「反骨の劇作家」とも呼ばれたアメリカの女流劇作家リリアン・ヘルマン。’30年代に『子供の時間』や『子狐たち』といったブロードウェイの舞台戯曲を大ヒットさせて有名人となり、『ラインの監視』(’40)や『逃亡地帯』(’66)など映画の脚本家としても活躍。『子供の時間』は『噂の二人』(’61)として、『子狐たち』は『偽りの花園』(’42)として映画化もされた。そんな彼女の名声を一層のこと高めたのが、1952年5月21日に開かれた下院非米活動委員会の公聴会で読み上げた声明文だ。

 第二次世界大戦前の一時期アメリカ共産党に加入し、ソビエトのスターリン政権を強く支持していたリリアン。長年のパートナーであるミステリ作家ダシール・ハメットも共産党員で、労働者運動や公民権運動の熱心な活動家だった。なので、おのずと赤狩りの時代になると反米的な要注意人物としてマークされ、下院非米活動委員会の公聴会へ呼び出されることとなる。友人・知人の共産主義者を告発しろというのだ。しかし、リリアンはこれを断固として拒否。「たとえ自分を守るためでも友人を売り渡すことは出来ない」「社会の風潮に迎合して良心を捨てることは出来ない」との声明文を読み上げたのだ。その結果、ハリウッドのブラックリスト入りし、しばらく映画界での仕事を出来なかったリリアンだが、一方でその高潔で勇気ある行動により、多くの人々から尊敬を集めることとなった。まあ、そもそも彼女の主戦場はブロードウェイの演劇界であるため、ハリウッド映画界のブラックリスト入りはさほど大きなダメージでもなかったのだが。 そんな女傑リリアンは、生涯で3冊の自伝本を出版している。『未完の女』(‘69年刊)、『ペンティメント(邦題:ジュリア)』(‘73年刊)、そして『眠れない時代』(’76年刊)だ。その中の『ペンティメント』は、リリアンが自らの人生で出会った様々な人々についての想い出を綴った短編集。そこに登場したリリアンの幼馴染とされる女性ジュリアのエピソードを映画化したのが、巨匠フレッド・ジネマン監督のアカデミー賞3部門受賞作『ジュリア』(‘77)だった。ここであえて「とされる」と表現したことの意味は、後ほど詳しく説明させて頂こう。

 物語の舞台は1930年代。同居する恋人ハメット(ジェイソン・ロバーズ)の勧めで戯曲を書き始めたリリアン(ジェーン・フォンダ)だが、スランプに陥って執筆がなかなか進まなかった(当時のリリアンは映画会社MGMで、映画化候補の小説や文学のあらすじを要約する仕事をしていた)。そんな彼女が思い出すのは、幼なじみの大親友ジュリア(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)のこと。大富豪の令嬢として生まれ育ったジュリアは、少女時代から聡明で知的で意志が強く、引っ込み思案なリリアンにとって憧れの女性像そのものだった。

 長じてイギリスのオックスフォード大学で医学生となったジュリアは、労働者の人権や貧困などの社会問題に強い関心を持つようになり、やがてフロイトに学ぶためウィーンの医大へ転入すると反ナチスの地下運動に傾倒していく。一方、ハメットの勧めで作品を仕上げるためパリへ赴いたリリアンは、そこでジュリアの医大がナチスに襲撃されて多数の死傷者が出たとの報道を知り、急いでウィーンへと駆け付ける。そこで彼女が見たのは、大怪我をして病院のベッドに横たわるジュリアの姿。ところが、すぐにジュリアは手術のため病院から移送され、そのままプッツリと消息を絶ってしまった。

 その後、戯曲『子供の時間』の大ヒットで一躍有名人となったリリアンは、モスクワで開催される演劇祭へ招待され、パリからウィーン経由でソビエト入りすることとなる。ところが、パリのホテルでジュリアの同志ヨハン(マクシミリアン・シェル)がリリアンに接触し、経由地をウィーンではなくベルリンに変更して欲しいと申し出る。反ナチ組織の活動資金5万ドルをベルリンにいるジュリアへ届けるためだ。ユダヤ人であるリリアンにとって必ずしも安全とは言えないが、しかし彼女は最愛の親友のため、意を決して運び屋役を引き受けることにする。かくして、厳しい監視体制の敷かれたナチス支配下のベルリンへと夜行列車で向かうリリアンだったが…。

