唐突ながら皆様、この世の中、というか日本には、邦題と原題がまるっきし似ても似つかない洋画、ってやつが昔から山ほどありますよね。その中には『ランボー』のように、「いや、むしろ原題のFirst Bloodよりキャッチーで、逆に良くないですか!?」というお見事なものもある。で『ランボーII』からは原題もランボーになっちゃった、本家に評価されて逆輸入までされちゃった、という伝説的な名ネーミングもあります(という伝説自体が東宝東和の誇大宣伝であるとの説もあり)。

 First Bloodとは本来ボクシング用語で、殴り合ってる中での「最初の流血(を生じさせた一発)」を意味しました。それまで互角のパンチの応酬だったのが、一方が流血した瞬間から、流させた方がまずは優勢、流している方が劣勢、と、いちおう形勢が可視化されます。そこから転じて、今では「先制攻撃」を広く意味するようになりました。サッカーなどでも「日本がFirst Bloodを流させた」というのは「日本が先制ゴールをキメた」という意味です。ランボー1作目がこの原題だったのは、ランボーがトラウトマン大佐に「奴らから先に手を出してきた、俺じゃない。…奴らが先に手を出したんだ(They drew first blood, not me. They drew first blood.)」と、わざわざ2度リフレインして無線でチクるセリフがあるからです。ボクシング由来の慣用句としての本来の意味と、この映画で繰り広げられる、壮絶な準戦争状態での流血沙汰、というのをかけたWミーニングだったのですが、まぁ、そんな小難しいゴタクはいいので「ランボー」と一言でキメた方がよっぽどキャッチーだ、というのは、まったくもってして仰る通りですな。

 ただ、こういう成功事例ばかりでもございません。変な邦題も山ほどあります。映画の中身といちじるしく掛け離れていて、作品の魅力を全く伝えてない、または誤解を与えかねない、逆に興味が削がれる、という失敗事例だって、枚挙にいとまがありません(“沈黙”シリーズのように、ネタとしてこの路線で行き続けるんだよ!もう中身と乖離してたって構わねんだよ!誰も困んねーよ!と開き直ってるものは、あれはあれで、いっそ清々しくて好き)。

 さて、原題と似ても似つかない邦題の代表例として、わりかしよく名前のあがる映画が『愛と青春の旅だち』であるように思います(じゃないですか?)。

「この邦題はヒっドい…」ってものもいっぱいある中で、『愛と青春の旅だち』、これはまぁ、悪くない方でしょう。中身とタイトルが少なくとも一致している。っていうか一見一致しているように思える。でも「愛」、「青春」といったキーワードに引きずられ、この映画がラブストーリーであるかのような、極論すれば“錯覚”を、見る者に抱かせてしまうという嫌いが無くはない気もしています。

 いや、『愛と青春の旅だち』がラブストーリーって、それは錯覚ではなくて半分は正しいかもしれない。ジャンル映画としてはラブストーリーに分類するしかないでしょう。でも、この映画がラブストーリーのジャンル様式を借りて描こうとしているのは、単に一組の男女の恋愛模様という以上に、「格差社会からの脱出」というモチーフであるように、ワタクシはかねて感じておるのであります。

 原題は、An Officer and a Gentleman。直訳すれば「士官と紳士」ってタイトルなんですが、邦題と比べてこの原題、なんだかよく解らなくないですか?

 実はこれ、ある慣用句を略したものなので、この部分とだけいくら睨めっこしたところで、意味はさっぱり解らんのです。

 略された部分こそが重要でして、慣用句をフルで書くとConduct unbecoming an officer and a gentleman、「士官や紳士に相応しくない行為」となります。これ実は、慣用句と言うよりは法律用語と言った方が正確。しかも軍法用語。専門用語ですから一般の日本人にはピンとこなくて当然。なので日本では『愛と青春の旅だち』という全く違う甘〜いタイトルを付けるしかなかったのでしょう。この意味を解ってもらうためには長い説明が必要です。それを今回は試みてみようかと思います。長広舌、お正月休みにお付き合いいただけましたら幸いです。

 

■「士官と紳士」の意味とは?

