ザ・シネマ 鷲巣義明
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COLUMN/コラム2017.01.05
オリジナル版の要素を取り込みながら、異なるムードを醸しだした〜『パトリック 戦慄病棟』〜01月21日(土)深夜
ある種、変態的なラヴストーリーともいえるオーストラリア映画『パトリック』(78)は、79年のアボリアッツ国際ファンタスティック映画祭グランプリを受賞しながらも、日本では劇場未公開。でもSF&ホラー映画ファンの熱い支持を得てきたカルト映画だ。 監督には、ヒッチコック監督の『トパーズ』(69)で撮影現場を経験したことのある、根っからのヒッチコッキアン、リチャード・フランクリン(1948年生まれ~2007年死去)。『パトリック』では、『サイコ』(60)のように母親にトラウマをもった青年を主軸にし、『疑惑の影』(43)、『ダイヤルMを廻せ!』(54)、『マーニー』(64)等、随所に師匠へのオマージュを盛り込んでサスペンスを盛りあげていた。また1983年には、師匠の大ヒット作の続編『サイコ2』を監督してヒットさせた。 今回の作品は、大まかな流れはオリジナル版と似たような展開を見せるが、大胆な脚色を施して全体のムードを変え、結末も異なるリメイク版になっている。監督には、オーストラリア出身で、ジャンル系映画の異色ドキュメンタリー『マッド・ムービーズ~オーストラリア映画大暴走~』(08)で注目された気鋭マーク・ハートリーが務めた。 そのためか、オリジナル版にあったヒッチ作品へのオマージュの数々が、本作でも異なる形で散見できる。例えば、病院へと連なる断崖沿いの道路を自動車が這うように走行してゆく場面は『断崖』(41)風だし、病院に入る真俯瞰ショットは『北北西に進路を取れ』(59)を彷彿させ、キャシディ婦長の妖しい存在感は『レベッカ』(40)のダンヴァース夫人を匂わせるし、妖しい雰囲気を放ちつつ地下室に秘密が隠されているあたりは『サイコ』のサイコ・ハウスを意識している。オリジナル版が、ヒッチへのリスペクト&オマージュ描写がサスペンスを醸成する一要因を担っているところから、新たにヒッチ・サスペンスの要素を盛り込むことも、リメイクの重要な要素だと考えたのかもしれない。 とはいえ、オリジナル版との最も大きな違いは、海沿いの崖の上に建つ古びた私立病院ロジェット・クリニック(修道院を改装して再利用した設定)の陰湿なたたずまいと、重度の昏睡状態の患者を実験体にし、電気実験による脳研究を推し進めるロジェット院長の存在だろうか。ロジェット・クリニックは海沿いにあるため、霧が立ち込める時があり、実に怪しげで幻想的な雰囲気を醸しだしている。そのうえ研究で高い電磁波を使っているためか、院内では植物が育たないという(コワッ)。そこの院長ロジェットが、かつて医学界でフランケンシュタインの異名を取り、医学界から追放されたのち、密かにスポンサーの資金力を得、非道な研究をずっと続けている。脳がたとえ損傷した患者であっても、投薬直後に高圧電流を流して刺激し、眠っている神経を呼び覚ましてつなぎ変えようとする驚きの実験だった。 ロジェットのパトリックに対する見解はこうだ。「24時間、彼の脳電図を観察している。生理現象から神経衰弱まで、脳波の記録を。すべてのパトリックの動作は、意識の有無にかかわらず電流次第。神経中枢を刺激すれば、いいだけ。植物状態とはいえ、彼の脳内には電流が流れている。時々、いずれかが作用して体を動かすだろう。ただそれだけのこと。彼は、73kgの動かぬ肉塊。死んだ脳を抱えたな。すべて私の指示に従え。この扉が開いたら、今までのやり方は忘れろ!」 ロジェットは、実験体パトリックを治療したいわけでなく、あくまでも持論の証明が欲しいだけ。そのための“生ける屍”だと思っている。その下で“氷の女王”の威厳を漂わせる看護師長ジュリアがいる。彼女はロジェットの娘で、噂では一度ここを出て結婚するが、夫が自殺し戻ってきたといういきさつがある。 ゴシックホラーのような舞台に、我が道をゆくマッドサイエンティストの凶行は、まるで怪奇映画のたたずまい。そんな異常な世界に、オリジナル版より、だいぶ美少年になったパトリックと、彼が好意を抱くキャシー・ジャカード看護師との奇妙な関係が描かれる。クリニックの地下室は、ロジェットとジュリア以外は立ち入り禁止。 キャシーは、恋人エド・ペンハリゴン(オリジナル版でキャシー役を熱演したスーザン・ペンハリゴンに敬意を表した役名)との関係が悪化し、ストーカーのような彼から離れるため、ロジェット・クリニックの看護師業務に就くことになった。 キャシーを演じたのが、ビーチ系映画やホラー映画で活躍してきたスレンダー女優、シャーニ・ヴィンソン。サーフィン系OVA映画『ブルークラッシュ2』(11)ではしなやかなスレンダーボディを充分拝ませてくれたし、『パニック・マーケット3D』(12)では津波によるサメ・パニックに対峙するスクリーム・ヒロインを全身で熱演! 『サプライズ』(11)では、サヴァイバル・スキルを身につけたヒロインが襲撃者たちを相手にキリング・マシーンと化してゆく変貌ぶりがたまらなかったぞ。これらの作品で一気にシャーニのファンになった筆者としては、オリジナル版のキャシー役を演じた癒し系のスーザン・ペンハリゴンとは異なり……ちょっと見、健気に見えそうなシャーニが、白衣(映画では白ではなく水色だけど)に身を包み、恐怖と気丈に対峙していく姿に萌え萌えなのだ。 そして、シャーニ扮するキャシーが、ロジェット・クリニックで最初に担当を任された患者が、15号室(オリジナル版も同じ15号室。タロットカードで15は、悪魔に属するカードで、拘束・束縛・誘惑・妬みなどの意味がある)のパトリックだった。 キャシーがベッドに寝たきり状態のパトリックと初接見の日、キャシーがパトリックに顔を近づけた時、彼の口から飛ばされた唾が彼女の顔にかかった。ロジェットやこの病院を“植物園”と揶揄する同僚の看護師は、無意識に筋肉が反応しただけだと言うのだが……。 キャシーは、同僚の看護師がパトリックのシーツを取り換える際、彼の体をぞんざいに扱っている姿を目撃し内心驚いてしまう。優しいキャシーに対し、パトリック流のあいさつがツバを吐くことだった。でもキャシーにとって、その後もパトリックが彼女の前で唾を吐き続けることから、彼の意識を感じ取るようになる。でもパトリックが意識を伝えてくるのは、キャシーだけ。 知り合ったばかりの精神科医ブライアンにパトリックのことを相談すると、ブライアンがいきなりキャシーに対しツバを吐いた。驚いたキャシーはブライアンに激怒するが、どうやらパトリックの超能力によって、ブライアンの意識に侵入してやらせた行為だった。パトリックにしてみたら、2人だけの秘密を、他人に、しかも男に話したことが許せなかったらしい。観ているうちに、パトリックが吐く唾にはいろいろな思いが込められているように見え、時にパトリックの想いの一つ……キャシーへの性的な隠喩も込められているように思う。 キャシーが、パトリックの体をあちこち触り、股間の方に手を伸ばすと股間が膨らんでくるくだりはエロティックだし、パトリックがパソコンを使って、キャシーに「オナニーして欲しい」と伝えてくるところはちょっと怖い。 パトリックはキャシーを好きになるが、やがてそれが執着へと変化し、脳で思い描いたことを超能力で強引に変えてしまう。でも彼の超能力で大概なものは思い通りにできるが、真に操りたいのは、一人の看護師キャシーの心だが、それがほんとに難しい。 怪奇幻想的なムードを漂わせながら、拘束されたようなパトリックが超能力という絶大な力を持ってしても、キャシーの女心を拘束できない変態的なラヴストーリー。オリジナル版にとらわれず、新たな要素とオリジナル版の魅力を巧みに融合させたエンタメ・ホラーだと思う。■ © MMXIII Roget Clinic Pty Ltd, Screen Australia, Melbourne International Film Festival Premiere Fund, Film Victoria, Screen Queensland, Cherryhill Holdings Pty Ltd, PDER Pty Ltd and FG Film Productions (Australia) Pty Ltd
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COLUMN/コラム2016.12.17
ゾンビ映画ファンだけでなく、ゾンビ嫌いな人にも観て欲しい、2人の愛を見せつけられる秀作ドラマ『ゾンビ・リミット』
