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COLUMN/コラム2024.05.02
“香港映画”最後の輝き!? 新世紀の警察映画『インファナル・アフェア』三部作
香港では現実でも、潜入刑事によるおとり捜査が頻繁に行われていたという。そのためもあってか、香港のアクション映画やノアール=犯罪映画では、“潜入捜査官”ものが数多く製作されてきた。 刑事がその正体を隠して、黒社会=マフィアの一員となり、犯罪組織を追い込んでいく。リンゴ・ラム監督、チョウ・ユンファ主演の『友は風の彼方に』(86)などは、あのクエンティン・タランティーノが、長編デビュー作『レザボア・ドッグス』(92)で、丸パクリしたことでも有名である。 20世紀の終わり近くに、この“潜入捜査官もの”を、新たな切り口で再生することを思いついたのが、アラン・マック。しかしそのアイディアを売り込んでも、香港製警察映画としては、銃撃戦もアクションも「少なすぎる」と、多くの映画会社やプロデューサーから難色を示された。 2001年になって、アンドリュー・ラウの元に持ち込んでから、この企画は大きく動き出す。ラウは、ウォン・カーウァイ監督作『恋する惑星』(94)の撮影で注目を浴び、監督としても『欲望の街/古惑仔』シリーズ(95〜00)や『風雲/ストーム・ライダース』(98)といったヒット作がある。そのラウが、マックのアイディアに惚れ込んで、プロデューサーを買って出たのだ。 そこに映画会社のメディアアジアが乗った。製作に正式にGOサインが出たのだ。 ラウとマック、そしてメディアアジアの目標は、決まっていた。それは従来とは一味違った、「新世紀の警察映画」を作ることだった。 パクり対策もあって脚本は作らない、撮影現場では、その日の撮影分だけをコピーして配るなどと言われてきた香港映画としては、異例の製作準備が行われた。リサーチも含めると脚本の執筆に、3年もの歳月が掛けられたのだ。 こうして2002年に撮影・公開されることとなったのが、『インファナル・アフェア』の“第1作”である。中国語での原題は、「無間道」。最も辛い地獄である、絶え間なく続く“無間地獄”を行くという意味である。 ***** 黒社会のボス、サムの配下であるヤンは、くたびれ果てていた。彼は10年前、警察学校の生徒だった時、その能力を見込んだウォン警視によって、“潜入捜査官”の役割を与えられ、マフィアに潜り込んでいたのである。いつ終わるとも知れないスパイの使命に、ヤンは心身を蝕まれていた。 一方警察官のラウは、ヤンとは逆に、サムから警察に送り込まれた、“潜入マフィア”だった。捜査情報を流しながらも、警察内で順調に出世の階段を上っていくラウは、愛する婚約者も得て、今ある地位と名誉を、手放したくなくなっていた。 ある時の麻薬取引をきっかけに、ウォン警視とサムは、自分の組織の中に内通者がいることを、共に気付く。その炙り出しの命を受けたのは、それぞれ当事者である、ヤンとラウだった。 お互いの正体を知らない2人の運命が、大きくクロスしていく…。 ***** “潜入捜査官”と“潜入マフィア”。対称となる存在を配置して、両者の地獄の苦しみを、等分に描いていく。従来の“潜入捜査官”ものの枠を超えた、「新世紀の警察映画」の企画段階から製作に携わった大スターが、アンディ・ラウだった。脚本にも「全面的に参加」したという。 アンディを含めて、どうせならメインキャストを、“影帝”で固めようということになった。“影帝”とは、主要映画賞での主演男優賞受賞経験者を指す。 こうして、“潜入マフィア”ラウ役には、アンディ、“潜入捜査官”ヤンには、トニー・レオン、サムにはエリック・ツァン、ウォン警視には、アンソニー・ウォンが決まる。マスコミからは、「破天荒な共演」と騒がれた「4大影帝」の揃い踏みだったが、いずれも脚本を送ったら、即出演OKだったという。 9年振りの共演ということも話題になった、アンディとトニーに関わる女性キャラとしてキャスティングされたのは、歌手としても活躍する、サミー・チェンとケリー・チャン。また台湾の歌姫エルバ・シャオが、ヤンが別れた恋人役として1シーンのみだが、重要な役で出演している。 主人公2人の若き日を演じる俳優を選出するのには、大々的な新人オーディションを行った。結果としては、すでに若手スターとして注目の存在だった、エディソン・チャンとショーン・ユーが決まる。 当時の香港映画界きっての“オールスター映画”となって、当初アラン・マックが単独で監督する予定が、実績のあるアンドリュー・ラウとの共同監督へと変わった。役割分担としては、マックは俳優の演出や、共同脚本のフェリックス・チョンと共に、シナリオをブラッシュアップする方向に尽力。撮影も兼ねたラウは、ヴィジュアル面に力を注いだことになっている。 しかしアンディ・ラウの証言では、現場では主にマックがモニター前に陣取るのに対し、ラウは俳優に指示を出すなど、実質的な演出を担当。また意見が割れた時の最終決定権は、プロデューサーも兼ねたラウにあったという。 トニー・レオンはヤン役を演じるに当たっては、かつてジョン・ウー監督の『ハード・ボイルド/新・男たちの挽歌』(92)で演じた“潜入捜査官“役と変わらないとしながらも、もうこれ以上続けたくない悩んでいる感じを出し、退廃的に演じてみたという。 一方アンディ・ラウは、観客は黒社会の手先だとわかっているのに、劇中では警察として、同僚らにまったく怪しまれることなく自然に振舞うという役作りに腐心した。因みに、事前に警察を取材するなどの準備はしなかった。仮に“潜入マフィア”が居たとしても、取材しようがないのだから、確かに事前リサーチは不要であっただろう。 ダニー・パンとパン・チンヘイによる、ハイテンポの編集もピタッとハマった『インファナル・アフェア』は、2002年最大のブロックバスター作品として、クリスマス・シーズンに公開。興収5,000万香港㌦を超え、2002年度の香港映画全体の売上げの17%を占めるメガヒットとなった。 こうなると当然、“続編”の動きが持ち上がる。第1作の製作期間からその後日談を描いた脚本が、執筆されていた。それに対してメディアアジアグループの会長ピーター・ラムが、大きく過去に遡る話の映画化を提案。ヤンとラウは、人生のスタートの地点で、いかにして“潜入捜査官”“潜入マフィア”となったのか?ウォン警視とサムは、はじめはどんな仲で、なぜお互いの命を狙うような敵対関係になってしまったのか? この構想は具体化。第1作よりも10年遡り、主人公たちの若き日を描く『II』、第1作の前後の顛末を詳らかにする『III』が、第1作とほぼ同じスタッフによって、続けて製作されることとなった。 第2作である『インファナル・アフェア 無間序曲』(03)のラウとヤン役には、第1作でその若き日を演じた、エディソン・チャンとショーン・ユーが、そのまま起用された。アンソニー・ウォンとエリック・ツァンは続投。そのまま10年若返ってみせた。 新たに加わったのは、フランシス・ンとフー・ジュン。それにカリーナ・ラウ。 フランシス・ンは、最大マフィアの若き後継者にして、ヤンの腹違いの兄であるハウ役。ヤンはこうした血筋故に、警察学校に居られなくなり、尚且つ“潜入警察官”として白羽の矢を立てられたのだった。 フー・ジュンは、ウォン警視の同僚にして親友役。彼に降りかかった災厄があってこそ、ウォン警視のマフィアへの憎悪は深まることとなる。 そしてカリーナ・ラウは、サムの愛妻にて、若きラウの想い人役。彼女への愛故に、ラウは“潜入マフィア”に志願し、また折々の“裏切り”や“殺し”に対して、躊躇のない者となってしまう。 この作品の舞台となったのは、1991年、95年、そして香港が、長年の統治者イギリスから中国へと返還される、97年。香港の黄金時代であると同時に、返還を前にした激動の時代である。そんな時の流れの中で、それぞれのキャラクターが負った“業”が複雑に絡み合って、数々の悲劇が生まれていく。 中国への返還を機に、黒社会から表の世界へと移り住むことを企てるも、夢破れて命を落とすハウが、象徴的と言える。死の間際に、信頼していた“弟”ヤンが、“裏切者”だと気付く。フランシス・ンが見事な表情、見事なキャラ造型で見せてくれる。 “プリクエル=前日譚”として、まるで当初から構想されたとしか思えない、素晴らしい完成度!『インファナル・アフェア 無間序曲』は、2003年10月の公開と共に大評判となり、多くの観客を集めた。 そしてその2カ月後、第1作の公開からちょうど1年を経て公開されたのが、『インファナル・アフェアIII 終極無間』。“三部作”の完結編である。 ネタバレになるが、そもそも“第1作”で、アンディ・ラウの“潜入マフィア”以外の主要キャラは、すべて命を落としている。“前日譚”はともかく、その続きなどどうやって描くのか?それが大いに注目された。 かつての香港映画ならば、大ヒット作『男たちの挽歌』(86)で命を落としたチョウ・ユンファが、その続編『男たちの挽歌Ⅱ』(87)では、「双子の弟」という設定で、シレッと戻ってきたりする。 もちろん緻密な構成で編まれた『インファナル・アフェア』シリーズでそんなことをするわけはなく、ヤン、ウォン警視、サムらは、“第1作”に至る数ヶ月前からの攻防に登場。生き残ったラウはそれに加えて、“第1作”の事件の後始末に追われる中で、精神の平衡を崩していく。 ここで“潜入マフィア”ラウは、自らの合わせ鏡のような存在だった、今は亡き“潜入捜査官”ヤンへと同化していく。ラウの妄想の中で、アンディとトニーの競演が行われる仕掛けだ。そしてラウは、自らの“マフィア”としての本性を消し去り、“警察官”として「善人でいたかった」と思うがあまり、“破滅”へと向かって行くのである。 この『III』の脚本には、「統括する形で携わっている」という、アンディ・ラウ。精神的にバランスが崩れたラウを演じるに当たって、「3カ月程度」様々なリサーチを行い、その細かい描写に関しては、自らのアイディアに基づいて演じている。 しかしラウの迎える“結末”は、アンドリュー・ラウ監督が考えたもの。「なんて、残忍な監督なんだろう」と、演じるアンディは思ったという。 『III』で新たに登場するのは、冷徹なエリート刑事役のレオン・ライと、中国本土から香港に来る麻薬商人役のチェン・ダオミン。この2人が、“生前”のヤン、そして狂っていくラウと関わる、重要な役割を果す。 記憶や時制を、混乱しかねないスレスレのつながりで積み上げて構成された、『インファナル・アフェアIII』。“三部作”の完結編として、「見事」という他ない仕上がりとなった。そして当然のように、公開と共に大ヒットを記録した。 『インファナル・アフェア』のリメイク権は、当時としての最高記録で、ハリウッドに売れたのは、あまりにも有名なエピソード。レオナルド・ディカプリオとマット・デイモンの主演、マーティン・スコセッシの監督で『ディパーテッド』(06)というタイトルで映画化され、アカデミー賞の最優秀作品賞・監督賞・脚色賞・編集賞と、4部門を制した。 また日本でも、西島秀俊と香川照之共演で「ダブルフェイス」(12)というタイトルでドラマ化された。 “三部作”の製作・公開当時は、中国返還の前後から元気がなくなっていた香港映画の「復活の狼煙」のようにも評された。しかし20年余経って振り返れば、これが「最後の輝き」となってしまった感が強い。 2003年SARS=重症急性呼吸器症候群によって、大打撃を受けた香港経済。当然映画界の被害も大きく、これ以降に『インファナル・アフェア』並みの製作規模やオールスターキャストを実現するためには、中国本土での公開を前提とした“合作”というスタイルを取る必然性が生じた。 そうなると中国共産党の検閲の下、いわゆる「表現の自由」が大きく狭められる。“黒社会”に属する主人公が、警察や公安を相手に勝利を収めるような作品は、一切許可が下りなくなったのである。 そうこうする内に、習近平政権による、昨今の弾圧である。香港から、『インファナル・アフェア』のような、ビッグバジェット且つ革新的作品が生まれるのは、完全な“夢物語”となってしまった。 付記すれば本作の出演者でも、エリック・ツァンが、ジャッキー・チェンなどど同様に、今や“親中派”の代表的な俳優となったのに対し、アンソニー・ウォンは、2014年の雨傘運動=香港反政府デモを支持して以降は、メジャー作品からは締出されたような形となっている。 様々な意味で、『インファナル・アフェア』三部作は、香港の「今は昔」のレクイエムのような作品と言えるかも知れない。■ 『インファナル・アフェア』© 2002 Media Asia Films (BVI) Ltd. All Rights Reserved『インファナル・アフェアII 無間序曲』『インファナル・アフェアIII 終極無間』© 2003 Media Asia Films (BVI) Ltd. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2024.03.08
ディカプリオが惹かれた「謎の大富豪」。若きハワード・ヒューズの20年を描く。『アビエイター』
