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PROGRAM/放送作品
ワイルド・リベンジ
[R15+相当]恋人を失った男が麻薬密売組織に挑む!ロバート・デ・ニーロらの熱演が光る犯罪アクション
ジョン・ヒューストン監督の孫ジャック・ヒューストンが主演を務め、ロバート・デ・ニーロら名優が脇を固める。薬に溺れるカップルの悲劇をじっくり描き、後半のリベンジアクションでその鬱憤をスカッと晴らす。
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COLUMN/コラム2021.10.01
スコセッシ&デ・ニーロ。名コンビが『レイジング・ブル』でなし遂げたこと。
30代中盤を迎えたマーティン・スコセッシは、心身ともに疲弊の極みにいた。『ミーン・ストリート』(1973)『アリスの恋』(74)、そして『タクシー・ドライバー』(76)の輝かしき成功を受けて、意気揚々と取り組んだ『ニューヨーク・ニューヨーク』(77)が、興行的にも批評的にも、惨憺たる結果に終わってしまったのである。私生活で2番目の妻と離婚に至ったのも、大きなダメージとなった。 どん底から這い出すきっかけとなったのは、78年9月。入院していたスコセッシを、ロバート・デ・ニーロが見舞った時のことだった。「よく聞いてくれ、君と俺とでこれをすばらしい映画にすることができる。やってみる気はないか?」 デ・ニーロが言った「これ」とは、本作『レイジング・ブル』(80)のこと。盟友の誘いにスコセッシも、「やろう」と答えたのだった。 と言っても本作の準備は、その時にスタートしたわけではない。それよりだいぶ以前から、進められていたのである。 本作の原作は、元ボクシング世界チャンピオンで、現役時代に“レイジング・ブル=怒れる牡牛”と仇名された、ジェイク・ラモッタの自伝である。それがデ・ニーロに届いたのは、『ゴッドファーザーPARTⅡ』(74)撮影のため、73年にイタリアのシチリア島に滞在していた時。その暴力的なエネルギーとラモッタの特異なキャラクターに惹かれたデ・ニーロは、『アリスの恋』に取り組んでいたスコセッシに、この題材を持ち込んだ。 脚本は、『ミーン・ストリート』『ニューヨーク・ニューヨーク』などで2人と組んだ、マーディク・マーティンに託された。スコセッシが当初は、デ・ニーロほどは本作に乗り気でなかったこともあって、その後しばらくはマーティンに任せっぱなしとなり、何年かが過ぎた。 77年になってから、2人はマーティンの脚本を読んで、不満を覚える。そのため執筆は、『タクシードライバー』のポール・シュレーダーへと引き継がれた。 しかし、シュレーダーが書き上げた脚本には、大きな問題があった。ラモッタの性格が暗すぎる上に、シュレーダー本人が「僕が書いた中で最高の台詞」というそれは、刑務所の独房に入れられたラモッタが、自慰をしながらするモノローグだった…。 この作品に本格的に取り組むことを決めたスコセッシと、それを促したデ・ニーロの2人で、脚本に手を加えることとなった。カリブ海に浮かぶセント・マーティン島に3週間ほど缶詰めになって、シュレーダーの書いた各シーンを再検討。必要ならばセリフを書き加えて、最終稿とした。 撮影に関してのスコセッシの申し入れに、製作するユナイテッド・アーティスツは、目を白黒させた。彼の希望は、「モノクロで撮りたい」というもの。70年代も終わりに近づいたこの時期に、正気の沙汰ではない。 この頃は『ロッキー』(76)の大ヒットに端を発した、ボクシング映画ブームの真っ最中。『ロッキー』シリーズ、『チャンプ』(79)『メーン・イベント』(79)、挙げ句はカンガルーのボクサーが世界チャンピオンと闘う『マチルダ』(78)などという作品まで製作され、続々と公開されていた。 スコセッシの希望は、当然のようにカラー作品である、それらのボクシング映画とは一線を画したいという、強い思いから生じたもの。そして同時に、当時浮上していた、カラーフィルムの褪色という、喫緊の課題に対するアピールの意味もあった。 その頃に撮影の主流を占めていた、イーストマンのカラーフィルムは、プリントは5年、ネガは12年で色がなくなってしまうという、衝撃的な調査結果が出ていた。撮影から上映まで、ほぼすべてがデジタル化した、現在の映画事情からは想像がつかないかも知れないが、映画の作り手にとっては、至極深刻な問題だったのである。「…僕はこれを特別な映画にしたいんだ。それになによりも黒白は時代の雰囲気を映画に与えてくれる」そんなスコセッシの思いは届き、ユナイトはモノクロ撮影に、OKを出した。 一時期は「これが最後の監督作」とまで思っていたスコセッシの元に、79年4月のクランク・インの日、1通の電報が届いた。差出人はシュレーダー。その文面は、“僕は僕の道を行った。ジェイクは彼の道を行った。君は君の道を行け”というものだった。 *** 1964年、ニューヨークに在るシアターの楽屋。1人のコメディアンが、セリフの暗唱を行っている。その男は、42才になるジェイク・ラモッタ(演:ロバート・デ・ニーロ)。でっぷりと肥え太ったその身体には、かつての世界ミドル級チャンピオンの面影はなかった…。 時は遡り、41年。19歳のジェイクは、デビュー以来無敗を誇っていたが、初めての屈辱を味わう。ダウンを7回奪ったにも拘わらず、判定負けを喫したのだ。 妻やセコンドを務める弟のジョーイ(演:ジョー・ペシ)に当たり散らすジェイクだったが、そんな時に市営プールで、15歳の少女ヴィッキー(演:キャシー・モリアーティ)に、一目で心を奪われる。妻がいるにも拘わらず、ジェイクはヴィッキーを口説いて交際を開始。やがて2人は、家庭を持つこととなる。 43年、無敵と謳われたシュガー・レイ・ロビンソンをマットに沈めるも、その後行われたリターンマッチでは、ダウンを奪いながらも判定負けとなったジェイク。これからのことを考えると、それまで手を組むことを拒んできた裏社会の大物トミーを、後ろ盾にする他はなかった。そして、タイトルマッチを組んでもらう見返りに、ジェイクは格下の相手に、八百長で敗れるのだった。 49年、フランスの英雄マルセル・セルダンに挑戦。TKOで、ジェイクは遂に世界チャンピオンのベルトを手に入れた。しかし栄光の座を得ると共に、異常なまでの嫉妬心と猜疑心が昂じて、ジェイクは妻ヴィッキーの浮気を執拗に疑うようになる。そしてあろうことか、公私共にジェイクを支え続けてきた弟ジョーイを妻の相手と思い込み、彼に苛烈な暴力を振るってしまう。 この一件でジョーイから見放され、やがてチャンピオンの座から滑り落ちることになるジェイク。54年には引退し、フロリダでナイトクラブの経営者となるが、ヴィッキーも彼の元を去る。 遂にひとりぼっちになってしまったジェイク。その行く手には、更なる破滅が待ち受けていた…。 *** スコセッシは言う。~『レイジング・ブル』はすべてを失った男が、精神的な意味で、すべてを取り戻す物語だ~と。 その原作者であるジェイク・ラモッタは、本作のボクシングシーンの撮影中、デ・ニーロに付きっきりで、喋り方からパンチのコンビネーションまで、自分のすべてを伝授したという。