マイケル・ダグラスは、ノリに乗っていた。
 元は『カッコーの巣の上で』(1975)などで、プロデューサーとしてその名を轟かせたが、80年代中盤以降は、俳優としても成功。1987年には、『危険な情事』が大ヒットとなり、続く『ウォール街』では、大スターの父カーク・ダグラスが生涯手にすることがなかった、アカデミー賞主演男優賞の獲得に至る。
 そんな絶好調の彼に、1冊の脚本が届けられた。それは元々、エディ・マーフィ主演の『ビバリーヒルズ・コップ2』(87)のために書かれたものだったが、諸般の事情で没に。
 その後その脚本は、『ビバリーヒルズ…』とは別企画の刑事アクションとして、映画化が模索された。ダグラスの元に辿り着くまでに、主演候補として、メル・ギブソンやカート・ラッセル、スタローンやシュワちゃん、ブルース・ウィリスやハリソン・フォード、ルトガー・ハウアーなどの名が挙がったという。
 この脚本が気に入ったダグラスは、『危険な情事』のプロデューサーだった、スタンリー・R・ジャッフェとシェリー・ランシングの元に持っていく。かくて本作『ブラック・レイン』(89)は、製作費3,000万㌦=約59億円の、当時としてはビッグバジェットで、映画化されることとなった。
 監督には、『ロボコップ』(87)でヒットを飛ばしたポール・ヴァーホーヴェンが、一旦決まる。しかし彼は『トータル・リコール』(90)のプロジェクトへと鞍替えし、降板。そこでジャッフェ&ランシングがオファーしたのが、リドリー・スコットだった。今日では“巨匠”として揺るぎない地位を築いているスコットだが、当時の立ち位置は、極めて微妙なものだった。
 長編監督第2作にして、ハリウッド進出作だった『エイリアン』(79)で大成功を収めるも、後には伝説的な作品として語り継がれることになる『ブレードランナー』(82)は、初公開時は大コケ。続く『レジェンド/光と闇の伝説』(85)『誰かに見られてる』(87)も不発に終わっていた。
『ブレードランナー』以降スコットは、プロデューサー的な役割も兼ねて作品作りを行ってきた。しかしそんな状態だったため、『ブラック・レイン』へは、純然たる“雇われ監督”として参加が決まる。


■『ブラック・レイン』撮影中のマイケル・ダグラス(左)とリドリー・スコット監督

 製作準備期間中スコットは、『ブラック・レイン』メインの舞台となる日本を、何度も訪問。ロケハンを行うと、もっと独特のものがあると思っていた日本の都市が、「近代的で合理的」であることに気付かされた。
 そんなこともあって、東京をメインの舞台にするという、当初のプランは取りやめ。成田空港や銀座、新宿歌舞伎町などでロケを行うには、撮影許可を得るのが至極困難であるというのも、ロケ地変更へと繋がった。
 日本を離れて香港で撮影するアイディアも検討されたが、最終的には大阪で大々的にロケーションが行われることとなった。東京よりは「融通が利く」という見込みからの決定だったが、これが大間違いで、後に撮影チームは、地獄を見ることとなる…。