「謎の大富豪」。 1976年、ハワード・ヒューズ70歳での訃報に直に触れたことのある者は、こんなフレーズを、やたらと耳にした記憶があるかと思う。 1958年の公式インタビューを最後に、亡くなるまでの20年近くは、マスコミから姿を隠し、ラスベガスのホテルに独居。立退きを迫られると、そのホテルごと買収して、ほとんど外出せずに暮らし続けたという。 遺された総資産が360億㌦にも上り、「謎の大富豪」のフレーズがあまりにも立ち過ぎた故、私などは彼の業績や実績を、かなり後年までほとんど知らなかった。“発明家”“飛行家”そして“映画製作者”として名を馳せたという事実を。 190cmと高長身で、ハリウッドスター並みの容貌。ひとつの人生で何人分もの体験をして、多くのことを成し遂げたヒューズには、「20世紀で最高に寛大な金持ち」「身勝手な人」など、正反対の評価が付いて回る。 そんなヒューズの人生に、魅せられた男がいた。レオナルド・ディカプリオだ。 1974年生まれの彼は、『ギルバート・グレイプ』(1993)で、19歳にしてアカデミー賞助演男優賞の候補となり、『タイタニック』(97)で、押しも押されぬ若手のTOPスターとなる。 彼がヒューズに興味を持ったのは、10代の頃。この「謎の大富豪」を、正面切って描いた伝記映画は、長く存在しなかった。そしてディカプリオは、20代の8年間、ヒューズの人生を映画化するプロジェクトに心血を注いだのである。 ヒューズは、“飛行機”と“映画”と“女性”に、同じような情熱で関わったという。ディカプリオはその伝記を何冊も読み、様々な書き手が、各々違う見方で彼について書いているのを発見。一言では言い表せない複雑な人間だからこそ、こんなにも惹かれるのだと、得心した。そこに俳優としてのやりがいを強く感じると同時に、自分とヒューズの共通点が、「完璧への執着」であることを見出したという。 ディカプリオは、製作会社「アピアン・ウェイ」を設立。その第1作としてこの企画を取り上げ、自らは製作総指揮と主演を務めることにした。 タイトルは、“飛行家”という意味の“アビエイター”に。そして監督は、マーティン・スコセッシに決まる。 スコセッシとディカプリオは、前作『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)に続く顔合わせ。…と言うよりも、本作『アビエイター』(2004)は今日に於いては、『キラー・オブ・ザ・フラワームーン』(2023)まで6作に及ぶ名コンビの、2作目という位置付けになるのだろうか? しかしスコセッシの起用は、当初はディカプリオの頭にはなく、スコセッシ自身も、“ハワード・ヒューズ”という題材には、まったく興味がなかったという…。 ***** 1920年代。ヒューズは父から受けた莫大な遺産を元手に、夢のひとつ“映画製作”を開始。念願の企画だった航空アクション映画『地獄の天使』製作で、本物の戦闘機を買い集め、自ら空中スタントをこなし、ついには監督まで務めることとなった。この作品は、2年近く掛けてようやくクランクアップ。しかしトーキー映画第1作『ジャズ・シンガー』を観たヒューズは、サイレント映画だった『地獄の天使』を、全編音声入りで撮り直すことを決めた。 史上空前の莫大な予算を掛けて3年がかりで完成した『地獄の天使』は大ヒット。しかし大赤字に終わる。 ヒューズはもう一つの夢だった、“航空事業”に着手。会社を立ち上げ、世界一速い飛行機の開発を始めた。 女性と次々と浮名を流していたヒューズは、新進女優のキャサリン・ヘプバーンと恋に落ちる。2人は真剣だったが、やがてズレが生じ、破局が訪れる。 以前から潔癖症の傾向があったヒューズの病みは深まり、強迫神経症の症状が顕著となる。一時は服を着ることも水に触れることも出来ず、全裸のまま暮らし、他人との接触や外出を、恐怖と感じるようになった…。 その後ヒューズは、大手航空会社「TWA=トランス・ワールド航空」のオーナーとなる。第二次大戦開始後には、政府からの資金を受けて、世界最大の輸送機の開発を進める。同時に偵察機を開発し、自らテスト飛行を行うが、墜落事故で瀕死の重傷を負う。 復帰後の彼を襲ったのは、開発が遅れていた輸送機に関し、公費の不正使用を疑うFBIの強制捜査だった。公聴会でライバル企業の息が掛かった上院議員と対決することとなったヒューズは、精神状態が著しく悪化。試写室に全裸で引き籠もって、絶体絶命のピンチを迎えた。 元恋人の女優エヴァ・ガードナーのサポートで、ヒューズは公聴会に何とか出席する。果して彼は、この難局を乗り切れるのか!? ***** 構想から実現までの8年間、ディカプリオはヒューズの伝記をはじめ、関係する本や資料を読み漁った。更には録音テープを聴き、古い映画を何本も鑑賞。その上で、ヒューズと交際していた女優も含め、彼を直接知る人々に会うなど、「ハワード・ヒューズとして」生活するところから、役作りを始めた。 ヒューズ流の、向こう見ずな“飛行術”を学んだのも、その一環。ヒューズが悩まされていた、異常な潔癖症の実際を知るためには、この病気に詳しい医者を訪ね、症状を詳しくリサーチした。“映画化”まで時間が掛かった分、ディカプリオは十分な準備ができたとも言える。 監督は、『ヒート』(95)や『インサイダー』(99)のマイケル・マンに依頼。そのマンを通じて脚本は、『グラディエーター』(2000)や『ラスト サムライ』(03)のジョン・ローガンにオファーした。 ディカプリオとマンは、ヒューズの全生涯を追ったり、狂気に侵された晩年を描いたりするのではなく、彼の若い頃に焦点を当てることにした。奇行で有名な「謎の大富豪」ではなく、“航空機”と“ハリウッド”の両方の世界で大活躍する、過激なほどの想像力と先見性を兼ね揃えた、精力的で若々しい“英雄”としての、ハワード・ヒューズである。 物語の核には、大きな2つの出来事を、据えることを決めた。それは、ヒューが20代後半に挑んだ、『地獄の天使』製作、そして1940年代、ヒューズ率いる「TWA」が、国際航空会社大手として出現した絶頂期である。本作は、「いくつかの出来事を凝縮させたり、順序を変えたり、登場人物を組み合わせたりしつつも、出来るだけ真実に近いもの」を作り出す試みだった。 そんなヒューズの20年間に焦点を当てた物語の幕を引くのは、“1947年”。ヒューズにとっては「晩年の第一歩目」とも言うべき年だったと、マンが決めたのである。 しかしマンは中途で、本作に関して監督はせず、製作に専念することとなった。では誰が、監督に適任か? 本作の脚本を、スコセッシに読むよう薦めたのは、彼のエージェント。誰が関わっている企画かは、一切隠してのことだった。実はこのエージェントは、当のディカプリオの担当も、兼ねていた スコセッシはちょうど、『ギャング・オブ・ニューヨーク』の編集で忙しかった頃。しかし渡された脚本に目を通すと、あっという間に、頁をめくるのに夢中になったという。 スコセッシがそれまでヒューズに興味を持たなかったのは、「奇人変人の類かと思っていた」という、お定まりの理由だった。そんな彼が脚本を読んで最も興味深いと思ったのは、「すごくハンサムで活力に満ちた頭の切れる若者が、自分自身の欠点に苦しむ男になった」という部分だった。 スコセッシは、監督兼プロデューサーとして渾身の力を籠めた、『ギャング・オブ・ニューヨーク』の次に手掛ける作品は、彼のフィルモグラフィーで言えば、『ハスラー2』(86)や『ケープ・フィアー』(91)のような作品と考えていた。即ち、自分が出した企画ではなく、監督として依頼された、雇われ仕事である。 そんなタイミングで、本作の企画が持ち込まれた。スコセッシは、「ハリウッドの20年代、30年代、40年代、まさにアメリカン・ドリームの一部だった頃を再現できるという魅力」に抗えず、受けることを決めた。 スコセッシは、監督に決まると、ローガン、ディカプリオと3人で、ストーリーの微調整を行った。数多くの女性と浮名を流したヒューズだが、その内の2つの恋を、最も重要だったものとしてピックアップすることに決めたのである。 それはキャサリン・ヘップバーン(1907~2003)、エヴァ・ガードナー(1922~90)という、2人のハリウッド女優との恋愛。実在の2人を演じるは、2人のケイト。ケイト・ブランシェットとケイト・ベッキンセールである。 その中でも本作で印象深いのは、ブランシェット演じる、キャサリン・ヘップバーン。ヘップバーンとヒューズには、多くの共通点があり、共に凄い野心家であったことが描かれている。 奇しくも“ケイト”という愛称だったキャサリン・ヘップバーン役を、ケイト・ブランシェットにオファーすることが決まったのは、「ゴールデン・グローブ賞」の授賞式だったという。その席でブランシェットを見たスコセッシの妻が、彼に耳打ちした。「ほら、あなたのキャサリン・ヘップバーンが見つかったじゃない」。スコセッシも、「その通りだ!」と答えたという。 オファーを受けたブランシェットは、「…正直言ってマーティン・スコセッシが監督でなかったら、こんなことやってみようとは思わなかった」という。それはそうだろう。キャサリン・ヘップバーンは、アカデミー賞主演女優賞を史上最多の4度受賞し、誰からも尊敬されている大女優。しかもこの作品の製作が本格化した頃は、存命であった。 ブランシェットは、役を外見ではなく、エネルギーの部分から自分のものにしていった。具体的には、ヘップバーンの声をよく聞いた。人がどう呼吸するかは、その人の考え方を表現する大切な要素だからである。 スコセッシ流のサポートは、シネフィルの彼らしく、“映画上映”だった。ブランシェットの移動場所に合わせて、ヘップバーンの昔の主演作=1930年代の作品を、大きなスクリーンに映し出すよう、計らったのだった。 余談になるがヘップバーンは、血液の循環が良くなるという、冷水のシャワーを浴びる習慣があった。そこでブランシェットも役作りとして、冷たいシャワーを浴びることにした。しかしこれは続かず、すぐに温水に切り替えたそうである。 1920年代から40年代という時代を再現するのに力を発揮したのは、衣裳や美術、撮影といったスタッフ陣。衣裳デザインのサンディ・パウエルは、最高に洗練された当時の豪華ファッションを再現した他、ヒューズの着こなしの変化を表現した。 撮影監督のロバート・リチャードソンは、ナイトクラブなどの実物大のセットを組む、美術のダンテ・フェレッティと、綿密に打合せ。また飛行シーンの視覚効果チームとも話し合って、色合いやカメラワークなどの同調も行った。 リチャードソン、フェレッティ、パウエルの3人は、スコセッシの相方とも言うべき、編集のセルマ・スクーンメーカーと共に、アカデミー賞が贈呈されるという形で、報われた。2004年度のアカデミー賞では本作に、その年最多の5部門が贈られたのだ。 しかし当然のように狙っていた、作品賞や監督賞、主演男優賞は、ノミネート止まり。この年度のアカデミー賞を制したのは、4部門の受賞ながら、作品賞、監督賞などに輝いた、クリント・イーストウッド監督・主演の『ミリオンダラー・ベイビー』だった。 5度目のノミネートにして、またも受賞できなかった“監督賞”のオスカーを、スコセッシが手にするのは、6度目の正直。2006年の『ディパーテッド』。 一方ディカプリオが主演男優賞を手にしたのは、本作から10年以上経った2015年の『レヴェナント: 蘇えりし者』。主演・助演合わせて、奇しくもスコセッシと同じ、6度目でのノミネートでの受賞となった。 本作に於いて、ある意味最もチャレンジャーで、しかも大勝利を収めたのは、ケイト・ブランシェットだったと言えよう。ほとんどの人が実物を知らないハワード・ヒューズと違って、誰もが知っていた稀代の名優キャサリン・ヘップバーンを演じて、初めてのオスカー=アカデミー賞助演女優賞を手にしたのだから。■ 『アビエイター』© 2004 IMF. 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COLUMN/コラム2024.01.23
リアリズム西部劇などクソ喰らえ!“巨匠”ハワード・ホークス起死回生の一作!!『リオ・ブラボー』
古代エジプトを舞台に、大々的なエジプトロケを敢行した製作・監督作『ピラミッド』(1955)が失敗に終わった後、ハワード・ホークスは、ヨーロッパへと逃れた。そして映画ビジネスに対する情熱を取り戻すまで、4年近くの歳月を要した。 それまでの彼のキャリアでは最も長かったブランクを経て、帰国してハリウッドへと戻ったホークスは、「自分が最もよく知っているものをやってやろう…」と考えた。それは、既に落ち目のジャンルのように思われていた、“西部劇”。 彼は思った。以前に観て、「あまりにも不愉快」と感じた作品の裏返しをやってみようと。その作品とは、『真昼の決闘』(52)。 ゲイリー・クーパー演じる保安官が、自分が刑務所送りにした無法者の一味の報復に脅え、町の人々の協力を得ようとするも、ソッポを向かれてしまう…。“赤狩り”の時代、体制による思想弾圧を黙認するアメリカ人を、寓意的に表した作品とも言われる。いわゆる“リアリズム西部劇”として、傑作の誉れ高い作品である。 しかしホークスに掛かれば、一刀両断。「本物の保安官とは、町を走り回って人々に助けを乞う者ではない」。プロは素人に助けを求めたりしないし、素人にヘタに出しゃばられては、かえって足手まといになるというのだ。 また別に、『決断の3時10分』(57)という作品も、ホークスの癇に触っていた。この作品では、捕らえられている悪人のボスが主人公に対し、「手下たちがやって来るまで待っていろよ」と凄んで、冷や汗を掻かせる。これもホークスからしてみれば、「ナンセンスもはなはだしい」。主人公がこう言い返せば、良い。「手下どもが追いついてこないことを祈った方がいいぞ。何故なら、そうなったら死ぬのはお前さんが真っ先だからな」 ホークスが新作の主演に想定したのは、ジョン・ウェイン。“デューク(公爵)”の愛称で、長くハリウッドTOPスターの座に君臨した彼は、特に“西部劇”というジャンルで、数多の名作・ヒット作の主演を務め、絶大なる人気を誇っていた。 そしてホークス&ウェインは、かつて『赤い河』(48)で組み、赫々たる戦果を挙げたコンビである。お誂え向きに、ウェインもホークスと同様、『真昼の決闘』に嫌悪感を抱いていた。 その頃のウェインは、ちょっとしたスランプ状態。西部劇には『捜索者』(56)以来出演しておらず、近作の数本は、ウェイン主演作としては、ヒットとは言えない興行成績に終わっていた。 こうして監督ハワード・ホークス、主演ジョン・ウェイン11年振りの組合せとなる、本作『リオ・ブラボー』(59)の企画がスタートした。 ***** テキサスの街リオ・ブラボーで、保安官のジョン・T・チャンス(演:ジョン・ウェイン)は、殺人犯のジョーを逮捕した。 しかしジョーの兄で大牧場主の有力者ネイサン(演:ジョン・ラッセル)が、弟の引き渡しを求めて、街を封鎖。殺し屋を差し向ける。チャンスの仲間は、アルコール依存に苦しむデュード(演:ディーン・マーティン)と足が不自由な老人スタンピー(演:ウォルター・ブレナン)の2人だけ。 