中でも口を酸っぱくして指導したのが、己のファイトスタイル。それは「絶対にホールドするな」というものだった。 本作ではデ・ニーロの共演者として、ジョーイ役のジョー・ペシとヴィッキー役のキャシー・モリアーティが、一躍注目の存在となった。ペシはデ・ニーロと同じ歳だが、それまではほとんど無名の存在。ペシの過去の出演作のビデオをたまたま目にしたデ・ニーロが、スコセッシにも観ることを勧めた。スコセッシも彼の演技に興味を引かれ、会ってみることにしたのである。 ところがその時、ペシは俳優の仕事に疲れ果てて、辞めようと決意したばかり。スコセッシのオファーを、真剣に取り合おうとしなかった。 スコセッシはペシを、何とかなだめすかして、セリフ読みをしてもらうと、その喋り方が非常に気に入ったという。更に即興演技をしてもらうと、やはり素晴らしかったため、ジョーイ役を彼に頼むことに決めた。 ジョー・ペシの起用によって、呼び込まれたのが、キャシー・モリアーティだった。1960年生まれで当時18歳だったキャシーは、高校卒業後にモデルをしながら、女優を目指していた。 ペシはキャシーの近所に住んでおり、彼女がヴィッキー・ラモッタに似ていることに気が付いた。キャシーは、ペシに頼まれて自分の写真を渡し、それをスコセッシが見たことから、本作のスクリーンテストを受けることとなったのである。そして次の日には、合格の電話を受け、見事ヴィッキーの役を射止めたのだった。 役作りに際しては、ジェイク・ラモッタ本人がベッタリ付きだったデ・ニーロとは真逆に、キャシーは自分が演じるヴィッキーと会うことを、スコセッシに禁じられたという。ヴィッキー本人がセットを訪れた際も、キャシーは顔を合わせないように、仕向けられた。演技はほぼ素人で、すべて直感で演じたというキャシーが、ヴィッキーの影響をヘタに受けないようにするための配慮であったと思われる。 さて主演のデ・ニーロ。本作での役作りこそ、彼の真骨頂と言って差し支えなかろう。チャンピオンを演じるために、タイトルマッチに挑むプロボクサー以上のトレーニングを積んだのは、まだ序の口。引退後のでっぷりと太ったラモッタを演じるため、4カ月で25㌔増量という荒技に挑んだ。 フランスやイタリアまで出掛け、お腹が減らなくとも1日3回、高カロリー食を詰め込むという苦行を繰り返す。それによってデ・ニーロは、体重を72.5㌔から97.5㌔まで増やすのに、成功したのである。 役に合わせて、顔かたちや体型まで変化させる。当時はまだそんな言われ方はしてなかったが、本作ではいわゆる“デ・ニーロ・アプローチ”の究極の形が見られる。逆に『レイジング・ブル』があったからこそ、“デ・ニーロ・アプローチ”という言葉が生まれ、一般化したとも言える。 では、そんなデ・ニーロが挑むボクシング試合。スコセッシはどんな手法で作り上げたのか? 通常のボクシング映画では、リングの外に数台のカメラを置き、様々なアングルから捉えたものを、編集するというやり方が一般的である。ところが本作撮影のマイケル・チャップマンが回したカメラは、1台だけ。しかもその1台をリングの中に持ち込み、常にボクサーの動きに焦点を合わせた。 この撮影は、スコセッシが描いた絵コンテを、忠実になぞって行われた。それはパンチ1発から、マウスピースが飛んでいくようなところまで、各ショットごとに細かく描き込まれたものだった。 スコセッシは、リング上では観客がボクサーの眼を持つようにしたかったという。観客自身が、殴られているのは自分だという意識を持続するように。それもあって、試合のシーンでは、絶対に観衆を映さなかった。 サウンドも、リングで戦うジェイクの立場から作ることを決めていた。パンチがどんな風に聞こえるか? 観衆の声は、どんな風に届くのか? ライフルの発射音やメロンの潰れる音などを駆使して、結局ミキシングには、当初予定していた7週間の倍の時間が掛かったという。 本作で初めてスコセッシ作品に参加し、後々彼の作品には欠かせない存在になっていく、編集のセルマ・スクーンメイカー。彼女はこう語っている。「…監督があらかじめとことん考え抜いておかなければ、『レイジング・ブル』のような映画の編集は生まれてこないわ。あの映画を偉大にしているのは背後にある考え方であって、それはもちろん私のでなくてスコセッシのものなのよ」『レイジング・ブル』は、アカデミー賞で8部門にノミネートされ、デ・ニーロに主演男優賞、スクーンメイカーに編集賞が贈られた。この年はロバート・レッドフォードの初監督作『普通の人々』があったため、作品賞や監督賞は逃したものの、スコセッシの見事な復活劇となった。 ~『レイジング・ブル』はすべてを失った男が、精神的な意味で、すべてを取り戻す物語だ~ それはこの作品に全力を投じた、スコセッシにも当てはまることだった。■ 『レイジング・ブル』© 1980 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
ボーイズ・ライフ
[PG-12]デ・ニーロ×ディカプリオ共演。継父の不当な支配に屈しなかった少年の成長を描くドラマ
暴力も辞さない威圧的な継父役にロバート・デ・ニーロ。その支配に屈しない健気な少年役に若き日のレオナルド・ディカプリオ。世代を超えた演技派たちの凄みたっぷりな演技合戦によって、同名の自伝的小説を映画化。
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COLUMN/コラム2021.07.08
アル・パチーノvsロバート・デ・ニーロ ライバルにして友人同士の、初の本格共演作 『ヒート』
2005年10月21日、ビバリーヒルズのホテルで、アル・パチーノを顕彰する催しがあった。その席には彼と共演経験がある者を中心に、綺羅星のようなスター達が出席。「アメリカン・シネマテーク賞」が贈られたパチーノに、次々と賞賛の声を浴びせた。 会場には姿を見せなかったものの、メッセージビデオを寄せた中には、ロバート・デ・ニーロが居た。彼はパチーノに呼び掛けるような、こんな祝いの言葉を贈った。「アル、何年にもわたり、おれたちは役を取り合った。世間のひとたちはおれたちをたがいに比較し、たがいに競わせ、心のなかでばらばらに引き裂いた。正直に言って、おれはそんな比較をしてみたことはない。たしかにおれのほうが背が高い。おれのほうが主役タイプだ。しかし正直に言おう。きみはおれたちの世代で最高の俳優であるかもしれない……ただし、おれをべつにしてだ」 1940年生まれのパチーノと、43年生まれのデ・ニーロ。まさに同世代の中で、長年ライバル同士と目されると同時に、親しい友人関係にあった。そんな2人の仲を、端的に表したメッセージと言えよう。 共に、イタリア系アメリカ人。俳優を志した若き日、ニューヨークでスタニスラフスキー・システムを基にした「メソッド演技法」を学んだのも、同じだ。但し、パチーノの師がアクターズ・スタジオのリー・ストラスバーグであるのに対し、デ・ニーロが学んだのは、かつてストラスバーグと衝突して袂を分かった、ステラ・アドラーであった。 俳優としてのキャリア初期、デ・ニーロは『The Gang That Couldn't Shoot Straight』(71/日本未公開)という作品に出演した。