■祝ロバート・アルドリッチ監督生誕100周年

 今年2018年は、1918年に生まれ、1983年にこの世を去ったロバート・アルドリッチ監督の生誕100周年にあたる。

アルドリッチ監督といえば、文字通りの戦場を舞台にした『攻撃』(1956)や『特攻大作戦』(1967)などの戦争映画をはじめ、『アパッチ』(1954)、『ヴェラクルス』などの西部劇、映画業界そのものを物語の舞台に据えた『悪徳』(1955)、『女の香り』(1968)などのハリウッド内幕もの映画、灼熱の砂漠での集団サバイバル劇『飛べ!フェニックス』(1966)、大恐慌下の貨物列車を舞台に無賃乗車の帝王と鬼車掌が対決を繰り広げる『北国の帝王』(1973)、そして、女子プロレスの闘技場のリングを舞台にした遺作の『カリフォルニア・ドールス』(1981)に至るまで、さまざまな苦境の中で、自らの意地と誇りを賭けて必死に闘い続ける主人公たちの姿を描き続けた活劇映画の屈指の名匠。

 昨年、やはり彼の代表作の1本である戦慄のゴシック・ホラー『何がジェーンに起ったか?』(1962)で初めて競演し、劇中の物語のみならず、製作現場やその舞台裏においても凄まじい確執と対立劇を繰り広げることとなった往年のハリウッドを代表する2人のスター女優、ベティ・デイヴィスとジョーン・クロフォードの壮絶なライバル対決を、アルドリッチその人も主要登場人物の1人に配しながら描いた海外ドラマ『フュード/確執 ベティ vs ジョーン』(2017)が、全米や日本のBSでも連続放送されて話題を呼んだ。

 今回ここに紹介する『ハッスル』(1975)は、アルドリッチが、彼の映画史上最大のヒット作となった『ロンゲスト・ヤード』(1974)に続いて、当時人気絶頂だったバート・レイノルズと再び監督・主演コンビを組んで放った一作。しかしこの『ハッスル』に、刑務所の囚人と看守たちがそれぞれアメフト・チームを結成して真っ向から激突する、『ロンゲスト・ヤード』風の単純明快で痛快無類の娯楽活劇を期待すると、きっと肩すかしを食うに違いない。

 『ハッスル』は、彼の映画にはきわめて珍しい本格的な男女のラブ・ストーリーに、刑事ドラマの要素が絡み合った二重の物語構成となっていて、一見それがうまく一つに融合しないまま、全体的に真っ二つに分裂しているような印象を観る者に与え、なかなか簡単に一言で説明するのが難しい、何とも奇妙で厄介なアルドリッチ映画なのだ。

 もともと本作は、前作『ロンゲスト・ヤード』の大成功に気を良くしたアルドリッチとレイノルズが共同で製作会社を設立し(それぞれの名前、ロバート(Robert)とバート(Burt)を掛け合わせて、ロバート(RoBurt)・プロと命名された)、先にスティーヴン・シェイガンの脚本を読んだレイノルズが、気に入ったラブ・ストーリーがあると、アルドリッチに映画化の話を持ちかけたところから、この企画はスタートした。

 その物語や人物設定は少々変わったユニークなもので、ここで恋愛劇を繰り広げることになる男女はそれぞれ、ロス警察の警部補と高級娼婦という間柄。当初の脚本では、警部補たる主人公と同棲中の恋人はアメリカ人となっていたものの、主人公が、娼婦である彼女とさらに深く踏み込んだ真剣な関係を築くべきかどうか思い悩むという設定を、保守的で旧来の価値観に囚われたアメリカ人の一般観客にすんなり受け入れさせるには、ヒロインを、アメリカ人とはまた別の道徳観念を持つ外国人にした方が有効で得策、とアルドリッチは考え、当初の設定を思い切って改変することを決断。かくしてレイノルズの相手役のヒロインに起用されたのが、その類い稀なる美貌とエレガンスを武器に次々と名作、話題作に出演し、当時は無論のこと、今日もなおフランス映画界を代表するトップ女優の座に君臨し続けるカトリーヌ・ドヌーヴだった。