友人のパット(演:ワード・ボンド)が加勢を申し出るが、チャンスは断わる。しかしパットは、ネイサンの一味に殺害されてしまう。 ネイサンの放つ刺客に、幾度もピンチを迎えながら、パットの護衛を務めていた早撃ちの若者コロラド(演:リッキー・ネルソン)や、流れ者の美女(演:アンジー・ディキンソン)の協力も得て、切り抜けていくチャンスたち。 そんな中でデュードを人質に取ったネイサンが、牢に居るジョーとの交換を申し入れてきた。ネイサン一味が立て籠もる納屋に向かう、チャンスとコロラド、そしてスタンピー。 いよいよ、最終決戦の時がやって来た…。 ***** 脚本はホークスお気に入りの2人、ジェールズ・ファースマンとリー・ブラケットに依頼した。基本的には、ホークスとファースマンが喋ったシーンを、ブラケットが書き留めて、形を整える。必要とあらば更に整え直して、つなぎ合わせを行い、その間にブラケット自身のアイディアを少々付け足していく。このやり方で、何度も改稿。脚本が、完成に至った。 しかしながら、これで終わりというわけではない。クランクイン前から撮影中まで、細かい変更が随時行われていった。 ジョン・ウェイン以外のキャスティングで、ホークスがデュード役に、最初に考えたのは、『赤い河』に出演していた、モンゴメリー・クリフト。しかし、最初は候補のリストに入ってなかった、歌手でコメディアンのディーン・マーティンが浮上した。 マーティンはジェリー・ルイスとの「底抜けコンビ」で人気を博したが、56年にコンビを解消。フランク・シナトラ率いる、“ラットパック(シナトラ一家)”入りした頃だった。ホークスはマーティンに会ってみて、その人柄が気に入り、彼の起用を決めた。 早撃ちの拳銃使いコロラド役には、当初年輩の俳優を当てることが考えられていた。しかしホークスに、妙案が浮かんだ。 彼が白羽の矢を立てたのは、18歳のリッキー・ネルソン。子どもの頃から、父オジー、母ハリエット、兄デヴィッドとホームコメディ「陽気なネルソン」に出演していたリッキーは、16歳で歌手デビューし、アイドル歌手として、絶大な人気を誇っていた。 当時は、エルヴィス・プレスリーが絶大なる興行力を持っており、その主演映画に観客が殺到していた。ホークスはネルソンも、似たような力を持っているに違いないと考えたのである。 実際に本作の撮影中は、数百人ものファンが、リッキーが滞在するホテルへと押しかけた。リッキーは4度もホテルを変えた挙げ句、人里離れた牧場へと避難するハメとなった。 スタンピー役は、『赤い河』などにも出演し、まるで当て書きのようなウォルター・ブレナン。当時はTVシリーズ「マッコイじいさん」で、お茶の間の人気者にもなっていた。 リッキーやブレナンがそうであるように、本作には、TVの出演俳優が多々起用されている。パット役のワード・ボンド、敵の親玉ネイサン役のジョン・ラッセル、チャンスをサポートするメキシコ人のホテル経営者役のペドロ・ゴンザレス=ゴンザレス等々。TV時代が到来している折りに、観客の間口を広げる、機を見るに敏な、ホークス流キャスティングと言えるだろう。 因みに本作は、“大男”映画でもある。ウェインとラッセルが、193㌢。監督のホークスとワード・ボンドが、190㌢。ウェインと並ぶと小さく見えるが、リッキー・ネルソンが185㌢、ディーン・マーティンも183㌢あった。 ウェイン演じる保安官とのロマンスが展開する、流れ者の美女役には、新進女優だった、アンジー・ディキンソン。これまでに自作に出演した中でも、アンジーが最高にセクシーと見て取ったホークスは、彼女が身に付ける衣裳を、細部の細部まで自ら目を通した。そして、当時の女性が着ていた型通りのものにしないことを望んで、ソフトですべすべした「女っぽい衣裳」をリクエストした。 当時はスタッフでも、女性は衣裳係とヘアの係ぐらいしか居なかった。ロケ地入りしたディキンソンは、男たちから「仲間入り」の洗礼を受けた。それは、彼らに招かれた夕食の場で出された、“牛の睾丸料理”。彼女はペロリと平らげて、無事に「仲間入り」を果した。 アリゾナ州ツーソン谷でのロケ撮影は、厳しい炎暑との戦いだった。厩のまぐさが発火しないように、4時間おきに耐火液を振りかけ、撮影中以外は、馬に大きなフードを被せて、強烈な日差しから守った。砂嵐で咳き込む馬には、人間用の咳止めを飲ませたという。 夜間撮影では、イナゴの大群が照明へと押し寄せた。仕方ないので、別に強烈なライトを焚き、そちらにおびき寄せて、撮影を進めた。 クライマックスの対決シーンで、炸裂するダイナマイト。その爆発をより派手に演出するために、美術監督は色紙を大量に、爆破される納屋の中に仕込んだ。その結果、空に舞う色紙は、「まるで爆竹のでかいやつ」のようになってしまい、その場に居合わせた一同が大笑いで、NG。再撮で、納屋を丸々イチから建て直すハメになったという。 ウェインやブレナンなどから、しっくりしないからセリフを変えて欲しいというリクエストがあると、ホークスは、その願いを受け入れた。またリハーサルの時などに、俳優が偶然思いついたことも、どんどん採用していった。 アルコール依存症のデュードを演じるディーン・マーティンが紙巻タバコを作る際に、「もし俺の指のふるえがとまらないとしたら、どうやってタバコを巻いたらいいんだ?」とジョン・ウェインに尋ねた。彼は答えた。「俺が代わりに巻いてやるさ」。 これがデュードがうまくタバコを巻けないでイライラしていると、保安官が黙ってタバコを差し出すというシーンとなった。このような形で2人のキャラクター間の友情が、巧みに表現されたのである。 音楽も、うまくハマった。ディーン・マーティンとリッキー・ネルソンが、『赤い河』の挿入歌だった、「ライフルと愛馬」をデュエットする。殺し屋たちの魔の手が迫っている中で、随分と悠長なシーンではあるが、「…ふたりのすばらしい歌手がいて、うたわせないという手はない」という、ホークスの考えによる。 悪党のネイサンが保安官たちを脅かすために、酒場の楽団にリクエストする「皆殺しの歌」は、1836年3月にメキシコ軍が、テキサス分離独立派が立て籠もるアラモの砦を攻撃する前に流したと言われる曲。しかし実際の曲は、「恐ろしく陳腐で使えない」と、ホークスが判断。音楽のディミトリ・ティオムキンに、新たに作曲させた。 余談になるが、ウェインはこの曲が、非常に気に入った。そして本作の翌年、アラモの戦いを、自らの製作・監督・主演で映画化した作品『アラモ』(60)に流用したのである。 本作の撮影は、ほとんどのシーンで何テイクも回さずに、1発OKも多かったという。そして58年の5月から7月に掛けての、61日間の全日程を終えた。 本国アメリカ公開は、翌59年の3月。大ヒットとなり、日本その他海外でも、膨大な興行収入を上げた。 そんな本作も公開当時の評価は、単なる無難な“職人監督”であるホークスが手掛けた、“大衆娯楽作品”扱いに止まった。しかし後年、ホークスが“巨匠”として再評価されていく中で『リオ・ブラボー』は、彼の多彩なフィルモグラフィーの中でも、重要な1本と目されるようになっていく。 後年“西部劇”に引導を渡した1本とも言われた、サム・ペキンパー監督の『ワイルド・バンチ』(69)を、「…私なら一人がスローモーションで地上にたおれる前に、四人殺し、死体公示所につれていき、葬送する」と揶揄してみせた、ホークス。そんな彼が作った「本物の“西部劇”」が、『リオ・ブラボー』なのである。■ 『リオ・ブラボー』© David Hawks
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COLUMN/コラム2023.08.30
失われた祖国への“愛”が生んだ、クストリッツァ監督の大傑作『アンダーグラウンド』
昔、あるところに国があった…。「ユーゴスラヴィア」。それが、映画監督であるエミール・クストリッツァが生まれ育った国の名前。「単1の政党が支配し、2つの文字を持ち、3つの宗教が存在し、4つの言語が話され、5つの民族から成る、6つの共和国により構成され、7つの隣国と国境を接する」と謳われた、バルカン半島に位置する連邦国家だった。 クストリッツアは、1954年生まれ。「ユーゴスラヴィア」を構成した6つの共和国の1つ「ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国」の首都サラエボの出身である。 初の長編作品『ドリー・ベルを憶えてる?』(1981)で、「ヴェネツィア国際映画祭」の新人監督賞を受賞し、続く『パパは、出張中!』(85)で、「カンヌ国際映画祭」の最高賞=パルム・ドールに輝いた。 快進撃は止まらず、『ジプシーのとき』(89)では再び「カンヌ」で、監督賞を得ている。 その作風は彼の友人、オーストリア出身で2019年にノーベル文学賞を受賞したペーター・ハントケの言葉を借りれば、「シェイクスピアとマルクス兄弟のちょうど中間」。高尚でクラシカルなシェイクスピアのようなストーリーと、マルクス兄弟のようなスラップスティックコメディという、シリアスとユーモア両極端の要素が、混在している。それがクストリッツァの作品世界である。 80年代に手掛けた3本で、ヨーロッパを代表する映画監督の1人となった彼は、1990年にアメリカに移住。『カッコーの巣の上で』(75)『アマデウス』(84)などの名匠ミロス・フォアマンの後任として、コロンビア大学映画学科の講師に就任する。そして初のアメリカ作品『アリゾナ・ドリーム』(93)を、ジョニー・デップ主演で撮った。この作品も高く評価され、「ベルリン国際映画祭」で銀熊賞を受賞している。 チェコスロバキア出身のフォアマンのように、その後はアメリカで作品を撮り続けるという選択肢もあったろう。しかし『アリゾナ・ドリーム』撮影中に、“ボスニア紛争”が勃発。故国が内戦状態に陥ったことが、彼の運命を変える。「…僕はユーゴスラヴィアに生まれ、ユーゴスラヴィア人の誇りを持ってこれまで生きてきた。地球上のどこに滞在していようと、ユーゴスラヴィアとは心で結びついていたんだよ。その祖国が、ある日突然、消えてしまった。これはもう、自分の恋人を失ったようなもので、いつも何とかしたい、祖国を救いたいと思っていた」 本作『アンダーグラウンド』(95)を撮ろうと思ったきっかけ。それは、「祖国への愛」であった。 結果的にクストリッツァのキャリアを語る上で、絶対的に外せない“代表作”となった『アンダーグラウンド』。製作から30年近くを経たことを鑑みて、「ユーゴスラヴィア」の歴史をざっと紐解きながら、それと密接にリンクしている、全3部構成のストーリーの紹介を行う。 ***** 第1次世界大戦後に、バルカン半島に建国されたユーゴスラヴィアだったが、第2次大戦が始まると、ナチス・ドイツが進出。当時のユーゴ政府は「日・独・伊三国同盟」に加わり、「親ナチス」の姿勢を見せる。しかし、これに反対する勢力がクーデターを起こし、政権の奪取に成功する。 怒ったヒトラーは、1941年4月にユーゴを侵略して、占領・分割。そこでユーゴ共産党政治局の一員だったチトーを総司令官に、人民解放軍=パルチザンが組織され、ナチスへの武力抵抗が展開された。 *** 1941年、セルビアの首都ベオグラードでナチスが爆撃を開始したちょうどその頃、共産党員のマルコは、友人のクロを誘って入党させる。彼らはナチスやそのシンパを襲っては、武器と金を奪った。 ナチスの猛攻を避けるため、マルコは、祖父の所有する屋敷の地下室に、避難民の一団を匿う。クロの妻は、そこで息子のヨヴァンを出産。そのまま息絶えてしまう。 43年、クロは惚れた女優ナタリアを拉致。結婚を目論むが、ナチスに逮捕される。酷い拷問などで重傷を負ったクロは、マルコの手で、件の地下室へと運び込まれる。 美しいナタリアに横恋慕したマルコは、クロを裏切り、彼女を我が物とする…。 *** イデオロギーや民族、宗教を越えた“愛国主義”の立場からの、チトーの“パルチザン闘争”は勝利を収め、祖国の解放に成功。1946年には彼を国家のリーダーに頂く、社会主義体制下の連邦国家として、「ユーゴスラヴィア」の歩みが始まる。 先にも挙げた「単1の政党(共産党)が支配、2つの文字、3つの宗教、4つの言語、5つの民族、6つの共和国(マケドニア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、スロベニア、モンテネグロ)」というユーゴだったが、1948年にはソ連と対立。社会主義国ながら、東西どちらの陣営にも属さない、ユニークな政治体制となる。 自主管理と非同盟政策を2本柱に、1961年には社会主義国では初めて、エルヴィス・プレスリーの楽曲がリリースされるなど、「自由化」が進んだ。 付記すれば、1954年生まれのクストリッツアは、西側からの若者文化流入の全面的影響を受けた世代。映画では、ルイス・ブニュエルから『フラッシュ・ゴードン』(80)まで幅広いジャンルを好み、音楽ではセックス・ピストルズのシド・ヴィシャスがカバーした「マイウェイ」をこよなく愛するという彼の嗜好は、紛れもなくこの時期のユーゴに育ったが故である。 *** 1961年、地下室に潜ったクロたちの“戦争”は、まだ終わっていなかった。チトー政権の要人となったマルコが、15年以上に渡ってクロたちを騙し続けたからである。ユーゴはナチスの占領下に置かれたままで、地上では激しい戦闘が続いていると。 地下室の人々は、小銃や戦車などの兵器を製造。マルコはそれを密売し、私腹を肥やすが、マルコの妻となったナタリアは、罪の意識に苛まれアルコールに溺れる。 崩壊の時が、突然訪れる。クロの息子ヨヴァンの結婚式で、マルコとナタリアの関係に、クロが気付く。更にアクシデントから、戦車の砲弾が発射され、地下室に大穴が開く。 クロは、息子ヨヴァンと共に外へ。ナチスを倒そうと意気込む彼らの前に現れたのは、英雄として讃えられるクロの生涯を映画化している撮影隊。ナチの軍服を着た俳優たちを「敵」と認識したクロとヨヴァンは、攻撃を開始する…。 *** 1980年、カリスマ的な指導者だったチトーが死去。すると、ユーゴが乗り越えた筈の、民族や共和国間の対立が、経済危機を背景に激しくなっていく。 