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 ニューヨーク市警の刑事ニック(演:マイケル・ダグラス)。内務調査班から汚職の疑いを掛けられ、なじみの店で相棒チャーリー(演:アンディ・ガルシア)に、愚痴をこぼす。
 その時その店で、マフィアと日本のヤクザが商談を行っているのが、目に入る。そこに手下を引き連れ、横入りするように現れたのが、新興ヤクザの佐藤(演:松田優作)だった。
 その荒っぽい振舞いを、年配のヤクザが揶揄すると、佐藤は鋭利な刃物で喉元を引き裂いて殺害。ニックとチャーリーは、逃亡を図る佐藤を追跡し、死闘の末に取り押さえる。
 2人は逮捕した佐藤を、日本へと護送。空港到着と同時に、現れた警官隊に佐藤を引き渡し、任務完了の筈だったが、それは佐藤の配下が扮した、ニセ警官だった。
 大阪府警からお目付け役に、閑職の警部補・松本(演:高倉健)を付けられ、厄介者扱いされる2人のアメリカ人刑事。しかしニックは一連の事態が、佐藤とその元親分の菅井(演:若山富三郎)との間の、偽ドル紙幣の原板を巡る抗争であることを突き止める。ニックは菅井が経営するクラブミヤコの外国人ホステス(演:ケイト・キャプショー)の協力を得て、佐藤の逮捕に執念を燃やす。
 そんな時チャーリーが、佐藤の罠によって、ニックの眼前で惨殺される。その怒りと悲しみが、ニックと松本を結び付け、2人は共同で捜査に取り組む。
 アメリカと日本。異なる文化をバックボーンに持つ2人の刑事は、果して佐藤を追い詰めることが出来るのか?

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 本作のタイトル“ブラック・レイン=黒い雨”の由来は、日本ヤクザの大ボス菅井が、ニックに毒づく内容で示される。少年時代にアメリカ軍による空襲を経験した菅井は、その直後“黒い雨”に打たれる。日本は敗戦と共に、やって来た進駐軍に価値感を押しつけられ、それが今どきの、仁義もへったくれもない、佐藤のような奴らを創り出したのだと。
 主演のマイケル・ダグラスは本作のクランク・イン前、ニューヨーク市警の刑事と行動を共にした。その際ハーレムの暴動現場に駆けつけたり、警官2人が殺害された現場の調査に加わったりして、リサーチ。しかし日本に行くことは、敢えて避けたという。初めて日本を訪れるニック刑事と、できるだけ同じ状況で撮影に臨もうとしたのである。
 外国人ホステスを演じたケイト・キャプショーは、役作りのため、大阪の会員制クラブに勤務。「男性とダンスをしたり、甘えさせてあげたり、背中を撫でてやったり、お酒をついだり……、彼らの冗談に笑ったり」といった経験をした。
 日本人キャストの多くは、大々的なオーディションによって、決められた。押しも押されぬ日本のTOPスターで、『燃える戦場』(70)『ザ・ヤクザ』(74)など、ハリウッド映画に出演経験のある“健さん”こと高倉健も、例外ではなかったようだ。高倉が亡くなった際、彼が演じた松本警部補役のオーディションを、泉谷しげるも受けていたことを明らかにしている。
 一説によるとリドリー・スコットは、出世作『エイリアン』を撮る際にも、高倉の出演を望んだと言われている。そうした意味では健さんは、“特別枠”だった可能性もあるが。
 本作の強烈なヴィラン佐藤役には、ジャッキー・チェンの名前も挙がったというが、どう考えても柄ではない。本人もそう思ったらしく、直々に断ったと言われる。
 数多の有名俳優が佐藤役の獲得に挑んだ中で、最終的に勝ち残ったのが、松田優作だった。キャスティング・ディレクターが松田に興味を持ったのは、『家族ゲーム』(83)『それから』(85)といった、森田芳光監督作品を観てのこと。またリドリー・スコットは松田のことを、痛快な日本のテレビドラマ(「探偵物語」<79~80>のことと思われる)で知られる、「本質的にはコメディ俳優」と認識していた。
 そんなこんなで、松田の起用が決まった時点では、アクションができることは、さほど期待されていなかったようである。彼を世に出した刑事ドラマ「太陽にほえろ」や、角川映画などの村川透監督作に触れてきた我々としては、吃驚するような話であるが…。