ちょうど1981年~1985年は、リターンドと名づけられた未知のウィルスが発見され、多数の死者を出した第1次流行期にあたる。そのウィルスの感染者はリターンドと呼ばれた。感染者が出血した場合、他者は決して血に触れてはならないし、感染者をそのまま放置すれば、数日後には意識を喪失し、生肉と血に飢えたゾンビのように凶暴性を発揮する。 これは現代史において人類最大の悲劇となり、現在まで世界中の犠牲者は1億人以上とされる。第1次流行期から治療を研究しはじめて10年後、リターンド(感染者)の髄液から採取した“リターンドたんぱく質”により大きな希望がもたらされた。そして第2次流行期以後は、多くの人を救うことができた。 でも全てのリターンドを完治できるわけではなく、感染後、36時間以内に薬“リターンドたんぱく質”を注射し、効果があらわれた者だけしか助からないし、助かった者も一生、薬をうち続けなければならない。国はリターンドに薬を配給し、患者を管理していた。 一方、リターンドへの反発は徐々に大きくなり、反リターンド派のみならず一般市民による差別やデモが相次ぎ、各地でリターンドが襲撃される暴行死傷事件が起きていた。そのため、リターンドは密かに暮らし、周囲にカミングアウトすることはなかった。 ゾンビのような凶暴化した人間を生み出す新種のウィルスに対する反応を、多少のシミュレーション風に描いたものでは、『28日後…』(02)の続編『28週後…』(07)が思いだされる。感染者の恐怖とそれに対する社会(世界)の対応が描写されていたが、見せ場のメインは、ゾンビのような感染者が人間に襲いかかる光景だった。 でも『ゾンビ・リミット』では、未知のウィルスに感染したリターンドが徐々に増殖してゆき、それに対する社会と人間たちの様々な反応を描いたドラマであって、ゾンビのように凶暴化したリターンドが人間に襲いかかる描写はほんのわずかしかない。だから、そのテの凄惨な残酷描写を期待するファンにとっては、最初は肩すかしを喰らった感があるかもしれないが、それでも徐々に見応えある作品世界に没入してゆくハズ。 ゾンビ映画をリスペクトしつつも、ゾンビ映画の見どころの一つ、感染者の人間襲撃場面を極力排している。でも筆者は、それでも本作が大好き。愛すべき作品である。しかしこの邦題は、あまり好きじゃない。原題は“THE RETURNED”で、未知のウィルス名、およびその感染者を指すが、RETURNEDだけなら「戻ってきた」という意味がある。薬“リターンドたんぱく質”の効果によって、ゾンビ化から戻ってくるという意味もあるためか、邦題は劇場公開やレンタル・ビデオ市場を考慮し、分かりやすいゾンビの語を使用し、ゾンビ化への限界点を意味するだろう『ゾンビ・リミット』と名づけたのかもしれない。 主人公は、ミュージシャンでギターの講師もするリターンドのアレックスと、その恋人のリターンド治療医師のケイト。 6年前のある日、アレックスがショップで倒れている中年男性を助けようとしたところ、実は彼がリターンドとは分からず、指を咬まれてしまう。アレックスを診察したのがケイトで、2人はリターンドと担当医師という関係を超えて愛を育むことになる。 ケイトは、日々リターンド患者を診察し、彼らに対して慌てさせないよう優しく接する。感染した幼い子供をもつ両親が、「“リターンドたんぱく質”の在庫はあとわずかという噂が流れているが……」と質問されると、ケイトは「根も葉もないデマよ」とキッパリ。国はリターンドをできる限り増やさないよう、感染者に“リターンドたんぱく質”を配給し続けているのだから、必然的にそれを採取できる感染者は減少してくる。それを早くから察知していた国側は、“リターンドたんぱく質”の代わりになる、人工開発された“合成たんぱく質”の研究開発に着手するが、未だ完成にいたっていない。 ケイトはその事実を知っていても、優しい女医を演じて嘘をつき続け、しかも自分の勤務病院の薬品管理部の女性を通じて、アレックスのために密かに“リターンドたんぱく質”を高額で横流ししてもらっている。ケイトはエゴにはしってしまい、リターンドの治療医師にあるまじき行為を取っていた。アレックスも、彼女の行為をありがたいと感じながらも反道徳的な行為に対して何も言わない。2人の部屋の冷蔵庫には、手に入れた“リターンドたんぱく質”のアンプルがたくさん隠してある。 そんな2人の姿を見ていると人間の本性を感じ取ると同時に、この世界観に説得力が増してくる。ケイトは、アレックスさえ今のままでいてくれれば、他の感染者=リターンドがどうなってもいいと考えているわけじゃない。ケイトがまだ子供だった頃、両親がリターンドとなり、哀しい出来事を体験した……だからこそ彼女は、リターンドの治療医師になったと推測できるし、かつて愛する者を救えなかった後悔が、アレックスのために横流しをさせたと理解できる。 しかも、ケイトのリターンドに対する気持ちが、前半のこんな場面で力強く迫ってきた。ある日ケイトが勤務する病院に、黒い目だし帽を被った反リターンドの過激派が銃を持って襲撃した! 彼らはケイトに銃をつきつけ、「いかれているな、ゾンビのお世話か?」と揶揄した。するとケイトは、「彼らは、リターンドよ」と気丈に言い返した。怒った過激派は、更に「(彼らを)ゾンビと言え」と銃を向けていきがるが、彼女は決して「ゾンビ」とは言わなかった。 だからケイトは、たとえ社会や民衆がリターンドをゾンビと表現しようとも、自身の中ではあくまでリターンドという思いが強い。このケイトの思いを感じ取れる人なら、邦題の『ゾンビ・リミット』には少々抵抗があるハズだ。 そして、ケイトの病院に入院中だったリターンド患者は、過激派によって全員射殺され、リターンド=感染者の名簿を奪われてしまう。 過激派によるリターンド患者殺害の衝撃は、2016年7月に起きた「相模原障害者施設殺傷事件」の加害者のように傲慢だが、それは彼らだけではなかった。感染者=リターンドは社会の弱者でありマイノリティで、“リターンドたんばく質”の在庫薄が明らかにされると、リターンドの社会の風当たりは一層強くなっていく。 反リターンド派によって、“リターンドたんぱく質”配布所や病院が続けざまに襲撃され、しまいには病院そのものが軍の統治下に置かれた。そして国側がついに発令。「リターンドは、3日以内に監視センターに出頭しなければ逮捕する」と。大型バスに乗り込むリターンドたちの姿は、まるで第二次大戦でユダヤ人らがナチの強制収容所に運ばれる様とダブッてくる。 筆者も彼らをゾンビとは言いたくない……リターンド患者が増えてゆく世界を、リアル・シチュエーション風に描きつつ、アレックスとケイトの2人の愛と葛藤のドラマが展開する(それについての詳細は、ここでは書かないでおきます)。どうか本作を観て欲しい。もしゾンビ化させるようなウィルスが蔓延したら?……それをシリアスに捉えた危機的社会として描写しているからこそ、アレックスも、ケイトも、真に迫る魅力を発する。 国から“リターンドたんぱく質”の配給が停止されようとした時、アレックスは、25年来の親友にリターンドであることをカミングアウトしたことで、予想外の事態に陥ってしまう。そして、反リターンドの過激派が感染者名簿を入手してリターンド狩りをはじめる。更に出頭しないリターンドを捜査する警察の手も迫る。是非、追いつめられてゆく2人の姿を目に焼きつけて欲しい。■ © 2013 CASTELAO PICTURES, S.L. AND RAMACO MEDIA I, INC.. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2016.12.17
オリジナル版の要素を取り込みながら、異なるムードを醸しだした〜『パトリック 戦慄病棟』
意識がなく、四肢や体を自由に動かすことができない植物状態の青年パトリックには、実は意識があって、体を動かせないことで秘かにサイコキネシス(念動力)を身につけていた。彼は唾を吐くことで、好意を抱く担当女性看護師キャシーと意思疎通を図ろうとする……。 ある種、変態的なラヴストーリーともいえるオーストラリア映画『パトリック』(78)は、79年のアボリアッツ国際ファンタスティック映画祭グランプリを受賞しながらも、日本では劇場未公開。でもSF&ホラー映画ファンの熱い支持を得てきたカルト映画だ。 監督には、ヒッチコック監督の『トパーズ』(69)で撮影現場を経験したことのある、根っからのヒッチコッキアン、リチャード・フランクリン(1948年生まれ~2007年死去)。『パトリック』では、『サイコ』(60)のように母親にトラウマをもった青年を主軸にし、『疑惑の影』(43)、『ダイヤルMを廻せ!』(54)、『マーニー』(64)等、随所に師匠へのオマージュを盛り込んでサスペンスを盛りあげていた。また1983年には、師匠の大ヒット作の続編『サイコ2』を監督してヒットさせた。 今回の作品は、大まかな流れはオリジナル版と似たような展開を見せるが、大胆な脚色を施して全体のムードを変え、結末も異なるリメイク版になっている。監督には、オーストラリア出身で、ジャンル系映画の異色ドキュメンタリー『マッド・ムービーズ~オーストラリア映画大暴走~』(08)で注目された気鋭マーク・ハートリーが務めた。 そのためか、オリジナル版にあったヒッチ作品へのオマージュの数々が、本作でも異なる形で散見できる。例えば、病院へと連なる断崖沿いの道路を自動車が這うように走行してゆく場面は『断崖』(41)風だし、病院に入る真俯瞰ショットは『北北西に進路を取れ』(59)を彷彿させ、キャシディ婦長の妖しい存在感は『レベッカ』(40)のダンヴァース夫人を匂わせるし、妖しい雰囲気を放ちつつ地下室に秘密が隠されているあたりは『サイコ』のサイコ・ハウスを意識している。オリジナル版が、ヒッチへのリスペクト&オマージュ描写がサスペンスを醸成する一要因を担っているところから、新たにヒッチ・サスペンスの要素を盛り込むことも、リメイクの重要な要素だと考えたのかもしれない。 とはいえ、オリジナル版との最も大きな違いは、海沿いの崖の上に建つ古びた私立病院ロジェット・クリニック(修道院を改装して再利用した設定)の陰湿なたたずまいと、重度の昏睡状態の患者を実験体にし、電気実験による脳研究を推し進めるロジェット院長の存在だろうか。