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PROGRAM/放送作品
スミス夫妻
結婚が無効だと知った夫婦のドタバタ劇。サスペンス要素のないヒッチコック異色映画
結婚が法的に成立していないことを知った夫婦に巻き起こる騒動を描くドタバタ劇。珍しくサスペンスの要素が全くないヒッチコック映画ということで、彼の作品群の中では特異な位置を占めている。
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COLUMN/コラム2022.11.09
ジョン・マルコヴィッチしか考えられなかった…。“カルト映画”の傑作『マルコヴィッチの穴』
本作『マルコヴィッチの穴』(1999)の原題は、“Being John Malkovich”。当代の名優とも怪優とも評される、ジョン・マルコヴィッチがタイトルロールを…というか、マルコヴィッチ自身を演じる。 日本ではアメリカから遅れること、ちょうど1年。2000年9月の公開となった。私はその頃、TBSラジオで「伊集院光/日曜日の秘密基地」という番組の構成を担当していたが、パーソナリティの伊集院氏がこの作品のことを、生放送前後の打合せや雑談などで、よく話題にしていたことを思い出す。かなりのお気に入りで、翌10月から始まった新コーナーに、「ヒミツキッチの穴」というタイトルを付けたほどだった。「ジョン・マルコヴィッチってのが、良いんだよな~」と、伊集院氏は言っていた。そして、「日本の俳優でやるとしたら、誰なんだろう?“大地康雄の穴”とかになるのかな」とも。 この例え、当時個人的には「絶妙」だと思った。今となっては、まあわかりにくいかも知れないが…。 私的にはそんな思い出がある『マルコヴィッチの穴』とは、どんな作品か?まずはストーリーを紹介しよう。 ***** 才能がありながらも認められない、人形使いのグレイグ(演:ジョン・キューザック)は、妻のロッテ(演:キャメロン・ディアス)から言われ、やむなく定職を求める。 新聞の求人欄から彼が見付けたのは、小さな会社の文書整理係。そのオフィスは、ビルのエレベーターの緊急停止ボタンを押してから、ドアをバールでこじ開けないと降りられない、7と1/2階に在った。そしてそこは、かがまないと歩けないほど天井が低い、奇妙なフロアーだった。 書類の整理に勤しむグレイグは、ある日書類棚の裏側に、小さなドアがあるのを見付ける。興味本位でドアを開け、その中の穴に潜り込むと、突然奥へと吸い込まれる。 気付くとグレイグは、著名な俳優ジョン・マルコヴィッチの脳内へと入り、彼になっていった。しかし15分経つとグレッグに戻って、近くの高速道路の脇の草っ原へと放り出される。 興奮した彼は、同じフロアーの別の会社のOLで、一目惚れしながらも相手にされなかったマキシン(演:キャスリーン・キーナー)に、この秘密を話す。マルコヴィッチ自体を知らなかった彼女だが、この体験=穴に入ってマルコヴィッチに15分間なる=を、1回200㌦でセールスすることを提案。グレイグと共にビジネスを始めると、深夜の7と1/2階には、行列が出来るようになる。 しかしこれはまだ、グレイグ&ロッテ夫妻とマキシーン、そして俳優ジョン・マルコヴィッチを巡る、不可思議な物語の入口に過ぎなかった…。 ****** ジョン・マルコヴィッチ。1953年12月、アメリカ・イリノイ州生まれで、間もなく69歳になる。『マルコヴィッチの穴』の頃は、40代半ばといったところ。 若き日に、仲間のゲイリー・シニーズらと立ち上げた劇団で評判を取り、やがてブロードウェイに進出。『True West』や『セールスマンの死』などに出演し、オビー賞など数々の賞を手にした。 映画初出演は、ロバート・ベントン監督の『プレイス・イン・ザ・ハート』(84)。主演のサリー・フィールドに2度目のオスカーをもたらしたこの作品で、盲目の下宿人を演じたマルコヴィッチは、いきなりアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。 以降は、主役から脇役まで幅広い役柄で、数多くの作品に出演。悪役やサイコパス役に定評があり、またヨーロッパのアート作品にも、度々出演している。 演技も風貌も、いわゆる「クセの強い」俳優であるが、プライベートでの言動や行動も、そのイメージを裏付ける。今ではその発言自体を否定しているが、「一般大衆に認識されているものはクソだ。彼らの考えにも吐き気がする。映画は金のためだけにやっている」などと、言い放ったことがある。 また、ニューヨークの街角で絡んできたホームレスに激怒し、大型のボウイナイフで脅したり、オーダーメードのシャツの出来上がりが遅れたテーラーに怒鳴り込んだり、バスが停車しなかったことに腹を立て、窓を叩き割る等々の、暴力的な振舞いが度々伝えられた。 その一方で、映画デビュー作の共演者サリー・フィールドが、「ただただ彼を敬愛している」と言うのをはじめ、共演者たちの多くからは称賛されている。初めてブロードウェイの舞台に立った『セールスマンの死』の共演者である名優ダスティン・ホフマンは、「彼との仕事は、私のキャリアの中でも貴重な経験だった」としている。 そんなマルコヴィッチをネタにした、摩訶不思議な本作のストーリーを書いたのは、チャーリー・カウフマンという男。それまでTVのシットコムの脚本を生業としていた彼にとっては、映画化に至った、初の長編脚本である。 本作の脚本は、「特に戦略を持たずに書き始めた」ということで、最初は「既婚者の男が恋をする」というアイディアだけだった。そこに後から、「穴を通って別人の脳内に入る」という発想が加わって、他者になりすまして名声を得たり、生き長らえようとする者たちや、逆にそうした者たちに自由を奪われて、己を失っていく者が登場する物語になったのである。『マルコヴィッチの穴』は、誰が観ても、「アイデンティティがテーマ」の作品だと、理解される。しかしカウフマンが書き始めた当初は、そんなことは考えてもいなかったわけである。 脳内に入られる人物に関しては、「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」という。マルコヴィッチがブロードウェイの舞台に立った時のビデオを観て衝撃を受けたというカウフマン。曰く、「彼がステージに立つと目が離せない」ようになった。そして本作の物語を編んでいくに際して、「彼は不可知な存在で、作品にフィットすると思った」と語っている。「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」のは、その「微妙な知名度」も、ポイントだったように思われる。映画・演劇業界の周辺では、誰も知る実力の持ち主であるが、万人にとってのスーパースターというわけではない。本作の中でマキシンが、マルコヴィッチと聞いても、誰かわからなかったり、タクシーの運転手が、マルコヴィッチ本人がやってもいない役柄で「見た」と話しかけてきたりするシーンがわざわざ設けられていることからも、作り手のそうした意図が、読み取れる。 因みにマルコヴィッチ自身は8歳の頃、“トニー”という名のもうひとりの自分を作り出していたという。その“トニー”とは、クロアチア系の父親とスコットランド及びドイツ系の母親から生まれたマルコヴィッチとは違って、スリムなイタリア人。至極人当たりがよく、首にスカーフを巻くなど、おしゃれで粋なキャラだった。 マルコヴィッチが“トニー”になっている時は、大抵ひとりぼっちだった。しかしある時はなりきったまま、野球の試合でピッチャーマウンドに上がったこともあったという。 そのことに関してマルコヴィッチは、「…たぶん多くの人が今とは別の人生を送りたいと願っているだろう…」と語っている。カウフマンが執筆当時、そんなことまで知っていたとは思えないが、そうした意味でも、本作の題材にマルコヴィッチをフィーチャーしたのは、正解だったかも知れない。