彼が演じたのは、パチーノが『ゴッドファーザー』(72)に出演が決まったため、断った役である。 その『ゴッドファーザー』でパチーノが演じたマイケル・コルレオーネの役は、デ・ニーロも候補として、名が挙がった1人だった。結果的にこの役を得たパチーノは、作品が記録破りの大ヒットになると同時に、スターダムにのし上がり、アカデミー賞助演男優賞の候補にもなった。 2人の初の共演作は、『ゴッドファーザーPARTⅡ』(74)。とはいえこの作品の中で、2人が顔を合わすシーンはない。パチーノが引き続きマイケル・コルレオーネを演じたのに対し、デ・ニーロの役は、マイケルの父であるヴィト―・コルレオーネの若き日であったからだ。 パチーノは今度は、アカデミー賞の主演男優賞候補になる。一方この作品で一躍大きな注目を集めたデ・ニーロは、候補となった助演男優賞のオスカー像を勝ち取った。 これは余談になるが、デ・ニーロが演じたヴィト―の生まれ故郷は、イタリア・シチリア島のコルレオーネ村。実はこの地は、パチーノの祖父の出身地であった。 さて、『ゴッドファーザーPARTⅡ』時には30代前半だった、パチーノとデ・ニーロ。そんな2人が初の本格共演を果たすのには、それから20年以上の歳月、共に50代となるまで、待たなければならなかった。 それが、マイケル・マン製作・監督による本作『ヒート』(95)。パチーノが演じる、ロサンゼルス市警の警部ヴィンセント・ハナと、デ・ニーロが演じる、プロの犯罪者ニール・マッコリ―の対決が描かれる、2時間50分である。 *** ニール・マッコリ―をリーダーに、クリス、チェリト、タウナーらがメンバーの強盗グループの今回のターゲットは、多額の有価証券を積んだ装甲輸送車。大胆不敵な襲撃で輸送車を横転させ、警察の追っ手が掛かる前に証券を手に入れて、現場から立ち去る計画だった。 ところが新顔のメンバーが、ガードマンの1人を無意味に射殺。そのため、目撃者である他のガードマンたちも、葬らざるを得なくなる。 急報を受けてロス市警から、強盗・殺人課のヴィンセント・ハナ警部が駆けつけた、彼は犯行の手口から、強盗のリーダーが、相当に頭が切れるタイプであることを見抜く。 グループの仲間たちが家族持ちなのに対し、ニールは情の部分を断ち切った独り者。しかしある時に出会った、グラフィック・デザイナーのイーディと恋に落ちる。 一方ニールたちを追うヴィンセントは、捜査にのめり込む余り、過去に2度の離婚歴がある。現在は3番目の妻とその連れ子の娘と暮らしているが、またもや関係がギクシャクし始めていた…。 ちょっとした糸口から、ニールたちの正体を割り出したヴィンセントの捜査チームは、強盗グループが犯行に及んだところを、一網打尽にする計画を実行する。ところが犯行途中、捜査チームのちょっとしたミスから、ニールは警察の罠に気付き、企てを中止して引き上げる。 ニールは意趣返しのように、逆に罠を張る。そして、ヴィンセントはじめ捜査チームのメンバーを突き止める。 虚々実々の駆け引きを経て、ヴィンセントとニールが、直接対決する日が近づく。それが2人のどちらかにとっては、最期の日になる。そんな予感を孕んでいた…。 *** デ・ニーロと同年の、1943年生まれのマイケル・マンは、70年代から「刑事スタスキー&ハッチ」「ポリスストーリー」など、TVの有名刑事ドラマの脚本や監督を担当。80年代にはエグゼクティブ・プロデューサーを務めた、「特捜刑事マイアミ・バイス」で大当たりを取った。 映画監督としては、『ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー』(81)でデビュー。本作に至るまでに、『ザ・キープ』(83)『刑事グラハム/凍りついた欲望』(86)『ラスト・オブ・モヒカン』(92)といった作品を手掛けていた。 本作でパチーノが演じた刑事と、デ・ニーロが演じた犯罪者には、実在のモデルが居る。刑事のモデルは、元シカゴ市警の警察官で、退職後に脚本家となったチャック・アダムソン。マンの映画監督デビュー作『ザ・クラッカー』で、脚本及び犯罪に関する専門的なアドバイザーを担当したことがきっかけで、マンの親友となり、「マイアミ・バイス」他のマン作品に深く関わるようになった。 犯罪者のモデルは、アダムソンが警察時代に追っていた、その名もニール・マッコリ―。60年代のシカゴで仲間と共に、深夜の金庫襲撃などを繰り返していた。最終的には食料品チェーン店に強盗に入った際、監視していた警察に追い詰められ、アダムソンとその同僚によって、射殺された。 マンはアダムソンからマッコリ―の話を聞いて、2人の関係をベースにした、刑事と犯罪者の対決の物語を映像化しようと構想を練る。そしてまずは89年に、TVムービーとして、『メイド・イン・L.A.』を完成させる。 この作品は日本の場合、『ヒート』公開後に、VHSやDVDなどのソフトで観た方がほとんどと思われる。そうした順番で鑑賞すると、『メイド・イン・L.A.』は、『ヒート』をスケールダウンして、ノースターで製作した93分のダイジェスト版のように感じられる。 もちろん実際は、その逆。予算のスケールアップはもちろん、パチーノ、デ・ニーロ以外に、脇役にもヴァル・キルマーやジョン・ボイトなどのスターを配し、尺も2倍近くにしたのが、『ヒート』なのである。先に映像化したものが“ダイジェスト”のように感じられるのは、展開がほとんど変わらず、主要な登場人物の数も、ほぼ同じだからであろう。『ヒート』は長尺にした分、各キャラクターの描写が厚くなっている。正直、未消化に終わって、余計に感じられるところも散見するが。 さてアクション以外の見せ場として、両作にあるのが、クライマックスの対決に至る前に、ヴィンセントがニール(『メイド・イン・L.A.』では役名はパトリック)に声を掛け、宿敵同士である刑事と犯罪者が、コーヒーショップで会話をするシーン。これはモデルとなった2人の間に、実際にあった出来事を脚色したエピソードだという。 アダムソンがマッコーリーを尾行していた時に、期せずしてショッピングモールで、顔を合わせてしまった。その時アダムソンは、犯罪者であるマッコーリーの行動を深く理解したいと考え、コーヒーに誘ったのである。そして2人で、多くのことを語り合ったという。 この“実話”を基に、マンはヴィンセントとニールが、「…コインの裏と表のような関係…」であり、「似たもの同士…」であることを表現するシーンを作った。共にワーカホリックで、平穏な家庭生活などは望めない、孤高のプロフェッショナル。それ故に2人は、激しく戦わざるを得ないというわけだ。 作品の本質を表す、屈指の名シーンと言えるが、一方で『ヒート』初公開時にはこのシーンがあるが故に、観客らが「あらぬ疑惑」を抱く事態となった。それについては、後ほど詳述する。 本作でマンが大いにこだわったのが、“リアリティー”。俳優陣には準備段階で、犯罪者の行動原理を学ばせた。 例えば犯罪チームの一員チェリトを演じたトム・サイズモアの場合、刑務所で受刑者の話を聞いたり、営業中の銀行を訪れ、自分が強盗だったらどう狙うかをシミュレーションした。更には実在のギャング団行きつけの店のテーブルで、わざわざ食事までした。 