ストップモーション・アニメとは静止した粘土、紙、布などで作られた被写体をヒトコマずつ動かしながら撮影し、それが連続的に動いているように映し出す技法である。映画草創期から培われてきたこの伝統的な特殊効果の技法は、『ジュラシック・パーク』以降の実写の劇映画においてはすっかりCGに取って代わられたが、今なおその独特のアナログな動きや質感を生かしたアニメ作品が作られ続けている。世界中で愛されている『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』『ウォレスとグルミット』『チェブラーシカ』などがこの分野の代表作で、『コララインとボタンの魔女 3D』のライカ・エンタテインメント製作による『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』が話題を呼んだことも記憶に新しい。『ファンタスティックMr.FOX』でストップモーション・アニメへの偏愛ぶりを示したウェス・アンダーソン監督が、日本の架空の街を舞台にした最新作『犬ヶ島』の公開(2018年春)も楽しみだ。


 
 アカデミー賞長編アニメ賞にノミネートされ、セザール賞、ヨーロッパ映画賞ほか数々の賞に輝いた『ぼくの名前はズッキーニ』は、スイス出身のクロード・バラス監督がフランスとの合作で完成させた長編デビュー作だ。主人公は絵を描くのが得意で、屋根裏部屋に暮らしている9歳の少年イカール。片時もビール缶を手放さない母親から“ズッキーニ”という愛称を授かった彼は、母親の不慮の死の現場に居合わせた罪悪感を引きずったまま、孤児院のフォンテーヌ園に身を寄せることになる。そこにはアラブ系やアフリカ系を含む外見も性格もさまざまな5人の少年少女がいて、のちに魔女のように恐ろしい叔母さんのもとを逃れてきた女の子カミーユも転がり込んでくる。親による育児放棄や虐待の被害者である彼らはそれぞれ残酷な事情を抱えているが、優しい園長や先生たちのもとでのびのびと毎日を過ごしている。これはそんな新たな仲間たちと心を通わせ、初めての恋も経験するズッキーニの成長物語だ。



  場面写真をご覧の通り、大きな頭、まん丸の目、色とりどりの髪の毛が際立つ本作のキャラクターは、アニメならではの可愛いデフォルメが施されている。彼らはパペットと呼ばれる人形だが、ストップモーション・アニメの魔法によって命を吹き込まれ、ささいな表情の変化や仕種から豊かな感情があふれ出す。例えば、パパから性的虐待を受けたトラウマを負っている少女アリスは、ブロンド(というか、ほとんど黄色の)長い前髪でいつも顔の半分を隠しており、滅多に言葉を発しない。気持ちがテンパってしまうとフォークでテーブルを叩く癖があり、いかにも神経過敏で危なっかしい。こうしたキャラクターの悲劇性をことさら強調せず、コミカルかつキュートに、それでいて切実に表現している点にバラス監督のセンスがうかがえよう。観ているこちらが特段気にかけずとも、ズッキーニ、カミーユ、シモン、アリス、アメッド、ジュジュブ、ベアトリスという全7人の子供たちの個性が自然と伝わってくる描写の確かさに感心させられる。


 
 過去に“心のときめきを感じた映画”として、ヌーヴェルバーグの名作『大人は判ってくれない』を挙げるバラス監督のコメントが興味深い。「現代の映画の中では、児童養護施設は虐待の場であり、自由は外にあると描かれていることが多い。『ぼくの名前はズッキーニ』ではそのパターンを反転させて、虐待は外の世界で行われ、施設は治癒と再生の場になっています」。実際、本作にはズッキーニと仲間たちが先生に連れられてスキー場に繰り出すエピソードもあるが、ストーリーの大半は孤児院の中で展開していく。自分をいじめるかもしれない悪ガキやなぜか胸が高鳴ってしまう少女との出会いは、内気なズッキーニにとってはそれ自体がささやかな冒険だ。そうした9歳の少年の心の揺らめきを丹念にすくい取ろうとしたこの映画には、アニメらしい壮大なアドベンチャーも奇想天外なファンタジーもない。登場人物はハリウッドのCGアニメのようにセリフを早口でまくし立てることもなければ、派手にせわしなく動き回ることもない。いわばリアリティに根ざした現代のおとぎ話だ。


