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アビエイター
航空機と映画を愛した大富豪ハワード・ヒューズ。彼の波乱の半生をスコセッシ×ディカプリオで描く伝記大作
航空機と映画をこよなく愛し、銀幕の女優たちと浮名を流した伝説の大富豪ハワード・ヒューズ。スコセッシ×ディカプリオの黄金コンビが、彼の半生を壮大なスケールで描く伝記大作。巨大輸送機の飛行シーンは必見!
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COLUMN/コラム2024.03.08
ディカプリオが惹かれた「謎の大富豪」。若きハワード・ヒューズの20年を描く。『アビエイター』
「謎の大富豪」。 1976年、ハワード・ヒューズ70歳での訃報に直に触れたことのある者は、こんなフレーズを、やたらと耳にした記憶があるかと思う。 1958年の公式インタビューを最後に、亡くなるまでの20年近くは、マスコミから姿を隠し、ラスベガスのホテルに独居。立退きを迫られると、そのホテルごと買収して、ほとんど外出せずに暮らし続けたという。 遺された総資産が360億㌦にも上り、「謎の大富豪」のフレーズがあまりにも立ち過ぎた故、私などは彼の業績や実績を、かなり後年までほとんど知らなかった。“発明家”“飛行家”そして“映画製作者”として名を馳せたという事実を。 190cmと高長身で、ハリウッドスター並みの容貌。ひとつの人生で何人分もの体験をして、多くのことを成し遂げたヒューズには、「20世紀で最高に寛大な金持ち」「身勝手な人」など、正反対の評価が付いて回る。 そんなヒューズの人生に、魅せられた男がいた。レオナルド・ディカプリオだ。 1974年生まれの彼は、『ギルバート・グレイプ』(1993)で、19歳にしてアカデミー賞助演男優賞の候補となり、『タイタニック』(97)で、押しも押されぬ若手のTOPスターとなる。 彼がヒューズに興味を持ったのは、10代の頃。この「謎の大富豪」を、正面切って描いた伝記映画は、長く存在しなかった。そしてディカプリオは、20代の8年間、ヒューズの人生を映画化するプロジェクトに心血を注いだのである。 ヒューズは、“飛行機”と“映画”と“女性”に、同じような情熱で関わったという。ディカプリオはその伝記を何冊も読み、様々な書き手が、各々違う見方で彼について書いているのを発見。一言では言い表せない複雑な人間だからこそ、こんなにも惹かれるのだと、得心した。そこに俳優としてのやりがいを強く感じると同時に、自分とヒューズの共通点が、「完璧への執着」であることを見出したという。 ディカプリオは、製作会社「アピアン・ウェイ」を設立。その第1作としてこの企画を取り上げ、自らは製作総指揮と主演を務めることにした。 タイトルは、“飛行家”という意味の“アビエイター”に。そして監督は、マーティン・スコセッシに決まる。 スコセッシとディカプリオは、前作『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)に続く顔合わせ。…と言うよりも、本作『アビエイター』(2004)は今日に於いては、『キラー・オブ・ザ・フラワームーン』(2023)まで6作に及ぶ名コンビの、2作目という位置付けになるのだろうか? しかしスコセッシの起用は、当初はディカプリオの頭にはなく、スコセッシ自身も、“ハワード・ヒューズ”という題材には、まったく興味がなかったという…。 ***** 1920年代。ヒューズは父から受けた莫大な遺産を元手に、夢のひとつ“映画製作”を開始。念願の企画だった航空アクション映画『地獄の天使』製作で、本物の戦闘機を買い集め、自ら空中スタントをこなし、ついには監督まで務めることとなった。この作品は、2年近く掛けてようやくクランクアップ。しかしトーキー映画第1作『ジャズ・シンガー』を観たヒューズは、サイレント映画だった『地獄の天使』を、全編音声入りで撮り直すことを決めた。 史上空前の莫大な予算を掛けて3年がかりで完成した『地獄の天使』は大ヒット。しかし大赤字に終わる。 ヒューズはもう一つの夢だった、“航空事業”に着手。会社を立ち上げ、世界一速い飛行機の開発を始めた。 女性と次々と浮名を流していたヒューズは、新進女優のキャサリン・ヘプバーンと恋に落ちる。2人は真剣だったが、やがてズレが生じ、破局が訪れる。 以前から潔癖症の傾向があったヒューズの病みは深まり、強迫神経症の症状が顕著となる。一時は服を着ることも水に触れることも出来ず、全裸のまま暮らし、他人との接触や外出を、恐怖と感じるようになった…。 その後ヒューズは、大手航空会社「TWA=トランス・ワールド航空」のオーナーとなる。第二次大戦開始後には、政府からの資金を受けて、世界最大の輸送機の開発を進める。同時に偵察機を開発し、自らテスト飛行を行うが、墜落事故で瀕死の重傷を負う。 復帰後の彼を襲ったのは、開発が遅れていた輸送機に関し、公費の不正使用を疑うFBIの強制捜査だった。公聴会でライバル企業の息が掛かった上院議員と対決することとなったヒューズは、精神状態が著しく悪化。試写室に全裸で引き籠もって、絶体絶命のピンチを迎えた。 元恋人の女優エヴァ・ガードナーのサポートで、ヒューズは公聴会に何とか出席する。果して彼は、この難局を乗り切れるのか!? ***** 構想から実現までの8年間、ディカプリオはヒューズの伝記をはじめ、関係する本や資料を読み漁った。更には録音テープを聴き、古い映画を何本も鑑賞。その上で、ヒューズと交際していた女優も含め、彼を直接知る人々に会うなど、「ハワード・ヒューズとして」生活するところから、役作りを始めた。 ヒューズ流の、向こう見ずな“飛行術”を学んだのも、その一環。ヒューズが悩まされていた、異常な潔癖症の実際を知るためには、この病気に詳しい医者を訪ね、症状を詳しくリサーチした。“映画化”まで時間が掛かった分、ディカプリオは十分な準備ができたとも言える。 監督は、『ヒート』(95)や『インサイダー』(99)のマイケル・マンに依頼。そのマンを通じて脚本は、『グラディエーター』(2000)や『ラスト サムライ』(03)のジョン・ローガンにオファーした。 ディカプリオとマンは、ヒューズの全生涯を追ったり、狂気に侵された晩年を描いたりするのではなく、彼の若い頃に焦点を当てることにした。奇行で有名な「謎の大富豪」ではなく、“航空機”と“ハリウッド”の両方の世界で大活躍する、過激なほどの想像力と先見性を兼ね揃えた、精力的で若々しい“英雄”としての、ハワード・ヒューズである。 物語の核には、大きな2つの出来事を、据えることを決めた。それは、ヒューが20代後半に挑んだ、『地獄の天使』製作、そして1940年代、ヒューズ率いる「TWA」が、国際航空会社大手として出現した絶頂期である。本作は、「いくつかの出来事を凝縮させたり、順序を変えたり、登場人物を組み合わせたりしつつも、出来るだけ真実に近いもの」を作り出す試みだった。 そんなヒューズの20年間に焦点を当てた物語の幕を引くのは、“1947年”。ヒューズにとっては「晩年の第一歩目」とも言うべき年だったと、マンが決めたのである。 