撮影前には3カ月に及ぶ、コンバット・シューティング=実践的射撃術の訓練を実施。犯罪者チームと警官チームは、それぞれ銃の撃ち方や扱いに微妙な違いがあることから、別々のトレーナーを付けて行った。これは、劇中で対立する2つのチームに、馴れ合いの空気を作らせないための工夫でもあったという。 マンは、ロサンゼルスでのオールロケにもこだわった。ロケ場所は実に85箇所にも及んだが、ハイライトはやはり、12分間に渡る白昼の市街戦の舞台。週末にロスのオフィス街の大通りを丸ごと借り切って、映画史に残るような壮大なドンパチを繰り広げた。 主演を務めた2大スター、アル・パチーノとロバート・デ・ニーロについては、マンはその演技を、次のように語っている。「デ・ニーロは役を建築物のように構築する。細部をすこしずつ、信じられないほどこまかく研究する。…一方、アルの役への入りかたはちがう。ピカソが何も描いてないキャンヴァスを何時間もみつめて集中するようにだ。集中したあとで何刷毛か絵筆をふるう。それだけで人物が生きて立ち上がる」 そんな2人が対峙する最大の見せ場が、先に挙げた、コーヒーショップのシーンだった。しかし初公開時は、私も含めて多くの観客の中に、「?」を残す結果となった。具体的には、「パチーノとデ・ニーロ、共演してないのでは?」という疑念が、猛然と沸き上がったのである。 2人の会話シーンは、各々のバストショットの切り返しばかり。同一画面に2人が存在する、そんな2ショットのシーンが、全く存在しなかったのである。 パチーノとデ・ニーロが、いくら親しい友人同士といっても、撮影現場ではお互いTOPスターのプライドなどもあって、そうはいかなかった。だから別々に撮ったのである。そんなもっともらしい解説も、当時耳にした記憶がある。 でも実際は、そんなことはなかった。現場のスチールやメイキングなどから明らかだが、2人はちゃんと共演していたのである。しかもリハーサルなしで撮影したこのシーンは、2人のアドリブも満載に、11テイクも回していた。 では、実際にはカメラに収めた2ショットなどは、なぜ使わなかったのか?「共演してないのでは?」という疑惑を生み出すような編集に、どうしてなったのか? パチーノとデ・ニーロは、視線を合わせたり逸らしたりしながら、セリフの応酬をする。そうした中でお互いが、「似ている人間」であることを理解していく。 それを見せるためには、それぞれの表情がはっきりと映る、バストショットの切り返しが最も有効。交互に見せることで、2人の演技が融合していく。マンと編集者は、そう考えたのである。 初見から25年経って、そのシーンを観返してみて私が思ったのは、「似た者同士」である2人だが、同じ世界での共存は許されない。2ショットを省いたのには、そんなことを表す意図があったようにも思えてきた。この編集だからこそ、刑事と犯罪者、それぞれの“孤高さ”が際立ってくる。『ヒート』で初めて、本格共演を果たしたパチーノとデ・ニーロ。2人はその後、『ボーダー』(2008)『アイリッシュマン』(19)と、ほぼ10年に1度ほどのペースで共演を重ねている。 一方、その後様々な犯罪映画を手掛けたマイケル・マンは、現在ヴィンセントやニールらの、本作以前のストーリーを描く前日譚の小説化や脚本化に取り組んでいると伝えられる。この映像化が実現しても、齢80前後となったパチーノとデ・ニーロが同じ役で再登板することは、ちょっと考えにくいが…。■ 『ヒート』© 1995 Monarchy Enterprises S.a.r.l. in all other territories. All rights reserved.
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PROGRAM/放送作品
コップランド
警察の町で渦巻く腐敗をスタローン、デ・ニーロ、ハーヴェイ・カイテルらの豪華競演で描く社会派サスペンス
警官が多数を占める特殊な町の腐敗を、警察内部の視点で描く社会派サスペンス。スタローンが腐敗に立ち向かう中年保安官を、ハーヴェイ・カイテルが町を牛耳る悪徳警官、デ・ニーロが正義感に溢れる監察官役を好演。
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COLUMN/コラム2021.06.04
夢は、悪夢のような現実から逃れるために…。『未来世紀ブラジル』
テリー・ギリアム監督が、本作『未来世紀ブラジル』(1985)の着想を得たのは、初の単独監督作品『ジャバ―ウォッキー』(77)を撮っていた頃、イギリスはサウス・ウェールズのある浜辺でのことだった。そこは大きな鉄工所に隣接し、砂浜は薄い膜のような煤に覆われていた。「誰かが石炭がらで真っ黒になった裸の浜辺に腰かけていると、コンベア・ベルトや醜い鉄の塔のむこうに緑あふれる素晴らしい世界がきっとどこかにあるって、現実から逃避するようなラジオからのロマンティックな歌がどこからともなく聞こえてくる―」 ギリアムの頭に浮かんだ、そんなイメージから、本作はスタートしたのだった。 *** 20世紀のどこかの国。個人のプライバシーはすべて政府のコンピューターに管理され、情報省が人々を支配していた。その一方で、反体制派による爆弾テロも相次ぐ。 クリスマスの日、情報省のコンピュータートラブルで、当局がテロリストと目すタトルと、一般人のバトルが取り違えられる。バトルは何の罪もないのに、情報剝奪局に急襲され、家族の前で連行されてしまう。 情報省の記録局に働くサム・ラウリーは、出世などには興味がない男。近頃は羽の生えた騎士の格好で空を舞い、囚われの身の美女を救い出す夢を、毎夜のように見ていた。 上司に頼まれ、バトルの件の責任回避に取り組むサムだったが、ある時夢に登場する美女と瓜二つの女性に出会う。サムは彼女を探し求めるが、その姿を見失う。 そんなある時、サムの部屋の暖房装置が故障。正規の修理サービスに連絡が取れないで困っていると、もぐりの鉛管修理工が現れる。その男こそ、当局がテロリストとして追っている、タトルだった。 夢の美女とそっくりの女性が、バトル家の階上に住む、トラック運転手のジルであることがわかる。サムはジルの情報を職場で詳しく調べようとするが、彼女は、バトルの誤認逮捕について抗議を行っていたことから、当局に“要注意人物”とマークされ、その情報は機密扱いとなっていた。 サムは彼女を見付けるため、断っていた栄転を受け入れることにする。異動先となる情報剥奪局ならば、ジルの情報にアクセス出来るからだ。 情報剥奪局で、逮捕者を尋問に掛ける役割を担っているのは、サムの親友であるジャック・リント。誤認逮捕されたバトルも、彼の拷問によって、すでに命を奪われていた。 そんなジャックから、ジルが逮捕される手筈となっていることを聞かされたサムは、彼女を救うために奔走。ジルもサムに、心を許すようになる。 しかし、そのために様々な規約を破ってしまったサムにも、魔の手が迫ってくる…。 *** 目の前の現実の方が悪夢のようで、そこから逃れるために、ひとは美しい夢を見る…。当初ギリアムがイメージした、煤に塗れた浜辺からはだいぶかけ離れたものになってしまったが、そんなコンセプトを発展させて、本作のストーリーは編まれた。 