある。このカナダ人監督は、観客に解釈の余地を残すタイプの映画作家で、スト―リーを理解する上で重要な要素さえも韜晦のベールに包んでしまう。もはや“よくわからない”ことすらトレードマークになっているにも関わらず、最注目の気鋭監督としてハリウッドで受け入れられている現状は“奇跡”と呼んでいいだろう。 ではヴィルヌーヴの作品はなぜ、どこか観客を突き放したような印象を受けるのか。本人の発言を追ってみると「何度観ても考えさせられ、それでも答えがわからない『2001年宇宙の旅』が大好きだ」と言っていて、乱暴に言えば結論を提示しないオープンエンディングを好む監督ということになる。一方で「どんな題材でも観客に身近な物語として感じて欲しい」とも発言している。 過去作に当てはめてみると、精神的に極限まで追い詰められるような状況を描き、あなたにも起こることかも知れませんよと観客に物語への参加を促しつつ、「すべての答えは風の中さ」と嘯くような作風……いや、かなり歪曲しているのは承知の上ですが、当たらずとも遠からず、ではないだろうか。 もうひとつ、一般的な作劇と異なる要素として、ヴィルヌーヴの映画は主人公が一定しないケースが非常に多い。『灼熱の魂』の主人公は誰かと問われれば、2人の子供に遺書を残した母親と、その遺言によって見知らぬ兄と父を探す旅に出る子供たち、ということになる。しかし物語が終わってみると、冒頭にだけ登場した小さな刺青のある少年こそが、誰よりも重要な人物だったとわかる。 『プリズナーズ』の主人公はヒュー・ジャックマン扮する、娘を誘拐された父親だ。父親は釈放された容疑者の青年を拉致監禁して、娘の居場所を聞き出そうと苛酷な拷問にかける。しかしこの事件は、娘を想うがゆえの常軌を逸した暴力とは別のところで、別の刑事がひょっこり解決してしまう。 『プリズナーズ』はジャンルとしてミステリーの形式を取っていて、『灼熱の魂』は精神的な意味でのミステリーだ。そしてどちらの映画も、複雑に絡み合った糸を解きほぐし、ひとつの筋道にたどり着く類の作品ではない。ヴィルヌーヴの映画に明快な解はない。観終わった時に「これって誰の物語だったのだろう?」と思考を促され、検証すればするほど語られていない物の大きさに愕然とするのである。 『複製された男』は、同じ流れにありながらとんでもない変化球だ。ある大学講師が自分と瓜二つの見た目の役者が存在していることを知り、興味を持って接触しようとする。しかし役者の方が性質の悪い男で、大学講師は美しい恋人を差し出すように脅迫を受けるのだ。 単純化を試みると、『複製された男』は物語自体が「妻(もしくは恋人)には文句ないけど浮気もしてみたい!」という分裂した気持ちのメタファーである。ミもフタもない言い方だが、2人の男は分裂したひとつの人格で、劇中で描かれるストーリーは男の精神世界か妄想ということになる。われわれは見たものすべてを疑ってかからなくてはならない類の作品なのだ。 そしてやっかいなことに、随所に挿入される空撮の目線が誰なのかがよくわからない。神、と言ってしまうのは短絡的すぎる。原作小説に登場する3人目の自分なのかも知れないが、とにかくこの痴話じみた葛藤の物語を、まったく第三者の目線から見下ろしている何者かがいる。ここでも「じゃあこれは誰の物語か?」という疑問が頭をもたげてくるのだ。 前作『ボーダーライン』でヴィルヌーヴと主演のベニチオ・デル・トロは、デル・トロが演じたアレハンドロという男のセリフを9割がた削除した。このアレハンドロこそが原題でもある「SICARIO」であることが終盤で明らかになるのだが、物語の形式上の主人公はエイミー・ブラント扮するFBI捜査官ケイトであり、アレハンドロは登場する分量も少なければ、セリフに至ってはほんのわずか。しかし最も尺を割いているケイトは最後まで傍観者以上の役割を与えられない異様さが、作品のテーマにも繋がってくる仕掛けだ。 ヴィルヌーヴはアレハンドロをまるで脇役であるかのように描写し、クラマイックスで一気に主役交代を成し遂げる。得意の主人公のかく乱だ。ちなみにアレハンドロが愛する妻と娘を亡くしているという設定は実は序盤で示唆されている。