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PROGRAM/放送作品
シネマの中へ 「レイズ・ザ・タイタニック」
長塚京三の案内で、クラシック映画を楽しむためのポイントを予習する、5分間の解説番組
毎週土曜あさ10時の「赤坂シネマ座」。この枠で取り上げる、映画史に残る名作たちの魅力を、俳優・長塚京三さんが紹介。クラシック映画の敷居の高さを取り払う様々な予備知識で、本編が120%楽しくなる。
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COLUMN/コラム2016.06.11
演出、撮影、編集をワンマンに全部手がけつつも、珍しく役者の演技とストーリーを優先させた、ソダーバーグの異色作にして到達点〜『恋するリベラーチェ』〜
ソダーバーグの「映画監督やめたい」発言はほとんど年中行事化していたので、真に受けていた人は少ないだろう。ただ世間的には『サイド・エフェクト』(2013)が引退作とされており、不幸にも割りを食ったのがその直後に発表された『恋するリベラーチェ』である。 実は『恋するリベラーチェ』は本国アメリカでは「映画」としてカウントされていない。カンヌ国際映画祭に公式出品され、日本を始め多くの国々で劇場公開されているにも関わらず、である。 その理由は、アメリカではケーブルテレビ局でお披露目されたからで、あくまでも「テレビドラマ」扱いなのだ。ただしエミー賞のミニシリーズ/テレビ映画部門では作品賞、監督賞、主演男優賞など11部門を独占している。企画を蹴った映画スタジオの重役陣はさぞや歯噛みしたに違いない。 『恋するリベラーチェ』は1940年代から80年代にかけて活躍した実在のピアニスト、リベラーチェの伝記映画である。リベラーチェはクラシック畑の出身ながら、絢爛豪華な衣装とショーアップされたステージでポップスター的な人気を集めた。同性愛者であることは公然の秘密だったが、本人は決して認めようとはしなかった。映画ではリベラーチェの恋人だったスコット・ソーントンの回想録をもとに、ソーントンとリベラーチェの愛憎劇をブラックユーモアまじりに綴っている。 ソダーバーグは『トラフィック』(2000)の撮影時に早くもマイケル・ダグラスにリベラーチェ役を打診していたという。しかし映画が完成するまでに13年もの歳月がかかった。ダグラスの喉頭がんで企画が消滅しそうになったりもしたが、最大の障壁は「あまりにも同性愛的すぎる」という映画スタジオからの拒絶だった。 当時のソダーバーグのハリウッドでの立ち位置を整理しておきたい。ソダーバーグがリチャード・ラグラヴェネーズ(『フィッシャー・キング』)に『恋するリベラーチェ』の脚本を依頼したのが2008年の夏。ちょうど『チェ』二部作を完成させ、アメリカでの配給が決まらず宙ぶらりんになっていた時期である。 『チェ』二部作が配給を渋られたのは、ほぼ全編がスペイン語の作品だったから。「アメリカ市場のために英語で作れ」という要望を「英語の文化的帝国主義はもはやナンセンス」とはねつけたのだ。政治的な主張というよりも、スペイン語で話すラテンアメリカの人々を描いた実話なのだからスペイン語で撮るのが当然――という素直すぎる理由である。 また前々年には趣味性の強い実験作『さらば、ベルリン』が大コケ、前年に発表したヒットシリーズの第三弾『オーシャンズ13』も期待されていたほどの興収を上げることはできなかった。『チェ』でもハリウッドと揉めたソダーバーグはリスキーな企画ばかり撮りたがる厄介な大物監督という、一種の要注意人物だったのだ。 一方ソダーバーグにしてみれば、次々と浮かぶ刺激的なアイデアを実現させたいのになかなか資金が集まらないフラストレーションが溜まる状況が続いており、それが度重なる「引退発言」にも繋がっていく。 「同性愛」を理由に出資を断られたことについて、ソダーバーグは「『ブロークバック・マウンテン』以降の時代に信じられないよ、しかもこっちはもっと笑える映画だっていうのにね」と皮肉っていた。しかし2009年のアカデミー賞ではゲイの政治家の伝記映画『ミルク』が主演男優賞など二冠に輝いており、「同性愛的」という建前の裏にはソダーバーグへの警戒感もあったのだろう。 最終的に『恋するリベラーチェ』に出資したのが、アメリカの大手ケーブルテレビ局HBOだった。スピルバーグとトム・ハンクスが製作総指揮を務めた大作シリーズ「バンド・オブ・ブラザーズ」(2001)など、映画人とのコラボレーションに積極的な局である。製作費2300万ドルは決して安い買い物ではなかったはずだが、エミー賞11部門独占という成果を思えば双方にとって幸せな契約だったと言っていい。 