当初構想した美しい音楽は、ライ・クーダーの「マリー・エレナ」。それはやがて、アリ・バローソによる「Aquarela do Brasil=ブラジルの水彩画」という、1939年に生まれたラブソングへと変わる。 心はずむ六月を過ごしこはく色の月の下ふたりで「きっといつか」とささやいたブラジルぼくたちはここでキスしからみあったでもそれは一晩のこと朝がくると君は何マイルも離れぼくに言いたいことが山ほどいっぱい今、空は暮れなずみふたりの愛のときめきが甦るたしかなことは一つだけ…戻るよ、ぼくは想い出のブラジルに…(「Aquarela do Brasil」訳詞 『未来世紀ブラジル』劇場用プログラムより) 1940年にアメリカで生まれたギリアムにとって、南米のブラジルに逃げるというのは、最もロマンティックなことという感覚があった。そのためこの歌に惹かれ、遂には映画のタイトルまで、『Brazil』(原題)にしてしまった。舞台はブラジルとは、まったく関係ないのに。 本作が、全体主義国家によって統治された近未来世界の恐怖を描いた、ジョージ・オーウェルの「1984年」の影響を受けているのは、明らかと言える。しかしギリアムは、「1984年」を読んではいないという。未読でもわかってしまう、それぐらい自明なイメージに惹かれたと述懐している。 その上で、本作についてギリアムは、当初こんな表現をしていた。“虹を摑む男ウォルター・ミティがカフカと出会った映画”。 ダニー・ケイ主演の『虹を摑む男』(47)と、その原作「ウォルター・ミティの秘密の生活」で、主人公のウォルター・ミティは、空想に耽って自分を英雄に仕立てる。そんなミティのような男≒サムが、フランツ・カフカが書くような不条理の世界に紛れ込んでしまったというわけだ。 そうした本作のイメージが形作られた背景には、ギリアム自身の体験もある。20代後半、アメリカで雑誌編集者やアニメーターとして活動していたギリアムだったが、1967年にロサンゼルスで、警官隊の暴行事件に遭遇。アメリカ政府のベトナム政策に抗議して集まった群衆が、警官隊によって滅多打ちにされるのを、目の当たりにしたのだ。 これはギリアムにとって、「現実で初めて経験した悪夢」。罪なき人々が無差別に、官憲から残忍な仕打ちを受けるという、正に「カフカ的イメージ」が具現化されたものだった。 付記すればギリアムは、この体験がきっかけで母国に見切りをつけて、イギリスへと渡る。そしてコメディグループ「モンティ・パイソン」の唯一のアメリカ人メンバーとなり、やがて世界的な人気を得ることとなる。 因みに「モンティ・パイソン」の仲間である、テリー・ジョーンズから借りた、魔女狩り関係の書物も、本作を構成する重要な要素となった。例えば本作で情報剥奪局は、逮捕者を連行し処罰する費用を、逮捕された本人に請求する。これは中世の魔女狩りに於いて、実際に行われていたことである。魔女として告発された者は、裁判や留置場の費用、拷問、そして焼き殺されるための薪代まで、負担しなければならなかったという。 さて1970年代後半からギリアムが構想していた本作が、実際に製作に向かって大きく動き出したのは、彼の前作『バンデッドQ』(81)が、製作費500万ドルに対し、アメリカだけで4,200万ドルを売り上げるという、大ヒットを記録してから。 82年3月、ギリアムは知人の紹介で出会った、イスラエル出身のプロデューサー、アーノン・ミルチャンと意気投合。彼が本作の製作を行うこととなる。 脚本は、元々はギリアムが、『ジャバ―ウォッキー』の共同脚本を手掛けた友人チャールズ・アルヴァーソンと書いていたが、まとまりに欠けるものだった。そこでギリアムは、「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」などの戯曲で知られる、世界的な劇作家トム・ストッパードに、脚本化を依頼することにした。 ストッパードはいつでも、「ひとりで書く」という仕事の仕方だったため、共同作業を望むギリアムにとっては、不満が募る結果となった。しかし第4稿まで書いたストッパードの脚本で、本作の骨組みは固まった。 例えば開巻間もなく、低級官僚が書類を丸めて、ピシャリと叩いたハエが、コンピューターの中に落ちたことで、TUTTLEの文字がBUTTLEとミスプリントされてしまうシーンがある。すべての発端であるこのくだりは、正にストッパードのアイディアだった。 最終的にギリアムは、チャールズ・マッキオンとの共同作業で、脚本を仕上げた。 一方ミルチャンは、1,500万ドルという製作費を捻出するため、各映画会社と交渉。ユニヴァーサルと20世紀フォックスの競り合いになり、最終的には、フォックスが600万ドルの出資で海外市場、ユニヴァーサルが900万ドルでアメリカ、カナダの北米市場の公開を展開するという契約で、まとまる。 ここでキャスティングについて、触れよう。主演のジョナサン・プライスは、本作の構想が始まって間もない頃に、ギリアムと邂逅。ギリアムはプライスのことが気に入り、サム・ラウリーの役を、彼への当て書きのようにして、原案を書いたという。 しかしいざ製作が本格化した段階では、サムの設定は、22~23歳の青年に。当時の若手スターだった、アイダン・クイン、ピーター・スコラーリ、ルパート・エヴァレットなどが候補になった。特にサム役を熱望したのは、あのトム・クルーズだったという。 その頃プライスは、すでに30代後半。しかし脚本を読んでみると、サムの役は33歳という設定にしても無理がないと感じて、そのままギリアムに提案した。それを受けてスクリーンテストを行った結果、彼が本決まりとなったのである。 サムの夢の美女≒ジル役の候補となったのは、ケリー・マクギリス、ジャミ―・リー・カーティス、レベッカ・デモーネイ、ロザンナ・アークエット、そしてまだメジャーになる以前のマドンナなど。一旦はエレン・バーキンに決まったものの、最後の最後で、キム・グライストがジル役となった。 ギリアム曰く、「スクリーン・テストの彼女は最高だった。でも撮影が始まるとそうはいかなかった」。元々の脚本では、ジルの役割はもっと大きいものだったが、撮影が進行する内に、どんどん削られていった。 ミルチャンの提案で作品の箔付けとして、大スターのロバート・デ・ニーロの出演が決まった。ミルチャンが本作の前に製作した、マーティン・スコセッシ監督の『キング・オブ・コメディ』(82)、セルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84)の2作の主演を務めた縁である。 デ・ニーロは当初、サムの親友で拷問者であるジャック・リントの役を希望した。しかしその役はすでに、「モンティ・パイソン」の仲間マイケル・ペリンに決まっていた。 デ・ニーロはギリアムの説得により、配管工にして当局にテロリストとして追われるタトルの役を演じることとなった。当時のデ・ニーロが、このような脇役で出演するなど、異例中の異例。彼は、脇役であっても手を抜くことはなく、いわゆる“デ・ニーロアプローチ”で、完璧な役作りをやってのけた。 本作は1983年11月にクランク・イン。