メキシコの街フアレスで、車に乗っているアレハンドロの顔から町の壁に貼られている「行方不明者」の張り紙にフォーカスが移動する。共演者のジェフリー・ドノヴァンによると、その行方不明者こそがアレハンドロの妻なのだという。 この伏線に気づく観客はほとんどいないだろうし、気づくにしても2度目以上の鑑賞でなければ不可能に近い。そして気づいたとしても、アレハンドロは貼り紙に一瞥もくれていない。視界の端に入っていて、表情を押し殺して苦悶に耐えているのだ、と想像することはできるが、これも想像でしかない。こういう小さな要素を繋ぎ合わせ、自分なりの答えを探り当てることがヴィルヌーヴ作品の鑑賞法なのである。 そんなヴィルヌーヴが「ダークな作品が続いてさすがに疲れた」と言って撮った『メッセージ』も、素直にハッピーな映画などではない。謎の宇宙船が地球に現れ、未知の地球外生物の言葉を解析しようとする言語学者の物語であると同時に、大切な人を亡くした喪失感にまつわるとてもパーソナルなヒューマンドラマでもある。ただし自分の感情に折り合いをつける方法が「宇宙人の言語体系を通じて既成概念を転換させる」ことなので、やはりゴリゴリの知的SFと呼ぶべきかも知れない。 『メッセージ』の主人公は明確にヒロインのルイーズであり、珍しく単独主人公の作品になっている。が、敢えて言うとこの映画の主人公は「言語」と「概念」である。ついに人間だけでなく概念が主人公になってしまった。この概念と『スローターハウス5』との相似は映画ファンには気にならずにはいられないところだが、ヴィルヌーヴは筆者とのインタビューで「その映画は知らない」と明言したし、原作者のテッド・チャンは小説を執筆してから『スローターハウス5』を知ったというから、偶然の一致以上の答えが出ないのはいささか残念ではある。 そしてヴィルヌーヴの次回作はかの『ブレードランナー』の続編、『ブレードランナー2049』。『ラ・ラ・ランド』のライアン・ゴズリングが主演を務めるだけでなく、前作からデッカード役のハリソン・フォードも再登場する。つい短絡的に「また主人公が複数いる!」と飛びつきそうになるが、そこはヴィルヌーヴ。こちらの予想など鼻で笑うような斜め上をいく怪作に仕上がることを期待したい。■ 『メッセージ』5月19日(金)TOHOシネマズ六本木ヒルズほか全国ロードショー配給:ソニー・ピクチャーズ
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COLUMN/コラム2017.04.26
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年5月】キャロル
冒頭からキャメロン・ディアスの全裸が出てきて、かなり期待できる!・・・と思いきや、肝心のSEX自撮り撮影するシーンになると、あれ?あれあれあれ?!コトが始まる直前で、アッという間に翌朝の疲れ果てたシーンに切り替わってしまったではありませんか。・・・まだ何もヤッてないのに!そのシーンだけを楽しみに映画観てたのに!! (とまあ取り乱したものの、気を取り直して)主演のキャメロンは昔に比べて「老けたな~」と感じるものの、やっぱり明るいテンションと最強のスマイルは健在。やっぱりキャミーはかわいい!共演のジェイソン・シーゲルとも相性抜群で、二人の仲睦まじさは見ていて清々しい気さえしてきます。さらに特筆すべきはこの人、ロブ・ロウ!キャミーの上司役で出演しているのですが、この映画、どこか身に覚えのあるストーリーだったんじゃなかろうか(この方もかつて自撮りテープが流出する大失敗を経験している)。出演しているだけでギャグになるという、最高にオイシイ役どころは必見です。 ちなみに、最後の最後で、期待以上のオモシロSEX映像がちゃーんと入っていました(あ~、最後まで観てヨカッタ!)。私ったら恥ずかしげもなく社内のデスクで堂々と試写してしまったけれど、今思うと隣の席の男性上司&先輩的には大分迷惑だったかも。今更ですが、ごめんなさ~い! それにしても、あんだけ素っ裸なのにキャミーのニップルは一切見えないというのが不思議。撮影・編集マンの苦労を考えると脱帽です。ドタバタエロコメディですが、途中でグッとくる素敵なメッセージが込められていたりして、とにかく期待は裏切りません。5月のプラチナ・シネマでどうぞお楽しみに~!■ © 2014 Columbia Pictures Industries, Inc., LSC Film Corporation and MRC II Distribution Company L.P. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2017.04.15
