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PROGRAM/放送作品
フリードキン・アンカット
鬼才か、奇人か?巨匠ウィリアム・フリードキン監督の素顔と映画術に迫る渾身のドキュメンタリー
ジャンルにとらわれず常に新しい映画を追求してきたウィリアム・フリードキン監督。その人物像や作品づくりを、本人のみならずコッポラやタランティーノなど彼に縁のある監督・俳優へのインタビューで掘り下げる。
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COLUMN/コラム2024.01.18
フリードキン流ドキュメンタリーの手法が、アクチュアルなド迫力を生んだ!『フレンチ・コネクション』
昨年87歳でこの世を去った、ウィリアム・フリードキン。1935年生まれの彼が、映画監督として最高のスポットライトを浴びたのは、『フレンチ・コネクション』(71)『エクソシスト』(73)の2本をものした、30代後半の頃であったのは、間違いない。 近年には、長らく“失敗作”扱いされ、キャリアの転換点とされた、『恐怖の報酬』(77)の再評価などがあった。しかし、『フレンチ…』『エクソシスト』を連発した際の、リアルタイムでのインパクトはあまりにも凄まじく、それ故に、以降は“失墜”した印象が、強くなったとも言える。 そんなフリードキンのキャリアのスタートは、TV業界。10代後半、父親が早逝し、大学に進む気がなかった彼が、必要に駆られて職に就いたのが、生まれ育った地元シカゴのローカルテレビ局の郵便仕分け係だった。 ところがこの局では、異動の度に様々な職種を経験していくシステムになっており、やがて彼は、番組の“演出”を担当するようになる。元はディレクター志望だったわけではないが、水が合ったらしく、その後幾つか局を移りながら、20代後半までに、ヴァラエティ、クイズ、クラシック音楽、野球など2,000本以上の生番組を手掛け、10数本のドキュメンタリーを世に送り出した。 フリードキンが映画界へと進んだのは、30代を迎えた60年代後半。舞台の映画化作品である『真夜中のパーティー』(70)などが評判にはなったが、決定打が出ないまま、70年代へと突入した。 思い悩む彼がアドバイスを求めたのが、ハワード・ホークス監督。スクリュー・ボール・コメディからミュージカル、メロドラマ、ギャング映画、航空映画、西部劇等々、様々なジャンルでヒットを放ってきた巨匠ホークスがフリードキンに言ったのは、次の通り。「誰かの抱えている問題や精神的な厄介ごとについての話なんて誰も聞きたかねぇんだよ。みんなが観たいのはアクションだ。俺がその手の映画をイイ奴らと悪もんをたくさん使って作ると必ずヒットするのさ」 そしてちょうどそのタイミングで、スティーヴ・マックィーン主演の刑事アクション『ブリット』 (68)で大ヒットを飛ばした、プロデューサーのフィリップ・ダントニから、出版前のゲラ刷りが、フリードキンへと持ち込まれた。それが、ロビン・ムーアの筆によるノンフィクション「フレンチ・コネクション」だった。 ニューヨーク警察が、フランスから持ち込まれた大量のヘロインの押収に成功した、61年に実際に起こった大捕物を記したこの原作に、フリードキンは心惹かれた。更にはニューヨークに行って、この捜査の中心だった、麻薬捜査課の2人の刑事、エドワード・イーガン、サリヴァトーレ・グロッソの実物と会ってからは、本当に夢中になって映画化に取り組んだ。 そこから納得のいく脚本づくりに時間を掛けて、本作『フレンチ・コネクション』がクランクインしたのは、1970年の11月30日。翌71年の3月に入るまで、65日間の撮影では、セットは一切使わなかった。ニューヨーク、それも実際の事件の舞台となった場所を使用した、オールロケーションを敢行したのである。 ***** ニューヨーク・ブルックリンで、麻薬の摘発に勤しむ2人の刑事、ジミー・ドイルとバディー・ルソー。“ポパイ”と呼ばれるドイルの強引なやり口を、ルソーがフォローする形で捜査を含める、名コンビだった。 ある時2人で出掛けたナイトクラブで、豪遊する男サル・ボカを見て、ドイルの“猟犬”の勘が働く。妻と共に軽食堂を営むサルを張り込み、店の盗聴を行った結果、彼の仲介で、フランス・マルセイユから届くヘロインの大きな取引が行われることがわかった。 取引の中心に居るのは、フランス人実業家のシャルニエ。殺し屋の二コリを従えて、ニューヨークのホテルに滞在していた。 財務省麻薬取締部の捜査官も交えて、シャルニエらの尾行が始まる。ある日ドイルの尾行に気付いたシャルニエは、地下鉄を利用。狡猾なやり口で、まんまとドイルを撒いた。 証拠不十分でドイルが捜査から外されたタイミングで、二コリがライフルでドイルを狙撃する。弾を逃れたドイルは、高架を走る地下鉄へと逃げ込んだ二コリを追うため、通りがかりの車を徴発。高架下を猛スピードでぶっ飛ばす。 地下鉄をジャックして、ノンストップで走らせたニコリだが、終着駅で停車していた車両に衝突。何とか逃げおおせようと、地下鉄を脱出するものの、追いついたドイルによって、射殺される。 ドイルは捜査へと復帰。いよいよシャルニエたちの麻薬取引が迫る中、繰り広げられる虚々実々の闘いは、終着点へと向かう…。 ***** 主役のドイル刑事に選ばれたのは、ジーン・ハックマン。40歳になったばかりの「ハックマンは、それまでに『俺たちに明日はない』(67)などで、2度アカデミー賞助演男優賞にノミネートされるなど、知名度はそこそこにあったが、本格的な主演作は初めて。 無名俳優を使いたかったフリードキンと、スターを主演にしたかった製作会社。その妥協によって、中間的な位置にいたハックマンが起用されたという。 ハックマンは、相棒のルソー刑事に選ばれたロイ・シャイダーと共に、自分たちの役のモデルとなった、イーガン、グロッソ両刑事の捜査などに、2週間密着。麻薬常習者の溜まり場に踏み込んだり、その連行を手伝ったりまでして、役作りを行った。 刑事たちが追うシャルニエ役に、フェルナンド・レイが選ばれたのは、実は手違いからだった。フリードキンは当初、ルイス・ブニュエル監督、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の『昼顔』(67)に出演していた、フランシスコ・ラバルをキャスティングしようと考えていたのである。 ところがキャスティング・ディレクターが、勘違い。同じブニュエル監督のドヌーヴ主演作、『哀しみのトリスターナ』(70)の共演者だったレイが、ニューヨークの撮影へと招かれた。フリードキンはその時会って初めて、自分が考えていた俳優とは、別人だと気付いたという。 実はこれが、瓢箪から駒となった。役のモデルとなった犯罪者は、粗野なコルシカ人だったが、フェルナンド・レイは、見るからに洗練された紳士。粗野なドイル刑事とのコントラストが、効果的に映えた。因みに当初想定されていたラバルは、英語がまったく話せなかったので、そうした意味でも、大成功のキャスティングとなった。
