原作はフランスの古典文学だった!?

当時、飛ぶ鳥を落とす勢いでスター街道を爆走していたアクション俳優ジャン=クロード・ヴァン・ダムが、1人2役で双子の兄弟を演じたことが話題となったマーシャルアーツ映画である。ご存知の通り、ベルギー出身の有名な格闘家だったヴァン・ダム。’80年に全欧プロ空手選手権のミドル級王座に輝いた彼は、’82年に選手生活にピリオドを打つと映画スターを目指してロサンゼルスへ拠点を移す。アルバイトと掛け持ちしながらスタントマンとして映画の仕事をこなし、虎視眈々とチャンスを狙っていたところ、その甲斐あってキャノン・フィルムズの名物社長メナハム・ゴーランへの売り込みに成功。香港を舞台にした初主演映画『ブラッドスポーツ』(’88)の大成功を皮切りに、『サイボーグ』(’89)や『キックボクサー』(’89)、『ブルージーン・コップ』(’90)など次々とヒットを重ねていく。

その『ブラッドスポーツ』で初めて知り合ったのが脚本家シェルドン・レティック。アメリカ海兵隊出身でベトナム戦争への従軍経験もあるレティックは、ストイックな元格闘家のヴァン・ダムとウマが合ったのだろう。すっかり意気投合した2人は、レティックの監督デビュー作である『ライオンハート』(’90)など数々の映画でコンビを組むこととなる。そのレティック監督によると、もともと本作『ダブル・インパクト』の企画がスタートしたのは『ブラッドスポーツ』の直後だったという。同作の想定外の大ヒットに上機嫌だったメナハム・ゴーランは、ヴァン・ダムとレティックを自身のオフィスへ呼び出し、棚に並べられた無数の脚本の中から次回作を自由に選ぶよう勧めた。そこでレティックの目に入ったのが「Corsican Brothers」というタイトルの脚本だった。

古典文学に明るい方なら御察しの通り、これはフランスの文豪アレクサンドル・デュマが1844年に発表した小説「コルシカの兄弟」をベースにした作品。原作は離ればなれで暮らすコルシカ島出身の双子の兄弟を主人公に、弟が決闘で殺されたことをテレパシーで察知した兄が復讐を果たすという物語だ。オリジナルの脚本がこれをどう料理していたのかは定かでないものの、リライトを手掛けたレティック監督とヴァン・ダムによれば、そこからさらに原型をとどめないくらい改変してしまったらしい。確かに、完成した映画本編を見ると「双子の兄弟」「復讐」という2つのキーワード以外、デュマの小説と共通するものはほぼないと言えるだろう。

かくしてリライト作業を進めている間に、キャノン・フィルムズは経営不振に陥ってメナハム・ゴーランが会社から追放され、レティックはヴァン・ダム主演の『ライオンハート』でひと足先に監督デビュー。そんな折、ヴァン・ダムは『クリーチャー』(’85)や『ザ・ニンジャ/復讐の誓い』(’85)などの低予算映画で注目され、当時『ブランケット城への招待』(’88)や『カンザス/カンザス経由→N.Y.行き』(’88)などでメジャー進出を図っていたトランス・ワールド・エンターテインメントの創業社長モシュ・ディアマントと契約を結び、「Night of the Leopard」という作品に主演する予定だったのだが、この企画が諸事情によって頓挫してしまう。それを知ったレティック監督がディアマントに「Corsican Brothers」の企画を売り込んだことから、『ダブル・インパクト』の企画にゴーサインが出たのである。

ちなみに、ディアマントは「Corsican Brothers」というタイトルを気に入らず変更を要求したのだが、その際に『ダブル・インパクト』を提案したのはヴァン・ダムだったという。当時『ライオンハート』の編集作業中だったレティック監督は、アクション・シーンにインパクトを付けるため、別角度から撮った同じカットを2度連続で編集していたのだが、ヴァン・ダムはそれをヒントにして新タイトルを思いついたらしい。

生き別れになった双子兄弟の復讐劇!

