2019年現在、アメリカにおける麻薬戦争とは主に対メキシコのそれを意味するが、しかしかつてのアメリカにとって麻薬戦争の最大の敵はコロンビアにあった。もともと中南米からアメリカへの麻薬供給源はメキシコだったものの、現地政府の麻薬撲滅作戦が功を奏して生産量が激減したことから、’70年代にコロンビアの麻薬組織が台頭。その中でも圧倒的な勢力を誇ったのが、一時は世界7番目の大富豪にまで上りつめた帝王パブロ・エスコバルが君臨する中南米最大の麻薬組織メデジン・カルテルだった。

 そのメデジン・カルテルの資金洗浄網の実態を暴き出し、麻薬帝国崩壊のきっかけを作った潜入捜査の実話を描いた映画『潜入者』。冒頭のテロップで、同カルテルが’80年代にアメリカへ密輸した麻薬が1週間あたり4億ドルに相当する15トンもあったこと、その大半がフロリダ南部から持ち込まれたことが記されているが、実際に当時のフロリダは麻薬の大量流入で治安が著しく悪化し、マイアミはニューヨークやロサンゼルスと並ぶ全米最大(というより最悪)の犯罪都市となっていた。まさしく、ドラマ『特捜刑事マイアミ・バイス』や映画『スカーフェイス』の世界だ。

 主人公は実在のアメリカ関税局捜査官ロバート・メイザー(ブライアン・クランストン)。舞台は1985年のフロリダ州タンパ。日本人にはピンと来ない人も多いかもしれないが、タンパにはフロリダ州最大規模の貿易港があり、対南米の輸出入において重要な窓口となる。おのずと麻薬カルテルの活動拠点ともなるわけで、地元関税局に勤めるメイザーはメデジン・カルテルの壊滅を目指して日夜奮闘していたわけだ。

 しかし、潜入捜査で捕まえるのは末端の密売人など小物ばかり。とてもじゃないが、今のやり方ではパブロ・エスコバルやドン・チェピのような組織のトップを狙うことは出来ない。そこで彼が考えついた作戦は、麻薬そのものを追うのではなく資金の流れを追うこと。なぜなら、組織が麻薬取引で得た違法な現金は、必ずどこかで洗浄するはずだからである。

 名付けて「Cチェイス作戦」。Cは現金=キャッシュ(Cash)のC。「現金を追う」からCチェイスというわけだ。後に「アメリカの法執行史上最も成功した潜入捜査のひとつ」と呼ばれることになる作戦だが、そのあらましは意外とシンプル。資金洗浄の闇商売を請け負う悪徳ビジネスマンに扮したメイザーが、おたくの仕事も引き受けまっせ!と組織に接触してその輪の中へと深く潜入し、幹部との信頼関係を築いて違法な資金の流れを掴むのである。

 とはいえ、もちろん作戦計画のディテールには細心の注意が必要。少しでも矛盾が生じれば相手に正体がバレてしまい、自分はおろか同僚や家族の命まで危険にさらすことになる。劇中では触れられていないものの、もともとメイザーは大学時代に連邦税の執行・徴収を担当する内国歳入庁(IRS)の情報局でアルバイトをしていた経験があり、その頃から潜入捜査のノウハウを学んできたという筋金入りのプロだ。しかしそんな彼でも、この「Cチェイス作戦」は長年のキャリアで最も困難な捜査のひとつだったという。

 なにしろ、相手は全米はおろか世界中に情報網を持つ巨大な麻薬カルテル。潜入捜査に当局の影がチラついてはいけない。例えば、偽りの身分で銀行口座ひとつ作るにしても、関税局に任せず自分自身で直接銀行へ出向いて手続きをすることが肝心。なぜなら、あらゆるところに組織のスパイや協力者がいるため、その気になれば簡単に調べがついてしまうからだ。もちろん、当局の監視が付けばすぐに見破られる。なので、少なくとも相手と接触している間は味方のバックアップは期待できない。まさに、孤立無援の状態で臨まねばならないのである。

 さらに言えば、潜入捜査官は俳優ではない。要するに完全な別人を演じることは出来ないのだ。あくまでも捜査官本人のプロフィールを土台とし、そこに脚色を加えることで他人のふりをするのが潜入捜査の基本だと、メイザーはインタビューで語っている。この「Cチェイス作戦」の場合だと、彼は自分と同じイタリア系で年齢も近く、イニシャルが同じなのでサインを間違えずに済むボブ(=ロバート)・ムセラという実在した故人のアイデンティティを拝借し、同僚のエミール・アブレウ(ジョン・レグイザモ)や元囚人の協力者ドミニク(ジョセフ・ギルガン)の助言を得ながら、裏ビジネスを含む多角経営で巨万の富を得た成金ビジネスマンという架空のキャラクターを作り上げていったのだ。

 裏社会の人間らしい仕草や言葉遣いを駆使してボブ・ムセラになりきるメイザー。しかし根本的な人間性までは変えられない。それゆえ、カルテル関係者との接待の場で女性をあてがわれるという想定外の事態に直面した彼は、つい「自分には婚約者がいるから浮気は出来ない」とキャラ設定にない発言をしてしまう。愛妻家の良き家庭人である彼は、たとえ職務とはいえ妻を裏切ることは出来なかったからだ。結果的に、婚約者役の女性捜査官キャシー(ダイアン・クルーガー)をミッションの心強いパートナーとして得ることが出来たのは幸いだったのだが。

 ちなみに、ボブ・ムセラという架空のキャラを演出するために、メイザーは巨大なオフィスや豪華な邸宅、ロールス・ロイスやジャガーなどの高級車にプライベート・ジェットなどを用意した。ただ、その全てを関税局の予算でまかなうことは不可能だったため、劇中で描かれているように裕福な知人からオフィスなどは借り受けたそうだ。また、映画ではあっという間に潜入捜査が始まったような印象を受けるが、実際は半年以上をかけて綿密に下準備を行ったという。そもそも、この「Cチェイス作戦」自体が5年の歳月をかけて遂行されたものだった。

 このように、潜入捜査の巧妙な作戦テクニックと駆け引きのスリルに目を奪われる本作。世界78か国に支店を持つ大手銀行BCCI(国際商業信用銀行)が思いがけず餌に食いつき、彼らが裏社会の資金洗浄に大きく関わっていたことが明るみになっていく過程なども実に面白い。「私たちの言っている意味、お分かりですよね?」などと、遠回しに取引を持ち掛けてくる辺りのやり取りはなんとも絶妙で、メイザーならずとも「うおっ!棚ボタで大物が引っ掛かりやがった!」と内心小躍りしてしまうこと必至だ。しかし、それに輪をかけて引き込まれるのは、犯罪の世界に身を沈めていかねばならない当事者の心理描写である。

 潜入捜査のプロとはいっても一介の国家公務員。普段の平凡で平和な日常とはまるで異質な、暴力とドラッグとセックスにまみれた裏社会に身を置かねばならなくなるわけだから、その精神的なストレスは我々素人の想像を絶するものがある。任務の合間に妻子の待つ我が家へ戻ったメイザーが感じる、二重生活者ならではの虚無感や焦燥感は生々しい。しかも、演じているのがブライアン・クランストン。おのずと、平凡なダメ亭主と麻薬王の二つの仮面を持つドラマ『ブレイキング・バッド』の主人公ウォルターとイメージが重なって説得力が増す。これぞキャスティングの妙である。

 そして、麻薬カルテルの輪の中に深く潜入することで、メイザーやキャシーはターゲットである犯罪者たちに感情移入していくことになる。これこそが本作最大のハイライトと言えるだろう。ある一面では確かに彼ら(カルテル幹部)は非道な悪人だが、しかし同時に良き夫や良き父親など善人の側面も持ち合わせている。仕事が麻薬密売や殺人などの犯罪行為ということを除けば、ある意味で普通のビジネスマンとあまり変わりないのだ。そんな彼らを巧みに騙して心を開かせ、その信頼と友情を利用して罠にはめ、最終的には逮捕しようというのだから、少なからず良心の呵責を覚えてしまうのは致し方ないだろう。

 それもまた仕事の一部だというメイザーは、潜入捜査官には「白と黒」、「イエスとノー」の区別がハッキリとしたメンタリティの持ち主が向いているとインタビューで語っている。つまり、グレーゾーン的な思考にとらわれることなく、目的を成し遂げるために何が正しくて何が間違っているのかを明確かつ瞬時に判断できる「割り切り力」が必要とされるわけだ。なにしろ、金や女の誘惑も多い世界に身を投じるのだから、ブレることなく職務を全うするためには割り切るしかないのだろう。それだけに、クライマックスの一斉検挙は痛快であると同時に一抹のほろ苦さも漂うのだ。

 なお、劇中ではメイザーがメデジン・カルテルの運び屋だったバリー・シール(マイケル・パレ)と接触するが、これは映画化に際して加えられたドラマチックなフィクション。また、冒頭で潜入捜査中のメイザーの胸に仕掛けられた盗聴器が焼けてしまうシーンも、原作本では言及されていない。

 かくして、メデジン・カルテルの資金洗浄網を暴いて大物幹部を検挙し、大手銀行BCCIの悪事をも白日のもとにさらした「Cチェイス作戦」。その後、コロンビアの麻薬カルテルは衰退の道をたどることになるわけだが、しかし現在も麻薬戦争は場所や形を変えて継続しており、あえてどことは言わないが、たびたびニュースで報じられている通り犯罪組織の資金洗浄に加担する銀行も後を絶たない。それはまるで、終わりなき戦いのようだ。■

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