役柄的には、逆の立場であるが…。 しかし、カウフマンの書いた『マルコヴィッチの穴』の脚本は、業界内で非常に評判になりながらも、なかなか映画化には至らなかった。内容が特殊且つ、エッジが立ち過ぎていたからだろう。 ジョン・マルコヴィッチ本人も、その脚本の完成度には唸ったものの、こんな形で俎上に載せられるのには臆したか、「自分を題材にしないことを条件に監督やプロデューサーを引き受ける」とカウフマンに提案。話がまとまらなかった。 もはや映画化は、不可能か?カウフマンも諦めかかった頃に、本作の監督に名乗りを上げる者が現れる。それが他ならぬ、スパイク・ジョーンズだった。 当時ジョーンズは、ビースティ・ボーイズやビョーク、ダフト・パンクなど数多の人気ミュージシャンのMVを演出した他、CMでも国際的な賞を受賞。写真家としても成功を収め、まさに時代の寵児だった。映画監督としては、短編を何本か手掛けて、やはり好評を博しており、長編デビューの機会を窺っていた。 そんな彼が「…とにかく、脚本が本当に良かった」という理由で、『マルコヴィッチの穴』に挑むことになったのである。当時の彼の妻ソフィア・コッポラの父、『ゴッドファーザー』シリーズなどのフランシス・フォード・コッポラ監督の後押しもあったと言われる。 その後ジョーンズとカウフマンで、映画化に向けての作業が進められる中で、件の経緯もあったせいか、ホントに“ジョン・マルコヴィッチ”が適切であるかどうか、2人の間で迷いが生じることもあった。このタイミングだったかどうか定かではないが、トム・クルーズの名が挙がったりもしたという。 しかし結局は、他の人物では満足できず、マルコヴィッチで行きたいということになった。マルコヴィッチの方も、スパイク・ジョーンズという希有な才能に惹かれたということか、「…あまりに途方もなくとんでもないストーリーだから、自分の目で見届けたくなった…」と、出演がOKになったのである。 完成した『マルコヴィッチの穴』は、「ヴェネツィア国際映画祭」で国際批評家連盟賞を受賞したのをはじめ、内外の映画祭や映画賞を席捲。一般公開と共に“カルトムービー”として人気を博し、アカデミー賞でも、監督賞、脚本賞、助演女優賞の3部門でノミネートされた。 この時はオスカーを逃したカウフマンとジョーンズだったが、2人とも本作が高く評価されたことから、監督、脚本家、プロデューサーとして地位を築いていくことになる。後にカウフマンは『エターナル・サンシャイン』(04)で、ジョーンズは『her/世界でひとつの彼女』(13)で、それぞれアカデミー賞脚本賞を受賞している。 因みにジョン・マルコヴィッチに関しては2010年、その軌跡を振り返る試みを、映画批評サイトの「Rotten Tomatoes」が実施。「ジョン・マルコヴィッチの傑作映画」という、ベスト10を発表した。 その際、第1位に輝いたのは、デビュー作の『プレイス・イン・ザ・ハート』。そこに、ポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ監督の『家路』(01)、盟友ゲイニー・シニーズの監督・主演作『二十日鼠と人間』(92)等々が続く。そんな中で本作『マルコヴィッチの穴』(99)は、堂々(!?)第6位にランクインしている。 しかしこのベスト10以上に、本作のインパクトが、大きく残っていることを感じさせる出来事が、2012年にあった。それはマルコヴィッチが出演した、iPhone 4SのCM。この中で「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」というセリフが繰り返されるのだが、これは『マルコヴィッチの穴』に登場する、最もヴィジュアルイメージが強烈なシーンを、明らかに模したもの。 ではその元ネタとなったのは、果してどんな場面なのか?それはこれから観る方のために、この稿では伏せておこう。 「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」■ 『マルコヴィッチの穴』© 1999 Universal City Studios Productions LLLP. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
奥様は魔女
フランスの名匠クレールがハリウッドで残した、スマートでとぼけたロマンティック・コメディ
第二次世界大戦中ハリウッドに滞在したR・クレール監督が、ユーモア作家ソーン・スミスの恋愛喜劇を映画化。魔女役V・レイクのクールな美貌と相まって、クレールらしいスマートな演出がハリウッド映画でも冴え渡る。
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COLUMN/コラム2022.11.04
華やかなスウィンギン・ロンドンの光と影を映し出すフリー・シネマの名作『ダーリング』
刹那的な時代の世相を切り取った名匠ジョン・シュレシンジャー 当サイトで以前にご紹介したイギリス映画『ナック』(’65)が、スウィンギン・ロンドン時代の自由な空気を明るくポジティブに活写していたのに対し、こちらはその光と影をシニカルなタッチで見つめた作品である。第二次世界大戦後の荒廃と再建を経て、高度経済成長期に突入した’60年代半ばのイギリス。その中心地であるロンドンではベビーブーマー世代の若者文化が花開き、長らくイギリスを支配した保守的な風土へ反発するようにリベラルな価値観が広まり、経済の活性化によって本格的な消費社会が到来する。いわゆるスウィンギン(イケている)・ロンドン時代の幕開けだ。 そんな世相の申し子的な若くて美しい自由奔放な女性が、好奇心と欲望の赴くままにリッチな男性たちを渡り歩き、華やかな上流階級の世界で刹那的な快楽に身を委ねるも、その刺激的で享楽的な日々の中で虚無感と孤独に苛まれていく。さながらイギリス版『甘い生活』(’60)。それがアカデミー作品賞を含む5部門にノミネートされ、主演女優賞など3部門に輝いた名作『ダーリング』(’65)である。 監督はトニー・リチャードソンやリンゼイ・アンダーソンと並ぶ英国フリー・シネマの旗手ジョン・シュレシンジャー。BBCテレビのドキュメンタリーで頭角を現したシュレシンジャーは、劇映画処女作『ある種の愛情』(’62)でベルリン国際映画祭グランプリ(金熊賞)に輝いて注目されたばかりだった。2作目『Billy Liar』(’63)を撮り終えた彼は、同作にカメオ出演した人気ラジオDJ、ゴッドフリー・ウィンから興味深い話を聞く。それはウィンの知人だった若い女性モデルのこと。社交界の名士たちと浮名を流していた彼女は、複数の愛人男性から籠の中の鳥のように扱われ、与えられた高級アパートのバルコニーから投身自殺してしまったというのだ。 これは映画の題材に適していると考えたシュレシンジャーと同席した製作者ジョセフ・ジャンニは、新進気鋭の脚本家フレデリク・ラファエルに脚色を依頼するものの、出来上がった脚本は全くリアリティのない代物だったという。そこで製作者のジャンニが提案をする。最後に自殺を選んでしまう女性の話ではなく、なんの決断をすることも出来ない優柔不断な女性、もっといいことがあるんじゃないかと期待して男から男へ渡り歩いてしまう女性の話にすべきだと。劇中でも「最近は楽をして何かを得ようとする人間ばかりだ」というセリフが出てくるが、そのような浮ついた時代の空気を象徴するようなヒロイン像を描こうというのだ。 ジャンニには心当たりがあった。それが、贅沢な暮らしを求めて裕福な銀行家と結婚した知人女性。その女性を紹介してもらったシュレシンジャーとラファエルは、彼女の案内で上流階級御用達の高級レストランやパーティなどを訪れ、ジェットセッターたちの豪奢なライフスタイルの赤裸々な裏側を垣間見ていく。それが最終的に映画『ダーリング』のベースとなったわけだ。