 さて。アメリカ全軍共通の法律である「統一軍事裁判法」というものには、以下のような条項が存在します。

133条.士官や紳士に相応しくない行為(Conduct unbecoming an officer and a gentleman):
士官や紳士に相応しくない行為で有罪判決を受けたすべての士官・将校ならびに陸軍士官学校生徒、海軍兵学校生徒は、軍法会議の命令によって処罰される

 日本語ですと「士官」ってのは海軍の呼び方で、陸軍だと「将校」と呼び、言い分けていますが(「陸軍士官学校」と言う時だけは陸軍でも「士官」なのがややこしい)、英語では士官・将校どちらも「オフィサー」です。オフィサーってのは、一般企業で言う管理職ですな。一番下の少尉で、まぁ課長ぐらいだと思ってください。オフィサーの一番上の大佐なら本部長クラス(一般企業と対照するのはかなり無理がありますが)。つまり、課長以上の管理職に就いてる人は、人間としても立派な紳士でありなさいよ、それに反したら罰しますからね、という法律なのです。

 さて。「士官や紳士に相応しくない行為」という軍事法律用語があり、後ろ半分を略して「士官や紳士」という箇所だけをわざわざ抜き出して、この映画は原題タイトルに掲げている訳です。

 士官や紳士に相応しくない行動とは、一体?

 逆に相応しい行動とは何か?

 その両方を、同時に、言外に、このタイトルは問うているのですリチャード・ギア演じる主人公の行動は、あるいはその人柄は、士官・紳士として相応しいのか?相応しくないのか?どっちなんでしょうか?

 映画冒頭では、もう明らかに、相応しくないんですね。少年の彼は母親に死なれ、水兵の父親を頼って、世界最大の海軍基地の町として有名な米本土のノーフォークから、フィリピンにあった海外最大の米海軍基地オロンガポ(現在はフィリピンに返還されている)へとやって来ます。これ、脚本のト書きに明記されている情報。基地から基地へ。彼は、基地だけで育った子供で、基地の外を知らない。

 父親は露骨に面倒臭がって、家に連れ込んでいた娼婦2人を母親代わりとして初対面の息子にあてがいます。と言うか娼婦2人に息子を押し付けます(父親は昼間っから女2人相手に何してたんでしょうねえ…)。以降、何年か十何年か、実父に育児放棄され、父が買ってきた外国人娼婦たちを母親代わりに基地の町で成長し、喧嘩も場数を踏んでめっぽう強くなり、終いには二の腕に鷲のスジ彫りを入れてヨタってる、紳士とはおよそ真逆の、ヤンチャな一匹のドチンピラに、ギア様は育っちゃった訳ですな。

 彼は、そんな身の上がイヤでイヤで堪らない。早く社会的ステータスのある人間になりた〜い!だったら軍隊で決まりだ!海軍士官だ!! 彼は基地外のことは何も知らないので、思いつく紳士っぽい職業といったら、それしかない。

 彼のようなお悩みの持ち主には、軍隊で正解です。階級社会そのものの軍隊ほど、自分の社会的ランクがハッキリする場所はこの世にありません。一般企業だと、社長と言ってもどの程度の会社の経営者か判りませんし、ただの平社員でも超一流企業のペーペーなら世間的に聞こえが良いということだってある。肩書きだけじゃよく分からない。しかし海軍で少尉と言えば、どの程度の社会的な偉さなのかは一発で分かるのです。さらに米軍は、階級が給与等級と連動していて、その給与等級と勤続年数とで収入が決まるという明朗会計っぷり。自分の社会的地位にコンプレックスを抱いているギア様には、まさにうってつけの職業なのです。だから彼は海軍飛行士官養成学校に入ることを決意します。「入れ墨した士官がいるか?」と親父の嘲笑を背中に浴びながら。そこからこの映画は始まっていきます。

 この学校を卒業すれば、彼は国家から何千万ドルもするジェット戦闘機を1機委ねられる立場になれるのです。仕事で何千万ドルもの責任を任される漢なんて、世間にどれほどいるでしょう?ワタクシはせいぜい数万円ぐらいなので情けなくなりますが…それほどの社会的地位に就ける時こそ、彼が格差社会でのし上がり、晴れて「士官や紳士に相応しい」漢になれる瞬間なのです。

 実は脚本を読むと、最終稿までは、父子再会の場面が盛り込まれていたことが判ります。シアトルの安ホテルで娼婦を抱き疲れ、昼日中まで高いびきの親父のところに、突然ギア様は転がり込んで来るんです。びっくりさせようとして。カレッジを卒業したことを報告しに来たのです。親父は「最後に聞いた時はブラジルかどっかで建築の仕事してるって言ってただろ?」と驚く。そして「言ってくれりゃ卒業式行ったのによ。やい!(と寝てる娼婦を起こし)、おめぇの友達の巨乳グロリアも呼べ。今夜は息子のお祝いだ!!」とはしゃぎ出して、その晩、一台のベッドの右半分で親父とさっきの娼婦が、左半分ではギア様と巨乳グロリアが、乱痴気騒ぎを繰り広げる。ギア様もノリノリです。