【本邦初公開】労働者階級出身のアルバート・フィニーが自らを反映した渾身の監督&主演作『チャーリー・バブルズ』は日本未公開!?〜04月13日(木)深夜ほか
直近では『ボーン・アルティメイタム』(07)と続く『ボーン・レガシー』(12)で演じたドレッドストーン計画の生みの親であるアルバート・ハーシュ博士役や、『007 スカイフォール』(12)の終幕間近に登場するボンド家の猟場管理人、キンケイド役が記憶に新しいアルバート・フィニー、現在80歳。言わずと知れたイギリス王立演劇学校OBの生き残りである。一学年下のアンソニー・ホプキンスは健在だが、同級生のピーター・オトゥールはすでにこの世にはいない。 1959年に舞台デビュー直後、名優ローレンス・オリビエやヴァネッサ・レッドグレイヴ等と互角に渡り合い、翌年には映画デビューも果たしたフィニーが、最初に世界的な評価を得たのは『土曜日の夜と日曜日の朝』(60)。"怒れる若者たち"の作者として知られ、1950年代のイギリスで起きた労働者階級の苦境を台所の流しを用いて描いたムーブメント、"キッチン・シンク・リアリズム"と繫がるアラン・シリトーの原作を脚色した社会派ドラマだ。1960年代に"スウィンギング・ロンドン"が巻き起こる前のイギリスでは、このような北部の貧困地域で怒りを溜め込んで生きる若者にフォーカスした演劇や小説、TVドラマ、そして、映画がカルチャーシーンをリードしていたのだ。 "キッチン・シンク・リアリズム"と最も敏感に響き合ったのは映画で、新鋭監督たちが"ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ"を形成。『土曜日の夜と日曜日の朝』の監督、カレル・ライスは、その後『孤独の報酬』(63)を製作し、同作の監督、リンゼイ・アンダーソンは『If もしも…』(68)を発表し、トニー・リチャードソンは『蜜の味』(61)、『長距離ランナーの孤独』(62)に続いて、再びムーヴメントの旗頭的スター、アルバート・フィニーを主役に迎えて『トム・ショーンズの華麗な冒険』で第36回アカデミー作品賞を奪取する。それは"ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ"がハリウッドをもその大きなうねりの中に巻き込んだ瞬間だった。 前置きが長くなった。『チャーリー・バブルズ』はその後、イギリス演劇界を飛び越え、ハリウッドを起点に華々しく活躍することになるアルバート・フィニーが、かつて身を以て体験した"ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ"に思いを馳せつつ挑戦した、最初で最後の監督(&主演)作品である。 主人公のチャーリーは人気作家として名声を確立しているものの、同じ成功者たちが集う社交クラブでメンバーが交わすビジネストークには心底辟易している。そこで、チャーリーは友達のスモーキー(後に『オリエント急行殺人事件』(74)でポワロ役のフィニーと探偵ハードマン役で共演しているコリン・ブレイクリー)と周囲がどん引きなのも気にせず頭から食べ物をぶっかけ合い、そのまま通りを闊歩し、デパートで買ったラフな服に着替えた後、プールバーで玉を突き合い、パブで一杯引っ掛ける。チャーリーがいかに現在の生活に退屈しているかをデフォルメして描いた若干奇妙で強烈な導入部だ。 この後、チャーリーは秘書のエリザベス(なぜかブレイクスルー前のライザ・ミネリ)を成金の象徴のようなロールスロイス/シルバークラウドⅢの助手席に乗せ、ロンドンから完成したばかりのハイウェイ、M1に沿って一気に北上していく。