アメリカでは、オスカー狙いの作品というのは、秋から冬に掛けて公開されるのが、通常のパターンである。春頃の公開だと、その作品がどんなに素晴らしい出来栄えであっても、翌年投票する頃には、投票権を持つアカデミーの会員たちに忘れられてしまう。
 本作『羊たちの沈黙』は、1991年2月にアメリカで公開。それに拘わらず、公開から1年以上経った92年3月開催の「第64回アカデミー賞」で、作品賞、監督賞、脚色賞、主演男優賞、主演女優賞の、文字通りド真ん中の主要5部門を搔っ攫った。
 この5部門を受賞した作品というのは、アカデミー賞の長い歴史の中でも、『或る夜の出来事』(34)『カッコーの巣の上で』(75)と本作の3本しかない。本作は、“ホラー”というジャンルで作品賞を受賞した、唯一の作品としても知られる。
 アカデミー賞で栄冠を得ても、時の経過と共に忘れられてしまう作品も珍しくはない。しかし本作は、公開から20年後=2011年、「文化的に、歴史的にも、美的にも」重要であると、アメリカ議会図書館が宣言。アメリカ国立フィルム登録簿に登録・保存されることとなった。

 製作から30年経った今では、クラシックの1本とも言える本作。その原作は、トマス・ハリスの筆による。
 ハリスは若き日、テキサス州のベイラ―大学で英語学を専攻しながら、地元紙に犯罪記事を提供して身を立てていた。次いでAP通信のニューヨーク支社へと移り、国際報道にも携わったという。
 そんな記者時代の体験と得た知識を基に、75年に処女作として「ブラック・サンデー」を発表した。アメリカ国内で大規模なテロを引き起こそうとするパレスチナゲリラのメンバーと、イスラエルの諜報員の対決を描いたこのサスペンススリラー小説は、そのアクチュアルさも評判となって、77年にはジョン・フランケンハイマー監督によって映画化。ヒットを飛ばした。
 ハリスの次の小説、81年刊行の「レッド・ドラゴン」で初お目見えしたキャラクターが、ハンニバル・レクター博士。好評につき彼が再登場するのが、88年に書かれた、ハリスにとって3作目となる、本作の原作である。

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 FBIアカデミーの女性訓練生クラリス・スターリング。ある日行動科学課のクロフォード捜査官に呼び出され、異例の任務を命じられる。
 それは元精神科医ながら、自らの患者9人を手に掛けたため、逮捕・収監されている、レクター博士との面会。レクターは犠牲者の身体の一部を食していたことから、“人喰いハンニバル”との異名を取っていた。
 クロフォードの狙いは、世間を騒がせている凶悪犯“バッファロー・ビル”の正体を突き止めること。若く大柄な女性を誘拐しては、殺害後に皮を剥いで遺棄する手口のこのシリアルキラーについて、稀代の連続殺人犯で高い知能を持つレクターから助言を得るために、クラリスを差し向けたのだった。
 当初は協力を拒んだレクター。しかし彼は、クラリスが、自らのトラウマとなった過去の出来事を明かすことと引き換えに、“バッファロー・ビル”についての手がかりを、少しずつ示唆するようになる。
 しかし上院議員の娘が“ビル”に誘拐されると、レクターの収監先の精神病院の院長チルトンが、出世欲に駆られてFBIを出し抜く。チルトンの主導で、上院議員との面会のために移送されたレクターは、隙を突いて警備の警察官らを惨殺。姿を消す。
 一方、レクターから得たヒントによって、犠牲者の足跡を追ったクラリスは、遂に犯人の正体に辿り着く。“ビル”と直接対決することとなった、クラリスの運命は?そして、レクターの行方は?

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 テッド・タリーの脚本は、原作に準拠しながらも、物語の省略を効果的に行った上で、登場人物たちの奥行きを保っている。この脚本を当初監督する予定だったのは、俳優のジーン・ハックマン。実はタリーを脚本に推したのも、ハックマンだったという。
 しかし、監督と同時にスターリング捜査官を演じる予定だったハックマンは、出来上がった脚本が「あまりにも暴力的」という理由で、降板する。そこで白羽の矢がたったのが、それまでのキャリアでは、ロジャー・コーマン門下のB級作品を経てコメディ調の作品が多かった、ジョナサン・デミだった。
 デミは“シリアルキラー”の映画を作ることには、「…反発さえも感じていた…」。しかし原作本を読んで、キャラクターや物語に惹かれて、この話を引き受けることに。
 特に彼が興味を持ったのは、ヒロインの描写。それまでの作品でも、女性を主人公にすることを好んできたデミとしては、クラリスとの出会いは、運命的と言えた。
 デミは以前に『愛されちゃって、マフィア』(88/日本では劇場未公開)で組んだミシェル・ファイファーに、まずはオファーした。しかしファイファーは題材の強烈さに難色を示し、その依頼を断った。
 続いてデミがアプローチしたのが、ジョディ・フォスターだった。