パリの巨大なポスト・モダン様式のアパート地区マルヌ・ラ・ヴァレで、サムのアパートなどのシーン、当時再開発前だったイギリス・ロンドン港湾地区の廃棄された発電所の冷却塔で、ジャックの拷問室のシーンといったように、ギリアムのセンスが遺憾なく発揮されたロケ撮影を行った。 因みに『未来世紀ブラジル』という邦題は、作品の雰囲気を表すのに悪くはないと思うが、実はミスリード。先にも記したが、これは「未来」の話ではない。“20世紀のどこか”が舞台なのである。登場人物の服装は1940~50年代。サムが運転している車も、ドイツのメッサーシュミットのその頃のモデルである。ギリアムの言を借りれば、“過去に根ざしたありうべき未来の様相”あるいは“現在のB面”を描いているのである。 さて本作は撮影途中で、このままでは撮り切れないとの判断から、2週間休止して、脚本を切り詰める作業を行ったり、ギリアムがストレスから1週間近く起き上がれなくなるというアクシデントが発生。サムの飛翔シーンの特撮に時間が掛かったこともあって、84年2月のクランクアップ予定は、半年延びて、8月になってしまった。 しかし1,500万ドルの予算を超過することはなく、作品は完成。85年2月には、20世紀フォックスの配給で、ヨーロッパで142分のバージョンが無事公開された。 ところがアメリカでは、製作スタート時にはそのポストには居なかった、ユニヴァーサルの責任者シドニー・J・シャインバーグが、ギリアムの前に立ちはだかることとなる。その顛末は、有名な「バトル・オブ・ブラジル」という1冊の書籍にまとめられたほどのボリュームなので、本稿では細かくは言及はしない。 何はともかくシャインバーグは、ギリアムによって11分のカットを行った、アメリカ公開用の131分版に同意せず。別に編集チームを編成。映画の3分の1をカットした上で、ロマンス要素を増強し、ハッピーエンドに終わらせるという、“暴挙”に出たのである。 結果的にはギリアムvsシャインバーグのバトルは、マスコミや批評家などを巻き込んだギリアムの勝利と言える形に終わった。85年12月のアメリカ公開はギリアムの131分版となり、シャインバーグのハッピーエンド版は、後にTV放送されるに止まった。 しかしながらこのゴタゴタの結果、きちんとプロモーションが行き届かず、アメリカ公開ではヒットという果実を得ることはできなかった…。 因みに日本初公開は、86年10月。インターネットなき時代、そのようなトラブルがあったことなど、ほとんどの観客が知らなかった。日本ではユニヴァーサルではなく、20世紀フォックスの配給だったこともあって、ヨーロッパで公開された142分版が観られた。また劇場用プログラムの内容にも、トラブルのトの字もない。 皮肉なものだと思う。テリー・ギリアムの前作『バンデッドQ』が83年に日本公開された際は、子ども向けの作品として売りたかった配給会社の東宝東和によって、悪名高き改竄が行われたからだ。 オリジナルから残酷な要素を取り除いて13分もカットし、ラストまで改変してしまった。ビデオソフトでオリジナル版を観て、劇場で観たのと全く違っているのに、吃驚した映画ファンが続出したものだ。 さて余談はここまでにして、ギリアムはこの後「ほら吹き男爵の冒険」の映画化『バロン』(88)に取り組む。そこでは本作を超えた災厄が待ち受けているのだが、それはまた別の話…。■ 『未来世紀ブラジル』© 1984 Embassy International Pictures, N.V. © 2002 Monarchy Enterprises S.a.r.l. All rights reserved.
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PROGRAM/放送作品
真実の瞬間(とき)
ハリウッドの歴史の闇“赤狩り”の実態をさらけ出す!ロバート・デ・ニーロ主演の社会派ドラマ
『ロッキー』の製作者アーウィン・ウィンクラーが、ハリウッドを襲った“赤狩り”の猛威を正面から描写。友情と保身の間で揺れる映画監督をロバート・デ・ニーロが熱演。マーティン・スコセッシ監督も出演している。
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COLUMN/コラム2020.04.17
ダニー・エルフマンが与えたゴスペルの調べ 『ミッドナイト・ラン』
何度聴いても泣いてしまう。映画『ミッドナイト・ラン』のオリジナル・サウンドトラック盤に収録された主題歌「Try to Believe」のことである。作詞・作曲は映画本編の音楽も手がけた作曲家ダニー・エルフマン。ティム・バートン作品やサム・ライミ作品の常連コンポーザーとして、映画ファンにはおなじみの人物だ。 『ミッドナイト・ラン』本編のエンディングには歌なしのインスト曲が使われているが、サントラ盤にはエルフマン自身が女性コーラスをバックに朗々と美声を聞かせるヴォーカル曲が収録されている。さながらゴスペル隊を率いた牧師姿のエルフマンがノリノリで歌う姿が目に浮かんでくるような、アップビートでありながら哀切さも滲む感動的な一曲だ。 歌詞のなかには、映画の主人公である賞金稼ぎジャック(ロバート・デ・ニーロ)と、マフィアの裏金と裏帳簿を持ち逃げした会計士デューク(チャールズ・グローディン)のドラマを想起させるような言葉が並んでいる。たとえばこんな一節。 「隠れたほうが楽だというときに/他人を信じることなんて簡単にはできやしない/信じることは難しい/僕らが信じようと努力しないかぎり」 そして、曲の終盤にはこんな歌詞もある。本編を観ている人なら、もうこの時点で涙腺決壊まちがいなしだ。 「失くしたけれど取り戻せるものはあると、もし僕が言ったら?/ずうっと昔に脇へ押しやってしまった夢があるのを、君は覚えているだろう/捨ててしまったおもちゃと、流さなかった涙とともに/僕らはそれを取り戻すことができるんだ、信じようと努力すれば」 ふたりの中年男が繰り広げる珍道中を描いた『ミッドナイト・ラン』は、笑いとアクション満載の傑作バディコメディであるとともに、自分を負け犬だと思い込み、やさぐれた人生を送る人物が「再生」のチャンスを与えられるファンタジーでもある。 一匹狼の賞金稼ぎジャックに人生最大級の災難をもたらすデュークは、かつてジャックが他人から受けた手ひどい裏切りのなかで捨ててしまった「良心」や「善性」の象徴だ。このままL.A.へ連れ戻せば、おそらくデュークはマフィアの非情な報復を受けるだろう――その運命からから目をそらし、仕事と割り切って彼を護送するジャックの心を、愛想は悪いが憎めない大型犬にも似たデュークのつぶらな瞳がチクチクと刺激し続ける。最終的に、デュークはジャックが過去のわだかまりを捨て、新たな人生を踏み出すための「善行」へと彼を導いていく。ついでに、再出発を祝う餞別も添えて……。 ラストシーンで忽然と姿を消すデュークは、ジャックにとっての“天使”だったのかもしれない。そんな寓話的ニュアンスが作品に奥行きを与え、いまも多くのファンを魅了し続けているのだろう。『ミッドナイト・ラン』が嫌いという映画ファンには、人生で一度も会ったことがない。 ドラマに隠された「聖性」ともいうべきニュアンスを的確に掴み、大いに作品の成功に貢献しているのが、ダニー・エルフマンの音楽である。