向かう先はチャーリーの故郷であり、"ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ"の舞台であり、同時に、自身も労働者階級に生まれ育ったフィニーのホームタウンであるマンチェスターだ。つまり、今や(当時)若き演技派俳優として未来を約束されたフィニーが、チャーリーを介してあえて失った過去に向けて舵を切った疑似自伝的ストーリー、それが『チャーリー・バブルズ』なのだ。 久々に故郷の土を踏んだチャーリーが、果たして、その目で確かめたものは何だったのか?そこで描かれる変わらぬ厳しい現実と、たまにしか帰還しない訪問者としてのチャーリーの間に横たわる隔たりに、監督、または俳優としてのフィニーのジレンマを感じ取ることは容易い。むしろ、"ブリティッシュ・ニュー・ウエイヴ"を牽引した監督のほとんどが一流校オックスブリッジの卒業生であり、その他人事のような視点が、結局この潮流を1960年代後半で途絶えさせた原因だったことを考えると、結果的に、アルバート・フィニーこそが労働者の光と影を身を以て体現できる数少ない生き証人だと今更ながら痛感する。製作時、当の本人は想像だにしてなかっただろうが。 これを機にイギリスに於ける階級社会の問題点をさらに膨らませると、今やかの国では演劇学校の月謝が高騰し、もはやワーキングクラス出身の俳優志望者たちは夢を捨てざるを得ない状況に陥っているとか。それは、一昨年のアカデミー賞(R)でオックスブリッジ卒業生のエディ・レッドメインとベネディクト・カンバーバッチが主演男優賞候補に挙がった時、労働者階級出身の名女優、ジュリー・ウォルターズがメディアにリークしたことで一躍注目された話題だ。一説によると、労働者階級出身のスターはジェームズ・マカヴォイを最後に登場していないとか。それが事実だとすると、映画ファンはもう2度と第2のショーン・コネリーやマイケル・ケインや、そして、アルバート・フィニーに会えなくなるということだ。3人ともまだ健在だが。 そんなことにまで思いを至らせる『チャーリー・バブルズ』だが、何と日本では劇場未公開。フィニーは初監督作品を自ら主宰するMemorial Enterprisesで製作を請け負い、配給元としてハリウッドメジャーのユニバーサルを迎え入れる等、万全の体制で臨んだものの、映画がイギリスとアメリカで公開されたのはクランクアップから2年後の1968年だった。チャーリーの妻を演じたビリー・ホワイトローが英国アカデミー賞と全米批評家協会賞の助演女優賞に輝き、レビューでも高評価を獲得したにも関わらずだ。結果、フィニーはその後再びディレクターズチェアに腰を沈めることはなかった。この映画のためなら得意ではないキャンペーンも精力的にこなすつもりでいたフィニーだったが、出席を予定していた第21回カンヌ映画祭が、政府の圧力に屈した映画祭事務局に抗議するジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォー等、ヌーベルバーグの監督たちによる抗議活動によって中止に追い込まれるという不運にも見舞われる。後に、この映画祭粉砕事件はカンヌ映画祭に"監督週間"という新規部門を作るきっかけになり、ここから多くの新人監督たちが羽ばたいていったことを考えると、同じく監督を目指したフィニーにとっては皮肉な結果と言わざるを得ない。 しかし、『チャーリー・バブルズ』を観れば分かる通り、階級社会を果敢に生き抜いてきた骨太の個性とユーモア、そして、溢れる人間味は、彼の演技と無骨な風貌を介して永遠に生き続けるもの。何しろ、妖精オードリーを劇中で"ビッチ!"と蔑んだのは(『いつも2人で』67)、後にも先にもフィニーだけなのだから。■ © 1967 Universal City Studios, Inc. Copyright Renewed. All Rights Reserved.
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NEWS/ニュース2017.03.28
最新作『ゴースト・イン・ザ・シェル』。スカーレット・ヨハンソンなど豪華ゲストによる来日記者会見レポート!