ロジェット・クリニックは海沿いにあるため、霧が立ち込める時があり、実に怪しげで幻想的な雰囲気を醸しだしている。そのうえ研究で高い電磁波を使っているためか、院内では植物が育たないという(コワッ)。そこの院長ロジェットが、かつて医学界でフランケンシュタインの異名を取り、医学界から追放されたのち、密かにスポンサーの資金力を得、非道な研究をずっと続けている。脳がたとえ損傷した患者であっても、投薬直後に高圧電流を流して刺激し、眠っている神経を呼び覚ましてつなぎ変えようとする驚きの実験だった。 ロジェットのパトリックに対する見解はこうだ。「24時間、彼の脳電図を観察している。生理現象から神経衰弱まで、脳波の記録を。すべてのパトリックの動作は、意識の有無にかかわらず電流次第。神経中枢を刺激すれば、いいだけ。植物状態とはいえ、彼の脳内には電流が流れている。時々、いずれかが作用して体を動かすだろう。ただそれだけのこと。彼は、73kgの動かぬ肉塊。死んだ脳を抱えたな。すべて私の指示に従え。この扉が開いたら、今までのやり方は忘れろ!」 ロジェットは、実験体パトリックを治療したいわけでなく、あくまでも持論の証明が欲しいだけ。そのための“生ける屍”だと思っている。その下で“氷の女王”の威厳を漂わせる看護師長ジュリアがいる。彼女はロジェットの娘で、噂では一度ここを出て結婚するが、夫が自殺し戻ってきたといういきさつがある。 ゴシックホラーのような舞台に、我が道をゆくマッドサイエンティストの凶行は、まるで怪奇映画のたたずまい。そんな異常な世界に、オリジナル版より、だいぶ美少年になったパトリックと、彼が好意を抱くキャシー・ジャカード看護師との奇妙な関係が描かれる。クリニックの地下室は、ロジェットとジュリア以外は立ち入り禁止。 キャシーは、恋人エド・ペンハリゴン(オリジナル版でキャシー役を熱演したスーザン・ペンハリゴンに敬意を表した役名)との関係が悪化し、ストーカーのような彼から離れるため、ロジェット・クリニックの看護師業務に就くことになった。 キャシーを演じたのが、ビーチ系映画やホラー映画で活躍してきたスレンダー女優、シャーニ・ヴィンソン。サーフィン系OVA映画『ブルークラッシュ2』(11)ではしなやかなスレンダーボディを充分拝ませてくれたし、『パニック・マーケット3D』(12)では津波によるサメ・パニックに対峙するスクリーム・ヒロインを全身で熱演! 『サプライズ』(11)では、サヴァイバル・スキルを身につけたヒロインが襲撃者たちを相手にキリング・マシーンと化してゆく変貌ぶりがたまらなかったぞ。これらの作品で一気にシャーニのファンになった筆者としては、オリジナル版のキャシー役を演じた癒し系のスーザン・ペンハリゴンとは異なり……ちょっと見、健気に見えそうなシャーニが、白衣(映画では白ではなく水色だけど)に身を包み、恐怖と気丈に対峙していく姿に萌え萌えなのだ。 そして、シャーニ扮するキャシーが、ロジェット・クリニックで最初に担当を任された患者が、15号室(オリジナル版も同じ15号室。タロットカードで15は、悪魔に属するカードで、拘束・束縛・誘惑・妬みなどの意味がある)のパトリックだった。 キャシーがベッドに寝たきり状態のパトリックと初接見の日、キャシーがパトリックに顔を近づけた時、彼の口から飛ばされた唾が彼女の顔にかかった。ロジェットやこの病院を“植物園”と揶揄する同僚の看護師は、無意識に筋肉が反応しただけだと言うのだが……。 キャシーは、同僚の看護師がパトリックのシーツを取り換える際、彼の体をぞんざいに扱っている姿を目撃し内心驚いてしまう。優しいキャシーに対し、パトリック流のあいさつがツバを吐くことだった。でもキャシーにとって、その後もパトリックが彼女の前で唾を吐き続けることから、彼の意識を感じ取るようになる。でもパトリックが意識を伝えてくるのは、キャシーだけ。 知り合ったばかりの精神科医ブライアンにパトリックのことを相談すると、ブライアンがいきなりキャシーに対しツバを吐いた。驚いたキャシーはブライアンに激怒するが、どうやらパトリックの超能力によって、ブライアンの意識に侵入してやらせた行為だった。パトリックにしてみたら、2人だけの秘密を、他人に、しかも男に話したことが許せなかったらしい。観ているうちに、パトリックが吐く唾にはいろいろな思いが込められているように見え、時にパトリックの想いの一つ……キャシーへの性的な隠喩も込められているように思う。 キャシーが、パトリックの体をあちこち触り、股間の方に手を伸ばすと股間が膨らんでくるくだりはエロティックだし、パトリックがパソコンを使って、キャシーに「オナニーして欲しい」と伝えてくるところはちょっと怖い。 パトリックはキャシーを好きになるが、やがてそれが執着へと変化し、脳で思い描いたことを超能力で強引に変えてしまう。でも彼の超能力で大概なものは思い通りにできるが、真に操りたいのは、一人の看護師キャシーの心だが、それがほんとに難しい。 怪奇幻想的なムードを漂わせながら、拘束されたようなパトリックが超能力という絶大な力を持ってしても、キャシーの女心を拘束できない変態的なラヴストーリー。オリジナル版にとらわれず、新たな要素とオリジナル版の魅力を巧みに融合させたエンタメ・ホラーだと思う。■
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COLUMN/コラム2016.10.15
【ネタバレ】奇才ヴァーメルダム監督が描く、シッチェス・カタロニア映画祭グランプリ受賞作『ボーグマン』に見えてくるもの!
日本ではほとんど知られていない俳優たちばかりが出演し、静かに淡々とした映像が映し出されていくが、ミステリアスで得体のしれない人間を見るのは、実に興味深くて魅きつけられる。それが1人ではなく、どこからともなく集まってくるような恐ろしい集団となれば、なおさらだ。なんとも不気味で刺激的、且つアーティスティック、とはいえ最後まで飽きさせないエンタメ性も感じさせながら、シュールなテイストに満ちたオランダ=ベルギー=デンマーク合作の秀作スリラー(その不可思議なセンスからは、デヴィッド・リンチ風の匂いも感じ取れる)。 他人の土地に、無断で幾つも穴倉(ねぐらみたいなもの)を掘り、そこにホームレスのような人々が秘かに暮らしている。そんな彼らを察知した地元の人々が追い出しにかかると、一斉に穴倉から出てきて逃げ出す。 逃げる集団のリーダー格の1人は、乱れた長髪に無精ひげを生やし、大きな庭がある邸宅にやってきて、「あなたの奥さんを知っている……汚れているから、なんとか風呂を貸して欲しい」とおかしなことを強引にねだる。「妻を知っている」とテキトーなことを言う男に怒り狂った夫リシャルトは、その男を暴力的に叩きのめして追い帰してしまう。 この最初の事件が起きる前、すなわち冒頭にこんな字幕が出ていた。「そして彼らは、自らの集団を強化するため、地球へ飛来した」と……なんなんだ、この意味は!? その“彼ら”を、全編を観て分かったことを要約してみれば、他人の土地に無断侵入して、仲間と連絡を取りあって狡猾に策略を弄し、俗物的な人間を次々と殺しては、仲間(信奉者)を増やしてゆく殺人集団である。でも、どう見ても、“地球へ飛来”してきたような生物には見えない。 そして題名のボーグマンとは、謎のホームレス集団のリーダー格に見える男、或いは幹部相当の男なのか……自らをカミエル・ボーグマンと名乗っていた。「イエスは自己中のクソ野郎だ」と言い放つ彼は、大天使ミカエルを嘲笑したような名になっているのも、当然偽名だからだろうか。 ならば“地球へ飛来した”は、何らかの比喩なのか。高級住宅地に住むような富裕層を嫌う集団のようにも見えるが、リシャルト家の庭師夫婦……平凡だが性格が良さそうな人を殺害したり、リシャルト家に庭師の面接に訪れた中産階級の男たちを襲ったりしていた。そう考えると、ボーグマンらは、人間社会から逸脱し、金品や権力や名声に固執しない自由奔放さに生きつつも、彼らなりの決まりごとが確かに存在しているようだ。 カミエル・ボーグマンは、映画が始まって早々、次の標的にリシャルトと妻マリナに絞っていた。カミエルがマリナと過去に出会っていたか否かは不明だが、マリナはリシャルトが暴力で傷めつけたカミエルを気遣い、夫がいない間に風呂に入れ、大きな庭の離れにある小屋を数日間貸してあげる。カミエルは外部にいる仲間と携帯電話で連絡を取り合い、「時は来たか?」の問いに対し「まだだ」と応えていた。そしてカミエルは、秘かに邸宅に侵入しては様子を窺っていた。不思議なことに、悪夢を見て泣いていたマリナの娘イゾルデに接し、なにやら話しを聞かせていたのだ。 このイゾルデがかなり変わった子で、クマのぬいぐるみの体を裂いて中の詰め物を抜いて、代わりに土を入れていた。更に(庭師の面接にやってきた)暴力で叩きのめされた男の顔面に向け、トドメとばかりに大きなブロックを振りおろしたのだ。まるで子供が矮小な生物をいじめ、殺してしまうかのように。 すべては、カミエル・ボーグマンの悪影響なのか。それを感じさせるのが、マリナのこのセリフ。「何かに囲まれている。時々忍び込んでくるの。その温かさは心地いいけど、私たちを惑わせる……悪意を秘めているの。私には、そう感じる。後ろめたいの。私たちは、あまりにも恵まれている。罰を受けるわ」 マリナは、カミエル・ボーグマンを怖れていても、彼には抗えないほど魅かれてしまう何かがあると思っている。夫リシャルトとは180度異なり、何を考えているのかも分からないし、裕福な生活を与えてくれるわけでもない。