飄々としたユーモアと哀愁が漂うブルースの調べを基調に、時にカントリーミュージック調の遊びを加えて場面を軽快に盛り上げ、必要とあらばシリアスなサスペンススコアで要所を引き締める。なかでも、ひときわ印象的なのが「Try to Believe」でも高らかに響き渡る、ゴスペル調のピアノを中心とした熱いバンドセッションだ。それは男たちの言葉には出さない友情を表したメロディと言ってもいいし、天使が投げかける優しいまなざしを音にしたようでもある。「Try to Believe」がはっきりとゴスペル・ソングとして作られているのは、改心と再生を果たしたジャックへの「祝福」の意味も込められているからだろう。本当に自由を得たのは、手錠を解かれたデュークではなく、ジャックのほうだから。 東海岸から西海岸へ、ふたりが移動するたびに次々と変化していくアメリカの情景のように、音楽もまた実に表情豊かに映画を彩り続ける。ユーモラスに、アクティブに、時にメロウに、時にシリアスに……その曲調の引き出しの多さが、ドラマの起伏を際立たせ、何度観ても飽きのこない面白さを作品に与えている。エルフマンの幅広い音楽性、天才的メロディメイカーとしての技が存分に発揮された『ミッドナイト・ラン』は、彼の最高傑作のひとつだ。 作曲家ダニー・エルフマンの才能は、兄リチャードに誘われて異能の音楽&演劇パフォーマンス集団「オインゴ・ボインゴ」に参加したときから、縦横無尽に開花していった。禁酒法時代のジャズから80年代ニューウェーブまで多種多様なジャンルが混沌と入り乱れるパワフルなサウンドは、彼らの世界観を凝縮したミュージカル映画『フォービデン・ゾーン』(80年)と、8枚のアルバムに結実。ジョン・ヒューズ監督の『ときめきサイエンス』(85年)冒頭を飾る主題歌「Weird Science」、トビー・フーパー監督の『悪魔のいけにえ2』(86年)冒頭のレザーフェイス襲撃シーンに流れる「No One Lives Forever」など、映画ファンの耳にこびりついた名曲も少なくない。 ちなみに、オインゴ・ボインゴはマーティン・ブレスト監督の初長編『Hot Tomorrows』(77年)にも出演しており、劇中ではステージで熱唱する若きエルフマンの姿も見ることができる。その後、ブレスト監督は『ビバリーヒルズ・コップ』(84年)で大ブレイクし、サントラ盤にはエルフマンのソロ曲「Gratitude」が収録されたが、なぜか本編では使われなかった。次作『ミッドナイト・ラン』での起用の裏側には、そんな両者の長年にわたる関係があったのだ。 エルフマンは「オインゴ・ボインゴ」のリーダーとしての活動と並行して、ティム・バートン監督の『ピーウィーの大冒険』(85年)でプロの映画音楽家としても活動をスタート。『ミッドナイト・ラン』は、それからわずか3年後に放った傑作だ。しかも、同年にはバートンの『ビートルジュース』、リチャード・ドナーの『3人のゴースト』ほか全部で5本の作品を手がけており、翌年にはあの『バットマン』のサントラを世に放つ。まさに彼のキャリアにおいてターニングポイントとなった時期だった。 ダークなゴシック・テイストと勇壮さを併せ持ち、作品のフィクション性を堂々と際立たせる『バットマン』のオーケストラスコアは映画業界に強烈なインパクトをもたらした。バートンとはその後も『シザーハンズ』(90年)や『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(94年)など数多くの傑作を生みだし、鉄壁のコンビネーションを確立。また、後年にはサム・ライミ監督の『スパイダーマン』シリーズ(02~07年)や、アン・リー監督の『ハルク』(03年)でも音楽を担当。現在に至るアメコミヒーロー映画音楽の定番イメージを作り上げたのは、間違いなくエルフマンの功績と言っていいだろう。 しかし、『ミッドナイト・ラン』で彼が聴かせてくれたアメリカンな土着性が匂い立つ軽妙なコメディ音楽という方向性は、その後のエルフマンのキャリアにおいては、あまり開拓されなかった感がある。その意味でも『ミッドナイト・ラン』の仕事は貴重だし、当時のエルフマンがいかに大きなポテンシャルを持っていたかを思い知らされる一作である。 ちなみに本作のサントラCDは流通枚数が少ないらしく、ブツとして手に入れるのは残念ながら難しい(ただし、動画サイトなどを検索すると、こうパパッと……)。名曲「Try to Believe」は、1990年にリリースされたオインゴ・ボインゴのアルバム『Dark at the End of the Tunnel』にも別アレンジ・バージョンが収録されているので、興味のある方はぜひ。■ 『ミッドナイト・ラン』© 1988 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
ザ・ファン
人気野球選手への憧れが男の狂気を駆り立てる!ロバート・デ・ニーロの怪演に震えるサスペンス・スリラー
ストーカー行為をエスカレートさせていくファン心理の恐ろしさを、ロバート・デ・ニーロが内に秘めた狂気を静かに漂わせて不気味に怪演。ベニチオ・デル・トロやジャック・ブラックら後のスターが脇を固めている。
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COLUMN/コラム2019.02.05
“デ・ニーロ・アプローチ”してない問題と、初監督作の関係『ブロンクス物語/愛につつまれた街』
ロバート・デ・ニーロ。 『ゴッドファーザーPARTⅡ』(1974)で、アカデミー賞助演男優賞、『レイジング・ブル』(80)で、同じく主演男優賞を受賞。他にも『タクシー・ドライバー』(76) 『ディア・ハンター』(78)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84)『恋に落ちて』(84)『アンタッチャブル』(87)『ミッドナイト・ラン』(88)等々、数々の名作・話題作に出演し、当代きっての“演技派”と謳われた。 彼の役作り、それは、演じる人物になり切るためには、体重の増減は当たり前。ある時はその人物が生まれ育ったと設定される土地に数か月暮らし、またある時はその人物の職業に就く等々、徹底したリサーチを行う。その手法は、“デ・ニーロ・アプローチ”と呼ばれ、世界中の俳優に影響を与えた。 我が国に於いては、かの松田優作が、“デ・ニーロ・アプローチ”に傾倒。代表作の1本『野獣死すべし』(80)では、減量の上に奥歯4本を抜いたのに飽きたらず、身長を低くするために足の切断まで考えたというエピソードがある。 現在のハリウッドで、“演技派”と呼ばれる存在の最右翼である、クリスチャン・ベール。アカデミー賞助演男優賞を受賞した『ザ・ファイター』(2010)はもちろん、『マシニスト』(04)から『バットマン』シリーズ(05~12)まで、その役作りの仕方は、正に典型的な“デ・ニーロ・アプローチ”と言えるだろう。 しかしある頃から、映画ファンの間では、こんな冗談というか軽口が、頻繁に飛び交うようになった。 「最近のデ・ニーロって、“デ・ニーロ・アプローチ”してないじゃん!」 ある頃…多分、1943年生まれのデ・ニーロが、アラフィフとなった1990年前後からだ。