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PROGRAM/放送作品
地獄の黙示録【4Kレストア版】
[PG12]コッポラ監督のベトナム戦争映画の最高傑作。カンヌ国際映画祭では最高賞パルムドールを受賞。 放送日:21、30
フランシス・フォード・コッポラ監督がベトナム戦争を舞台にその暴力性と狂気を描いた、映画史に残る戦争映画の金字塔。カンヌ国際映画祭パルムドール受賞。オリジナル劇場公開版の4Kレストア版。
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COLUMN/コラム2023.08.01
ディレクターズ・カット版で味わいに深みを増した’80年代青春映画の金字塔『アウトサイダー』
アメリカの光と影を映し出す、貧しい若者たちの群像劇 巨匠フランシス・フォード・コッポラが監督を手掛け、アメリカはもとより日本でも爆発的な大ヒットを記録した、’80年代を象徴する青春映画の金字塔『アウトサイダー』(’83)。いつまでも若かりし頃の輝きを失わないで…と歌う、スティーヴィー・ワンダーの主題歌「ステイ・ゴールド」の美しくも抒情的なメロディと共に記憶している映画ファンも多いことだろう。 ‘80年代のハリウッドといえば青春映画の全盛期。『初体験リッジモント・ハイ』(’82)や『プライベート・スクール』(’83)のようなセックス・コメディから、ジョン・ヒューズ監督の『すてきな片想い』(’84)や『ブレックファスト・クラブ』(’85)のようにお洒落な学園ドラマ、さらには『セント・エルモス・ファイアー』(’85)に『プリティ・イン・ピンク』(’86)に『ダーティ・ダンシング』(’87)に『ヘザース/ベロニカの熱い日』(’88)にと、等身大の若者たちを鮮やかに描いた青春映画が次から次へと大ヒットし、ブラット・パック(悪ガキ集団)と呼ばれる若手の青春映画スターたちがハリウッドのニュー・セレブとして持て囃された時代だ。そのブラット・パック第一世代(マット・ディロンやC・トーマス・ハウエル、ラルフ・マッチオ、トム・クルーズなど)の俳優たちがズラリ勢ぞろいした本作は、さしずめ’80年代青春映画ブームの原点にして頂点と呼べるかもしれない。 原作はデビュー当時まだ18歳だった女性作家S・E・ヒントンが高校在学中に執筆し、処女作として’67年に発表してベストセラーとなった同名のヤングアダルト小説。ヒントン自身が生まれ育ったオクラホマ州の町タルサを舞台に、行き場のない怒りや不満や哀しみをぶつけるかのごとく、喧嘩ばかりに明け暮れる貧しい若者たちの青春群像が描かれる。まずはそのストーリーから振り返ってみよう。 時は’60年代半ば。主人公はリーダー格のクールなタフガイ、ダラス(マット・ディロン)を筆頭に、両親を交通事故で亡くした14歳の最年少ポニーボーイ(C・トーマス・ハウエル)、その兄貴のダレル(パトリック・スウェイジ)とソーダポップ(ロブ・ロウ)、親からの虐待に苦しむジョニー(ラルフ・マッチオ)、ひょうきんで明るいツー・ビット(エミリオ・エステベス)に筋肉バカのお調子者スティーヴ(トム・クルーズ)など、「グリース」と呼ばれる貧困層の不良少年グループだ。肩で風を切るようにしてイキがっている彼らだが、しかしその素顔はごくごく平凡な普通の若者たち。中でも、物語の語り部であるポニーボーイは映画と本をこよなく愛する芸術家肌の秀才で、その親友ジョニーも争いごとを嫌う繊細で心優しい少年だ。しかし、たまたま運悪くスラム地区の貧困層に生まれ育ってしまった彼らは、普段からタフを装わなくては弱肉強食の世界を生き抜くことが出来ないのである。 そんな「グリース」の面々にとって最大のライバルは、山手の高級住宅地を根城にする富裕層の不良グループ「ソッシュ」。普段から小競り合いの絶えない「グリース」と「ソッシュ」だが、ある晩ドライブイン・シアターでポニーボーイたちが「ソッシュ」の美少女チェリー(ダイアン・レイン)と親しくなったことから、これに嫉妬した「ソッシュ」のリーダー格ボブ(レイフ・ギャレット)が仲間を引き連れてポニーボーイとジョニーを襲撃。目の前でリンチされるポニーボーイを助けようとしたジョニーだったが、しかし無我夢中だったために勢い余ってボブをナイフで刺し殺してしまう。恐れをなして一目散に逃げだした「ソッシュ」の連中。ボブの死体と共に取り残されて途方に暮れるポニーボーイとジョニー。2人はダラスの助言で遠く離れた古い教会の廃墟へ身を隠し、熱(ほとぼり)がさめるのを待つことにするのだが、そんな彼らを皮肉な運命が待ち受ける…。 巨匠コッポラを突き動かした原作ファンのティーンたち 『風と共に去りぬ』(’39)のキッズ版をコンセプトにしたというコッポラ監督。なるほど、確かに夕焼けの空を背景にしたオープニングのタイトル・シークエンスをはじめ、明らかに『風と共に去りぬ』からインスパイアされたと思しきシーンは少なくない。さらに言えば、愛情に飢えた不良少年たちを巡る切なくもほろ苦い青春ストーリーは、まるでジェームズ・ディーンの『理由なき反抗』(’55)や『エデンの東』(’55)の如し。興行的に大惨敗を喫した前作『ワン・フロム・ザ・ハート』(’82)でも垣間見せた、ハリウッド黄金期のスタジオ映画に対するコッポラ監督の愛情と憧憬が滲み出ている映画と言えるだろう。 それにしても、『ゴッドファーザー』(’72)シリーズでマフィアの熾烈な権力争いを描き、『地獄の黙示録』(’79)では戦場の地獄と狂気をスクリーンにぶちまけたフランシス・フォード・コッポラが、一転してなぜ、これほどまでに瑞々しい正統派の青春メロドラマを世に送り出したのか。その経緯がまたちょっと興味深い。 そもそもの始まりは、’80年の春にコッポラのもとへ届いた一通の手紙。それは、カリフォルニア州フレズノ市のローン・スター小学校に勤める図書館司書ジョー・エレン・ミサキアンが、8年生の生徒たちに代わって代筆したもの。封筒にはS・E・ヒントンの小説「アウトサイダー」が同梱され、手紙には「これを貴方に映画化して欲しい」との旨がしたためられていた。どうやら、原作の熱心なファンで映画化を望んでいた8年生の生徒たちは、『ゴッドファーザー』の映画化に成功したコッポラであれば適任だろうと考えたようだ。手紙には生徒たちの署名まで添えられていたらしい。そこで、当時はS・E・ヒントンの名前すら知らなかったコッポラ監督だが、子供たちの熱意に心を動かされて原作本を読み、さらにオクラホマ州タルサにも足を運んで作者ヒントンと親しくなり、最終的に映画化へ踏み切ることにしたのである。要するに、きっかけは原作ファンからのご指名ラブコールだったのだ。 