91年に連邦の一員だった、スロヴェニアとクロアチアの独立が宣言されたのをきっかけに、セルビア側からの軍事介入などで、ユーゴは内戦状態に。“ユーゴスラヴィア紛争”は、ここから2001年までの10年間にも及んだ。 そして連邦国家「ユーゴスラヴィア」は、完全に解体されることとなる…。 *** 泥沼の内戦状態となった、ユーゴの地に、クロ、マルコ、ナタリアらの姿があった。クロは戦闘の司令官として、マルコとナタリアは、強欲な武器商人とその妻として。 クロはかつての親友、そして最愛の女性と、どのような形で、再び相見えるのか? ***** 『アンダーグラウンド』のベースになったのは、デュシャン・コバチュヴィッチが20年前に書き下ろした戯曲。但し「戦争が続いているとウソをついて、人々を地下に閉じ込めた男の物語」という根幹だけ残して、他はすべて変えることとなった。 クストリッツァとコバチュヴィッチは、共同で脚本を執筆。元は家族を描いたストーリーを、国家をテーマにした作品に変えていった。コバチュヴィッチ曰く、「我々の母国をあまり知らない人たちに国民の生きざまや、この悲惨な戦争が起きざるを得なかった理由について知ってほしかった…」 クストリッツァのこの新作に、出演を熱望したハリウッドスターがいた。前作『アリゾナ・ドリーム』の主演俳優ジョニー・デップである。 ジョニーは、クロらと同様に地下室に閉じ込められる、マルコの弟イヴァン役に立候補。この役のためなら、「セルビア語をマスターする!」と決意表明したのだが、クストリッツアは、本作はユーゴの役者だけで撮ると、断わったという。 その言葉通り、主要キャストはユーゴ出身者で固めた本作の撮影は、93年10月にチェコスロヴァキアのプラハのスタジオでスタート。撮影は断続的に行われ、旧ユーゴ、ドイツのベルリンとハンブルグ、更にブルガリアを経て、95年1月に旧ユーゴのベオグラードでクランク・アップとなった。 クストリッツァは本作の製作中、ストーリーがどこに向かって行こうとしているのか、自分でも「わからなかった」と語っている。映画史に残るラストシーンも、「撮影しながら思いついた」のである。 未見の方のために詳細は省くが、ドナウ川にせり出した土地に、主要キャスト全員が揃って展開するこのシーンは、“バルカン半島”の在り方への希望と解釈する向きが多かった。しかしクストリッツァによると、「ヨーロッパ全体のメタファーのつもり」だったという。 因みに人々を騙して地下室に閉じ込めるマルコの行動は、情報を遮断して民衆の支持を集める、“共産主義”のメタファーと受け止めてかまわないと、クストリッツァは語っている。 本作は「カンヌ」で、クストリッツァにとっては2度目となるパルム・ドールを受賞。そうした絶賛を受けると同時に、大きな物議を醸すことにもなった。本作の内容が、ユーゴ内戦を煽ったセルビアの民族主義者寄りだとの批判が、フランスの知識人たちなどから行われたのである。 クストリッツァは、“ユーゴスラヴィア人”を自任し、「自分はいかなる政治グループにも属していないし、特定の宗教も信じていない」と明言していた。それ故に、様々な政治的立場の人間から、裏切り者扱いされた側面もあったと言われる。 こうした糾弾によってクストリッツァは、「カンヌ」でパルム・ド-ルという頂点を極めたその年=95年の暮れに、「監督廃業宣言」するまでに追い込まれる。それは割りとあっさりと、覆されることにはなるのだが。 その後のクストリッツァは。ほぼ3~4年に1作程度のペースで、劇映画やドキュメンタリー映画を発表し続けている。またミュージシャンや小説家としても、活動している。 それと同時に、政治的には「先鋭化」が進んだというべきか?ユーゴスラヴィア紛争におけるセルビア側の責任を否定し、西側諸国の干渉を一貫して批判するようになる。ユーゴ紛争に於いて「人道介入」の名の下に、米軍を中心とするNATO軍が、セルビア人勢力に大規模な空爆を行った上で、ユーゴに駐留するようになったことに対しては、強い憤りを表明している。 更にクストリッツァは、アメリカはじめ西側との対立を深めつつあった、ロシアの独裁者プーチンへの支持を公言するようになる。2022年、ロシアがウクライナに侵攻した前後には、「ロシア陸軍学術劇場」のディレクターに就任したとのニュースが報じられ、各方面に衝撃が走った。その後この“就任”に関しては、本人側から否定するコメントが出されたが…。 すっかり毀誉褒貶が激しい、アーティスト人生を送ることになったクストリッツァ。それは『アンダーグラウンド』という、失われた祖国への「愛」故に作り上げた、世紀の大傑作に端を発する部分が大きい。 昔、あるところに国があった。そして、この物語に、終わりはない…。■ 『アンダーグラウンド』© MCMXCV by CIBY 2000 - All rights reserved.
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COLUMN/コラム2023.08.09
『北京原人の逆襲』私史 ―怪獣映画少年はいかに本作を愛したのか―
◆香港を破壊する巨大猿人のファーストインパクト 天突くほどの巨大な古代猿人が、香港の街を破壊するモンスターパニック映画『北京原人の逆襲』(監督/ホー・メンホア)は、『道』(1954)『天地創造』(1966)のディノ・デ・ラウレンティス製作、『タワーリング・インフェルノ』(1974)のジョン・ギラーミン監督によるリメイク版『キングコング』(1976)の製作に触発されて始動した企画だ。3000万ドルという、当時としては巨額のバジェットを誇る前者に対し、わずか50万ドル(600万香港ドル)という低予算で対抗したにもかかわらず、本家よりもはるかに面白い作品となった。 この「『キングコング』以上に面白かった」というのは、本作を語るうえでテンプレのごとくついてまわる常套句だが、決して盛ったものではなく、日本公開時に小学生だった筆者(尾崎)がオンタイムでそれを実感している。なにしろ開巻からいきなり巨大猿人“北京マン”(吹替版本編での呼称に準拠。以下同)が登場し、村を容赦なく蹂躙するのを見せられては、始まって30分経たないと全体像を見せないキングコングの分が悪くなるのも当然だ。加えて本作のヒロイン、野生美女サマンサ(イヴリン・クラフト)の気持ち程度のアニマル革をまとった半裸姿も、思春期前の少年には相当に刺激が強いものだった。 そしてなにより、半端でないスケールのミニチュアと着ぐるみを駆使した同作の特殊効果が、驚くほど日本人である自身のDNAに馴染むものだったのだ。 それもそのはずで、本作の特技撮影は『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967)の特技監督として知られる有川貞昌を筆頭に、東宝の優れた特撮スタッフが製作元のショウ・ブラザースに招聘されて担当しているからだ。 当時の東宝怪獣映画は、円谷英二の死去にともなう1969年の特殊技術課の廃止以降、ゴジラシリーズを子ども向けの低予算映画としてシフトチェンジさせ、残存スタッフでその命脈を保ってきた。それも1975年の『メカゴジラの逆襲』で休眠期に入り、本格的な怪獣映画の製作は1984年の『ゴジラ』まで潰えてしまう。 その間『日本沈没』(1973)や『ノストラダムスの大予言』(1974)などのパニック映画は折に触れて製作されていたし、私的にはまだ見ぬ『スター・ウォーズ』(1977)の公開に胸躍らせて飢餓感はなかったが(同作の日本公開は1978年7月1日)、それでも怪獣映画こそ心の花形だった少年は、なんともいえない心の空洞を感じていたのだ。 そんな状況下で、東宝のサウンドステージの数倍はあろうかというショウ・ブラザースのスタジオに、香港の街をミニチュアで精密に再現し、巨大なクリーチャーを大暴れさせた同作は、黄金期の東宝怪獣映画を彷彿とさせるものだったのである。 ◆東宝特撮映画の道筋を変えたかもしれない存在 ショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)は1950年代後半から〜1970年代末まで香港映画の黄金時代を牽引した映画会社で、技術的な発展を視野に入れた同スタジオは、日本の撮影スタッフを積極的に招き入れていた。『北京原人の逆襲』は同社にとって初の本格怪獣映画として、日本の優れた特撮スタッフが持つノウハウを希求したのだ。 後年、筆者はこの映画の特撮班に助監督としてたずさわった川北紘一氏と、インタビュー取材やトークショーの相手役として何度かお仕事をご一緒させていただき、この『北京原人の逆襲』について話を聞いたことがある。そのとき川北監督は、「当時は映画の仕事がなかったからさ、ついていくしかなかったんだよ」とニコニコ笑いながら参加の動機を答えていたが、事実、それは先に記した東宝特撮映画の動向に裏付けられるだろう。ただこの仕事を境に川北は『さよならジュピター』(1984)の企画にほどなく関与し、また東宝の田中友幸プロデューサーが主導してきた「ゴジラ復活委員会」に尽力し、後に平成ゴジラシリーズの特撮監督を担っていく。こうした怪獣映画ルネッサンスの布石として、『北京原人の逆襲』の影響力は小さくないものと筆者は捉えている。いささか極論かもしれないが、1976年のあの段階で川北の香港渡航がなければ、以後の東宝特撮映画の流れはもう少し違ったものになっていたかもしれない。 しかしこうして力説するほどに『北京原人の逆襲』が重要視されているかというと、当方の熱量とはいささかの温度差がある。 『キングコング』の対抗馬として世に出ながら、本作は撮影スケジュールの遅れから本家より半年後の公開となった。そのもくろみ外れは興行に影響し、初公開後の1週間でわずか120万香港ドルの興行収入しか得られなかった。そして限定的なインターナショナル公開の後、1979年にはアメリカでは『GOLIATHON』と改題され、短縮バージョンで短い期間に配給され、知られざるまま消えてしまったのだ。 それから20年後の1999年、『パルプ・フィクション』(1994)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(2019)の監督クエンティン・タランティーノが、当時パートナー関係にあった映画会社ミラマックスをスポンサーにして立ち上げたレーベル「ローリング・サンダー・ピクチャーズ」とカウボーイ・ブッキング・インターナショナルの共同によってオリジナル版が再公開され、全米20か所で深夜上映された。 不遇にあったこの傑作が 晴々しい復権を得た瞬間である。 ◆出藍の誉、ここに極まれり それにしてもなぜ『北京原人の逆襲』に、自分はここまで惹かれるのだろう? 映画の出自が出自だけに、当然ストーリーは『キングコング』の鋳型に収めたような定型的なものだ。興行師が金儲けのために未踏の地で発見した巨大猿人を捕獲し、その存在を見せものにした興行を打とうとする。だが猿人は制御を失い、大都市に放たれて大暴れをする。彼が唯一心を通わせるヒロインの存在といい、どこまでも“美女と野獣”の寓話に忠実である。クライマックスで猿人が、自国を象徴する高層建築によじ登っていくところまで、折目正しく踏襲している。 しかし、こうした類似性に観る側も自覚的であれば「では違う部分はどこなのか?」と比較し、能動的に作品と接していくことになる。だから余計に『北京原人の逆襲』の良点が鮮やかに映るのだ。 また同作の公開時、仮想敵だった『キングコング』はすでに公開から1年が経過しており、比較対象として俎上にさえ上がらなかったことや、このギラーミン版はむしろ、1933年製作のオリジナル版『キング・コング』との比較にさらされ、作品自体の評価がネガティブに固定してしまった。それが『北京原人』の高評価の底上げになったといえなくもない。 また当時はそこまで思慮深く意識していなかったが、本家『キングコング』に先駆けて公開してやろうという『北京原人の逆襲』の哲学は、東宝が『スター・ウォーズ』公開までの間に『惑星大戦争』(1977)を製作したのと似たものを覚えてしまう。そんな同作のエクスプロイテーションを標榜する姿勢に、肌感覚で同じようなテイストを感じたのだろう。 そして日本を代表するベテラン造形師・村瀬継蔵が創造した北京マンのままならぬ容姿も、「猿人系モンスターはブサイクである」という東宝怪獣の屈折した美学にのっとっており、そこもまた同作に肩入れする要素だったといえる。 これらが複合的に撚り合わさり、『北京原人の逆襲』は当時の少年の心をグッと捉えたというのが、オンタイムで同作を観た者の剥き身の体験談である。映画史には残らないかもしれない、しかしこの映画の存在は、怪獣映画ジャンキーだった筆者の私史にしっかりと刻みつけられている。■ 『北京原人の逆襲』© 2004 CELESTIAL PICTURES LTD. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.12.09
1980年代韓国の“闇”を斬り裂いた!№1監督ポン・ジュノの出世作!!『殺人の追憶』