ただし、脚本の執筆途中でその女性が旦那から離縁を突きつけられ、協議で不利になる恐れがあるという理由から、彼女の私生活をモデルにした部分の書き直しを迫られたという。とはいえ、本作がスウィンギン・ロンドン時代のリアルな舞台裏を切り取った映画であることに間違いはないだろう。 刺激を求めて快楽に溺れ、孤独を深めていくヒロイン 舞台は現代の大都会ロンドン。アフリカの飢餓問題を訴える意見広告が、美しい女性モデルの微笑むラジオ番組「Ideal Woman(理想の女性)」のポスターに貼り変えられる。その女性モデルの名前はダイアナ・スコット(ジュリー・クリスティ)。物語はラジオのインタビューに答える彼女のフラッシュバックとして描かれていく。幼い頃から愛くるしい容姿と社交的な性格で周囲に「Darling(かわいい子)」と呼ばれて愛され、どこにいても目立つ美しい女性へと成長したダイアナ。保守的なアッパーミドル・クラス出身の彼女は、年の離れた姉と同じように若くして結婚したものの、しかし子供じみた旦那との生活は退屈そのものだった。 そんなある日、テレビの街頭インタビューを受けた彼女は、番組の司会を務める有名ジャーナリスト、ロバート(ダーク・ボガード)と親しくなり、彼の取材先へ同行するようになる。教養があって落ち着いた大人の男性ロバートに惹かれ、彼の友人であるマスコミ関係者や芸術家などのインテリ・コミュニティに刺激を受けるダイアナ。やがてお互いに愛し合うようになった既婚者の2人は、ロンドンの高級住宅街のアパートで同居するようになった。自身もモデルとして活動を始めたダイアナは、大手化粧品会社のキャンペーンガールに起用され、同社宣伝部の責任者マイルズ(ローレンス・ハーヴェイ)の紹介で映画デビューまで果たす。 こうして華やかな社交界に足を踏み入れたわけだが、しかしそれゆえ真面目なロバートとの安定した生活に飽きてしまったダイアナは、彼に隠れてプレイボーイのマイルズと浮気をするように。さらに、映画のオーディションを偽ってマイルズとパリへ出かけ、パーティ三昧の享楽的な生活にうつつを抜かす。だが、この浮気旅行はすぐにバレてしまい、憤慨したロバートはアパートを出て行ってしまった。すっかり気落ちしたダイアナは親友となったゲイの写真家マルコム(ローランド・カラム)に慰められ、テレビCM撮影のついでにイタリアでバカンスを過ごすことに。そこで彼女は、中世の時代にローマ法王を輩出したこともある名門貴族のプリンス、チェザーレ(ホセ・ルイス・デ・ヴィラロンガ)に見初められる。 妻に先立たれた男やもめのチェザーレは7人の子持ち。まだ結婚して家庭に入るつもりなどなかったダイアナは、彼からのプロポーズを断ってロンドンへ戻るものの、パーティとセックスに明け暮れるだけの生活に嫌気がさしてしまう。今さえ楽しければそれでいいと考えていた彼女だが、しかしそれだけでは心が満たされなかったのだ。結局、チェザーレのプロポーズを受け入れ、めでたく結婚することとなったダイアナ。「イギリス出身のイタリアン・プリンセス」としてマスコミに騒がれ、現地でも大歓迎された彼女だったが、しかし外からは華やかに見えるイタリア貴族の生活も、実際は伝統としきたりに縛られて非常に窮屈なものだった。夫のチェザーレは仕事で出張することが多く、広い大豪邸の中で孤独を深めていくダイアナ。やはり私のことを本当に愛してくれるのはロバートだけ。ようやく気付いた彼女は、ロバートと会うため着の身着のままでロンドンへ向かうのだが…。 アメリカでは大好評、モスクワでは大ブーイング? 恵まれない人々のための慈善活動をお題目に掲げながら、宮廷召使いの格好をした黒人の子供たちに給仕をさせ、豪華に着飾った金持ちの紳士淑女が贅沢なグルメや下世話なゴシップを楽しむチャリティー・イベント。絵画の芸術的な価値など分からない富裕層が、有り余る金にものを言わせて愛好家を気取るアート・ギャラリー。パリの怪しげな娼館でセックスを実演する生板ショーを鑑賞し、ジャズのビートに乗せて半裸の男女が踊り狂うジェットセッターたちの乱痴気パーティ。そんな虚飾と虚栄と偽善に満ちた狂乱の上流社会を、快楽と刺激と贅沢を求める自由気ままな現代娘ダイアナが、若さと美貌だけを武器に男たちを利用して闊歩する。 といっても、恵まれた中産階級の家庭に育った彼女には、男を踏み台にしてのし上がろうなどという野心は微塵もない。気の向くまま足の向くまま、もっと面白いことがないかとフラフラしているだけ。飽きっぽくて移り気な彼女は、人生の目的など何もない空っぽな根無し草だ。まさに、華やかで享楽的なスウィンギン・ロンドンが生み出した新人類と言えるだろう。ただただ楽しい時間を過ごしたいがため、男から男へ、パーティからパーティへ渡り歩いていくわけだが、しかし刹那的な快楽に溺れれば溺れるほど、虚しさと孤独が募っていく。周囲の人々が彼女に求めるのは若さと美貌とセックスだけ。綺麗なお人形さんの中身など誰も気にかけない。恐らくシュレシンジャーとラファエルは、その混沌と狂騒と軽薄の中に時代の実相を見出そうとしたのだろう。 そんなスウィンギン・ロンドン時代のミューズ、ダイアナを演じるジュリー・クリスティが素晴らしい。本作が映画初主演だった彼女は、このダイアナ役で見事にアカデミー主演女優賞を獲得し、たちまち世界的なトップスターへと躍り出る。シュレシンジャーの前作『Billy Liar』にも小さな役で出ていたクリスティ。製作会社はこのダイアナ役にシャーリー・マクレーンを推したそうだが、しかしシュレシンジャーは最初からクリスティを念頭に置いていた。当時の彼女はシェイクスピア劇の公演ツアーで渡米しており、シュレシンジャーはフィラデルフィアまで行って出演を交渉したという。その際に彼はニューヨークまで足を延ばし、モンゴメリー・クリフトやポール・ニューマン、クリフ・ロバートソンにロバート役をオファーしたが、いずれも断られてしまったらしい。また、アメリカの映画会社に出資を相談したものの、脚本の内容が不道徳だとして一蹴されたそうだ。 結局、ロバート役に起用されたのは、二枚目のマチネー・アイドルからジョセフ・ロージー監督の『召使』(’63)で性格俳優として開花したイギリスのトップスター、ダーク・ボガード。ハンサムでナルシストなプレイボーイのマイルズには、『年上の女』(’58)でアカデミー主演男優賞候補となったローレンス・ハーヴェイが決まり、英国人キャストばかりの本作にとってアメリカ市場でのセールス・ポイントとなった。 また、ストーリー後半のイタリア・ロケでは、『ティファニーで朝食を』(’61)の南米大富豪役や『魂のジュリエッタ』(’65)のハンサムな友人役で知られるスペイン俳優ホセ・ルイス・デ・ヴィラロンガがイタリア貴族チェザーレ役で登場。実は彼自身もスペインの由緒正しい貴族の御曹司だった。その長男役には『ガラスの部屋』(’69)で日本でもブレイクするレイモンド・ラヴロック、長女役には後にラヴロックと『バニシング』(’76)で共演するイタリアのセックス・シンボル、シルヴィア・ディオニジオ、秘書役には『歓びの毒牙』(’69)などのイタリアン・ホラーで知られるウンベルト・ラホーも顔を出している。そういえば、パリでの乱痴気パーティ・シーンには『遠い夜明け』(’87)の黒人俳優ゼイクス・モカエ、アート・ギャラリー・シーンには『007/私を愛したスパイ』(’77)のヴァーノン・ドブチェフと、無名時代の名脇役俳優たちの姿を確認することもできる。 先述したように、ハリウッドの映画会社からは「不道徳だ」として出資を断られた本作だが、蓋を開けてみればイギリスよりもアメリカで大ヒットを記録。モスクワ国際映画祭にも出品されたが、ソヴィエトのマスコミや批評家からは大不評だったそうだ。ただし、アメリカでもロシアでも本編の同じ個所が不適切だとしてカットされたらしく、シュレシンジャー本人は潔癖な点において両国は似ているとも話している。ダイアナ役でオスカーに輝いたジュリー・クリスティは、本作を見たデヴィッド・リーン監督から『ドクトル・ジバゴ』(’65)のララ役に起用され、押しも押されもせぬ大女優へと成長。惜しくも監督賞の受賞を逃したシュレシンジャーも、本作および再度クリスティと組んだ『遥か群衆を離れて』(’67)で名匠の地位を確立し、アメリカで撮った『真夜中のカーボーイ』(’69)で念願のオスカーを手にする。■ 『ダーリング』© 1965 STUDIOCANAL
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PROGRAM/放送作品
ハムレット(48年)
シェイクスピア文学の映画化作品の中でも傑作と評されるオリヴィエのシェイクスピア文芸映画2作目
ローレンス・オリヴィエ監督・主演のシェイクスピア文芸映画。深みのあるモノクロ映像で、シェイクスピア四大悲劇の一本を完璧に映像化。様々なシェイクスピア映画の中でも最高傑作と評される。
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COLUMN/コラム2022.11.04
スピルバーグ、最初にして最後の“ディレクターズ・カット”―『未知との遭遇【ファイナル・カット版】』―
「この映画には多くの美徳がある。ほとんどのハリウッド作品やパルプSFとは異なり、人間と地球外生命体との接触は、主に平和的であると考えられていることだ」カール・セーガン(天文学者・作家) 「スピルバーグが描く異星人には自然の善良さが表れており、生や死を超えた善なるものが感じられる」ドゥニ・ヴィルヌーヴ(『メッセージ』(16)『DUNE/デューン 砂の惑星』(21)監督) スティーヴン・スピルバーグの壮大なSF叙事詩『未知との遭遇』は、人類と地球外知的生命体とのコンタクトを真摯に、そして迫真的に描いた嚆矢の商業長編映画で、一般市民や科学者、軍などそれぞれの視点から捉えたサスペンスフルな異常事態が、やがて友好的なエイリアン・コンタクトの輪郭をあらわにしていく実録調の構成をとり、この種のジャンルの語り口や目的を一新させた。なによりスピルバーグ自身、フィルモグラフィで単独脚本を兼ねた唯一の監督作として特別な思いを抱いており、そのため過去に二度も手を加え、完成度を極限にまで高めている。 ◆悔いを残した「オリジナル劇場版」 1977年11月16日、『未知との遭遇』はニューヨークのジーグフェルド・シアターとハリウッドのシネラマドームで限定公開され、連日ヒットを記録。そして1か月後には全米272館の劇場で拡大公開され、翌年の夏に上映が終了するまで全米総収入1億1639万5460ドルを稼ぎ出し、配給元であるコロンビア・ピクチャーズの過去最高となる売上を叩き出した。さらには海外における公開によって、1億7100万ドルが追加計上された。当時コロンビアは株価が下落して経営難の状態にあり、スピルバーグはメジャースタジオを倒産の危機から救い出したのた。 だが、こうした好転を得るために、コロンビアはクリスマス興行を必要とし、本来の予定よりも7週間も早い公開をスピルバーグに要求。ひとまずの完成を急務としたため、彼は自身が望んでいたように作品に仕上げることができなかったのである(以下、当バージョンを「オリジナル劇場版」と呼称)。 スピルバーグの不満は、主人公であるロイ・ニアリー(リチャード・ドレイファス)のエピソードと、第三種接近遭遇を調査するラコーム博士(フランソワ・トリュフォー)とメイフラワー・プロジェクトのエピソードとの並置にあり、さらにはいくつかのシーンの削除と、省略したシーンの追加を望んでいた。加えてバミューダ三角海域にて消息を絶った輸送船コトパクシ号が、海岸から500kmも離れたゴビ砂漠で発見されるシーンを撮影できなかったことにも不満を抱いていた。 そこで1978年の夏、本作が劇場公開を終えたタイミングで、スピルバーグはコロンビアに「自分が望む形で映画を完成させるため、予算を与えることは可能か?」と訊ねた。そこでコロンビアは、暫定的に計画を立てていた同作のリバイバル公開を条件に、追加撮影をほどこした更新バージョンをリリースする機会をスピルバーグに持ちかけたのだ。 ただし映画への再アクセスにはマーケティング戦略上、マザーシップ内部を見せる撮影が必要だとコロンビアは提示してきたのだ。多くの批評家や観客が、ロイが巨大な宇宙船に乗った後に起こったことを見たいという願望を表明していたからだ。 スピルバーグは「オリジナル劇場版」に調整を加え、作品に統一感を持たせたいと感じており、最終的には自身の作品をアップデートさせるという希求にあらがえず、提示された条件を承諾したのである。 コロンビアはスピルバーグに再撮影の製作費200万ドル(150万ドルという説あり)と7週間の期間を与え(撮影は結果的に16〜19週間を要した)、『未知との遭遇/特別編』(以下「特別編」)の製作へと至ったのである。ただこの時期、すでに監督は次回作となる戦争スペクタクルコメディ『1941』(79)の撮影に入っており、その間に「特別編」の制作チームの再編成を着々と進めた。 ◆理想に近づいた「特別編」 多くのスタッフ、ならびにキャストはこの意欲的なプロジェクトへの再登板を表明したが、ラコーム博士を演じたフランソワ・トリュフォーは監督作『終電車』(80)の撮影に入っており、また撮影監督のビルモス・ジグモンドはライティングに対するコロンビアの無理解が溝となって身を引き、デイブ・スチュワートが代わりを担当することになった。視覚効果スーパーバイザーのダグラス・トランブルと視覚効果撮影監督のリチャード・ユリシッチは、パラマウントで『スター・トレック』(79)に取り組んでいたことと、トランブルは契約上の解釈から無報酬が懸念されたことで参入を見送り、代わりにアニメーション監督のロバート・スウォースが、前者の薦めにより視覚効果の指揮をとることになった。そして命題ともいえるマザーシップ内部は『スター・ウォーズ』(77)『エイリアン』(79)などでコンセプト・アーティストを務めたロン・コッブがデザインし、モデル作成はちょうど『1941』のミニチュア制作に参加していたグレッグ ジーンが続投した。 ミニチュア制作の作業は1979年の夏に始まったが、スピルバーグは『1941』の撮影が終わるまで同作に集中するつもりでいた。しかしロイ役のリチャード・ドレイファスが多忙だったため、1979年2月に1日だけ空いた彼のスケジュールを利用し、先行して一部撮影に踏み切った。そしてドレイファスが新たに建設された、マザーシップへのランプを上っていく様子が撮影された。ハッチ内部の両方の壁に並び、ロイを船内に迎え入れる小さなエイリアンたちは、多くの女の子をエキストラで配役している。「特別編」ではロイがランプをのぼり、密閉されたボールルームに入ると、天井が突然上向きに浮揚し始め、コッブの設計した小型のUFOが飛行して脱着する壮大なドッキングエリアへと移動するが、ドッキングエリアの一部がランプとハッチの内部としてセットで建造され、残りはミニチュアと視覚効果を駆使して表現された。 スピルバーグは『1941』の劇場公開から数週間後の1980年1月より本格的な作業を開始し、手始めにゴビ砂漠のシーンに着手。20世紀フォックスの裏庭に置かれていた古い船の模型をジーンが改造し、カリフォルニア州デスバレーの近くで撮影した。特別な撮影機材やポストプロダクションでのエフェクト効果に頼らず、強制遠近法を用いて同シーンに挑んでいる。コトパクシ号の模型を前景に置き、俳優や車両を含むすべての要素を約200ヤード離れたバックグラウンドに配置して、あたかも実物大のコトパクシ号が目の前にあるかのように演出したのである(一説によれば、同シーンの撮影は後に『E.T.』(82)『太陽の帝国』(87)でスピルバーグと組む、シネマトグラファーのアレン・ダヴィオーが手がけたという)。 これらの撮り下ろし映像が揃うと、スピルバーグとエディターのマイケル・カーンは「特別編」の編集を開始。まずは不必要だと判断した多くのシーンを削除することから始めた。もっとも顕著なのは、ロイがデビルズタワーの模型を作るために、近所から破壊したものを家に持ち込むシーケンスだ。空軍の記者会見シーンも削除され、ロイが電力会社で原因不明の停電について話し合う冒頭のシーンなどもオミットされた。逆に「オリジナル劇場版」制作時に撮影したが使わなかった、ロイがシャワーで感情を崩壊させるシーンが差し戻され、妻ロニー(テリー・ガー)が彼のもとを離れる動機を明確にしている。加えて会話の小さな断片が各所で削除され、結果としてオリジナル劇場版から16分を削除し、以前にカットした7分を復元。さらに新たに撮影した6分のフッテージを追加し、「特別編」は「オリジナル劇場版」より3分短かくなった。 また音楽面でも改変をおこなった。それは最後のクレジットで、ジョン・ウィリアムズ作曲によるエンドタイトルを流していたものを、「特別編」ではディズニーの長編アニメーション『ピノキオ』(40)の歌曲「星に願いを」のメロディを挿入したインストゥルメンタルに変更した。これは劇中、ロイの家で鉄道模型の卓上に置かれていた、ピノキオのオルゴールを受けての伏線回収でもあり、映画のテーマに同期する曲としてスピルバーグは使用を熱望したのだ。もともとはクリフ・エドワーズが歌うオリジナル曲を引用していたのだが、1977年10月19日におこなわれたダラスの試写では観客の反応が悪かったために代えた経緯があり、インスト版を用いることにした。 この「特別編」は1980年7月31日にビバリーヒルズの映画芸術科学アカデミー本部のサミュエル・ゴールドウィン・シアターでマスコミ向けに上映され、同年8月1日に北米750館の劇場で一般公開。その後すぐに海外での公開がおこなわれた。そして1600万ドルの収益を上げ、コロンビアは再びその投資から、リバイバルとしては悪くない利益を得た。 批評家と観客の反応はまちまちで、変更がより焦点を絞り、まとまりをもたらしたと称賛する者もいれば、改ざんの必要性を問い批判する者もいた。なによりも誤算だったのは、あれだけこだわったマザーシップ内部の描写に、あまり賞賛を得られなかったことだろう。 スピルバーグ自身も、この件に関しては後悔の念を強く抱き、後年「オリジナル劇場版」と「特別編」の両方が観られる初のレーザーディスクを米クライテリオン・コレクションでリリースするにあたり、VFX専門誌「シネフェックス」当時の編集長ドン・シェイのおこなったインタビューで心情を吐露している。 「理想的な『未知との遭遇/特別編』は「オリジナル劇場版」のエンディングで終わることだったね。リチャード(・ドレイファス)がマザーシップの内部に入って、あたりを見回し、 ハイテク器機や蜂の巣のようなスペースシップを眺めることはなかったんだ。映像はきれいだったし、想像力に溢れていてよくできていると思う。でもオリジナルのエンディングのほうがずっと好きだ」 ◆究極の『未知との遭遇』〜「ファイナル・カット版」 『未知との遭遇/ファイナル・カット版』(以下「ファイナル・カット版)は、こうした経緯を経て2種類となった『未知との遭遇』の決定版とするべく、スピルバーグが承認した最終バージョンである。叩き台になったのは1981年1月15日にABCテレビネットワークで放送された143分のもので、これは「劇場オリジナル版」と「特別編」がひとつに統合され、多くのカットシーンが残されていた(スピルバーグは後に脚本に協力したハル・バーウッドに「すべての要素を含んだお気に入りのバージョンだ」と語っている)。このABCテレビ放送版に沿う形で、両バージョンの要素を組み合わせながら、いくつかのシーンを短くし、あるいは長くするなどの調整をしたものである。 「ファイナル・カット版」における最大の特徴は、ロイがマザーシップ内部に入り込むクライマックスが完全にオミットされている。そして「星に願いを」のインスト版が「オリジナル劇場版」のエンドタイトルに戻された。前者に関しては、『未知との遭遇』4K UHD Blu-rayソフトに収録された特典インタビュー“Steven Spielberg 30 Years of CLOSE ENCOUNTERS“(『スティーヴン・スピルバーグ 30年前を振り返って』)の中で、スピルバーグは以下のように語っている。 「船内の様子は、観客の想像の中だけに存在するべきと考えたんだ」 同バージョンで初めて『未知との遭遇』に接する若い世代は、はたしてマザーシップの向こう側に、どのような光景を想像するのだろうか? ちなみにこの「ファイナル・カット版』、正式な呼称は”The Definitive Director's Version“で、スピルバーグは本作をフィルモグラフィにおいて唯一の“ディレクターズ・カット”だと位置付け、以後、自作の改変はしないといった意向を示している。まさに文字どおりのファイナルであり、そういう意味においても希少なバージョンといえるかもしれない。■ 『未知との遭遇【ファイナル・カット版】』© 1977, renewed 2005, © 1980, 1998 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
若草物語(1949)
それぞれに個性的な四姉妹の葛藤と成長、そして強い絆を美しく描いた感動の名作文芸ドラマ
米国の国民的小説を映画化。原作では三女である病弱なベスを四女と入れ替え、当時の人気子役マーガレット・オブライエンに健気に演じさせ、涙を誘う。他にエリザベス・テイラー、ジューン・アリソンらが娘役を好演。
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COLUMN/コラム2022.11.02
1人の男の情熱が、“インドへの道”を開いた!『ムトゥ 踊るマハラジャ』
あなたは“インド映画”と聞くと、どんなイメージが湧くだろうか? アクション、コメディ、ロマンス、そして歌って踊ってのミュージカル!3時間に迫る長尺の中に、こうしたエンタメのオールジャンル、ありとあらゆる娯楽の要素がぶち込まれて、これでもか!これでもか!!と迫ってくる。インド料理で使用する、複数のスパイスを混ぜ合わせたものを“マサラ”と言うが、それに因んで、「マサラ・ムービー」と呼ばれるような作品を、思い浮かべる方が、多いのではないだろうか? だが日本に於いて、“インド映画”がこのようなイメージで捉えられるようになったのは、1990年代も終わりに近づいてから。それ以前、日本でかの国の映画と言えば、ほぼイコールで、サダジット・レイ監督(1921~92)の作品を指していた。 レイは、フランスの巨匠ジャン・ルノワールとの出会いや、イタリアのヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(48)を観た衝撃で、映画監督になることを決意した。『大地のうた』(1955)『大河のうた』(56)『大樹のうた』(59)の「オプー三部作」などで、カンヌ、ヴェネチア、ベルリンの3大映画祭を席捲。国際舞台で高く評価され、最晩年にはアメリカのアカデミー賞で、名誉賞まで贈られている。 そんなレイの諸作は、日本ではATG系や岩波ホールで上映された、いわゆる“アート・フィルム”。これが即ち、日本に於ける“インド映画”のパブリック・イメージとなっていたわけである。 それを一気に覆して、件の「エンタメてんこ盛り」の“マサラ・ムービー”のイメージを日本人に植え付け、“インド映画”ブームを巻き起こしたのが本作、K・S・ラヴィクマール監督による『ムトゥ 踊るマハラジャ』(95)!そしてその主演、“スーパースター”ラジニカーントである。 ***** 大地主のラージャに仕えるムトゥ(演:ラジニカーント)は、親の顔も知らない、天涯孤独の身の上ながら、いつも明るく頼りになる男。主人の信望が厚く、屋敷の使用人たちのリーダー的存在であり、また近隣住民からの人気も高かった。 ある日ラージャのお供で旅回りの一座の芝居を観に行ったムトゥは、退屈で居眠りをし、大きなくしゃみを何発もして、一座の看板女優ランガ(演:ミーナ)の怒りを買う。その一方でそんなランガの美貌に、ラージャが心を奪われる。 数日後、再びランガたちの芝居を観に行ったラージャとムトゥは、公演の邪魔をしに来た地元の顔役一味と、大乱闘。ラージャの指示で、ランガと馬車で脱出したムトゥは、激しい馬車チェイスの末、何とか逃げ切る。 しかしまったく知らない土地に迷い込んでしまい、言葉も通じないため、ムトゥは困惑。そんな時にランガのイタズラ心がきっかけで、2人は熱いキスを交わし、激しい恋に落ちる。もちろんご主人様のラージャの、ランガへの想いなど、つゆも知らず…。 ムトゥは屋敷にランガを連れ帰り、ラージャに彼女も雇ってくれと頼む。自分のプロポーズが受け入れられたと勘違いしたラージャは、大喜びでランガを受け入れる。 そんなこんなで、恋愛関係は混戦模様。その一方でラージャの悪辣な叔父が、甥の財産を乗っ取ろうと、恐ろしい計画を進める。 危険が、刻一刻と近づく。そんな中でムトゥ本人も知らなかった、彼の出生の秘密が明かされる…。 ***** 映画の開巻間もなく、「スーパースター・ラジニ」と文字が画面いっぱいに広がって仰天する。これは『007』シリーズのオープニングを意識して作成された“先付けタイトル”。本作ではタイトルロールのムトゥを演じた、ラジニカーント(1950~ )主演作の多くで、使用されているものだ。 日本ではとても主役になることはない濃さを感じるラジニカーントであるが、貧しい家の出でバスの車掌出身という親しみ易さもあって、“インド映画界”では、紛れもないスーパースター。いやもっと厳密に言えば、“タミル語映画界”で主演作が次々と大ヒットとなった、押しも押されぬスーパースターである。 広大で人口も多いインドでは、地域ごとに言語も違っている。本作でムトゥが知らない村に着いたら、言葉が通じないというのは、決して誇張された表現ではない。 公用語だけでも20前後あるインドでは、各地域ごとにその地域の言葉を使って、映画が製作されている。年間の製作本数は、多い年では長編だけで1,000本近くと、アメリカを楽々と上回るが、それはこうした各地域で作られているすべての作品をトータルした本数である。 “インド映画界”を表すのには、よくハリウッドをもじった、「ボリウッド」という言葉が言われる。これは正確には、インドで最も話者人口が多い、ヒンディー語で製作される映画の拠点である、ムンバイ(旧名ボンベイ)のことを指す。 ムンバイが、インド№1の映画都市であり、“インド映画”全般のトレンドリーダーなのは間違いないが、本作『ムトゥ』のような“タミル語映画”は、それに次ぐ規模で製作されている。その拠点は、南インドの都市マドラスに在る、コーダムバッカムという地区。そのためこちらは、「ボリウッド」ならぬ「コリウッド」などとも言われている。 ラジニカーントは、そんな“タミル語映画界=コリウッド”の大スターというわけである。 ラジニカーントのムトゥの相手役ランガを演じたのは、本作製作当時は19歳だった、ミーナ(1976~ )。目がパッチリした、ポッチャリめの美女である彼女は、子役出身で、本作の頃は、1年間に7~8本もの作品に出演する、超売れっ子だった。活動の中心は“タミル語映画”だが、他にもマラヤーラム語、テルグ語、カンナダ語が話せるため、それぞれの言語を使った作品からオファーされ、出演していた。 ラジニカーントとミーナの年齢差は、実に26歳であるが、『ムトゥ』以外にも、何度も共演している。 さて、そんな2人が軸で繰り広げられる、大娯楽絵巻!ムトゥは、首に巻いた手ぬぐいや馬車用のムチを、まるでブルース・リーのヌンチャクの如く使いこなす。彼に叩きのめされた敵は、空中を回転したり、壁をぶち抜いたりしながら、次々と倒されていく。追いつ追われつの激しい馬車チェイスでは、追っ手の人間、馬、馬車が、壮絶にコケては吹っ飛んでいく。一体何人のスタントマンが、怪我を負ったことか? この映画世界では、ガチのキスシーンは、御法度。その代わりに、川でずぶ濡れになりながら、ムトゥとランガの恋の炎は燃え上がる。 そして、ことあるごとに大々的に展開される、群舞のミュージカルシーン。大人数のダンサーを従えたムトゥとラーガは、目も鮮やかな衣装を取っ替え引っ替えしながら、歌い、そして踊りまくる。因みに“インド映画”の常で、2人の歌声は、“プレイバックシンガー”と呼ばれる、専門のプロ歌手によって吹き替えられているのであるが。 忘れてならないのは、音楽を担当した、A・R・ラフマーン。当時すでに海外からも注目される存在だったが、この後にダニー・ボイル監督の『スラムドッグ$ミリオネア』(2008)の音楽で、アカデミー賞の音楽賞に輝き、世界的な存在になっている。 こうした、典型的且つド派手な“マサラ・ムービー”である本作は、95年に本国でヒットを飛ばしてから3年後、98年6月に、東京・渋谷の今はなきシネマライズで、まずは単館公開。これが半年近くのロングランとなり、興行収入が2億円を突破した。 評判が評判を呼び、最終的に本作は全国で100以上の映画館で上映。先陣を切ったシネマライズを含めて、トータルの観客動員数は25万人、累計興行収入は、4億円にも達す、堂々たる大ヒットとなった。 その後発売された映像ソフト=VHS・レーザーディスク・DVDの販売本数は、6万枚を突破!これまた、異例の大当たりと言える。 それにしても、本国では絶大なる人気を博しながら。それまでまったく日本に紹介されることがなかった、“マサラ・ムービー”である。一体どういった経緯で、突然上映されることになったのか? それは、ひとりの“映画評論家”の家族旅行がきっかけだった。その男、江戸木純氏がプライベートでシンガポールを訪れたのは、1996年の6月。 散歩がてら、インド人街を歩いていた時に、何の気なしにビデオとCDを売るお店へと立ち寄った。そこに並ぶ、観たことのない“インド映画”のパッケージに興味を持った彼は、店員に「今一番人気のあるスターの映画は?」と尋ねた。その時に薦められて購入したのが、ラジニカーントであり、その主演作『ムトゥ』であった。 お店で一部を観ただけで大いに心惹かれた江戸木氏だったが、その際に購入した『ムトゥ』のソフトを、帰国してから全編観て、大いにハマってしまった。そして毎日のように、本作の歌と踊りのシーンを観る内に、「これを映画館の大画面で見たい」という想いを抱き、遂には日本での上映権の購入に至った。 その後江戸木氏は、公開に向かって手を挙げてくれた配給・宣伝会社と連携。公開の戦略を練った結果、まずは「東京国際ファンタスティック映画祭」で『ムトゥ』を上映し、爆笑と拍手の渦をかっ攫った。 この大評判から、多くの問い合わせを受け、新たな提携も得たことから、劇場公開に向かって、大いに前進。遂には『ムトゥ』と出会ってからちょうど2年後の98年6月に、シネマライズでの上映を実現させたわけである。 そして沸き起こった、“第1次インド映画ブーム”!続々と“インド映画”の輸入・公開が続いたが、こちらはかの地の映画会社との契約の難しさなどでトラブルが続出し、ブームは早々にしぼんでしまう。 しかしこの時に、“インドへの道”が開けたのは、確かであろう。『ムトゥ』が起こしたムーブメントがなければ、その後の“インド映画”の紹介は、ずっと難しかった可能性がある。『きっと、うまくいく』(09)や、『バーフバリ』シリーズ(15~17)などの成功も、『ムトゥ』あってこそと言って、差し支えないだろう。 因みにラジニカーントは、齢七十を超えた今も、“タミル語映画界=コリウッド”の輝けるスーパースターである。■ 『ムトゥ 踊るマハラジャ【デジタルリマスター版】』(C) 1995/2018 KAVITHALAYAA PRODUCTIONS PVT LTD. & EDEN ENTERTAINMENT INC.
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PROGRAM/放送作品
逢びき(1945)
平凡な人妻の甘い恋心を名匠デヴィッド・リーンが見事に描き、’46年度カンヌ映画祭で最高賞を賞作
『アラビアのロレンス』のデヴィッド・リーン監督の名作メロドラマ。大作イメージの強いリーン監督の繊細な演出が窺える作品で、1946年、カンヌ国際映画祭で最優秀作品賞に輝く。
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COLUMN/コラム2022.11.02
あなたもまんまと騙される!? 詐欺師たちの逆転リベンジを描いた痛快な傑作コメディ『スティング』
詐欺師コンビによる大胆不敵なハッタリ計画とは? 創業から110年の歴史を誇るハリウッドで最古のメジャー映画スタジオ、ユニバーサル。主に低予算のB級映画を量産していた同社は、それまでに幾度となく浮き沈みを経験してきたわけだが、’50年代に入ってスタジオシステムが崩壊すると倒産寸前の経営危機に陥り、大手タレント・エージェントから総合エンタメ企業へと成長したMCAに買収される。このMCAによるテコ入れで事業を拡大したユニバーサルだが、しかし本業の映画部門は20世紀フォックスやパラマウントなどの他社に後れを取ってしまい、主に『ヒッチコック劇場』や『ララミー牧場』、『刑事コロンボ』といったテレビ・ドラマで稼ぐようになる。 そんな老舗ユニバーサルに『西部戦線異状なし』(’30)以来の43年ぶりとなるアカデミー作品賞(合計7部門獲得)をもたらし、同年に公開されたジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』(’73)と共に興行的にも大ヒットを記録。ユニバーサル映画部門の本格的な復興に一役買うことになった名作が、痛快軽妙に詐欺師の世界を描いた傑作コメディ『スティング』(’73)だった。 舞台は1936年9月、米国民が未曽有の経済不況に喘いだ大恐慌下のシカゴ。詐欺で日銭を稼ぐ貧しい若者ジョニー・フッカー(ロバート・レッドフォード)は、師匠であるベテラン詐欺師のルーサー(ロバート・アール・ジョーンズ)と組んで、違法賭博の売上金をまんまと騙し取ることに成功する。これまで見たことのない大金を手にして浮かれるフッカー。恋人のストリッパー、クリスタル(サリー・カークランド)を誘って意気揚々と夜遊びに出かけたフッカーだが、しかし欲を出して場末のカジノでひと儲けようとしたところ、騙されて有り金を全てスってしまう。 その帰り道、天敵である悪徳刑事スナイダー(チャールズ・ダーニング)から、違法賭博の元締めがドイル・ロネガン(ロバート・ショー)だと知らされる。表向きは裕福な銀行家のロネガンだが、その裏の顔は裏社会を牛耳る冷酷非情な大物ギャング。これはヤバイ!と慌てるも時すでに遅く、師匠ルーサーはロネガンの差し向けた殺し屋に殺害され、自らも命を狙われるフッカーは逃亡せねばならなくなる。 そんなフッカーが転がり込んだのは、ルーサーの古い仲間ヘンリー・ゴンドーフ(ポール・ニューマン)。その世界では名の知られた伝説的な凄腕詐欺師だったが、ある事件でヘマをしたことから一線を退き、今は遊園地や酒場を経営する女性ビリー(アイリーン・ブレナン)のヒモをしていた。なんとしてでもロネガンに復讐し、ルーサーの仇を取りたいと鼻息を荒くするフッカー。その心意気を買ったゴンドーフは、ロネガンを騙して大金を巻き上げるべくひと肌脱ぐことにする。 すぐさま詐欺計画のブレインを招集したゴンドーフ。業界に顔の広い策略家キッド・ツイスト(ハロルド・グールド)に裏社会の情報収集に長けたJ.J.(レイ・ウォルストン)、普段は銀行員として働くエディ(ジョン・ヘフマン)が集まり、大勢の詐欺師仲間を動員した大規模な劇場型のイカサマを計画することとなる。その一方、事件の匂いを嗅ぎつけたFBI捜査官ポーク(ダナ・エルカー)がスナイダー刑事と組んで、ゴンドーフとフッカーの周辺を探り始める。果たして、一世一代の詐欺計画は成功するのだろうか…!? 実在した詐欺師たちからヒントを得たストーリー 才能はずば抜けているものの人間的に未熟な駆け出しの詐欺師と、頭脳明晰で手練手管に長けたベテラン詐欺師がコンビを組み、悪事の限りを尽くす強欲な大物ギャングから大金を巻き上げてギャフンと言わせるというお話。軽妙洒脱でユーモラスなジョージ・ロイ・ヒル監督の職人技的な演出も然ることながら、細部まで入念に計算されたデヴィッド・S・ウォードの脚本が文句なしに素晴らしく、悪漢ロネガンばかりか観客までもがまんまと騙されてしまう。社会のはみ出し者である詐欺師たちが力を合わせ、大物ギャングや警察など権力者たちの鼻を明かすという筋書きもスッキリ爽快。この負け犬の意地を賭けた逆転勝負というのは、監督・脚本を兼ねた『メジャーリーグ』(’89)にも通じるウォードの持ち味だが、中でも本作はアカデミー脚本賞に輝いたのも大いに納得の見事な出来栄えである。 そのウォードが本作のアイディアを思いついたのは、処女作『Steelyard Blues』(’73)の脚本を書くためのリサーチをしていた時のこと。同作で描かれるスリ犯罪について調べていた彼は、資料の中に出てくる実在した往年の詐欺師たちに魅了されたという。暴力もせず盗みを働くわけでもない詐欺師は、カモ自身の金銭欲を逆手に取って金をかすめ取る。彼らの多くは貧困層の出身で、騙す相手は基本的に金持ちばかりだ。まるでロビン・フッドみたいじゃないか!とウォードは考えた。 中でも、’30~’40年代に活躍した詐欺師たちは、大金を騙すために偽の証券取引所や賭博場などを実際に作ってしまい、綿密に練られたシナリオのもとで組織的に役割分担をしてターゲットを信用させ、相手が騙されたことにすら気付かないうちに大金を巻き上げるという、なんとも大掛かりで大胆な手段を用いていた。これを映画にすれば絶対に面白いはず!そう確信したウォードは、およそ1年がかりで書き上げた脚本を、俳優からプロデューサーに転身したばかりの友人トニー・ビルのもとに持ち込み、そのビルがマイケルとジュリアのフィリップス夫妻に声をかける。 本作のオスカー受賞でプロデューサーとしての地位を築き、マーティン・スコセッシの『タクシー・ドライバー』(’76)やスティーブン・スピルバーグの『未知との遭遇』(’77)を世に送り出すフィリップス夫妻。当時まだ無名の映画製作者だった2人は、ロサンゼルス西部マリブのビーチハウスに居を構えていたのだが、そこでたまたま隣人だった女優マーゴット・キダーとジェニファー・ソルトの2人と意気投合し、やがて彼らの周囲にはスコセッシやスピルバーグ、フランシス・フォード・コッポラ、ブライアン・デ・パルマ、ロバート・デ・ニーロ、ハーヴェイ・カイテルといった当時の若い才能が集まり、ハリウッドで燻っている無名や駆け出しの映画人たちの社交場と化していく。トニー・ビルやデヴィッド・S・ウォードもそこに出入りしていたのである。 そのビルから紹介された『スティング』の脚本を気に入ったフィリップス夫妻は、彼と3人で本作のプロデュースを手掛けることに同意。エージェント事務所に送られたウォードの脚本は、当時の事務所スタッフで後に映画監督となるロブ・コーエン(『ワイルド・スピード』)の目に留まり、大手スタジオのユニバーサルに売り込まれたというわけだ。 ニューマン演じるゴンドーフは「くたびれた大柄の中年男」だった!? ポール・ニューマンにロバート・レッドフォードが主演、監督はジョージ・ロイ・ヒルという『明日に向って撃て』の黄金トリオが再集結したことでも話題となった本作だが、当初はもっと小規模な映画になるはずだったという。製作陣が最初に声をかけたのはレッドフォード。というのも、ウォードは彼を念頭に置いて主人公フッカーのキャラを描いていたからだ。脚本の面白さに興味を惹かれたレッドフォードだったが、しかし脚本家のウォードが監督を兼ねる予定だと聞いて躊躇する。これだけ込み入った内容の脚本を映像化するには、ベテラン監督の職人技が求められるからだ。すると、それからほどなくしてレッドフォードはジョージ・ロイ・ヒル監督から連絡を受ける。当時、ユニバーサルで『スローターハウス5』(’72)を撮っていたヒル監督は、たまたま見かけて読んだ『スティング』の脚本を気に入り、次回作としてレッドフォード主演で監督したいという。こうして、本作の企画が本格始動することになったのだが、しかしこの時点ではまだニューマンは関わっていなかった。 かつて『明日に向って撃て』の撮影中、ニューマンがビバリーヒルズに所有する邸宅に滞在していたヒル監督。『スティング』の制作に取り掛かるにあたって、またあの屋敷を貸してもらおうと考えたヒル監督は、その交渉のためにニューマンへ連絡したところ、反対に「自分に出来るような役はないのか?」と尋ねられたという。そこで彼のもとへ脚本を送ったところ、若干の紆余曲折を経ながらもベテラン詐欺師ゴンドーフを演じることに。ただし、当初の脚本におけるゴンドーフは「くたびれた大柄の中年男」という設定で、なおかつ脇役のひとりに過ぎなかった。そのため、ヒル監督とウォードはニューマンの個性に合わせてキャラ設定を変更し、なおかつレッドフォードとの二枚看板となるよう役割も大きくしたのである。 それだけでなく、当初は全体的にシリアスなトーンだったストーリーのタッチも、一転して明るくてユーモラスなものへと変更。ロネガン役にはニューマンの推薦でロバート・ショーが起用され、レイ・ウォルストンやチャールズ・ダーニング、アイリーン・ブレナン、ハロルド・グールドといった名脇役俳優たちがキャスティングされた。フッカーといい仲になるダイナーのウェイトレス、ロレッタ役には、当時まだ無名だったディミトラ・アーリスを抜擢。ある重大な秘密を隠したロレッタを演じる女優が、顔や名前の知れた有名人だと観客が先入観を持ってしまうからという理由だったそうだ。スタジオ側は「もっと綺麗な女優を」と難色を示したそうだが、ヒル監督は頑として譲らなかったという。なぜなら、そんな目立つ美人が場末のダイナーなんかで働いているはずがないから。これは確かに正しい。そういえば、アイリーン・ブレナンにしろ、サリー・カークランドにしろ、本作に登場する女優たちは、いずれも色っぽいけど美人過ぎない。いかにも、いかがわしい酒場やストリップ小屋にいそうな、それらしいリアルな存在感を醸し出しているのがいい。 さらに、’30年代のシカゴを舞台にした本作を映像化するにあたって、ヒル監督は当時の街並みや風俗を忠実に再現するだけでなく、作品そのものの演出にも’30年代の犯罪映画のスタイルを取り入れることに。オープニングに出てくるユニバーサルの社名ロゴからして、’30年代当時の古いものを使用している。撮影監督のロバート・サーティーズと美術監督のヘンリー・バムステッドは、作品全体のカラー・トーンや照明を工夫することで、’30年代のモノクロ映画に近いような雰囲気を再現。’30年代当時から活躍するイーディス・ヘッドが衣装デザインを手掛け、イラストレーターのヤロスラフ・ゲブルが’30年代に人気だった雑誌「サタデー・イヴニング・ポスト」の表紙を真似たタイトルカードのイラストを描いた。そのスタイリッシュなビジュアルがまた大変魅力的だ。 また、本作はかつてアメリカの大衆に愛された音楽ジャンル、ラグタイムを’70年代に復活させたことでも話題を呼んだ。実際にラグタイムが流行ったのは20世紀初頭であるため、’30年代を舞台にした本作で使うのは時代考証的に間違いなのだが、ヒル監督は「そんなことに気付く観客なんていない」と一笑に付したという。使用されている楽曲の数々は、「ラグタイムの王様」として活躍した黒人作曲家スコット・ジョプリンのもの。息子とその従兄弟が自宅のピアノで演奏していたジョプリンの楽曲を聞いたヒル監督は、その軽快で陽気なタッチが『スティング』の雰囲気にピッタリだと考えたらしい。友人でもある作曲家マーヴィン・ハムリッシュに映画用のアレンジを依頼。テーマ曲となった「ジ・エンターテイナー」はビルボードの全米シングル・チャートで4位をマークし、サントラ・アルバムも全米ナンバー・ワンに輝いた。’17年に48歳の若さで死去したジョプリンは、ラグタイムの衰退と共に忘れ去られていたものの、本作をきっかけに再評価の気運が高まり、’76年にはその功績に対してピューリッツァー賞を授与されている。■ 『スティング』© 1973 Universal Pictures. All Rights Reserved.