また、先述したようにブラット・パックと呼ばれる新世代の若手スターを数多く輩出した本作だが、配役選考の際にコッポラ監督が採用したユニークな形式のオーディションも今や語り草となっている。キャスティング・ディレクターを任されたのは、『ゴッドファーザー』以来の付き合いである盟友フレッド・ルース。なるべく手垢の付いていない無名俳優を中心に、ルースは数十名の候補者を全米各地から探し出してきたという。その中には、最終的に合格したメイン・キャスト陣はもちろんのこと、次作『ランブルフィッシュ』(’83)で起用されるミッキー・ロークやヴィンセント・スパーノをはじめ、デニス・クエイドにスコット・ベイオ、アンソニー・マイケル・ホール、アダム・ボールドウィン、ヘレン・スレイターにキャサリン・メアリー・スチュワート、ケイト・キャプショーなどなど、後に映画界で名を成す有望な新人が多数含まれていた。 若手俳優たちを戸惑わせた前代未聞のオーディションとは? で、そんな才能あふれる候補者たちをコッポラ監督がどうしたかというと、まずはオーディション会場に全員集めて複数のグループに分け、その場で指定したシーンを交代で演じさせたという。通常、オーディションというのは審査員を前に個別で行うものなので、この前代未聞のグループ・オーディションには多くの参加者が戸惑った。なにしろ、審査員だけでなく他の参加者も見ている前で芝居をしなくてはならない。駆け出しの若手俳優にとっては相当なプレッシャーだったはずだ。しかも、コッポラは各人の適性や相性をチェックするため、あえて全員に複数の役柄を演じさせた。実際、トム・クルーズがダラス役を、エミリオ・エステベスがソーダポップ役を演じたオーディション映像も残っている。最初からジョニー役を希望していたというラルフ・マッチオは、ポニーボーイやツー・ビットのセリフ読みをさせられるたび、「このままだとジョニー役は貰えないかもしれない」と不安になったそうだ。 こうした実験的なプロセスを経て選ばれたのが、本作を機にスターダムを駆け上がったブラット・パック第一世代の面々。ただし、ダラス役のマット・ディロンはすでにティーン・スターとして頭角を現しており、中でも特に日本では『リトル・ダーリング』(’80)や『マイ・ボディガード』(’80)のヒットで絶大な人気を誇っていた。筆者はこれまでに2回ほどマット・ディロンに単独インタビューをしているが、若い女性ファンから追いかけられるような経験をしたのは日本だけだと語っていたのが印象的。当時はアメリカ本国よりも日本での人気の方が高かったのだ。 それはともかく、コッポラ監督がオーディションで最初に手応えを感じたのもマット・ディロンだったという。なにしろ、本人は高校の授業をさぼってまでS・E・ヒントンの小説を貪り読むほどの熱烈なファン。役柄だけでなく作品の世界も誰より理解していた。しかも、当時はヒントンの小説を映画化した『テックス』(’82)に主演したばかり。その過程で原作者ヒントンとも大親友になっていた。もはや、『アウトサイダー』に出ることは彼の宿命みたいなものだったと言えよう。実際、かなり早い段階でコッポラは彼をダラス役に決めたらしいのだが、しかし監督から「もう帰っていいよ」と言われたディロンは、オーディションに落ちたものと勘違いしてムチャクチャ凹んだそうだ。 当時すでにスターだったといえば、ヒロインのチェリー役を演じているダイアン・レインも同様。なんたって、13歳の時に主演した映画デビュー作『リトル・ロマンス』(’79)で天下の名優ローレンス・オリヴィエと渡り合い、マスコミから「第二のグレース・ケリー」とまで呼ばれた逸材である。また、富裕層グループ「ソッシュ」のリーダー、ボブ役のレイフ・ギャレットも、当時すでに全盛期を過ぎて落ち目だったとはいえ、’70年代に全米で絶大な人気を誇ったスーパー・ティーンアイドル。歌手としてもシングル「ダンスに夢中」が全米チャート・トップ10に入り、日本のお菓子メーカーのTVCMにも起用された。田原俊彦のデビュー曲「哀愁でいと」も、実はレイフ・ギャレットのカバー曲である。 ちなみに、本作は若手俳優のオーディションだけでなく演技指導もかなり実験的。まずメイン・キャストは撮影開始の3~4週間前にロケ地のタルサへ入り、本番さながらのリハーサルを行い、その様子を全てビデオ撮影&デジタル編集していたという。そうすることによって、撮影本番へ入る頃には役柄と同じような信頼関係がキャストの間にも生まれたのだとか。さらに、コッポラ監督は「グリース」役の俳優たちをホテルの安い部屋へ泊らせ、反対に「ソッシュ」役の俳優たちは高い部屋に泊まらせる、「グリース」役の役者たちの台本はプラスチック製のバインダーで、「ソッシュ」役の役者たちには革製のバインダーを与えるなど、両者の扱いに差をつけることで互いへのライバル意識を芽生えさせたのだそうだ。まあ、このやり方には恐らく賛否あることだろう。実際、撮影現場の外でも喧嘩沙汰が起きたらしいので、少なからず問題のある演技指導だったのではないかとも思う。 「ディレクターズ・カット版」の見どころもチェック こうして出来上がった映画『アウトサイダー』は、世界中のティーンエージャーたちの共感を集めて大ヒットを飛ばし、『ワン・フロム・ザ・ハート』の大失敗で危機に陥ったコッポラのキャリアを救ったわけだが、その一方で原作ファンにとって大事なシーンが幾つも抜けていることから、監督のもとには「もっと原作に忠実であった方が良かった」との不満を示すファン・レターが長年に渡って多く届いていたらしい。そう言われると、筆者も初見時はノスタルジックな映像の美しさや旬な若手俳優たちの魅力に心酔しつつ、どことなくストーリーに物足りなさを感じていたことは否めない。それゆえ、同じくコッポラがヒントンの小説を忠実に映画化した次回作『ランブルフィッシュ』の方が、作品の出来栄えに軍配が上がると考えていたのだが、どうやらコッポラ監督自身も劇場公開版には不満があったらしい。 というのも、もともと本作は原作小説に出来る限り忠実な内容で、上映時間も当初は2時間近くあったのだが、これを長すぎると感じた配給元ワーナーの指示によって91分に短縮させられていたのだ。そこで劇場公開から23年後の’05年、コッポラ監督は削除シーンを再編集で復元した「ディレクターズ・カット版」を初めて発表。これが劇場公開版を遥かに凌駕するほど素晴らしい出来栄えだった。 まずはメインキャラクターやストーリーの設定背景を詳しく掘り下げた導入部分が復活。おかげで、劇場公開版ではなんとなく浅く感じられた彼らの友情と絆の描写に、圧倒的な深みと説得力が加わっている。これは恐らく誰の目にも明らかであろう。さらに、ポニーボーイとソーダポップ、ダレルのカーティス3兄弟に関するシーンも大幅に復活し、どれだけの困難に見舞われようともお互いに助け合う兄弟愛の美しさと尊さが描かれる。中でも、ポニーボーイとソーダポップが同じベッドでお互いを抱きしめながら、人生の様々なことについて本音で語り合うシーンは素直に感動的だ。