しかしマンは中途で、本作に関して監督はせず、製作に専念することとなった。では誰が、監督に適任か? 本作の脚本を、スコセッシに読むよう薦めたのは、彼のエージェント。誰が関わっている企画かは、一切隠してのことだった。実はこのエージェントは、当のディカプリオの担当も、兼ねていた スコセッシはちょうど、『ギャング・オブ・ニューヨーク』の編集で忙しかった頃。しかし渡された脚本に目を通すと、あっという間に、頁をめくるのに夢中になったという。 スコセッシがそれまでヒューズに興味を持たなかったのは、「奇人変人の類かと思っていた」という、お定まりの理由だった。そんな彼が脚本を読んで最も興味深いと思ったのは、「すごくハンサムで活力に満ちた頭の切れる若者が、自分自身の欠点に苦しむ男になった」という部分だった。 スコセッシは、監督兼プロデューサーとして渾身の力を籠めた、『ギャング・オブ・ニューヨーク』の次に手掛ける作品は、彼のフィルモグラフィーで言えば、『ハスラー2』(86)や『ケープ・フィアー』(91)のような作品と考えていた。即ち、自分が出した企画ではなく、監督として依頼された、雇われ仕事である。 そんなタイミングで、本作の企画が持ち込まれた。スコセッシは、「ハリウッドの20年代、30年代、40年代、まさにアメリカン・ドリームの一部だった頃を再現できるという魅力」に抗えず、受けることを決めた。 スコセッシは、監督に決まると、ローガン、ディカプリオと3人で、ストーリーの微調整を行った。数多くの女性と浮名を流したヒューズだが、その内の2つの恋を、最も重要だったものとしてピックアップすることに決めたのである。 それはキャサリン・ヘップバーン(1907~2003)、エヴァ・ガードナー(1922~90)という、2人のハリウッド女優との恋愛。実在の2人を演じるは、2人のケイト。ケイト・ブランシェットとケイト・ベッキンセールである。 その中でも本作で印象深いのは、ブランシェット演じる、キャサリン・ヘップバーン。ヘップバーンとヒューズには、多くの共通点があり、共に凄い野心家であったことが描かれている。 奇しくも“ケイト”という愛称だったキャサリン・ヘップバーン役を、ケイト・ブランシェットにオファーすることが決まったのは、「ゴールデン・グローブ賞」の授賞式だったという。その席でブランシェットを見たスコセッシの妻が、彼に耳打ちした。「ほら、あなたのキャサリン・ヘップバーンが見つかったじゃない」。スコセッシも、「その通りだ!」と答えたという。 オファーを受けたブランシェットは、「…正直言ってマーティン・スコセッシが監督でなかったら、こんなことやってみようとは思わなかった」という。それはそうだろう。キャサリン・ヘップバーンは、アカデミー賞主演女優賞を史上最多の4度受賞し、誰からも尊敬されている大女優。しかもこの作品の製作が本格化した頃は、存命であった。 ブランシェットは、役を外見ではなく、エネルギーの部分から自分のものにしていった。具体的には、ヘップバーンの声をよく聞いた。人がどう呼吸するかは、その人の考え方を表現する大切な要素だからである。 スコセッシ流のサポートは、シネフィルの彼らしく、“映画上映”だった。ブランシェットの移動場所に合わせて、ヘップバーンの昔の主演作=1930年代の作品を、大きなスクリーンに映し出すよう、計らったのだった。 余談になるがヘップバーンは、血液の循環が良くなるという、冷水のシャワーを浴びる習慣があった。そこでブランシェットも役作りとして、冷たいシャワーを浴びることにした。しかしこれは続かず、すぐに温水に切り替えたそうである。 1920年代から40年代という時代を再現するのに力を発揮したのは、衣裳や美術、撮影といったスタッフ陣。衣裳デザインのサンディ・パウエルは、最高に洗練された当時の豪華ファッションを再現した他、ヒューズの着こなしの変化を表現した。 撮影監督のロバート・リチャードソンは、ナイトクラブなどの実物大のセットを組む、美術のダンテ・フェレッティと、綿密に打合せ。また飛行シーンの視覚効果チームとも話し合って、色合いやカメラワークなどの同調も行った。 リチャードソン、フェレッティ、パウエルの3人は、スコセッシの相方とも言うべき、編集のセルマ・スクーンメーカーと共に、アカデミー賞が贈呈されるという形で、報われた。2004年度のアカデミー賞では本作に、その年最多の5部門が贈られたのだ。 しかし当然のように狙っていた、作品賞や監督賞、主演男優賞は、ノミネート止まり。この年度のアカデミー賞を制したのは、4部門の受賞ながら、作品賞、監督賞などに輝いた、クリント・イーストウッド監督・主演の『ミリオンダラー・ベイビー』だった。 5度目のノミネートにして、またも受賞できなかった“監督賞”のオスカーを、スコセッシが手にするのは、6度目の正直。2006年の『ディパーテッド』。 一方ディカプリオが主演男優賞を手にしたのは、本作から10年以上経った2015年の『レヴェナント: 蘇えりし者』。主演・助演合わせて、奇しくもスコセッシと同じ、6度目でのノミネートでの受賞となった。 本作に於いて、ある意味最もチャレンジャーで、しかも大勝利を収めたのは、ケイト・ブランシェットだったと言えよう。ほとんどの人が実物を知らないハワード・ヒューズと違って、誰もが知っていた稀代の名優キャサリン・ヘップバーンを演じて、初めてのオスカー=アカデミー賞助演女優賞を手にしたのだから。■ 『アビエイター』© 2004 IMF. All Rights Reserved
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PROGRAM/放送作品
ハート・ロッカー
[PG12]極限的な爆弾処理任務が兵士の心をむしばむ…アカデミー賞(R)6部門に輝いた戦争ドラマ
イラクで爆弾処理任務に就く米軍兵が極限的な緊張感によって心身共に疲弊していく姿を、キャスリン・ビグロー監督が徹底したリアリズムで描き女性初のアカデミー賞(R)監督賞を獲得。作品賞など合計6部門受賞。
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COLUMN/コラム2024.01.23
リアリズム西部劇などクソ喰らえ!“巨匠”ハワード・ホークス起死回生の一作!!『リオ・ブラボー』