そして映画業界への不満を募らせていたソダーバーグは、これ以降テレビシリーズの「The Knick」に着手したり、クロエ・グレース・モレッツ主演の舞台劇を演出したり、通販サイトを始めたりと映画以外の分野にワーカホリックっぷりを発揮し始める。 可笑しいのが『マジック・マイク』(2012)の続編『マジック・マイクXXL』(2015)で監督を盟友グレゴリー・ジェイコブスに任せながらも、製作総指揮、撮影監督、編集の三役を務めていたこと。自らカメラを回し編集も手掛けるのはソダーバーグのスタイルだが、他人が監督する映画で撮影や編集を担当するのは初めて。本人にも言い分はあるだろうが、そこまでするなら監督もやれよと言いたくもなる。 さて『恋するリベラーチェ』に話を戻そう。本作でソダーバーグは、おそらくデビュー作以来初めて「コンセプトありき」の方法論を捨てた。いや、「捨てた」は言い過ぎにしても、自分自身の表現欲よりも役者の演技とストーリーを優先させているのだ。 基本的にソダーバーグはコンセプト先行型の監督で、作品ごとの狙いがビジュアルにも反映されている。最もわかりやすい成功例が、物語の舞台となる三つの場所を色の異なるレンズフィルターで表現した『トラフィック』だろう。ただしコンセプトが勝ちすぎて「スタイルばかりで空疎」と批判されるケースも少なくなく、才気ゆえの諸刃の剣でもあった。 しかし『恋するリベラーチェ』では、彼の一番の武器である「センス」や「技巧」をみごとに抑制しているのだ。最も印象の残るのはリベラーチェに扮したマイケル・ダグラスとスコット・ソーントン役のマット・デイモンの素晴らしい演技であり、2人の繊細なやり取りが醸し出す可笑しさや哀愁なのである。 もちろん「技巧」や「センス」を捨てたわけではない。ソフトフォーカスを多用した撮影はレトロな時代感を出すだけでなく、年甲斐もなく若さを追い求めるリベラーチェの脳内ファンタジーの写し絵でもある。ドラッグでラリっているシーンのピンボケとフォーカスの絶妙なバランス加減も、監督自身がカメラを回しているからこそできる力技だ。 ジャンプカットを多用する得意のトリッキーな編集は控えめに、編集のさりげなさはもはや小憎たらしいほど。BGMに頼らずリズムを感じさせる音楽的なカッティングも冴えている 全米映画監督協会の規定のせいで撮影ではピーター・アンドリュース、編集ではメアリー・アン・バーナードと別名義になっているのは『トラフィック』以降のお約束。理不尽なのは撮影監督としても編集者としても映画界隈で明らかに過小評価されていること。「なんでも自分でやりたがる器用貧乏」というわけだ。しかしピーター・アンドリュースとして手がけた映画は19本を数え、テレビシリーズも含めると相当な仕事量にのぼる。明言しておくが出しゃばり監督の余技などではまったくない。 演出、撮影、編集という映画の基本が三位一体となり、過不足なく「人間」と「物語」を語ってみせる。当たり前といえば当たり前だが、ソダーバーグが叩き出す精度の高さはもはや円熟の境地。ひとつの到達点と呼ぶべき『恋するリベラーチェ』を観て、どうかソダーバーグの妙技を堪能していただきたい。■ © 2016 Home Box Office, Inc. All rights reserved. HBO® and related channels and service marks are the property of Home Box Office, INC.
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PROGRAM/放送作品
深く静かに潜航せよ
死闘、日本海軍駆逐艦vsアメリカ海軍潜水艦!クラーク・ゲイブル×バート・ランカスター共演作
バート・ランカスターらが設立し、冒険活劇から上質なドラマまで手がけた製作会社“ヘクト・ヒル・ランカスター・プロ”による戦争映画の傑作であり、潜水艦映画の古典的名作。日本海軍と米海軍の死闘が描かれる。
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COLUMN/コラム2016.03.08
白い世界に現れた、赤いコートの美少女! 若きロボット科学者と少女のミステリアスな関係を描いた〜『EVA<エヴァ>』〜