 以上は完成した映画には存在しないシークェンス。撮影されなかったのかカットされたのか…とにかく、そういう父子なんですね。この翌朝が、親父がトイレで嘔吐しゲロをぬぐいながら「昨日の夜はすげー面白かったな」なんて言っているシーンにつながるのです。前夜の乱痴気騒ぎのシークェンスがごっそりカットされているので、映画ではギア様が酔っぱらいの親父を軽蔑し恨んでいるようにも見えるのですが、実は同類。同レベルの仲良しDQN父子なんです。親父個人を恨んでいるというよりは、こういう激安にチープな日々とチープなオレという存在に、ギア様はほとほと嫌気がさしているだけなのです。1日も早く「士官や紳士に相応しい」漢になって、こんな人生からは這い上がりたい!

 さて。で、入った養成学校で13週間にわたりシゴかれる訳ですが、ギア様は「絶対に諦めません!」と鬼軍曹に言って、必死でシゴキに耐えます。格差社会からの脱出ということが彼の強烈なモチベーションになっているからですね。「カッコいいからジェット戦闘機の飛行士になりたい」とか「うちは軍人の家系だから仕方なく」といった中流出身者的なヌルい理由とは、彼の場合は切迫度が違います。

 でも、一晩でドチンピラが紳士にはなれません。最初のうちは地金が出ちゃいます。養成学校で一人闇市のような商売を始め、仲間から小ゼニをセコく巻き上げようとする。こんな紳士なんていませんわ。そのバイトが鬼軍曹にバレて、休暇返上でさらに徹底的にシゴき抜かれる。

 ちなみにその“鬼軍曹”。正しくは「ドリル・サージェント」と言います。直訳すれば「訓練軍曹」。よく戦争映画に出てきますよね。映画の中の海兵隊の鬼軍曹と言えば、『ハートブレイク・リッジ』に『フルメタル・ジャケット』…馴染み深い顔が何人も思い浮かびますが、本作に登場するフォーリー一等軍曹もそうで、ルイス・ゴセット・Jrは82年度アカデミー助演男優賞に輝く名演を見せました。

 このシゴキに耐えながら、13週間かけて、ギア様は士官や紳士に相応しい行動とそうでない行動との区別を、だんだんとつけていきます。ドチンピラが紳士になるのに何故シゴキが必要か?別にテーブルマナーや敬語の使い方をスパルタ式に教わる訳でもありませんから、少々疑問ですが、だけどまぁ、やっぱり必要なんでしょうな。

 正しいテーブルマナーを身に付けたら紳士になれます、と言われたところで、そんなのは信じられない。完璧なテーブルマナーを披露した途端に皆に持ち上げられて「ヨッ!紳士!!」と周囲から認定されても、誰よりドチンピラ自身が全然納得できないでしょう。その点、シゴキ13週間ですからね!脱落率もハンパない。間違いなく人生最大のハードルでしょう。それをクリアすればオレも紳士だ、と信じ、耐えて耐えて耐え抜けば、それは13週後に「今日からオレも紳士だ!」と自分で信じられるというものでしょう。オレはどんな誘惑にも惑わされず、己の弱さを克服できるんだ!という絶対の自信、自分という人間への強い信頼感が、13週目まで残った生徒には必ず身に付くはずです。その境地にまで達した人間が「紳士的に生きよう」、「士官らしく振る舞おう」と思えば、たちどころにそうすることも容易いはず。というわけで、ギア様がステータスを獲得し、格差社会でのし上がり、自分で自分を紳士だと信じ行動できる強い意志力を備えた人間として、第2の人生を再スタートさせるためには、この13週間はどうしても必要なイニシエーションなのです。
 
 本作で描かれるのは、主にこのイニシエーションの過程。ラブシーンよりもイニシエーションシーンの方が比重が圧倒的に大きいのです。ワタクシがこの映画を、ラブストーリーではなく“格差社会からの脱出ムービー”と認定する理由がこれです。
 
 鬼軍曹は、海兵隊の一等軍曹。ギア様の親父は、海軍の一等兵曹。1階級差で、どちらも士官より下(「下士官」と言います)の、一般企業であれば係長クラスですな。給与等級も1ランク差と、ほとんど同じ階級(軍隊でその差はデカいですが)。この2人が異口同音に、ギア様に向かって言い放ちます。「オレもお前も、士官なんて柄じゃないんだ。人種が違うんだ」と。父親は本気でそう思っている。ルイス・ゴセット・Jrは…本気ではなく、そう言って生徒たちにハッパをかけているんだろうとワタクシは感じますが、とにかくそういう思想なんです。士官・紳士になるには生まれ育ちが重要で、それが無い奴は一生なれないんだ、と言うのです。でも、そうではない!努力すればなれるんだ!這い上がれるんだ!ということを、この映画は描いています。もっとも良い意味において、実にアメリカ的なテーマを描いている映画のように思えるのです。
 
