シネマ解放区 シネマ解放区

「シネマ解放区」ラインナップのうち、ザ・シネマが独自の視点で特に推薦する“お宝作品”について、他では見れないプロによる解説や評論をつけたスペシャルコラムを毎月連載中!

史実に忠実な局地戦映画『ズール戦争』は歴史的大傑作!

高橋ターヤン

 1800年代初頭に南アフリカに進出したイギリス帝国。先行して入植していたボーア人(オランダ系の植民者)はイギリス帝国の支配を嫌い、新たな入植地を求めてグレート・トレックと称される北上を開始した。そこには強大な戦力を誇るズールー王国が存在し、ボーア人たちとの血で血を洗う抗争を展開。1835年、ボーア人はブラッド・リバーの戦いでズールー族に勝利を収めると、この地にナタール共和国を建国した。しかしこのナタール王国もボーア人の独立を快く思わないイギリス帝国の侵攻によって、わずか4年という短い期間で崩壊してしまう。  その頃、ズールー王国ではボーア人に敗れたディンガネ国王は威信を失って失脚。後継のムパンデ国王の息子2人が後継の座を争って対立し、この内乱に勝利したセテワヨが国王に即位した。セテワヨは軍制を再編し、マスケット銃(先詰式の滑腔式歩兵銃)を装備した小銃部隊を編成するなど、軍の近代化を推進。これは拡大を続けるイギリス帝国を迎え撃つ準備であった。  セテワヨ自身はイギリス帝国との関係を良好に保とうとしていたが、イギリス帝国の原住民問題担当長官のシェプストンが高等弁務官フレアに対し、ズールー王国はイギリス帝国のアフリカ覇権最大の障害であることを報告。南アフリカ軍最高司令官のチェルムスフォード中将もこの意見に同意し、南アフリカのイギリス軍は着々とズールーとの戦争の準備を行うことになる。  1878年、高等弁務官のフレアは2人のズールー兵がイギリス領の女性と駆け落ちして越境したことを口実に、ズールー王国に対して多額の賠償を請求。ズールー王国がこれを拒否すると、フレアはズールー王国側に最後通牒を提示。13か条に及ぶこの最後通牒は、ズールー王国側が絶対に飲めない条件を列挙したものであり、ズールー王国のセテワヨ王はこれに対する明確な回答をせずにいた。  1879年1月、チェルムスフォードはヨーロッパ兵とアフリカ兵からなる17,100名の部隊を率いて、ズールー王国へと侵入を開始。迎え撃つズールー軍は4万の兵力。軍の近代化・火力化は未完だったが、イギリス帝国軍を上回る兵力と、圧倒的な士気の高さ、そして地の利を活かした機動力を持つ強力な部隊であった。  実戦経験の少ないチェルムスフォード中将は、部隊を複数に分割。そのため個々の部隊の兵力は手薄となり、第三縦隊1,700名はイサンドルワナに野営地を構築。そこに突如現れた約2万人のズールー軍が突撃を敢行し、“猛牛の角”と呼ばれる連続突撃戦術によってイギリス軍を全滅させてしまう。イサンドルワナの戦いはズールー軍の精強さをいかんなく発揮した戦いであり、ズールーの名を世界に轟かせることになったエポックな勝利であった。  前置きが長くなったが、ここからが今回ご紹介する『ズール戦争』(64年)の舞台となるロルクズ・クリフトの戦いが始まることになる。  1月22日にイサンドルワナの戦いでイギリス軍を撃破したズールー軍は、翌23日未明に約4,000人の部隊をイサンドルワナから15km離れたロルクズ・クリフトにある伝道所跡に駐屯するイギリス軍守備隊に突撃させた。イサンドルワナの敗戦を聞いたアフリカ兵が逃亡してしまい、ロルクズ・クリフトの守備隊の人数はわずか139人。30倍以上の敵軍に囲まれ、ろくな防御設備も無いロルクズ・クリフトの守備隊だったが、新任将校のチャード中尉指揮の下でズールー軍の猛烈な突撃を何度も撃退することに成功。イサンドルワナから退却してきたチェルムスフォードの本隊が接近したことから、2日間昼夜に渡る波状攻撃を繰り返していたズールー軍はようやく撤退した。ロルクズ・クリフトの戦いでイギリス人は27人が死傷。対するズールー軍は351人が戦死した。  このロルクズ・クリフトの戦いを描く『ズール戦争』は、監督のサイ・エンドフィールドがロルクズ・クリフトの戦いに関する記事を読み、インスピレーションを受けたことから始まる。エンドフィールドはこの映画の企画を友人で俳優のスタンリー・ベイカーに持ち込み、ベイカーはプロデューサーとして資金調達を実施。最低限の資金が集まると、早速映画製作を開始した。  集まった制作費はわずか172万ドル(メイキングでは見栄を張っているのか、260万ドルと称している)。そこでエンドフィールドは友人の俳優とスタッフを集めて制作費を抑え、さらにセット構築費を削減するために南アフリカでのオールロケーションを実施した。現地ではズールー族の協力を得て、1,000人以上のエキストラが参加。演技初体験のズールー族とのコミュニケーションをとるために、スタッフとキャストは積極的にズールー族とコミュニケーションを取る努力を行っている。しかし当時の南アフリカではアパルトヘイト法が存在しており、本作の脚本がズールー族を勇敢で敬意を受けるに足る存在として描いていることもあり、南アフリカの公安が撮影クルーの監視を行っている中での撮影となった。  『ズール戦争』は公開されるや興行収入は800万ドル、イギリス市場では過去最大級の記録的な大ヒット作品となった(映画の舞台となった南アフリカでは、映画に参加した一部のエキストラ以外の黒人はながらく観ることの出来ない映画となっていた)。本作はイギリス人の琴線に触れる作品となっており、毎年年末年始にTVで放映されるという『忠臣蔵』のような定番映画となっている。  本作の素晴らしさは、まず映画をロルクズ・クリフトの戦いのみを描いたことであろう。ズールー戦争全体を描けば、イギリス帝国の侵略戦争、黒人差別、虐殺といったセンシティブなキーワードに触れざるをえず、価値観が目まぐるしく変わる現代においては観る者によって評価を大きく変えてしまうポイントとなる。しかし本作では、どちらが正義でどちらが悪という描き方ではなく、純粋にひとつの戦いを史実に沿って描く作品とし、余計なものを極力そぎ落としている点が、後世でも高い評価を受けている大きな要因だろう。  また驚くべきことに1960年代の脚本にも関わらず、ズールー族を野蛮な原住民ではなく、特殊な美意識を持った尊敬すべき集団として描いている点も注目。逆にイギリス軍側は、侵略者でも犠牲者でもなく、絶望的な状況に放り込まれたごく普通の青年たちとして描くことで普遍性をゲットすることに成功している(フック二等兵の描き方には子孫からのクレームもあったが)。  また史実を忠実に再現し、緊急の防御陣地設営、長篠の戦いよろしくマルティニ・ヘンリー銃(5秒に1発射撃可能)での三段射撃で間断なく制圧射撃を繰り返す様子や、ズールー族側の“猛牛の角”作戦など、緻密なリサーチが行われたことが映画の端々から感じられ、マニアックな視点でも信頼性が非常に高い作品となっている。  他にも予算不足に起因したオールロケーションも、結果的には大成功。アフリカの広大な風景はセットやマットペイントでは決して再現できなかったであろう。音楽を担当したジョン・バリーも流石のお仕事だ。  そして本作で存在感を示したのは、準主役のマイケル・ケイン。ながらく下積みを続けていたケインは、オーディションの末にフック二等兵役となっていた。しかしブロムヘッド少尉役の俳優が降板し、現地入りした俳優の中で一番貴族出身将校っぽく見えるケインがブロムヘッド少尉役に抜擢。初めての大役で戸惑うケインの立ち位置と、初めての戦場で戸惑うブロムヘッドの立ち位置が見事にシンクロして高い評価をゲット。ケインは『国際諜報局』(65年)で世界的スターへと上り詰めていくことになる。  本作は英国映画協会が選ぶイギリス映画ベスト100でも、30位に入る作品。イサンドルワナの敗戦を描く『ズールー戦争』(79年)も併せて観ておきたい作品である。■ TM, ® & © 2018 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.