古代エジプトを舞台に、大々的なエジプトロケを敢行した製作・監督作『ピラミッド』(1955)が失敗に終わった後、ハワード・ホークスは、ヨーロッパへと逃れた。そして映画ビジネスに対する情熱を取り戻すまで、4年近くの歳月を要した。 それまでの彼のキャリアでは最も長かったブランクを経て、帰国してハリウッドへと戻ったホークスは、「自分が最もよく知っているものをやってやろう…」と考えた。それは、既に落ち目のジャンルのように思われていた、“西部劇”。 彼は思った。以前に観て、「あまりにも不愉快」と感じた作品の裏返しをやってみようと。その作品とは、『真昼の決闘』(52)。 ゲイリー・クーパー演じる保安官が、自分が刑務所送りにした無法者の一味の報復に脅え、町の人々の協力を得ようとするも、ソッポを向かれてしまう…。“赤狩り”の時代、体制による思想弾圧を黙認するアメリカ人を、寓意的に表した作品とも言われる。いわゆる“リアリズム西部劇”として、傑作の誉れ高い作品である。 しかしホークスに掛かれば、一刀両断。「本物の保安官とは、町を走り回って人々に助けを乞う者ではない」。プロは素人に助けを求めたりしないし、素人にヘタに出しゃばられては、かえって足手まといになるというのだ。 また別に、『決断の3時10分』(57)という作品も、ホークスの癇に触っていた。この作品では、捕らえられている悪人のボスが主人公に対し、「手下たちがやって来るまで待っていろよ」と凄んで、冷や汗を掻かせる。これもホークスからしてみれば、「ナンセンスもはなはだしい」。主人公がこう言い返せば、良い。「手下どもが追いついてこないことを祈った方がいいぞ。何故なら、そうなったら死ぬのはお前さんが真っ先だからな」 ホークスが新作の主演に想定したのは、ジョン・ウェイン。“デューク(公爵)”の愛称で、長くハリウッドTOPスターの座に君臨した彼は、特に“西部劇”というジャンルで、数多の名作・ヒット作の主演を務め、絶大なる人気を誇っていた。 そしてホークス&ウェインは、かつて『赤い河』(48)で組み、赫々たる戦果を挙げたコンビである。お誂え向きに、ウェインもホークスと同様、『真昼の決闘』に嫌悪感を抱いていた。 その頃のウェインは、ちょっとしたスランプ状態。西部劇には『捜索者』(56)以来出演しておらず、近作の数本は、ウェイン主演作としては、ヒットとは言えない興行成績に終わっていた。 こうして監督ハワード・ホークス、主演ジョン・ウェイン11年振りの組合せとなる、本作『リオ・ブラボー』(59)の企画がスタートした。 ***** テキサスの街リオ・ブラボーで、保安官のジョン・T・チャンス(演:ジョン・ウェイン)は、殺人犯のジョーを逮捕した。 しかしジョーの兄で大牧場主の有力者ネイサン(演:ジョン・ラッセル)が、弟の引き渡しを求めて、街を封鎖。殺し屋を差し向ける。チャンスの仲間は、アルコール依存に苦しむデュード(演:ディーン・マーティン)と足が不自由な老人スタンピー(演:ウォルター・ブレナン)の2人だけ。 友人のパット(演:ワード・ボンド)が加勢を申し出るが、チャンスは断わる。しかしパットは、ネイサンの一味に殺害されてしまう。 ネイサンの放つ刺客に、幾度もピンチを迎えながら、パットの護衛を務めていた早撃ちの若者コロラド(演:リッキー・ネルソン)や、流れ者の美女(演:アンジー・ディキンソン)の協力も得て、切り抜けていくチャンスたち。 そんな中でデュードを人質に取ったネイサンが、牢に居るジョーとの交換を申し入れてきた。ネイサン一味が立て籠もる納屋に向かう、チャンスとコロラド、そしてスタンピー。 いよいよ、最終決戦の時がやって来た…。 ***** 脚本はホークスお気に入りの2人、ジェールズ・ファースマンとリー・ブラケットに依頼した。基本的には、ホークスとファースマンが喋ったシーンを、ブラケットが書き留めて、形を整える。必要とあらば更に整え直して、つなぎ合わせを行い、その間にブラケット自身のアイディアを少々付け足していく。このやり方で、何度も改稿。脚本が、完成に至った。 しかしながら、これで終わりというわけではない。クランクイン前から撮影中まで、細かい変更が随時行われていった。 ジョン・ウェイン以外のキャスティングで、ホークスがデュード役に、最初に考えたのは、『赤い河』に出演していた、モンゴメリー・クリフト。しかし、最初は候補のリストに入ってなかった、歌手でコメディアンのディーン・マーティンが浮上した。 マーティンはジェリー・ルイスとの「底抜けコンビ」で人気を博したが、56年にコンビを解消。フランク・シナトラ率いる、“ラットパック(シナトラ一家)”入りした頃だった。ホークスはマーティンに会ってみて、その人柄が気に入り、彼の起用を決めた。 早撃ちの拳銃使いコロラド役には、当初年輩の俳優を当てることが考えられていた。しかしホークスに、妙案が浮かんだ。 彼が白羽の矢を立てたのは、18歳のリッキー・ネルソン。子どもの頃から、父オジー、母ハリエット、兄デヴィッドとホームコメディ「陽気なネルソン」に出演していたリッキーは、16歳で歌手デビューし、アイドル歌手として、絶大な人気を誇っていた。 当時は、エルヴィス・プレスリーが絶大なる興行力を持っており、その主演映画に観客が殺到していた。ホークスはネルソンも、似たような力を持っているに違いないと考えたのである。 実際に本作の撮影中は、数百人ものファンが、リッキーが滞在するホテルへと押しかけた。リッキーは4度もホテルを変えた挙げ句、人里離れた牧場へと避難するハメとなった。 スタンピー役は、『赤い河』などにも出演し、まるで当て書きのようなウォルター・ブレナン。当時はTVシリーズ「マッコイじいさん」で、お茶の間の人気者にもなっていた。 リッキーやブレナンがそうであるように、本作には、TVの出演俳優が多々起用されている。パット役のワード・ボンド、敵の親玉ネイサン役のジョン・ラッセル、チャンスをサポートするメキシコ人のホテル経営者役のペドロ・ゴンザレス=ゴンザレス等々。TV時代が到来している折りに、観客の間口を広げる、機を見るに敏な、ホークス流キャスティングと言えるだろう。 因みに本作は、“大男”映画でもある。ウェインとラッセルが、193㌢。監督のホークスとワード・ボンドが、190㌢。ウェインと並ぶと小さく見えるが、リッキー・ネルソンが185㌢、ディーン・マーティンも183㌢あった。 ウェイン演じる保安官とのロマンスが展開する、流れ者の美女役には、新進女優だった、アンジー・ディキンソン。これまでに自作に出演した中でも、アンジーが最高にセクシーと見て取ったホークスは、彼女が身に付ける衣裳を、細部の細部まで自ら目を通した。そして、当時の女性が着ていた型通りのものにしないことを望んで、ソフトですべすべした「女っぽい衣裳」をリクエストした。 当時はスタッフでも、女性は衣裳係とヘアの係ぐらいしか居なかった。ロケ地入りしたディキンソンは、男たちから「仲間入り」の洗礼を受けた。それは、彼らに招かれた夕食の場で出された、“牛の睾丸料理”。彼女はペロリと平らげて、無事に「仲間入り」を果した。 アリゾナ州ツーソン谷でのロケ撮影は、厳しい炎暑との戦いだった。厩のまぐさが発火しないように、4時間おきに耐火液を振りかけ、撮影中以外は、馬に大きなフードを被せて、強烈な日差しから守った。砂嵐で咳き込む馬には、人間用の咳止めを飲ませたという。 夜間撮影では、イナゴの大群が照明へと押し寄せた。仕方ないので、別に強烈なライトを焚き、そちらにおびき寄せて、撮影を進めた。 クライマックスの対決シーンで、炸裂するダイナマイト。その爆発をより派手に演出するために、美術監督は色紙を大量に、爆破される納屋の中に仕込んだ。その結果、空に舞う色紙は、「まるで爆竹のでかいやつ」のようになってしまい、その場に居合わせた一同が大笑いで、NG。再撮で、納屋を丸々イチから建て直すハメになったという。 ウェインやブレナンなどから、しっくりしないからセリフを変えて欲しいというリクエストがあると、ホークスは、その願いを受け入れた。またリハーサルの時などに、俳優が偶然思いついたことも、どんどん採用していった。 