ロボットとひと口で言っても多彩である。漫画やアニメに登場する巨大ロボットを想起する人もいるだろうし、インダストリーのリアルな工業用ロボットを思い起こす人もいる。または今一番身近でポピュラーな、ロボット掃除機をあげる人もいるだろうか。でも『EVA』で描かれるのは、人工知能が備わった自律型で、人間社会と共存しうる高性能ロボットの開発と、それに伴う人間たちの感情である。ここに登場する精巧な“S・I”シリーズの最新型ロボットは、人間と見紛うほどリアル。 よく、人型の自律ロボットを描くにあたって思いだされるのが、アイザック・アシモフが提唱したロボット工学3原作。人間を守るための重要な規約で、「第1条/人間に危害を加えてはならない。第2条/第1条に反する場合を除き、人間に服従しなければならない。第3条/第1条及び第2条に反するおそれがない限り、自己を守らなければならない」……これらの規約は、人型ロボットの物語を構築していく際には、映画の作り手の意識・無意識を問わず、考えなければならない。 例えば、アシモフの原作小説「バイセンテニアル・マン」を基に、人間になりたいと願う家事用ロボットを描いた『アンドリューNDR114』(99年)をはじめ、感情を実験的にプログラムされた子供型ロボットがアイデンティティーを求めて彷徨う『A.I.』(01年)、アシモフの短編集「われは、ロボット」を原案にして、殺人事件の容疑がかけられたロボットと刑事が対峙する『アイ,ロボット』(04年)、法令違反の改造を施されたロボットが独自に進化を遂げてゆく『オートマタ』(14年)など、いずれも作品の底辺にアシモフのロボット工学3原則の匂いを感じ取ることができる。 ロボットが人間に近づこうとする、或いは、ロボットが進化するSFドラマを構築しようとする場合、ロボットを通じて人間の普遍的な姿を投影したり、科学の暴走に警鐘を鳴らすなどの表現を込めてきた。しかし『EVA』の舞台の近未来では、自律型の執事用ロボット“S・I・7”やペット型ロボット“グリス”などが、人間社会と密接に絡んで共存している。ここではロボットの進化や脅威を描くのではなく、人間とロボットの壁(境界)を超えた“普遍的な愛”を詩的に捉えている。 雪がしんしんと降り積もる郊外の静かな街を背景にして、ロボット製造から一度は逃げてしまった科学者が、再び自律型の高性能ロボットを作ろうとするドラマ。詩的でファンタジックなメルヘン要素を見せていく一方で、哀しみをおびた情緒的な愛の寓話とも受け取れる。例えば、ロボットが人間の指示に従わず、どうしようもない時にかける言葉がある。それはロボットに対する、最も神聖な言葉「目を閉じると、何が見える?」 するとロボットは、安らかに眠るように突然機能を停止!……それはロボットにとって、死を意味する。一度ショートした感情の記憶は修復不可能で、再起動しても同じロボットではなくなってしまう。そのあたりの表現が、ハリウッド映画とは異なるスペイン映画らしい芸術性か。 若くて優秀なロボット科学者アレックス・ガレル(『ラッシュ/プライドと友情』のダニエル・ブリュール)は、かつて高性能の自立型ロボット第1号“S・I・9”を研究・製造していたが、肝心の感情生成機能が欠けていて未完成のままだった。そして、突然どこかへ雲隠れしてしまってから10数年後、大学の女性ロボット科学者ジュリアに呼び戻され、完璧な自律型ロボットの製造を依頼される。彼は一緒にいたくなるようなロボットを造りたいと切望するが、そのためには外見や感情データを収集するための人間のモデルが必要だった。 そしてアレックスは、ロボット科学者で兄のダビッド、かつてのアレックスの恋人で兄の妻になっていたラナ・レヴィ(『スリーピングタイト 白肌の美女の異常な夜』のマルタ・エトゥラ)との久々の再会を果たした。 父亡きあと、空き家になった実家でロボット製造に取りかかるアレックスだったが、ある日、通りがかった小学校で赤いコートを着た美少女エヴァ(クラウディア・ヴェガ)を発見してから、喋ったり、何度も逢ううちに新たなロボット製造のモデルに相応しいと考えはじめる。 純白の世界の中、赤いコートを着て歩き回る10歳の美少女は、少々おませで、アレックスの心を無邪気に翻弄する。『ロリータ』(61年)のように、大人の男性と美少女の妖しげな匂いを仄かに放っているが、ある事実が判明する。それはエヴァが、兄ダビッドと元恋人ラナの娘だった。両親は、エヴァがアレックスと一緒に仕事をすることに反対していた。 エヴァ(EVA)の名は、旧約聖書の創世記に誕生した最初の女性イヴに由来し、ヘブライ語で“命”や“生きるもの”を意味する。ラナは、エヴァに何を託したかったのか? そしてアレックスが、エヴァがラナの娘と知らず、なぜエヴァに夢中になったのか? おそらく、ラナに対する秘かな想いを、知らず知らずの内にエヴァの中に見ていたためか。アレックスのエヴァへの気持ちは、ラナへの断ち切れぬ愛でもある。アレックスのラナへの強い愛情は、更に強い妄想を抱かせてしまい、意外な事実が明らかとなり、恐ろしい事態へと発展していく。 エヴァは母ラナに反対されながらも、好意を抱くアレックスに協力する。その結果、ロボットの感情記憶装置の設定データを採取され、“S・I・9”にプログラムされる。見たモノに反応し、人間のように経験が記憶を創りあげてゆくビジュアルは、まるで雪の結晶のようにファンタジックで美しいが、とても壊れやすいガラス細工のようにも見える。