なぜか日本では未だソフト化されていない1969年のアメリカ映画『くちづけ』は、アラン・J・パクラ監督のデビュー作である。ハリウッド・メジャーの一角、パラマウントでプロデューサーを務めたのちに監督へと転身したパクラは、ジェーン・フォンダ主演のサスペンス劇『コールガール』(71)で成功を収め、ウォーターゲート事件を題材にしてアカデミー賞4部門を制した『大統領の陰謀』(76)で名匠の仲間入りを果たした。そのほかにも『パララックス・ビュー』(74)、『ソフィーの選択』(82)、『推定無罪』(90)など、陰影あるミステリー映画や人間ドラマで職人的な手腕を発揮した。

 そのパクラ監督が『コールガール』の2年前に発表した本作は、何やらエロティックな連想を誘う邦題がついているが、扇情的な官能描写とは無縁のみずみずしい青春ロマンスだ。主人公はアメリカ東部の大学に入学するため、バスに乗ろうとしているジェリー。いかにも内気な優等生といった風情で、昆虫オタクでもある彼の視界に突然、プーキー・アダムスという女の子が飛び込んでくる。

 プーキーはジェリーとは別の大学の新入生なのだが、彼女は見かけも性格も普通の女子大生とは違っていた。文学少女風のショートヘアにべっ甲の丸縁メガネをかけ、困惑するジェリーにお構いなく「人間は70年間生きたとしても、いい時間は1分だけなのよ」などと甲高い声で一方的に奇妙なことをしゃべりまくる。バスを降りていったん別れた後も、ジェリーが入居した男子学生寮に押しかけてきて、一緒に遊ぼうと持ちかけてくる。かくして、すっかりプーキーのペースに巻き込まれたジェリーは、成り行き任せで彼女とのデートを重ねていくのだが……というお話だ。

 本作が作られた1969年はアメリカン・ニューシネマの真っただ中だが、ここには『いちご白書』(70)のような若者たちの悲痛な叫びはない。翌1970年に大ヒットした『ある愛の詩』のように、身分の違いや難病といったドラマティックな要素が盛り込まれているわけでもない。ジェリーとプーキーが草原、牧場、教会などをぶらぶらとデートし、他愛のない会話を交わすシーンが大半を占めている。

 しかし大学街の秋景色をバックに紡がれるこのラブ・ストーリーは得も言われぬ淡い詩情に満ちあふれており、フレッド・カーリン作曲、ザ・サンドパイパーズ演奏による主題歌「土曜の朝には」のセンチメンタルなメロディも耳にこびりついて離れない。このフォークソングはアカデミー歌曲賞候補に名を連ねたが、この年オスカー像をかっさらったのは『明日に向って撃て!』におけるバート・バカラックの「雨にぬれても」だった。

 とはいえ、本作の魅力はノスタルジックな詩情だけではない。やがて中盤にさしかかるにつれ、映画のあちこちに不穏な“影”が見え隠れし始める。デートで墓場に立ち寄ったりする主人公たちに強風が吹きつけたり、プーキーがウソかマコトかわからない身の上話を告白したりと、それまで恋に夢中であることの喜びを謳い上げていた映画に、そこはかとなく嫌な予兆がまぎれ込んでくるのだ。エキセントリックな言動を連発していたプーキーが、実はただならぬ“孤独恐怖症”とでもいうべき病的な一面を抱えていることが明らかになってきて、ふたりの関係はメランコリックなトーンに覆われていく。

 終盤、忽然と姿を眩ましたプーキーのことが心配になったジェリーが、ようやく彼女の居場所を突き止めてある部屋の“扉”を開けるシーンは、観る者に最悪のバッドエンディングさえ予感させ、ほとんどスリラー映画のように恐ろしい。

 プーキーを演じたライザ・ミネリはご存じ代表作『キャバレー』(72)でアカデミー主演女優賞に輝いた大スターだが、それに先立って本作でもオスカー候補になっている。まるでストーカーのように押しかけてくるファニーフェイスのプーキーが、ジェリーとの恋を通してぐんぐんキュートに変貌していく様を生き生きと体現。後半には一転、ヒロインの内なる孤独の狂気をも滲ませたその演技は、今観てもすばらしい。ライザ・ミネリがまだ日本で“リザ・ミネリ”と呼ばれていた頃の映画初主演作である。

 言うまでもなくラブ・ストーリーは今も昔も映画における最も“ありふれた”ジャンルだが、本作は何も特別なことを描いていないのに、一度観たら忘れられないラブ・ストーリーに仕上がっている。愛すべきキャラクターと魅惑的な詩情を打ち出し、誰もが経験したことのある恋愛の残酷な本質にそっと触れたこの映画は、今なお切ない刹那的なきらめきを保ち、ザ・シネマでの放映時に新たなファンを獲得するに違いない。■

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