アルコール依存症のデュードを演じるディーン・マーティンが紙巻タバコを作る際に、「もし俺の指のふるえがとまらないとしたら、どうやってタバコを巻いたらいいんだ?」とジョン・ウェインに尋ねた。彼は答えた。「俺が代わりに巻いてやるさ」。 これがデュードがうまくタバコを巻けないでイライラしていると、保安官が黙ってタバコを差し出すというシーンとなった。このような形で2人のキャラクター間の友情が、巧みに表現されたのである。 音楽も、うまくハマった。ディーン・マーティンとリッキー・ネルソンが、『赤い河』の挿入歌だった、「ライフルと愛馬」をデュエットする。殺し屋たちの魔の手が迫っている中で、随分と悠長なシーンではあるが、「…ふたりのすばらしい歌手がいて、うたわせないという手はない」という、ホークスの考えによる。 悪党のネイサンが保安官たちを脅かすために、酒場の楽団にリクエストする「皆殺しの歌」は、1836年3月にメキシコ軍が、テキサス分離独立派が立て籠もるアラモの砦を攻撃する前に流したと言われる曲。しかし実際の曲は、「恐ろしく陳腐で使えない」と、ホークスが判断。音楽のディミトリ・ティオムキンに、新たに作曲させた。 余談になるが、ウェインはこの曲が、非常に気に入った。そして本作の翌年、アラモの戦いを、自らの製作・監督・主演で映画化した作品『アラモ』(60)に流用したのである。 本作の撮影は、ほとんどのシーンで何テイクも回さずに、1発OKも多かったという。そして58年の5月から7月に掛けての、61日間の全日程を終えた。 本国アメリカ公開は、翌59年の3月。大ヒットとなり、日本その他海外でも、膨大な興行収入を上げた。 そんな本作も公開当時の評価は、単なる無難な“職人監督”であるホークスが手掛けた、“大衆娯楽作品”扱いに止まった。しかし後年、ホークスが“巨匠”として再評価されていく中で『リオ・ブラボー』は、彼の多彩なフィルモグラフィーの中でも、重要な1本と目されるようになっていく。 後年“西部劇”に引導を渡した1本とも言われた、サム・ペキンパー監督の『ワイルド・バンチ』(69)を、「…私なら一人がスローモーションで地上にたおれる前に、四人殺し、死体公示所につれていき、葬送する」と揶揄してみせた、ホークス。そんな彼が作った「本物の“西部劇”」が、『リオ・ブラボー』なのである。■ 『リオ・ブラボー』© David Hawks
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PROGRAM/放送作品
キャッシュトラック
警備会社に雇われた謎の男の正体は?ガイ・リッチー監督&ジェイソン・ステイサムが放つ犯罪アクション
2004年のフランス映画『ブルー・レクイエム』をガイ・リッチー監督がリメイク。警備会社に雇われた謎の男の正体と目的が明かされていく展開が、男を演じるジェイソン・ステイサムの活躍と相まってスリリング。
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COLUMN/コラム2023.08.30
失われた祖国への“愛”が生んだ、クストリッツァ監督の大傑作『アンダーグラウンド』
昔、あるところに国があった…。「ユーゴスラヴィア」。それが、映画監督であるエミール・クストリッツァが生まれ育った国の名前。「単1の政党が支配し、2つの文字を持ち、3つの宗教が存在し、4つの言語が話され、5つの民族から成る、6つの共和国により構成され、7つの隣国と国境を接する」と謳われた、バルカン半島に位置する連邦国家だった。 クストリッツアは、1954年生まれ。「ユーゴスラヴィア」を構成した6つの共和国の1つ「ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国」の首都サラエボの出身である。 初の長編作品『ドリー・ベルを憶えてる?』(1981)で、「ヴェネツィア国際映画祭」の新人監督賞を受賞し、続く『パパは、出張中!』(85)で、「カンヌ国際映画祭」の最高賞=パルム・ドールに輝いた。 快進撃は止まらず、『ジプシーのとき』(89)では再び「カンヌ」で、監督賞を得ている。 その作風は彼の友人、オーストリア出身で2019年にノーベル文学賞を受賞したペーター・ハントケの言葉を借りれば、「シェイクスピアとマルクス兄弟のちょうど中間」。高尚でクラシカルなシェイクスピアのようなストーリーと、マルクス兄弟のようなスラップスティックコメディという、シリアスとユーモア両極端の要素が、混在している。それがクストリッツァの作品世界である。 80年代に手掛けた3本で、ヨーロッパを代表する映画監督の1人となった彼は、1990年にアメリカに移住。『カッコーの巣の上で』(75)『アマデウス』(84)などの名匠ミロス・フォアマンの後任として、コロンビア大学映画学科の講師に就任する。そして初のアメリカ作品『アリゾナ・ドリーム』(93)を、ジョニー・デップ主演で撮った。この作品も高く評価され、「ベルリン国際映画祭」で銀熊賞を受賞している。 チェコスロバキア出身のフォアマンのように、その後はアメリカで作品を撮り続けるという選択肢もあったろう。しかし『アリゾナ・ドリーム』撮影中に、“ボスニア紛争”が勃発。故国が内戦状態に陥ったことが、彼の運命を変える。「…僕はユーゴスラヴィアに生まれ、ユーゴスラヴィア人の誇りを持ってこれまで生きてきた。地球上のどこに滞在していようと、ユーゴスラヴィアとは心で結びついていたんだよ。その祖国が、ある日突然、消えてしまった。これはもう、自分の恋人を失ったようなもので、いつも何とかしたい、祖国を救いたいと思っていた」 本作『アンダーグラウンド』(95)を撮ろうと思ったきっかけ。それは、「祖国への愛」であった。 結果的にクストリッツァのキャリアを語る上で、絶対的に外せない“代表作”となった『アンダーグラウンド』。製作から30年近くを経たことを鑑みて、「ユーゴスラヴィア」の歴史をざっと紐解きながら、それと密接にリンクしている、全3部構成のストーリーの紹介を行う。 ***** 第1次世界大戦後に、バルカン半島に建国されたユーゴスラヴィアだったが、第2次大戦が始まると、ナチス・ドイツが進出。当時のユーゴ政府は「日・独・伊三国同盟」に加わり、「親ナチス」の姿勢を見せる。しかし、これに反対する勢力がクーデターを起こし、政権の奪取に成功する。 怒ったヒトラーは、1941年4月にユーゴを侵略して、占領・分割。そこでユーゴ共産党政治局の一員だったチトーを総司令官に、人民解放軍=パルチザンが組織され、ナチスへの武力抵抗が展開された。 *** 1941年、セルビアの首都ベオグラードでナチスが爆撃を開始したちょうどその頃、共産党員のマルコは、友人のクロを誘って入党させる。彼らはナチスやそのシンパを襲っては、武器と金を奪った。 ナチスの猛攻を避けるため、マルコは、祖父の所有する屋敷の地下室に、避難民の一団を匿う。クロの妻は、そこで息子のヨヴァンを出産。そのまま息絶えてしまう。 43年、クロは惚れた女優ナタリアを拉致。結婚を目論むが、ナチスに逮捕される。酷い拷問などで重傷を負ったクロは、マルコの手で、件の地下室へと運び込まれる。 美しいナタリアに横恋慕したマルコは、クロを裏切り、彼女を我が物とする…。 *** イデオロギーや民族、宗教を越えた“愛国主義”の立場からの、チトーの“パルチザン闘争”は勝利を収め、祖国の解放に成功。1946年には彼を国家のリーダーに頂く、社会主義体制下の連邦国家として、「ユーゴスラヴィア」の歩みが始まる。 先にも挙げた「単1の政党(共産党)が支配、2つの文字、3つの宗教、4つの言語、5つの民族、6つの共和国(マケドニア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、スロベニア、モンテネグロ)」というユーゴだったが、1948年にはソ連と対立。社会主義国ながら、東西どちらの陣営にも属さない、ユニークな政治体制となる。 自主管理と非同盟政策を2本柱に、1961年には社会主義国では初めて、エルヴィス・プレスリーの楽曲がリリースされるなど、「自由化」が進んだ。 付記すれば、1954年生まれのクストリッツアは、西側からの若者文化流入の全面的影響を受けた世代。映画では、ルイス・ブニュエルから『フラッシュ・ゴードン』(80)まで幅広いジャンルを好み、音楽ではセックス・ピストルズのシド・ヴィシャスがカバーした「マイウェイ」をこよなく愛するという彼の嗜好は、紛れもなくこの時期のユーゴに育ったが故である。 *** 1961年、地下室に潜ったクロたちの“戦争”は、まだ終わっていなかった。チトー政権の要人となったマルコが、15年以上に渡ってクロたちを騙し続けたからである。ユーゴはナチスの占領下に置かれたままで、地上では激しい戦闘が続いていると。 地下室の人々は、小銃や戦車などの兵器を製造。マルコはそれを密売し、私腹を肥やすが、マルコの妻となったナタリアは、罪の意識に苛まれアルコールに溺れる。 崩壊の時が、突然訪れる。クロの息子ヨヴァンの結婚式で、マルコとナタリアの関係に、クロが気付く。更にアクシデントから、戦車の砲弾が発射され、地下室に大穴が開く。 クロは、息子ヨヴァンと共に外へ。ナチスを倒そうと意気込む彼らの前に現れたのは、英雄として讃えられるクロの生涯を映画化している撮影隊。ナチの軍服を着た俳優たちを「敵」と認識したクロとヨヴァンは、攻撃を開始する…。 *** 1980年、カリスマ的な指導者だったチトーが死去。すると、ユーゴが乗り越えた筈の、民族や共和国間の対立が、経済危機を背景に激しくなっていく。 91年に連邦の一員だった、スロヴェニアとクロアチアの独立が宣言されたのをきっかけに、セルビア側からの軍事介入などで、ユーゴは内戦状態に。“ユーゴスラヴィア紛争”は、ここから2001年までの10年間にも及んだ。 そして連邦国家「ユーゴスラヴィア」は、完全に解体されることとなる…。 *** 泥沼の内戦状態となった、ユーゴの地に、クロ、マルコ、ナタリアらの姿があった。クロは戦闘の司令官として、マルコとナタリアは、強欲な武器商人とその妻として。 クロはかつての親友、そして最愛の女性と、どのような形で、再び相見えるのか? ***** 『アンダーグラウンド』のベースになったのは、デュシャン・コバチュヴィッチが20年前に書き下ろした戯曲。但し「戦争が続いているとウソをついて、人々を地下に閉じ込めた男の物語」という根幹だけ残して、他はすべて変えることとなった。 クストリッツァとコバチュヴィッチは、共同で脚本を執筆。元は家族を描いたストーリーを、国家をテーマにした作品に変えていった。コバチュヴィッチ曰く、「我々の母国をあまり知らない人たちに国民の生きざまや、この悲惨な戦争が起きざるを得なかった理由について知ってほしかった…」 クストリッツァのこの新作に、出演を熱望したハリウッドスターがいた。前作『アリゾナ・ドリーム』の主演俳優ジョニー・デップである。 ジョニーは、クロらと同様に地下室に閉じ込められる、マルコの弟イヴァン役に立候補。この役のためなら、「セルビア語をマスターする!」と決意表明したのだが、クストリッツアは、本作はユーゴの役者だけで撮ると、断わったという。 その言葉通り、主要キャストはユーゴ出身者で固めた本作の撮影は、93年10月にチェコスロヴァキアのプラハのスタジオでスタート。撮影は断続的に行われ、旧ユーゴ、ドイツのベルリンとハンブルグ、更にブルガリアを経て、95年1月に旧ユーゴのベオグラードでクランク・アップとなった。 クストリッツァは本作の製作中、ストーリーがどこに向かって行こうとしているのか、自分でも「わからなかった」と語っている。映画史に残るラストシーンも、「撮影しながら思いついた」のである。 未見の方のために詳細は省くが、ドナウ川にせり出した土地に、主要キャスト全員が揃って展開するこのシーンは、“バルカン半島”の在り方への希望と解釈する向きが多かった。しかしクストリッツァによると、「ヨーロッパ全体のメタファーのつもり」だったという。 因みに人々を騙して地下室に閉じ込めるマルコの行動は、情報を遮断して民衆の支持を集める、“共産主義”のメタファーと受け止めてかまわないと、クストリッツァは語っている。 本作は「カンヌ」で、クストリッツァにとっては2度目となるパルム・ドールを受賞。そうした絶賛を受けると同時に、大きな物議を醸すことにもなった。本作の内容が、ユーゴ内戦を煽ったセルビアの民族主義者寄りだとの批判が、フランスの知識人たちなどから行われたのである。 クストリッツァは、“ユーゴスラヴィア人”を自任し、「自分はいかなる政治グループにも属していないし、特定の宗教も信じていない」と明言していた。それ故に、様々な政治的立場の人間から、裏切り者扱いされた側面もあったと言われる。 こうした糾弾によってクストリッツァは、「カンヌ」でパルム・ド-ルという頂点を極めたその年=95年の暮れに、「監督廃業宣言」するまでに追い込まれる。それは割りとあっさりと、覆されることにはなるのだが。 その後のクストリッツァは。ほぼ3~4年に1作程度のペースで、劇映画やドキュメンタリー映画を発表し続けている。またミュージシャンや小説家としても、活動している。 それと同時に、政治的には「先鋭化」が進んだというべきか?ユーゴスラヴィア紛争におけるセルビア側の責任を否定し、西側諸国の干渉を一貫して批判するようになる。ユーゴ紛争に於いて「人道介入」の名の下に、米軍を中心とするNATO軍が、セルビア人勢力に大規模な空爆を行った上で、ユーゴに駐留するようになったことに対しては、強い憤りを表明している。 更にクストリッツァは、アメリカはじめ西側との対立を深めつつあった、ロシアの独裁者プーチンへの支持を公言するようになる。2022年、ロシアがウクライナに侵攻した前後には、「ロシア陸軍学術劇場」のディレクターに就任したとのニュースが報じられ、各方面に衝撃が走った。その後この“就任”に関しては、本人側から否定するコメントが出されたが…。 すっかり毀誉褒貶が激しい、アーティスト人生を送ることになったクストリッツァ。それは『アンダーグラウンド』という、失われた祖国への「愛」故に作り上げた、世紀の大傑作に端を発する部分が大きい。 昔、あるところに国があった。そして、この物語に、終わりはない…。■ 『アンダーグラウンド』© MCMXCV by CIBY 2000 - All rights reserved.