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ポランスキー的な“恐怖”と“倒錯”が濃厚に渦巻く悪夢的スリラーの傑作『テナント/恐怖を借りた男』

高橋諭治

■『チャイナタウン』と『テス』の狭間に撮られた日本未公開スリラー  『反撥』(65)、『ローズマリーの赤ちゃん』(68)、『チャイナタウン』(74)、『フランティック』(88)、『戦場のピアニスト』(02)、『ゴーストライター』(10)などで名高いロマン・ポランスキーは、言わずと知れたサスペンス・ジャンルの鬼才にして巨匠だが、アルフレッド・ヒッチコックのような“華麗なる”イメージとは異質のフィルムメーカーである。その一方で“倒錯的”な作風においてはヒッチコックに勝るとも劣らないポランスキーの特異な個性は、彼自身の世にも数奇な人生と重ね合わせて語られてきた。  ユダヤ系ポーランド人という出自ゆえに第二次世界大戦中の少年期に、ナチスによるユダヤ人狩りの恐怖を体験。映画監督としてハリウッドで成功を収めて間もない1969年には、妻である女優シャロン・テートをチャールズ・マンソン率いるカルト集団に惨殺された。そして1977年、少女への淫行で有罪判決を受けてヨーロッパへ脱出し、今なおアメリカから身柄引き渡しを求められている。    このように“身から出た錆”も含めて災難続きの大波乱人生を歩んできたポランスキーだが、日本でも多くの熱烈なファンを持ち、母国ポーランドでの長編デビュー作『水の中のナイフ』(62)から近作『毛皮のヴィーナス』(13)までの長編全20本は、そのほとんどが日本で劇場公開されている。妻のエマニュエル・セニエとエヴァ・グリーンをダブル主演に据えた最新作『Based on a True Story(英題)』(17)はスランプ中の女流作家とその熱狂的なファンである謎めいた美女との奇妙な関係を描いたサイコロジカルなサスペンス劇。こちらもすでに日本の配給会社が買付済みで、年内の公開が予定されている。  今回紹介する『テナント 恐怖を借りた男』(76)は、シャロン・テート惨殺のダメージから立ち直ったハードボイルド映画『チャイナタウン』と文芸映画『テス』(79)の間に撮られた心理スリラーだ。原作はローラン・トポールの小説「幻の下宿人」。『ポランスキーの欲望の館』(72)、『ポランスキーのパイレーツ』(86)と合わせ、わずか3作品しかないポランスキーの日本未公開作の1本だが、上記の2作品とは違ってなぜ劇場で封切られなかったのか理解に苦しむハイ・クオリティな出来ばえである。さらに言うなら“ポランスキー的な恐怖”を語るうえでは絶対欠かせない重要な作品なのだ。  ■極限の疎外感に根ざしたポランスキー的な“恐怖”   主人公の地味なサラリーマン、トレルコフスキーはフランスに移り住んだポーランド人。彼はパリの古めかしいアパートを借りようとするが、やけに無愛想な管理人のマダム(シェリー・ウィンタース!)に案内されたのは、前の住人である若い女性シモーヌが投身自殺を図ったいわく付きの部屋。シモーヌは現在入院中なのだが、マダムは嫌な笑みを浮かべて「まだ生きてるけど、死ぬのは時間の問題よ」などと不謹慎なことを言い放つ。やがてシモーヌは本当に死亡し、トレルコフスキーはこの部屋での新生活をスタートさせるが、次々とおぞましい出来事に見舞われていく。  トレルコフスキーがまず悩まされるのは隣人トラブルだ。会社の同僚を部屋に招いて引越祝いのパーティーを開くと、上の階の住人からの苦情を受け、下の階に住む年老いた大家からは顔を合わせるたびに「君は真面目な青年だと思ったのだが」と皮肉交じりの小言を浴びせられる。こうしてトレルフスキーは“"物音”を立てることに過敏になっていくのだが、ある日訪ねた同僚の男は深夜にステレオを大音量で鳴らし、文句を言いに来た隣人を「いつ、どんな音で聴こうが俺の勝手だ!」と逆ギレして追い返す。何たる神経の図太さ。しかし小心者のトレルコフスキーには、そんなマネなどできるはずもない。この映画は社会のルールを守り、すべてを無難にやり過ごそうとするごく平凡な常識人が言われなき非難と攻撃を受け、精神的に孤立していく過程を執拗なほど念入りに描き、カフカ的な不条理の域にまで昇華させている。  むろん“倒錯の作家”ポランスキーが紡ぐ恐怖が、ただの隣人トラブルで済むはずもない。部屋のクローゼットからは前住人シモーヌの遺品である黒地の花柄ワンピースが発見され、壁の穴にははなぜか人間の歯が埋め込まれていることに気づく。そして夜な夜な窓の外に目を移すと、向かいの建物の共同トイレに人が立っている。しかもその人物は幽霊のように生気が欠落していて、身じろぎもせずただボーッと突っ立っているのだ。ここまで記した隣人、ワンピース、歯、共同トイレの幽霊人間のエピソードはすべて、このうえなく異常な展開を見せる後半への伏線になっている。ついでに書くなら、トレルコフスキーが行きつけのカフェで煙草のゴロワーズを何度注文しても、マスターが「マルボロしかない」と返答し、頼んでもいないホット・チョコレートを差し出してくる逸話も要注意だ。生前、このカフェに通っていたシモーヌはマルボロの愛好家であり、いつもトレルコフスキーが座る席でホット・チョコレートを飲んでいたのだ!  かくしてトレルコフスキーはアパート関係者やカフェのマスターらがこっそり結託し、自分をシモーヌ同様に窓からの投身自殺へと追い込もうとしているのではないかというオブセッションに取り憑かれていく。こうした人間不信を伴う極限の疎外感こそが、まさに前述した“ポランスキー的な恐怖”の根源である。本作はそれだけにとどまらない。人間不信の被害妄想的な側面を徹底的に膨らませ、トレルコフスキーとシモーヌのアイデンティティーの一体化をまさかの“女装”によって直接的に表現しているのだ。むろん、そうした奇妙キテレツなストーリー展開はローラン・トポールの原作小説に基づいているが、グロテスクなようで怖いほどハマっている女装も含め、すべてを主演俳優でもあるポランスキー自身が演じている点が実に興味深い。  ■物語の見方がひっくり返されるポランスキー的な“倒錯”  ひょっとすると、ブラックユーモアも満載されたこの映画は、現実世界で理不尽な厄災に見舞われ続けてきたポランスキーが、自らの内なる恐怖と向き合うセラピーを兼ねた企画なのではないかという気がしてくる。そう考えると、映画の見方そのものが根底からひっくり返される。そもそも前住人が怪死を遂げた事故物件を積極的に借りたがるトレルコフスキーの行動は不可解だし、入院中のシモーヌをわざわざ見舞いに行く律儀さも不自然だ。もしやトレルコフスキーは周囲の悪意に翻弄されて悲惨な運命をたどったのではなく、言わば“安らかな自己破滅”を望んでこのアパートにやってきたのではないか。理屈では容易に納得しがたいこのような突飛な解釈が脳裏をかすめるほど、本作には“ポランスキー的な倒錯”が濃厚に渦巻いている。  寒々しくくすんだ色調の映像を手がけた撮影監督は、イングマール・ベルイマンとの長年のコラボレーションで知られるスヴェン・ニクヴィスト。カメラがアパートの窓と外壁をなめるように移動するオープニングのクレーンショットからして印象的だが、そこで最初にクレジットされるキャストはイザベル・アジャーニである。前年に狂気の悲恋映画『アデルの恋の物語』に主演して一躍脚光を浴びた彼女は、本作の撮影時21歳。まさに売り出し中の新進美人女優だったわけだが、ここで演じるのはトレルコフスキーと出会ったその夜に映画館へ繰り出し、『燃えよドラゴン』を観ながら客席で発情するという変態的なヒロインだ。  そんなアジャーニの起用法も何かとち狂っているとしか思えないが、観ているこちらの困惑などお構いなしにポランスキーの神経症的な恐怖演出は冴えに冴えている。とりわけ『世にも怪奇な物語』のフェリーニ編を想起させる“生首”の幻想ショットには、何度観てもうっとりせずにいられない。■ TM, ® & © 2018 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.