なのに、彼のどこがいいのだろうか? やがてカミエルの肉体をも欲するようになる。彼には、女性の心を手玉に取る魔力があるのかもしれない。 リシャルト家の周辺で、ボーグマンらによって人々が殺されていくが、死体はすべて、ある池の底に遺棄されていた。謎の集団は黙々と作業をこなすように死体を処理する。死体の頭部をバケツに入れてコンクリート詰めにし、乾いたらその死体を自動車で運んで池に沈めるのだ。池の底には、コンクリート詰めのバケツの重量で、池の底に頭部が着いた逆さ死体が幾つも並んでいる。ちょっと見、水の流れに揺れる大きな水草のようにも見えるが(笑)、全て死体。これが不気味! 観終わって思うのは、カミエル・ボーグマンらカルト犯罪集団は、格差社会が生んだ恐怖の象徴なのか、富裕層に対する怒りを表現した何かか、それとも人間の代表的な欲を排してダークサイドに傾倒した人間を描きたかったのか、その意図は全くもって不明である。 従って、この映画が描きたかったことも不明瞭に映るかもしれないが、本作の魅力はそこにあると思う。観る者の想像力に刺激を与え、“地球へ飛来した”の解釈も、観た者によって異なってくるはず。筆者はこう解釈した。地続きの国の人々が抱く不安……それは外国人(英語表記だと、ALIEN)の移民や難民の流入によって、格差社会がより一層明確になっていく。移民とは感情を交わすことができないまま、貧富の格差社会が生まれるが、やがては彼らによって土地が奪われ、職を奪われ、犯罪が起きるという危惧を、ボーグマンという集団の姿を借りて表現した社会派ホラーのように見えた。まずは頭をまっさらにして、奇才アレックス・ファン・ヴァーメルダム監督が描くユニークな秀作に触れて欲しい。■ © Graniet Film, Epidemic, DDF/Angel Films, NTR
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COLUMN/コラム2016.03.08
白い世界に現れた、赤いコートの美少女! 若きロボット科学者と少女のミステリアスな関係を描いた〜『EVA<エヴァ>』〜
ロボットとひと口で言っても多彩である。漫画やアニメに登場する巨大ロボットを想起する人もいるだろうし、インダストリーのリアルな工業用ロボットを思い起こす人もいる。または今一番身近でポピュラーな、ロボット掃除機をあげる人もいるだろうか。でも『EVA』で描かれるのは、人工知能が備わった自律型で、人間社会と共存しうる高性能ロボットの開発と、それに伴う人間たちの感情である。ここに登場する精巧な“S・I”シリーズの最新型ロボットは、人間と見紛うほどリアル。 よく、人型の自律ロボットを描くにあたって思いだされるのが、アイザック・アシモフが提唱したロボット工学3原作。人間を守るための重要な規約で、「第1条/人間に危害を加えてはならない。第2条/第1条に反する場合を除き、人間に服従しなければならない。第3条/第1条及び第2条に反するおそれがない限り、自己を守らなければならない」……これらの規約は、人型ロボットの物語を構築していく際には、映画の作り手の意識・無意識を問わず、考えなければならない。 例えば、アシモフの原作小説「バイセンテニアル・マン」を基に、人間になりたいと願う家事用ロボットを描いた『アンドリューNDR114』(99年)をはじめ、感情を実験的にプログラムされた子供型ロボットがアイデンティティーを求めて彷徨う『A.I.』(01年)、アシモフの短編集「われは、ロボット」を原案にして、殺人事件の容疑がかけられたロボットと刑事が対峙する『アイ,ロボット』(04年)、法令違反の改造を施されたロボットが独自に進化を遂げてゆく『オートマタ』(14年)など、いずれも作品の底辺にアシモフのロボット工学3原則の匂いを感じ取ることができる。 ロボットが人間に近づこうとする、或いは、ロボットが進化するSFドラマを構築しようとする場合、ロボットを通じて人間の普遍的な姿を投影したり、科学の暴走に警鐘を鳴らすなどの表現を込めてきた。しかし『EVA』の舞台の近未来では、自律型の執事用ロボット“S・I・7”やペット型ロボット“グリス”などが、人間社会と密接に絡んで共存している。ここではロボットの進化や脅威を描くのではなく、人間とロボットの壁(境界)を超えた“普遍的な愛”を詩的に捉えている。 雪がしんしんと降り積もる郊外の静かな街を背景にして、ロボット製造から一度は逃げてしまった科学者が、再び自律型の高性能ロボットを作ろうとするドラマ。詩的でファンタジックなメルヘン要素を見せていく一方で、哀しみをおびた情緒的な愛の寓話とも受け取れる。例えば、ロボットが人間の指示に従わず、どうしようもない時にかける言葉がある。それはロボットに対する、最も神聖な言葉「目を閉じると、何が見える?」 するとロボットは、安らかに眠るように突然機能を停止!……それはロボットにとって、死を意味する。一度ショートした感情の記憶は修復不可能で、再起動しても同じロボットではなくなってしまう。そのあたりの表現が、ハリウッド映画とは異なるスペイン映画らしい芸術性か。 若くて優秀なロボット科学者アレックス・ガレル(『ラッシュ/プライドと友情』のダニエル・ブリュール)は、かつて高性能の自立型ロボット第1号“S・I・9”を研究・製造していたが、肝心の感情生成機能が欠けていて未完成のままだった。そして、突然どこかへ雲隠れしてしまってから10数年後、大学の女性ロボット科学者ジュリアに呼び戻され、完璧な自律型ロボットの製造を依頼される。彼は一緒にいたくなるようなロボットを造りたいと切望するが、そのためには外見や感情データを収集するための人間のモデルが必要だった。 そしてアレックスは、ロボット科学者で兄のダビッド、かつてのアレックスの恋人で兄の妻になっていたラナ・レヴィ(『スリーピングタイト 白肌の美女の異常な夜』のマルタ・エトゥラ)との久々の再会を果たした。 父亡きあと、空き家になった実家でロボット製造に取りかかるアレックスだったが、ある日、通りがかった小学校で赤いコートを着た美少女エヴァ(クラウディア・ヴェガ)を発見してから、喋ったり、何度も逢ううちに新たなロボット製造のモデルに相応しいと考えはじめる。 純白の世界の中、赤いコートを着て歩き回る10歳の美少女は、少々おませで、アレックスの心を無邪気に翻弄する。『ロリータ』(61年)のように、大人の男性と美少女の妖しげな匂いを仄かに放っているが、ある事実が判明する。それはエヴァが、兄ダビッドと元恋人ラナの娘だった。両親は、エヴァがアレックスと一緒に仕事をすることに反対していた。 エヴァ(EVA)の名は、旧約聖書の創世記に誕生した最初の女性イヴに由来し、ヘブライ語で“命”や“生きるもの”を意味する。ラナは、エヴァに何を託したかったのか? そしてアレックスが、エヴァがラナの娘と知らず、なぜエヴァに夢中になったのか? おそらく、ラナに対する秘かな想いを、知らず知らずの内にエヴァの中に見ていたためか。アレックスのエヴァへの気持ちは、ラナへの断ち切れぬ愛でもある。アレックスのラナへの強い愛情は、更に強い妄想を抱かせてしまい、意外な事実が明らかとなり、恐ろしい事態へと発展していく。 エヴァは母ラナに反対されながらも、好意を抱くアレックスに協力する。その結果、ロボットの感情記憶装置の設定データを採取され、“S・I・9”にプログラムされる。見たモノに反応し、人間のように経験が記憶を創りあげてゆくビジュアルは、まるで雪の結晶のようにファンタジックで美しいが、とても壊れやすいガラス細工のようにも見える。そして、アレックスのエヴァを通じて感じさせるラナへの愛も、雪の結晶のように美しくも儚い。 おそらく「街全体を白く染めあげている雪」と「“S・I・9”の心を創りあげる記憶」と「アレックスのラナに対する愛情の記憶」の3つを、結晶というシンボリックな形で関連づけているよう。 表向きはSF映画だが、その実、人間が愛に翻弄される詩的な寓話だった。アレックスの愛が新たな愛を生み、別の嫉妬や憎悪を生み、ある意味、結晶のようにつながっている。だから、ロボットらしい見せ場などのSF的醍醐味はほぼ皆無であるが、その代わりに詩的でファンタジック、それでいて哀切な世界観にしばらく浸っていたくなるほど。だから大人向けのSFダーク・メルヘンといった方が適切かもしれない。 それこそが『EVA』の最大の魅力だと思う。メルヘンのように雪の白い世界の中、赤いコートを着た美少女が現れ、大人たちにかつての愛を思い出させ、無邪気に翻弄してまわる。人間にとって、なかなか消せない愛、忘れられない愛は、記憶の中に生き続ける……そんな作り手の想いが伝わってくる。 ラナがエヴァによく読んであげた本が、「アラビアンナイト」だった。エヴァはその本について、こう言う。「眠りにつくお姫様を、王子様が殺さなきゃいけないの。だけどお姫様は、毎晩毎晩、王子様にステキなお話しをしていたの。王子様は、続きが気になって、お姫様を殺せなくなってしまうのよ。こうして一夜、一夜、過ぎていきました……」 美少女エヴァの寝顔は、安らかであって欲しい。■ ©Escándalo Films / Instituto Buñuel-Iberautor
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COLUMN/コラム2016.02.08
抗いようのない恐怖にさらされるヒロイン! 『恐怖ノ黒電話』は、多層的構造による恐怖が見もの!!