そういえば、ポニーボーイは親友ジョニーともよくハグしていたっけ。ゲイではないストレートの男同士だって抱きしめ合うことは恥ずかしいことじゃないし、辛いときにお互いを慰めたっていい。もちろん、男が弱音を吐いたって泣いたって構わないし、男だからって強くなくてはいけないわけじゃない。そもそも、男同士がいちいちマウントを取って強さを競ったりするの、ホントに無益で下らないからやめようよ。そんな「有害な男らしさ」からの脱却を、今から40年も前にハッキリと描いていたことは本作の先見の明であろう。 さらに、劇場公開版では『風と共に去りぬ』のキッズ版というコンセプトのもと、コッポラ監督の実父カーマインが甘美で壮麗な音楽スコアを作曲したのだが、これがまたあまりにもメロドラマ的過ぎた。そのため、「ディレクターズ・カット版」ではオリジナル・スコアを大幅にカットし、代わりにビートルズ上陸以前のアメリカのティーンたちに愛されたエルヴィス・プレスリーやカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイスなどのヒットソングをたっぷりとフィーチャー。そこへ、当時のロックンロールやR&Bをベースにしたマイケル・セイファートとデイヴ・パドラットのクールな音楽スコアを新たに追加することで、映画そのものがリアルな時代性をまとい、作品全体の印象も引き締まったように感じられる。 しばしば商業的な理由を最重要視して編集された「劇場公開版」に対して、監督自身が本来ならこうあるべきと考える理想形を追求した「ディレクターズ・カット版」は、それゆえ自己満足に陥りがちだったりもするのだが、少なくとも本作の場合はセルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(’84)と同じくオリジナルの完成度を確実に上回っている。初公開時に映画館で見て夢中になったという人はもちろんのこと、実は周りの評判ほど感動しなかったという人にもぜひ、この「ディレクターズ・カット版」を見て頂きたいと切に願う。■ 『アウトサイダー【ディレクターズ・カット版】』© 2005 / ZOETROPE CORPORATION - Tous Droits Réservés
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PROGRAM/放送作品
アウトサイダー 【ディレクターズ・カット版】
1980年代の若手スターたちが夢の競演!フランシス・フォード・コッポラ監督が贈る青春映画の金字塔
マット・ディロンやトム・クルーズなど後にスターとなる若手俳優が、不良たちの対立と友情を瑞々しく織りなす。ディレクターズ・カット版は劇場版より約22分長く、BGMの差し替えやシーンの追加が行われている。
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COLUMN/コラム2023.04.27
巨匠コッポラのパーソナルな想いが込められた青春映画の傑作『ランブルフィッシュ』
『アウトサイダー』に続くS・E・ヒントン原作の映画化 ‘80年代青春映画の金字塔『アウトサイダー』(’83)を大成功させたフランシス・フォード・コッポラ監督が、文字通り矢継ぎ早に送り出した青春映画『ランブルフィッシュ』(’83)。どちらも原作はS・E・ヒントンが書いたヤングアダルト小説で、マット・ディロンにダイアン・レインという主演キャストの顔合わせも同じ、オクラホマ州タルサに住む貧しい不良少年たちの青春模様を描いたストーリーも似ていたが、しかし両者の最終的な仕上がりはまるで対照的だった。 ハリウッド王道のメロドラマ的な青春映画である『アウトサイダー』に対し、『ランブルフィッシュ』はフランスのヌーヴェルヴァーグ作品を彷彿とさせるクールなアート映画。そもそも、前者は色鮮やかなカラー映画だが、後者はフィルムノワール・タッチのダークなモノクロ映画だ。『アウトサイダー』の記憶があまりに鮮烈だったこともあって、劇場公開時は全く毛色の違う本作に戸惑った観客は少なくなかった。筆者もそのひとりなのだが、しかしこのシュールかつマジカルで神話的な世界観には、なんとも心を捉えて離さない不思議な魅力がある。あれから既に40年近く。改めて両作品を見直すと、『アウトサイダー』はどこか時代に色褪せてしまった感が否めないものの、しかし『ランブルフィッシュ』は今なお圧倒的に新鮮で刺激的でカッコいい。コッポラが「自分の映画の中で最も好きな作品のひとつ」というのも頷けるだろう。 地方都市タルサの荒廃した下町。不良少年グループのリーダー、ラスティ・ジェームス(マット・ディロン)がプールバーでビリヤードに熱中していると、そこへ白いスーツに身を包んだ若者ミジェット(ローレンス・フィッシュバーン)が訪れ、敵対グループのリーダー、ビフ(グレン・ウィスロー)からのメッセージを伝える。今夜10時に例の橋のたもとに来い。さもなければぶっ殺す。要するに決闘の果たし状だ。待ってましたとばかりに挑戦を受けたラスティ・ジェームスは、幼馴染みのスティーヴ(ヴィンセント・スパーノ)や右腕のスモーキー(ニコラス・ケイジ)ら仲間たちに声をかける。 昔は不良グループ同士の喧嘩沙汰など日常茶飯事だった。久しぶりにかましてやるぜ!と鼻息を荒くするラスティ・ジェームスだが、しかし仲間たちはいまひとつ気乗りしない様子だ。そもそも、決闘はモーターサイクル・ボーイ(ミッキー・ローク)が禁止したはずだ。モーターサイクル・ボーイとはラスティ・ジェームスの兄貴で、かつて地元の不良たちの誰もが尊敬して恐れた伝説のリーダー。しかし、2カ月前に忽然と姿を消したまま音沙汰がなかった。今はこの俺がリーダーだ。幼い頃から兄貴を尊敬してやまないラスティ・ジェームスは、たとえモーターサイクル・ボーイの言いつけを破ってでも、自分が後継者として相応しいことをみんなに証明したかったのである。 集合する時間と場所を確認して仲間と別れたラスティ・ジェームスは、恋人パティ(ダイアン・レイン)の家を訪ねる。心優しくて気さくな普通の少年の顔を覗かせるラスティ・ジェームス。俺も兄貴みたいになりたいんだとこだわる彼に、パティはもっと自分の良さを大切にするよう諭すが、しかし頑ななラスティ・ジェームスは聞く耳を持たない。そしていよいよ決闘の時間。仲間たちが次々と集まる中、ビフの一味も現場へと到着し、たちまち不良少年同士の大乱闘が始まる。凄まじい気迫でビフをボコボコにするラスティ・ジェームス。すると、そこへ消息不明だったモーターサイクル・ボーイが突然現れ、呆気に取られて立ち尽くしたラスティ・ジェームスは、その隙を狙ったビフに腹を切りつけられて怪我を負う。 負傷したラスティ・ジェームスを介抱するモーターサイクル・ボーイとスティーヴ。意識を取り戻したラスティ・ジェームスは、以前とはまるで別人になってしまった兄貴に困惑する。