■ドン・シーゲル命のわが映画人生

 今回筆者がここで紹介する映画は、これまでずっと本邦劇場未公開でソフト化もされず、海外においても未ソフト化のままという、ドン・シーゲル監督の1950年代の知られざる幻のレア作品『スパニッシュ・アフェア』(57)。したがって、今回のザ・シネマでの放送が日本初登場となる。

まだ中学生の時分に、まずはテレビで『ダーティハリー』(71)を初めて目にして、その強烈なアクションと暴力の洗礼を受け、年を経てさらに彼の奥深い映画世界をもっと知りたいと個人的に掘り下げて探究するようになって以来、シーゲルは、数ある筆者のお気に入り監督たちの中でも、とりわけ偏愛する特別な映画作家のひとり。シーゲルの長年の熱狂的ファンを自認する筆者は、硬質で引き締まった彼の活劇映画の魅力をひとりでも多くの映画ファンにぜひ分かち合って頂きたいと、これまでにも、時たま訪れる幸運な機会を積極的に有効活用しては、こちらの意を汲んでくれる同志たちのありがたいご協力とご支援を得て、まだまだ知られざるシーゲルの貴重なお宝発掘と紹介に相努めてきた。

 2005年、キングレコードで本邦劇場未公開の彼の呪われた遺作『ジンクス』(82)のDVDが発売された際にライナーの執筆を手がけたのをはじめ、2007年にやはり同社から発売された、『殺人者たち』(64)、『ガンファイターの最後』(69)、『突破口!』(73)、『ドラブル』(74)というシーゲル円熟期の4作品からなる<ドン・シーゲル・コレクション>のDVD-BOXが発売された際には、個々の作品解説以外に、シーゲルの長い映画キャリアの全体を鳥瞰した「ドン・シーゲル再入門」と題した小冊子を執筆。そして2008年にはWOWOWで、「ドン・シーゲル 知られざる傑作」特集と銘打って、これが日本初紹介となる激レアな『中国決死行』(53)、『殺人捜査線』(58)に加えて、これまた本邦では未ソフト化のままだった『第十一号監房の暴動』(54)、『グランド・キャニオンの対決』(59)という貴重な初期4作品の特集放映が奇跡的に実現した(その折に執筆した拙文が以下のサイトで読めるので、どうかぜひご参照ください[http://www.eiganokuni.com/column_kuwano.html])。

 そして今回、また縁があって、「シネマ解放区」の番組ラインナップの作品選定のお仕事を筆者もお手伝いするという光栄な機会に恵まれ、2000本以上にも及ぶ膨大な映画作品リストの山の中からこちらが篩い分けて強力プッシュした推薦作のうち、今回この『スパニッシュ・アフェア』と、別稿のマリオ・バーヴァ監督の『黄金の眼』(67)という、なかなかこれまで日本では見られる機会がなかった2本の作品が、めでたく番組に初登場する運びとあいなった(こちらのリクエストに応えて下さった、Iさんをはじめ、ザ・シネマの関係者の皆さん、厚く御礼申し上げます!)。というわけで、今回はいつにも増して張り切って作品紹介に相努めることにしたい。

■観光メロドラマ映画!? シーゲル屈指の異色作『スパニッシュ・アフェア』

では早速、『スパニッシュ・アフェア』の話に移ろう。ここでまず、シーゲル監督のこの時期のフィルモグラフィを繙いてみると、1956年に『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』、『暴力の季節』、そして翌57年には『殺し屋ネルソン』と、いわゆる“ハリウッド・フィフティーズ”の映画作家シーゲルの、まさに精髄と言うべき傑作群が集中的に生み出されている。それだけに、『暴力の季節』と『殺し屋ネルソン』の間の57年に生み落とされながら、日本の映画ファンには長いことブランクのままお預けを食っていたこの『スパニッシュ・アフェア』への期待が、ますます高まろうというものだ。

 しかし先に勝手に皆さんの期待を煽っておいてから、いきなり水を差すようで恐縮だが、この『スパニッシュ・アフェア』は、正直なところ、知られざる傑作、埋もれた名作とはなかなか言い難く、また、先の他の3作品とは題材や趣向が大きく異なり、平和なはずの街でいつのまにか恐るべき陰謀がひそかに進行するさまや、非情で反社会的なアンチ・ヒーローたちの予測しがたい行動を緊迫したスリル満点に綴ったノワール映画でもない。

 実はなんと、この『スパニッシュ・アフェア』は、シーゲルがヨーロッパのスペインに出向き、モノクロではなくカラーで撮り上げた作品。「セプテンバー・アフェア」という原題を持つ『旅愁』(50)をはじめ、『ローマの休日』(53)や『慕情』(55)、『間奏曲』(57)など、この時期、海外のさまざまな国を舞台に、かの地の異国情緒溢れる風景や文化風俗を随所に盛り込みながら、主役の男女の恋の行方を波瀾万丈に描いた、一連のハリウッド製観光メロドラマ映画の系譜に連なる、シーゲルの作品群の中でも一風変わった異色作なのだ。