■自由奔放な恋を謳歌・擁護する女ドヌーヴ

 当時の彼女は30代を迎えたばかりで、成熟した大人の女性の魅力が全身からこぼれんばかり。先に鬼才ルイス・ブニュエルの傑作『昼顔』(1966)では若き人妻にして娼婦という大胆な役柄を妖艶に演じるなど、数々の映画で底知れぬ女の魔性を発揮する一方で、シャネルの香水の広告搭やイヴ・サン=ローランのファッション・モデルとしても活躍し、抜群の人気と名声を誇っていた。

 そしてまた、ドヌーヴといえば、つい最近、セクハラをめぐる論争に一石を投じて世間の耳目を集めたことも、記憶に新しいところ。少し遠回りになるが、やはり本作とも少なからず関連する出来事なので、ここでできるだけ手短に(とはいえ、元の文意を歪めたりしてあらぬ誤解が生じないよう慎重に)、それについて振り返っておくことにしよう。

 昨秋、ハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ疑惑が浮上して以降、SNSやメディアを通じてセクハラを告発するムーブメントが沸き起こり、全米の映画や芸能界のみならず、世界的にその動きが波及して加速・過熱化するなか、今年の1月9日、フランスの新聞「ル・モンド」が、その行き過ぎに対して危惧を表明する共同の声明文を、著名な作家や文化人ら、フランスの100人の女性たちの連名で掲載。レイプは犯罪である、とはっきり断った上で、しかし、男性が女性に言い寄ること自体は罪ではないし、そのことの自由に対してもっと寛容であるべきだ、とする趣旨のこの記事に、ドヌーヴも賛同してその100人の中に名を連ねていたが、これがさらなる論議や大きな反発を招く事態に。

 かくしてドヌーヴは、翌週1月14日付の「リベラシオン」紙にあらためて単独で公開書簡を送り、記事の中にセクハラをよしとすることなど何も書かれていないし、そうでなければ自分も署名などしていなかった、と弁明。そして、誰もが皆、自らを裁判官や陪審員、死刑執行人のように振る舞う権利を持つと感じ、SNS上での単なる非難が、処罰や辞職、そしてしばしば、メディアによる弾劾裁判へと通じてしまう時代風潮はどうにも好きになれない、自分はあくまで自由を愛するし、将来も愛し続ける、と従来の立場を堅持した上で、先の「ル・モンド」の記事に感情を傷つけられたかもしれないすべてのセクハラ被害の当時者たちに対してのみ、謝罪を表明した。

 最近の一連のセクハラ告発をめぐる大きな議論は、きわめてデリケートで難しい問題ではあり、この狭い紙幅の中でそう簡単に要約・紹介できる類いの代物ではないので、ここから先はぜひ各自でさらなる情報収集に努めて、より正確で幅広い問題の把握と判断をお願いしたいが、いずれにせよ、今回の新たな騒ぎで、「男と女」をめぐる、お国柄や宗教、歴史や文化・社会的背景の違いによる、その人それぞれの価値判断や道徳観念・倫理感の違いが改めて浮き彫りとなり、『ハッスル』のヒロインにドヌーヴを思い切って起用したアルドリッチの判断は、確かに的を射たものであったことが、はからずも今日改めて証明された、といえるかもしれない。

 かくして実現したレイノルズとドヌーヴという米仏の男女の人気スター同士の顔合わせは、それなりに功を奏し、この『ハッスル』は、前作『ロンゲスト・ヤード』ほどの大ヒットには及ばなかったものの、それでも全米での興行収入が1000万ドルを突破し、商業的に充分な成功を収めることになった。

■男と女、嘘つきな関係

 アルドリッチ自身、この『ハッスル』は何よりもまず、警察官と高級娼婦との間で繰り広げられるユニークなラブ・ストーリーであると、インタビューの場ではことあるごとに語っていて、さらにはドヌーヴをヒロインにキャスティングできたことが、この映画にとっては大きかったと強調している。しかし、従来のアルドリッチ映画ファン、そしてまた、現代の観客がこの『ハッスル』の中におけるラブ・ストーリーのパートを目にする時、それでもなお、物語や人物の初期設定自体にどうも根本的な誤りがあるのではと、つい困惑と違和感を覚えざるを得ないだろう。