色覚異常があって色を識別できず、さらに軽度の聴覚障害も患っているモーターサイクル・ボーイは、もともと一種独特の近寄りがたい雰囲気を持っていたが、今ではすっかり物静かで穏やかな人物になっていた。いったいどうしちまったんだ。戸惑いを隠せないラスティ・ジェームスに、飲んだくれの父親(デニス・ホッパー)が言う。みんなモーターサイクル・ボーイのことを誤解している。あいつは生まれてくる場所を間違えただけだと。その意味を理解できないラスティ・ジェームスは、兄貴が家出した母親の行方を探してロサンゼルスへ行っていたことを知る。カリフォルニアはいいぞ。そう呟くモーターサイクル・ボーイ。夢も希望もない地元のスラム街を初めて出て、外の広い世界を知ってしまった彼の中で、何かが大きく変化していたのだ…。 ヨーロッパの名匠たちに影響を受けたティーン向けのアート映画 生まれ育ったスラム街の劣悪な環境に縛られ、自分も兄貴と同じ道を歩む宿命にあると頑なに信じ込んでいた若者が、人生には様々な可能性と選択肢があること、自分らしい人生を自分の意思で選ぶ自由があることに気づくまでを描いた作品。そのことをひと足早く悟った兄貴モーターサイクル・ボーイは、しかしそれゆえに自分が人生の大切な時間を浪費してしまったという現実にもぶち当たる。もっと早く気づけばよかった。自分はもう手遅れかもしれないが、しかしまだ10代の弟ならきっと間に合うはずだ。彼はそのことをラスティ・ジェームスに伝えるため、わざわざ故郷へと戻ってきたのだ。 若いうちは時間なんていくらでもある。どれだけ無駄に過ごしたって平気のへっちゃら。大人になってようやく初めて、人生の時間には限りがあると気づくのさ。劇中でトム・ウェイツ演じるプールバーの店主ベニーが呟く独り言は、まさにそのまま本作のテーマだと言えよう。それゆえ、本作は全編を通して「時間」が重要なモチーフとなっている。足早に流れる空の雲、急速に伸びていく非常階段の影、画面のあちこちに登場する大小の時計、時を刻むようなリズムの実験的な音楽。それらの全てが、登場人物たちの知らぬ間に過ぎ去って行く時間の速さを象徴しているのである。 その実存主義的なテーマを孕んだストーリーには、コッポラ監督が青春時代に見て強い感銘を受けたという、ミケランジェロ・アントニオーニやイングマール・ベルイマンなどのヨーロッパ映画と相通ずるものを見出せるが、中でも主人公ラスティ・ジェームスが生まれて初めて海岸を目の当たりにするクライマックスが象徴するように、フランソワ・トリュフォーの名作『大人は分かってくれない』(’59)からの影響は見逃せないだろう。また、被写体を歪んだ角度から捉えたり、陰影を極端に強調したりしたスタイリッシュなモノクロ映像は、『カリガリ博士』(’20)を筆頭とするドイツ表現主義映画に倣っている。どうやらコッポラ監督は、こうしたヨーロッパの芸術映画群から自身が若い頃に受けた驚きや感動を、本作を通じて’80年代の若者たちにも伝えたいと考えたそうだ。彼が『ランブルフィッシュ』を「ティーンエイジャー向けのアート映画」と呼ぶ所以だ。 そのコッポラ監督がS・E・ヒントンの原作を初めて読んだのは、実は『アウトサイダー』の製作に着手してからのことだったという。そもそも『アウトサイダー』の企画自体が彼の発案ではなく、原作のファンである中学生たちから「コッポラ監督に映画化して欲しい」との署名を渡されたことがきっかけ。実は、それまでヒントンの小説を一冊も読んだことがなかったのである。『アウトサイダー』の製作準備を進める合間に本作の原作を読んだコッポラ監督は、『アウトサイダー』よりもこちらこそ自分が本当に映画化したい作品だと感じたという。その最大の理由は主人公兄弟の関係性だ。 頭が良くて人望のある兄モーターサイクル・ボーイに羨望の眼差しを向け、自分もああなりたいけれどなれない現実に焦りと葛藤を抱えたラスティ・ジェームス。それは、少年時代のコッポラ監督そのものだったらしい。コッポラ監督よりも5つ年上の兄オーガスト(ニコラス・ケイジの父親)は、ヘミングウェイの論文などで知られる研究者であり、カリフォルニア州立大学の理事やサンフランシスコ州立大学芸術学部の学部長も務めたインテリ知識人。少年時代のコッポラ監督にとって優秀な兄は憧れであると同時に、どう頑張っても乗り越えられない壁でもあったそうだ。コッポラ監督は原作を読んで、これは自分と兄の物語だと感じたという。本編のエンドロール後に「この映画を、私の最初にして最良の師である兄オーガスト・コッポラへ捧ぐ」と記されているのはそのためだ。 念願だった役柄を手に入れたマット・ディロンの好演 かくして、『アウトサイダー』の撮影と並行して、原作者S・E・ヒントンと共同で脚本を書き進め、クランクアップの2週間後には『ランブルフィッシュ』の製作に取り掛かっていたというコッポラ監督。半年に渡って取り組んできた『アウトサイダー』とはかけ離れた映画にしたい。そう考えた彼は、色覚異常というモーターサイクル・ボーイの設定に着目し、全編をモノクロで撮影することにした。そもそも、舞台となるスラム街も主人公ラスティ・ジェームスも、いわばモーターサイクル・ボーイの多大な影響下にあるわけだから、劇中の世界全体が彼の色=モノクロに染まっていることは理に適っているだろう。 その中にあって、タイトルにもなっている「ランブルフィッシュ(=闘魚)」だけは鮮やかな色がついている。狭い水槽の中に閉じ込められ、お互いに殺し合う魚たちは、いわばラスティ・ジェームスやモーターサイクル・ボーイの心理的なメタファーだ。そして、最終的にラスティ・ジェームスが兄の呪縛から解き放たれた時、映画の世界は一瞬だけだがフルカラーになる。すぐ元のモノクロの世界へ戻ってしまうのは、恐らくこれがラスティ・ジェームスの人生において、新たな一歩の始まりに過ぎないことを示唆しているのかもしれない。つまり、今度は彼自身が自分の色で自分の世界を染めていくのだ。 ちなみに、現在のようなデジタル加工技術が存在しなかった当時、どうやってランブルフィッシュだけに色を付けたのかというと、その仕組みは意外と簡単。例えば、ラスティ・ジェームスとモーターサイクル・ボーイが水槽の魚を眺めるシーンは、先にモノクロ撮影した俳優たちの映像を背景のスクリーンに投影し、カメラの手前に魚の入った水槽を設置してカラー撮影している。いわゆるバック・プロジェクションというやつだ。 劇中ではチンピラに頭を殴られたラスティ・ジェームスが気を失い、幽体離脱の臨死体験をするシーンも印象的だが、この撮影トリックも実は非常にシンプル。なるべくリアルな映像を撮りたいと考えたコッポラ監督は、フィルム合成やワイヤーの使用は避けたかったという。そこで、ラスティ・ジェームスを演じるマット・ディロンの胴体から型抜きした人体固定用の特製ボディスーツを制作し、それをクレーンや電動式伸縮ポールの先端にセッティング。