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ディザスター映画とパロディ映画、’70年代ハリウッドの2大ブームに乗っかった痛快ナンセンス・コメディ!『弾丸特急ジェット・バス』

なかざわひでゆき

 ‘60年代末から続くニューシネマを筆頭に、オカルト映画や動物パニック映画、SF映画、ディスコ映画などなど、次々と現れては消えるブームおよびムーブメントに沸いた’70年代のハリウッド業界。中でも特に強烈なインパクトを残したのがディザスター映画だ。ディザスターとはすなわち災害。地震や火災、洪水、ハリケーン、はたまたテロに事故に細菌感染など、あらゆる「災害」に見舞われた人々の決死のサバイバルを、大掛かりな特撮を駆使したスペクタクルな映像で描く。そのブームの原点は、旅客機ハイジャックを描いた『大空港』(’70)とされるが、しかしこれはスペクタクルよりも人間ドラマに重きを置くという点において、その後のジャンル作品群とは少しばかり趣が異なる。むしろ、豪華客船が真っ逆さまに転覆して沈没するパニック描写が度肝を抜いた『ポセイドン・アドベンチャー』(’72)こそ、’70年代ディザスター映画の原型でありブームの起爆剤だったと言えよう。  その後も、『タワーリング・インフェルノ』(’74)や『大地震』(’74)、『ヒンデンブルグ』(’75)などが大ヒットを記録し、『大空港』も『エアポート』シリーズとして人気コンテンツ化。スタジオ各社は手を変え品を変え様々な災害映画を世に送り出し、そのブームは映画界全体に波及していく。『ジョーズ』(’75)に代表される動物パニック映画群も、改めて振り返ればディザスター映画ブームに影響されている点が多々あるし、『オリエント急行殺人事件』(’74)に始まるアガサ・クリスティ映画シリーズも、新旧豪華オールスターを揃えたグランドホテル形式の採用という点において、ディザスター映画の人気に感化された部分はあったはずだ。  さらに、『大洪水』(’76)や『大火災』(’77)などディザスター物のテレビ映画も次々と登場し、ブームの影響はテレビ界にまでも及んだ。また、日本でも『日本沈没』(’73)や『東京湾炎上』(’74)、『新幹線大爆破』(’75)などが、ヨーロッパでも『カサンドラ・クロス』(’76)に『コンコルド』(’79)が作られた。スタジオ・システムの崩壊した’50年代半ば以降、衰退の一途をたどっていたハリウッド映画界は’70年代に華麗な復活を遂げる。その大きな原動力は一連のニューシネマ映画群だったわけだが、しかしその対極にあるようなディザスター映画群もまた、重要な一翼を担っていたことは否定できないだろう。  そんなディザスター映画ブームの真っただ中に誕生したのが、この『弾丸特急ジェットバス』(’76)。原子力エンジンで走行する巨大観光バスに爆弾が仕掛けられるという、まるで『新幹線大爆破』みたいなストーリーを軸に、当時のディザスター映画にありがちな設定の数々をパロったナンセンス・コメディだ。ディザスター映画のパロディといえば『フライングハイ』(’80)シリーズが有名だが、そのご先祖様みたいな映画だと言えよう。と、ここで思い出しておかねばならないのは、’70年代はディザスター映画ブームの時代であったと同時に、パロディ映画ブームが花開いた時代でもあったということだ。  それ以前にもユニバーサル・ホラーをネタにした『凹凸フランケンシュタインの巻』(’48)や『凹凸透明人間』(’51)、007シリーズをネタにした『007 カジノ・ロワイヤル』(’67)などのパロディ映画がポツポツと作られてはいたし、イギリスでは「Carry On」シリーズという国民的な人気コメディ映画シリーズが様々なパロディにも挑戦していた(残念ながら日本公開されたのは、スパイ映画をネタにした’64年の『00H/その時一発』くらいのもの)が、あくまでも散発的に作られるだけだった。それを大きく変えたのが喜劇王メル・ブルックスである。  西部劇ネタの『ブレージングサドル』(’74)を皮切りに、ホラー映画ネタの『ヤング・フランケンシュタイン』(’74)、サイレント映画ネタの『サイレント・ムービー』(’76)、ヒッチコック映画ネタの『新サイコ』(’78)などを次々と大ヒットさせたメル・ブルックスは、言うなればパロディ映画を人気ジャンルとして確立させた立役者だった。この流れは’80年代の『フライングハイ』シリーズや『裸の銃を持つ男』シリーズへと受け継がれ、近年も『最終絶叫計画』シリーズなどのパロディ映画群に多大な影響を及ぼし続けている。  …とまあ、そんなわけで、要するにこの『弾丸特急ジェットバス』は、ディザスター映画ブームとパロディ映画ブーム、その2つのトレンドを見事に掛け合わせた、’70年代当時としては圧倒的にタイムリーな作品だったわけだ。  