作品の世界観を表現した記者会見会場。BGMと共にルパート・サンダース監督、ジュリエット・ビノシュ、ピルー・アスベック、ビートたけし、スカーレット・ヨハンソンの順で登壇。 司会:本当に日本でも、ファンが多い『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』がついに、待望のハリウッド実写化ということで、記者の皆さんもすごく楽しみにされています。早速皆さんから一言ずつご挨拶をいただきたいと思います。 スカーレット・ヨハンソン:皆さんこんにちは。東京に来ることができ、とても嬉しく思います。この作品を、皆さんにご紹介できることを大変嬉しく思っています。非常に長い旅となった体験ではありますが、この作品をお披露目する初めての都市が東京であるということがとてもふさわしいと思いますし、とても興奮しています。本日はありがとうございます。 ビートたけし:あ、どうもご苦労様でございました。やっと幸福の科学からも出られて、今度は統一教会に入ろうかと思ったんですけども、やっぱりこの映画のためには創価学会が一番いいんじゃないかっていう気がしないでもないですけども(会場で笑いが起こる)、初めて本格的なハリウッドのコンピューターを駆使した、すごい大きなバジェッドの映画に出られて、自分にとってもすごいいい経験だし、役者という仕事をやるときに、もう一度どう振る舞うべきかっていうのをスカーレットさんに本当によく教えていただいた。さすがにこの人はプロだと、日本に帰ってきてつくづく思っています。それくらい素晴らしい映画ができたと思っています。 ピルー・アスベック:日本は初めてなのですが、本当に大好きになりました。いつもこういうふうに皆さんと接することができるのであれば、もっとこれからも来日したい。夕方に着きまして、神戸ビーフを初めて口にしました。人生最上のお肉で非常においしかったです。また、今日は皆様お越しいただいてありがとうございます。僕らも本当に努力してこの作品を作り上げました。それをやっと皆さんとこういう形で分かち合えることが非常に嬉しく、光栄に思っております。 ジュリエット・ビノシュ:皆さんこんにちは。こうして東京、日本に来られてとても嬉しく思っております。『ゴースト・イン・ザ・シェル』というのは、日本発のコンテンツということで、日本にこの映画とともに帰ってこられるということを本当に嬉しいことだと思っています。そして、『ゴースト・イン・ザ・シェル』の素晴らしい世界観の一部に自分がなれたということもとても嬉しいですし、この映画を作り上げた素晴らしいアーティストたちとの体験も本当に楽しかったです。正直、脚本を最初に渡されて読んだときに、まるで暗号書を解読でもしているかのように、まったく理解ができませんでした。そういった意味でも非常に自分にとっては挑戦しがいのあるとても難しい役柄でしたが、素晴らしい映画にできあがっていると思いますので、皆さん是非見て頂きたいと思います。ありがとうございます。 ルパート・サンダース監督:本当に今回ありがとうございます。今ジュリエットが言ったように、この素晴らしいレガシーの一部になるということは非常に光栄なことです。私が美術学校の学生だった頃に、この『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』には出会い、本当に素晴らしい作品で非常に想像力をかきたてられ「この実写版を作るんだったら、僕が作りたい」とそのときは思ったんですが、スティーヴン・スピルバーグが作るということが分かって、「ああ、僕じゃない」とそのときは諦めたんです。でも色々なことがあり、非常に幸運にも私が作ることになりました。この映画を通して、本当に日本が生んだ素晴らしい文化、そして非常に芸術性豊かな正宗士郎さんのオリジナルな漫画、押井守さん、神山健治さんのアニメーションや作品に、世界の皆さんがこの作品を通して知ることになるということ、私が若いころに触発されたように皆さんもこの『ゴースト・イン・ザ・シェル』を通して色んなものに出会っていただきたい。日本、東京が大好きですし、この作品を生み出したこの日本という国を本当に素晴らしいと思います。 司会:どうもありがとうございました。私から皆さんに代表質問をさせていただきます。本当に日本が生んだ、そして日本にもファンが非常に多いこの『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』、これを実写化するというプロジェクトに実際参加されてみてどういうふうに感じられたのかっていうお話を聞いてみたいと思うのですが、スカーレット・ヨハンソンさんからお願いできますか? スカーレット・ヨハンソン:初めて原作アニメーションを拝見して、この作品をどう実写化していくかが自分の中ではっきり見えていなかったんです。