原題の“THE CALLER”には、呼び出す者や訪問者の意味がある。でも邦題では、ストレートに電話機が恐怖の題材だと明確化している。電話をかけてくる者と電話を受ける者は物理的な距離は離れているのに、相手が恐ろしい人物だと分かった途端、一気にその距離が縮まるという衝撃性を併せもつ……それが電話機だ。怪しい人物であれば、もしや身近にいて身を潜めているのでは?なんて不安感に苛まれてしまう。電話をかけてきた相手の姿が見えない分、恐怖感や切迫感が増幅され、真綿でジワリジワリと首が絞められてゆくような感覚に苛まれる。 過去のホラー映画にも、電話を用いて恐怖表現に秀でた作品が多数あった。精神的に孤立してゆくヒロインに、猟奇殺人鬼から電話がかかってきてショックを受け、やがて電話機そのものが恐ろしいモノに見えてくる。 例えば、『暗闇にベルが鳴る』(74年)、『夕暮れにベルが鳴る』(79年)、『スクリーム』(96年)等の代表作がある。かと思えば、電話線を通じて高電圧を流して感電死させるという『ベル』(82年)だとか、怨念が電話機を通じて不気味な電子音を放ったり、公衆電話からコインを飛ばして殺害するというキッカイな見せ場を盛り込んだ『ダイヤル・ヘルプ』(88年、監督は『食人族』のルッジェロ・デオダートだ!)など、異色作やカルトな珍品まである。日本では、円谷プロの特撮TVシリーズ『怪奇大作戦』(68年)の第4話「恐怖の電話」(監督は実相寺昭雄)があって、これは前述の『ベル』の先駆けともいえるようなアイデアが用いられていたし、携帯電話を通じて呪いが連鎖・拡散していく三池崇史監督のJホラー『着信アリ』(04年)が有名だ。 でも『恐怖ノ黒電話』は、それらの作品と比しても恐怖度はもちろん、一筋縄ではいかない展開に思わず唸ってしまう秀作である。本来なら、まっさらな状態で作品に触れて欲しいところだが、スター俳優が出演していないためか、認知度があまり高くない。そこで斬新性の一端を記しておきたい。 DV夫スティーヴンと離婚訴訟中のメアリー・キーが、年代物の古びたアパートに引っ越してくる。メアリー役には、スティーヴン・キング原作のTVシリーズ『アンダー・ザ・ドーム』のヒロイン、レイチェル・レフィブレ(※ラシェル・ルフェーブルの日本語表記もあり)が演じた。『~ザ・ドーム』のジュリア役のように、果敢に行動する気丈な女性像を作りあげている。 DV夫はメアリーに対し、150m以内接近禁止令が出ているほどの暴力魔。そのため一刻も早く、密かに新たな住居を決める必要があったため、物件をあれこれ吟味する余裕がなかった。そのアパートの部屋には、黒い電話機が設置されていて、引っ越してまもなく、激しくベルが鳴り出した。 メアリーは、最初は夫からの嫌がらせ電話か?と思ったが、電話に出てみると中年女性の声だった。その女は、「夕べ、部屋の前を通ったら、窓際にボビーの姿を見たわ」と言った。彼女はボビーをとても愛しているらしいが、メアリーには何のことかサッパリ分からない。ボビーが住むアパート名を聞くと、エル・フランステリオL2号室だという。それは、メアリーが住みはじめたアパートの部屋だった。 その日以来、メアリーは時々、フラッシュバックのような幻覚に悩まされ、毎日かかってくる黒電話のベルにうんざり。メアリーは、間違い電話につきあう暇はないと中年女性に激しく言うと、「ボビーはベトナム戦争から帰還し、告白してくれたのよ」と言う。 “ベトナム戦争”の言葉に引っかかったメアリーに対し、中年女性は、「こっちは、1979年9月4日よ」と言う。部屋の窓から見ると、通りの向こう側に黒い人影が見える……。 中年女性からの電話は、DV夫スティーヴンによる嫌がらせかも?と思うが、どうも違うらしい。DV夫の怪しげな行動(どこで調べたのか、彼女のアパートにいきなり押しかけてくる)と中年女性の謎の電話攻撃によって、メアリーに不安が押し寄せる。ここで、原題の“THE CALLER”の2つの意味(訪問者と呼び出す者)の真意が理解できるはずだ。そして心配と不安がいっぱいの新天地で生活するメアリーに対し、観る者は、一気に共感し感情移入することになる。 頻繁に電話をかけてくる中年女性は41歳で、名はローズ・ラザー。孤独で誰かと話したがっているローズは、「台所に収納庫があるでしょ? 入って右手の壁に絵を描くわ。その絵が、私が過去にいる証拠になるはず。確認してみて」と言い、電話を切った。メアリーは収納庫の内側の壁を見るが、絵はなかった。だがヘラで壁紙を剥がしてみると、そこにバラの絵が描いてあった。 メアリーは、前の部屋に住む古株のジョージに、昔の住人のことを尋ねた。「1979年にメアリーの部屋に住んでいたのは、暗い感じのローズ婦人だった。軍人と交際していてね、時々ケンカしていた。でもある日から男の姿を見かけなくなり、ローズがその部屋に越してきたんだよ。そして電話線を天井にかけ、首を吊ったんだ」と言う……。 79年に生きるローズからの電話が、なぜ現代のメアリーが住む部屋の黒電話にかかってきたのか? なんらかの理由で電話が繋がってしまったと説明があるぐらいで、それ以上の詳細な理由は語られていないものの、意外な展開と緻密に練られた幾つもの恐怖に魅せられ、観る者も理不尽な設定にのまれてゆく。しかもDV夫スティーヴンが、メアリーの周囲にたびたび現れて混乱させるから、たまったものじゃない(観ている方は、実に愉しいんだけど!)。 さらにローズが、メアリーの新たな恋人の79年に生きる両親に接近してたことが判明したり、79年に生きる少女期のメアリーに近づく等、タイムパラドックス物としての醍醐味(メアリーからしてみれば、それは恐怖!)もプラス。言うなれば、過去が変われば、現代も変化してしまう。生きている時代が違っていても、実に身近な恐怖として迫ってくるわけだ。 ここで映画ファンなら、電話機は用いていないが、『恐怖ノ黒電話』と似たようなアイデアを用いた作品が過去にあったことを思い出すだろう。父子が30年の時空を超えて無線機で語り合い、連続殺人事件の犯人を追いつめてゆくSFアクション・スリラー『オーロラの彼方へ』(00年)だ。太陽フレアの活発化により、NY上空にオーロラが出現した1999年、ある警察官が亡き父の無線機の電源を入れてみると、かつてNY上空にオーロラが出現した1969年の父と交信することに! それにより、消防士の父は死ぬはずだった火災から命拾いをし、しかも父親は容疑をかけられたナイチンゲール(看護婦)連続殺人事件の真犯人を追いつめることに……。 初公開時、アイデアは秀逸だがあまりに都合のいい展開と綺麗なまとめ方に少々落胆した覚えがあった。ちなみに同じ時期、別の時代を生きる若い男女が、無線機を通じて時空を超えて語り合う、韓国のラヴロマンス物の秀作『リメンバー・ミー』(00年)もあったと思いだした。 『恐怖ノ黒電話』の最大の面白さは、DV夫の恐怖に脅えながら、過去からの電話ストーカーの数々の行為により、現代に浸食してくるタイムパラドックスの恐怖にさらされるところにある。W(二重)の恐怖……いや、様々な恐怖が織りなす四面楚歌状態から逃れることができないメアリーの姿は、心に深い痛手を負いながらも難関に対峙しなければならない現代女性の代表かもしれない。■ ©The Caller Productions, LLC 2010
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COLUMN/コラム2016.01.20
人の死が蔓延した時代に生まれた、グラフィックノベルのような『夜明けのゾンビ』
21世紀に入り、ゾンビ系ゲームの人気と共にゾンビ映画が量産され、さらに伝説的なカルト映画『ナイト・オブ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』(1968)、そして数多くの熱狂的信者を生みつつ、のちのゾンビ映画やゾンビ系ゲームに多大な影響を与えた名作『ゾンビ』(1977)等を生んだジョージ・A・ロメロ監督は、多くのリスペクトを浴びて“リビングデッド・サーガ”の待望の新作を発表した。と同時に、それまでの鈍い動きしか見せなかったゾンビとは異なり、敏捷性と怪力をも兼ね備えた現代型ゾンビが登場する作品も多数作られたのが印象深かった。 そして、ゾンビ熱が冷めかかった2011年に製作された『夜明けのゾンビ』は、ゾンビ映画としてはかなりの異色作だ。ゾンビ映画のほとんどの時代設定が現代か近未来だが、南北戦争終焉の1865年から始まる物語。 なぜ、ゾンビと南北戦争なのか?と推測してみると、南北戦争開戦から、ちょうど150年の節目でもあるし、スティーヴン・スピルバーグ監督のメジャー大作『リンカーン』が2012年公開のため、タイミングをちょうど見計らった(または便乗するともいう)という穿った見方もできる(ちなみに2012年には、南北戦争末期を舞台にした『リンカーン vs ゾンビ』なる低予算映画も作られた)。でも死が隣り合わせの戦争と“ゾンビ=生ける屍”を交錯させることで、生と死が混沌とした時代を表現したかったとも解釈できる。 とはいえ、ゾンビが人肉に咬みついて皮膚を引き裂くような描写は少なからずあるが、内臓をむんずとつかみ出したり、肉や骨が剥き出しになった咬傷に、これでもかとカメラが寄って露骨なグロさを強調することはない。あくまでアメリカ史にゾンビが存在したという時代を表現したかったのだろう(だからゾンビ映画にありがちな、グチャグロな描写はほぼ皆無なので、それらを期待してはダメです)。 