物語の始まりは1966年。香港でトンネル建設事業に携わった裕福な実業家ワグナーが共同経営者のグリフィス(アラン・スカーフ)に裏切られ、地元の中国系ギャングによって妻もろとも殺されてしまう。その際、まだ生後数か月の赤ん坊だった双子の息子たちだけは辛うじて難を逃れる。中国人のメイドに助けられたアレックスはカトリック系の養護施設へ預けられ、ボディガードのフランク(ジェフリー・ルイス)に助けられたチャドは逃亡先のフランスで育てられた。

それから25年後。明るく溌溂とした青年に成長したチャド(ジャン=クロード・ヴァン・ダム)は、育ての親であるフランクと共にアメリカの西海岸へ移住し、ロサンゼルスの高級住宅街ビバリーヒルズでエクササイズジム兼格闘技道場を経営していた。この間、ずっとアレックスの行方を探していたフランクは、依頼していた私立探偵からアレックスを香港で発見したとの報告を受け、何も知らないチャドを連れて25年ぶりに香港へと渡る。天涯孤独の身で育ったアレックス(ジャン=クロード・ヴァン・ダム)は、それゆえ裏社会へ足を踏み入れて逞しく生き残り、現在は密輸業者として生計を立てていた。

お互いに自分と瓜二つの兄弟がいると知って困惑するアレックスとチャド。そんな2人にフランクは事情を説明する。かつて兄弟の両親がグリフィスに殺されて会社を奪われたこと、手を下したのが裏社会の元締めザング(フィリップ・チャン)であること、そして今こそ兄弟が団結して復讐を果たす時であること。しかし、シニカルで猜疑心の強い苦労人アレックスと、ノリの軽い遊び人チャドはまるで水と油。どうしてもお互いに反発してしまう。しかも、宿敵グリフィスは今や香港でも有数の大富豪で、おいそれと近付くことも出来ない。そのうえ、仲間のザングも巨大なファミリーを抱えている。兄弟とフランクの3人では多勢に無勢だ。

そこで心強い味方となったのがアレックスの恋人ダニエル(アロナ・ショウ)だ。実はグリフィスの会社で働いているダニエル。尊敬する社長がそんな極悪人だとは信じられないダニエルだったが、しかし愛するアレックスのため内部の機密情報を探っているうち、動かしがたい犯罪行為の証拠を見つけてしまう。ところが、そんな彼女の動向をグリフィスの女用心棒カーラ(コリー・エヴァーソン)が秘かに監視していた。アレックスとチャドの存在に気付き、亡き者にすべく追っ手を差し向けるグリフィスとザングの一味。果たして、兄弟は親の仇を取ることが出来るのか…!?

ヴァン・ダムは成功しても義理人情に厚い男だった!

実は、主人公のアレックスとチャドには、それぞれ名前の由来となった人物がいる。まずアレックスの元ネタは、ヴァン・ダムの恩人であり芸名(本名はジャン=クロード・カミーユ・フランソワ・ヴァン・ヴァレンバーグ)の由来となった人物ポール・ヴァン・ダムの息子アレックス。ベルギーの裕福な実業家だったポール・ヴァン・ダム氏は大の格闘技マニアで、知り合った当時まだ17歳だったヴァン・ダムの実力を高く評価し、なにかと金銭的な面倒を見てくれていたらしい。一時期、彼は香港へ渡ってカンフー映画スターを目指したこともあるのだが、その渡航費などを提供してくれたのもヴァン・ダム氏だったようだ。その際、一緒に香港へ同行したのが氏の息子アレックス。君はいつか必ず有名な映画スターになる!と背中を押してくれた恩人に対する、ヴァン・ダムからのささやかなオマージュだったのだろう。

一方のチャドは、無名時代のヴァン・ダムと親友だったチャド・マックイーンが元ネタ。そう、あのスティーヴ・マックイーンの子息である。彼もまた下積み生活を送るヴァン・ダムを励まし、あちこち遊びにも連れ出してくれたという。受けた恩は決して忘れない。そんな義理堅いヴァン・ダムの真面目な性格を、主人公たちのネーミングから伺い知ることが出来ると言えよう。

ヴァン・ダムの義理堅さといえば、本作のキャストやスタッフの顔ぶれにもよく表れている。例えば、ザングの用心棒である怪力マッチョ男ムーンを演じている香港俳優ボロ・ヤン(ヤン・スエ)。『燃えよドラゴン』(’73)の悪漢ボロ役で世界的に知られ、筆者世代の日本人にはテレビドラマ『Gメン’75』の香港空手シリーズでもお馴染みのカンフー・スターだ。ヴァン・ダムとは前作『ブラッドスポーツ』でも共演。その際にヴァン・ダムは、「次は必ずもっと大きな映画で呼ぶから」と約束したそうだが、本作ではそれをちゃんと守ったのである。ちなみに、ボロは英語がほとんど喋れず、なおかつ優しいトーンの声だったため、セリフは全て別人がアフレコで吹き替えている。