1960年代生まれで、80年代に大学で民主化運動の担い手となり、90年代に30代を迎えた者たちを、韓国では“683世代”と呼んだ。そしてこの世代は、政治経済から文化まで、その後の韓国社会をリードしていく存在となる。『パラサイト 半地下の家族』(2019)で、「カンヌ国際映画祭」のパルム・ドールと「アカデミー賞」の作品賞・監督賞などを受賞するという快挙を成し遂げた、韓国№1監督ポン・ジュノも、まさにこの世代。本人は69年生まれで、88年に大学に入ったので、あまり実感がなく、その分け方自体が「好きではない」というが。 確かに90年代、“韓国映画ルネッサンス”と言われる潮流が起こった時、彼はまだ長編監督作品を、ものしてなかった。そして2000年になって完成した第1作『ほえる犬は噛まない』は、一部で高い評価を得ながらも、興行的には振るわない結果に終わっている。 しかしプロデューサーのチャ・スンジェは、『ほえる…』の失敗をものともせず、ポン・ジュノに続けてチャンスを与えた。彼が取り掛かった長編第2作が、本作『殺人の追憶』(2003)である。 題材は、“華城(ファソン)連続殺人事件”。86年から91年に掛け、ソウルから南に50㌔ほど離れた華城郡台安村の半径2㌔以内で起こった、10件に及ぶ連続強姦殺人事件である。180万人の警察官が動員され、3,000人の容疑者が取り調べを受けたが、犯人は捕まらないまま、10年余の歳月が流れていた。 この事件はすでに演劇の題材となっており、「私に会いに来て」というタイトルで、1996年に上演されていた。ポン・ジュノはこの演劇を原作としながら、事件を担当した刑事や取材した記者、現場近隣の住民に会って話を聞き、関連資料を読み込んだ。 そして自分なりに事件を整理してみたところ、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」という。この作業に半年掛けた後、脚本の執筆は、1人で行った。 因みに63年生まれで、ポン・ジュノよりは6歳ほど年長ながら、同じ“386世代”で、すでに『JSA』(00)でヒットを飛ばしていたパク・チャヌク監督も、「私に会いに来て」の映画化を考えていた。しかしポン・ジュノが取り組んでいることを知って、あきらめたという。 “華城連続殺人事件”には、“386”の代表的な監督たちの興味を強く引く、“何か”があったのだ。 未解決の連続殺人事件を映画化するということで、スタッフとキャスト全員で追悼式を行ってからクランクインした本作。事件から10数年経って、華城は当時の農村風景が残る環境とはかなり様相が変わっており、また住民の感情も考慮して、事件現場よりも更に南部の全羅道でロケが行われた。 製作費は、30億ウォン=3億円。通常の韓国映画より、少し高い程度のバジェットであった。 ***** 1986年、華城の農村で連続猟奇殺人が発生する。被害者の若い女性は、手足を拘束され、頭部にガードルを被せられたまま、用水路などに放置されていた。 担当のパク・トゥマン刑事(演:ソン・ガンホ)は、「俺は人を見る目がある」と豪語するが、捜査は進まない。そんなある日、頭の弱い男クァンホが、被害者の1人に付きまとっていたという情報を得る。トゥマンは相棒のヨング刑事と共に、拷問や証拠の捏造まで行って、クァンホを犯人にしようとするが、うまくいかない。 そんな時にソウルから、ソ・テユン刑事(演:キム・サンギュン)が派遣されてくる。テユンは、「書類は嘘をつかない」と言い、各事件の共通性として「雨の日に発生した」こと、「被害者は赤い服を着ていた」ことを見つけ出す。更に彼の指摘通り、失踪していた女性が、死体となって発見される。 やり方が正反対のトゥマンとテユンは、対立しながら、捜査を進める。しかし有力な手掛かりは見つからず、犠牲者は増えていく。 雨で犯行の起こる日、必ずラジオ番組に「憂鬱な手紙」という曲をリクエストしてくる男がいることがわかる。その男ヒョンギュ(演:パク・ヘイル)は、連続殺人が起こり始めた頃から、村で働き始めていた。 有力な容疑者と目星を付け、現場に残された精液とヒョンギュのDNAが一致するか検査を行うことになる。しかし当時の韓国には装備がなく、アメリカに送って鑑定が返ってくるまで、数週間待たねばならない。 一日千秋の思いで結果を待つ刑事たちだったが、その間にまた犯行が起きて…。 ***** 本作の内容は、事件の実際と、それを基にした演劇と、更にはポン・ジュノの想像を合わせたものだという。例えば、被害者の陰部から、切り分けた桃のかけらが幾つも見付かったことや、捜査に行き詰まった刑事たちが霊媒師を訪ねたこと、頭の弱い容疑者が、尋問後に列車に飛び込み自殺したことなどは、“事実”を採り入れている。 有力な容疑者のDNA鑑定は、実際には、日本に検体を送って行われた。これをアメリカに変更したのは、当時の米韓の対比を描きたかったからだという。 容疑者がラジオ番組に歌をリクエストするというのは、まったくのフィクション。この設定は、原作の演劇にもあったが、その曲はモーツァルトの「レクイエム」であった。ポン・ジュノはそれを、「1980年代の雰囲気が重要」と、当時の歌謡曲である「憂鬱な手紙」に変えたのである。 因みに原作の「私に会いに来て」で、主人公の相棒の暴力刑事を演じたキム・レハと、頭の弱い容疑者役だったパク・レシクは、そのまま本作で、同じ役どころを与えられている。 本作を、典型的な“連続殺人事件もの”として作ったり、最初はいがみ合っている刑事たちが、やがて力を合わして捜査に取り組んでいく、“バディもの”として描くことも可能であった。しかし先に記した通り、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」というポン・ジュノは、韓国社会が通ってきた80年代の暗部を描くのを、メインテーマとした。 事件当時の新聞には、88年に開催が迫った「ソウルオリンピック」が大見出しとなっている下に、「華城でまた死体発見」という小さな記事が載っている。ポン・ジュノはそれを見て、妙な気がした。そして「…これは不条理ではないかと思った」という。「華城事件」で10人の女性が殺された86年から91年は、ちょうど全斗煥大統領による軍事政権に対する民主化要求運動が、全国的な広がりを見せた時代である。そしてこの頃の警察は、ド田舎の村の人々を守ることよりも、政権を守るためにデモを鎮圧することの方を、重視していた。 本作の中では、機動隊がデモ隊を取り締まるために出動している間に、事件が起こる描写がある。また夜道を歩いていた女子学生が犯人に襲われる場面は、政府の灯火管制により、村のあちこちで消灯したり、シャッターが下ろされたりして、人為的に暗闇が訪れていくのと、執拗にカットバックされる。政府が作り出した暗闇が、罪のない女子学生の命を奪う犯人を、サポートしてしまうのだ。 これぞポン・ジュノ言うところの「不条理」。「時代の暗黒が殺人事件の暗黒を覆う…」わけである。 高度成長期でもあるこの時期、稲田や畑ばかりだった農村に、工場が建てられる。それまでは村全体が一つの大家族のような繋がりだったのに、縁もゆかりもない、見も知らぬ労働者が大挙して移り住んでくることによって、“事件”が起こるという構図も、まさに時代が生んだ殺人事件と言える。 因みに我が国でも、64年の東京オリンピック前年には、5人連続殺人の“西口彰事件”や、4歳の子どもを営利誘拐目的で殺害した“吉展ちゃん事件”などが起きている。奇しくも日韓共に、五輪が象徴する時代の転換期には、猟奇的な事件が発生しているわけだ。 “西口彰事件”については、それをモデルにした、今村昌平監督の『復讐するは我にあり』(79)という有名な邦画がある。本作の演出に当たってポン・ジュノは、この作品を非常に参考にしたという。 本作の邦題『殺人の追憶』は、原題の直訳だ。これはデビュー作『ほえる犬は噛まない』で、「フランダースの犬」(原題)という意に沿わぬタイトルを映画会社に付けられてしまい、結果的に内容と合わないことも、興行の失敗に繋がったという反省から、ポン・ジュノ自らが付けたもの。「殺人」の「追憶」という連なりには、組合せの妙を感じる。「追憶」という言葉を使ったのは、80年代の韓国、その“暗黒”を、積極的に振り返るという、ポン・ジュノの想いが籠められているのである。 そうした想いを、具現化していくための演出も、半端なことはしない。この規模の作品では、通常3~4ヶ月の撮影期間となるが、本作は半年間。これは「冒頭とラストだけ晴で、後は曇りでなくてはダメ」という、監督のこだわりによって掛かった。特に件の女子学生が犠牲になるシーンでは、理想的な曇天を待つために、1か月を要したという。 本作は先に挙げたように、“連続殺人事件もの”“バディもの”といった、ジャンル映画に括られることから逃れているのも、特徴だ。ポン・ジュノは毎作品、「ジャンルの解体」を目指しているという。 これに関しては、『岬の兄弟』(2019)『さがす』(22)などの作品で注目を集めた片山晋三監督が、興味深い証言をしている。片山は『TOKYO!/シェイキング東京』(08)『母なる証明』(09)という2作で、日本人ながら、ポン・ジュノ監督作品の助監督を務めている。「…ジャンルを意識しないで一カット、一カットごとに映画の見え方がホラーだったりコメディだったりサスペンスだったりに変わっても成立すること、むしろその方が面白いと気づいたのが僕にとっての収穫です」 この言から、片山の『さがす』も、確かに「ジャンルの解体」を目指した作風になっていることに思い当たる。 さてここで、ポン・ジュノの期待に応えた、本作の出演者についても、触れねばなるまい。本作に続いて、『グエムル‐漢江の怪物‐』(06)『スノーピアサー』(13)そして『パラサイト 半地下の家族』(19)といったポン・ジュノ作品に主演。「最も偉大な俳優であり、同伴者」と、ポン・ジュノが称賛を惜しまない存在となっている、ソン・ガンホも、本作のトゥマン刑事役が、初顔合わせ。『反則王』(00)『JSA』(00)といった主演作で大ヒットを飛ばし、すでにスター俳優だった彼が、駆け出しの監督の作品に主演したのは、『ほえる犬は噛まない』を観て、笑い転げたことに始まる。「ポン監督に自分から電話をかけて関心を示した情熱が買われ、キャスティングされた」のだという。いち早く監督の才能を、見抜いていたわけだ。またガンホが無名時代にオーディションに落ちた際、その作品の助監督だった、ポン・ジュノに励まされたというエピソードもある。 いざクランクインし、序盤の数シーンを撮ってみると、アドリブも多いガンホに対して監督は、「野生の馬」という印象を抱く。そして彼をコントロールする方法としては、「ただ垣根を広く張り巡らしておいて、思いっきり駆け回れるようにしたうえで、放しておこう」という考えに至った。「…優れた感性と創造力、作品に対する理解力を持ち合わせている」芸術家と、認めてのことだった。 キム・サンギョンを起用したのは、ホン・サンス監督の『気まぐれな唇』(02)を観てのこと。サンギョンは本作の脚本を読んで、テユン刑事に感情移入。「同じ気持ちになって猛烈に腹が立った」という。 有力な容疑者として追及されるヒョンギュ役は、パク・ヘイル。ポン・ジュノは脚本の段階から、彼の特徴的な顔を、思い浮かべていた。 ラスト、未解決に終わった事件から歳月が経ち、今や刑事を辞めて営業マンになったトゥマンが、殺人のあった現場を訪れ、自分の少し前に犯人らしき男が、同じ場所を訪れていたことを、その場に居た女の子から聞いて愕然とする。そして観客を睨みつけるような彼の顔のアップとなって、終幕となる。 これは「俺は人を見る目がある」「目を見れば、わかる」などと、本作の中で容疑者の肩を摑んでは、その顔を見つめる行為を続けてきた、トゥマンの最後の睨みである。ポン・ジュノの、「観客として映画を見るかもしれない真犯人の顔を俳優の目でにらみつけたかった」という想いから、こうしたラストになった。 実はこのシーンは、クランクインから間もなく撮られたもので、監督はガンホに、「射精の直前で我慢しているような表情でやってほしい」と演出を行った。監督曰く、ガンホは本当にあきれた顔を向けたというが、実際は何度も耳打ちで注文してはリテイクする監督を見て、「この人はこのシーンに勝負をかけているんだな」と理解。渾身の力を、注ぎ込んだという。 さて本作は公開されると、韓国内で560万人を動員。2003年の№1ヒット作となり、数多の賞も受賞した。紛れもなくポン・ジュノの出世作であり、国際的な評価も高い。20年近く経った今でも、彼の「最高傑作」であると、主張する向きが少なくない。 ここで“華城事件”の終幕についても、触れたい。2019年になって、真犯人が浮上した。その時56歳になっていた、イ・チュンジェという男。 94年に、妻の妹を強姦殺害した罪で、無期懲役が確定し、24年もの間服役中だった。改めてのDNA鑑定の結果、彼が真犯人であることが確定したが、一連の事件はすべて「時効」が成立していた。 ここで改めて注目されたのが、警察の杜撰な捜査。容疑者の中には自殺者が居たことも記したが、特に酷かったのは、10件の殺人の内、1件の犯人として逮捕され、20年もの間収監されていた男性が居たことである。 本作『殺人の追憶』が、事件の解決には役立ったのかどうかは、明言できない。しかし、あの時代の“闇”を、紛れもなく斬り裂いていたのだ。■ 『殺人の追憶』© 2003 CJ E&M CORPORATION, ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2022.12.06
『ジェイソン・ボーン』シリーズより先行した多動的カメラワークとカオス編集『マイ・ボディガード』