物語の主な舞台となるのは、全長50メートルで重量75トン、ボウリング場や室内プール、ラウンジ・バーなども備えた、最大で180名の乗客を収容できる巨大原子力バス「サイクロプス号」。原子力エネルギーが人類の輝かしい未来を開く!とばかりに、ニューヨークからデンバーまでの大陸横断運行を華々しく行うわけだが、原子力にエネルギー市場を奪われまいとする石油業界が妨害工作を仕掛けてくる。この辺りのストーリー設定は、3.11を経験した現在の我々日本人にとって、恐らく劇場公開時よりもリアルに感じられることだろう。座席の上から飛び出してくる救命具が放射能防護服というギャグも、少なくとも当時の観客にとっては荒唐無稽だったのかもしれないが、しかし今となっては笑うに笑えないネタだ。核戦争後の世界を描いたSFパニック映画『世界が燃えつきる日』(’77)もそうだが、昔は放射能汚染に対する危機意識が今よりもずっと薄かったのである。  閑話休題。石油業界の手先によって研究所を爆破され、肝心の運転手を失ってしまった「サイクロプス号」は、開発者の娘キティ(ストッカード・チャニング)の元恋人ダン(ジョセフ・ボローニャ)を代役として迎えることに。しかしこのダンという男、優秀なバス・ドライバーなのだが、なにかと血気盛んで暴走しやすい問題児。しかも、雪山のバス遭難事故で乗客を食べて生き延びたという汚名を着せられ、裁判では無罪を勝ち取ったものの職を追われたという過去がある。まあ、本人曰く、実際は座席やマットレスを料理して食っただけ、相棒の作ったスープに乗客の片足が入っていたのを知らずに食ったことはあるが、それくらいで責められる謂れはなどない!ってことらしいですが(笑)。  そんな曰く付きの人物をキャプテンに、これまた色々と訳ありな乗客たちを乗せてニューヨークを出発する「サイクロプス号」。ところが、またもや石油業界の差し向けたスパイがバスに時限爆弾を仕掛けており、危機また危機の災難に見舞われていくことになる。  巨大バスの車内という限定空間でグランドホテル形式のドラマが展開するのは、『エアポート』シリーズを始めとするディザスター映画の定番。ルース・ゴードン演じる家出婆さんは『大空港』のヘレン・ヘイズ、リン・レッドグレーヴ演じるセレブ・マダムは『エアポート’75』のグロリア・スワンソンのパロディだろう。「サイクロン号」にトラックが突っ込むのは『エアポート’75』、ジュースで水没したキッチン車両での救出劇は『ポセイドン・アドベンチャー』が元ネタ。そんな「ディザスター映画あるある」的なパロディを散りばめつつ、ナンセンスなビジュアル・ギャグのつるべ打ちで観客を楽しませる。ビール瓶の代わりに割れた(?)ミルクパックと折れた蝋燭で対決する乱闘シーンや、人数が多すぎて延々と終わらない乾杯シーンなど、クスっと笑える程度にバカバカしいギャグばかりなのがミソだ。  で、ディザスター映画の定番といえば華やかなオールスター・キャストなのだが、本作ではビッグネームが一人もいない代わりに、’70年代ハリウッド映画ではお馴染みの懐かしい名バイプレヤーたちがズラリと顔を揃える。オスカー俳優のホセ・ファーラーがいるじゃないか!なんて言われそうだが、名優ではあってもスターではなかったからね。そんな彼が演じるのが、石油業界の悪玉親分アイアンマン。「鉄の肺」と呼ばれる巨大人工呼吸器に入っているので、すなわちアイアンマンなのだそうだ。なんたる罰当たりなブラック・ジョーク(笑)。監督のジェームズ・フローリーは、『ザ・モンキーズ』(‘66~’68)の全エピソードを担当してエミー賞に輝き、『刑事コロンボ』シリーズや最近だと『グレイズ・アナトミー』にも参加するなど、主にテレビで活躍した人物。本作は基本的にアホ丸出しなコメディでありながら、しかし大規模なパニックやサスペンスの描写にも全く抜かりがない。なかなか痛快な仕上がりだ。  ちなみに、本作は後の『フライングハイ』と同じくパラマウント映画の製作。パラマウントといえばハリウッドを代表するメジャー・スタジオの一つだが、実はディザスター映画の代表的な作品の中にパラマウント作品は一つもない。ワーナーや20世紀フォックス、ユニバーサルは積極的に作っていたが、パラマウントはせいぜい『ハリケーン』(’79)くらいのもの。それとて、ディザスター映画と呼ぶには微妙なところだ。そんなブームと距離を置いていたパラマウントが、あえて本作や『フライングハイ』のようなパロディ映画を製作したという事実もまた興味深い。■ TM, ® & © 2018 Paramount Pictures. All Rights Reserved.