そして、アレックスのエヴァを通じて感じさせるラナへの愛も、雪の結晶のように美しくも儚い。 おそらく「街全体を白く染めあげている雪」と「“S・I・9”の心を創りあげる記憶」と「アレックスのラナに対する愛情の記憶」の3つを、結晶というシンボリックな形で関連づけているよう。 表向きはSF映画だが、その実、人間が愛に翻弄される詩的な寓話だった。アレックスの愛が新たな愛を生み、別の嫉妬や憎悪を生み、ある意味、結晶のようにつながっている。だから、ロボットらしい見せ場などのSF的醍醐味はほぼ皆無であるが、その代わりに詩的でファンタジック、それでいて哀切な世界観にしばらく浸っていたくなるほど。だから大人向けのSFダーク・メルヘンといった方が適切かもしれない。 それこそが『EVA』の最大の魅力だと思う。メルヘンのように雪の白い世界の中、赤いコートを着た美少女が現れ、大人たちにかつての愛を思い出させ、無邪気に翻弄してまわる。人間にとって、なかなか消せない愛、忘れられない愛は、記憶の中に生き続ける……そんな作り手の想いが伝わってくる。 ラナがエヴァによく読んであげた本が、「アラビアンナイト」だった。エヴァはその本について、こう言う。「眠りにつくお姫様を、王子様が殺さなきゃいけないの。だけどお姫様は、毎晩毎晩、王子様にステキなお話しをしていたの。王子様は、続きが気になって、お姫様を殺せなくなってしまうのよ。こうして一夜、一夜、過ぎていきました……」 美少女エヴァの寝顔は、安らかであって欲しい。■ ©Escándalo Films / Instituto Buñuel-Iberautor
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PROGRAM/放送作品
THE SALTON SEA ソルトン・シー
哀切のトランペッター・ジャンキーが死の間際に告白する復讐劇!ヴァル・キルマー主演のハードボイルド
『セイント』のヴァル・キルマー演じる哀切の主人公像と、乾いたLAの映像美で魅せる、上質なクライム・サスペンス。ハードボイルド(影のある男の独白によって導かれる犯罪劇)としても出色の出来栄えである。
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COLUMN/コラム2015.07.20
プレップファッションとギャル語が満載!!みんながノーテンキでいられた時代のカルト映画『クルーレス』。
1995年に全米公開され、"ハイスクール・ロリータ"とも言われたファンシーなファッションとメイク、連発されるギャル用語、そして、主人公のブルジョワ女子高生、シェールの一見ノーテンキに見えて実は知的でイノセントなキャラクターが受けて、今でも少女たちの間でカルトムービーとして君臨する『クルーレス』。その根強い人気は、日本公開後にVHSが発売された後も、繰り返しDVDがリリースされ、公開後10年が経った2005年には"コレクターズエディション"と題する特典付きDVDが再度発売されたことでも明らかだ。何がそんなに受けるのか? まずは、ファッション。ビバリーヒルズの高校に通うシェールと親友のディオンヌが通学服として愛用している必須アイテムは、トラッドをガーリーにアレンジした'90's風プレップスタイル。冒頭で登場するタータンチェックのミニスカスーツを始め、女子高生たちが劇中で着るチェックの柄はシェールの7種類を始めトータルで実に53種類。また、シェールが散らかったワードローブの中から探し出そうとするお気に入りのシャツは、1961年にアメリカ西海岸で開業以来、複合セレクトショップとして人気の"フレッド・シーガル"でゲットしたもの。その日本一号店が、ようやく今年4月、東京の代官山にオープンしたのは記憶に新しい。また、男友達とドライブ中に喧嘩して、危険エリアのサン・バレーに置き去りにされる時にシェールが着ているのは、ボディコンシャスの権化、アズディン・アライアの赤いミニドレスだったり、狙いを定めたイケメン男子と初デートに出かける時に彼女が選ぶのは、カルバン・クラインの白いボディコンミニだったりと、表情はまだ子供なのに服は男の視線を刺激しまくり。そんな娘を見たパパが、「下着みたいだ」と怒るのも無理はない。この映画に"ロリータ"と形容詞が付く理由は、そんなところに起因するのだ。因みに、衣装デザインを担当しているのは、25歳のヒロインが17歳の女子高生に化けて高校に潜入する『25年目のキス』(99)や、同じ高校の同窓生たちが13年ぶりに再会する『アメリカン・パイパイパイ!完結編 俺たちの同騒会』(12)等、キャンパスルックのパイオニア、モナ・メイ。服好きで映画好きの女子たちの間ではレジェンドなデザイナーだ。 