一度聞いたら忘れられないが、覚えるのも難しい奇天烈な邦題がつけられた『バーバリアン怪奇映画特殊音響効果製作所』(原題:『Berberian Sound Studio』)は、1973年イングランド・レディング出身のイギリス人監督、ピーター・ストリックランドの長編第2作である。これに先立つデビュー作『Katalin Varga』(2009)はベルリン国際映画祭、ヨーロッパ映画賞ほかで賞に輝いたが、日本では劇場未公開となり、DVD化もされていない。

 イギリスとルーマニアの合作映画『Katalin Varga』をひとたび観れば、ストリックランドがただ者ではないことはすぐわかる。舞台となるのはルーマニアのトランシルヴァニア地方で、主人公の美しい女性カタリン・ヴァルガが幼い息子を伴って馬車に乗り、辺境の村から村へと旅する姿が綴られていく。カタリンの目的は、かつて自分の体を弄んだ憎き男たちへの復讐を成し遂げること。カルパチア山脈の雄大さと神秘性、そして時折画面に立ちこめる不穏な気配が、このうえなく繊細な撮影と音響設計によって表現される。物語の骨子はいわゆる“レイプ・リベンジ”ものの一種と言えるが、そんなものはあってないかのように積極的にストーリーラインを逸脱し、詩的なざわめきを映画に吹き込むストリックランド監督の独特の感性がこの禍々しいロードムービーをアートの域に高めており、筆者は「観たことのないような映画を観た」との強烈な印象を受けた。

 ストリックランドがその3年後に発表した『バーバリアン~』(2012)は、ルーマニアでオールロケを敢行した『Katalin Varga』とはまったく異なるヴィジュアル・ルックを持つ作品だ。舞台はイタリアの音響スタジオなのだが、撮影はすべてロンドンで行われた。なぜそんなことが可能だったかというと、この映画は風景というものがまったく映らない室内劇だからだ。

 物語は主人公のイギリス人録音技師ギルデロイ(トビー・スティーヴンス)が、異国のバーバリアン音響スタジオに到着するところから始まる。ジャンカルロ・サンティーニという風変わりなイタリア人監督に腕を見込まれ、サウンド・ミキシングを依頼されたのだ。ところがサンティーニの新作『呪われた乗馬学校』は、残虐な魔女が復活して女子生徒たちを血祭りに上げていくホラー映画で、そんなジャンルに携わった経験のないギルデロイはいきなり面食らう。高圧的な態度を連発するプロデューサー、女好きのくせに高尚なことをまくし立てるサンティーニ、いつも不機嫌な美人秘書の言動に翻弄されたギルデロイは、ろくに英語も通じない完全アウェーのスタジオ内で孤立し、極度の精神的混乱に陥っていく……。

 映画製作の現場を舞台にしたメタ映画はいくつもあるが、これはポスト・プロダクション、それも録音作業のプロセスに特化した珍しい作品だ。おまけに1970年代を背景に設定したストリックランドは、当時イタリアで一大ブームを巻き起こしたジャーロ(ジャッロとも呼ばれる)映画にオマージュを捧げている。ジャーロとはトリッキーなプロットや殺人描写、女優のセクシュアルな魅力などを売り物にしたイタリア製クライム・ミステリーのこと。ジャーロ映画にはしばしば黒革の手袋で凶器を握り締めた殺人鬼が登場するが、『バーバリアン~』ではスタジオのフィルム映写技師が黒革の手袋をはめている。ただし劇中劇の『呪われた乗馬学校』は典型的なジャーロではないオカルト・ホラーなので、ストリックランド監督はマリオ・バーヴァの『血ぬられた墓標』やダリオ・アルジェントの『サスペリア』あたりをイメージしたのだろう。

 スタジオ内には次々と大量の野菜が運び込まれてくる。スタッフはスイカやキャベツを刃物でザクッザクッと切り刻み、瓜をグシャッと床に叩きつける。それは殺害シーンの効果音だ。マイクブースにこもった女優たちは断末魔の絶叫を放ち、魔女の呻き声をしぼり出す。『呪われた乗馬学校』の映像は一切映らないが、観客はこれらの効果音やアフレコの創作過程を通して視覚と聴覚を刺激され、いかなる血まみれの光景がスタジオ内に照射されているのかを否応なく想像させられる。単にジャーロの様式を現代に甦らせるだけでなく、物理的な手段によって架空の恐怖=フィクションが生み出され、その過剰に増幅するフィクションが主人公の現実をのみ込んでいく様を描いているところに、ストリックランド監督の並々ならぬ才気が感じられる。オープンリールのレコーダーなどのアナログな機材や小道具をずらりと揃えたプロダクション・デザインへのこだわりに加え、極めて優れた撮影、編集、音響のテクニックも凄まじい。これまた『Katalin Varga』とは別のベクトルで“観たことのない”圧倒的なオリジナリティがほとばしる異常心理劇に仕上がっているのだ。

 新進のフィルムメーカーがどのようなテーマやスタイルを好んで志向するのかは2本観ればたいてい察しがつくものだが、『Katalin Varga』と『バーバリアン~』を観てもストリックランドという監督は謎が深まるばかりである。というわけで、絶好のタイミングでイギリスから届いた彼の長編第3作『The Duke of Burgundy』(2015)をブルーレイで鑑賞してみたが、またもや驚嘆させられた。

 人里離れた森の洋館を舞台にしたこの最新作は、昆虫学者の女主人と若いメイドの倒錯的な関係を描いた女性同士のラブ・ストーリーだったのだ! 今度はイギリスとハンガリーの合作で、ロケ地はオール・ハンガリー。主演女優は『バーバリアン~』にも出演しているイタリア人のキアラ・ダンナと、『アフター・ウェディング』やTVシリーズ「コペンハーゲン/首相の決断」で知られるデンマーク人、シセ・バベット・クヌッセンという無国籍的な取り合わせ。1970年代のヨーロピアン・エロス映画を彷彿とさせる魅惑的なデザインにフォークバラードが流れるメインタイトルに続き、無数の蝶の標本に彩られた密室内の秘めやかなSM恋愛劇が耽美的かつフェティッシュな映像美で紡がれていく。『バーバリアン~』に通じる濃厚な夢幻性や毒々しいユーモアに加え、ヒロインたちの危うい愛のかたち、そこに生じる痛みや妄執をエモーショナルに物語ってみせたストリックランドの新たな試みに、筆者は鑑賞中に絶え間なく興奮し、わけのわからない感動にさえ襲われた。日本でも“需要”が見込まれそうな作品なので、おそらく配給会社が放っておかないだろう。

 筆者にとってピーター・ストリックランドという監督は3本観ても未だ謎だらけだが、世界中を見渡しても稀なほど特異な才能の持ち主であることは断言できる。まずは、これまでに唯一日本に紹介された『バーバリアン~』で、めくるめく恐怖と官能が渦巻く世界に浸ってほしい。■

©Channel Four Television/UK Film Council/Illuminations Films Limited/Warp X Limited 2012