それは、随所にグラフィック的なアニメを挿入していることからも伝わってくる。これには、アニメで表現した異色ドキュメンタリー映画『戦場でワルツを』(2008)の影響が少なからずあると思う。この映画は、アニメ表現の可能性及び多面性を大きく広げたといってもいい。 『夜明けのゾンビ』は、ヤング家に代々受け継がれてきた日記が残されていて、末裔のマルコム・ヤング(『X-MEN2』『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』のブライアン・コックス)が語る形式になっている。いうなれば、彼がナレーションの役目を担っているわけだ。 南北戦争を生きのびたエドワード・ヤング(TVシリーズ『HEROES Reborn/ヒーローズ・リボーン』のマーク・ギブソン)の葛藤と死闘の日々が、序章から第7章にかけて描かれる。 南北戦争が終わって6年後、墨絵のように薄暗く、寒々とした山林の中に居を構えたエドワードだが、2日間狩りに出ている間に妻がゾンビに咬まれてしまい、ゾンビ化した妻を撃ち殺してしまった。しかも11歳の愛息アダムが行方不明に! エドワードは、地獄のような世界で、いつゾンビになるかもしれないため、自らが生きた証しを残そうと全てを記録しはじめた。そこにはゾンビの弱点とか、動作が鈍い特徴も記しておいた。そして、馬にまたがって愛息アダム捜索の旅に出ると、日々ゾンビが増えていることに気づき、ゾンビになった息子を発見する。アダムを撃ち殺した彼は、生前息子と一緒に行きたがっていたエリスの滝に、息子の遺灰を撒くために旅を続ける……。 大自然を背景にエドワードの姿がナレーションと共に語られるため、常に客観的な視点で映ることになる。エドワードのアップを捉えていても、淡々と語られるナレーションに耳を傾けながら、エドワードの言動を静かに見つめる感じだ。しかしエドワードやゾンビらが自然の中を徘徊するその映像が、時折見事なグラフィック映像のように映し出される。それらが、随所に挿入されたアニメと共に編集されて、一連の流れの中に紡ぎ出されると、映画全体がある種のグラフィックノベルのように見えてくる。 グラフィックノベルとは、表現のみならず、アート志向の絵柄で構築された大人向けのコミックスのこと。今までは『ロード・トゥ・パーディション』(2002)や『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(2005)等、グラフィックノベルの原作が映画化された作品はたくさんあったが、その逆、映画というメディアを使ってグラフィックノベルのような形式にした作品は珍しい。果たしてそれが、作り手の真意かは定かでないが、本作の新鮮な驚きはそこにこそあると思う。 エリスの滝を目指すエドワードの前に、ゾンビ以外に様々な人間が現れる。南軍の残党の将軍ウィリアムズ(『悪魔のいけにえ2』『マーター・ライド・ショー』のビル・モーズリィ)は、北軍に多くの部下を殺されて気がふれてしまい、腹心の部下2人とジョンソン軍医を従え、強姦や略奪を繰り返し、人をさらってきてはゾンビ免疫を探し続けていた。ゾンビ免疫さえ手に入れば、ゾンビの群れを引き連れ、“元南部を奪い返す”という途方もない謀略を抱いている。人をさらうのは、ゾンビ研究とゾンビ免疫を探すため。将軍ウィリアムズは、唾液が血流に侵入することで感染することを突きとめていて、ゾンビは決して自然現象ではなく、人間が作ったものだとわめき散らしている。 将軍ウィリアムズらに誘拐された妹のエマ(TVシリーズ『HELIX―黒い遺伝子―』のジョーダン・ヘイズ)を奪い返そうと考えるアイザックは、エドワードに協力を要請する。 そしてエドワードやアイザックを助けるのが、森の中で孤独に静かに暮らしている女祈祷師イブ(『ハウリング』『E.T.』のディー・ウォーレス)だった。しかも彼女は、ゾンビ誕生の秘密を握っていた。さらに彼女が隠し持っていた巻物には、世界各地で数世紀に渡って、ゾンビの事例があることが記してあった。古代アフリカでは、部族の聖職者が巻物を使い、死者を蘇らせていた。その1200年後、ヨーロッパ人が廃墟の下から、その巻物を発見し、自らを神と思い込んだ者たちが、“人間の生き死に”を操ろうとした。その過程で、何千もの命、あるいは魂が奪われたのだ。ゾンビの伝説は全て繋がっていて、先の事例から250年後、奴隷船で感染が起きた。元々邪悪な目的のための奴隷船は、やがて7つの海に呪いを広げていった。こうしてゾンビは、感染力と傲慢な者たちによって増殖していったという。 人間の邪悪な歴史的事件において、ゾンビが必ず関わってきたことを匂わせている。ゾンビがあるところ、人間の邪悪さが蔓延しているという証しか。 エドワード、アイザック、エマ、イブがそれぞれの痛みを感じていて、その痛みが彼ら自身に“生”への実感を与えている。確かに“生”を最も強く感じる瞬間は、恐怖や死を間近に感じる時である。筆者がホラー映画を愛するのは、緊迫感溢れる恐怖を描くと同時に、そこに“生”への執着を感じるためだ。 エドワードは言う。「この恐怖の中でも変わらない、自然の美しさに驚いた。久しぶりに生きていることを実感できた……」 末裔マルコム・ヤングのナレーションがこう語る。「世界は痛みに溢れている。いつの世も変わらない。だが大したことではない。周囲の人々が、生きる喜びを教えてくれる……」 そして、こう付け加えた。「歴史とは、生存すること。暗闇に包まれた人生、傷ついた心の日々。他に生きがいはないのか。金色の夕陽や滝の水のきらめきでもなかった……だが今は、全て違って考えることができる。ゾンビが彷徨う世界でも、希望を失わない限り、なんだって可能になる」 『夜明けのゾンビ』は過去の時代が舞台であるが、世界に不穏な空気……徐々にキナ臭くなっている今の映画でもある。“ゾンビ=生ける屍”にならないため、希望を持って生きること。作品からそんなメッセージ性をほのかに感じ取ることができる。■ ©2011 Foresight Features Inc.
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COLUMN/コラム2015.12.05
髑髏が怪異な現象を巻き起こす『がい骨』は、今は亡き、2大怪奇スター競演が魅力!
だがハマー作品も、60年代終わり頃からマンネリ化と作品の質の低下(今振り返れば、それでも充分面白かったが)を招き、観客に飽きられはじめて興行も厳しい状況に陥っていった。それでもハマーを世界的に知らしめた、『フランケンシュタインの逆襲』(57年)と『吸血鬼ドラキュラ』(58年)でのピーター・カッシングとクリストファー・リーの競演は、ホラー映画史に刻むほどの名場面の数々を生んだ……。 比較的若い映画ファンからすれば、カッシングといえば『スター・ウォーズ』(77年)での帝国軍モフ・ターキン役で知られているし、リーの場合は『スター・ウォーズ エピソード2&3』(02・05年)のドゥークー伯爵役や『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズ(01・02・03年)のサルマン役、そしてティム・バートン監督作品などで人気を集めてきた名優だ。 ピーター・カッシングとクリストファー・リーは、60年代から英国製怪奇映画のスターとして海外でも広く知れ渡り、SF&ホラーのジャンル系映画を製作するアミカス・プロダクションの映画にもたびたび出演した。アミカスは、オムニバス形式の怪奇ホラー物に活路を見出し、『テラー博士の恐怖』(64年)をはじめ、『残酷の沼』(67年)、『怪奇!血のしたたる家』(71年)、『魔界からの招待状』(72年)などを次々と発表し、単独のSF&ホラーものでは、『Dr.フー in 怪人ダレクの惑星』(65年)、『怪奇!二つの顔の男』(71年)、『恐竜の島』(74年)、『地底王国』(76年)などを製作してきた。 そのアミカスが65年に製作した『がい骨』では、カッシングとリーを競演させたうえ、ハマーの『フランケンシュタインの怒り』(64年)や『帰って来たドラキュラ』(68年)では監督を務めつつ、Jホラーにも多大な影響を与えた心霊映画の名作『回転』(61年)、デヴィッド・リンチ監督の『エレファント・マン』(80年)や『砂の惑星』(84年)では撮影監督を手がけたフレディ・フランシスが監督に抜擢された。 怪奇スターのカッシングとリー、監督フランシスの3人は、アミカスのオムニバス作品『テラー博士の恐怖』で一度組んで実証済みの黄金トリオ。その3人が挑んだ『がい骨』は、ロバート・ブロック(代表作「サイコ」「アーカム計画」)の短編小説「サド侯爵の髑髏」(朝日ソノラマ発行「モンスター伝説 世界的怪物新アンソロジー」所収、現在絶版)が原作である。 物語はとてもシンプルで、悪魔学や黒魔術等のオカルト研究家として名高いクリストファー・メイトランド(ピーター・カッシング)が、骨董商人マルコが売りつけようとした不気味な髑髏の魔力に徐々に魅せられてゆくという怪奇譚。 メイトランドは、マルコから昨日も、人皮で装丁された古めかしい奇書「悪名高きサド侯爵の生涯」を購入し、それを愛でるように読んでいた。そして今回持ってきた髑髏は、サド侯爵のものだとマルコは言う。「1814年、サド侯爵が埋葬されてまもなく、頭部が盗まれた。盗んだのは骨相学者ピエールで、彼は研究対象としてサドに興味があった。サドが本当に常軌を逸していたかを、髑髏から探ろうとしていたんだ。数日後、死んだピエールの友人である遺言管理人ロンドがピエールの家を訪れると、ピエールの愛人が“彼は、あの夜から邪悪に豹変した”と言う。まもなく髑髏の魔力により、ロンドがピエールの愛人をナイフで殺害した。彼は自らの犯行を説明できず、唯一、口にした言葉が、“髑髏(がい骨)”だった……」 メイトランドは、マルコからその話を聞かされても真実か否か疑わしく、しかもあまりに高額のため、購入を躊躇していた。 だがまもなく、メイトランドのライバルで知人でもあるオカルト蒐集家フィリップス卿(クリストファー・リー)から意外な事実を知らされる。あの髑髏は、フィリップス卿の蒐集品の一つで、何者かに盗まれたという。しかもフィリップス卿は、「盗まれて、ホッとしている。君も手を出すな」と。さらに迷信を信じない彼が、「あれは危険だ。サドが異常ではなく、悪霊に憑かれていた。髑髏には今も悪霊が……」と言う姿を見たメイトランドは、あの髑髏がサドのものであると確信を得て、心底欲しくなってしまう。 そしてフィリップス卿は、先日の有名なオークションで17世紀の石像4体(ルシファー、ベルゼブブ、リヴァイアサン、バルベリト)を高額落札したのは、髑髏の意志だったと言う。 導入部のオークション会場で、フィリップス卿が石像4体をメイトランドと異様に競って落札した理由がここにあった。会場でフィリップス卿が少しばかり病的に見えたのも、髑髏に脅えていたせいかもしれない。あげくに、その石像がどのように用いられるのか、フィリップス卿が身を持って知る展開も見事だった。 かたやメイトランドにとって、マニアやコレクターの性(さが)のせいか、恐怖や呪いの話を聞かされても、それ以上にサド侯爵の髑髏が欲しくてたまらない。私のものにするんだという強い執着心を抱き、なんとか手に入れようとする。 サド侯爵の髑髏(造型物らしさはなく、本物の人骨のよう)は不気味だが、見た目は“がい骨”そのもの。髑髏の意志を表現するため、髑髏の2つの眼孔の内側から見たような主観映像がたびたび挿入される。それはメイトランドを見据えるかのような印象を与えるが、恐怖までは感じられない。そのため、髑髏で恐怖を表現するのではなく、髑髏の意志によって人間の欲望が増幅(強調)され、存在感いっぱいの怪奇スターが異常行動を見せる! そこに緊迫感が生まれ、恐怖を滲ませる。 例えばその一つが、マルコのアパートをメイトランドが訪れた際に起きる衝撃のアクシデントだろう。ある男がアパートの上層階から、吹き抜けに取り付けてあるステンドグラスを幾つもつき破って落下してゆく凄絶ショット(まるでダリオ・アルジェント作品を観ているような興奮を覚えた)。 白眉はメイトランドと髑髏が対峙する、約20分にもおよぶ終盤のシークエンスだろうか。メイトランドは、髑髏を自分の書斎のガラス戸棚に収容するが、やがて髑髏は魔力を発揮し宙に浮遊しはじめる。その魔力に屈したメイトランドは、ベッドに寝ている妻を殺害しようとする。この一連のくだりは、ピーター・カッシングの台詞らしい台詞がひとつもない一人芝居で、彼の名演とフレディ・フランシスの演出が相まって、見事な緊迫感を生んでいる。 現在のホラー映画はVFXの見せ場が幅を利かせているが、かつては怪奇スターと監督の絶妙なコラボレーションによって興奮したものである。VFXの見せ場も嬉しいが、今では怪奇スター不在に寂しさを感じる。 劇中半ばに、メイトランドとフィリップス卿がビリヤードを興じる場面がある。カッシング、リー、フランシスの3人は鬼籍に入ってしまったが、あの世でのんびりとビリヤードを楽しんで欲しいと願う。『がい骨』での怪奇スター競演を観ながら、映画界で長年活躍してきた3人に感謝したい気持ちでいっぱい……。■ COPYRIGHT © 2015 BY PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2015.11.22
話題の食人族映画『グリーン・インフェルノ』のイーライ・ロスが原案・製作・脚本・主演したディザスター・パニック・ホラー〜『アフターショック』〜
これはルッジェロ・デオダート監督の『食人族』(81年)やウンベルト・レンツィ監督の『人喰族』(84年)等の人喰い族を題材にしたモンド映画をリスペクトした作品である。とりわけ前者の『食人族』は、POV(主観映像)によるファウンドフッテージ形式をとったモキュメンタリー(疑似ドキュメント)作品にも関わらず、日本では衝撃のドキュメンタリーという悪ノリ宣伝にのって劇場公開され、真実か?作り物か?の議論を呼んで異例の大ヒット! ちなみにモンド映画とは、観客の見世物的な好奇心をそそらせるような猟奇系ドキュメンタリー、もしくはモキュメンタリーのことを指し、モンドはグァルティエロ・ヤコペッティ監督のドキュメンタリー映画『世界残酷物語』(62年)の原題“MONDO CANE”に由来する。 でも『グリーン・インフェルノ』は、ファウンドフッテージ物でもモキュメンタリーでもなく、モンド映画が持ついかがわしさは多少薄れているものの、生々しい残虐描写を盛り込みつつ、現代的アプローチで食人族映画を復活させた。ジャングルの森林破壊によって先住民のヤハ族が絶滅に瀕すると考えた過激な学生グループが小型飛行機に乗るが、熱帯雨林に墜落する。生き残った学生数人はヤハ族に捕われてしまい、一人ずつ喰われていった。ヤハ族は食人族だったのだ……。 生きた人間からえぐった眼球を生のまま食べたり(オエッ)、生きた人間の四肢をナタで切断して肉塊を燻製にして(笑)食べるなど、ロス監督らしいエゲツない描写に溢れている。 血生臭い『グリーン・インフェルノ』の脚本を務めたロスとギレルモ・アモエドは、その前にディザスター・パニック・ホラー『アフターショック』(12年)の脚本で組んでいる。 ロスは、ある映画祭で上映されたニコラス・ロペス監督の作品を観てとても気に入り、いつか一緒に組もうと約束した。そしてロペス監督がチリ地震での体験を基にした作品を作りたいと言うと、ロスも意気投合し製作が決定。ロペス監督の盟友ともいえる脚本家ギレルモ・アモエドも参加し、ロスは製作と共同脚本を務め、俳優として出演もした。 チリを観光旅行する男友だちの3人が、ワインを愉しみつつ、昼は観光、夜はクラブで女性をハント。さながら導入部は、『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』(09年)風のダメンズな匂いを感じさせながら、そこに巨大地震が起きて一変! ガラス片が体に突き刺さった女性とか(痛々しいっ)、壁が崩れ、天井からコンクリートの塊が落下してきて人間が果実のように潰れて圧死する! さっきまで、生の狂騒を感じさせていた空間が、阿鼻叫喚の地獄絵図に様変わり。津波が来るぞ、来るぞっという噂(情報)が流れだし、生き残った人間たちは高台を目指して右往左往するし、パニックに乗じて暴動や略奪があちこちで起こり、しかも刑務所から囚人たちが多数脱走し、更に混沌とした世界に変貌する。 大地震による恐怖もあるが、それによって引き起こされた人間のモラル崩壊が相次いで描かれる。地震の恐怖以上に人間の様々な凶行が、一層恐ろしく映し出される。 実は『ホステル』と『グリーン・インフェルノ』と同じく、『アフターショック』も似たようなシンプルな構成を取っている。導入部は若者たちの姿を、妙に脳天気に映し出しながら、突然ある異常な事態を迎えて恐怖の坩堝に落ちていく展開だ。その落差により、ショックと残虐に満ちた描写が一層際立つし、観る者たちに主人公たちの苦しみを疑似体験させようとする。ちぎれた腕を探す男の姿はどこか滑稽に映るが、どこか真実味をおびているし、時に不快感をももよおさせるほどの陰惨な場面も続出する。 例えば『ホステル』でいえば、拷問人に肉体を痛めつけられて肉体損壊される過程を丹念に見せながら、主人公と思しき人物が、隙をついてなんとか逃げ出そうとする際の、きりきりと胃が痛むような緊迫感が持続していた。あのなんともいいようのないショックと恐怖がたまらなかった。 おそらくイーライ・ロスが固執し続けるのは、彼自身が若い頃に『食人族』や『人喰族』等のモンド映画を観て受けた、超絶トラウマ体験の衝撃……すなわち“恐くて目を覆いたくなるようなショックで不快なものを見せつけてやろう”という精神なんだと思う。それがロスの心にも息づいていて、自分と同じようなトラウマ体験を、今の観客にも味あわせてやろうという意気込みが感じられる。まさにロスの監督作品は、“恐怖とショックと残酷の遺産”である。 だからロスにとって、作品がモンド映画か否かではなく、思わず観客の気持ちをひかせてしまうほどの、人間たちのリアルで恐るべき所業が主として映し出される。人間ほど恐くて魅力的なものはないのだから。 『アフターショック』では、地震よりも人間たちのほうが恐ろしい。パニックに乗じて囚人たちが民衆の中に巧みに入り混じってしまい、助けてもらいたいと思っても助けてもらえない状況に陥ってゆくし、普段は人の良さそうな人たちでも、銃を手にして発砲してくる始末だ。無法地帯になってしまった街中では、危険な不良グループがたむろし、だからといって重傷者を助けるわけでもなく、逆に弱っている者を血祭りにあげて嬌声をあげるし、若い女性を見れば、ここぞとばかりに襲いかかって欲望の赴くままにレイプする。 