21世紀に入り、ゾンビ系ゲームの人気と共にゾンビ映画が量産され、さらに伝説的なカルト映画『ナイト・オブ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』(1968)、そして数多くの熱狂的信者を生みつつ、のちのゾンビ映画やゾンビ系ゲームに多大な影響を与えた名作『ゾンビ』(1977)等を生んだジョージ・A・ロメロ監督は、多くのリスペクトを浴びて“リビングデッド・サーガ”の待望の新作を発表した。と同時に、それまでの鈍い動きしか見せなかったゾンビとは異なり、敏捷性と怪力をも兼ね備えた現代型ゾンビが登場する作品も多数作られたのが印象深かった。

 そして、ゾンビ熱が冷めかかった2011年に製作された『夜明けのゾンビ』は、ゾンビ映画としてはかなりの異色作だ。ゾンビ映画のほとんどの時代設定が現代か近未来だが、南北戦争終焉の1865年から始まる物語。

 なぜ、ゾンビと南北戦争なのか?と推測してみると、南北戦争開戦から、ちょうど150年の節目でもあるし、スティーヴン・スピルバーグ監督のメジャー大作『リンカーン』が2012年公開のため、タイミングをちょうど見計らった(または便乗するともいう)という穿った見方もできる(ちなみに2012年には、南北戦争末期を舞台にした『リンカーン vs ゾンビ』なる低予算映画も作られた)。でも死が隣り合わせの戦争と“ゾンビ=生ける屍”を交錯させることで、生と死が混沌とした時代を表現したかったとも解釈できる。

 とはいえ、ゾンビが人肉に咬みついて皮膚を引き裂くような描写は少なからずあるが、内臓をむんずとつかみ出したり、肉や骨が剥き出しになった咬傷に、これでもかとカメラが寄って露骨なグロさを強調することはない。あくまでアメリカ史にゾンビが存在したという時代を表現したかったのだろう(だからゾンビ映画にありがちな、グチャグロな描写はほぼ皆無なので、それらを期待してはダメです)。

 それは、随所にグラフィック的なアニメを挿入していることからも伝わってくる。これには、アニメで表現した異色ドキュメンタリー映画『戦場でワルツを』(2008)の影響が少なからずあると思う。この映画は、アニメ表現の可能性及び多面性を大きく広げたといってもいい。

 『夜明けのゾンビ』は、ヤング家に代々受け継がれてきた日記が残されていて、末裔のマルコム・ヤング(『X-MEN2』『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』のブライアン・コックス)が語る形式になっている。いうなれば、彼がナレーションの役目を担っているわけだ。

 南北戦争を生きのびたエドワード・ヤング(TVシリーズ『HEROES Reborn/ヒーローズ・リボーン』のマーク・ギブソン)の葛藤と死闘の日々が、序章から第7章にかけて描かれる。

 南北戦争が終わって6年後、墨絵のように薄暗く、寒々とした山林の中に居を構えたエドワードだが、2日間狩りに出ている間に妻がゾンビに咬まれてしまい、ゾンビ化した妻を撃ち殺してしまった。しかも11歳の愛息アダムが行方不明に! エドワードは、地獄のような世界で、いつゾンビになるかもしれないため、自らが生きた証しを残そうと全てを記録しはじめた。そこにはゾンビの弱点とか、動作が鈍い特徴も記しておいた。そして、馬にまたがって愛息アダム捜索の旅に出ると、日々ゾンビが増えていることに気づき、ゾンビになった息子を発見する。アダムを撃ち殺した彼は、生前息子と一緒に行きたがっていたエリスの滝に、息子の遺灰を撒くために旅を続ける……。

 大自然を背景にエドワードの姿がナレーションと共に語られるため、常に客観的な視点で映ることになる。エドワードのアップを捉えていても、淡々と語られるナレーションに耳を傾けながら、エドワードの言動を静かに見つめる感じだ。しかしエドワードやゾンビらが自然の中を徘徊するその映像が、時折見事なグラフィック映像のように映し出される。それらが、随所に挿入されたアニメと共に編集されて、一連の流れの中に紡ぎ出されると、映画全体がある種のグラフィックノベルのように見えてくる。