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「男と女」の間に横たわる“裸の真実”を、ロバート・アルドリッチ監督が2つの世界を鋭く対比させながらソフト&ハードに追求した異色のネオ・ノワール『ハッスル』~2月5日(月)ほか

桑野仁

■祝ロバート・アルドリッチ監督生誕100周年  今年2018年は、1918年に生まれ、1983年にこの世を去ったロバート・アルドリッチ監督の生誕100周年にあたる。 アルドリッチ監督といえば、文字通りの戦場を舞台にした『攻撃』(1956)や『特攻大作戦』(1967)などの戦争映画をはじめ、『アパッチ』(1954)、『ヴェラクルス』などの西部劇、映画業界そのものを物語の舞台に据えた『悪徳』(1955)、『女の香り』(1968)などのハリウッド内幕もの映画、灼熱の砂漠での集団サバイバル劇『飛べ!フェニックス』(1966)、大恐慌下の貨物列車を舞台に無賃乗車の帝王と鬼車掌が対決を繰り広げる『北国の帝王』(1973)、そして、女子プロレスの闘技場のリングを舞台にした遺作の『カリフォルニア・ドールス』(1981)に至るまで、さまざまな苦境の中で、自らの意地と誇りを賭けて必死に闘い続ける主人公たちの姿を描き続けた活劇映画の屈指の名匠。  昨年、やはり彼の代表作の1本である戦慄のゴシック・ホラー『何がジェーンに起ったか?』(1962)で初めて競演し、劇中の物語のみならず、製作現場やその舞台裏においても凄まじい確執と対立劇を繰り広げることとなった往年のハリウッドを代表する2人のスター女優、ベティ・デイヴィスとジョーン・クロフォードの壮絶なライバル対決を、アルドリッチその人も主要登場人物の1人に配しながら描いた海外ドラマ『フュード/確執 ベティ vs ジョーン』(2017)が、全米や日本のBSでも連続放送されて話題を呼んだ。  今回ここに紹介する『ハッスル』(1975)は、アルドリッチが、彼の映画史上最大のヒット作となった『ロンゲスト・ヤード』(1974)に続いて、当時人気絶頂だったバート・レイノルズと再び監督・主演コンビを組んで放った一作。しかしこの『ハッスル』に、刑務所の囚人と看守たちがそれぞれアメフト・チームを結成して真っ向から激突する、『ロンゲスト・ヤード』風の単純明快で痛快無類の娯楽活劇を期待すると、きっと肩すかしを食うに違いない。  『ハッスル』は、彼の映画にはきわめて珍しい本格的な男女のラブ・ストーリーに、刑事ドラマの要素が絡み合った二重の物語構成となっていて、一見それがうまく一つに融合しないまま、全体的に真っ二つに分裂しているような印象を観る者に与え、なかなか簡単に一言で説明するのが難しい、何とも奇妙で厄介なアルドリッチ映画なのだ。  もともと本作は、前作『ロンゲスト・ヤード』の大成功に気を良くしたアルドリッチとレイノルズが共同で製作会社を設立し(それぞれの名前、ロバート(Robert)とバート(Burt)を掛け合わせて、ロバート(RoBurt)・プロと命名された)、先にスティーヴン・シェイガンの脚本を読んだレイノルズが、気に入ったラブ・ストーリーがあると、アルドリッチに映画化の話を持ちかけたところから、この企画はスタートした。  その物語や人物設定は少々変わったユニークなもので、ここで恋愛劇を繰り広げることになる男女はそれぞれ、ロス警察の警部補と高級娼婦という間柄。当初の脚本では、警部補たる主人公と同棲中の恋人はアメリカ人となっていたものの、主人公が、娼婦である彼女とさらに深く踏み込んだ真剣な関係を築くべきかどうか思い悩むという設定を、保守的で旧来の価値観に囚われたアメリカ人の一般観客にすんなり受け入れさせるには、ヒロインを、アメリカ人とはまた別の道徳観念を持つ外国人にした方が有効で得策、とアルドリッチは考え、当初の設定を思い切って改変することを決断。かくしてレイノルズの相手役のヒロインに起用されたのが、その類い稀なる美貌とエレガンスを武器に次々と名作、話題作に出演し、当時は無論のこと、今日もなおフランス映画界を代表するトップ女優の座に君臨し続けるカトリーヌ・ドヌーヴだった。 ■自由奔放な恋を謳歌・擁護する女ドヌーヴ  当時の彼女は30代を迎えたばかりで、成熟した大人の女性の魅力が全身からこぼれんばかり。先に鬼才ルイス・ブニュエルの傑作『昼顔』(1966)では若き人妻にして娼婦という大胆な役柄を妖艶に演じるなど、数々の映画で底知れぬ女の魔性を発揮する一方で、シャネルの香水の広告搭やイヴ・サン=ローランのファッション・モデルとしても活躍し、抜群の人気と名声を誇っていた。  そしてまた、ドヌーヴといえば、つい最近、セクハラをめぐる論争に一石を投じて世間の耳目を集めたことも、記憶に新しいところ。少し遠回りになるが、やはり本作とも少なからず関連する出来事なので、ここでできるだけ手短に(とはいえ、元の文意を歪めたりしてあらぬ誤解が生じないよう慎重に)、それについて振り返っておくことにしよう。  昨秋、ハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ疑惑が浮上して以降、SNSやメディアを通じてセクハラを告発するムーブメントが沸き起こり、全米の映画や芸能界のみならず、世界的にその動きが波及して加速・過熱化するなか、今年の1月9日、フランスの新聞「ル・モンド」が、その行き過ぎに対して危惧を表明する共同の声明文を、著名な作家や文化人ら、フランスの100人の女性たちの連名で掲載。レイプは犯罪である、とはっきり断った上で、しかし、男性が女性に言い寄ること自体は罪ではないし、そのことの自由に対してもっと寛容であるべきだ、とする趣旨のこの記事に、ドヌーヴも賛同してその100人の中に名を連ねていたが、これがさらなる論議や大きな反発を招く事態に。  かくしてドヌーヴは、翌週1月14日付の「リベラシオン」紙にあらためて単独で公開書簡を送り、記事の中にセクハラをよしとすることなど何も書かれていないし、そうでなければ自分も署名などしていなかった、と弁明。そして、誰もが皆、自らを裁判官や陪審員、死刑執行人のように振る舞う権利を持つと感じ、SNS上での単なる非難が、処罰や辞職、そしてしばしば、メディアによる弾劾裁判へと通じてしまう時代風潮はどうにも好きになれない、自分はあくまで自由を愛するし、将来も愛し続ける、と従来の立場を堅持した上で、先の「ル・モンド」の記事に感情を傷つけられたかもしれないすべてのセクハラ被害の当時者たちに対してのみ、謝罪を表明した。  