「メキシコでは1時間に1件の誘拐事件が発生し、人質の70%は生還されず殺される」 2004年にトニー・スコット監督、デンゼル・ワシントン主演で発表された映画『マイ・ボディガード』は、このラテンアメリカでの誘拐に関する当時の実情を示して幕を開ける。本作の主人公であるクリーシー(ワシントン)は引退したCIAの対テロ工作員で、彼は自身のキャリアを血塗られたものとして後悔している。そんな彼の陰鬱な感情をはらおうと、元同僚のレイバーン(クリストファー・ウォーケン)は、クリーシーにピタ(ダコタ・ファニング)という少女のボディガードとして、メキシコシティで仕事をするようはからう。 警護にあたった当初は、クリーシーはピタとの感情的な壁を取り去ることができずにいたが、次第に二人は父娘にも似た絆を形成していく。そして映画は、少女の無垢な愛情が、一人の男を心の闇から解放する過程を表現豊かに捉えていくのだ。 しかし物語は予期せぬ事態によって、クリーシーは自らのささやさな幸福を破壊した者に対し、忌まわしいと捨て去ったスキルを用いることになる——。 原作はバイオレンス小説を過半とするイギリスの大家、A・J・クィネルが1980年に発表した「燃える男」。監督のトニー・スコットは吸血鬼伝説をモダンにアレンジした劇場長編デビュー作『ハンガー』(83) に次ぎ、出版ほどなくベストセラーとなった同作を手がけるつもりだった。もともとクィネルのファンだったスコットは、『ハンガー』公開後に早くも映画化の予算を獲得しようと動いたのである。しかし当時、彼はまだ兄リドリー・スコットの会社のCMディレクターだったために資金を確保できず、代わりにジェリー・ブラッカイマーより打診のあった『トップガン』(86) に着手する。 いっぽう「燃える男」は1987年にプロデューサーのアーノン・ミルチャンとロバート・ベンムッサが仏伊米合作で映画化を果たし、俳優陣についてはスコット・グレンがクリーシーを、ジョー・ペシが彼の友人でありパートナーのデヴィッドに扮し、ジェイド・マルが少女サマンサ役で出演した。アメリカでは同年10月9日に178の劇場で公開され、わずか519,000ドルの興行収入しか得られず、ビデオやテレビ放送などの二次収益に頼るしかなかった。 奇しくも『マイ・ボディガード』企画の再浮上は、この『マン・オン・ファイア』の二次収益媒体が大きく関与する。後年、ミルチャンがテレビで本作を見たとき、彼は翌朝トニーに電話し、自分がまだ「燃える男」の権利を持っており、再映画化に興味があるかどうか、そして『マン・オン・ファイア』が示したものより多くの可能性があるかどうかを訊いた。スコットは今なら「燃える男」を壮大で理想的な自身の作品として世に送り出せる自信があり、クィネルへの再アクセスはいつでも可能であることをミルチャンに示したのだ。 同時にスコットは脚本家にあたりをつけ、シルベスター・スタローンとアントニオ・バンデラス共演のアクションスリラー『暗殺者』(95) や、ジェームズ・エルロイ原作の犯罪サスペンス『L.A.コンフィデンシャル』(97) で注目中のブライアン・ヘルゲランドに依頼した。 スコットは彼が脚本を手がけた『ミスティック・リバー』(03) を気に入っており、偶然にもヘルゲランドは『マン・オン・ファイア』の存在を熟知していた。1989年、カリフォルニア州マンハッタンビーチで、彼は地元のレンタルビデオ店をよく訪れ、おすすめを尋ねていた。そこでクエンティン・タランティーノ(!)という脚本家志望の店員が同作のビデオを勧めてくれたのだという。オファー当時、ヘルゲランドは監督業に移行しようとしていたことから乗り気ではなかったが、スコットに代わって自分が同作の監督をやる可能性をミルチャンに示唆され、依頼を受けた。 ヘルゲランドの脚色は原作から多くのセリフを引用し、クィネルへのリスペクトを示したが、クライマックスを原作とは異なるものにした。小説は実際に起こった2つの誘拐事件からインスパイアされ、そのためクィネルは事件と同じような結末を維持したが、映画では独自の展開が用意されている。それはピタによって人間的感情を取り戻したクリーシーの贖罪といえるもので、彼とピタとの友情をパイプにしたエモーショナルな改変である。 しかし舞台となるイタリアが、映画製作時には小説執筆時の頃よりも犯罪率が低下していたため、製作サイドは物語の信憑性を損ねることを懸念。彼らは映画の舞台となる場所を変更することにした。前掲の「メキシコでは1時間に1件の誘拐事件」は、こうした経緯を抜きには語れぬ重要なリードなのだ。 また劇中における俳優たちのパフォーマンスも、この映画を観る者との感情の同期に貢献している。たとえば物語の当初、クリーシーがピタのボディガードを引き受けたことを後悔していたとき、実際にデンゼル・ワシントンはセットでファニングと距離を保ち、積極的にコンタクトをとることを避けたという。そして物語の過程でクリーシーがピタに親しみを覚えると、ワシントンは舞台裏で同じように接したのだ。ワシントンとファニングはお互いに見事なボレーを交わし、彼らの即興演出は対話に迫真性をもたらしたのである。 だが最も作品において効果的に貢献したのは、監督トニー・スコットによる多動的カメラワークとカオスに満ちた編集だろう。きめ細かなグラデーションフィルターの選択や大胆なジャンプカット、あるいはクイックズームに可変速度効果など、これらはクリーシーの感情に合わせて変化していく。加えて本作ではキャプションを活かしたタイポグラフィも目を引くが、これはスコットがBMWのPVを演出したとき、ジェームズ・ブラウンのセリフをスタリュシュに加工した効果を適応させたもので、映画の中でもひときわ強い印象を残す。 James Brown - Beat The Devil (2002) しかし、こうした効果が評論家の目には装飾的にしか映らず、その頃はむしろ批判の対象として捉えられる傾向にあったようだ。映画評論の権威ロジャー・エバートは本作を評し「この映画には、長さとスタイルを正当化するための深みが必要だ」と断じたが、これなどはその短絡的な解釈の顕著な例だろう。 だが『マイ・ボディガード』の映像的・あるいは編集に見られる傾向は、そのスタイルがドラマや登場人物の推移を巧みに視覚化したものとして再評価の機会が待たれる。何より本作の公開は、あの多動的表現でアクション映画の気流を変えた『ボーン・スプレマシー』(04) より公開が3ヶ月早く、その先進性を改めて問うべきだろう。なにより『マイ・ボディガード』は日本公開時、全体的によく編集された印象のある劇場用パンフレットにも、最大の貢献者であるトニー・スコットに関する記述が少なく、そこも画竜点睛を欠く口惜しさは否めなかった。本作を叩き台に、監督への言及が活発化することを望みたい。■ 『マイ・ボディガード(2004)』© 2004 Twentieth Century Fox Film Corporation and Monarchy Enterprises S.a.r.l. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2021.10.12
エドワード・ズウィック積年の夢の実現と、それに応えて羽ばたいた日本人キャストたち『ラスト サムライ』
エドワード・ズウィックにとって、本作『ラスト サムライ』(2003)の製作は、長年抱いてきた夢だった。 1952年生まれの彼は、17歳の時に黒澤明監督の『七人の侍』(54)を観て、黒澤映画を1本残らず研究しようと決意。それが、フィルムメイカーへの道に繋がった。 ハーヴァード大学に進むと、彼を指導したのは、エドウィン・O・ライシャワー。日本で生まれ育ったライシャワーは、61年から5年間、駐日アメリカ大使を務め、ハーヴァードでは、日本研究所所長の任に就いていた。 その門下で歴史を学ぶようになったズウィックが、特に興味を持ったのが、日本の“明治維新”。ズウィック曰く、「どの文化においても、古代から近代への移行期というのはとりわけ感動的でドラマティックです…」「周りを取り巻く文化全体も混乱を極めている時代に、個人的な変容を経験していく登場人物を観察するということには、感動する何か、我を忘れるほどの魅力があるのです」 ズウィックは、『グローリー』(89)や『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』(94)といった監督作、アカデミー賞作品賞を獲った『恋に落ちたシェイクスピア』(98)といったプロデュース作などで評価を得ながら、本作の構想を固めていく。そして『グラディエーター』(00)などの脚本家ジョン・ローガンと組んで、シナリオ執筆を進めた。 出来上がったシナリオを、トム・クルーズに送ると、日本人の“サムライ魂”に関心があったというトムはすぐに気に入り、主演及びプロデューサーとして、本作に参加することが決定。スーパースターを得たことで、本作の製作は、本格的に進められることとなった。 アクションには、ノースタントで挑むことで知られるトム・クルーズが、本作で演じるのは、元アメリカ軍人で日本へと渡るネイサン・オールグレン。二刀流の剣術や格闘術、乗馬をこなす必要があったため、撮影までの約1年間、毎日数時間掛けて厳しいトレーニングを行ったという。 *** 時は1870年代。かつては南北戦争の英雄と讃えられたネイサンだったが、ネイティブ・アメリカン虐殺に加担して受けた心の疵が癒えないまま、酒浸りの日々を送っていた。 そんな彼が、大金を積まれてのオファーを受けて、軍事教官として日本に赴くことに。雇い主は、誕生して日も浅い明治新政府の要人・大村(演;映画監督の原田眞人)だった。 新兵たちの訓練が行き届かない内に、政府への反乱を討伐するための、出動命令が下る。ネイサンの「まだ戦える状態ではない」との主張は退けられ、彼もやむなく同行することとなる。 反乱を率いるのは、明治維新の立役者の一人だった、勝元盛次(演:渡辺謙)。大村らを軸に近代化政策が進められる中で、かつてのサムライたちがないがしろにされていく流れに抗して、野に下っていた。 ネイサンの危惧通り、出動した部隊は、サムライたちの猛攻にひとたまりもなかった。ネイサンは孤軍奮闘するも、瀕死の重傷を負い、囚われの身となる。 山中の農村へと運ばれたネイサンは、勝元の妹たか(演:小雪)の看病を受け、次第に回復。村人たちの素朴な生活に癒され、やがてサムライたちの精神世界に魅せられていく。 剣術の鍛錬を始めたネイサンは、サムライたちのリーダー格である氏尾(演:真田広之)と手合わせを行う。はじめは歯が立たなかったが、遂には引き分けるまでに腕を上げる。 ネイサンは、勝元とも固い絆で結ばれていく。そして、信念に敢えて殉じようとする勝元たちと、最後まで行動を共にすることを決意するのだったが…。 *** ズウィックが影響を受けたことを認めているのが、日本文学研究者のアイヴァン・モリスの著書「高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち」。この中で取り上げられた、新政府の樹立に加担するも、やがて叛旗を翻す西郷隆盛の物語に強く惹かれたという。 本作に於ける勝元盛次が、不平士族の反乱を起こした、西郷や江藤新平をモデルにしているのは、明らかだ。舞台設定である1877年は、実際に西郷が“西南戦争”を戦い、命を落とした年である。 また敵役となる大村の名は、明治政府で兵制の近代化と日本陸軍の創設に尽力した大村益次郎から取ったものと思われる。但しキャラ設定的には、当時政商として暗躍した岩崎彌太郎と、西郷を失脚に追い込んだ大久保利通を、足して2で割ったようなイメージだが。 さてトム・クルーズ主演作であるが、本作の場合、日本人俳優のキャスティングが肝要だった。その役割を担ったのは、日本では作詞家・演出家としても著名な、奈良橋陽子。日本やアジア圏の俳優をハリウッド映画などに紹介する、キャスティング・ディレクターとしての歩みを、本格化させていった頃の仕事である。 奈良橋はズウィックに、様々な映像資料等を送付して、やり取り。彼が来日するまでにある程度の人数に絞り込んでは、オーディションのセッティングを行った。 日本でのキャスティングは、トムの参加が決まる前、即ち本作製作に正式なGOサインが出る前から、秘かに進められていた。ある時はズウィックの来日に合わせて体育館を借り切り、真田広之をはじめ殺陣ができる俳優たちを集め、ショーを見せたという。 カメラマンも一緒に来日して撮影したというこの殺陣ショーに、監督は大喜びで、「この映画を絶対に撮るんだ」と決意も新たに帰国。トムの主演が決まったのは、それから数か月後のことだった。 その後真田をはじめ、小雪や明治天皇役の中村七之助等々、キャストが次々と決まっていく。そんな中で難航したのが、最も重要な勝元役だった。 実は奈良橋は、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」(87)をはじめ、時代劇俳優の印象が強い渡辺を、ズウィックに最初に紹介して、京都のホテルでインタビューを受けてもらっている。しかしこの時は渡辺の印象が、なぜか監督の頭に残ることがなかった。 勝元役が決まらない中で、奈良橋はズウィックに、もう1回渡辺と会ってもらえないかと頼み、帝国ホテルのスイートルームでのオーディションをセッティングした。渡辺の英語力はまだそれほどではなかったというが、気負うことなく楽に役を演じたのが良かったか、ズウィックの目はオーディションの最中から輝き、終了して渡辺が部屋を出た瞬間には、「彼こそ勝元だ!」とガッツポーズを取ったという。 そんなズウィックが、クランクインが近づいた頃、新しい役を作ったと奈良橋に連絡してきた。その役名は“サイレント・サムライ”。農村に囚われの身となったネイサンを常に見張り、話しかけられても一切返事をしない、名前を名乗ることもない、“沈黙の侍”である。 奈良橋の著書によると、その時ふと思い浮かんだのが、福本清三だったという。東映の大部屋俳優で、その当時にして40年以上映画やTVドラマに出ては、2万回以上斬られてきたという、「日本一の斬られ役」である。 この辺り、福本にインタビューした書籍によると、彼のファンクラブのメンバーが、『ラスト サムライ』が製作されることを報じたスポーツ紙の記事を読んで、奈良橋に連絡を取り資料を送ったのが、きっかけだったという。福本本人は、そんなこととはつゆ知らず、ある時突然奈良橋から携帯に電話が掛かってきて、吃驚した。 福本は東京に呼ばれ、奈良橋の事務所で、半袖シャツにチノパンという出で立ちで、立ち回りや、彼の十八番である、斬られて海老反りで倒れるところなどを撮影。また“サイレント・サムライ”役ということで、「無表情の演技」も撮った。 そのビデオを監督に見せると、すぐに出演が決まった。東映太秦撮影所で旧知だった真田広之も、福本出演を聞いて、大喜びだったという。 さて『ラスト サムライ』は、日本でクランク・イン。姫路の圓教寺でのロケ後は、京都の知恩院で撮影を行った。 悲しいことに、日本のロケ事情の問題で、後は海外に19世紀の日本を再現しての撮影となる。ロサンゼルスのワーナー・ブラザースがスタジオ近くに持つ野外撮影用地は、普段はニューヨーク通りと言われ、西洋風の建造物が建ち並んでいる。ここを木材やファイバーグラスのタイルなど使って外観を飾り替えることで、文明開化の頃の東京、通称“エド村”を作り上げた。 “エド村”での撮影を終えると、ニュージーランドへ移動。田舎町に10億円を投じて借り切り、キャストやスタッフのための住宅を用意した。