撮影の際にはマット・ディロンの胴体をそこにはめて固定し、その上から衣装を着用して動かすことで、幽体離脱したラスティ・ジェームスの体が空中を浮遊する様を再現したのである。 そのラスティ・ジェームスを演じるマット・ディロンは、ティム・ハンター監督の『テックス』(’82)を含めると、S・E・ヒントン原作の映画に出演するのはこれが3作目。彼自身、高校時代に授業をさぼってヒントンの小説を読み漁ったほどの大ファンで、中でも『ランブルフィッシュ』の原作は一番のお気に入りだったという。そのため、『テックス』の出演が決まって原作者ヒントンと初めて面会した際には、もしも「ランブル・フィッシュ」が映画化されることになったらラスティ・ジェームスを自分にやらせて欲しいと願い出ていたのだとか。まさに念願の役柄だったわけだが、これが実によくハマっている。粗暴なワルを気取った繊細で優しい少年という設定こそ『アウトサイダー』で演じたダラスと似ているのだが、しかし不良少年グループの兄貴分だったダラスに対して、こちらのラスティ・ジェームスは大好きな兄貴を慕うピュアな弟。どこか愛情に飢えた孤独な子供のようなディロンの個性は、実はこのような弟キャラでこそ真価を発揮する。なお、ラスティ・ジェームスとは原作者ヒントンが飼っていた猫の名前から取られたのだそうだ。 モーターサイクル・ボーイ役のミッキー・ロークは、『アウトサイダー』でダラス役のオーディションを受けたものの年齢を理由に不合格となったのだが、その時のことを覚えていたコッポラ監督に声をかけられて本作への出演が決まった。そういえば、原作でも映画版でもモーターサイクル・ボーイの本名に言及されていないのだが、原作者ヒントンによれば、これは彼がある種の神話的な存在だからなのだという。地元の不良少年たちにとって伝説的なヒーローである彼は、いわばローカル神話における神様のようなもの。そして、神様に本名など必要ないのである。 そのモーターサイクル・ボーイにぞっこんな元恋人カサンドラ(ダイアナ・スカーウィッド)は、誰からも信じてもらえない呪いをかけられたギリシャ神話の預言者カサンドラがモデル。また、原作に出てこない黒人の若者ミジェットは、ギリシャ神話における夢と眠りの神であり、死へ旅立つ者の道先案内人ヘルメスの役割を果たしている。このキャラは『地獄の黙示録』(’79)でローレンス・フィッシュバーンを気に入ったコッポラ監督が、彼のためにアテ書きしたのだそうだが、同時にこの物語の本質が神話であることを監督自身もよく理解していたのだろう。 なお、『テックス』では学校教師役、『アウトサイダー』では病院の看護師役でカメオ出演していた原作者ヒントンだが、本作では黒人居住地区の繁華街でラスティ・ジェームスとスティーヴに声をかける売春婦役で顔を出している。 全米では『アウトサイダー』の劇場公開から約7ヶ月後の’83年10月に封切られた『ランブルフィッシュ』。先述したように「ティーンエイジャー向けのアート映画」を志したわけだが、しかしそのティーンエイジャーを集めた一般試写での反応は芳しくなかったという。観客からは「理解できない」との感想が多かったそうだが、なにしろ当時はスピルバーグ映画やスラッシャー映画の全盛期、恐らくアート映画とは無縁の平均的なアメリカの若者には、ちょっと前衛的過ぎたのかもしれない。それでも、数あるコッポラ監督作品の中でも本作は間違いなくベストの部類に入る。「自分の昔の映画を見直すとダメなところばかりに目が行くが、この映画は奇跡的にも殆どが思い通りに上手くいった」というコッポラの言葉が全てを物語っているだろう。■ 『ランブルフィッシュ』© 1993 Hot Weather Films. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
ドラキュラ(1992)
巨匠フランシス・フォード・コッポラ監督がブラム・ストーカーの原作を壮大なスケールで描くゴシックロマン
原題「ブラム・ストーカーのドラキュラ」が示す通り、映画史上最も原作に忠実に描かれ、恋愛色も色濃いドラキュラ映画。石岡瑛子がアカデミー衣裳デザイン賞に輝いた豪華かつ奇抜なコスチュームにも注目。
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COLUMN/コラム2021.12.28
16年振りのシリーズ最終作。『ゴッドファーザーPARTⅢ』で、コッポラが本当に描きたかったものとは!?
アメリカ映画史に燦然と輝く、『ゴッドファーザー』シリーズ。 イタリア系移民のマフィアファミリーの物語を、凄惨で血みどろの抗争を交えて、歴史劇のように描き、今日では「クラシック」のように評されている。少なくともシリーズ第1作、第2作に関しては。 本作『ゴッドファーザーPARTⅢ』に関しては、その存在を好んで語る者は、数多くない。「黙殺」する向きさえある…。 ファミリーの首領=ドン・ヴィトー・コルレオーネをマーロン・ブランドが重厚に演じた、1972年の第1作『ゴッドファーザー』。当時の興行新記録を打ち立て、アカデミー賞では、作品賞・主演男優賞・脚色賞の3部門を獲得した。 ジェームズ・カーン、アル・パチーノ、ロバート・デュバル、ダイアン・キートン、タリア・シャイアといった、70年代をリードしていくことになる若手俳優たちの旅立ちの場であったことも、映画史的には重要と言える。 74年の第2作『ゴッドファーザーPARTⅡ』。ファミリーを継いだ若きドン、マイケル・コルレオーネの戦いの日々と、先代であるヴィト―の若き日をクロスさせる大胆な構成が、前作以上に高く評価された。 興行成績こそ前作に及ばなかったものの、アカデミー賞では、作品賞・監督賞・助演男優賞・脚色賞・作曲賞・美術賞の6部門を受賞。作品賞を獲った映画の続編が、再び作品賞を得たのは、アカデミー賞の長きに渡る歴史の中でも、この作品だけである。 前作に続いてマイケルを演じたアル・パチーノは、堂々たる主演スターの座に就いた。そしてヴィト―の若き日にキャスティングされたロバート・デ・ニーロは、アカデミー賞の助演男優賞を得て、一気にスターダムを駆け上った。 余談になるが、続編のタイトルに「PARTⅡ」といった数字を付けるムーブメントは、この作品が作ったものである。 そんな偉大な2作から16年の歳月を経て登場したのが、1990年のシリーズ第3作、『ゴッドファーザーPARTⅢ』。主役は前作に続き、アル・パチーノが演じる、マイケル・コルレオーネである。 ********* 1979年、老境に差し掛かったマイケルは、資産を“浄化”するため、ヴァチカンとの取引に乗り出す。コルレオーネファミリーを犯罪組織から脱却させ、別れた妻ケイ(演:ダイアン・キートン)との間に儲けた子どもたちに引き継ぐのが、大きな目的だった。 しかし後を継ぐべき息子のアンソニーは、ファミリーの仕事を嫌って、オペラ歌手の道へと進む。