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PROGRAM/放送作品
(吹)キャッシュトラック
警備会社に雇われた謎の男の正体は?ガイ・リッチー監督&ジェイソン・ステイサムが放つ犯罪アクション
2004年のフランス映画『ブルー・レクイエム』をガイ・リッチー監督がリメイク。警備会社に雇われた謎の男の正体と目的が明かされていく展開が、男を演じるジェイソン・ステイサムの活躍と相まってスリリング。
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COLUMN/コラム2023.08.09
『北京原人の逆襲』私史 ―怪獣映画少年はいかに本作を愛したのか―
◆香港を破壊する巨大猿人のファーストインパクト 天突くほどの巨大な古代猿人が、香港の街を破壊するモンスターパニック映画『北京原人の逆襲』(監督/ホー・メンホア)は、『道』(1954)『天地創造』(1966)のディノ・デ・ラウレンティス製作、『タワーリング・インフェルノ』(1974)のジョン・ギラーミン監督によるリメイク版『キングコング』(1976)の製作に触発されて始動した企画だ。3000万ドルという、当時としては巨額のバジェットを誇る前者に対し、わずか50万ドル(600万香港ドル)という低予算で対抗したにもかかわらず、本家よりもはるかに面白い作品となった。 この「『キングコング』以上に面白かった」というのは、本作を語るうえでテンプレのごとくついてまわる常套句だが、決して盛ったものではなく、日本公開時に小学生だった筆者(尾崎)がオンタイムでそれを実感している。なにしろ開巻からいきなり巨大猿人“北京マン”(吹替版本編での呼称に準拠。以下同)が登場し、村を容赦なく蹂躙するのを見せられては、始まって30分経たないと全体像を見せないキングコングの分が悪くなるのも当然だ。加えて本作のヒロイン、野生美女サマンサ(イヴリン・クラフト)の気持ち程度のアニマル革をまとった半裸姿も、思春期前の少年には相当に刺激が強いものだった。 そしてなにより、半端でないスケールのミニチュアと着ぐるみを駆使した同作の特殊効果が、驚くほど日本人である自身のDNAに馴染むものだったのだ。 それもそのはずで、本作の特技撮影は『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967)の特技監督として知られる有川貞昌を筆頭に、東宝の優れた特撮スタッフが製作元のショウ・ブラザースに招聘されて担当しているからだ。 当時の東宝怪獣映画は、円谷英二の死去にともなう1969年の特殊技術課の廃止以降、ゴジラシリーズを子ども向けの低予算映画としてシフトチェンジさせ、残存スタッフでその命脈を保ってきた。それも1975年の『メカゴジラの逆襲』で休眠期に入り、本格的な怪獣映画の製作は1984年の『ゴジラ』まで潰えてしまう。 その間『日本沈没』(1973)や『ノストラダムスの大予言』(1974)などのパニック映画は折に触れて製作されていたし、私的にはまだ見ぬ『スター・ウォーズ』(1977)の公開に胸躍らせて飢餓感はなかったが(同作の日本公開は1978年7月1日)、それでも怪獣映画こそ心の花形だった少年は、なんともいえない心の空洞を感じていたのだ。 そんな状況下で、東宝のサウンドステージの数倍はあろうかというショウ・ブラザースのスタジオに、香港の街をミニチュアで精密に再現し、巨大なクリーチャーを大暴れさせた同作は、黄金期の東宝怪獣映画を彷彿とさせるものだったのである。 ◆東宝特撮映画の道筋を変えたかもしれない存在 ショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)は1950年代後半から〜1970年代末まで香港映画の黄金時代を牽引した映画会社で、技術的な発展を視野に入れた同スタジオは、日本の撮影スタッフを積極的に招き入れていた。『北京原人の逆襲』は同社にとって初の本格怪獣映画として、日本の優れた特撮スタッフが持つノウハウを希求したのだ。 後年、筆者はこの映画の特撮班に助監督としてたずさわった川北紘一氏と、インタビュー取材やトークショーの相手役として何度かお仕事をご一緒させていただき、この『北京原人の逆襲』について話を聞いたことがある。そのとき川北監督は、「当時は映画の仕事がなかったからさ、ついていくしかなかったんだよ」とニコニコ笑いながら参加の動機を答えていたが、事実、それは先に記した東宝特撮映画の動向に裏付けられるだろう。ただこの仕事を境に川北は『さよならジュピター』(1984)の企画にほどなく関与し、また東宝の田中友幸プロデューサーが主導してきた「ゴジラ復活委員会」に尽力し、後に平成ゴジラシリーズの特撮監督を担っていく。こうした怪獣映画ルネッサンスの布石として、『北京原人の逆襲』の影響力は小さくないものと筆者は捉えている。いささか極論かもしれないが、1976年のあの段階で川北の香港渡航がなければ、以後の東宝特撮映画の流れはもう少し違ったものになっていたかもしれない。 しかしこうして力説するほどに『北京原人の逆襲』が重要視されているかというと、当方の熱量とはいささかの温度差がある。 『キングコング』の対抗馬として世に出ながら、本作は撮影スケジュールの遅れから本家より半年後の公開となった。そのもくろみ外れは興行に影響し、初公開後の1週間でわずか120万香港ドルの興行収入しか得られなかった。そして限定的なインターナショナル公開の後、1979年にはアメリカでは『GOLIATHON』と改題され、短縮バージョンで短い期間に配給され、知られざるまま消えてしまったのだ。 それから20年後の1999年、『パルプ・フィクション』(1994)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(2019)の監督クエンティン・タランティーノが、当時パートナー関係にあった映画会社ミラマックスをスポンサーにして立ち上げたレーベル「ローリング・サンダー・ピクチャーズ」とカウボーイ・ブッキング・インターナショナルの共同によってオリジナル版が再公開され、全米20か所で深夜上映された。 不遇にあったこの傑作が 晴々しい復権を得た瞬間である。 ◆出藍の誉、ここに極まれり それにしてもなぜ『北京原人の逆襲』に、自分はここまで惹かれるのだろう? 映画の出自が出自だけに、当然ストーリーは『キングコング』の鋳型に収めたような定型的なものだ。興行師が金儲けのために未踏の地で発見した巨大猿人を捕獲し、その存在を見せものにした興行を打とうとする。だが猿人は制御を失い、大都市に放たれて大暴れをする。彼が唯一心を通わせるヒロインの存在といい、どこまでも“美女と野獣”の寓話に忠実である。クライマックスで猿人が、自国を象徴する高層建築によじ登っていくところまで、折目正しく踏襲している。 しかし、こうした類似性に観る側も自覚的であれば「では違う部分はどこなのか?」と比較し、能動的に作品と接していくことになる。だから余計に『北京原人の逆襲』の良点が鮮やかに映るのだ。 また同作の公開時、仮想敵だった『キングコング』はすでに公開から1年が経過しており、比較対象として俎上にさえ上がらなかったことや、このギラーミン版はむしろ、1933年製作のオリジナル版『キング・コング』との比較にさらされ、作品自体の評価がネガティブに固定してしまった。それが『北京原人』の高評価の底上げになったといえなくもない。 また当時はそこまで思慮深く意識していなかったが、本家『キングコング』に先駆けて公開してやろうという『北京原人の逆襲』の哲学は、東宝が『スター・ウォーズ』公開までの間に『惑星大戦争』(1977)を製作したのと似たものを覚えてしまう。そんな同作のエクスプロイテーションを標榜する姿勢に、肌感覚で同じようなテイストを感じたのだろう。 そして日本を代表するベテラン造形師・村瀬継蔵が創造した北京マンのままならぬ容姿も、「猿人系モンスターはブサイクである」という東宝怪獣の屈折した美学にのっとっており、そこもまた同作に肩入れする要素だったといえる。 これらが複合的に撚り合わさり、『北京原人の逆襲』は当時の少年の心をグッと捉えたというのが、オンタイムで同作を観た者の剥き身の体験談である。映画史には残らないかもしれない、しかしこの映画の存在は、怪獣映画ジャンキーだった筆者の私史にしっかりと刻みつけられている。■ 『北京原人の逆襲』© 2004 CELESTIAL PICTURES LTD. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