 年老いたリリアンの回想形式で描かれる、リリアンとジュリアの瑞々しくも切なく哀しい友情ドラマ、そして激動する戦前ヨーロッパを舞台にした緊迫のサスペンス。リリアン役のジェーン・フォンダは、最初の夫ロジェ・ヴァディムとの間に出来た長女にヴァネッサと名付けるほど、ジュリア役のヴァネッサ・レッドグレーヴに憧れて崇拝していたらしく、それがそのまま劇中のリリアンとジュリアの関係に重ね合わせることが出来て興味深い。ハメット役ジェイソン・ロバーズの渋い枯れた味わいも素晴らしいし、フレッド・ジンマン監督の折り目正しい演出にも風格がある。リリアンの軽薄な友人アン・マリー役のメリル・ストリープ、少女時代のジュリア役リサ・ペリカンと、これが映画デビューだった女優2人も印象深い。しかし何よりも、マッカーシズムに対抗した女性闘士リリアン・ヘルマンが、活動家の友人のためとはいえ、実は反ナチ活動にも貢献していたというエピソードは少なからぬ驚きであろう。

 ところが…である。本作が全米公開された直後あたりから、リリアンの自伝に関して信ぴょう性を疑う声が出始め、’79年に放送されたテレビのトークショーで、以前からリリアンの言動に対して批判的だった女流作家で左翼政治活動家メアリー・マッカーシー(俳優ケヴィン・マッカーシーの実姉)が彼女を嘘つきだと糾弾したことから、長きにわたる訴訟問題へと発展してしまう。さらに、ミュリエル・ガーディナーという精神科医の女性が「ジュリアのモデルは私だ」と名乗りを上げ、’83年にそれを証明する回顧録を出版したことから、リリアンに対する疑いはますます濃くなったのである。

 大手精肉会社モリス&カンパニーの社長令嬢として生まれ育ち、オックスフォード大学で学んだ後、フロイトの精神分析学を学ぶためウィーン大学へと移ったミュリエル・ガーディナー。現地で社会主義運動のリーダーを務める男性と結婚した彼女は、夫と共に反ナチスの地下組織に身を投じ、「メアリー」というコードネームを使って組織の活動資金などの運び屋をしていた。そう、リリアン・ヘルマンの描いたジュリアの生い立ちや経歴とあまりにも酷似しているのだ。しかし、そうした事実を指摘されながらも、生前のリリアンは「ミュリエル・ガーディナーなんて知らない」「私のジュリアのモデルとは違う」と主張していたという。

 事実、ミュリエルとリリアンは直接の面識がなかった。それはリリアンだけでなくミュリエルも認めている。ただし、2人には共通の友人がいた。それが、弁護士のウルフ・シュワバッカーである。リリアンの顧問弁護士を長年務めたシュワバッカーは、実は古くよりミュリエルと家族ぐるみの付き合いがあった・しかも、’40年に戦乱のヨーロッパを逃れて夫とアメリカへ帰国したミュリエルは、およそ10年間に渡ってシュワバッカー夫妻のアパートでルームシェアしていたのだ。ミュリエルはシュワバッカーを介してリリアンのことを知っていたというが、リリアンもシュワバッカーからミュリエルの身の上話を聞いていた可能性は否定できないだろう。

 さらに、マスコミが大掛かりな「ジュリア探し」を試みたところ、リリアンの著述に不可解な点が次々と発覚。そもそも、当時のウィーンで「反ナチス活動」に身を投じた「アメリカ人」で「オックスフォード大学」に学んだ経験のある「医学生」の「富豪令嬢」が、ミュリエル・ガーディナー以外にもいたというのは考えにくい。もしかすると、実際にリリアンにはジュリアのモデルとなった幼なじみの親友がいて、その女性とシュワバッカーから聞いたミュリエルを同一視することで、彼女なりの理想の女性像を創りあげたのかもしれない。

 ‘05年に出版された生前のインタビュー集で、フレッド・ジネマン監督は『ジュリア』の内容を「真実ではない」と断言したうえで、リリアン・ヘルマンのことを「彼女は卓越した才能のある、素晴らしいライターだったが、残念ながらでたらめな人物でもあった」と述べている。実際、かつてこんなことがあった。’39年に戯曲『子狐たち』が大ヒットした際、主演女優タルラ・バンクヘッドが同作のチャリティ公演を企画した。当時ソビエトに侵攻されたフィンランドの支援に募金を充てようというのだ。ところが、熱烈なスターリン支持者だったリリアンはこれに猛反対し、「私はフィンランドに行ったことがあるけど、あそこはみんなが同情するような素敵な国じゃない、私に言わせればナチの属国よ」と痛烈に批判したのだ。しかし、蓋を開けてみればリリアンはフィンランドに足を踏み入れたことなど1度もなかった。ソビエトを擁護するための出まかせだったのだ。

 いずれにせよ、リリアンの描いたジュリアが本当に存在したのか、彼女が親友のため本当に5万ドルをベルリンへ運んだのか、具体的な証拠を示さないままリリアン本人がこの世を去って30年以上が経つ今となっては、事実を確認することは至難の業であろう。それでもなお、映画『ジュリア』が紛れもない名作であり、そこで描かれる友情と冒険の物語に心を動かされることは認めざるを得ない。確かにリリアン・ヘルマンは虚実ないまぜにして物事を語る癖があったのかもしれないが、しかしそれゆえに偉大なストーリーテラーだったとも言えるだろう。■

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