 先にも軽く述べた通り、レイノルズがこの映画の中で演じるのは、ロス市警の警部補。彼は、なかなか正義が報われない今日の腐敗した社会にやるせない思いを抱きながら、日夜職務に励む一方で、ドヌーヴ扮するフランス人の美しい高級娼婦と目下同棲中。かつて妻がよその男と不貞を働き、裏切られた苦い経験を持つバツイチのレイノルズは、ドヌーヴをそれなりに愛してはいるものの、2人の繋がりはあくまで肉体関係のみと割り切って、お互いの仕事には不干渉でいることを取り決め、彼女から、あなたさえそれを望むなら自分の商売はやめても構わない、と結婚を迫られても、煮え切らない態度を示すばかり。

 それでいて、古き良き時代の懐メロや映画をこよなく愛する昔気質のセンチメンタリストであるレイノルズは、いつかドヌーヴと2人で自らの思い出の地ローマへと旅立つのをたえず夢見ていて、またある時は、近くの映画館で上映中のフランス映画の人気作『男と女』(1966)を彼女と一緒に見に行って、甘美で切ない恋物語の世界に浸り込む。しかも、この『ハッスル』の中にレイノルズとドヌーヴが本格的に絡む濡れ場などは一切画面に登場せず、その代わりに、同じ一つ屋根の下でドヌーヴが目には見えない他の男性顧客たちを相手に長々とテレフォン・セックスの会話に励むのを、そのすぐ脇からひとり指を咥えて眺めて悶々とするレイノルズの姿を、ひたすらキャメラは追い続ける始末なのだ。

 これでは、そのさまをじっと辛抱強く見守る我々観客もついモヤモヤイライラして、2人のどっちつかずの曖昧な恋愛関係がどうせ長続きしないことは、はじめから分かり切ったことだろう、それに第一、当人たちの感情はさておいて、本来、法の番人たる警部補が娼婦と同棲中であるという事態が外部に知れたら、それだけで即アウトだろうに、と、あれこれツッコミを入れたくなるのも、致し方ないではないか。

 こうして見てくると、この『ハッスル』の中におけるラブ・ストーリーのパートは、うわべだけ綺麗事ばかりを並べ立てた、いかにも絵空事の世界にしか筆者には思えない。けれども、ここで翻ってよく考えてみると、そこにこれまた一見オシャレでファッショナブルだが中身は空疎な恋愛映画の代名詞である『男と女』をあえて引用して重ねて見せる、作者アルドリッチの自虐的で苦いアイロニーに満ちた演出意図も、次第につかめてくるはずだ。

 おそらくアルドリッチ自身、映画の準備段階でこの『ハッスル』の説話上の弱点に気づき、商業的な要請と期待に沿って、表向きは男女の人気スター同士の共演によるソフトで甘美なラブ・ストーリーを紡ぎ出す一方で、そちらでは何かと障壁や制約があってなかなか発揮できなかった彼本来の演出手腕を、『ハッスル』の裏番組にして実はこちらこそがメイン・ディッシュたる刑事もののサスペンス・ドラマの方に、思うさまハードに叩きつけたのではないだろうか。

■男と女 アナザー・ストーリー

 実際、『ハッスル』の物語が刑事ドラマのパートへと移行すると、これまで紹介してきたレイノルズとドヌーヴとのセンチで生ぬるい恋愛劇とはうって変わって、日常的に殺人や暴力事件が頻発する犯罪都市ロスのどす黒い闇に包まれたダークサイドの実態が、本来のアルドリッチ映画らしい非情なタッチで容赦なく赤裸々に暴き立てられていくことになる。