連発されるギャル語にも耳をそばだてよう。言葉は生きもの。時代の空気を映す鏡だ。今でもハリウッド映画やドラマでよく耳にする「whatever(どうでもいいじゃん)」や、「totally~(超なになに)」、「as if(サイテー~)」等々は、日本の女子高生用語としても転用できそうなフレーズだ。その場合は、シェールのように少しダレ気味に、相手を小馬鹿にする感じが必要だろう。また、お互いのパパとママが再婚し、2人が離婚した今も交流を続けている血が繋がらない兄のようなジョシュのことを、シェールが「ex-stepbrother(元・義兄)」なんて表現しているのも、アメリカの離婚事情の現れ。重ねて、言葉は生きもの。社会情勢の変化に伴い形を変えて当たり前なのだ。 シェールたちが学校で義務付けられているカリキュラムの中に、堂々と"ディベート"が組み込まれているのも、討論を重んじるアメリカならでは。ある日、国の移民政策に対して反対か賛成かを議論し合う授業で、シェールが賛成する理由を「パパが開くパーティにもっとたくさん人が呼べると楽しい。故に、移民も大歓迎」と発表してどん引きされるのだが、ロジックはどうであれ、反対意見と対決する姿勢こそが大事なわけだ。 監督と脚本を担当しているエイミー・ヘッカリングは、南カリフォルニアにある高校を舞台に、ロスト・ヴァージンを目指す女子高生の奮戦ぶりを描いた出世作『初体験 リッジモント・ハイ』(82)以来、不倫の末に産まれた赤ちゃん目線で母親や大人たちの騒動を眺める『ベイビー・トーク』(89)と、その赤ちゃんに妹ができる続編『リトルダイナマイツ★ベイビー・トークTOO』(90)、そして、年上の大学教授と不倫する女子大生に恋してしまう一途な男子学生の苦闘を綴る『恋は負けない』(00)等、愚かだけれど憎めない人々のささやかな物語を紡ぎ続け、今に至っている。ヘッカリング作品が時代や国境を超えて愛され続ける理由は、ファッションやカルチャーだけではない。難しい事は抜きにして楽しみ、時に懐かしみ、思い入れられるテーマが各々の作品のベースにあるからだ。それは、映画の公開後、『初体験 リッジモント・ハイ』『クルーレス』『ベイビー・トーク』の3作が次々とTVシリーズ化され、アメリカ国内のみならず全世界に拡散されていったことでも証明されている。 そして、『クルーレス』の世界観は、その後、シェールに負けず劣らずノーテンキなハイスクールギャルがハーバード大学に乗り込む大ヒット作『キューティ・ブロンド』(01)や、シェールたちの立ち位置をニューヨークのキャリアガールに置き換えた『セックス・アンド・ザ・シティ』(08)、さらに、ヘッカリング自身がエピソードの一部を監督したTVシリーズ『ゴシップガール』(12)にも引き継がれている。 偶然だが、シェール役の候補者の1人には、後に『キューティ・ブロンド』でブレイクするリース・ウィザースプーンがいたし、ライバルにはやはりブレイク前のアンジェリーナ・ジョリーやグウィネス・パルトロウ等、未来の大器がひしめいていた。そんな強者たちを押し退け、シェール役をゲットしたのがアリシア・シルバーストーンだ。15歳で映画デビュー後、18歳の時に出演した『クルーレス』でティーンエイジスターのトップに躍り出た彼女の、大人びたルックスと甘えた声のギャップは男女を問わず虜にし、一躍時代のアイコンにジャンプアップ。業界人としてもクレバーだったアリシアは直後、自ら製作プロ"ファースト・キス"を成立し、当時個性派俳優として注目され始めていたベネチオ・デル・トロを共演者に迎えた『エクセス・バケッジ シュガーに気持ち』(97)をプロデュースする等、活動の場を広げる。 しかし、9.11後、テーマ選びもバジェットに於いても守勢に回ったハリウッドに、アリシア等女優プロデューサーの出番は減り、かつて、エイミー・ヘッカリングが監督した、あのノーテンキなコメディ自体の需要が減ってしまったのは、実に嘆かわしいことだ。かつて、メディアの取材に応えて、「心が澱むから暗い話には興味がない」と明言したヘッカリングと、彼女の意図を汲み取ってお馬鹿だけど憎めない女子高生を好演したアリシアが、久々にコラボする機会を待ち焦がれているのは、何もファッションチェックに忙しい女子高生ばかりじゃない。夢見る男子だったオジサンたちだって、あの頃の自分に戻って泣き笑いしたいに違いないのだ。■ COPYRIGHT © 2015 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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PROGRAM/放送作品
ひかりのまち
希代の才能で世界中から注目されるマイケル・ウィンターボトム監督が描く、愛と幸福!