 幼き頃から名子役と謳われた、ジョディ。10代前半にはマーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』(76)の少女娼婦役で、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされている。
 イェール大学在学中には、彼女のストーカーによって、時のレーガン大統領の暗殺未遂事件が起こる。キャリアの危機を迎えたジョディだったが、その難局を見事に切り抜け、20代後半を迎えた頃、レイプを告発する女性を演じた『告発の行方』(88)で、待望の主演女優賞のオスカーを手にした。
 デミは「どこにでも居そうな普通の女性が、危機に対して雄々しく立ち向かう。『告発の行方』でレイプ犯に毅然と立ち向かったジョディには、クラリス役が要求する“気丈さ”が百パーセント備わっていた」と、その起用の理由を説明している。
 それを受けたジョディは、クラリス役をどう解釈したか?少女の頃に警察官だった父親が殉職したという彼女の設定を捉えて、「…悲劇的な欠点を持つがゆえにヒーローとなり、自分の醜さと向き合いながら、犯罪を解明していく…」と語っている。また本作のキャンペーンのため来日した際にはクラリスを、「…アメリカ映画において画期的な存在…」「おそらく、本当の意味で女性ヒーローが現れたのは、これが初めてではないでしょうか…」と、重ねて強調している。
 そうしたジョディをこの映画で輝かしたのは、クローズアップで芝居どころをきっちりと見せたデミの演出に加えて、共演者たちの力も大きい。ハックマン降板を受けてクロフォード役を演じたスコット・グレンは、実際に役のモデルとなったFBI捜査官ジョン・ダグラスに付いて、役作りに当たった。ある時期まで男臭い持ち味を売りにしていたグレンだが、『レッド・オクトーバーを追え!』(90)の原子力潜水艦艦長役に続いて本作では、理知的且つ冷静な役どころがハマった。

 しかし何と言っても圧巻だったのは、やはりアンソニー・ホプキンス!
 本作に登場するシリアル・キラー、“バッファロー・ビル”とハンニバル・レクターは、世界各地に実在した様々な連続殺人犯を融合させて、トマス・ハリスが創造したもの。獄中に居ながら捜査に協力するという、レクターの設定は、少なくとも30人の若い女性や少女に性的暴行を加えて殺害した、頭脳明晰な殺人者テッド・バンディのエピソードにヒントを得た。
 またレクターのキャラクターには、ハリスが若き日に、メキシコの刑務所を取材した際の経験が強く反映されている。その時ハリスは、落ち着いた物腰の、人当たりの良い知的な紳士の応対を受け、すっかり気に入った。しかし別れの挨拶を交わすまで、ハリスが刑務所医だと思い込んでいたその男は、実は医学の知識を利用して、殺した相手の死体を小さな箱に収めた、元外科医の服役囚だったのである。
 ローレンス・オリヴィエなどの伝統を継ぐ英国俳優で、いわゆる“メソッド俳優”とは一線を画すアンソニー・ホプキンス。ショーン・コネリーが断った後に、本作のレクター役が回ってきた。
 ホプキンスは、「他の俳優なら、実際の精神病院へ何か月も通ってリサーチするものも居ようが、私は演技することにそんな必要があると思わない…」と語る。レクター博士を演じるに当たっては、「役柄にイマジネーションをめぐらせたことぐらい…」しかやらなかったという。
 例えばレクターを怖く見せるために、ホプキンスが考えた表現は、「まばたきをしないこと」。これは彼がロンドンに住んでいた時、道端でおかしな行動をしている男性と遭遇し、「かなり怖い」思いをした際、その男性がまばたきをしていなかったことから、インスピレーションを得たという。
 またクラリスとレクターの最初の対面シーンでは、見事な即興演技で、ジョディの感情を揺るがした。クラリスが身に付けたものなどから、レクターが、彼女が田舎の貧しい出身であることを見破るこのシーン。それを指摘した後レクターは、彼女が隠していた訛りを、そっくりそのままマネしてみせる。実はこの訛りの部分は、ホプキンスによる、まったくのアドリブだった。
 それを受けたジョディは、目に涙が浮かび、「…あいつを引っぱたいてやりたい…」と本気で思ったという。そしてクラリスと、演じる自分の境界が、すっかりわからなくなったと、後に述懐している。
 ジョディはホプキンスに対して、「あなたの演技のせいで、あなたが怖かった」などとも発言している。

 ジョディとホプキンス。まさにプロvsプロの対峙によって生まれた化学反応が、ジョディには2度目、ホプキンスには初のアカデミー賞をもたらした。
 特にホプキンスは、本作での出演時間は、僅か12分間。それにも拘わらず、ウォーレン・ベイティ、ロバート・デ・ニーロ、ニック・ノルティ、ロビン・ウィリアムズといった強力なライバルたちを打ち破って主演男優賞のオスカーが贈られたのも、至極納得と言える。
 それまで主演作はあれども、映画では地味な演技派俳優の印象が強かったホプキンスだったが、50代に出演した本作以降、名優としての評価は確固たるものとなる。レクター博士は当たり役となり、本作の後日譚『ハンニバル』(01)、前日譚の『レッド・ドラゴン』(02)で、三度演じている。
 また80歳を越えて認知症の老人を演じた『ファーザー』(10)では、29年振り2度目となるアカデミー賞主演男優賞に、史上最年長で輝いた。彼の長い俳優生活でも、本作出演は今日に至る意味で、重要なリスタートだったと言えるだろう。
 この作品でアカデミー賞監督賞を得たジョナサン・デミは、2017年に73歳で亡くなる。本作後も様々な作品を手掛けて、高い評価を得ているものの、そのフィルモグラフィーを振り返ると、やはり第一に『羊たちの沈黙』が挙がってしまう。
 本人としてそれが本意か不本意かは、もはや知る由もないが、“サイコサスペンス”という枠組みを確立し、後に続く多くの作品に影響を与えた本作は、デミ、ジョディ、ホプキンスの名と共に、アメリカ映画史に燦然と輝いている。■

『羊たちの沈黙』THE SILENCE OF THE LAMBS © 1991 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved