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PROGRAM/放送作品
ロストボーイ
[PG-12]ティーンホラーとロックが魅惑の融合!カルト的人気を博した現代版吸血鬼エンターテイメント
吸血鬼という古典的な題材をジュヴナイル冒険劇に絡め、さらに80年代ロックの音楽やファッションを取り入れ、若者向け青春ホラーへとアップデート。娯楽映画の職人監督ジョエル・シューマカーの確かな演出も光る。
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COLUMN/コラム2024.10.02
世界的ポップスターと数学教師の格差婚から、働く女性の理想の恋愛と結婚を考察する正統派ロマンティック・コメディ『マリー・ミー』
住む世界も価値観も正反対な男女の結婚の行方とは…? 女優・歌手・ダンサーと三つの顔を併せ持ち、今や映画界でも音楽界でも不動の地位を築いたハリウッドの女王ジェニファー・ロペス(aka J. Lo)が、自身を彷彿とさせる世界的な歌姫を演じたロマンティック・コメディである。 主人公は長いキャリアと世界的な人気を誇る音楽界のスーパースター、キャット・ヴァルデス(ジェニファー・ロペス)。年下の若いグラミー賞歌手バスティアン(マルーマ)とのデュエット曲「マリー・ミー」が目下大ヒット中の彼女は、プライベートでもバスティアンと交際して世間の注目を集めており、いよいよニューヨーク公演のステージで彼との結婚を発表することとなる。もちろん、この現代の御伽噺のようなビッグネーム同士の結婚に世間は話題騒然。コンサートはウェブでもライブ中継され、会場はもとより世界中の2000万人以上のファンが固唾を飲んで結婚発表を見守る。 ところが、コンサートの最中にバスティアンがキャットのアシスタントと浮気していたことが発覚。ウェブのゴシップサイトで大々的に報道され、会場に詰めかけたファンもスマホでニュースを知って困惑する。あまりのショックと屈辱にステージ上で茫然とするキャット。そこで彼女の目に入って来たのは、客席で「マリー・ミー」のプラカードを持つ中年男性チャーリー・ギルバート(オーウェン・ウィルソン)の姿だった。何事もなかったようにバスティアンとの結婚を発表なんて出来ないが、しかしかといってこのまま黙って引き下がるわけにもいかない。何らかの行動を起こさねばと焦った彼女は、思い余って見ず知らずのチャーリーとの結婚を発表してしまう。 チャーリーはニューヨーク市内の小学校に勤める平凡な数学教師。善良で心優しい男性だが生真面目で堅苦しいところがあり、それゆえ元妻と離婚する羽目となってしまい、近ごろは同居する年頃の娘ルー(クロエ・コールマン)からも敬遠されがちだ。アナログレコードと古いポップスを愛する彼は、最近の音楽トレンドや芸能ゴシップなどさっぱり。キャットのコンサートに足を運んだのも、小学校の同僚教師パーカー(サラ・シルヴァーマン)に誘われたからで、娘との親子関係を改善するきっかけになればと考えたのだ。なので、いきなりステージ上のキャットからプロポーズされてドン引きするチャーリーだったが、しかし彼女の切羽詰まったような表情からのっぴきならないものを感じ、その場の流れに任せてキャットとの結婚を世界中のファンの前で誓う。 かくして、当人たちにとっても想定外の展開で夫婦になったキャットとチャーリー。どうせスターの気まぐれ、すぐに守秘義務契約を交わして離婚すればいいと考えていたマネージャーのコリン(ジョン・ブラッドリー)だが、しかしキャットは当面のところ離婚するつもりなどないという。これまで幾度となく普通に恋愛をして結婚したが、そのたびに裏切られてきたキャット。そんな人生を変えるには、なにか違ったことをせねばと考えたのだ。それに、浮ついた業界人と違って地に足のついた、真面目で謙虚なチャーリーに少なからず好感を抱いていたのである。 一方のチャーリーもまた、マスコミが面白おかしく作り上げたイメージと違って実際は長所も短所もある普通の女性であるキャットに親近感を覚え、なおかつプロのエンターテイナーとして一切の妥協を許さず仕事へ臨む彼女に尊敬の念を抱いていく。確かに住む世界も価値観も全く違う2人だが、しかし相手を理解していくうちにキャットは忘れかけていた「普通」の感覚を思い出し、チャーリーは自分の殻を破って新しいことに挑戦しようとする。こうしてお互いの交流によって人間として成長し、やがてなくてはならない存在となっていくキャットとチャーリーだったが…? ジェニファー・ロペスの実体験が投影されたヒロイン像 原作は’12年に出版されたボビー・クロスビー原作のグラフィック・ノベル。コロナ禍の影響で全米公開が’22年2月へ大幅にずれ込んでしまったが、実際は完成する8年前にジェニファー・ロペスの製作会社ヌーヨリカン・プロダクションが原作の映画化権を取得し、コロナ前の’19年11月には撮影を終えていたらしい。パンデミックという不測の事態があったことを差し引いても、たっぷりと時間をかけて大切に温められた企画であったろうことは想像に難くない。 J. Loのチームが恐らく最もこだわったのは、ヒロインのキャットにジェニファー自身を重ね合わせることであろう。劇中のキャットと同じくジェニファーもまた、マスコミによってあることないこと面白おかしくゴシップ記事を書きまくられ、「気が強くて我がままな女王様気質のセレブ」というイメージを一方的に作り上げられてきた経緯がある。残念ながら男運があまりないのもキャットと一緒。恋多き女性として知られるジェニファーだが、しかし有名人ゆえ金に目のくらんだ最初の夫(一般人)からは暴露本やプライベートビデオをネタに食い物にされかけ、本人が「本物の愛で結ばれていた」という俳優ベン・アフレックとは彼がマスコミの注目を嫌うため上手くいかず、後に復縁・結婚しても長続きしなかった。いわば有名税みたいなもの。たとえば、結婚を機に芸能界を引退して家庭に入りますとなれば、もしかすると結婚生活も上手くいったのかもしれないが、しかしキャットと同じく天性のエンターテイナーであるジェニファーにそれは到底無理な話であろう。 そのうえで、本作は良くも悪くも世間の注目に晒される側の視点から「スーパースター」と呼ばれる女性セレブの人間的な実像に迫り、さらにはキャリア志向の強い「働く女性」にとって理想の恋愛と結婚、そして男性像とはどういうものかを考察していく。だいたい、主人公キャットだって別に多くを求めているわけじゃない。金持ちじゃなくてもイケメンじゃなくても構いません。とりあえずちゃんと仕事をしていて誠実で良識があればオッケー。大事なのは女性を対等の人間として扱ってくれて、その能力や仕事を正当に評価して尊重してくれること。そういう意味で、地味で真面目な数学教師チャーリーはまさに理想の男性なのだ。 そうしたフェミニスト的な視点は、ブレインとなる主要スタッフの大半が女性で固められていることと無関係ではなかろう。監督はインディーズ出身で本作が初のメジャー進出となったカット・コイロ。脚本家チームも3人のうち2人が女性だ。中でも特に重要な役割を果たしたのが、ジェニファー・ロペスと並んでプロデューサーに名を連ねているエレイン・ゴールドスミス=トーマスである。 もともとハリウッドのタレント・エージェントとしてジュリア・ロバーツやスーザン・サランドン、ジェニファー・コネリーなどの大物女優を顧客に持ってたゴールドスミス=トーマスは、ジュリア・ロバーツの製作会社レッド・オム・フィルムズに加わってプロデューサーへと転向。そこでの初プロデュース作品が、ジェニファー・ロペス主演の大ヒット・ロマンティック・コメディ『メイド・イン・マンハッタン』(’02)だった。その後、J. Loのヌーヨリカン・プロダクションへ移籍して社長(ジェニファーはCEO)に収まった彼女は、『ジェニファー・ロペス 戦慄の誘惑』(’15)以降のヌーヨリカン製作作品の殆んどでプロデュースを担当。本作のグラフィック・ノベルを読んで、脚本家たちに女性視点で脚色するよう指示したのはゴールドスミス=トーマスだったという。 観客5万人が詰めかけた本物のコンサート会場で撮影!? さらに、本作は主人公キャットの恋人である若手トップスター歌手バスティアン役として、コロンビア出身で南米はもとより北米でも絶大な人気を誇るラテンポップ・アーティスト、マルーマを起用したことでも話題に。これが演技初挑戦かつ映画デビューだったマルーマは、ジェニファーとデュエットするテーマ曲「マリー・ミー」などの楽曲も提供している。サントラで使用された楽曲の大半は本作のために書き下ろされたオリジナル曲だが、キャットが自らのコンサートで尼僧や僧侶に扮したダンサーをバックに歌い踊るダンスナンバー「Church」は、ジェニファーが以前よりストックしていた未発表曲を掘り起こしたものだという。J. Loが最も影響を受けたスターのひとり、マドンナの「Like A Prayer」を彷彿とさせる楽曲だ。 ちなみに、終盤でキャットがバスティアンのコンサートにゲスト出演し、デュエット曲「マリー・ミー」を披露するシーンは、バスティアンを演じるマルーマのマディソン・スクエア・ガーデン公演に便乗して撮影している。会場に詰めかけた5万人の聴衆は、映画のエキストラではなくコンサートの来場客だ。ただし、テーマ曲「マリー・ミー」がリリース前に流出しては困るため、同曲のパフォーマンス・シーンは事前に無観客で撮影を完了。そのうえで、観客の前ではテンポの良く似たジェニファーの楽曲「No Me Ames」(ファースト・アルバムに収録されたマーク・アンソニーとのデュエット曲)をマルーマとデュエットしてもらい、そのステージを見守る観客の映像を「マリー・ミー」のパフォーマンス映像と編集で混ぜ合わせたのである。 ロマンティック・コメディの大ヒットが減少している昨今、『ノッティング・ヒルの恋人』や『ローマの休日』を彷彿とさせる正統派ロムコムの本作も、予算2300万ドルに対して興行収入5000万ドル強と、必ずしも大成功とは言えない結果となってしまったが、しかし公開翌週の2月14日には全米興行成績ランキングで1位をマーク。バレンタイン・デーにロマンティック・コメディがトップに輝くのは史上初めてのことだったそうだ。むしろ本作は映画館よりも配信サービスやテレビ放送で好成績を記録しているらしい。そのホッコリとする温かな後味の良さも含め、自宅でのんびり寛ぎながら楽しむにうってつけの作品なのかもしれない。■ 『マリー・ミー』© 2022 Universal Studios. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
月の寵児たち【デジタル・リマスター版】
名優マチュー・アマルリックの初出演作!名匠オタール・イオセリアーニがパリを舞台に描く奇想天外な群像劇
ジョージアの名匠オタール・イオセリアーニ監督がパリに拠点を移して初めて手掛けた作品。女画廊主から過激派まで様々な人々が絡み合う人間模様をオールパリロケで映す。ヴェネチア国際映画祭で審査員特別賞を受賞。
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COLUMN/コラム2024.09.30
「すべて本当にあったこと」を描いた、ロマン・ポランスキー畢生の傑作は今…。『戦場のピアニスト』
実話ベースの本作『戦場のピアニスト』(2002)の原作本に、ロマン・ポランスキーが出会ったのは、1999年のこと。パリで監督作『ナインスゲート』がプレミア上映された際に、友人から渡されたのである。 一読したポランスキーは、長年待ち望んだものに出会った気持ちになった…。 ***** 1939年9月、ポーランドの著名な若手ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンはいつものように、首都ワルシャワのラジオ局でショパンを演奏していた。しかしその日、ヒトラー率いるナチス・ドイツが、ポーランドに侵攻。シュピルマンの人生は、大きく変転する。 老父母や弟妹など、家族と暮らしていたシュピルマン。ユダヤ系だったため、街を占領したドイツ軍の弾圧対象となる。 ナチスがポーランド各地に作ったユダヤ人ゲットーへの移住が命じられ、住み慣れた我が家から強制退去。移った先では、ドイツ兵による“人間狩り”や“虐殺”が横行する。 42年8月、ゲットーのユダヤ人たちの多くが、強制収容所に送られることになった。しかし列車へ乗り込まされる直前、シュピルマンは、ユダヤ系ながらナチスの手先となった友人から、家族と引き剥がされ、この場を去るように促される。 家族で唯一人、収容所行きを免れたシュピルマンは、ゲットーに戻り、肉体労働に従事。このままではいつか命を落とすと考え、脱出を決行する。 ナチスに抵抗する、旧知の人々らの協力を得て、隠れ家を移りながら、命を繋ぐ。 44年、ワルシャワ蜂起が始まり、戦場となった街が、灰燼と帰していく。そんな中で必死に生き延びようとする、シュピルマンの逃走が続く…。 ***** 33年パリで生まれたポランスキーは、3歳の時に、家族でポーランドに移り住んだ。青年時代にウッチ映画大学で監督を志し、やがて長編第1作『水の中のナイフ』(62)で、国際的な評価を得る。 その後は海外へ。イギリスで、『反撥』(65)『袋小路』(66)『吸血鬼』(67)を成功させると、ハリウッドに渡って『ローズマリーの赤ちゃん』(68)を監督。更に声価を高めた。 しかし69年、妊娠中だったポランスキーの若妻シャロン・テートが、カルト集団に惨殺されるという悲劇に見舞われる。強いショックを受けた彼は、一時ヨーロッパへと移るが、『チャイナタウン』(74)の監督依頼を受けて、アメリカに戻る。 ところが77年、ポランスキーは13歳の少女を強姦するという事件を起こし、アメリカ国外へと逃亡。以降は主にフランスをベースに、監督作品を発表し続けている。 紆余曲折ある彼の監督人生の中で、ずっと胸に抱いていたこと。それは、いつかポーランドの「痛ましい時代の出来事を映画化したい」という思いだった。 ユダヤ系であるポランスキーは、ナチスの占領下で過ごした少年時代に、ゲットーでの過酷な暮らしを経験。その後両親と共に、強制収容所へ送られそうになる。寸前に、父の手で逃がされた彼は、終戦を迎えるまで、幾つもの預け先を転々とすることになった。 戦後になって、父とは再会。しかし母は、収容所で虐殺されていた…。 自分が経験した、そんな時代に起こった事々を作品にしたい。しかしながら、自伝的な内容にはしたくない…。 ポランスキーは、スティーヴン・スピルバーグから、『シンドラーのリスト』の監督オファーを受けながら、断っている。その舞台となるクスクフのゲットーが、実際に自分が暮らした地であり、描かれることが、自身の体験にあまりにも近かったためだ。「ふさわしい素材」を得て、「映画監督として、しっかりとした」ヴィジョンを持って臨まねばならない。そう心に秘めて待ち続けたポランスキーが、60代後半になって遂に出会ったのが、ウワディスワフ・シュピルマンの回想録である、「戦場のピアニスト」だったのだ! ポランスキー曰く、シュピルマンの体験と自分の間に、「ほどよい距離があった」。自分の住んでいた街とは舞台が違い、自分が知っている人間は、誰1人登場しない。それでいながら、「自分の知る事柄が書かれていた」。自らの体験を活かしつつも、客観的な視点で物語を紡ぐのに、これほど相応しいと思える原作はなかったのである。 シュピルマンの著書は、「ぞっとさせられる反面、その文章には前向きなところもあり、希望が満ちていた」。また、「加害者=ナチス/被害者=ユダヤ人」という単純な図式に陥ることなく、シュピルマンの命を救うのが、同胞から恐れられていた裏切り者のユダヤ人だったり、ナチスの将校だったりする。ナチスにも善人が存在し、ユダヤ人にも憎むべき者がいたという、原作の公平な視点にも、いたく感心したのだった。 ポランスキーは、戦後はポーランド音楽界の重鎮として後半生を送っていたシュピルマン本人と面会。映画化を正式に決めた。残念ながらその翌2000年、製作の準備中に、シュピルマンは88年の生涯を閉じたのだが…。 ポランスキーが、ポーランドで映画を撮るのは、『水の中のナイフ』以来、40年振り。資金はヨーロッパから出ており、アメリカの俳優は使わないという条件だった。 それでいながらセリフは英語とするため、ロンドンでオーディションを行うことになった。1,400人もの応募があったが、ポランスキーはその中からは、“シュピルマン”を見つけることはできなかった。 結局ポランスキーが白羽の矢を立てたのは、アメリカ人俳優。1973年生まれで、まだ20代後半。ニューヨーク・ブルックリン育ちのエイドリアン・ブロディだった。 シュピルマンに、風貌が似ていたわけではない。しかしポランスキーはブロディの出演作を数本観て、「彼こそ“戦場のピアニスト”」と思ったのだという。ポランスキーが「思い描いていた通りの人物になりきることのできる」俳優として、ブロディは選ばれたのである。 アメリカ人のブロディを起用するため、スポンサーを説得するのには、1カ月を要した。その上で、製作費の減額を余儀なくされた。 そこまでポランスキーが執心したブロディは、本作以前にスパイク・リーやケン・ローチなどの監督作品で主要な役を演じながらも、まだまだ新進俳優の身。ポランスキーの心意気に応え、戦時に大切なものをことごとく失ったシュピルマンになり切るため、住んでいたアパートや車、携帯電話など、すべてを手放して、単身ヨーロッパへと渡った。 ブロディの父は、ポーランド系ユダヤ人で、ホロコーストで家族を失った身。母は少女時代、ハンガリー動乱によって、アメリカに逃れてきた難民だった。ブロディ家では子どもの頃から、戦争のことやナチスの残虐さが、いつも話題になっていた。 クランク・インまでの準備期間は、6週間。部屋に籠りきりで行ったのは、まずはピアノの練習。少年時代にピアノを習った経験が役立ったものの、毎日4時間ものレッスンを受けた。 同時に進められたのが、ダイエット。摂取するものが細かく指示されて、体重を10数㌔落とした。撮影中に遊びに来たブロディのガールフレンドが、彼を抱き上げてベッドに運べるほど、瘦身になったという。 他には、ヴォイストレーニングや方言の練習、演技のリハーサルが繰り返される毎日を送った。 本作でもう一方の“主役”と言えるのが、1939年から45年に掛けての、ワルシャワの市街。しかしゲットーの在った地をはじめ、ほとんどの場所は戦後に再建されており、撮影に使えるような場所は、ほとんど残っていなかった。 そのためポランスキーは、広範なリサーチと自分自身の記憶を頼りに、美術のアラン・スタルスキと共に、ワルシャワとベルリン周辺で、数ヶ月のロケハンを敢行。本作の100を超える場面に必要な撮影地を、探し回った。 最終的には、ベルリンの撮影所の敷地内に、ワルシャワの街並みを建造。また、同じくベルリンに在った、旧ソ連兵舎を全面的に取り壊して、広大な廃墟を作り上げた。これは、全市の80%が壊滅したと言われるワルシャワ蜂起の、すさまじい戦禍を再現したものだった。 本作の撮影は、この廃墟が雪に覆われたシーンからスタートした。ブロディ演じるシュピルマンが、壁を上って、その向こう側に行くと、どこまでも荒涼たる光景が広がっている。「これが自分の住む街だったら」と思うと、ブロディは自然に涙がこぼれたという。 ワルシャワでは、屋内・屋外ロケを敢行。様々なシーンの撮影を行った。 ロケ地探しで至極役立った、ポランスキーの記憶力。ナチの軍服や兵士たちの歩き方、ゴミ箱の大きさに至るまで、当時の再現に、大いに寄与した。記憶でカバーできない部分は、終戦直後の46年に書かれた、シュピルマンの原作に頼った。 戦時のワルシャワで起こった様々な事件を再現するためには、多くのリサーチが行われた。クランク・イン前には、歴史家やゲットーの生存者の話を聞き、スタッフには、ワルシャワ・ゲットーについてのドキュメンタリーを何本も観てもらった。 ポランスキーは本作に、当時彼自身が体験したことも、織り込んだ。その一つが、シュピルマンが、収容所に送られていく家族からひとり引き離されるシーン。 原作ではシュピルマンは、その場から走って逃げたと記している。しかしポランスキーは、歩いて去るように、変更した。 これはポランスキーがゲットーを脱出した際に、ドイツ兵に見つかった経験が元になっている。そのドイツ兵はみじろぎひとつせずに、「走らない方がいい」とだけ、ポランスキーに言った。走るとかえって、注意を引いてしまうからである。 そんなことも含めて、本作で描かれているのは、「すべて本当にあったこと」だった。 撮影は、2001年2月9日から半年間に及んだ。その期間中、ポランスキーは当時の辛かった思い出の“フラッシュバック”に、度々襲われることになる。しかし撮影前のリサーチ段階での苦痛のほうが大きかったため、憔悴するには至らなかった。 本作のクライマックス。シュピルマンが隠れ家とした場所でナチスの将校に見つかり、ピアニストであることを証明するためピアノを演奏する、4分以上に及ぶシーンがある。 こちらはドイツのポツダムに在る、住宅街の古い屋敷でのロケーション撮影。画面から伝わってくる通りの寒さの中で、カメラが回された。 スタッフが皆、分厚いコートを来ている中で、ブロディは着たきりのスーツだけ。しかし監督は画作りのため、すべての窓を開け放しにした。ブロディは死ぬほどの寒さの中で、演技をしなければならなかった。 このシーンに登場する、トーマス・クレッチマンが演じるドイツ国防軍将校の名は、ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉。シュピルマンを連行することなく、隠れ家の彼に食事や外套を提供して、サバイバルを手助けする。 本作で詳しく描かれることはなかったが、実在したこの大尉は、ナチスの方針に疑問を抱き、迫害に遭ったユダヤ人らを、実は60人以上も救っている。シュピルマンを助けたのは、偶然や気まぐれではなかったのである。 不運にも彼はワルシャワから撤退中に、ソ連軍の捕虜となった。そしてシベリアなどの捕虜収容所に、長く拘置されることになる。 シュピルマンは戦後、自分を助けてくれたドイツ人将校を救おうと、手を尽して行方を捜索。収容所に居ることがわかると、当時はソ連の衛星国家だった、ポーランドの政界に解放を働きかけた。しかしホーゼンフェルトが自由の身になることはなく、52年に心臓病のため57歳で獄死してしまう…。 さて6ヶ月間、本作に打ち込んだエイドリアン・ブロディは、シュピルマンの“孤立感”を体感しようと試み、飢えをも経験する中で、感じ方や考え方に変化が生じた。そのため撮影が終わってから、何と1年近くも、鬱状態から抜け出せなかった。 一方でブロディは、本作に出たことによって、俳優としての自分がやりたいことが何なのか、はっきりと自覚することができたという。 ちなみにブロディがレッスンを経て、楽譜を見ずにピアノを弾けたようになったことを、ピアノ教師が絶賛。この後も続けるように勧められたが、本作が撮了するとモチベーションを保てず、やめてしまったという。 監督のポランスキー、主演のブロディが報われたのは、まずは2002年5月の「カンヌ国際映画祭」。そのコンペ上映で15分間のスタンディング・オヴェーションを得て、最高賞のパルムドールに輝いた。そして翌03年3月には「アカデミー賞」で、ポランスキーに“監督賞”、ブロディに“主演男優賞”が贈られた。 それまでは、“鬼才”という呼称こそがしっくりくる感があったポランスキー。件の事情で国外逃亡中の身だったため、オスカー授与の場に立つことはなかったが、本作『戦場のピアニスト』によって、紛うことなき“巨匠”の地位を得たのである。 しかしそれから歳月を経て、90を超えたポランスキー、そして本作への評価も、今や安泰とは言えない。 2017年に大物プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる数多くの性加害が告発されて以降、大きな高まりを見せた#MeToo運動。その文脈の中では、少女を強姦してアメリカ国外へ逃亡したポランスキーの、“巨匠”としての地位も、揺るがざるを得ない。 ポランスキーに性的虐待を加えられたと告発する者は、他にもいる。アカデミー賞受賞後、彼のアメリカ入国を認めさせようという機運が一時高まったが、もはや取り沙汰されることはない。 そして現在、イスラエルが、ガザ地区で戦争を続けている。 ナチスに母を、カルト集団に妻子を奪われた“被害者"である一方、レイプで女性の人生を狂わせた“加害者”であるポランスキー。 ナチスのジェノサイドの犠牲者であるユダヤ民族が作った国家イスラエルは、国際的な批判の高まりを無視して、パレスチナの民への攻撃を行っている。『戦場のピアニスト』は、製作から20年以上経った今観ても、衝撃的且つ感動的な作品である。ポランスキーが意図した通り、「ナチス=悪/ユダヤ=善」という単純な図式を回避したからこその素晴らしさがある。 しかしながら、2024年の今日。そんな作品だからこそ、複雑な気持ちを抱きながら観ざるを得なくなってしまったのも、紛れもない事実である。■ 『戦場のピアニスト』© 2002 / STUDIOCANAL - Heritage Films - Studio Babelsberg - Runteam Ltd
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PROGRAM/放送作品
スパイ・ライク・アス
落ちこぼれスパイ2人組が世界を救う?80年代コメディの巨匠ジョン・ランディスが放つ笑劇スパイムービー
『ブルース・ブラザース』などコメディの巨匠ジョン・ランディス監督がダン・エイクロイドと組み、冷戦というシリアスなテーマをドタバタ劇で痛快に笑い飛ばす。ポール・マッカートニーが主題歌を担当。
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COLUMN/コラム2024.09.24
コロナ禍で追求された、全編アクションの可能性『アンビュランス』
◆破壊王マイケル・ベイの挑戦 機動力に満ちたカメラワークや、過剰なほどに爆発を散りばめたショットなど、それらを素早い編集で組み合わせ、監督マイケル・ベイはキャリア早期より迫力ある映像サーカスを展開してきた。「ベイヘム」と呼称されるそれは、氏を認識する視覚スタイルとして周知され、皮肉も尊敬も交えて氏を象徴する重要なワードとなっている。1995年の初長編監督作『バッドボーイズ』を起点に、ベイはそのほとんどを破壊的なアクションに費やし、さらには機械生命体が車に変形するSFシリーズ『トランスフォーマー』と関わりを持つことで、ベイヘムを必要不可欠とするステージへと自らを追いやっている。そしてショットの多くをCGキャラクターやVFXに依存する本シリーズにおいて、爆発や破壊のプラクティカルな要素をどこまで追求することができるのか、彼はそれを実践してきたのである。 そんなマイケル・ベイに、大きな試練と挑戦の機会が訪れる。それは2020年に起こった、世界的なパンデミックの拡大だ。いわゆる新型コロナウイルス(COVID-19)の蔓延によって、映画業界全体の作品製作や公開が頓挫してしまったのだ。 しかし、ベイはこうした困難の中で、どれだけ過激なアクション演出を成し遂げられるのかという実験に挑んだのだ。それが2022年に公開された『アンビュランス』である。 病に侵された妻を助けたいと、元軍人のウィル(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世)はカリスマ的な犯罪者ダニー(ジェイク・ギレンホール)の誘いにより、3,200万ドルの銀行強盗に加担する。 だがロサンゼルス史上かつてない巨額の奪取に成功したものの、彼らは捜査組織の容赦ない追跡を受けることになる。しかもウィルたちが逃亡のためにジャックしたのは、救命士キャム(エイザ・ゴンザレス)が負傷した警官を救護中のアンビュランス(救急車)だった……。ウィルとダニーは内も外も予断を許さぬ状況下で、二転三転する事態と、重くのしかかる善悪の葛藤に対処せねばならなくなる。 映画はこうした破壊と変転に満ちたカーチェイスを、わずか24時間のオンタイムで描いていく。ベイは配信を発表手段とした前監督作『6アンダーグラウンド』(2019)でも、開巻から延々20分間に及ぶカーチェイスを披露し、その様相は狂気を放っていた。しかし、今回は同作の規模を超えるものが、冒頭から終わりまで絶え間なく続くのである。 新型コロナウイルス感染によるロックダウンのなか、全編アクションの映画を撮影する—。そんな『アンビュランス』の叩き台となった脚本は、2005年にデンマークで製作されたスリラー『25ミニッツ』がベースとなっている。同作は心臓発作の患者を乗せた救急車をジャックした、2人の銀行強盗を主人公にしたものだ。『アンビュランス』の脚本を手がけたクリス・フェダックは、デンマーク人のマネージャーであるミケル・ボンデセンがオプション契約した『25ミニッツ』を紹介されたのだ。 『25ミニッツ』の核となるコンセプトが気に入ったフェダックは、本作をロサンゼルスへと置き変え、考えうる限りのカーチェイスや設定をクレイジーに拡張させたのである。 ミニマルを極めた状況設定から、やがて大きな展開へと発展していくアクション映画。そんな『アンビュランス』のストーリーこそ、ベイはコロナ禍で全編アクションの可能性を追求する、自分のアプローチと完璧にマッチしていると確信。生まれ故郷であるロサンゼルスを中心に、40日間のタイトな撮影を実践しようと、同作の撮影に踏み切ったのだ。 さいわいにも、本作のプロデューサーであるジェームズ・ヴァンダービルトとウィリアム・シェラックは、前プロデュース作品の『スクリーム』(2022)で、パンデミックの制限下における撮影プロトコルを確立させたばかりだった。この方法に従うことを前提にして、『アンビュランス』の製作にゴーサインが出たのである。 ◆FPVドローンをフル活用した撮影 前述どおり、本作の撮影はすべてロサンゼルスとその近郊でおこなわれた。こうした限定空間を安っぽいものに見せぬよう、クルーはエリア照明や色彩、ロケーションや撮影方法に至るまで、過去にないアプローチで手がけることを至上とした。また常時5台のマルチカメラによる態勢はベイのスタイルだが、これは限定空間を多面的に捉えることに役立つことになる。そしてすべての爆発ショットは、関係各部署と綿密なリハーサルを施行し、一秒単位で時間を計って綿密に調整された。カメラクルーには細かな安全装備が施され、さらに管理者が付き添うことで、万全を期した撮影が徹底されたのだ。 さらに今回はドローンを最大限に活用することで、多動的で視覚的な拡がりを持つショットをものにしている。 しかも『アンビュランス』で使用されたドローンは撮影用カメラを吊り下げて動くヘビーリフトタイプのものとは異なり、RED社の超小型6Kシネマカメラ「Komodo」を一体化させた最軽量・高画質の最新鋭ツールだ。それはFPV(ファースト・パーソン・ビークル)ドローンと呼ばれ、カメラと連動したゴーグル越しに操縦して撮像を得る、シミュレーションスタイルの撮影手段を持つギアである。操縦者たちはFPVドローンの操作テクニックと撮影技を競うドローン・レーシングリーグで上位を占める精鋭たちが集められ、例えばカメラアイが時速160キロのスピードでオフィスビルの屋上から壁面をつたい、地上からわずか1フィートスレスレまで潜り込んだり、あるいはロサンゼルス・コンベンションセンターの地下駐車場でのワンショットによるチェイスシーンなど、通常のカメラ撮影では不可能な移動ショットを可能にしたのだ。 このように、FPVドローンの全面投入はパンデミック制限下での撮影に貢献しただけでなく、これまでのアクション映画にない視覚領域へと我々をいざなう、全く新しい空撮の概念を映画の世界にもたらしたのである。 ◆『トランスフォーマー』を凌駕する車の投入 しかしロックダウンのプロトコルに基づく作品とはいえ、本作には30台を超すパトカーやアンダーカバー車、それに主人公の救急車と複数のスタントカーが用意され、車をキーアイテムとする『トランスフォーマー』さえも凌駕する台数が『アンビュランス』に投入されている。 なによりアメリカ国防総省と太いパイプで繋がり、最新の現用兵器や重火器類を自作に投入してきた初物好きのベイらしく、本作で登場する警察と消防要員のオフサイト本部として機能するMCU(移動コマンドユニット)は市場に出ていない最新式だ。加えて同台に複数のモニターを設置し、後部座席やシートポジションをカスタマイズするなど、完全な映画オリジナルにしている。 そして、本作のもうひとりの主人公ともいえる救急車は、民間消防会社の世界的大手・ファルクが所有する最高級クラスのもので、それを2台レンタルし、同時にスタント用のものを3台ほど撮影用にストックされた。しかし激しいアクションに車体をさらしながら、それらすべてを完璧な状態に保って返却せねばならなかったので、プロップマスターは相当神経を使ったという。また救急車の内装は病院同様に白が基調となっており、俳優のライティングが通常のカーアクションよりも難しかった。この問題を解決するため、照明や機器、そしてライトアップスイッチも追加され、こうして大幅に加工した内装も元に戻さねばならなかったのだ。 大破壊のための、細心に支えられた創造心。「ベイヘム」とは、この矛盾を正当化させる、エスプリの宿ったワードといえるかもしれない。『アンビュランス』は、それをさらに確信させる映画となったのだ。■ 『アンビュランス』© 2022 Universal Studios. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
ロマンシング・アドベンチャー/キング・ソロモンの秘宝
若き日のシャロン・ストーンが男勝りの大活躍!スリル満載の秘境アクション・アドベンチャー
冒険ヒーローのアラン・クォーターメインが活躍するH・ライダー・ハガードの人気小説を、娯楽テイスト満点に映像化。『氷の微笑』で魔性の女としてブレイクする以前のシャロン・ストーンが初々しい魅力を放つ。
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COLUMN/コラム2024.09.20
ティム・バートンが作り上げた、今日まで連なる“アメコミ”ムービーの原点『バットマン』
長らく「子どもの読み物」と揶揄されることが多かった、“アメコミ/アメリカン・コミック”の映画化作品で、最初に大きな成功を収めたのは、リチャード・ドナー監督、クリストファー・リーヴ主演の『スーパーマン』(1978)である。 1938年に生まれた、最古参の“アメコミ”ヒーロー「スーパーマン」を大スクリーンに乗せるこのプロジェクト。脇にマーロン・ブランド、ジーン・ハックマン等々といった大物スターを配した超大作映画として製作され、世界的な大ヒットとなった。 この成功に乗じて、「スーパーマン」と並ぶ「DCコミックス」の人気ヒーロー、「バットマン」を映画化しようという動きも、早速起こる。マイケル・E・ウスランとベンジャミン・メルニカーという2人のプロデューサーが、79年に「DC」から、その権利を買い取ったのである。 当初は『スーパーマン』のシナリオを書いたトム・マンキーウィッツが雇われたが、脚本化は不調に終わる。結局「バットマン」が、実際にその雄姿をスクリーンに躍らせるまでには、それから10年もの歳月を要することになった。 81年、この企画の軸となるプロデューサーが、ピーター・グーバーとジョン・ピーターズへと移る。2人はワーナー・ブラザース映画と契約を結び、製作費1,500万㌦でこの企画を進めることとなった。この予算は83年には、倍の3,000万㌦にまで膨らむ。 そうした中で、新たな脚本家が、雇われては消え雇われては消え…。その数は10人に達したという。 また監督としては、ジョー・ダンテやアイヴァン・ライトマンなどが取り沙汰された。しかしこちらも、なかなか正式決定には至らなかった。 ティム・バートンの名が挙がったのは、長編初監督作品だった『ピーウィーの大冒険』(85/日本では劇場未公開)の成功を受けてのこと。ちょうどその次作である『ビートルジュース』(88)をワーナーの撮影所で準備中だったバートンと会った、プロデューサーのピーターズは、「バットマン」の映画化に対するバートンの情熱と考え方を聞いて、1958年生まれでまだ20代だった彼を、最有力候補とした。 “オタク”出身の代表的な監督のように言われるバートンだが、実は“アメコミ”に夢中になったことは、ほとんどなかった。そんな中で「バットマン」は、バートンが共感できる、ただ1人のコミック・ヒーローだったという。「バットマン」の主人公は、表では大富豪で著名な慈善家であるブルース・ウェインだが、裏では日々“自警活動”で悪を制裁するバットマンであるという、2つの人格を持つ複雑なキャラクター。こうした点に強く惹かれた少年時代のバートンは、アダム・ウェスト主演のTVシリーズ「怪鳥人間バットマン」(66~68)を観るために、放送日は大急ぎで学校から帰宅したという。 また80年代に刊行された、「バットマン」をシリアスでダークな存在として描く、2つのシリーズものコミックには、強く影響を受けた。フランク・ミラーの「ダークナイト・リターンズ」(86)、アラン・ムーアの「ザ・キリング・ジョーク」(88)である。 これらの作品でも描かれる通り、バートンは、ヒーローである“バットマン”と、シリーズを通じて最強のヴィランである“ジョーカー”は、「ワンセット」で、「この2人は基本的に2つのおとぎ話。光と影」であると考えた。そしてそうした解釈に基づいて、「バットマン」の“映画化”にチャレンジしようと決めたのである。 しかし39年の初登場以来、半世紀もの間、大きな人気を得てきた“アメコミ”ヒーローを映画化するには、並大抵ではない覚悟が要る。 バートンは、78年にサンディエゴで開かれたコミコンに参加した際、ショッキングな光景を目の当たりにしていた。公開前の『スーパーマン』について、雄弁に語るリチャード・ドナー監督に対し、熱狂的なファンが、「あんたたちが伝説をぶち壊しにしてるとみんなに言いふらしてやる!」と罵声を浴びせたのである。しかもそれに対し、場内は割れんばかりの拍手喝采で沸きあがった。 そんな体験もあって、「バットマン」の映画化に挑むのは、イコールで「途方もない問題を抱え込むことになる」ことに、自覚的にならざるを得なかった。その上で、あくまでも自分の発想に忠実な映画を作ろうという、決意を固めたのであった。 バートンは、それまでに書かれたシナリオはすべて却下し、ジェリー・ヒックソンによる31頁の準備稿に基づいた新たなシナリオの執筆を、サム・ハムに依頼。『ビートルジュース』製作中にも拘わらず、週末にはハムと会って、脚本についての話し合いを進めたという。 しかしながらこの時点ではまだ、ティム・バートンを監督に据えることに、ワーナー・ブラザースは正式にはOKを出してしていなかった。88年3月、『ビートルジュース』が公開され、予想を超える大ヒットとなった時点で、ようやくGOサインとなったのである。 そしてその年の暮れ、本作『バットマン』(89)は、クランクイン。メインの撮影地は、イギリスのパインウッド・スタジオで、その95エーカーの用地と18のサウンドステージを駆使して、舞台となるゴッサム・シティが建造された。製作費は、3,500万㌦となっていた。 ***** 暴力がはびこる大都市ゴッサム・シティ。しかしこの街のギャングたちの間で、ある噂が囁かれていた。犯罪現場には巨大な蝙蝠の装いをした“バットマン”が現れ、犯罪者たちに制裁を加えては去っていくと…。 その噂を信じて取材を続ける新聞記者ノックスと女性カメラマンのヴィッキー・ベールは、調査の過程で大富豪のブルース・ウェインと出会う。ヴィッキーは謎めいたウェインの佇まいに惹かれるが、孤独な影を持つウェインは、彼女になかなか心を開けない。ヴィッキーが追う“バットマン”の正体が自分であることも、もちろん明かせなかった。 一方でゴッサムの裏社会を仕切るグリソムの右腕ジャック・ネーピアは、ボスの愛人に手を出したことがバレて、罠にハメられる。化学工場で警官隊に追い詰められたジャックの前に、“バットマン”が出現。ジャックは“バットマン”を拳銃で撃つが、強力なバットスーツに跳ね返され、逆に化学薬品のタンクへと突き落とされる。 警察の手を免れて、逃げおおせたジャック。しかし化学薬品の作用で肌は真っ白となり、顔面は極端に引きつった笑い顔に固定され、まるでトランプのジョーカーのようになってしまう。 ジャックは、自ら“ジョーカー”を名乗る。そして、グリソムをはじめ、暗黒街の大物を、次々と血祭りに上げる。 “ジョーカー”は恐るべき犯罪で街を支配。「市政200年記念祭」を乗っ取り “バットマン”に果たし状を叩きつける。ウェインは、“ジョーカー”との過去の因縁に気付き、復讐心を燃やしながら、対決に臨む…。 ***** “バットマン”役の候補となったのは、チャーリー・シーンやメル・ギブソン、ピアース・ブロスナンなど。しかしバートンは、いかにも“ヒーロー”然とした俳優を起用する気は、端からなかった。 “バットマン”が、例えばアーノルド・シュワルツェネッガーのような体格だったとしたら、それを隠すためのスーツなど着る必要はあるまい。バットスーツは、身体を保護するだけでなく、心を守る鎧でもある。そしてその外見に隠された、“人間性”を表せる俳優を求めた。 バートンが最初に思いついたのは、ビル・マーレイ。しかしプロデューサーのピーターズから、別の俳優を提案されると、即座にそちらに切り替えた。それは前作『ビートルジュース』で組んだばかりの、マイケル・キートンだった。 キートンならば、“バットマン”のマスクから覗く眼で、“狂気”を表現してくれるに違いない!彼の身長が175㌢で、筋骨隆々とは遠かったのも、ポイントが高かった。 しかし『ビートルジュース』以前は、『ラブ IN ニューヨーク』(82)や『ミスター・マム』(83)などで“コメディアン”としての印象が強かったキートンの抜擢には、ある意味想定通りのリアクションが起こった。従来の「バットマン」ファンから、ブーイングの嵐が寄せられたのだ。 キートンは原作のようにはアゴが尖ってない上、頭髪も薄いし背も高くない。コミックに引っ掛けて、これこそ究極の「キリング・ジョーク」だなどと嘲られ、抗議の手紙が5万通以上も届いたという。 一方“ジョーカー”役には、クリスチャン・スレイター、デヴィッド・ボウイ、ウィレム・デフォー、ロビン・ウィリアムズなどの名も挙がったが、ジャック・ニコルソンこそ“ジョーカー”に相応しいという声が、当初から高かった。スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』(80)で彼が演じた、狂気に陥る主人公とイメージが重なるのも、大きかったと見られる。実際バートンも、ニコルソン以外の“ジョーカー”を考えたことはなかったという。 ニコルソンのギャラは、製作費の6分の1以上を占める600万㌦に加えて、興行収入からの歩合。その上で、仕事時間を自分で決められるという条件付きだった。 監督のバートンを何よりも悩ませたのが、クランク・イン直前になっても出来上がらない、“脚本”だった。固まってないシークセンスが山のようにある中で、ワーナーが土壇場で脚本を書き直すと決定。エンディングは、何度もリライトされることとなった。 因みに脚本の初期段階では、コミックやTVシリーズではお馴染みの、バットマンの相棒ロビンも登場したという。配役としては、エディ・マーフィが候補だったというが、混乱の中でいつしかその存在は消えていった。 撮影開始2日前に、ヴィッキー・ベール役に決まっていたショーン・ヤングが、落馬して鎖骨を折り、出演不能になった。そこで急遽、代役としてキム・ベイシンガーがキャスティングされた(ショーン・ヤングは本作の続編『バットマン リターンズ』(92)で、ヴィランの“キャットウーマン”役を巡ってトラブルを起こすのだが、それはまた別の話)。 クランクイン後にバートンを大混乱に陥れたのは、何と、プロデューサーのジョン・ピーターズだった。撮影現場を訪れては、勝手に脚本の改訂やスタッフの解雇を繰り返すという暴挙に出たのである。 本作クライマックスで、“ジョーカー”はヴィッキー・ベールを人質に取って、鐘楼を上がっていく。この撮影の際ニコルソンがバートンに、「どうして私は階段を上がらなければならないんだ?」と尋ねる一幕があった。それに対してバートンは、「どうしてかな…。とにかく上がってくれ。そこで話し合おう」としか答えられなかったという。 とはいえニコルソンは、バートンに対して寛大な態度を守った。撮影中は、「君の必要としているもの、望んでるものを手に入れろ。そしてただ進み続けるんだ」と、励まし続けた。稀代の名優ニコルソンが、毎日2時間のメイク時間を経て現場に臨むと、6回の演技で6通りの異常者を演じてみせた。バートンはニコルソンに対し、リスペクトの念を強く抱いた。 ・『バットマン』撮影中のティム・バートン監督(左)とジャック・ニコルソン(右) マイケル・キートンに対しては先に記した通り、外部からのプレッシャーが大きかったが、それとは別の意味で、現場では悪戦苦闘の連続だった。基本的に彼は即興的な演技を得意としてきたのに、内向的な役柄とバットスーツで、それらを封印せざるを得なかったからだ。しかもシナリオが絶えず書き換えられ、撮影現場のムードは、ただただ重苦しかったという。「孤独」を強く感じたというキートンは、結果的にそれが“バットマン=ブルース・ウェイン”というキャラを演じる上で「幸いした」と後に述懐している。しかし撮影中はそんな考えに至るわけもなく、何とか眠れるように、「へとへとになるまで夜のロンドンを走った」のだという。 こうしたバートンやキートンの“悪戦苦闘”は、89年6月に本作が公開になると、空前の大ヒットという形で報われた。アメリカでの興収は10日間で1億㌦を超えた初めての映画となり、最終的な興行成績も、当時としては史上5番目にまで達した。 この作品以降、“アメコミ”出身のキャラクターでも、その性格を“人間ドラマ”として重層的に描くことが、「当たり前」となった。その流れは、それから35年経って、“アメコミ”映画が隆盛を極める今日まで続く。 さてバートンはと言うと、映画会社が当然のように望んだ、本作の続編にすぐに取り掛かることはなかった。大ヒットこそしたものの、自分の思い通りにいかなかった本作の内容に、大きな不満が残ったからである。 結局バートンが再びマイケル・キートンを主役に、『バットマン リターンズ』に臨んだのは、本作の3年後。その際は本作の体験に懲りて、要らぬ口出しをハネつけられるように、自ら製作にも当たった。そしてその後は多くの監督作品で、プロデューサーを兼ねるようになったのである。■ 『バットマン』BATMAN and all related characters and elements are TM and © of DC Comics. © 1989 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
キング・ソロモンの秘宝2/幻の黄金都市を求めて
英国の冒険家アラン・クォーターメインの活躍を描くノンストップ・アドベンチャー・シリーズ第二弾!
英冒険小説家ヘンリー・ライダー・ハガードの代表作「ソロモン王の洞窟」に登場するアラン・クォーターメインは、幾度となく実写化されている英国冒険ヒーロー。前作で恋に落ちたジェシーとのその後を描く。
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COLUMN/コラム2024.09.06
主役は神に遣わされた“名無しの男”。イーストウッド1980年代唯一の西部劇『ペイルライダー』
「私たちのオリジナルと呼べるようなアメリカ固有の芸術形式はほとんどないと言っていい。たいていはヨーロッパから来たものばかりだ。わずかに例外と言えるのが西部劇とジャズまたはブルースだ」 これは1985年、本作『ペイルライダー』公開を前に、インタビューに応えた際の、クリント・イーストウッドの言。ヨーロッパ文化へのリスペクトと同時に、TVの西部劇シリーズ「ローハイド」(1959~65)で注目を集める存在となり、セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』(64)『夕陽のガンマン』(65)『続・夕陽のガンマン』(66)の“ドル箱3部作”を機に、“映画スター”の座に就いたイーストウッドの、“自負心”が伝わってくる。『ペイルライダー』は、イーストウッドにとっては、『アウトロー』(76)以来9年振りの西部劇にして、11本目の監督作品。そして結果的には、彼が80年代に撮った、唯一の西部劇となった。 この企画は、『アウトロー』公開から間を置かない、1977年頃から始まっていた。発案は、イーストウッドが監督・主演した刑事アクション『ガントレット』(77)の脚本を書いた、マイケル・バトラーとデニス・シュリアック。日頃から「西部劇が好き」と言っていたこの2人と、イーストウッドはネタ出しを行うことにした。 そのプロセスで、脚本家2人がゴールドラッシュの時代について調査を進めると、鉱夫たちと強力な独占企業の間で対立があったことがわかった。そしてこの事実を手がかりに、本作の前身となる、最初の脚本ができたのだという。 しかしこの企画は暫し、引出しの中で眠ることになる。当時イーストウッド付きだったプロデューサーのフリッツ・マーネイズ曰く、「…ウエスタンに客が入らない時代だし、これより凄いウエスタンが現れて、先を越される心配もなかったから、少し様子を見ようということになった…」。 そうこうする内に1980年、ハリウッドを震撼させる“大事件”が起きる。騒動の主役は、かつてイーストウッド主演の『サンダーボルト』(74)で監督デビュー後、『ディア・ハンター』(78)でアカデミー賞作品賞・監督賞を獲得したマイケル・チミノ。彼が鳴り物入りで完成させた超大作西部劇『天国の門』(80)が、大コケ。製作したユナイテッド・アーティスツが、経営危機に追い込まれてしまったのである。 新たな西部劇を作るタイミングは、益々遠のく。しかし1984年になって、ある晴れた日、イーストウッドはふと思った。「西部劇が見たいな」と。 イーストウッドの作る映画のすべてには、共通する規則があるという。それは、「自分がスクリーンで見たいと思ったものを作る」ということだった。また、すごく魅力的に思える脚本があって、テーマがはっきりと掴めている場合、「他の人にそれを説明するのがめんどう」だと、彼は迷わず自らが監督することを決めるのだという。「機を見るに敏」という言葉があるが、イーストウッドの場合は、「機を待つに敏」とでも言うべきか?彼は眠っていた脚本を引っ張り出して、本作『ペイルライダー』の映画化に取り掛かった。 ***** ゴールド・ラッシュ時代のカリフォルニア、カーボン峡谷。鉱夫たちとその家族が居を構え、金の採掘に挑んでいるが、周辺一帯を仕切り、この峡谷の採掘権も得ようとするラフッド(演:リチャード・ダイサート)の一派の嫌がらせが続いている。 15歳の少女ミーガン(演:シドニー・ペニー)は、母のサラ(演:キャリー・スノッドグレス)と暮らしていたが、ラフッドの手下に愛犬を撃ち殺されてしまう。神に祈りを捧げ、救いを願うミーガン…。 峡谷のリーダー的存在であるハル(演: マイケル・モリアーティ)は、町に物資の調達に出向いた際、ラフッドの手下たちに、襲われる。しかしその場に、見知らぬよそ者の男(演:クリント・イーストウッド)が現れ、鮮やかな手際で、手下たちを叩きのめす。危機を救われたハルは、白馬に乗って去ろうとする男を、自分たちの集落へと誘う。 ミーガンはその男を、“神の使い”だと直感する。ならず者と夕食を共にしたくないと反発したサラも、男が牧師=プリーチャーの服装をしているのを見て、態度を一変する。 “プリーチャー”と呼ばれるようになった男は、お礼参りにやってきた、ラフッドの息子ジョッシュ(演:クリストファー・ペン)と、連れの大男(演:リチャード・ギール)も、軽く一蹴。集落から頼りにされる存在となる。 プリーチャーを懐柔し、集落を買収しようとしたラフッドだったが、交渉は決裂。連邦保安官を務めながら悪名高い、ストックバーン(演:ジョン・ラッセル)とその副官たちを呼び寄せ、一気に蹴りをつけようとする。 ストックバーンの名を聞いて表情をこわばらせたプリーチャーは、一旦峡谷から姿を消す。そして拳銃を携えて、戻ってくる…。 ***** “ドル箱3部作”で演じた“名無しの男”以来、イーストウッドの十八番とも言える、一匹狼の流れ者。本作でもヒゲをたくわえ、目を鋭く光らせるという、お馴染みのスタイルである。 しかし先に記した“ネタ出し“に於いて、聖書の話との対比を広げてゆく内に、イーストウッドの意向として、「…超自然的側面を少しばかり強調してしまうことになった」という。 少女ミーガンが、救いを求める祈りとして暗唱するのは、聖書の中の黙示録第4章。 ~そこで見ていると、見よ、蒼白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者(ペイルライダー)の名は“死”と言い、それに黄泉が従っていた~ イーストウッド曰く、それは「…一種の大天使、神話的人物…」。そして彼が演じる“プリーチャー”は、白い馬に乗って現れることとなった。 “プリーチャー”が着替える際、ハルがその背中に、6つの弾痕があるのを目撃する。イーストウッドは脚本家たちに“プリーチャー”が、「敵役の保安官と過去に関わりがあったようにする方がいい」との示唆もした。それによって“プリーチャー”のキャラクターに奥行が出て、黙示録の騎士というイメージにもぴったり合うという考えだった。 以前から、聖書の話の神話性と西部劇のつながりに、「興味があった」というイーストウッド。本作にそうした側面を盛り込むことによって、今まで沢山の西部劇を観てきた観客が、本作は「一味違う」と感じることを望んだ。その一方でそうした観客が好む、「ノスタルジックなところ」も併せ持つようにすることも忘れなかった。 流れ者が、世話になった一家を救い、殺し屋たちを倒して去って行くストーリーの構造。これはまさに、ジョージ・スティーヴンス監督、アラン・ラッド主演の名作西部劇『シェーン』(53)へのオマージュと言える。 本作のキャスティングで特徴的、というかイーストウッドらしいのは、“プリーチャー”の出現を好ましく思わなかったのに、やがて愛してしまうサラ役に、キャリー・スノッドグレスを起用したこと。イーストウッド曰く、「ジェシカ・ラングやサリー・フィールドやシシー・スパイセクだけが女優じゃない。彼女たちに負けないぐらい才能がある女優が、そこいら中にいる」 本作から40年近く経った今となってはピンと来ないかも知れないが、要はハリウッドが、「今いちばん人気がある俳優ばかり追い回している」ことへの批判である。スノッドグレスのような、「名前を知られていなくても腕のある俳優」を起用するのが、イーストウッド流というわけである。 因みに本作に起用されたことに小躍りしたのは、悪役であるラフッドの息子を演じた、クリストファー・ペン。ショーン・ペンの弟で、当時売り出し中の若手俳優だったが、子どもの頃から西部劇に出たいと思っていた彼にとって、出演作を全部観るほどファンだったイーストウッドとの共演は、まさに夢の実現。憧れの西部劇ヒーローである“名無しの男”に対し、「この町を出ていけ」というセリフを吐くのは、至福の体験だったのである。 撮影は、1984年9月にスタート。アイダホ州サンヴァレーを中心にロケ撮影を行い、イーストウッド流早撮りで、40日足らずでクランク・アップとなった。 80年代中盤は、映画作家としてのイーストウッドの評価が、フランスなどヨーロッパで高いものになりつつあった頃。本作は85年の「カンヌ国際映画祭」の“監督週間”に出品され、大評判となった。『ペイルライダー』は、やはりイーストウッドの監督・主演作である『荒野のストレンジャー』(73)と表裏一体の作品という解釈が、広く為された。『荒野の…』主人公が、死霊≒悪魔を象徴するキャラクターであるのに対し、本作の“プリーチャー”は、神に遣わされた復讐者ということからである。 本国アメリカでは、その年の6月に公開。10日間で2,150万㌦を売り上げ、最終的には興収4,000万㌦を突破する大ヒットとなった。 実は本作に取り掛かる頃、イーストウッドの元には、もう1本西部劇の脚本が届いていた。その中味を気に入ったイーストウッドは、映画化権を取得したが、『ペイルライダー』の製作を優先したため、そちらは一旦ペンディングとなった。 それが日の目を見たのは、7年後の92年。それまで無縁だった、アカデミー賞の作品賞・監督賞をイーストウッドにもたらした、『許されざる者』である。1930年生まれの彼がその主役、足を洗った老齢のガンマンを演じるのに適した、60代になってからの映画化だった。 イーストウッドはまさに、「機を待つに敏」な男である。■ 『ペイルライダー』© Warner Bros. Entertainment Inc.