 映画はまず、スペインはマドリードにある歴代のスペイン王家の貴重な美術コレクションを数多く収蔵したプラド美術館の至宝、ゴヤやベラスケス、エル・グレコなどの傑作絵画の数々を、艶やかなテクニカラーの画面で順々に映し出すところから始まる。プラド美術館でそれらの名画の現物を実際に撮影するという、何とも贅沢で、映画ではおそらく初めての試みとなる光栄な機会に浴することができたのは、シーゲルの情熱と予期せぬ幸運のおかげ。当初、プロデューサーを通じて同美術館に撮影許可を願い出たものの却下され、それでもなお、その夢をぜひ実現させたいと、暇を見つけては美術館に足を運んでいたシーゲルは、彼の監督助手に就いていた現地の青年が偶然にも美術館の館長と知り合いと判り、彼の口利きによって意外にもすんなり撮影許可を得ることができたという。

 ちなみに、上記の名画の数々をバックにしたクレジット紹介での本作の監督名義は、略称・愛称のドンではなく、ドナルド・シーゲル。ついでにここで明記しておくと、この『スパニッシュ・アフェア』のデータ資料に関して、本来頼るべきインターネット・ムービー・データベースでは、本作の共同監督として、シーゲルのほかにもう一人、スペイン人のベテラン映画監督ルイス・マルキーナの名前が挙げられていて、それに準拠する形で、本作を共同監督作品とする情報資料が一部で流通している。しかし、実際に本作の冒頭のクレジット画面で確認したところでは、マルキーナはスペイン側の製作スタッフの筆頭にテクニカル・アドバイザーとして記載されているのみで、シーゲルに関する文献資料を参照してみても、この人物に関する言及は一切ない。ことによると、スペイン本国では、この人物が後から部分的に監督を務めて、別バージョンという形で『スパニッシュ・アフェア』を公開している可能性もなきにしもあらずと思い、ネットの画像検索で本作に関する各国の映画ポスターを見比べてみたが、やはりこのマルキーナが監督としてクレジットされているものは見つからなかった。従って、この『スパニッシュ・アフェア』は(少なくとも今回の放映版に関する限り)、シーゲルの単独監督作とみてまず間違いないだろう。

 さて、本作の物語の主人公となるのは、スペインのマドリードへとやって来たひとりのアメリカ人建築家。この地に建設すべく彼のデザインした現代的なホテルの設計案が、どうもこの国の景観や風土には馴染まないとして、スペインの首脳役員たちから難色を示されていることを知った主人公は、改めて役員たちのもとへ出向いて彼らを説得しようと、ロマの血を半分引く美しいスペイン人女性を通訳に伴って、セゴビアやバルセロナ、トレドなど、スペイン各地を回るドライブの旅へ出発する。次第に2人は心惹かれ合うようになるが、さらにここに、彼らのあとを執念深くつけ回すロマの青年が絡んで、嫉妬と愛憎に満ちた波乱の恋愛劇が3人の男女の間で展開していくこととなる。

 アメリカ人建築家の主人公を演じるのは、先にサミュエル・フラー監督の『拾った女』(53)でアカのスパイを演じ、後にはブロードウェイ・ミュージカルの「ラ・マンチャの男」やTVドラマの世界でも活躍して多くの賞に輝いた実力性格俳優のリチャード・カイリー。一方、ロマの血を引く美しいヒロインを演じるのは、当時のスペイン映画界で数多くのヒット作に主演し、得意の歌や踊りもしばしば披露して高い人気を誇ったというカルメン・セビージャ。本作の劇中でも、見事な歌やフラメンコ・ダンスを披露して観客を楽しませてくれる。

■次第に浮き彫りとなる、シーゲル映画お馴染みのテーマと世界観

 異国の地スペインで、さまざまなカルチャー・ギャップに遭遇して戸惑いつつ、なお懸命に奔走する主人公の姿を、シーゲル監督は軽妙かつユーモラスに描き出していく。役員の一人が所有する広大な牧場で、アメリカのカウボーイとしての知られざる本性と自負を見せ、スペイン式闘牛に敢然と挑む主人公。あるいは、スポーツカーに乗って道を猛スピードで走る主人公と、そんな彼を通せんぼするかのように、道幅いっぱいに広がってのんびり悠然と進む山羊の群れ。そして、それらの体験を通じて、カイリー演じる主人公は、次第に挫折と自らの無力感をまざまざと味わうことになる。その一方で彼は、カタルーニャの伝統的な民族舞踊サルダーナを、セビージャ演じるヒロインや大勢の人々とひとつの輪になりながら楽しく踊ったり、あるいは、ヒロインがふと口ずさむロマの歌を一緒にデュエットしたりするうち、軽やかな自由と解放感に浸った新たな自己を見出すことにもなるのだ。

 モダンな建築デザインの利便性と機能性を強調して翻意を促すアメリカ人建築家の主人公と、時代を超えて残る大聖堂を話の引き合いに出しながら、多少古めかしくても、それには固有の歴史と伝統があり、また人々の篤き信仰と愛と美があると、どこまでも悠然と構えて、主人公の懸命の訴えにもなかなか首を縦に振ろうとしないスペイン人の役員たち。その両者の姿は、今日におけるグローバル・スタンダードとローカル・アイデンティティとの対立の構図を先取りしていて、さらにこれを、自分たちの価値観を他にも無理やり押しつけようとする文化帝国主義と、それに対する抵抗の闘い、と言い換えることもできるだろう。

 そして、いささか強引にこう整理してみると、一見ゆるい観光ロード・ムービーのような本作が、実は何を隠そう、あの『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』の戦慄的な世界をまさに裏返しにした、まぎれもないシーゲル映画の一本であることに、映画ファンならば次第に気づくはずだ。この映画では、人間が本来持つ感情をすっぽり欠落させたまま、外見だけはそっくりそのまま人体を乗っ取ってひそかに地球侵略を企む異星人たちに対し、ケヴィン・マッカーシー演じる主人公が必死に最後の抵抗を試みるわけだが、本作ではむしろ、本来の人間的な感情やゆとりを失って硬直した態度を見せているのは主人公のカイリーの方であり、スペインでさまざまな異文化の洗礼を受けるうち、ようやく彼も本来の人間らしさを取り戻していくようになるのである。

 本作と『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』との興味深い符合を示す、一つの決定的に重要なモチーフがある。これは、後者では映画最大の山場において生じ、そしてこの『スパニッシュ・アフェア』においても、物語の終盤、主人公とヒロインとの関係が一つの大きな転機を迎える場面で生じる出来事なので、ここではあえて詳細は伏せ、ぜひ見てのお楽しみとしておこう(実はさらにもう一つ、本作のラストでは、セビージャ扮するヒロインが、これまたシーゲルの後年の有名作の最後で主人公が示すのとほぼ同じ身振りを、いち早く先取りして披露しているので、これもぜひお見逃しなく!)。

 ちなみに、本作の脚本を手がけたのは、先にシーゲルとは『中国決死行』や『第十一号監房の暴動』でもコンビを組んでいたリチャード・コリンズ。彼の推薦によってシーゲルが本作の監督を務める運びとなったものの、シーゲルは、コリンズの脚本の出来には最初から不満で、まだまだ手直しが必要だと考えていた。しかし、本作のプロデューサーがコリンズの脚本をそのまま気に入って、手直しすることを一切許さなかったため、シーゲル自身は、本来ならもっとずっといい映画が作れたはずなのに、と悔いの残る作品になったという。

 最初から作品のアラが見えていたのに、それでもシーゲルが、本作の監督の役を引き受けたのは、彼にとっては初めて6ケタに届いたギャラの支払いが良かったそうで、「俺はこれまで娼婦になったことはなかったのに…」とは、自伝でのシーゲルの自嘲気味の捨て台詞。それ以上の詳しい裏事情は、自伝ではよく分からないが、以前、本欄で『紅の翼』(54)のことを解説した際に拙文の中で紹介したように、その映画の中に出演している元モデルの女優ドウ・アヴェドンとシーゲルが結婚したのが、まさにこの映画が作られた1957年のこと。きっと、これが大きく関係しているに違いない。ちょっとした小遣い稼ぎにスペインまで遠出、といえば、1960年代半ば、この地で撮影されるマカロニ・ウェスタン3部作で一躍人気スターとなるクリント・イーストウッドの先導役を、ここでシーゲルが図らずも務めていたというのも面白い。

 ストーリーに目をつぶった分、他の部分に心血を注いで映画作家としてのプライドを見せつけた、ということなのかどうかは知らないが、シーゲルは、彼お得意の高低差を活かしたスリリングなアクション・シーンを後半に配してドラマを存分に盛り上げるほか、中盤のある場面では、実に思い切った大胆不敵な演出とカメラワークを採用している。それは、バルセロナの夜の街路を、カイリーとセビージャの主役2人が連れだって歩きながら会話する場面。何気なく眺めていると、つい見落としてしまいそうになるが、ここでシーゲルは実に3分半近くにもわたって、彼らの姿を延々と長廻しの移動撮影により、ワンショットで撮り上げているのだ! うーん、さすがはシーゲル。これだから決して目が離せない。

 かくして、シーゲル探究の楽しくも険しいわが映画修行の人生は、まだまだこれからも続くのであった…。■

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