気持ち的に怖気づくといいますか、ひるむといいますか、原作アニメーションがとても詩的で、夢のような世界が描かれていたり、その存在について静的なところがあったりと色々な要素があり、登場するこのキャラクターに対して自分がどう入っていけるのか、というところがありました。ただ、とても興味があって、アニメが自分の頭の中に残り、ルパート監督と長い時間をかけて彼が集めた色々な素材や資料を見て、彼の考えているその世界観が原作に敬意を持ちながら、独自のものを持っていることがわかりました。自分が演じる役どころ、彼女の人生というか彼女のその存在というものについて二人で色々会話をして、自分の中で否定できないようなものになりましたし、この『ゴースト・イン・ザ・シェル』というものが頭から離れないものになったんですね。監督と二人三脚で未知の世界に大きく一歩を踏み出しました。 監督がとても色々と努力をなさってこれだけ愛されている原作、作品であるということで、私も今回(参加できて)とても光栄に思いますし、とても責任を感じています。この役に自分が息を吹き込むことができ、本当に素晴らしい経験になりました。感情的にも肉体的にも大変な経験でしたけれども、人として学ぶことも多かったですし、また役者として今作から色々学べました。演じた役と一緒に成長を感じることが体験できたのでとても感謝をしています。皆さん作品をご覧になるとお分かりになると思うのですが、この役が遂げている成長を投影して、自分も成長できた作品になっていると思います。ちゃんとした答えになっているか分かりませんけれども、それだけとても大きな意味、体験ができた作品となっています ※ヨハンソン一通り話した後、お茶目に通訳の方を向いて「GOOD、LUCK!」と話す。 司会:はい。素晴らしかったです。ありがとうございました。通訳さんもさすがでございます。では続きましてビートたけしさんはどういうふうに感じられたのでしょうか。 ビートたけし:このアニメは自分の世代のちょっと下の人たちが読んでいたアニメであって、自分はこの作品のオーダーがあったときに、まずアニメ化されたものを見て、漫画を見て、かつてマニアックな人は実写版というのは必ずもともとのコミックとかアニメに必ず負けて文句を言われるというのが定説で、ファンは絶対「違う、違う、こういうのじゃない」というような感じがよくあるんですが、今回は自分の周りにもその世代の子どもたちがいっぱいいて、ちょっと見た限り、昨日ちょっと見たんだけども、やっぱりすごいということで、忠実であって、なおかつ新しいものが入っていて、もしかすると最初にアニメ、コミックの実写版で最初に成功した例ではないかというような意見があって。唯一の失敗作は荒巻じゃないかという噂もあるし(笑)。その辺は言わないようにといってますけども(笑)。それくらい見事な作品だと自分は思っているし、現場でもいかに監督がこの作品にかけているかっていうのもよく分かったし。まあ、全編大きなスクリーンで見ていただければ、いかに迫力があってディテールまでこだわっているかよく分かります。よろしくお願いします。 司会:ありがとうございます。素晴らしい本当に作品でございました。ではピルー・アスベックさんは今回参加されていかがでしたでしょうか。 ピルー・アスベック:日本で生まれた最も素晴らしい物語のひとつに参加することに、もちろん怖い思いはありました。特に演じるキャラクター、バトーは本当に愛されているキャラクターで、ファンの期待も裏切られないという思いもありましたが、この素晴らしいチームに恵まれて、そんな不安も吹き飛びました。本当に参加していて大好きでしたし、すごく楽しめました。それに攻殻機動隊のファンなんです。押井さんのアニメがヨーロッパ、そして世界公開された当時、僕はこの作品に出会いました。色々と話を聞きながら僕が士郎正宗さんの漫画を手に取り、原作のバトーは軍人であり年上なので、僕はもっと歳は若いし、平和主義者だし、ちょっと共通点が見出せなかったんですね。けれども漫画を読みましたら、ビールもピザも大好き、「これだ!」と思いました。ここからキャラクター作りというのができ、もちろん道のりは簡単ではありませんでしたが、ここにいらっしゃるスカーレットさん、ジュリエットさん、そしてたけしさんと、もちろん監督とともに仕事ができたことは大きな喜びでした。 司会:ありがとうございました。ではジュリエット・ビノシュさんお願いいたします。 ジュリエット・ビノシュ:先ほども申し上げましたように、脚本を受け取って一読したときには本当にまったくさっぱりわからなかった。このSFというジャンル自体にもあまり馴染みがないこともありましたし。ただ、自分の息子が映画関係の仕事をしており、特に3Dの特殊技術の関係の仕事をしていて、その息子が原作のアニメーションの大ファンで、私が監督と話し合いを重ねている間、息子が脚本を2回も読んで、色々と逆に説明をしてくれたり、「是非出たほうがいいよ。