 1988年10月28日、『ブラック・レイン』は、当時の大阪府庁のビルを、大阪府警に見立ててのシーンから、撮影開始。アメリカ側45人、日本側100人という大所帯のクルーは、続いて京橋地区の野外シーンや道頓堀地区のナイトシーン等々に取り組んでいく。しかしこれらの街頭撮影は制約が厳しく、困難を極めることとなった。
 撮影許可が下りた筈だったのに、突然取り消されたり、建物内の撮影をしようとすると、それを監視する関係者が現れたり。
 見物客にも、手を焼いた。通行人が平気でカメラの前を横切るわ、高倉健にサインを求めるギャラリーが殺到するわ。マイケル・ダグラスが、人々が高倉に接する様について、「アメリカでは、ブルース・スプリングスティーンの時だけだよ。あんなに尊敬される姿を見れるのは」とコメントしているが、これは半ば皮肉だったのかも知れない。
 このような状況にストレスをためた撮影監督は、途中で降板。ピンチヒッターとして、後に『スピード』(94)などを監督する、ヤン・デ・ボンが呼ばれた。
「日本社会というものを理解していなかった」そして「日本での撮影がどれだけ高くつくかもわかっていなかった」と悔やんでも、後の祭り。リドリー・スコットは後年、「二度と日本では撮らない!」と、コメントしている。
 当初年の瀬近くまで予定していたロケは、12月上旬には切り上げ。結局大阪での撮影は、予定の半分もこなせなかった。
 その後ニューヨークロケを済ませた後、撮れなかった日本のシーンは、ロスやカリフォルニア周辺で撮影。クライマックスは、ナパ・ヴァレーに在るブドウ農園を、コメの栽培地に作りかえ、そこで大物ヤクザたちの会合シーンや、ニックと佐藤のバイク・チェイスを撮り上げた。
 1989年3月14日に、本作の主要な撮影は終了。ロケ地としての日本の評判は、本作で地に墜ちたと言えるが、その逆に高い評価を受けたのが、松田優作だった。
 先にも記した通り、アクション面では期待されていなかった松田だが、いざ撮影に臨むと、スタントなしで自在に演じられることを知らしめた。そして撮影が進むにつれ、作品に対する発言権と信頼を得ていったのだ。
 リドリー・スコットは松田を、「じつに良いやつ」「正真正銘の、ナイスガイ」とべた褒め。マイケル・ダグラスはアメリカでの撮影の合間に、松田を映画会社の重役に引き合わせ、今後ハリウッドで仕事をする際は、すべての面倒を見ると、太鼓判を捺した。


 そして本作『ブラック・レイン』は、1989年9月22日に全米公開。№1ヒットとなると、キャスティング・ディレクターの元には、「ユーサク・マツダとは何者だ?」と問い合わせが殺到した。10月頭には具体的に、松田憧れの俳優、ロバート・デ・ニーロの主演作からオファーがあったという。
 しかしその申し出が届いた際、松田は深刻な状況に陥っていた。実は本作への出演が決定した88年秋、松田は、膀胱がんの診断を受けていたのだ。ところが彼は、「“映画の父の国”で映画をやってみたかった」という、長年の夢を優先。本作の撮影に臨んだ。
 それから1年…。松田は、10月7日の本作日本公開の頃には入院。がんの転移もあって、予断を許さない状態だった。そしてほぼ1か月後の11月6日には、この世を去ってしまう。享年40。
 松田の身体ががんに侵されているのは、本作関係者のほとんどが知らされていなかった。その役どころとは正反対に、撮影中に松田と“親友”になった、チャーリー刑事役のアンディ・ガルシアは、『ゴッドファーザーPARTⅢ』(90)撮影中に松田の訃報を耳にした。ガルシアは真っ青になって、言葉も出なかったという。
 本作は、監督のリドリー・スコットにとっては、失地回復の1作となった。そして次作では、プロデューサーを兼任。代表作の誉れ高い、『テルマ&ルイーズ』(91)を放つこととなる。
 本作の撮影中、渾身の演技を見せた松田優作はスコットに、こんなことを言ったという。
「これで俺は永遠に生きられる」■

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