トロイ(2004)
[PG-12]神話エンタテインメント!ギリシャ最強の戦士アキレスを演じたB・ピットが雄々しく美しい
古代ギリシアの昔から語り継がれる壮大な叙事詩を、最先端映像技術とブラッド・ピット、オーランド・ブルーム、エリック・バナら美しき男たちの肉体美により、圧倒的迫力で蘇らせたアクション歴史巨編。
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COLUMN/コラム2022.12.09
1980年代韓国の“闇”を斬り裂いた!№1監督ポン・ジュノの出世作!!『殺人の追憶』
1960年代生まれで、80年代に大学で民主化運動の担い手となり、90年代に30代を迎えた者たちを、韓国では“683世代”と呼んだ。そしてこの世代は、政治経済から文化まで、その後の韓国社会をリードしていく存在となる。『パラサイト 半地下の家族』(2019)で、「カンヌ国際映画祭」のパルム・ドールと「アカデミー賞」の作品賞・監督賞などを受賞するという快挙を成し遂げた、韓国№1監督ポン・ジュノも、まさにこの世代。本人は69年生まれで、88年に大学に入ったので、あまり実感がなく、その分け方自体が「好きではない」というが。 確かに90年代、“韓国映画ルネッサンス”と言われる潮流が起こった時、彼はまだ長編監督作品を、ものしてなかった。そして2000年になって完成した第1作『ほえる犬は噛まない』は、一部で高い評価を得ながらも、興行的には振るわない結果に終わっている。 しかしプロデューサーのチャ・スンジェは、『ほえる…』の失敗をものともせず、ポン・ジュノに続けてチャンスを与えた。彼が取り掛かった長編第2作が、本作『殺人の追憶』(2003)である。 題材は、“華城(ファソン)連続殺人事件”。86年から91年に掛け、ソウルから南に50㌔ほど離れた華城郡台安村の半径2㌔以内で起こった、10件に及ぶ連続強姦殺人事件である。180万人の警察官が動員され、3,000人の容疑者が取り調べを受けたが、犯人は捕まらないまま、10年余の歳月が流れていた。 この事件はすでに演劇の題材となっており、「私に会いに来て」というタイトルで、1996年に上演されていた。ポン・ジュノはこの演劇を原作としながら、事件を担当した刑事や取材した記者、現場近隣の住民に会って話を聞き、関連資料を読み込んだ。 そして自分なりに事件を整理してみたところ、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」という。この作業に半年掛けた後、脚本の執筆は、1人で行った。 因みに63年生まれで、ポン・ジュノよりは6歳ほど年長ながら、同じ“386世代”で、すでに『JSA』(00)でヒットを飛ばしていたパク・チャヌク監督も、「私に会いに来て」の映画化を考えていた。しかしポン・ジュノが取り組んでいることを知って、あきらめたという。 “華城連続殺人事件”には、“386”の代表的な監督たちの興味を強く引く、“何か”があったのだ。 未解決の連続殺人事件を映画化するということで、スタッフとキャスト全員で追悼式を行ってからクランクインした本作。事件から10数年経って、華城は当時の農村風景が残る環境とはかなり様相が変わっており、また住民の感情も考慮して、事件現場よりも更に南部の全羅道でロケが行われた。 製作費は、30億ウォン=3億円。通常の韓国映画より、少し高い程度のバジェットであった。 ***** 1986年、華城の農村で連続猟奇殺人が発生する。被害者の若い女性は、手足を拘束され、頭部にガードルを被せられたまま、用水路などに放置されていた。 担当のパク・トゥマン刑事(演:ソン・ガンホ)は、「俺は人を見る目がある」と豪語するが、捜査は進まない。そんなある日、頭の弱い男クァンホが、被害者の1人に付きまとっていたという情報を得る。トゥマンは相棒のヨング刑事と共に、拷問や証拠の捏造まで行って、クァンホを犯人にしようとするが、うまくいかない。 そんな時にソウルから、ソ・テユン刑事(演:キム・サンギュン)が派遣されてくる。テユンは、「書類は嘘をつかない」と言い、各事件の共通性として「雨の日に発生した」こと、「被害者は赤い服を着ていた」ことを見つけ出す。更に彼の指摘通り、失踪していた女性が、死体となって発見される。 やり方が正反対のトゥマンとテユンは、対立しながら、捜査を進める。しかし有力な手掛かりは見つからず、犠牲者は増えていく。 雨で犯行の起こる日、必ずラジオ番組に「憂鬱な手紙」という曲をリクエストしてくる男がいることがわかる。その男ヒョンギュ(演:パク・ヘイル)は、連続殺人が起こり始めた頃から、村で働き始めていた。 有力な容疑者と目星を付け、現場に残された精液とヒョンギュのDNAが一致するか検査を行うことになる。しかし当時の韓国には装備がなく、アメリカに送って鑑定が返ってくるまで、数週間待たねばならない。 一日千秋の思いで結果を待つ刑事たちだったが、その間にまた犯行が起きて…。 ***** 本作の内容は、事件の実際と、それを基にした演劇と、更にはポン・ジュノの想像を合わせたものだという。例えば、被害者の陰部から、切り分けた桃のかけらが幾つも見付かったことや、捜査に行き詰まった刑事たちが霊媒師を訪ねたこと、頭の弱い容疑者が、尋問後に列車に飛び込み自殺したことなどは、“事実”を採り入れている。 有力な容疑者のDNA鑑定は、実際には、日本に検体を送って行われた。これをアメリカに変更したのは、当時の米韓の対比を描きたかったからだという。 容疑者がラジオ番組に歌をリクエストするというのは、まったくのフィクション。この設定は、原作の演劇にもあったが、その曲はモーツァルトの「レクイエム」であった。ポン・ジュノはそれを、「1980年代の雰囲気が重要」と、当時の歌謡曲である「憂鬱な手紙」に変えたのである。 因みに原作の「私に会いに来て」で、主人公の相棒の暴力刑事を演じたキム・レハと、頭の弱い容疑者役だったパク・レシクは、そのまま本作で、同じ役どころを与えられている。 本作を、典型的な“連続殺人事件もの”として作ったり、最初はいがみ合っている刑事たちが、やがて力を合わして捜査に取り組んでいく、“バディもの”として描くことも可能であった。しかし先に記した通り、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」というポン・ジュノは、韓国社会が通ってきた80年代の暗部を描くのを、メインテーマとした。 事件当時の新聞には、88年に開催が迫った「ソウルオリンピック」が大見出しとなっている下に、「華城でまた死体発見」という小さな記事が載っている。