これは本当に素晴らしい話だから、本当に素晴らしいコンテンツだから」というふうに勧められたことも後押しになった理由のひとつでもありました。本当にとても難しい内容で、独自の言語みたいなもの、暗号にも近いコードみたいなものが存在する話で、自分が演じる役は非常に複雑なキャラクターでした。そういう意味で別に喧嘩したわけではないんですが、監督とかなり熱論を何度も交わしてから役づくりしていたということがあります。撮影自体は、本当にとても刺激的な現場で素晴らしい仲間に恵まれて、共演者やスカーレットが朝から現場に行くと頑張ってトレーニングをしていたり、またルパート監督が目の下にクマを作って昼夜通して働き詰めの中、とても国際色豊かな各国から集まった素晴らしいアーティスト、スタッフたちが一丸となってこの映画に取り組んでいる本当に素晴らしく活気あふれる現場でした。 私が演じるオウレイ博士というキャラクターというのは非常に多層的なキャラクターで、色々な陰謀が明らかになる悪魔のような企業で働きながら、自分が作り上げた「少佐」という存在に対して、あくまで人間的な部分を保たせようと必死になる役柄で、自分自身の人間性というのにも向き合っていくという非常に複雑でとても演じがいがあったんですね。登場シーンが非常に少ないので、その中で自分のキャラクターというのをしっかり観客に伝えなければいけない。そういう意味でもとても演じがいがある分、とても難しいキャラクターでもありました。普段は滅多に出演しないSFの映画作りの新しい側面というのにも触れて、自分にとってエキサイティングな体験でした。日本と縁があるのか、『GODZILLA ゴジラ』(2014)にも出演しているので、少しそういった世界を体験していましたが本格的なSF映画というのは今回が初めてで、これをきっかけに原作マンガを読み返したりして、とても日本のマンガとかアニメに興味を持つようになりました。 司会:どうもありがとうございました。さあ、では、監督はいかがだったんでしょうか。 ルパート・サンダース監督:本当に映画っていうものは常にプレッシャーがあるものですね。大きいものも小さいものも。本当に多くの人に見られて判断される、非常に気に入っていただけるか、憎まれるのか、何が起きるかわからない。今作の場合、世界中に原作のファンがいますし、カルトクラシックとされているものです。登壇されている人たちに、このプロジェクトに是非とも参加してほしいと私から説得しました。たくさんのファンがいる中で、士郎さんや押井さん、そういうクリエイターたちに対して恥のないような本当にいいものを作らなくてはいけないというプレッシャーがありました。私はそういったプレッシャーの中で仕事することがかなり好きな方で、疲労困憊した中で狂気の中を彷徨っている部分もありましたが、とにかく最高のものを作るんだという気持ちの中で、私の想像力を全開にして、すべてやり尽くすという気持ちでいました。本当に戦いでしたし、まるで戦争のような形でここまで漕ぎつけました。世界中の人たちの心に響くものを作りたいというふうに思いましたし、皆さんが見たことのないような新しい作品、スカーレット・ヨハンソンの出演でさらに特別なものになっていますので、『ゴースト・イン・ザ・シェル』を世界中の人たち、多くの方々に見ていただきたいと思っています。 司会:どうもありがとうございました。さあ、ではお待たせしました。今日は記者の方がたくさんいらっしゃっておりますので、質疑応答タイムに移ります。 記者:ビートたけしさんにご質問です。今回出演なさってハリウッド映画と日本映画の違い、どのような点がありましたでしょうか。監督作に取り入れたいような部分があったら教えてください。 ビートたけし:自分が監督をやるときは非常に簡単に、ワンテイクが多いんですけども、ハリウッド映画はカメラの台数も、自分は最高で3カメくらいしか使わないけども、5カメも6カメもあって、ただ歩くシーンだけでも日本で役者やってるつもりで、「よーい」、まあ「ローリング」っていうんだけれども、「よーいスタート」で歩いて、監督が「Good.」っていって、良かったのかなと思って、「Good. One more.」そのあとまた「Nice. One more.」。そのあとやると「Very good. One more.」、「Excellent. One more.」、「Genius. One more.」(笑)。結局、歩くシーンだけでも5カメラで5回か6回歩いて、30カットあるってくらいの撮り方をして、その各カメラが各パーツを狙っていたり、全体を狙っていたりして、これはお金がかかるなとつくづく思いました。 記者:スカーレット・ヨハンソンさんに質問です。