 ビーチサイドでひとりの若い女性の変死体が発見され、その体内に多量の薬物や精液が見つかったことから、ロス市警の警部補レイノルズは、何やらあやしい事件の匂いを嗅ぎあてる。しかし、ここでも彼の姿勢は腰が引け気味で、あえてそれを単なる自殺として片付け、手っ取り早く事件の幕引きを図ろうとする。けれども、身元の確認作業に立ち会って、自分の愛する娘が痛ましい姿に変わり果て、素っ裸のままゴロンと遺体安置所に寝かされているさまを目の当たりにして怒りを露わにした父親役のベン・ジョンソンが、レイノルズに猛然と食ってかかって真相の徹底究明を迫ったことから、ようやくレイノルズは、本格的な事件の捜査に乗り出すことになるのだ。

 かくして、ロスの裏社会に巣食う麻薬や売春などの犯罪組織や、彼らを陰で操る悪の黒幕の存在が浮上し、亡くなった若い女性は、(『攻撃』や『ロンゲスト・ヤード』でもその卑劣な悪役ぶりが印象的だった)エディ・アルバート扮する大物の悪徳弁護士が経営するストリップクラブでダンサーとして働き、さらにはブルーフィルムに出演し、乱交パーティーにも出席していたという、文字通り剥き出しの裸の真実が次々と明らかになる。ここでジョンソンが、愛する我が娘の素っ裸の遺体のみならず、在りし日の彼女がブルーフィルムの中で披露するあられもない痴態をまのあたりにして、耐え難い苦悩と絶望に苛まれる姿ほど、衝撃的で重苦しい痛みを伴った気まずい場面も、他にそう多くはないだろう。

(おそらく『ハッスル』のこの場面に強くインスパイアされて、ポール・シュレイダー監督が『ハードコアの夜』(1979)を撮り上げたのであろうという推論を、筆者は以前、この「シネマ解放区」の『ハードコアの夜』の紹介文の中で述べたことがあるので、ぜひそちらもご参照あれ。それと、『ハッスル』の中には、ジョンソン本人はまだ知らない意外な衝撃的真実が、実はもう一つあるのだが、やはりそれはネタバレ厳禁として、ここでは一応伏せておこう。)

 ところで『ハッスル』は、映画の冒頭部でビーチサイドに横たわる若い女性の変死体が発見された直後に、海を見下ろす小高い丘の中腹に建てられた瀟洒なリゾートハウス風の家のバルコニーで静かに佇むドヌーヴの姿をキャメラが捉えるところから、本格的なドラマが幕を開ける。一見優雅で高尚なムード満点の高級娼婦ドヌーヴと、俗悪で薄汚いロスのアンダーグラウンドの世界をあちこち経巡った末、哀れな最期を遂げた若い娘(ここでその役に扮しているのは、知る人ぞ知る当時のアメリカの人気ポルノ女優、シャロン・ケリー。当然彼女は、この映画の中でも体当たりの裸演技を披露している)。

 つまり、ドヌーヴとケリーは互いが互いを照らす鏡像=分身関係にあり、2人の人生における明暗、天国と地獄という一見対照的な構図が、既に最初に端的に明示されるわけだが、実のところ、ドヌーヴの商売も、一皮剥けばケリーのそれからそう遠く隔たったものではない。ドヌーヴ演じるヒロインの過去は、映画の中でそうはっきりとは語られないが、アルバート扮する大物の悪徳弁護士は、実は彼女の上得意の顧客の一人でもあり、あるいはドヌーヴも、ケリーのように若い時分、アングラ世界の底辺を這いずり回っていた可能性は充分考えられる。

 そしてまた、実はレイノルズと、ケリーの父親に扮したジョンソンも、やはり互いに鏡像=分身関係にあることが、ドラマの進展を見守るうち、観客にも了解されることになる。先にレイノルズが、過去に妻に裏切られた苦い経験があることを記したが、朝鮮戦争の復員兵であるジョンソンの方もまた、戦争体験で不能となり、彼の妻が不貞を働いていた事実が彼女自身の告白を通して明かされ、物語の中盤には、各自、喧嘩が原因で、額にこぶを作ったレイノルズと、目の周囲に痛々しいアザと傷跡をつけたジョンソンが、まるで鏡のように向き合って対面する、両者の鏡像=分身関係を何よりも雄弁に物語る一場面も登場する。

 悪徳権力者ばかりが栄え、社会の底辺にいる弱者は容赦なく見捨てられる現代の不平等で腐敗した体制に対して、共に憤懣やるかたない感情を抱きながらも、斜に構えて目の前にある現実からたえず目を逸らし、何かにつけ、自分の夢想の世界へと逃避していたレイノルズは、もう一人の自己たる、怒りに燃えるジョンソンに引きずられる形で、ようやく社会、そして自らを取り巻く現実と正面から向き合う決意を固めるのだ。

■アルドリッチとアルトマン 言われてみれば、あるある!?