スタイリッシュな映像美と、秀でた音楽センスで注目されるマイケル・ウィンターボトム監督がおくる心温まるヒューマン・ドラマ。音楽は『ピアノ・レッスン』の巨匠マイケル・ナイマン。
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COLUMN/コラム2015.03.18
ドイツにおけるサッカーの“起源”に迫り、このスポーツの精神と喜びをみずみずしく紡いだ珠玉作~『コッホ先生と僕らの革命』
2014年のサッカー界で最もインパクトを放った出来事のひとつは、何と言ってもブラジル・ワールドカップにおけるドイツ代表の優勝である。とりわけ準決勝で開催国を容赦ないほど圧倒し、7-1というありえないスコアで撃破した試合は、ブラジルのサポーターからすれば救いのないディザスター・ムービーのようだっただろう。同時にそれは世界中のサッカー・ファンが、ドイツの時代の到来を思い知らされた試合でもあった。 そんな誰もが知るヨーロッパの伝統的な強豪国であり、21世紀の先端をゆくドイツという国のサッカーの“起源”を描いたのが『コッホ先生と僕らの革命』だ。1846年にブラウンシュヴァイクに生まれ、父親の後を追うように教育者となったコンラート・コッホ。故郷の名門カタリネウム校の主任教師となった彼は、ドイツのスポーツ教育に初めてサッカーを導入し、のちにサッカーのルールブックを最初に出版した人物とされている。おそらく「そんな人の名前、聞いたことがない」という人がほとんどだろうが、それも当然。大のサッカー好きでバルセロナの熱烈なサポーターでもある主演俳優ダニエル・ブリュールも「まったく知らなかった」とインタビューで告白しているように、ドイツ国内でもあまり知られていない偉人らしい。 映画は1874年、イギリス留学から帰国したコッホがカタリネウム校に英語教師として赴任してくるところから始まる。当時のドイツ帝国の体育の授業では器械体操が重んじられ、生徒たちは頭の固い権威主義的な教師たちに抑圧されていた。リベラルな考え方を持つコッホは、生徒たちがイギリスを“野蛮な国”と誤解し、英語の授業にさっぱり身が入らないのを察して、彼らを体育館へと連れ出す。そこで自分が持ち込んだサッカーボールを蹴ってみるように指示したコッホは、シュート、パス、ディフェンス、アタックといった英語のサッカー用語を教えるという奇策に出る。かくして生徒たちは初めて触れたサッカーの面白さの虜になっていくが、コッホの指導方針を快く思わない守旧派が妨害工作を仕掛けてきて…。 実際のコッホは英語教師ではなく古典が専門だったらしく、いろいろ映画向けの“脚色”が施されているようだが、彼がチームプレーやフェアプレーをリスペクトするサッカーの精神を教育に応用したエピソードは事実に基づいているようだ。さらに本作は、いじめっ子、いじめられっ子という相容れない関係だった特権階級と労働者階級の生徒ふたりが、格差の壁を軽やかに乗り越えてサッカーの平等性を体現していく姿を描出。またコッホの指導によって自我に目覚めた生徒たちが、服従を強いる大人たちへのささやかな抵抗を見せるくだりは、このジャンルの傑作『いまを生きる』の名場面を思い起こさせたりもする。教育映画としても青春映画としても、そして師弟の絆を謳い上げた学園ドラマとしても、実にウェルメイドな仕上がりである。 それに何よりサッカーにまつわる描写がいちいちすばらしい。だだっ広い公園に即席のゴールポストを立てた生徒たちが、初めて屋外のピッチでサッカーに興じるシーンの素朴さ! そしてクライマックスでは、何とサッカーの母国イギリス・オックスフォードから遠征してきた少年チームとの初の“対外試合”が繰り広げられるのだ。この試合には通常のスポーツ映画とは異なり名誉もプライドも懸かっておらず、勝敗さえも問題にならない。戦術や駆け引きの類も一切ない。あるのはオフサイドという反則の説明だけで、ひたすらサッカーをプレーする喜びが牧歌的な風景の中にいきいきと紡がれていく。 ベルリンから視察にやってきた教育界のお偉いさんたちは、初めて目の当たりにするサッカーなるものをどう受けとめていいのかわからない。少年たちはそんなことお構いなしに無心でプレーを続け、ゴールを決めたり決められたりと一喜一憂。チビだがボールの扱いが抜群にうまいいじめられっ子が敵陣の右サイドをドリブル突破し、そこから送られたクロスを長身のいじめっ子がダイビングヘッドでシュートするシーンには、観ているこちらまで思わず身を乗り出しそうになってしまう。セバスチャン・グロブラー監督を始めとするスタッフは、よほどのサッカー好きなのだろう。非公式記録ながら名もなき少年たちが経験する“ドイツ史上初の失点”や“初のゴール”を、このうえなく丹念に映像化している。コッホ役のダニエル・ブリュールがちらりと垣間見せる、リフティングやドリブルのテクニックも見逃せない。 とかく筆者も含めたサッカー・ファンはやたら細かいシステム論などに気をとられがちだが、この映画はそこにサッカーというスポーツが存在することの幸福感をみずみずしく伝えてくれる。まさしく“心洗われる感動”に浸れる珠玉のサッカー映画なのであった。■ ©2011 DEUTSCHFILM / CUCKOO CLOCK ENTERTAINMENT / SENATOR FILM PRODUKTION
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PROGRAM/放送作品
イングリッシュマン in ニューヨーク
イギリスの名門大卒の青年が勝手の違うアメリカで騒動に巻き込まれてしまうドタバタ・コメディ!