『ジャックナイフ』(89)『俺たちは天使じゃない』(89)『レナードの朝』(90)『アイリスへの手紙』(90)『グッドフェローズ』(90)『真実の瞬間』(91)『バックドラフト』(91)『ケープ・フィアー』(91)『ミストレス』(92)『ナイト・アンド・ザ・シティ』(92)『恋に落ちたら…』(93)『ボーイズ・ライフ』(93)と、70~80年代のデ・ニーロだったら考えられないようなペースで出演作が公開されていった。 こんなハイピッチで映画出演が続いたら、作品ごとに身を削って挑む必要がある筈の、“デ・ニーロ・アプローチ”など到底無理な話に思える。中には、『レナードの朝』や、名コンビであるマーティン・スコセッシ監督と久々に組んだ、『グッドフェローズ』などの秀作もあったが、その多くが凡庸な出来。デ・ニーロの起用自体が、「?」な作品も少なくなかった。 かつては、「五十年先になっても人々に語り継がれるような映画でなければ作りたいとは思わない」などと語った、デ・ニーロ。それなのに、なぜこんな事態が起こったかと言えば、この頃デ・ニーロには、「金を稼ぐ」必要が生じたからだと言われている。自らの映画製作プロダクションの実現に向けて、動いていたのである。 生粋のニューヨーカーである彼は、自宅近くに在る“トライベッカ”という地域に建物を購入。フィルム・センターと高級レストランを運営すると同時に、そこを拠点とした映画製作に乗り出した。 そしてデ・ニーロは、初めて監督作品を手掛けることとなる。それが本作『ブロンクス物語/愛につつまれた街』(93)である。 それでは、稀代の名優ロバート・デ・ニーロが、それまでに築いた評価を落としかねない振舞い=凡作への出演連発までして作り上げた本作は、一体どんな作品なのだろうか? 原作者は、俳優のチャズ・パルミンテリ。ニューヨークのブロンクスで生まれ育った、イタリア系アメリカ人の彼は、少年時代に目の前で男が撃たれるのを目撃しており、その経験をベースにして、ひとり芝居の戯曲を書き上げた。 主人公は、パルミンテリ本人が投影された、カロジェロという名の少年。彼は、実直で働き者のバス運転手の父ロレンツォと、カロジェロを我が子のように可愛がる、マフィアの幹部ソニーとの板挟みになって、悩みながら成長していく。 この戯曲は、パルミンテリ本人の主演で、1989年にロサンゼルスで初演。その後ニューヨークでも上演されて大評判となり、その映画化権の争奪戦が繰り広げられた。 結局パルミンテリ本人が、映画の脚本を書いて、マフィアのソニーを演じるなどの条件で、ユニヴァーサル・スタジオが契約。映画化に際してユニヴァーサルは、“スター”の出演が必要だと考えた。そこでアプローチを行った相手が、デ・ニーロだった。 デ・ニーロは、パルミンテリの舞台を見て、すぐに「映画にしたい」と考えて出演することを決めた。条件は、400万ドルの出演料に、歩合として興行収入から映画館への分け前を引いた後の額の10%。更には「報酬なし」で、監督まで引き受けることとなったのである。 主人公の父ロレンツォを演じながら、初監督に挑むことになったデ・ニーロ。「元々、監督業には興味があった。そしてこの話なら私には特別な事が出来ると思った。全ての意味で本作は、私の人生の集大成である」と語っている。 その意味は、本作を実際に鑑賞すると、すぐに理解できる。元々は原作者のパルミンテリ本人が投影されたキャラであったカロジェロに、ブロンクスではないが、やはりニューヨークで生まれ育ったデ・ニーロが、己の少年時代を見出していることが、あからさまにわかるからである。 カロジェロは、映画のオープニングは9歳、物語が進むと17歳の姿で登場する。それぞれ年齢に合わせた2人の少年が演じているが、その容貌がデ・ニーロ本人と重なる。特に17歳のカロジェロを演じたリロ・ブランカートは、驚くほどデ・ニーロにそっくりなのである。 リロは、「デ・ニーロに似た少年を探す」という命を受けたスタッフによって、海岸で遊んでいるところをスカウトされた。彼はスカウトの前で、デ・ニーロの物まねを演じてみせたという。父親役をデ・ニーロが演じているわけだから、似た少年をキャスティングするのは当たり前かもしれないが、それにしても…と思わせられる。 少年の成長譚に付き物というか、本作では、17歳のカロジェロの初恋も、キーポイントとなる。その相手となるのは、同じ高校に通うアフリカ系の少女。当時のニューヨークでは、イタリア系とアフリカ系はいがみ合っているように描かれており、それが悲劇を招く筋立てにもなるのだが、そこでつい思い起こしてしまうのが、デ・ニーロ本人の私生活。最初の結婚相手であるダイアン・アボットをはじめ、トゥーキー・スミス、ナオミ・キャンベルなど、デ・ニーロが浮き名を流したお相手は、軒並みブラック・ビューティなのである。 この作品は、完成直前に亡くなったロバート・デ・ニーロ・シニア、即ちデ・ニーロの父に捧げられている。画家だった父は、デ・ニーロが2歳の時に彼の母と別れ、ウチを出ている。 プライベートについて滅多に語ることがないデ・ニーロが、父についてどんな思いを抱いていたかは定かではない。しかし、父と子の物語の側面が強い本作で、息子に「才能を浪費することほど悲劇的なことはない」と語り、マフィアのソニーに憧れる息子に釘を刺す父ロレンツォを演じることによって、晩年は親密な仲だった実の父に対して、何かを訴えたかったのではないか?そんな推測も出来る。 デ・ニーロにとって、「人生の集大成」である本作は、製作過程でスケジュールに遅れが生じたことから、製作費が膨らんで、ユニヴァーサルが途中で手を引くこととなった。その原因となったのは、ロレンツォが運転する60年代型式のバスの故障など、撮影中に起こった幾つかのアクシデントにもあるが、やはり大きかったのが、デ・ニーロ演出。 原作者で本作の脚本とソニー役を担当したチャズ・パルミンテリ曰く、「監督する時も、演技をする時と同じやり方でアプローチするんだ。強迫観念と言えるほど細部にこだわった。決して満足しないんだ。完璧でなければならず、もし駄目だったら、何度も繰り返すことになるのさ」。そのためデ・ニーロは、本作のために新しいスポンサーを見付けた上で、自己資金も投入したという。 そして完成した『ブロンクス物語』は、手ぐすね引いて待ち構えていた批評家たちからの評判も上々で、監督ロバート・デ・ニーロの誕生は、多くの観客からも歓迎された。またギャングや殺人者が持ち役のように思われていた、演技者としてのデ・ニーロの新生面を開いたとも評価された。 当然監督としての次作も期待されたが、マット・デイモン主演で、CIAの秘史を暴いた監督第2作『グッド・シェパード』(2006)が完成するまでには、本作後13年の歳月を要した。これもまた、“完璧主義”のなせる業なのであろう。 そしてその間、出演作に関しては真逆に、「“デ・ニーロ・アプローチ”やってないじゃん」問題が、加速した感もある。 さて『グッド・シェパード』からも13年が経ち、70代も後半となった、我らがロバート・デ・ニーロ。そろそろ監督第3作を観たい気もする、昨今である。■ ©1993 Savoy Pictures, All Rights Reserved.