一方、娘のメアリー(演:ソフィア・コッポラ)は、ファミリーが作った財団の顔として、慈善事業の寄付金集めに勤しんでいた。 そんな時マイケルの前に、妹のコニー(演:タリア・シャイア)が、長兄ソニーの隠し子であるヴィンセント(演:アンディ・ガルシア)を連れてくる。マイケルはヴィンセントの、今は亡き兄譲りの血気盛んで短気な気性を不安に思いながらも、自らの配下とする。 ニューヨークの縄張りを引き継がせた、ジョーイ・ザザが叛旗を翻した。ザザは、マイケルが仲間のドンたちを集結させたホテルを、ヘリコプターからマシンガンで襲撃。多くの死傷者が出る中、九死に一生を得たマイケルは、ザザを操る黒幕の存在を直感する。 血と暴力の世界から、抜け出そうとしても抜けられない。そんな己の人生を振り返って、マイケルは、かつて次兄のフレドまで手に掛けたことへの悔恨の念を深くする。ヴィンセントと愛娘のメアリーが恋に落ちたことも、彼を苦悩させた。 ヴァチカンとの取引も暗礁に乗り上げる中、マイケルはヴィンセントに命じて、諸々のトラブルの裏とその黒幕を探らせる。そして彼を、ファミリーの後継者に任ずると同時に、娘との恋を諦めるように諭す。 イタリア・パレルモのオペラ劇場での、息子アンソニーのデビューの夜。ファミリーが集結するそのウラで、またもや血と報復の惨劇が繰り広げられていく。 そしてマイケルには、己が死ぬことよりも辛い“悲劇”が待ち受けていた。 ********* 1990年のクリスマスにアメリカで公開された本作は、アカデミー賞では7部門でノミネートされながらも、結局受賞には至らなかった。興行的にも批評的にも、前2作には、遠く及ばない結果となった『PARYTⅢ』は、同じコッポラを監督としながらも、『ゴッドファーザー』3部作の中では、まるで「鬼っ子」のような扱いを受けるに至ったのである。 そもそも前2作の絶大なる成功がありながら、なぜ『PARTⅢ』の登場までには、16年の歳月が掛かったのか? それは一言で言えばコッポラが、「やりたくなかった」からである。 それとは逆に、製作した「パラマウント・ピクチャーズ」は、この16年の間、折に触れてはこのドル箱シリーズの第3弾を、コッポラに作らせようと働きかけた。80年代前半には、シルベスター・スタローンの監督・主演、ジョン・トラボルタの共演で、『PARTⅢ』の製作をぶち上げたこともある。 これはスタローンの『ロッキー』シリーズで主人公の妻役を演じ続けたタリア・シャイアが、実の兄であるコッポラとスタローンの橋渡し役を務めて、実現しかかった話と言われている。結局コッポラが、スタローンに『ゴッドファーザー』を任せることには翻意して、企画が流れたと伝えられる。 では「やりたくなかった」『PARTⅢ』を、なぜコッポラ本人が手掛けるに至ったのか?大きな理由は、彼の過去作である『ワン・フロム・ザ・ハート』(82)にある。 ラスベガスをセットで再現するために、スタジオまで買い取って製作した『ワン・フロム…』は、当初1,200万ドル=約35億円を予定していた製作費が、2,700万ドル=約78億円にまで跳ね上がった。しかも劇場に観客を呼ぶことは出来ず、コッポラは破産に至ってしまったのだ。 その後コッポラは、『アウトサイダー』(83)『ランブルフィッシュ』(83)『コットンクラブ』(84)等々の小品や雇われ仕事を多くこなし、借金の返済に務めることになる。しかしディズニーランドのアトラクション用である、マイケル・ジャクソン主演の『キャプテンEO』(86)まで手掛けながらも、経済的苦境から抜け出すことは、なかなか出来なかった。 そこでようやく、自分の意図を最大限尊重するという確約を取った上で、「パラマウント」の提案に乗った。コッポラにとって、最後の切り札とも言える、『ゴッドファーザーPARTⅢ』の製作に乗り出すことを決めたのだ。 コッポラは89年4月から、『ゴッドファーザー』の原作者で、シリーズの脚本を共に手掛けてきたマリオ・プーヅォと、『PARTⅢ』の脚本執筆に取り掛かった。そしてその年の11月下旬にクランクイン。 ほぼ1年後にアメリカ公開となったわけだが、先に書いた通り批評家からも観客からも、大きな支持を得ることは出来なかった。 主演のアル・パチーノも指摘していることだが、その理由は大きく2つ挙げられる。まずは、ロバート・デュバルの不在である。 前2作を通じて、ファミリーの参謀役でマイケルの義兄弟に当たるトム・ヘーゲンを演じてきたデュバルは、『PARTⅢ』への出演を断った。コッポラの妻エレノアの著書によると、デュバルが気に入るよう何度もシナリオを書き直したのに、彼が首を縦に振ることは、遂になかった。 実際はギャラの面で折り合いが付かなかったと言われているが、結果的にヘーゲンは、既に亡くなっている設定にせざるを得なくなった。もしもデュバルが出演していたら、マイケルがヴァチカンと関わることになる触媒的な役割を果たしたという。 そして『PARTⅢ』バッシングの際に、必ず俎上に上げられたのが、マイケルの娘メアリー役のキャスティング。当初この役は、当時人気上昇中だったウィノナ・ライダーが演じることになっていた。しかし突然、「気分が良くないから、参加できない」と降板。 彼女のスケジュールに合わせて3週間も、別のシーンの撮影などで時間稼ぎをしていたのが、パーとなった。そこでコッポラは急遽、実の娘であるソフィアを、メアリー役に充てたのである。「パラマウント」などの反対を押し切ってのこの起用は、マスコミの格好の餌食となった。まるでスキャンダルのように、書き立てられたのである。 デュバルとライダーが出演しなかったことに加えて、アル・パチーノは、本作の大きな間違いとして、「マイケル・コルレオーネを裁き、償わせた」ことを挙げる。「マイケルが報いを受けて、罪の意識に苦しめられるのを誰も見たくなかった」というのだ。『PARTⅢ』のクライマックス、当初の脚本では、マイケルは敵の放った暗殺者に撃たれて、人生の幕を閉じることになっていた。しかしコッポラはそのプランを変更し、マイケルが最も大切なものを失い、その魂が死を迎えるという結末に書き変えた。 まるでシェイクスピアの「リア王」や、それを原作とした、黒澤明監督の『乱』(85)の主人公が迎える結末と重なる。黒澤が、コッポラの最も敬愛する監督であることは、多くが知る通りである。 コッポラは、自らの経験をマイケルに重ねていたとも思われる。『PARTⅢ』の準備に入る3年ほど前=1986年に、コッポラは当時22歳だった長男のジャン=カルロを、ボート事故で失っているのである。 アル・パチーノが指摘する本作の大きな間違いは、実はコッポラにとって、最も譲れない部分だったのではないだろうか? さて『ゴッドファーザー』シリーズを愛する気持ちでは、人後に落ちない自負がある私だが、91年春、日本での劇場公開時に『PARTⅢ』を鑑賞した時の感想を、率直に書かせていただく。それは第1作・第2作に比べれば見劣りするが、「悪くない」というものだった。