また、アレックスが隠れ家にしている麻雀店の店長マーを演じているカメル・クリファは、ヴァン・ダムとは13歳の頃からの付き合いである長年の大親友。『ブラッドスポーツ』の大ヒットで名を成したヴァン・ダムは、当時ベルギーでレストランを経営していたクリファをパーソナル・トレーナーの名目でハリウッドへ呼び寄せ、『ライオンハート』以降の多くの出演作に役者としても起用。本作からはプロデューサーとして製作にも携わるようになった。レティック監督とのパートナーシップも同様だが、決して自らの成功を独り占めにはしない、それもまたヴァン・ダムの義理堅さである。

さらに、ウエスタン・ブーツのかかとに仕込んだ拍車を武器にするグリフィスの用心棒を演じるピーター・マロータは、アルバニア出身の有名なテコンドー師範。ヴァン・ダムとは以前から顔見知りだったそうだが、テコンドーの講習会を開くためパリに滞在していたところ、ちょうど『ライオンハート』のプロモーションで訪仏していたヴァン・ダムとたまたま遭遇し、本作の用心棒役およびスタント・コーディネーターをオファーされたという。彼もまた、これ以降『ユニバーサル・ソルジャー』(’92)や『ボディ・ターゲット』(’93)、『クエスト』(’96)などなど、俳優兼スタント・コーディネーターとしてヴァン・ダム作品に欠かせない常連組となり、『ジャン=クロード・ヴァン・ダム/ファイナル・ブラッド』(’17)では監督にまで進出している。

本国アメリカ側とロケ地・香港側でバトルが勃発!?

主なロケ地となったのは、ヴァン・ダムにとって個人的な思い入れも深い香港。現地での撮影コーディネートは『キックボクサー』でも組んだ地元プロデューサー、チャールズ・ワンが取り仕切り、観光客が足を踏み入れることのないディープなロケ地から格闘技の心得のあるエキストラまで、なんでも格安ですぐに調達してくれたという。ところが、この香港側のワン氏とアメリカ側のプロデューサー陣との間で対立が勃発し、撮影途中で香港から引き揚げなくてはならない事態となる。アメリカ側はワン氏のことが信用ならないと主張したのだが、しかしレティック監督によると本当の問題はアメリカ側にあったらしい。

本作の製作を手掛けたストーン・グループ・ピクチャーズは、先述したモシュ・ディアマントと俳優マイケル・ダグラスが共同出資して立ち上げた製作会社。当時、ストーン・グループでは元アメフト・スター選手ブライアン・ボスワース主演のアクション映画『ストーン・コールド』(’91)と『ダブル・インパクト』の2本を同時進行で製作していたのだが、会社的にはボスワースを第2のシュワルツェネッガーに育てるという目論見もあって、本作よりも『ストーン・コールド』の方に力を入れていたという。そのため、実は『ダブル・インパクト』の予算をこっそり『ストーン・コールド』に回していたらしく、それにワン氏が気付いてしまったことから対立に発展したというのだ。

事情を知ったヴァン・ダムもレティック監督もワン氏の味方に付いたものの、結局はアメリカ側の強引な独断によって香港から撮影隊を撤収することが決定。とりあえず屋外シーンのロケだけは全て香港で済ませ、残りの屋内シーンはロサンゼルスで撮影されたのである。ただし、蓋を開けてみれば予算2500万ドルの『ストーン・コールド』は世界興収900万ドルという超大赤字。ボスワースを第2のシュワルツェネッガーに育てることは叶わなかった。一方の『ダブル・インパクト』は予算1500万ドルに対して、世界興収3000万ドルというスマッシュヒットを記録。改めてヴァン・ダムのスター・パワーを見せつける結果となった。

ちなみに、本作には最終版でカットされた幻の別エンディングが存在する。全てが終わってアメリカへの帰路に就いたチャドとフランク。ロサンゼルス行きの旅客機に乗った2人に声をかける客室乗務員を見ると、なんとアレックスの恋人ダニエルと瓜二つではないか!えっ、もしかしてダニエルにも実は双子の姉妹がいたの…!?と、チャドとフランクがビックリ仰天したところでジ・エンドとなる。■

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