昨年87歳でこの世を去った、ウィリアム・フリードキン。1935年生まれの彼が、映画監督として最高のスポットライトを浴びたのは、『フレンチ・コネクション』(71)『エクソシスト』(73)の2本をものした、30代後半の頃であったのは、間違いない。
 近年には、長らく“失敗作”扱いされ、キャリアの転換点とされた、『恐怖の報酬』(77)の再評価などがあった。しかし、『フレンチ…』『エクソシスト』を連発した際の、リアルタイムでのインパクトはあまりにも凄まじく、それ故に、以降は“失墜”した印象が、強くなったとも言える。
 そんなフリードキンのキャリアのスタートは、TV業界。10代後半、父親が早逝し、大学に進む気がなかった彼が、必要に駆られて職に就いたのが、生まれ育った地元シカゴのローカルテレビ局の郵便仕分け係だった。
 ところがこの局では、異動の度に様々な職種を経験していくシステムになっており、やがて彼は、番組の“演出”を担当するようになる。元はディレクター志望だったわけではないが、水が合ったらしく、その後幾つか局を移りながら、20代後半までに、ヴァラエティ、クイズ、クラシック音楽、野球など2,000本以上の生番組を手掛け、10数本のドキュメンタリーを世に送り出した。
 フリードキンが映画界へと進んだのは、30代を迎えた60年代後半。舞台の映画化作品である『真夜中のパーティー』(70)などが評判にはなったが、決定打が出ないまま、70年代へと突入した。
 思い悩む彼がアドバイスを求めたのが、ハワード・ホークス監督。スクリュー・ボール・コメディからミュージカル、メロドラマ、ギャング映画、航空映画、西部劇等々、様々なジャンルでヒットを放ってきた巨匠ホークスがフリードキンに言ったのは、次の通り。
「誰かの抱えている問題や精神的な厄介ごとについての話なんて誰も聞きたかねぇんだよ。みんなが観たいのはアクションだ。俺がその手の映画をイイ奴らと悪もんをたくさん使って作ると必ずヒットするのさ」
 そしてちょうどそのタイミングで、スティーヴ・マックィーン主演の刑事アクション『ブリット』 (68)で大ヒットを飛ばした、プロデューサーのフィリップ・ダントニから、出版前のゲラ刷りが、フリードキンへと持ち込まれた。それが、ロビン・ムーアの筆によるノンフィクション「フレンチ・コネクション」だった。


 ニューヨーク警察が、フランスから持ち込まれた大量のヘロインの押収に成功した、61年に実際に起こった大捕物を記したこの原作に、フリードキンは心惹かれた。更にはニューヨークに行って、この捜査の中心だった、麻薬捜査課の2人の刑事、エドワード・イーガン、サリヴァトーレ・グロッソの実物と会ってからは、本当に夢中になって映画化に取り組んだ。
 そこから納得のいく脚本づくりに時間を掛けて、本作『フレンチ・コネクション』がクランクインしたのは、1970年の11月30日。翌71年の3月に入るまで、65日間の撮影では、セットは一切使わなかった。ニューヨーク、それも実際の事件の舞台となった場所を使用した、オールロケーションを敢行したのである。

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 ニューヨーク・ブルックリンで、麻薬の摘発に勤しむ2人の刑事、ジミー・ドイルとバディー・ルソー。“ポパイ”と呼ばれるドイルの強引なやり口を、ルソーがフォローする形で捜査を含める、名コンビだった。
 ある時2人で出掛けたナイトクラブで、豪遊する男サル・ボカを見て、ドイルの“猟犬”の勘が働く。妻と共に軽食堂を営むサルを張り込み、店の盗聴を行った結果、彼の仲介で、フランス・マルセイユから届くヘロインの大きな取引が行われることがわかった。
 取引の中心に居るのは、フランス人実業家のシャルニエ。殺し屋の二コリを従えて、ニューヨークのホテルに滞在していた。
 財務省麻薬取締部の捜査官も交えて、シャルニエらの尾行が始まる。ある日ドイルの尾行に気付いたシャルニエは、地下鉄を利用。狡猾なやり口で、まんまとドイルを撒いた。
 証拠不十分でドイルが捜査から外されたタイミングで、二コリがライフルでドイルを狙撃する。弾を逃れたドイルは、高架を走る地下鉄へと逃げ込んだ二コリを追うため、通りがかりの車を徴発。高架下を猛スピードでぶっ飛ばす。
 地下鉄をジャックして、ノンストップで走らせたニコリだが、終着駅で停車していた車両に衝突。何とか逃げおおせようと、地下鉄を脱出するものの、追いついたドイルによって、射殺される。
 ドイルは捜査へと復帰。いよいよシャルニエたちの麻薬取引が迫る中、繰り広げられる虚々実々の闘いは、終着点へと向かう…。