 グラフィックノベルとは、表現のみならず、アート志向の絵柄で構築された大人向けのコミックスのこと。今までは『ロード・トゥ・パーディション』(2002)や『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(2005)等、グラフィックノベルの原作が映画化された作品はたくさんあったが、その逆、映画というメディアを使ってグラフィックノベルのような形式にした作品は珍しい。果たしてそれが、作り手の真意かは定かでないが、本作の新鮮な驚きはそこにこそあると思う。

 エリスの滝を目指すエドワードの前に、ゾンビ以外に様々な人間が現れる。南軍の残党の将軍ウィリアムズ(『悪魔のいけにえ2』『マーター・ライド・ショー』のビル・モーズリィ)は、北軍に多くの部下を殺されて気がふれてしまい、腹心の部下2人とジョンソン軍医を従え、強姦や略奪を繰り返し、人をさらってきてはゾンビ免疫を探し続けていた。ゾンビ免疫さえ手に入れば、ゾンビの群れを引き連れ、“元南部を奪い返す”という途方もない謀略を抱いている。人をさらうのは、ゾンビ研究とゾンビ免疫を探すため。将軍ウィリアムズは、唾液が血流に侵入することで感染することを突きとめていて、ゾンビは決して自然現象ではなく、人間が作ったものだとわめき散らしている。

 将軍ウィリアムズらに誘拐された妹のエマ(TVシリーズ『HELIX―黒い遺伝子―』のジョーダン・ヘイズ)を奪い返そうと考えるアイザックは、エドワードに協力を要請する。

 そしてエドワードやアイザックを助けるのが、森の中で孤独に静かに暮らしている女祈祷師イブ(『ハウリング』『E.T.』のディー・ウォーレス)だった。しかも彼女は、ゾンビ誕生の秘密を握っていた。さらに彼女が隠し持っていた巻物には、世界各地で数世紀に渡って、ゾンビの事例があることが記してあった。古代アフリカでは、部族の聖職者が巻物を使い、死者を蘇らせていた。その1200年後、ヨーロッパ人が廃墟の下から、その巻物を発見し、自らを神と思い込んだ者たちが、“人間の生き死に”を操ろうとした。その過程で、何千もの命、あるいは魂が奪われたのだ。ゾンビの伝説は全て繋がっていて、先の事例から250年後、奴隷船で感染が起きた。元々邪悪な目的のための奴隷船は、やがて7つの海に呪いを広げていった。こうしてゾンビは、感染力と傲慢な者たちによって増殖していったという。

 人間の邪悪な歴史的事件において、ゾンビが必ず関わってきたことを匂わせている。ゾンビがあるところ、人間の邪悪さが蔓延しているという証しか。

 エドワード、アイザック、エマ、イブがそれぞれの痛みを感じていて、その痛みが彼ら自身に“生”への実感を与えている。確かに“生”を最も強く感じる瞬間は、恐怖や死を間近に感じる時である。筆者がホラー映画を愛するのは、緊迫感溢れる恐怖を描くと同時に、そこに“生”への執着を感じるためだ。

 エドワードは言う。「この恐怖の中でも変わらない、自然の美しさに驚いた。久しぶりに生きていることを実感できた……」

 末裔マルコム・ヤングのナレーションがこう語る。「世界は痛みに溢れている。いつの世も変わらない。だが大したことではない。周囲の人々が、生きる喜びを教えてくれる……」

 そして、こう付け加えた。「歴史とは、生存すること。暗闇に包まれた人生、傷ついた心の日々。他に生きがいはないのか。金色の夕陽や滝の水のきらめきでもなかった……だが今は、全て違って考えることができる。ゾンビが彷徨う世界でも、希望を失わない限り、なんだって可能になる」

 『夜明けのゾンビ』は過去の時代が舞台であるが、世界に不穏な空気……徐々にキナ臭くなっている今の映画でもある。“ゾンビ=生ける屍”にならないため、希望を持って生きること。作品からそんなメッセージ性をほのかに感じ取ることができる。■

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