最近の一連のセクハラ告発をめぐる大きな議論は、きわめてデリケートで難しい問題ではあり、この狭い紙幅の中でそう簡単に要約・紹介できる類いの代物ではないので、ここから先はぜひ各自でさらなる情報収集に努めて、より正確で幅広い問題の把握と判断をお願いしたいが、いずれにせよ、今回の新たな騒ぎで、「男と女」をめぐる、お国柄や宗教、歴史や文化・社会的背景の違いによる、その人それぞれの価値判断や道徳観念・倫理感の違いが改めて浮き彫りとなり、『ハッスル』のヒロインにドヌーヴを思い切って起用したアルドリッチの判断は、確かに的を射たものであったことが、はからずも今日改めて証明された、といえるかもしれない。  かくして実現したレイノルズとドヌーヴという米仏の男女の人気スター同士の顔合わせは、それなりに功を奏し、この『ハッスル』は、前作『ロンゲスト・ヤード』ほどの大ヒットには及ばなかったものの、それでも全米での興行収入が1000万ドルを突破し、商業的に充分な成功を収めることになった。 ■男と女、嘘つきな関係  アルドリッチ自身、この『ハッスル』は何よりもまず、警察官と高級娼婦との間で繰り広げられるユニークなラブ・ストーリーであると、インタビューの場ではことあるごとに語っていて、さらにはドヌーヴをヒロインにキャスティングできたことが、この映画にとっては大きかったと強調している。しかし、従来のアルドリッチ映画ファン、そしてまた、現代の観客がこの『ハッスル』の中におけるラブ・ストーリーのパートを目にする時、それでもなお、物語や人物の初期設定自体にどうも根本的な誤りがあるのではと、つい困惑と違和感を覚えざるを得ないだろう。  先にも軽く述べた通り、レイノルズがこの映画の中で演じるのは、ロス市警の警部補。彼は、なかなか正義が報われない今日の腐敗した社会にやるせない思いを抱きながら、日夜職務に励む一方で、ドヌーヴ扮するフランス人の美しい高級娼婦と目下同棲中。かつて妻がよその男と不貞を働き、裏切られた苦い経験を持つバツイチのレイノルズは、ドヌーヴをそれなりに愛してはいるものの、2人の繋がりはあくまで肉体関係のみと割り切って、お互いの仕事には不干渉でいることを取り決め、彼女から、あなたさえそれを望むなら自分の商売はやめても構わない、と結婚を迫られても、煮え切らない態度を示すばかり。  それでいて、古き良き時代の懐メロや映画をこよなく愛する昔気質のセンチメンタリストであるレイノルズは、いつかドヌーヴと2人で自らの思い出の地ローマへと旅立つのをたえず夢見ていて、またある時は、近くの映画館で上映中のフランス映画の人気作『男と女』(1966)を彼女と一緒に見に行って、甘美で切ない恋物語の世界に浸り込む。しかも、この『ハッスル』の中にレイノルズとドヌーヴが本格的に絡む濡れ場などは一切画面に登場せず、その代わりに、同じ一つ屋根の下でドヌーヴが目には見えない他の男性顧客たちを相手に長々とテレフォン・セックスの会話に励むのを、そのすぐ脇からひとり指を咥えて眺めて悶々とするレイノルズの姿を、ひたすらキャメラは追い続ける始末なのだ。  これでは、そのさまをじっと辛抱強く見守る我々観客もついモヤモヤイライラして、2人のどっちつかずの曖昧な恋愛関係がどうせ長続きしないことは、はじめから分かり切ったことだろう、それに第一、当人たちの感情はさておいて、本来、法の番人たる警部補が娼婦と同棲中であるという事態が外部に知れたら、それだけで即アウトだろうに、と、あれこれツッコミを入れたくなるのも、致し方ないではないか。  こうして見てくると、この『ハッスル』の中におけるラブ・ストーリーのパートは、うわべだけ綺麗事ばかりを並べ立てた、いかにも絵空事の世界にしか筆者には思えない。けれども、ここで翻ってよく考えてみると、そこにこれまた一見オシャレでファッショナブルだが中身は空疎な恋愛映画の代名詞である『男と女』をあえて引用して重ねて見せる、作者アルドリッチの自虐的で苦いアイロニーに満ちた演出意図も、次第につかめてくるはずだ。  おそらくアルドリッチ自身、映画の準備段階でこの『ハッスル』の説話上の弱点に気づき、商業的な要請と期待に沿って、表向きは男女の人気スター同士の共演によるソフトで甘美なラブ・ストーリーを紡ぎ出す一方で、そちらでは何かと障壁や制約があってなかなか発揮できなかった彼本来の演出手腕を、『ハッスル』の裏番組にして実はこちらこそがメイン・ディッシュたる刑事もののサスペンス・ドラマの方に、思うさまハードに叩きつけたのではないだろうか。 ■男と女 アナザー・ストーリー  実際、『ハッスル』の物語が刑事ドラマのパートへと移行すると、これまで紹介してきたレイノルズとドヌーヴとのセンチで生ぬるい恋愛劇とはうって変わって、日常的に殺人や暴力事件が頻発する犯罪都市ロスのどす黒い闇に包まれたダークサイドの実態が、本来のアルドリッチ映画らしい非情なタッチで容赦なく赤裸々に暴き立てられていくことになる。  ビーチサイドでひとりの若い女性の変死体が発見され、その体内に多量の薬物や精液が見つかったことから、ロス市警の警部補レイノルズは、何やらあやしい事件の匂いを嗅ぎあてる。しかし、ここでも彼の姿勢は腰が引け気味で、あえてそれを単なる自殺として片付け、手っ取り早く事件の幕引きを図ろうとする。けれども、身元の確認作業に立ち会って、自分の愛する娘が痛ましい姿に変わり果て、素っ裸のままゴロンと遺体安置所に寝かされているさまを目の当たりにして怒りを露わにした父親役のベン・ジョンソンが、レイノルズに猛然と食ってかかって真相の徹底究明を迫ったことから、ようやくレイノルズは、本格的な事件の捜査に乗り出すことになるのだ。  かくして、ロスの裏社会に巣食う麻薬や売春などの犯罪組織や、彼らを陰で操る悪の黒幕の存在が浮上し、亡くなった若い女性は、(『攻撃』や『ロンゲスト・ヤード』でもその卑劣な悪役ぶりが印象的だった)エディ・アルバート扮する大物の悪徳弁護士が経営するストリップクラブでダンサーとして働き、さらにはブルーフィルムに出演し、乱交パーティーにも出席していたという、文字通り剥き出しの裸の真実が次々と明らかになる。ここでジョンソンが、愛する我が娘の素っ裸の遺体のみならず、在りし日の彼女がブルーフィルムの中で披露するあられもない痴態をまのあたりにして、耐え難い苦悩と絶望に苛まれる姿ほど、衝撃的で重苦しい痛みを伴った気まずい場面も、他にそう多くはないだろう。 (おそらく『ハッスル』のこの場面に強くインスパイアされて、ポール・シュレイダー監督が『ハードコアの夜』(1979)を撮り上げたのであろうという推論を、筆者は以前、この「シネマ解放区」の『ハードコアの夜』の紹介文の中で述べたことがあるので、ぜひそちらもご参照あれ。それと、『ハッスル』の中には、ジョンソン本人はまだ知らない意外な衝撃的真実が、実はもう一つあるのだが、やはりそれはネタバレ厳禁として、ここでは一応伏せておこう。)  ところで『ハッスル』は、映画の冒頭部でビーチサイドに横たわる若い女性の変死体が発見された直後に、海を見下ろす小高い丘の中腹に建てられた瀟洒なリゾートハウス風の家のバルコニーで静かに佇むドヌーヴの姿をキャメラが捉えるところから、本格的なドラマが幕を開ける。一見優雅で高尚なムード満点の高級娼婦ドヌーヴと、俗悪で薄汚いロスのアンダーグラウンドの世界をあちこち経巡った末、哀れな最期を遂げた若い娘(ここでその役に扮しているのは、知る人ぞ知る当時のアメリカの人気ポルノ女優、シャロン・ケリー。当然彼女は、この映画の中でも体当たりの裸演技を披露している)。  つまり、ドヌーヴとケリーは互いが互いを照らす鏡像=分身関係にあり、2人の人生における明暗、天国と地獄という一見対照的な構図が、既に最初に端的に明示されるわけだが、実のところ、ドヌーヴの商売も、一皮剥けばケリーのそれからそう遠く隔たったものではない。ドヌーヴ演じるヒロインの過去は、映画の中でそうはっきりとは語られないが、アルバート扮する大物の悪徳弁護士は、実は彼女の上得意の顧客の一人でもあり、あるいはドヌーヴも、ケリーのように若い時分、アングラ世界の底辺を這いずり回っていた可能性は充分考えられる。  そしてまた、実はレイノルズと、ケリーの父親に扮したジョンソンも、やはり互いに鏡像=分身関係にあることが、ドラマの進展を見守るうち、観客にも了解されることになる。先にレイノルズが、過去に妻に裏切られた苦い経験があることを記したが、朝鮮戦争の復員兵であるジョンソンの方もまた、戦争体験で不能となり、彼の妻が不貞を働いていた事実が彼女自身の告白を通して明かされ、物語の中盤には、各自、喧嘩が原因で、額にこぶを作ったレイノルズと、目の周囲に痛々しいアザと傷跡をつけたジョンソンが、まるで鏡のように向き合って対面する、両者の鏡像=分身関係を何よりも雄弁に物語る一場面も登場する。  悪徳権力者ばかりが栄え、社会の底辺にいる弱者は容赦なく見捨てられる現代の不平等で腐敗した体制に対して、共に憤懣やるかたない感情を抱きながらも、斜に構えて目の前にある現実からたえず目を逸らし、何かにつけ、自分の夢想の世界へと逃避していたレイノルズは、もう一人の自己たる、怒りに燃えるジョンソンに引きずられる形で、ようやく社会、そして自らを取り巻く現実と正面から向き合う決意を固めるのだ。 ■アルドリッチとアルトマン 言われてみれば、あるある!?  筆者ははじめに、『ハッスル』を紹介するにあたって、この映画は二重の物語構成となっていて、一見それがうまく一つに融合しないまま、全体的に真っ二つに分裂しているような印象を観る者に与える、云々、と述べたが、しかしこうして、刑事ドラマのパートをじっくり丹念に追って見てみると、これは、表看板たるソフトで甘いラブ・ストーリーに対する、強烈でハードなカウンターパンチとして機能していて、両者はやはり、それなりに有機的に組み立てられていることが分かってもらえたのではないだろうか。  そしてこちらの刑事ドラマのパートに注目するならば、この『ハッスル』は、かつてフィルム・ノワールの精髄というべき傑作『キッスで殺せ』(1955)を生み出していたアルドリッチが、久々にこの不可思議で魅力的なジャンルならざる映画ジャンルに立ち返って撮り上げた、ネオ・ノワールの1本と呼ぶことも充分可能だろう。この点において『ハッスル』は、いささか唐突ながら、今は亡きアメリカ映画界のもうひとりの鬼才、ロバート・アルトマンの傑作ネオ・ノワール『ロング・グッドバイ』(1973) と意外な接近遭遇をしていることに、今回久々に映画を見返してみてふと気が付いた。  この2人のロバートたる、アルドリッチとアルトマン。名前がよく似ているというのみならず、反権威主義を前面に押し出したその不撓不屈の反骨精神と、山あり谷あり起伏の激しい波瀾万丈の映画人生、そして、作品の中に痛烈な体制批判や諷刺を盛り込みつつ、遊び心とユーモアも決して忘れない快活な娯楽精神という点でも、大いに共通性がある。その一方で、こと2人の作風に関して言うなら、豪快、剛腕で鳴らす直球勝負のアルドリッチに対し、人一倍のひねくれ者で型にはまることを嫌うアルトマンは変化球勝負と、一見対照的で、案外両者はこれまであまり引き比べられることがなかったように思う。  はたして両者の間に直接的な影響関係があるかどうかは不明だが、現今の体制や時流にはどうしても馴染めないままロスの街を東奔西走する、『ハッスル』の昔気質で時代遅れの主人公のキャラ設定や、鏡像=分身を用いた対位法的なストーリーテリング、そして、『カサブランカ』(1942)や『白鯨』(1956)、『裸足の伯爵夫人』(1954)をはじめ、作品のここかしこにちりばめられた、さまざまな往年の映画や音楽の引用、目配せの仕方などは、『ロング・グッドバイ』のそれと結構よく似ている。あるいはまた、『ハッスル』でドヌーヴがすぐ脇にいるレイノルズを尻目に他の男たちとテレフォン・セックスに励む場面は、やはりアルトマンが同じくロスの街を舞台に、こちらはレイモンド・チャンドラーならぬカーヴァーの原作を彼独自の味付けで料理した大作群像劇『ショート・カッツ』(1993)の中で、人妻たるジェニファー・ジェイソン・リーが、家庭の中に場違いな仕事を持ち込んで、夫や赤ん坊を尻目にテレフォン・セックスに励む場面に、何がしかの影響を与えているのだろうか?  いずれにせよ、冒頭でも述べた通り、今年はアルドリッチの生誕100周年。これを機に、『ハッスル』だけでなく、他のさまざまなアルドリッチ映画にもぜひ目を向けて、その強烈で無類に面白い映画世界を、ひとりでも多くの映画ファンに存分に楽しんでもらいたいところだ。■ TM, ® & © 2018 by Paramount Pictures. 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第一級の地味ポリティカル・サスペンス『パララックス・ビュー』~2月6日(火)ほか