ポン・ジュノはそれを見て、妙な気がした。そして「…これは不条理ではないかと思った」という。「華城事件」で10人の女性が殺された86年から91年は、ちょうど全斗煥大統領による軍事政権に対する民主化要求運動が、全国的な広がりを見せた時代である。そしてこの頃の警察は、ド田舎の村の人々を守ることよりも、政権を守るためにデモを鎮圧することの方を、重視していた。 本作の中では、機動隊がデモ隊を取り締まるために出動している間に、事件が起こる描写がある。また夜道を歩いていた女子学生が犯人に襲われる場面は、政府の灯火管制により、村のあちこちで消灯したり、シャッターが下ろされたりして、人為的に暗闇が訪れていくのと、執拗にカットバックされる。政府が作り出した暗闇が、罪のない女子学生の命を奪う犯人を、サポートしてしまうのだ。 これぞポン・ジュノ言うところの「不条理」。「時代の暗黒が殺人事件の暗黒を覆う…」わけである。 高度成長期でもあるこの時期、稲田や畑ばかりだった農村に、工場が建てられる。それまでは村全体が一つの大家族のような繋がりだったのに、縁もゆかりもない、見も知らぬ労働者が大挙して移り住んでくることによって、“事件”が起こるという構図も、まさに時代が生んだ殺人事件と言える。 因みに我が国でも、64年の東京オリンピック前年には、5人連続殺人の“西口彰事件”や、4歳の子どもを営利誘拐目的で殺害した“吉展ちゃん事件”などが起きている。奇しくも日韓共に、五輪が象徴する時代の転換期には、猟奇的な事件が発生しているわけだ。 “西口彰事件”については、それをモデルにした、今村昌平監督の『復讐するは我にあり』(79)という有名な邦画がある。本作の演出に当たってポン・ジュノは、この作品を非常に参考にしたという。 本作の邦題『殺人の追憶』は、原題の直訳だ。これはデビュー作『ほえる犬は噛まない』で、「フランダースの犬」(原題)という意に沿わぬタイトルを映画会社に付けられてしまい、結果的に内容と合わないことも、興行の失敗に繋がったという反省から、ポン・ジュノ自らが付けたもの。「殺人」の「追憶」という連なりには、組合せの妙を感じる。「追憶」という言葉を使ったのは、80年代の韓国、その“暗黒”を、積極的に振り返るという、ポン・ジュノの想いが籠められているのである。 そうした想いを、具現化していくための演出も、半端なことはしない。この規模の作品では、通常3~4ヶ月の撮影期間となるが、本作は半年間。これは「冒頭とラストだけ晴で、後は曇りでなくてはダメ」という、監督のこだわりによって掛かった。特に件の女子学生が犠牲になるシーンでは、理想的な曇天を待つために、1か月を要したという。 本作は先に挙げたように、“連続殺人事件もの”“バディもの”といった、ジャンル映画に括られることから逃れているのも、特徴だ。ポン・ジュノは毎作品、「ジャンルの解体」を目指しているという。 これに関しては、『岬の兄弟』(2019)『さがす』(22)などの作品で注目を集めた片山晋三監督が、興味深い証言をしている。片山は『TOKYO!/シェイキング東京』(08)『母なる証明』(09)という2作で、日本人ながら、ポン・ジュノ監督作品の助監督を務めている。「…ジャンルを意識しないで一カット、一カットごとに映画の見え方がホラーだったりコメディだったりサスペンスだったりに変わっても成立すること、むしろその方が面白いと気づいたのが僕にとっての収穫です」 この言から、片山の『さがす』も、確かに「ジャンルの解体」を目指した作風になっていることに思い当たる。 さてここで、ポン・ジュノの期待に応えた、本作の出演者についても、触れねばなるまい。本作に続いて、『グエムル‐漢江の怪物‐』(06)『スノーピアサー』(13)そして『パラサイト 半地下の家族』(19)といったポン・ジュノ作品に主演。「最も偉大な俳優であり、同伴者」と、ポン・ジュノが称賛を惜しまない存在となっている、ソン・ガンホも、本作のトゥマン刑事役が、初顔合わせ。『反則王』(00)『JSA』(00)といった主演作で大ヒットを飛ばし、すでにスター俳優だった彼が、駆け出しの監督の作品に主演したのは、『ほえる犬は噛まない』を観て、笑い転げたことに始まる。「ポン監督に自分から電話をかけて関心を示した情熱が買われ、キャスティングされた」のだという。いち早く監督の才能を、見抜いていたわけだ。またガンホが無名時代にオーディションに落ちた際、その作品の助監督だった、ポン・ジュノに励まされたというエピソードもある。 いざクランクインし、序盤の数シーンを撮ってみると、アドリブも多いガンホに対して監督は、「野生の馬」という印象を抱く。そして彼をコントロールする方法としては、「ただ垣根を広く張り巡らしておいて、思いっきり駆け回れるようにしたうえで、放しておこう」という考えに至った。「…優れた感性と創造力、作品に対する理解力を持ち合わせている」芸術家と、認めてのことだった。 キム・サンギョンを起用したのは、ホン・サンス監督の『気まぐれな唇』(02)を観てのこと。サンギョンは本作の脚本を読んで、テユン刑事に感情移入。「同じ気持ちになって猛烈に腹が立った」という。 有力な容疑者として追及されるヒョンギュ役は、パク・ヘイル。ポン・ジュノは脚本の段階から、彼の特徴的な顔を、思い浮かべていた。 ラスト、未解決に終わった事件から歳月が経ち、今や刑事を辞めて営業マンになったトゥマンが、殺人のあった現場を訪れ、自分の少し前に犯人らしき男が、同じ場所を訪れていたことを、その場に居た女の子から聞いて愕然とする。そして観客を睨みつけるような彼の顔のアップとなって、終幕となる。 これは「俺は人を見る目がある」「目を見れば、わかる」などと、本作の中で容疑者の肩を摑んでは、その顔を見つめる行為を続けてきた、トゥマンの最後の睨みである。ポン・ジュノの、「観客として映画を見るかもしれない真犯人の顔を俳優の目でにらみつけたかった」という想いから、こうしたラストになった。 実はこのシーンは、クランクインから間もなく撮られたもので、監督はガンホに、「射精の直前で我慢しているような表情でやってほしい」と演出を行った。監督曰く、ガンホは本当にあきれた顔を向けたというが、実際は何度も耳打ちで注文してはリテイクする監督を見て、「この人はこのシーンに勝負をかけているんだな」と理解。渾身の力を、注ぎ込んだという。 さて本作は公開されると、韓国内で560万人を動員。2003年の№1ヒット作となり、数多の賞も受賞した。紛れもなくポン・ジュノの出世作であり、国際的な評価も高い。20年近く経った今でも、彼の「最高傑作」であると、主張する向きが少なくない。 ここで“華城事件”の終幕についても、触れたい。2019年になって、真犯人が浮上した。その時56歳になっていた、イ・チュンジェという男。 94年に、妻の妹を強姦殺害した罪で、無期懲役が確定し、24年もの間服役中だった。改めてのDNA鑑定の結果、彼が真犯人であることが確定したが、一連の事件はすべて「時効」が成立していた。 ここで改めて注目されたのが、警察の杜撰な捜査。容疑者の中には自殺者が居たことも記したが、特に酷かったのは、10件の殺人の内、1件の犯人として逮捕され、20年もの間収監されていた男性が居たことである。 本作『殺人の追憶』が、事件の解決には役立ったのかどうかは、明言できない。しかし、あの時代の“闇”を、紛れもなく斬り裂いていたのだ。■ 『殺人の追憶』© 2003 CJ E&M CORPORATION, ALL 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