そうかと思えば、クラブから主人公たちを外に導こうとする、優しい清掃のおばさんがあっけなく死んでしまうし、展望台に運ぶケーブルカーのワイヤーが突然切れて、高所から傾斜度の高い坂をすべり落ちて婦女子全員が死んでしまう場面がある。人間の善悪では関係ないところで起きる自然災害の恐怖を伝える一方、神に仕える神父と修道女たちのいかがわしい関係によってできただろう堕胎児が地下墓地に埋葬されていて、善悪の人間に関わらず、誰しも恐ろしい本性を隠し持っていることを匂わせている。 そしてラストで、なんとか助かって、ようやく解放された空間に出てきたヒロインが直面する恐怖には、観る人によっては御都合主義と見られそうだが、私なりの解釈では、地獄からなかなか抜け出せなかった悪夢のようなものだと解釈した。現実かもしれないし、ヒロインが見た恐ろしい夢かもしれない。そのあたりのさじ加減が、実に上手い。 『アフターショック』はイーライ・ロスの監督作品ではないが、ロスの特徴が多分に盛り込まれた作品である。ちなみに『アフターショック』でロスが、ヒロインの一人、ロレンツァ・イッツォと共演し、その数年後に結婚するまでに到った記念碑的な作品でもある。ロスはイッツォを『グリーン・インフェルノ』の主役に起用し、食人族の族長が見染める処女を演じさせた。『アフターショック』の彼女とはかなりイメージが異なるので、見比べてみるのも一興である。■ ©2012 Vertebra Aftershock Film, LLC
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COLUMN/コラム2015.08.09
芸術性と優れた脚本でジャンル映画ファンを魅了する、スパニッシュ・ホラーの世界
世紀末から新世紀にかけて、Jホラーが世界的に注目を浴びていた。ハリウッド映画は、すぐさまリメイク化や新たな才能を欲し、日本版のリメイク『ザ・リング』(02年)を作り、その続編『ザ・リング2』(05年)では、オリジナル版の中田秀夫を監督に抜擢した。さらに清水崇も、ハリウッド版リメイク『THE JUON/呪怨』(04年)とその続編『呪怨 パンデミック』(06年)の監督を手がけた。それ以外にもJホラーの世界躍進は凄まじかったが、それに負けず劣らずの勢いにあったのが、スパニッシュ・ホラーだった。 それ以前のスパニッシュ・ホラーは、独特なテイストで強烈なインパクトを放つものが多かった。稀代の怪優ポール・ナッチー主演の『ヘルショック 戦慄の蘇生実験』(72年)、イギリスとの合作による怪作『ホラー・エクスプレス/ゾンビ特急“地獄”行』(72年)、オリジナリティ溢れる『エル・ゾンビ』シリーズ全4作(71~75年)、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』(68年)の換骨奪胎版といえる『悪魔の墓場』(74年)、ナルシソ・イバニエス・セラドール監督の伝説的名作『ザ・チャイルド』(76年)など。 でもJホラーと共に世界的に脚光を浴びてきた現代のスパニッシュ・ホラーは、画家サルバドール・ダリや映像作家ルイス・ブニュエルらシュールレアリスムの芸術家を多数生んだお国柄を反映してか、恐怖の秀逸な設定と共にキメの細かな映像を重視し、多かれ少なかれ芸術性を感じさせるような濃密なドラマを構築している。 ペドロ・アルモドバルが発掘した異才アレックス・デ・ラ・イグレシアも代表的な映像作家といえるだろうが、現代のスパニッシュ・ホラーの起爆剤になったのは、新進気鋭のジャウマ・バラゲロの監督デビュー作『ネイムレス 無名恐怖』(99年)が注目されてからだと思う。バラゲロは次いでアメリカとの合作『ダークネス』(02年)を手がけ、スパニッシュ・ホラーの次代を担う監督に急成長した。 そして、『次に私が殺される』(96年)のスペイン映画界の鬼才アレハンドロ・アメナーバル監督が、大スターのニコール・キッドマンを主演に据え、スペイン・アメリカ・フランス合作の心霊映画の傑作『アザーズ』(02年)を発表し、バラゲロも人気TVシリーズ『アリー・myラブ』(97~02年)のキャリスタ・フロックハートを主演に迎えた『機械じかけの小児病棟』(05年)を手がけた。またバラゲロ、セラドール、イグレシアら全6人の監督が競作したアンソロジー『スパニッシュ・ホラー・プロジェクト』(06年)が作られ話題にもなった。さらにメキシコ出身で世界的なヒットメイカーになったギレルモ・デル・トロはスペイン映画にも参画し、『デビルズ・バックボーン』(01年)やオスカー受賞作『パンズ・ラビリンス』(06年)を監督しつつ、『永遠のこどもたち』(07年)や『ロスト・アイズ』(10年)等でスペインの才能ある若手監督を抜擢してきた。 現代のスパニッシュ・ホラーは、比較的脚本が素晴らしく、作品のクオリティも高い。ジャンル系映画ファンの熱い支持を獲得し、なかでも中核をなすバラゲロの知名度は格段に高い。特に彼の『機械じかけの小児病棟』は、娯楽性と芸術性を融合させた秀作で、英国の小さな島にある閉鎖寸前の病院を舞台に、時の流れと切ない思いが繊細に練り込まれた濃密な恐怖ドラマを堪能することができる。 過去の失敗で心に傷を負った臨時の看護師エイミー(フロックハート)は、不治の病を患う少女マギーと親しくなり、彼女が言う、“機械の少女”の謎を調べてゆくと……。 長らく封鎖されている病院の2階、子供患者の骨が突然折れる怪異な現象、前に在籍した女性看護師の急死、古びた記録フィルム、アニメ『眠れる森の美女』(ディズニー・アニメではなく、本作のために製作)など、これら全ての要素がドラマを形作る要素になっていて、まったくもって無駄がない作りだった。 次いで、バラゲロがパコ・プラサ(別名義フランシスコ・プラサ)と共に、当時注目されていたPOV(主観映像)手法で監督したのが、『REC/レック』(07年)だった。若い女性リポーターのアンヘラとTVカメラマンが、一台のTVカメラのレンズを通して、未知の感染ウィルスによってアパートの住民らが次々とゾンビのように変貌してゆく様を捉えていて、切迫した恐怖がストレートに伝わってきた。一瞬の迷いや躊躇が命取りになる凄、まじい緊迫感と展開により、観ているコチラが疲労感を味わうほどだ。この作品は世界的に大成功を収め、複数台のPOVによって、アパート内外の状況を捉えた続編『REC/レック2』(09年)が作られた。 そして、バラゲロがクリエイティヴ・プロデューサーにまわり、パコ・プラサの単独監督になった『REC/レック3 ジェネシス』(12年)では、雰囲気が一変。設定は、前2作とほぼ同時間帯の結婚披露宴会場に移り、そこがウィルスによって地獄の惨状になる。ジェネシス=“起源”といえる明確な描写はないものの、1作目で未知の病気にかかった犬の目撃情報があり、3作目では新郎側のペペ叔父さんが、「病院で犬に咬まれた」と言っていた。だから1作目でアパート周辺に徘徊していた犬と、3作目で病院に現れた犬は同じ犬だった可能性が高い。 1作目では、人間の凶暴化は未知のウィルスだと最初は思われていたが、2作目になると、アパート最上階の研究室が、悪魔によるウィルスに対抗するワクチン開発のための極秘施設だと判明する。バイオホラーからオカルトホラーへと奇妙な変貌を遂げる離れ技と、悪魔に憑依された少女メデイロスの血を求める神父を新たに登場させ、神父VS悪魔の図式を打ち立てていた。ここで1と3作目でウィルスを放った(と思われる)犬の存在が、ある意味、悪魔のしもべのような見方もできる。まるで『エクソシスト』(73年)や『オーメン』(76年)などの大好きなジャンル系映画のテイストを盛り込んだともいえるだろう。 3作目では、冒頭のみPOV構成だったが、途中から通常の演出に切りかわり、広い会場で離れ離れになってしまった新郎新婦の“逢いたい”というそれぞれの熱い想いが、感染者らを次々と駆逐する。特に純白の花嫁衣裳をまとった新婦クララが、チェーンソーで長いドレスの裾を切り落とし、感染者を次々と斬り刻みながら、白いドレスを鮮血で染めあげてゆく姿が美しかった。1~3は物語に関連性をもたせながらも、一作毎に異なる要素を盛り込んでいた。しかし3作目では、1、2作目のヒロインのアンヘラは出てこないし、舞台は違うし、前2作との雰囲気があまりに異なっていた。 でもタイトルのRECは、録画や記録の意味。1作目では、TV局の取材側が尋常ならざる渦中に陥り、撮影しなくてはならないという、アンヘラとカメラマンの半ば本能や使命みたいな気持ちが感じられた。2作目ではアパート内部に潜入した特殊部隊員らの小型携行カメラをはじめ、アパート外部の報道カメラや携帯電話のカメラなど、それぞれ異なる意図で撮影されたPOVで構成されていた。いまや動画カメラの氾濫により、誰もがいつ何どき、撮影する側や撮影される側になるとも限らない、異常な社会を感じさせる。 そして3作目では、おそらく人生で最も輝いているだろう“結婚と結婚披露宴”の幸せそうな主役(新郎新婦)を記録する(映す)ことで、その後の展開のみならず、前2作との違いが浮き彫りになってくる。そこに面白味があるし、3作目の物語の深みであろう。バラゲロ単独監督のシリーズ4作目もあるが、まずは1~3作目のそれぞれの魅力を堪能して欲しい。■ ©2007 CASTELAO PRODUCTIONS, S.A.