その近くの山の中には、畑、家屋、畦道まで精緻な仕上がりの、日本の農村が完成。クライマックスの戦闘シーンも、ニュージーランドでの撮影であるが、そのために日本から500人のエキストラを参加させ、本番のために数カ月間、本物の軍隊と同じ訓練を施した。 ズウィックの本作への思い入れもあってか、時代考証などは内外の専門家の意見を受けて慎重に進められた。ハリウッド映画に度々登場するような「おかしな日本」にならないように、最大限の努力を行っている。 またこの点では、真田広之の尽力も大きい。彼は出番のない日でも、セットを訪れて、衣装、小道具、美術などをチェックし、資料ではわからない着こなしや道具の使い方などのアドバイスを行ったという。 それでも「おかしな」ところは、見受けられる。例えば勝元の村に、暗殺部隊である“忍者”集団が現れたり、戦闘シーンではサムライたちが、明治時代にもなって甲冑を身に纏っていたり…。 この辺りは、監督はじめ主要スタッフも「あり得ない」ことは、理解していた。全世界で公開される“サムライムービー”として、観客のニーズに応えたと言うべきか?或いは黒澤映画の大ファンであるズウィックが、“時代劇”を撮る以上は、絶対やりたかった要素だったのかも知れない。 それから逆に考えて、なぜ日本の観客が「おかしい」と思うのかにも、思いを至らせた方が良い場合もある。当たり前のことだが、明治の日本や侍の時代を、実際に体験したことがある者は既に居ない。我々の基準は、日本のテレビや映画で観た“時代劇”から生まれている可能性が大いにある。 衣装デザイナーのナイラ・ディクソンは、素材の豊富な在り処を日本で見付け、衣装の多くをそこで作った。甲冑なども彼女の担当だったが、ある時に兜のデザインを、渡辺と真田に見せたことがある。すると2人とも、「日本にこんなものはない」という反応。そこで彼女は、分厚い写真集を持ち出して、2人に見せた。それは確かに、日本の兜だったのである。 さてご存知の方が多いと思うが、世界的に大ヒットとなったこの作品で、渡辺謙は見事アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。その後は頻繁にハリウッド映画に出演する他、ブロードウェイの舞台「王様と私」に主演し、トニー賞にもノミネートされている。 真田広之もこの作品がきっかけとなって、拠点をロサンゼルスに移し、国際的な活躍を続けている。近作はジョニー・デップ主演の『MINAMATA―ミナマター』(21)だが、この作品でも舞台である1970年代の日本に見えるよう、少し早めに現場に入っては、小道具を選別したり、旗やゼッケンの日本語をチェックして自分で書いたりなどしたという。 さて本稿は、ニュージーランドでのロケ中は、他の侍役の俳優たちを呼んでは、よくカレーを作って振舞っていたという、福本清三の話で〆たい。彼が本作で演じた「サイレント・サムライ」は、先にも記した通り、とにかく無言を通す男。そんな男が、たった一言だけセリフを放つシーンがある。ここは結構な泣かせどころにして、福本の最大の見せ場である。 今年の元旦、77歳で亡くなった「日本一の斬られ役」に哀悼の意を捧げながら、皆さん心して観て下さい。■ 『ラスト サムライ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2020.07.29
巨匠チャン・イーモウが、この時撮らなければならなかった、“武侠映画”第2弾!『LOVERS』
アメリカの西部劇や日本の時代劇と同じように、中華圏の映画には“武侠もの”という、伝統的なジャンルがある。それは、1920年代に中国で初めて製作され、60年代後半から70年代前半にかけては、イギリス統治下の香港で隆盛を極めた。 中国を舞台に、剣の達人たちが超能力のようなパワーを発揮し、宙を舞ってチャンバラを繰り広げる。伝統のワイヤー・アクションに、近年はCGやVFXも駆使されて、中国大陸では、“武侠もの”のTVドラマ大作シリーズの製作も、盛んに行われている。 そんな“武侠もの”を、中国映画界の巨匠チャン・イーモウ監督が初めて手掛けたのが、『HERO』(2002)。それに続く、イーモウの“武侠もの”第2弾が本作、2004年に公開された、『LOVERS』である。 本作が、『HERO』の興行的な成功を受けて成立した企画というのはもちろんだが、それだけではない。様々な側面から見て、イーモウにとっては、このタイミングに撮らなければならなかった。そしてこのタイミングでなければ、撮ることが出来なかった作品のように思える。 西暦859年。唐の大中13年― 凡庸な皇帝と、政治の腐敗で各地に反対勢力が台頭。 その最大勢力「飛刀門」は貧者救済で支持を集めた。 朝廷は飛刀門の撲滅を命じ、県の捕吏と飛刀門の死闘が続いていた…。 捕吏のリウ(演:アンディ・ラウ)とジン(演:金城武)が目を付けたのは、遊郭の踊り子である、シャオメイ(演:チャン・ツィイー)。生まれつき盲目ながら、見事な舞いを見せる彼女は、「飛刀門」の前頭目の娘と思われた。 「飛刀門」の本拠地を探るため、リウとジンは、シャオメイを罠に掛ける。リウが捕えたシャオメイを、無頼の徒を装ったジンが、救出。2人は、逃亡の道行きとなる。 リウは2人の後をつけて、道々でジンと連絡を取り合う。その際にリウは、「シャオメイに、本気になるなよ」と、ジンに何度も釘を刺すのであった。 しかしこの逃亡劇には、幾重もの謀が張り巡らされていた。ジンの正体を知らない、朝廷からの追っ手も掛かり、絶体絶命の窮地に陥る中で、ジンとリウ、そしてシャオメイ、2人の男と1人の女の運命は? 「北京電影学院」での学友チェン・カイコー監督の『黄色い大地』(84)『大閲兵』(85)などで撮影を担当したのが、中国映画界に於ける、チャン・イーモウのキャリアのスタートだった。その後、『古井戸』(86)に主演。俳優としての演技も経験してからの1987年、初監督作の『紅いコーリャン』を発表した。 この処女作から、自らが見出した女優コン・リーをヒロインに、中国の近代から現代までを舞台にした様々な“人間ドラマ”を手掛ける。そしてイーモウは、「ベルリン」「ヴェネチア」「カンヌ」などの、国際映画祭を席捲する存在となっていった。 妻子持ちのイーモウにとって、不倫の関係であった、コン・リーとの二人三脚は、『活きる』(94)で一旦解消となる。その後の作品も含めて、90年代までのイーモウ作品には、“アクション”のイメージはほとんどない。それ故に21世紀を迎えて、“武侠もの”である『HERO』を手掛けた際は、大きな驚きを持って迎えられた。 『HERO』は紀元前の中国、戦国時代を舞台に、英語タイトル通りに、ジェット・リーが演じる男性剣士を主人公とした物語。彼は、“義”に生きて“義”に死んでいく…。 一方『LOVERS』の主要登場人物3人は、“義”よりも“愛”に生きる。そして、“愛”に流されて“愛”に滅ぼされていく…。 『恋する惑星』(94)『天使の涙』(95)といったウォン・カーウァイ監督作品でスターになった金城武は、ちょうど30代に突入した頃。一方80年代後半より“四大天王(香港四天王)”と言われ、TOPスターとして走ってきたアンディ・ラウは、21世紀を迎えて、『インファナル・アフェア』シリーズ(02~03)が大ヒットとなった直後であった。それぞれにとって『LOVERS』は、キャリアのピークに近い頃の出演作と言える。 しかし本作の眼目は、やはりチャン・ツィイーにある!コン・リーがイーモウの元を去った後、『初恋の来た道』(99)のヒロインとして、イーモウに発掘された彼女にとって『LOVERS』は、『HERO』に続く、イーモウ作品3本目の出演。この頃のツィイーは、正にイーモウ監督のミューズと言える存在だった。 ここで注目すべきは、『初恋の来た道』の直後に、ツィイーが出演した作品である。それはアン・リーが監督した“武侠もの”『グリーン・ディスティニー』(00)。 この作品はアメリカをはじめ、各国で大ヒットとなった。そして中国語作品でありながら、本家「アカデミー賞」では、作品賞はじめ10部門でノミネート。その内、撮影賞、美術賞、作曲賞、そして外国語映画賞の4部門で、見事に受賞を果した。 台湾出身のアン・リーによる“武侠もの”が、世界的な大評判となったことが、イーモウのハートに火を付けたことは、想像に難くない。“武侠もの”を手掛けることはイーモウ本人が言う通りに、以前からの「念願」であったのかも知れない。しかしそれ以上に、中国を代表する監督として、アン・リーに後れを取ったままではいかないという、強烈な意識があったかと思われる。 イーモウの自負心の源は、氏育ちと関係あるだろう。彼の父親は、蒋介石率いる「国民党」の軍人だった。「国民党」は国共内戦に敗れ、台湾へと逃避したわけだが、イーモウの父は、中国に残った。そのため「中華人民共和国」成立後、「中国共産党」支配の下でイーモウの一家は、“最下層”の生活を余儀なくされた。 評論家の川本三郎氏のインタビューに応え、映画を志した理由を、イーモウは次のように語っている。 ~率直にいって映画が好きだったから北京電影学院に行ったわけではありません。私にとって、国民党の軍人の子どもという境遇から抜け出すことが大事だったんです。だから体育大学でもよかった…~ ~よくインタビューで「いつから映画に惹かれたか」と聞かれるんですが、答えようがないんですよ。映画でも体育でも美術でも、自分の境遇を変えられるものだったらなんでもよかったんですから。たまたま、それが映画になっただけなんです。~ ~映画が私の人生を変えたのではなく、私は生きのびるために人生を変えていったんです。それが最終的に映画監督という道につながったんです~ 一瞬、映画へのこだわりが、実は薄かったのかと、勘違いさせかねない物言いだ。いや、そんなことはないだろう。“映画”の才能こそを最大の武器にして、成功者となったわけである。“映画”こそ、イーモウの生きる術に他ならない! 近年のイーモウが、2008年の「北京オリンピック」開会式の演出を手掛けたり、“南京大虐殺”を取り上げた『金陵十三釵』(11/日本未公開)を撮ったことなどを指して、“国策監督”と揶揄する向きも少なくない。それを否定する気は毛頭ないが、彼が生半可な道を歩んで、ここまでのし上がってきたわけでないことは、覚えておいた方が良い。 建国の父・毛沢東の誤った政策であり、イーモウ自らも青春期に悲惨な目に遭った、「文革=文化大革命」の時代を取り上げた監督作品である『活きる』が、中国国内では「上映禁止」の憂き目に遭ったこともある。それにも拘わらず、「文革」の時代に振り回される庶民の物語を、『初恋のきた道』『サンザシの樹の下で』(10)『妻への家路』(14)と、折に触れては繰り返し映画化する辺り、たとえ“国策監督”であっても、凡庸ならざる存在である。 アン・リーの『グリーン・ディスティニー』は、「中国を代表する監督」という、イーモウの自負心を刺激しただけには、止まらなかったと、私は見る。自らが手塩に掛けたチャン・ツィイーの、“アクション女優”としての魅力を、先に引き出されてしまったことも、彼を“武侠もの”の実現へと、大きく動かすことになったのであろう。 イーモウとツィイーの関係は、とかく噂になっていたが、実際に「男女の仲」だったのかどうかは、寡聞にしてわからない。だが映画監督という立場からは、ツィイーがイーモウにとっては、「俺の女」という存在であったのは、間違いなかろう。 とにかくイーモウはツィイーで、“武侠もの”を!それも、『グリーン・ディスティニー』を超える作品を、どうしても撮らなければならなかったのではないか? とはいえ『HERO』は、先にも挙げたように、ジェット・リーが主演の“英雄”の物語である。脇を固める、トニー・レオン、マギー・チャン、ドニー・イェンら中華圏の大スター達と、ツィイーも同格の活躍を見せるものの、彼女がヒロインというわけではない。 この作品を経て、本作『LOVERS』へと行き着くわけだが、先に述べた通り、主要な登場人物たちの方向性は、『HERO』とは180度転換。“義”よりも“愛”を選ぶ者たちとしたのは、正にヒロインとしての“ツィイー”の魅力を、最大限に引き出すための仕掛けと言えるだろう。 またツィイー演じるシャオメイは、遊郭の踊り子として登場するわけだが、これもまさに、彼女のための設定。8歳から舞踏を始めたツィイーは、11歳から「北京舞踊大学附属中学」でダンスを学び、14歳の時には「全国桃李杯舞踏コンクール」で演技賞を受賞している。そんな彼女の実力と魅力を存分に見せる舞いが、本作序盤の大きな見せ場となっているのである。 それにしてもイーモウの、『グリーン・ディスティニー』への対抗意識の激しさたるや!ジンとシャオメイを狙って、朝廷の兵士たちが“竹林”の上方から攻撃を仕掛けるシーンがある。これはキン・フ―監督の『侠女』(71)という、伝説的な“武侠もの”へのオマージュであるのだが、『グリーン・ディスティニー』にも同様に、『侠女』へのオマージュとして、“竹林”での戦いのシーンがある。イーモウ監督は、「アン・リーよりも凄いシーンを見せてやる」とばかりに、敢えて“竹林”を舞台に、物量を以って驚くべき戦闘シーンを作り出している。 さて結果的に『LOVERS』は、『グリーン・ディスティニー』を超えることが出来たのか?本作でのツィイーは、アン・リー作品よりも魅力的に映っているのか?それに関しては、世評や興行の結果はさて置いて、観る者の判断に委ねたいと思う。 いすれにせよ最初に記した通り、イーモウにとって本作は、このタイミングに撮らなければならなかった。そしてこのタイミングでなければ、撮ることが出来なかった作品だったのである。 『LOVERS』は今のところ、イーモウがチャン・ツィイーと組んだ、最後の作品となっている。それから14年経って、イーモウが久々に手掛けた“武侠もの”第3弾『SHADOW/影武者』(18)の出演陣に、ツィイーの顔はない。 『LOVERS』は唯一無二のタイミングで、イーモウが渾身の力を振り絞って、自らのミューズの輝きを、最大限に引き出さんとした試みだったのだ。■ 『LOVERS』(C)2004 Elite Group(2003)Enterprises Inc.