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 主役のドイル刑事に選ばれたのは、ジーン・ハックマン。40歳になったばかりの「ハックマンは、それまでに『俺たちに明日はない』(67)などで、2度アカデミー賞助演男優賞にノミネートされるなど、知名度はそこそこにあったが、本格的な主演作は初めて。
 無名俳優を使いたかったフリードキンと、スターを主演にしたかった製作会社。その妥協によって、中間的な位置にいたハックマンが起用されたという。
 ハックマンは、相棒のルソー刑事に選ばれたロイ・シャイダーと共に、自分たちの役のモデルとなった、イーガン、グロッソ両刑事の捜査などに、2週間密着。麻薬常習者の溜まり場に踏み込んだり、その連行を手伝ったりまでして、役作りを行った。
 刑事たちが追うシャルニエ役に、フェルナンド・レイが選ばれたのは、実は手違いからだった。フリードキンは当初、ルイス・ブニュエル監督、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の『昼顔』(67)に出演していた、フランシスコ・ラバルをキャスティングしようと考えていたのである。
 ところがキャスティング・ディレクターが、勘違い。同じブニュエル監督のドヌーヴ主演作、『哀しみのトリスターナ』(70)の共演者だったレイが、ニューヨークの撮影へと招かれた。フリードキンはその時会って初めて、自分が考えていた俳優とは、別人だと気付いたという。
 実はこれが、瓢箪から駒となった。役のモデルとなった犯罪者は、粗野なコルシカ人だったが、フェルナンド・レイは、見るからに洗練された紳士。粗野なドイル刑事とのコントラストが、効果的に映えた。因みに当初想定されていたラバルは、英語がまったく話せなかったので、そうした意味でも、大成功のキャスティングとなった。

 フリードキンは、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(60)やコスタ・ガブラス監督の『Z』(69)を観て、自分の出自とも言えるドキュメンタリーの手法が、劇映画の撮影にも使えると気付いた。そして本作で、大々的に導入している。
 カメラマンは、リハーサルに参加させない。そうやって彼らには、俳優の動きなど、事前には一切、伝えないようにした。
 撮影は、すべて手持ち。カメラマンは、俳優陣の演技が始まってから、その場の判断で被写体を決めて、動きを追った。特にドイルとルソーのやり取りなどは、ハックマンとシャイダーのアドリブに任されていたので、まさに“ドキュメンタリー”の撮影だった。
 こうしてほとんどのシーンが、1~2テイクしか回さずに撮られたという。驚くべきはその多くが、警察の協力は得ながらも、ニューヨーク市の許可などは取っていない、ゲリラ撮影だったことである。
 車での尾行が、渋滞に巻き込まれて失敗するシーンがある。これは監督らの友人や知人の車を呼んで、人工的に渋滞を起こしたもの。何も知らない一般のドライバーたちが、はた迷惑な撮影に巻き込まれている。

・『フレンチ・コネクション』撮影中のウィリアム・フリードキン監督(左)


 街や地下鉄での尾行シーンも、ほとんどがゲリラ。映り込んでいる通行人の多くが、エキストラなどではなく、実際にそこに居合わせたニューヨーク市民である。
『ブリット』と同じプロデューサーの下、同作の映画史に残るカーチェイスを超えることを意識したという、高架下のカースタントも、無許可。警察が交通整理で協力したというが、歩行者や他のドライバーの車が通行する、一般道路で撮影されている。
 しかもドイル刑事の表情が写っているシーンでは、スタントマンのビル・ヒックマンの指導の下、ハックマン本人が時速140㌔ものスピードを出して、運転している。ガチで危険なシーンだけ、ヒックマンが担当したというが、ハックマン運転の車が、事故に巻き込まれそうな局面も、再三あったという。
 結果オーライで、ド迫力のシーンが撮れ、『ブリット』と並び称される、映画史に残るカーチェイスとなったわけだが、さすがのフリードキンも後になって、人の命を危険に曝した、当時の自分のことを、「青二才だった」と反省。「今ならあんなことはしない」と語っている。
 やり過ぎな部分も、確かにあった。しかしこうした演出法や撮影法が功を奏し、『フレンチ・コネクション』が、他に類を見ない作品となったのは、間違いあるまい。一部強引なストーリー展開もありながら、アクチュアルな迫力で、それらを捻じ伏せてしまっているのである。

 本作は71年の10月に公開されるや、大ヒットを記録。多くの批評家からも、絶賛を以て迎えられた。この年度のアカデミー賞では、8部門でノミネート。その内の作品、監督、主演男優、脚色、編集の5部門を制す、大勝利を収めた。
 そしてこの作品の撮影中に、フリードキンが読んでいたのが、ウィリアム・ピーター・ブラッティによる小説「エクソシスト」。実際に起こったという、子どもへの悪魔憑き事件をモデルにして描かれたものだった。
 フリードキンと面識があったブラッティは、『フレンチ・コネクション』完成前のバージョンを試写で鑑賞。そして彼は、フリードキンが監督する条件で、ワーナー・ブラザースに、『エクソシスト』の映画化権を売ったのである。■

『フレンチ・コネクション』© 1971 Twentieth Century Fox Film Corporation.