『ワン・フロム…』後の紆余曲折を目の当たりにしてきただけに、コッポラは『ゴッドファーザー』を撮らせると、やっぱり違う。この風格は彼にしか出せないと、素直に思えた。 そして前2作が、パチーノやデ・ニーロといったニュースターを生み出したのと同じ意味で、マイケルの跡目を引き継ぐことになる、ヴィンセント役のアンディ・ガルシアの登場を歓迎した。ガルシアは、『アンタッチャブル』(87)『ブラックレイン』(89)で注目を集めた、まさに伸び盛りの30代前半に本作に出演。アカデミー賞の助演男優賞にもノミネートされるような、素晴らしい演技を見せている。 本作の後、彼の主演で、レオナルド・ディカプリオを共演に迎えて、『ゴッドファーザーPARTⅣ』が企画されたのにも、納得がいく。残念ながらガルシアは、パチーノやデ・ニーロのようには、ビッグにはならなかったが…。 実はコッポラは本作に、『PARTⅢ』というタイトルを付けたくなかったという。彼が当初構想したタイトルは、『Mario Puzo's The Godfather Coda: The Death of Michael Corleone』。翻訳すれば『ゴッドファーザー:マイケル・コルレオーネの最期』である。 そしてコッポラは、『PARTⅢ』公開30周年となる昨年=2020年、フィルムと音声を修復。新たなオープニングとエンディング及び音楽を付け加えて再構成を行い、当初の構想に基づくタイトルに変えて、リリースを行った。 このニューバージョンに対し、アル・パチーノは「良くなったと確信した」と賞賛。それまで『PARTⅢ』を「好きじゃなかった」というダイアン・キートンも、この再編集版を「人生最高の出来事のひとつ」と、手放しで絶賛している。 私ももちろん、この『』を鑑賞しているが、何がどのように「良くなった」かは、今回は敢えて触れない。それはまた、別の話である。■ 『ゴッドファーザーPARTⅢ』TM & COPYRIGHT © 2022 BY PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED
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PROGRAM/放送作品
ランブルフィッシュ
[PG-12]伝説の不良だった兄と弟の葛藤が交錯する。コッポラが若手スターを集めて綴る青春ストーリー
S・E・ヒントンの傑作ヤングアダルト小説を、フランシス・フォード・コッポラ監督がモノクロ映像に魚のみ色を付けるなど実験的な演出で映画化。マット・ディロンら当時の人気若手スターたちの競演も必見。
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COLUMN/コラム2019.09.27
自由を求めたコッポラ監督が設立した「ゾエトロープ」で自由自在に撮った“自分探しの旅”
今回はフランシス・フォード・コッポラ監督の『雨のなかの女』という1969年の映画です。コッポラが設立した製作会社ゾエトロープの第1回作品です。それまでのハリウッドの映画会社によるシステムから離れて、完全に独立のプロダクションを立てて映画を作ったんですね。『雨の中の女』のヒロインは、シャーリー・ナイト演じる専業主婦ナタリーで、ある日突然、母親になって家庭に埋没していく人生が嫌になって、夫に黙って車に乗って家出します。そして、ニューヨークからペンシルバニア、ウエストバージニア、テネシー州のチャタヌガ、ケンタッキー、ネブラスカ……というルートであてもなくアメリカを放浪していくロードムービーです。 『雨の中の女』はキャスティングの段階から、学生時代のジョージ・ルーカスが密着してメイキングを撮影し、今でもYouTubeで観ることができます。それを観るとわかるのは、撮影隊がヒロインと実際に旅をしながら、その場でロケハンをして、即興的にシーンを作っていく方法で撮られたことです。つまり、『雨の中の女』は、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(60年)のような、自由で実験的な映画なのです。 コッポラは、ゴダールに代表されるフランスのヌーヴェル・ヴァーグの影響を強く受けて映画を撮り始めましたが、ハリウッドのメジャーであるワーナー・ブラザースに雇われて、『フィニアンの虹』(68年)というミュージカル映画を作らされてショックを受けました。とにかく撮影所の年老いたベテラン・スタッフが頑固で言うことをきかない。何十年もやってきた撮り方を固守するから、映像がどうしても古臭いんです。 もうハリウッドはダメだ、と思ったコッポラは自分の映画スタジオを立ち上げて、低予算で自由気ままに撮ることにしました。それが『雨の中の女』です。 ヒロインはコッポラ自身の母親をモデルにしています。だからイタリア式の結婚式の回想が入るんです。イタリア系の家庭は男尊女卑がひどくて、特に1950年代まで、女性は専業主婦として、家事と子育てする以外の人生がなかった。それでコッポラの母親は「私って何?」と絶望して家出したそうです。モーテルに一泊しただけで、あきらめて家に帰ったそうですが、『雨の中の女』のヒロインは愛を求めてアメリカの南部や中西部に入っていきます。 彼女はヒッチハイクしていた、たくましい元フットボール選手(ジェームズ・カーン)を拾います。カーンはコッポラの大学時代の友人なのでキャスティングされたんですが、実際に元フットボール選手です。夫以外に男を知らないヒロインは野性的なカーンと一夜の情事を体験しようとしますが、できません。カーンは試合中の事故で脳が壊れていたのです。 次にヒロインは優しい白バイ警官(ロバート・デュヴァル)を好きになりますが、彼も思っていたのとは違う男でした。 原題の「レイン・ピープル」とは、雨に流されて消えてしまう人々、涙でできた悲しく孤独な、この映画の登場人物たちを意味します。 自分自身を探してさまようヒロインには、ハリウッドをはぐれて自由を求めながら、この映画を撮影するコッポラ自身が重ねられています。 『雨の中の女』は興行的には成功しませんでしたが、この映画のジェームズ・カーンとロバート・デュヴァル、それにイタリア式結婚式が、コッポラの代表作『ゴッドファーザー』(72年)につながっていったのです。 ということで、巨匠コッポラの原点、『雨の中の女』、ぜひ、ご覧ください!■ (談/町山智浩) MORE★INFO.●シャーリー・ナイト演じるナタリーは妊娠している設定だったのは、ナイトが実際に妊娠していたから。●ロバート・デュヴァル演じるゴードンが失った妻を回想するが、その妻を演じたの監督夫人エレノア(ノー・クレジット)だった。●フィルム・スクールを卒業したてのジョージ・ルーカスが撮影に密着して、後にこの撮影風景を短編『Filmmaker』(68年)に仕上げた。 © Warner Bros. Entertainment Inc.