1981年10月31日…今はもう、44年前のこと。
 東京・銀座に在った、シネラマ・スクリーンと最先端の音響システム、美麗な客席やロビーを誇る、1,000席超の映画館「テアトル東京」が、その歴史に幕を下ろした。その最後の夜、オールナイトのイベントで上映されたのが、マイケル・チミノ監督作品2本。『ディア・ハンター』(1978)、そして本作『天国の門』(80)だった。
 巨艦劇場の最期に立ち会った私は、当時としては恐らく日本一の上映環境で、本作を鑑賞した。元は3時間半以上あった作品を、2時間半弱にまとめたダイジェスト感こそ否めなかったが、重厚且つ丹念に演出されたその画面は、このような巨大スクリーンで観ることこそふさわしいと感じた。
 そして思った。なぜこの作品はアメリカで、「映画災害」とまで言われる惨禍を引き起こしたのだろうか?と。

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 1870年アメリカ東部、ハーバード大学の卒業式。ジム(演;クリス・クリストファーソン)と親友のビリー(演;ジョン・ハート)は、将来の希望に満ちて、この名門大学を巣立った。
 20年後、ジムは西部ワイオミング州ジョンソン郡の保安官になっていた。当地には、東ヨーロッパから貧しい移民たちが押し寄せ、大牧場主たちとの間に、トラブルが発生していた。
 富裕層である大牧場主たちは、WSGA=ワイオミング家畜飼育業者協会を結成。生活に困窮し、時には牛泥棒などを働く移民に対し、殺し屋のネイト(演;クリストファー・ウォーケン)を差し向けるなど、迫害を続けた。
 そして遂には、WSGA会長のキャントンが、移民の入植者125名をリスト化。彼らを殺害する計画をぶち上げる。
 WSGAの会員となっていたビリーは、無気力に酒浸りの日々を送っていたが、「殺害リスト」の件に驚愕。久々に再会したジムに、この恐るべき企てを告げる。
 ジムの恋人は、売春宿を営むフランス人女性のエラ(演;イザベル・ユペール)。彼女はジムを愛すると同時に、殺し屋のネイトのことも、愛していた。
 移民たちの憩いの場となる巨大なローラースケート・リンク「天国の門」で、ジムは秘かに入手した「殺害リスト」を読み上げる。移民たちの間に、動揺が広がる。
 そして、キャントンに雇われた“殺し”の実行部隊が、ジョンソン郡へと迫る。
 ジム、エラ、そして虐殺への加担を拒んだネイト。彼ら3人、そしてジョンソン郡の人々の運命は?

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 1890年前後、ワイオミング州ジョンソン郡で実際に起こった事件をモチーフに、マイケル・チミノが脚本を書き始めたのは、1970年代のはじめ頃。当初のタイトルは事件の呼称そのままに、「Johnson County War=ジョンソン郡戦争」だった。
 大牧場主たちが既得権を盾に、土地や家畜、水の権利などで、競合相手となった入植者たちを、迫害したという構図と、それが血で血を洗う抗争に発展したというのは、史実の通り。しかしその入植者たちが、主に東ヨーロッパからの移民たちだったというのは、事実ではない。
 主要な登場人物たちは、「ジョンソン郡戦争」に関わった、実在の人物名を使用。しかしその出自や半生などは、チミノの創作であった。
 チミノは、幾つかの映画会社に接触。映画化の道を模索したが、まだ新進の脚本家に過ぎなかった彼のプロジェクトに、GOサインを出す映画会社は、簡単には現れなかった。
 潮目が変わったのは、チミノがクリント・イーストウッドによって、彼の主演作『サンダーボルト』(74)の監督に抜擢され、ヒットを飛ばした辺りから。続いての監督作で、ベトナム戦争に出征した、ロシア移民の若者たちの悲劇を描いた『ディア・ハンター』が評判になった頃に、ユナイテッド・アーティスツから、映画化のGOサインが出た。
 1979年4月9日、「第51回アカデミー賞」で『ディア・ハンター』は、作品賞や監督賞をはじめ、最多5部門でオスカーに輝く。この作品の監督にしてプロデューサーの1人だったチミノには、2本のオスカー像が授与された。
 まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだったチミノは、その1週後=4月16日にモンタナ州で、本作『天国の門』の撮影を開始する。再びオスカーを狙って、その年の12月の公開を目指すことになっていた。

 