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COLUMN/コラム2020.07.01
西部劇スター、ランドルフ・スコットの全盛期に作られた正統派B級ウエスタン『馬上の男』
スマートな二枚目からいぶし銀の名優へ もはや日本では半ば忘れかけられた感のある俳優ランドルフ・スコット。しかし、かつてのハリウッドでは、ジョン・ウェインやゲイリー・クーパーにも負けないほどの人気を誇る西部劇スターだった。 34年間のキャリアで、実に100本以上もの映画に出演したと言われるスコットだが、そのうちの半分以上が西部劇。若い頃はハンサムな顔立ちと立派な体格で、見栄えだけはいいが演技は大根と呼ばれ、B級西部劇のヒーローか大物女優の相手役が関の山であったものの、年齢を重ねるごとに渋い存在感と人間味のある芝居を身につけ、50歳を過ぎたあたりから本格的に人気が爆発。’50~’53年にかけては、ハリウッドのマネー・メイキング・スター、つまり最も興行価値の高い映画スターのトップ10に4年連続でランクインしている。そのまさに全盛期の真っ只中に作られた主演作のひとつが、この『馬上の男』(’52)だった。 1898年1月23日にヴァージニア州の裕福な家庭に生まれ、ノースカロライナ州のシャーロットに育ったスコットは、学生時代からフットボールや野球など様々なスポーツを愛する根っからのアスリートだった。第一次世界大戦に従軍してフランス戦線に配属され、除隊後は帰国して役者を目指すように。すると、父親が知人である大富豪にして映画製作者ハワード・ヒューズに息子を託し、そのヒューズの口添えで’28年に映画デビューを果たす。 といっても、最初の数年間はエキストラ同然の端役ばかり。なにしろ、まともに演技の勉強をしたことがないため、運動神経は抜群でも芝居はからっきしダメだったのである。そんな彼に巨匠セシル・B・デミルは、とりあえず映画よりも舞台に出て演技の基礎を磨けとアドバイス。その言葉に従ったスコットは、西海岸の有名な劇団パサデナ・プレイハウスに入門してシェイクスピア劇などをこなし、その舞台を見た関係者にスカウトされ、’32年にパラマウント映画と専属契約を結ぶ。 パラマウントでは、その身体能力を生かしたB級西部劇アクションに多数主演。依然として芝居は堅苦しくて上手いとは言えなかったが、しかしハンサムでスマートなルックスと紳士的で礼儀正しい南部訛りのセリフ回しは好感度が高く、勧善懲悪な西部劇の颯爽としたヒーローにはうってつけだった。また、RKOに貸し出されてアステア&ロジャースのミュージカル映画にも出演。やがてAクラスの大作映画にも起用されるようになり、移籍したフォックスでは『地獄への道』(’39)や『西部魂』(’41)などの名作に出演、さらにユニバーサルではジョン・ウェイン、マレーネ・ディートリヒとの黄金トリオで『スポイラース』(’42)と『男性都市』(’42)に主演する。 しかし、その人気が不動のものとなるのは第二次世界大戦後のこと。町から悪人を一掃する勇敢な保安官を演じた『静かなる対決』(’46)で渋みのある寡黙な中年タフガイのイメージを確立したスコットは、さらに旧知の映画製作者ハリー・ジョー・ブラウンと組んで自身の製作会社スコット=ブラウン・プロダクションズを設立し、自らのイメージを十二分に生かした純然たる娯楽西部劇の数々で大成功を収める。当時の彼は特定の映画監督とのコラボレーションを好んだのだが、その中でも特に名コンビとして知られているのがバッド・ベティカーと、本作のアンドレ・ド・トスであった。 悪徳牧場主から土地を守るために戦う勇敢なヒーロー アンドレ・ド・トス監督とは、通算6本の西部劇で組んだスコットだが、これはその第1弾に当たる。ハンガリー出身のド・トス監督は、その生々しいバイオレンス描写やダークな心理描写に定評があり、『落とし穴』(’48)や『土曜日正午に襲え』(’54)などのフィルム・ノワール映画でカルト的な人気を誇るが、その一方で純然たる正統派のハリウッド西部劇も数多く撮っていた。この『馬上の男』などはその好例と言えよう。 ランドルフ・スコットが演じるのは頑固だが人間味のある牧場主オーウェン・メリット。若い部下の牧童ジョージ(キャメロン・ミッチェル)とジューク(リチャード・クレイン)のバード兄弟からは父親のように慕われ、牧場主仲間のプライン(グイン・“ビッグ・ボーイ”・ウィリアムズ)やランカーシム(クレム・ビーヴァンズ)からも頼りにされる男だが、しかし女性に対してはいまひとつ不器用で、恋人のローリー(ジョーン・レスリー)をライバルの大牧場主アイシャム(アレクサンダー・ノックス)に奪われてしまう。 このアイシャムという男、独占欲と支配欲が人一倍強く、付近一帯の土地を我が物とせんがため、時として暴力を伴う強引な手段を使い、中小の牧場を次々と買占めていた。しかし、オーウェンは頑として買収に応じないため、アイシャムにとっては文字通り目の上のたんこぶ。だがそれ以上に、アイシャムはオーウェンに対して個人的な恨みを持つ理由があった。なぜなら、自分の妻となったローリーが、いまだにオーウェンのことを愛しているからだ。 父親が大酒飲みでろくに仕事をせず、貧しい生活の中で母親が苦労する姿を見てきたローリーは、貧乏生活だけは絶対に嫌だと常日頃から考えていた。それゆえ、オーウェンとの愛情よりも今や町一番の有力者となったアイシャムとの結婚を選んだのだ。なので、彼女にとって結婚とは単なる契約と同然。夫に対して妻としての義務は負うが愛情は一切ない。今なお愛しているのはオーウェン一人だけ。プライドの高いアイシャムにはそれが何よりも我慢ならず、恋敵オーウェンに対して激しい憎悪の念を燃やしていたのである。 そして、いよいよオーウェンの隣の牧場を手に入れたアイシャムは、この機に乗じてオーウェンとその仲間たちを一網打尽に…つまるところ皆殺しにして土地を奪ってしまおうと考える。よそ者のガンマン、ダッチャー(リチャード・ロバー)や一匹狼の無法者クラッグ(ジョン・ラッセル)らを刺客として差し向けるアイシャム。一人また一人と大切な仲間を失ったオーウェンは、以前から彼に秘かな想いを寄せる女性牧場主ナン(エレン・ドリュー)に助けられ、自分の土地を守り仲間の復讐を果たすため、アイシャム一味に孤独な戦いを挑んでいく…。 小気味よいストーリー展開と派手なアクションで押し切る 女性と土地を巡って繰り広げられる、2人の男のプライドを賭けた熾烈な戦いを描くウエスタン活劇。物語の背景を説明する前置きもそこそこに、あっという間に本題へ入っていく序盤を含め、余計なぜい肉をそぎ落としたシンプルな語り口が非常に分かりやすい。なにしろ上映時間は90分未満である。全体的に人物描写が浅いため、ウォーレンとローレンとアイシャムの三角関係も心情的に十分理解できるとは言えず、良くも悪くも単純明快な勧善懲悪のドラマに終始している感は否めない。しかし、その欠点をスピーディで小気味よいストーリー展開と派手なアクションで存分に補い、見せ場に次ぐ見せ場で観客を飽きさせることなく押し切っていくド・トス監督の演出は、優れたB級プログラム・ピクチャーのお手本だ。 そう、このあまり深く考える必要のない問答無用の面白さこそが、当時のランドルフ・スコット作品の醍醐味であり、彼が一般大衆に絶大な人気を誇った理由だとも言える。折しも、’50年代に入るとハリウッドの西部劇も急速に変容し始め、以前のような分かりやすい勧善懲悪が必ずしも通用しなくなっていく。ゲイリー・クーパーの『真昼の決闘』(’52)やジョン・ウェインの『捜索者』(’56)などはその代表格だ。しかしその一方で、古き良き大衆娯楽としての西部劇を求める観客も依然として存在したわけで、恐らくその需要をスコットが一身に請け負っていたような側面はあったのだろう。 とはいえ、そんなスコットも時代の流れには逆らえず、ジョン・ウェインの代役として主演した『7人の無頼漢』(’56)を皮切りに、バッド・ベティカー監督とのコンビで数々の野心的な西部劇に挑戦し、複雑で多面的なヒーロー像を演じることになる。今現在アメリカでの評価が高いのも、主にこれらベティカー監督とのコンビ作群だ。しかし、本作を筆頭に『ブラックストーンの決闘』(’48)や『西部のガンベルト』(’52)、『ネバダ決死隊』(’52)など、それ以外にも正統派B級ウエスタンの魅力に溢れた作品が多く、決して過小評価すべきではないだろう。 その後、60代に差しかかったスコットはベティカー監督との『決闘コマンチ砦』(’60)を最後に引退を決意するが、サム・ペキンパー監督に請われる形で『昼下りの決斗』(’62)に主演し、輝かしいキャリアに有終の美を飾ることとなる。引退後は株式投資に成功して悠々自適な老後を過ごし、1987年3月2日にビバリーヒルズの自宅で亡くなっている。享年89歳の大往生だ。 なお、2度の結婚で自身の子供は授からなかったスコットだが、若い頃の12年間に渡って同居生活を送ったケイリー・グラントと恋人同士だったとも言われている。その真偽のほどは定かでないものの、ゲイであることを隠すために偽装結婚したロック・ハドソンやヴァン・ジョンソンなどの例も実際にあるわけだから、別にあり得ないことではないだろう。それにしても、若き日のランドルフ・スコットとケイリー・グラントのカップルって、出来過ぎなくらいお似合いじゃありませんか。■ 『馬上の男』(C) 1951, renewed 1979 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.