キャラクターの感情と共鳴する光と影、静寂の間合い
その繊細な演出に裏打ちされた切なくも愛おしい現代のおとぎ話
 

 ストップモーション・アニメの素朴さには観る者を童心に返らせ、ピュアな感情を喚起する作用があり、日本のわびさびにも通じる詩的な情緒がある。また、パペットをミニチュアのセットに配置して撮影を行うストップモーション・アニメは、その意味において“実写”とも言えるわけで、照明という本物の“光”と物陰に生じる“影”のコントラストに現実感がある。バラス監督はこれらの特徴を積極的に演出に取り入れ、このうえなく繊細にして多様なニュアンスに富んだ映像世界を創出している。



 例えば、劇中にはセリフや音楽が途絶えた静寂の瞬間がいくつもあり、シーンが替わる直前には登場人物が風景や部屋の中にぽつんと佇んでいるだけの引きのショットがしばしば挿入される。その宙ぶらりんな沈黙の間合いはズッキーニらの内面と共鳴し、この世で独りぼっちになったような寂しさ、どこにも居場所を見つけられない不安がさりげなく表現される。スキー場ではフォンテーヌ園の7人が仲睦まじい母子の触れ合いを目の当たりにして、もともと丸い目をいっそうキョトンとさせて立ち尽くすショットがあるが、そこでの無言の“キョトン”からは憧れや喪失といった複雑な感情が読み取れる。わずか60分余りの本編にそんな胸打たれる瞬間がいくつもちりばめられたこの映画は、まさしく“多くを語らず、豊かに伝える”演出のポリシーを貫き通し、友情と初恋、他者への思いやりといったポジティブなテーマを描き上げた作品なのだ。

 とりわけ秀逸なのは、母親の突然死という最悪の不幸から出発し、新たな仲間との出会いによって希望を発見していくズッキーニの心の移ろいをお天気になぞらえた演出だ。この映画は太陽の手前に雲が浮かぶ“空”のショットで始まり、同じような“空”のショットで幕を閉じるが、最初と最後ではその見え方がまったく違う印象を受ける。晴れ、曇り、雨、雷という4段階で子供たちの喜怒哀楽を表現する、フォンテーヌ園の“今日の気分予報”なるユーモラスな掲示板にも注目されたし!


 そして『水の中のつぼみ』『トムボーイ』のセリーヌ・シアマ監督を脚本に迎えた本作は、大人に向けた良質な児童映画であり、時折ギョッとするセリフが盛り込まれている。なかでも「みんな同じさ。誰も愛されてないんだ」などとニヒルなことをつぶやく赤毛のシモンは、新入りのズッキーニに手荒い洗礼を浴びせるトラブルメーカーだが、実は彼こそズッキーニとカミーユの初恋物語の陰に隠れたもうひとりの主人公である。この憎まれ口を連発する悪ガキは、それなのになぜフォンテーヌ園の仲間に慕われ、ボスとして君臨しているのか。その理由はラスト直前に明らかにされる。この映画には幸せな結末が用意されているが、ありきたりなハッピーエンドではない。普段は光のあたらない場所にもそっと光をあて、喜びを慎ましく、悲しみを愛おしく見つめた、とびきり深い余韻を残すエンディングがそこにある。■

『ぼくの名前はズッキーニ』

監督:クロード・バラス
脚本:セリーヌ・シアマ
原作:ジル・パリス「ぼくの名前はズッキーニ」(DU BOOKS刊) 
原案:ジェルマーノ・ズッロ、クロード・バラス、モルガン・ナヴァロ
アニメーション監督:キム・ククレール 
人形制作:グレゴリー・ボサール
音楽:ソフィー・ハンガー
スイス・フランス/2016年/カラー/66分/ヴィスタサイズ/5.1ch/フランス語/原題:Ma vie de courgette/日本語字幕:寺尾次郎
後援:スイス大使館、在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
配給:ビターズ・エンド、ミラクルヴォイス
宣伝:ミラクルヴォイス

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