夢を抱いてニューヨークの美術商に就職したイギリスの名門大卒の青年が、絵の買い付けで出張した南部の田舎町で騒動に巻き込まれるドタバタ・コメディ。主演は『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のD・デイ=ルイス。
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COLUMN/コラム2014.08.11
【3ヶ月連続キューブリック特集その1】キューブリック、その究極の個人芸術〜『2001年宇宙の旅』『シャイニング』
1968年、人類がまだ月に到達していない時代。当時の最先端をいく科学理論を尽くし、宇宙開拓と惑星間航行が可能となった未来をリアルに視覚体験させた映画『2001年宇宙の旅』。人類の進化に影響を与えた謎のモノリス(石板)との遭遇や、地球外知的生命体の存在を示唆しながら、それらの謎を探査する宇宙船ディスカバリー号のミッションと、操縦する人工知能HAL9000が制御不能に陥っていくサスペンスを、壮大なスケールで展開させる。 製作から既に46年を迎え、映画としては古典の類に属する本作。だがその魅力は恒久的に映画ファンをとらえ、熱狂的な信者を今も絶やすことなく生み出している。人工知能が人間にもたらす可能性と危険性への言及や、そして人工知能が人間に反乱を起こすスリリングな展開など、設定年代から既に13年も過ぎながら、それでも「起こりうる将来」の迫真性と新鮮さをもって、今も観る者の眼前に立つのである。 しかし、そんな『2001年』の圧倒的な存在感をガッシリと支えているのは、本作が商業映画という立場にありながら、監督であるスタンリー・キューブリックの完全なる「個人芸術」となっている点だろう。スクリーンをキャンバスに、あるいは壁面に見立て、まるでピカソやミケランジェロが緻筆をふうるがごとく、荘厳なビジュアルアートを異能の天才監督は展開させているのである。 そのためにキューブリックは、絵筆ともいうべき撮影テクニックに労や手間を惜しまなかった。とりわけ顕著なのは、本作を経て飛躍的に進化したといわれる視覚効果の数々だろう。キューブリックは視覚効果に絡む撮影パートをすべて自分の統括下に置き、既存の特殊撮影技法を使わない方針のもと、このSF映画きっての超巨大キャンバスと対峙したのである。 そして本作の要となる「形而下」と「形而上」、つまり具象と抽象の両極の映像づくりを、先のアプローチで見事に果たしている。前者は「人類の夜明け」そして「木星使節」のチャプターにおける、類人猿が生息する有史以前の光景や、宇宙空間と宇宙船を捉えた未来図像で、それらは「ナショナル・ジオグラフィック」や科学雑誌に掲載されても違和感のいようなフォトリアルなイメージだ。 そして後者は「木星 そして無限の宇宙の彼方へ」のチャプターでの、ディスカバリー号の乗組員ボーマン(キア・デュリア)を未知の領域へといざなう光の回廊、すなわち[スターゲイト・コリドー]に代表される抽象映像である。 スターゲイト・コリドーのような抽象映像は「アブストラクト・シネマ」と呼ばれるもので、幾何学図形や非定形のイメージで画を構成した実験映画のムーブメントだ。1930年代にオスカー・フィッシンガーやレン・ライといった実験映像作家によって形成され、『2001年』が誕生する60年代には、美術表現の多様と共に大きく活性化した。この個人作家のパーソナルな取り組みによって発展を遂げた光学アートを、キューブリックは大規模の商業映画において成立させようと企図したのである。 かってディズニーが音楽の視覚化を標榜した長編アニメーション『ファンタジア』(40)を製作するために、アブストラクト・シネマの開祖であるオスカー・フィッシンガーに協力を求め、優れたアーティストのイマジネーションを商業映画に取り込もうとした(残念ながらフィッシンガーは途中でプロジェクトを降りる)。キューブリックもまた、スターゲイト・コリドーのシーンを作るためのリファレンスを実験映像作家に求めている。その結果、コンピュータ・アニメーションの分野で抽象映像を手がけてきた、ジョン・ホイットニー・シニアらの作品をヒントに創造が成されたのだ。 スターゲイト・コリドーのシーンを生み出したシステム「スリット・スキャン」は、そんなジョン・ホイットニー・シニアが発表した映像力学の考察レポート「視覚におけるブレの効果」に基づき、視覚効果スーパーバイザーとして本作に招かねた特撮監督のダグラス・トランブルが開発したものだ。カメラが前後に移動できる台の前に、上下左右にスライド可能なスリット(隙間)を設置し、被写体となる光をスリットごしに長時間露光撮影することで、奥行きと移動感のあるアブストラクトなイメージが生み出せるシステムである。だが1日にわずか1テイクしか撮れず、スターゲイト・コリドーのシーンは時間にして1〜2分に満たないにも関わらず、じつに半年もの製作期間を要している。 