 準備段階のチミノは、ロケ地を自分で探す。その考え方は、こうだ。撮影する場所を熟知して初めて、思い通りの演出ができる。撮影に臨む場所こそが、自分のするべきことを教えてくれるというのである。
 そんなチミノは撮影前に、絵コンテなどを描くことはない。「…あらかじめ全部絵に描いていたら、わざわざ映画を撮る必要などない」のである。
 チミノは、アメリカ中西部やカナダをロケハンし、今まで誰も見たことがない風景を、探し求めた。そして決まったメインの撮影地は、モンタナ州北西部のカリスベルにグレイシャー国立公園、アイダホ州ウォーレス。
 物語的には、歴史的事実を大胆に改変したチミノだったが、19世紀末のアメリカ西部を描く上での“リアリズム”に関しては、こだわりにこだわった。当時西部で撮影された写真や新聞などを参照。セットの建造には、半年掛けたという。
 カリスベルには、1890年当時のホテルや、ローラースケート場「天国の門」などの巨大セット。グレイシャー国立公園内には、架空の町スィートウォーター。ウォーレスには、1892年ワイオミング州キャスパの、6ブロックに及ぶメインストリートの街並みを、それぞれ造り上げた。
 こだわりは、建物の外観や屋内に止まらない。主要登場人物のみならず、端役が羽織る衣裳の一着一着にまで及んだ。
 撮影を担当したのは、ヴィルモス・ジグモンド。スティーヴン・スピルバーグ監督の『未知との遭遇』(76)でアカデミー賞を受賞した名カメラマンで、チミノとは、『ディア・ハンター』に続くコラボだった。ジグモンドは本作について、「それまで一度も経験してなかったようなやり方で映画の全体的雰囲気を作り出すというチャンスに恵まれました」と語っている。
 この時代に生きていたら、どんなことを普通に目にしたか?当時はストーブから、本当に煙が出ていた。そこで屋内の撮影では、常にスモークを焚いて、時代色を出すことにした。
 古い絵画や写真に見られるような、陽光が輝きながら、窓辺の煙を貫くというイメージ。それを現実のものとするためには、現場を煙で満たす必要がある。屋内の撮影では常に、煙を焚くスタッフが身を隠していた。
 こうして作り上げた屋内シーンのトーンに、屋外も合わす必要がある。鮮明な画面になることを避けるために、砂ぼこりを立たせることにした。そのため、20万㌧に及ぶ、砂塵用の土が用意された。


 準備万端整えての、クランクインの筈だった。しかしこのように“完全主義”の監督が、自分のイメージに固執しての撮影で、何が起こったか?
 本番のテイクが、20回から30回に及ぶのは、当たり前。主演のクリストファーソンのあるシーンでは、50回以上もテイクを重ねた。そんなこんなで、撮影6日目にして、すでに5日分の遅れが生じたという。
 街を行き交うのは、1,000人以上のエキストラに、80~90組の馬。そして、ごく僅かな出番しかないのに、19世紀末の蒸気機関車が、5つの州を跨いで運び込まれた。
 1ヶ月半後。本来は撮影終了の筈だったが、撮れていたのは、予定の半分。そして製作費の1,160万㌦は、尽きてしまった。
 ローラースケート場の「天国の門」には、お抱え楽団が居るという設定。そのために、何人かのプロミュージシャンが呼ばれた。彼らは3週間の拘束の筈だったが、撮影が遅れに遅れ、気付くと滞在期間は、半年間に及んだという。
 クランクアップは、撮影開始から1年近く経った、80年の3月。この時点で当初の予算の3倍、3,600万㌦が費やされていた。
 製作のユナイテッド・アーティスツは、撮影中何度も、チミノの首をすげ替えることを検討したという。しかしオスカー監督を手放すことには、躊躇せざるを得なかった。
 ポスト・プロダクション。撮影された、220時間分のフィルムの編集作業。チミノは編集が終わるまで、スタジオの重役たちに、フィルムを見せることはなかった。
 80年6月2日。チミノが開陳したのは、5時間25分バージョンだった。完成版は、「これより15分ほど長くなる予定」としたが、会社側がそれを拒絶した。
 チミノは再編集に取り掛かり、3時間39分バージョンが完成。11月19日、ニューヨークでプレミア上映の日を迎えた。
 高揚した気持ちを抑えながら、会場の最後部に立ったチミノは、上映開始から1時間経つと、「これは、まずい!」と感じ始めていた。
 プレミアに立ち会った、主演のクリストファーソンのホテルに、翌朝チミノから電話が掛かってきた。不安を訴えるチミノに、「気にし過ぎだよ」と思ったクリストファーソンだったが、ルームサービスに持ってきてもらった新聞を開くと、監督の予感は当たっていた。
 「ニューヨークタイムズ」に掲載されていたのは、映画評論家ヴィンセント・キャンビーによる、これ以上にない酷評。
 「『天国の門』は、あまりにも完全な失敗作であるため、チミノ氏が『ディア・ハンター』の成功を再び得るために、魂を悪魔に売り渡したものと疑われる」「『ディア・ハンター』のはじめの結婚式シーンが長すぎると感じた方、『天国の門』となると、とてもあんなもんじゃないですゾ」
 堰を切ったように、観客からも評論家からも総スカンを喰らった形となった。19日から予定されていた一般公開は、ニューヨーク以外の都市では、中止。そしてニューヨークでも、1週間でフィルムは引き上げられた。
 それからチミノは週7日、1日18時間編集室に籠ることに。友人のフランシス・コッポラやスティーヴン・スピルバーグのアドバイスも貰いながら、1時間以上尺を詰めた、2時間29分バージョンが、翌81年の春に仕上がった。
 それを4月に公開したものの、焼け石に水。2週間で打ち切りとなった。再編集まで含めて、最終的な製作費は4,400万㌦まで膨らんだが、上がった収益は、アメリカ全体で348万4,331㌦。製作費の10分の1にも達しなかった。
 タイトルに引っ掛けて、“チミノズ・ゲート”などとも言われたこの災禍によって、ユナイテッド・アーティスツは経営危機に陥る。そして遂には買収され、60年以上に及ぶその歴史に、ピリオドを打つこととなる。