高橋ターヤン

あなたも思ったことは無いだろうか? 「自分は誰かに狙われている」 「自分がこんな状況なのは誰かの陰謀なのではないか」 「給料が安いのは国際的巨大企業の謀略」 「沖縄米軍の事故はパヨクの自演」 「自分が結婚できないのは中国共産党の国家的戦略」  ……誰しも大なり小なりこんな妄想に憑りつかれることはあるのではないだろうか。筆者も中学生時代の辺りから毎日そんなことを考えて、今も自己を肯定しようと必死に生きてます。すみません。  「自分以外の周囲は気付いていないが、何かが起こっている」というサスペンス映画は、風呂敷が大きければ大きいほど面白い。だってそんな大がかりな話なのに誰も気付いていないのは、よほど巧妙に隠蔽されているからだ。ということで、サスペンスというジャンルの中で風呂敷が大きいサブジャンル、ポリティカル・サスペンスは面白い作品の宝庫なのである。  特に政治に闇が多かった時代。1970年代は、ペンタゴン・ペーパーズ事件、ウォーターゲート事件といった事件の連続によって、その陰謀論が空論や妄想ではなく実際にあったという証拠が次々と見付かったことも相まって、このジャンルが百花繚乱状態となっている。  ロバート・レッドフォードの大快作『コンドル』(75年)、バート・ランカスターが出演した『カサンドラ・クロス』(76年)や『合衆国最後の日』(77年)など枚挙にいとまがないし、現在製作される映画でもこの時代を舞台にした『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』(17年)が次々と製作され、高い評価を受けている。また少し前の映画になるが、ジョン・フランケンハイマー監督の『影なき狙撃者』(62年)はキューバ危機によって世界戦争が危惧される時代に作られたし、イヴ・モンタンのフランス映画『Z』(69年)もギリシャの政治的混乱を舞台にした素晴らしい作品だった。  そんな中で、『ソフィーの選択』(82年)『推定無罪』(90年)『ペリカン文書』(93年)などのポリティカル・サスペンス映画の巨匠アラン・J・パクラ監督は、1970年代に2本の傑作を生みだしている。  まずは派手な方の傑作、ウォーターゲート事件を追うワシントン・ポスト紙の記者の戦いを描く『大統領の陰謀』(76年)。事件発生から3年、ニクソン大統領の辞任から2年という短期間に製作された本作は、ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンというこの時代を代表するやさ男俳優2名を配置。タイプライターから吐き出される文字だけで表現される物語の顛末は、痛快でも爽快でも無いが、ひたすら地道であることの正しさを表現した素晴らしいラストシーンであると思う。  この『大統領の陰謀』によって、その年の第49回アカデミー賞では作品賞、監督賞、助演男優賞、助演女優賞、脚色賞、録音賞、美術賞、編集賞の8部門にノミネート。ジェイソン・ロバーズの助演男優賞、ウィリアム・ゴールドマンの脚色賞、録音賞と美術賞という4部門を受賞するという、この年を代表する作品の一つ(この年の作品賞は『ロッキー』)となっており、パクラ監督の代表作となっている。  そしてその前作にあたり、後年の『大統領の陰謀』に繋がるもう一本の(地味な)傑作が、今回ご紹介する『パララックス・ビュー』(74年)である。  次期大統領の有力候補とされるキャロル上院議員が、シアトルのランドマークであるスペースニードルでの演説中に射殺される事件が発生。SPによって追い詰められた犯人は、スペースニードルの屋上から転落して死亡した。この事件を調査した調査委員会は、犯行は狂信的愛国主義者による単独犯行として報告。事件は「よくある事件」のひとつとして、人々からは忘れ去られていった。  3年後。ロサンゼルスのローカル紙記者のフレイディのもとに、かつての恋人のリーが訪れる。リーはキャロル議員暗殺の現場にいたTVレポーターで、暗殺の現場にいた20人の目撃者が次々と不慮の事故で死亡している事実を知り、フレイディに助けを求めに来たのだった。フレイディは偶然の連続として一笑に付したが、フレイディは数日後に睡眠薬の過剰摂取で死体となったリーと再会することになる。  元恋人の死によって、ようやくこの事件に疑念を抱いたフレイディは、リーが把握している以外にも不審死した目撃者がいることを知り、本格的に調査を開始する。事件を調べる過程で何度も殺されそうになるフレイディだったが、自分を殺そうとした者の自宅を調べるとパララックス社という謎の会社の就職希望願書と適性テストの用紙を発見する。次々と目撃者が死亡する中で、フレイディはパララックス社への潜入を決意。フレイディはそこで衝撃の事実を目撃することになる……。  本作が制作されたのは、ウォーターゲート事件が本格的に表沙汰となり、それを政府が躍起になってもみ消そうとしていた時期だ。明確な関係性は不明瞭ではあるが、限りなく黒に近いグレーな状態が続き、それでも米中国交回復を実現してベトナム戦争を終結させようとしている政府を信じる者と、政府を疑う者の対立が激化していた時期である。そんな時期に制作された本作も、各種暗殺事件へのパララックス社の関与と、パララックス社と政府との関係性は最後までグレーなまま、救いの無いラストを迎えることになる。非常に後味の悪い作品と言っても過言ではない。そもそもパクラ監督の作品はドラマティックさをあえて抑制し、主人公が何を考えているのか分かりづらい作品が多いので、この映画だけが特別という訳ではない。  しかし逆にドラマティックさを抑制することによってリアリティが増幅し、主人公の器の中身を見せないことで、逆に感情移入できる人にとっては尋常でない共感度の向上を実現している作品でもある。フレイディを演じたウォーレン・ベイティの描き込みが不足していると見る向きもあるが、そこが観る者の想像力を膨らませるポイントにもなっている。  タイトルの“パララックス・ビュー”とは視差のことである。視差とは、見方によって対象物が異なって見えることであり、劇中パララックス社に潜入したフレイディが体験する“あること”がずばりそれであり、またこの映画の結末も視差によって異なる結末に捉えられるようになっている。  本作の素晴らしさは撮影だ。撮影を担当したのはゴードン・ウィリス。『ゴッドファーザー』シリーズやウッディ・アレン映画の撮影監督として有名なウィリスは、本作以外にも『コールガール』(71年)、『大統領の陰謀』、『推定無罪』など多くの作品でパクラ監督とタッグを組んでいるが、本作での映画のトーンに合わせた冷たい画作りは、劇伴を極限までそぎ落とした本作にベストマッチしており、ウィリスの仕事の中でも白眉と言って良いだろう。  あまり評価されることの無く、スケールも小さな地味な作品であるが、圧倒的なリアリティと恐怖をもって迫る力作である。必見。■ TM, ® & © 2018 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.

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