こうした緻密に細心を重ねた撮影へのこだわりは全般におよび、そのため『2001年宇宙の旅』は1966年の初めから暮れまでおよそ1年間は「人類の夜明け」などのライブアクションシーンを撮影し、そしてさらに1年と6ヶ月間、ポストプロダクションとして宇宙ショットの特殊効果に費やしている。つまり脚本執筆などの準備期間を含めない実製作期間だけでも、本作はじつに2年間以上もかかっているのだ。 キューブリックのこうした商業性や経済性を度外視した姿勢は、キャスティングにもあらわれている。その端的な例が『シャイニング』だ。 自作にあまりスターを起用しないキューブリックだが、本作にはジャック・ニコルソンという、ハリウッドを代表する名優が主演だ。キューブリックが幻に終わった史劇大作『ナポレオン』のナポレオン役にニコルソンを想定していたことが起用の近因だが、なにより前作『バリー・リンドン』の興行的失敗から、コマーシャリズムに気を配った作品をキューブリックは手がけなければならなかった。そのためにホラーという扇動的なジャンルに着手し、狂気を表情に湛えられる名優ニコルソンを自作に求めたのである。 だが実のところ、キューブリックの映画にスターが出ない最大の理由は、彼の創作への執拗なまでのこだわりから撮影期間が長くなり、必然的に人気のある多忙な役者は拘束できないからだ。案の定、キューブリックは『シャイニング』でニコルソンを1年間も拘束し、彼のフィルモグラフィに2年もの空白期を作っている。 同様のケースに『アイズ ワイド シャット』(99)の主演トム・クルーズの長期拘束がある。当時トムは『ミッション:インポッシブル』シリーズを展開するなど、俳優として最盛期ともいえる状況にあった。だがキューブリックはそんな彼を、およそ2年間近くも『アイズ ワイド シャット』の撮影で拘束しているのだ。そのためトムは1年と間の空かない自身のフィルモグラフィにおいて、なんと3年間もの空白期を生じさせているのである。 ニコルソンも『シャイニング』撮影当時は43歳。1975年の『カッコーの巣の上で』でアカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞し、押しも押されもせぬ名優としての地位を確立し、俳優として最も脂の乗った時期だ。劇中、ニコルソン演じるトランスがひたすらタイプし続けた「All work and no play makes Jack a dull boy.(勉強ばかりで遊ばない、ジャックは今におかしくなる)」というワードは、映画の中だけの恐怖を指し示したものとはいえないのである。 もちろん、トムもニコルソンもキューブリックに心酔しているからこそ、彼の作品に出演したのだろう。とはいえ、この経済効果の高いトップクラスの俳優を数年間も封じ込めてしまう効率の悪さは、映画界のバランスを考えると許容のレベルを超えている。この驚異もまた、表現欲求に忠実なあまり商業映画としてのバランスを欠く、キューブリックの個人芸術ぶりを象徴するエピソードといえるだろう。 話の腰を折って恐縮だが、筆者はこの『2001年』と、昨年公開されたスタジオジブリの劇場長編アニメーション『かぐや姫の物語』(13)が、なぜか寸分の狂いもなくぴったりと重なる。 どちらも月に存在する謎の英知に触れている点で同じだから? そんなロマンチックな理由ではない。ジブリは常に優れた興行成績を維持して自社経営が成り立ち、製作委員会方式でリスク分散をしないため、世界で数少ない「作家主義」の作品展開が図れるスタジオだ。巨匠・高畑勲の手による『かぐや姫の物語』は、監督の表現追求のために最新の技術を投入し、作画や動画に納得のいくまでチェックが重ねられ、商業映画としては破綻した製作体勢のもとに生み出されている(事実、製作の遅れから公開日が延期にもなった)。ジブリに利益をもたらすどころか圧迫さえもたらしかねない同作は、キューブリックが実践した「個人芸術」の轍を踏む身近なケースといえるだろう。 思えば高畑は前作『ホーホケキョ となりの山田くん』(99)で、セルアニメでは不可能な淡彩描写に挑み、ジブリアニメのデジタル製作体勢への移行を、表現へのあくなき執着でもって果たさせている。奇しくもその年、キューブリックは『アイズ ワイド シャット』を遺作に、スターゲイトの彼方へと旅立っている。個人芸術の継承という点においてキューブリックと高畑勲をシンクロさせる考えは、1999年のこの時点で布石が敷かれていたのかもしれない。 映画が「商品か、アートか?」と問われたとき、間違いなく後者だと断言できるキューブリック作品。ことに『2001年宇宙の旅』は、今の商業映画の製作システムではもはや成立させることのできない個人芸術の到達点であり、まさしく劇中のモノリスのごとく映画界に鎮座する驚愕のシンボルなのである。■ 『2001年宇宙の旅』© Turner Entertainment Company 『シャイニング』TM & © Warner Bros. Entertainment Inc.