 それにしても本作は、なぜここまで悪罵されるに至ったのだろうか?一つは、当時のハリウッドを席捲していた、コッポラやスピルバーグ、ジョージ・ルーカスらの贅沢な映画作り=ブロックバスターに疑問や不満を感じていた層にとって、巨額を投じたチミノ作品が、格好の餌食とされてしまったこと。
 いま一つは、「大牧場経営者vs小牧場経営者」という「ジョンソン郡戦争」の史実を、チミノが、「移民vs大牧場主」という、“階級闘争”に改変したこと。貧しい移民が、支配階級の犠牲になっていく姿を描き、“アメリカン・ドリーム”の虚妄を暴いたことへの、反発があったと言われる。
 いずれにしろ、前作でオスカーを得て、ハリウッドの新たな帝王の有力候補に躍り出ていたチミノの名声は、地に墜ちた。80年代前半、『天国の門』以前から彼が準備を進めていた幾つかの企画は、雲散霧消。捲土重来を期して新たに取り組んだ企画に関しても、『天国の門』の二の舞を避けたい各製作会社の判断で、製作中に解雇されるケースが相次いだ。
 チミノに次いで、そのキャリアが大きく失速したのは、クリス・クリストファーソン。カントリー歌手として成功を収めた後、サム・ペキンパー作品やバーバラ・ストライサンドの相手役を務めた『スター誕生』(76)などで、A級作品の主役級となっていたのが、暗転した形となった。クリストファーソン自身は本作について、「私のベスト・アクティングだ」としているのだが。
 彼以外の主要出演者、イザベル・ユペールは「私自身はいい映画だと感じた」、クリストファー・ウォーケンは「私にとって最も充実した仕事のひとつ」としているように、俳優陣から否定的な声が出なかったのは、チミノにとっては、僅かな救いであったろう。
 チミノはその後、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(85)『シシリアン』(87)『逃亡者』(90)『心の指紋』(96)といった作品を監督するも、いずれも興行は不発。21世紀に入ってから手掛けたのは、「カンヌ国際映画祭」の60回記念として製作された、世界の著名監督34組によるオムニバス映画『それぞれのシネマ』(2007)の中の上映時間3分の一篇だけだった。
 『天国の門』は2012年8月30日、「ヴェネツィア映画祭」で、3時間36分のデジタル修復版が上映された。このバージョンは、チミノの立会いの下で完成したものだが、会場には大喝采が沸き起こったという。続いて上映された「ニューヨーク映画祭」でも、観客は総立ち。チミノは万雷の拍手を以て、迎えられた。
 32年前のニューヨークプレミアでは、「まずい!」と感じたチミノだったが、これらの機会に、当時とは真逆な観客の反応を目の辺りにして、ただ一言「不思議だ」と呟いたという。
 『天国の門』虐殺の口火を切った「ニューヨークタイムズ」紙も、ヴィンセント・キャンビーの後継者である、映画評論家のマノーラ・ダーギスが、初公開以来の評価が「誤り」だったと明言。名誉回復が行われた。
 日本初公開時=81年秋に、2時間29分版を「テアトル東京」の大スクリーンで鑑賞した私は、それから34年近く経った、2015年2月に、『天国の門』デジタル修復版の上映後トークに登壇することとなった。会場は「キネカ大森」。奇しくも「テアトル東京」と同じ映画会社が、運営する映画館だった。3時間半超の映画上映の後に、トークは何と2時間近くに及んだ。『天国の門』という作品、そしてマイケル・チミノという映画作家は、それほど語りしろがあるということに、相違ない。
 マイケル・チミノはその翌年、2016年7月2日に、自宅で逝去。77歳だった。■

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