 筆者ははじめに、『ハッスル』を紹介するにあたって、この映画は二重の物語構成となっていて、一見それがうまく一つに融合しないまま、全体的に真っ二つに分裂しているような印象を観る者に与える、云々、と述べたが、しかしこうして、刑事ドラマのパートをじっくり丹念に追って見てみると、これは、表看板たるソフトで甘いラブ・ストーリーに対する、強烈でハードなカウンターパンチとして機能していて、両者はやはり、それなりに有機的に組み立てられていることが分かってもらえたのではないだろうか。

 そしてこちらの刑事ドラマのパートに注目するならば、この『ハッスル』は、かつてフィルム・ノワールの精髄というべき傑作『キッスで殺せ』(1955)を生み出していたアルドリッチが、久々にこの不可思議で魅力的なジャンルならざる映画ジャンルに立ち返って撮り上げた、ネオ・ノワールの1本と呼ぶことも充分可能だろう。この点において『ハッスル』は、いささか唐突ながら、今は亡きアメリカ映画界のもうひとりの鬼才、ロバート・アルトマンの傑作ネオ・ノワール『ロング・グッドバイ』(1973) と意外な接近遭遇をしていることに、今回久々に映画を見返してみてふと気が付いた。

 この2人のロバートたる、アルドリッチとアルトマン。名前がよく似ているというのみならず、反権威主義を前面に押し出したその不撓不屈の反骨精神と、山あり谷あり起伏の激しい波瀾万丈の映画人生、そして、作品の中に痛烈な体制批判や諷刺を盛り込みつつ、遊び心とユーモアも決して忘れない快活な娯楽精神という点でも、大いに共通性がある。その一方で、こと2人の作風に関して言うなら、豪快、剛腕で鳴らす直球勝負のアルドリッチに対し、人一倍のひねくれ者で型にはまることを嫌うアルトマンは変化球勝負と、一見対照的で、案外両者はこれまであまり引き比べられることがなかったように思う。

 はたして両者の間に直接的な影響関係があるかどうかは不明だが、現今の体制や時流にはどうしても馴染めないままロスの街を東奔西走する、『ハッスル』の昔気質で時代遅れの主人公のキャラ設定や、鏡像=分身を用いた対位法的なストーリーテリング、そして、『カサブランカ』(1942)や『白鯨』(1956)、『裸足の伯爵夫人』(1954)をはじめ、作品のここかしこにちりばめられた、さまざまな往年の映画や音楽の引用、目配せの仕方などは、『ロング・グッドバイ』のそれと結構よく似ている。あるいはまた、『ハッスル』でドヌーヴがすぐ脇にいるレイノルズを尻目に他の男たちとテレフォン・セックスに励む場面は、やはりアルトマンが同じくロスの街を舞台に、こちらはレイモンド・チャンドラーならぬカーヴァーの原作を彼独自の味付けで料理した大作群像劇『ショート・カッツ』(1993)の中で、人妻たるジェニファー・ジェイソン・リーが、家庭の中に場違いな仕事を持ち込んで、夫や赤ん坊を尻目にテレフォン・セックスに励む場面に、何がしかの影響を与えているのだろうか?

 いずれにせよ、冒頭でも述べた通り、今年はアルドリッチの生誕100周年。これを機に、『ハッスル』だけでなく、他のさまざまなアルドリッチ映画にもぜひ目を向けて、その強烈で無類に面白い映画世界を、ひとりでも多くの映画ファンに存分に楽しんでもらいたいところだ。■

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