この映画を撮ることで、新しい自分を発見した、新しいスキルであり自分的なキャラクター、パーソナリティでありを発見したというふうにおっしゃっておりましたけれども具体的にどの点が、「あ、私こんなところなかったのに。こんな自分があったのか。」というような発見があったのか教えていただけますでしょうか。 スカーレット・ヨハンソン:とても個人的な質問ですね。過去5年位の間で興味を持っていることは、自分の仕事に関していろんなことを発見していく中で、自分が何か不快に感じるような状態に自分を置いて、それが肉体的な面である場合もあれば、ちょっと恥ずかしいと思うような気持ちの面であったりと心地よくない状態に長く自分を置いたときに、考えたことや感じたことを大切に感じて生きています。俳優としてそういうものをいい意味で利用していくというところがあるんですが、深く掘り下げていって本能的な部分、なにが芯の部分であるか、特定のキャラクターを演じるときに、そういうものが使えるのではないかと思っています。この役は、その存在が危機に直面しているという状況を5ヶ月間くらい演じ、決して心地いい体験ではありませんでした。それをどう乗り切るか、またそういう体験をして、2週間ほど前に初めて本編を見て、乗り切ることができたと思っています。質問に答えるのが難しいのですが、とても個人的なものでもありますし、多少抽象的なものであると思うんですけれども、今回非常に難しい困難な仕事ではありました。役者としても、人としても成長することができた作品と思っています。 司会:ありがとうございました。本当に最後の時間になってしまったので、最後の質問になります。記者:監督にお伺いしたいのですが、先ほどたけしさんがご指摘になったように、漫画やアニメーションの大ヒット作には厳しい目があります。それを越えるための戦略、そしてこの作品を実写にするための意義、その辺をどのように考えて挑みましたか。 ルパート・サンダース監督:この作品は大きなチャレンジでした。アニメーションでは簡単にできることが実写になると非常に難しい。例えばバトーの目。実写にすると滑稽なものになってしまう可能性はあります。そして荒巻の髪型、これも実際に滑稽にならないように実写化するのは難しい。少佐の全裸に見えるようなスーツ。これはちゃんとやらないとやはり映画的にはよくない。色々なことがあるんですが、若い頃に出会ったこの作品に非常に縁を感じ、あらゆるチャレンジを受けて立つという気持ちで挑みましたし、本当にこの中でカットのスタイルですとか、ペースですとか、本当に日本映画を意識しているっていうところがかなりあるんですね。『酔いどれ天使』と『ブレードランナー』が出会うようなそういう世界観。黒澤明さんの作品、西洋のSF映画、そういうようないろんなチャレンジはあっても、題材が本当に偉大、素晴らしいものというふうに思っていたので、単にポップコーンがズボンについたまま映画館を出て、全て忘れるような映画ではなくて、見た後色々考えたり、いろんな話をしたりという、そういう作品にしたかったんです。 今回はスカーレット・ヨハンソンが本当に素敵な演技を見せてくれました。非常に複雑な役柄で、「誰なのか」「なんなのか」というアイデンティティの問題や技術革新のテクノロジーが発達した世界で、何が人間たるものかという比喩になっていると思います。士郎さんが発表した当時はインターネット、携帯電話のないそういう時代でしたから、このテーマというのは非常に今日的なテーマであって、多くの観客にこの映画を見ていただいて、テーマやアイデアについて士郎さんがパイオニアであったこの作品を見ていただきたいと思います。 司会:どうもありがとうございました。たくさん質問、皆さん手を挙げてくださっておりますけども、お時間の都合で申し訳ありませんでした。ではこのあとフォトセッションに移りますので、よろしくお願いします。 ジュリエット・ビノシュが今日はルパート・サンダース監督のお誕生日!といって称え、会場に拍手が起こる。ゲストが後段しフォトセッション後、会見終了となった。<終了> ■ ■ ■ ■ ■ 原題:GHOST IN THE SHELL原作:士郎正宗『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(講談社「ヤングマガジン」所蔵)監督:ルパート・サンダース脚本:ジェイミー・モス、 ウィリアム・ウィーラー、アーレン・クルーガー出演:スカーレット・ヨハンソン、ピルー・アスベック、ビートたけし、ジュリエット・ビノシュ、マイケル・ピット 2017年/アメリカ/2D・3D©2017 Paramount Pictures. All Rights Reserved.配給:東和ピクチャーズ2017年4月7日(金)より全国公開 ■公式サイト:http://ghostshell.jp/