 13週後、ギア様が晴れてここを卒業したあかつきには、その瞬間から、父親でさえ自分に向かっては敬礼しなければならなくなります。もちろん鬼軍曹も敬礼しなければならない。卒業式閉会後、新任少尉たちは海軍の伝統にのっとって、1ドル硬貨を誰か“目下”の軍人に手渡し、彼から最初の敬礼を受けることになります。この学校の卒業生=新任少尉=紳士たちの場合、最初に敬礼を受けるのは“目下”の鬼軍曹からとなるでしょう。
 
 閉会式の後、鬼軍曹は独り、ポケットに数十ドル分たまったジャラ銭でビールでも呑みに行くかもしれない。彼にバーでビールを呑む習慣があることは、劇中、台詞で出てきますから。ただし、特に思い出に残る生徒から受け取った1ドル硬貨だけは、そんな風には使わない。記念にとっておくでしょう。そのために、その生徒から渡されたコインだけは、他と混じってしまわないよう、きっと、注意して見てなければ気づかないくらいのさりげなさで、反対のポケットに入れるはずです。
 

■余談ながら、海軍と海兵隊は違います!

 ここらでちょっと余談を。これ、アメリカ映画を見る上で是非これからも覚えておいて欲しいポイントです。つまり、海軍と海兵隊、この2つは違うってこと。ギア様は海軍で、ルイス・ゴセット・Jrは海兵隊です。別組織なのです
 
 
 海兵隊ってのは、通称殴り込み部隊」などとも言われていて、一朝有事が起きた時、最初に現地に乗り込んで行く専門の軍隊です。陸軍さんなどは海兵隊の後から押っ取り刀で来ます。ゆえに①、陸軍の兵隊さんより海兵隊の海兵さんの方が、気性が荒いイメージがある(トムクルの『アウトロー』参照)。
 
 また、ゆえに②、海兵隊は戦車っぽいのに空母っぽいのに戦闘機っぽいのと、陸・海・空の装備を一通り備えており、単独でも戦争ができちゃいます。海兵隊以外の、たとえば陸・海・空軍という縦割り(ってか完全に別組織)の3軍で統合作戦をやる場合、指揮系統が混乱しがちとか面倒くさい問題があって、準備や調整があれこれ必要なのですが、海兵隊は1人陸・海・空3役ですから準備も調整も不要。「とりあえずこっちの準備ができるまで、お前が先に現地入りして、当面は1人で踏ん張り、なんだったら一暴れしといてくれ」ということで先発を任されるのです。

 あと、大使館の警備(『ボーン・アイデンティティー』参照)やホワイトハウスの警備(『ホワイトハウス・ダウン』参照)なんかも海兵隊の任務ですな。あと大統領専用機は空軍のご存知「エアフォース1」ですが、大統領専用ヘリは海兵隊の「マリーン1」です(これも『ホワイトハウス・ダウン』参照)。

 一方、海軍とは、言うまでもなく船乗りさんのこと。空母に飛行機を載せて海の上で離発着させたりもしてますから、飛行機を操縦する仕事の人も海軍にはおりまして、「飛行士(アビエーター)」と呼ばれており、厳密には「パイロット」とは呼ばれません海でPilotと言うと「水先案内人」のことも意味していて紛らわしいからです。ギア様がなりたがっているのが、この海軍アビエーター。さらに、ご存知トップガンって所では海軍アビエーターのエースたちを養成しておりまして、決して空軍パイロットではありません。トムクル演じるマーベリックも、もちろん空軍パイロットではなく海軍アビエーターでありました。腕が良ければギア様も将来トップガンに入れるでしょう。
 
 とはいえやはり、海兵隊と海軍とは歴史的に見ても関係浅からぬものがありまして、その昔、海戦が接舷斬り込み戦だった帆船時代には(パイレーツ・オブ・カリビアン』参照)、海兵隊は海軍さんの戦列艦に乗り組み、敵艦に接舷と同時に、索具(ロープ)に掴まるなどしてピョーンと向こう側に跳び移り、チャンバラを繰り広げる役目の人たちのことでした。

 あと、海軍の港湾基地の警備なんかも任されております。海軍艦艇の艦内警備も海兵隊のお仕事です(沈黙の戦艦参照)。その昔は長く苛酷な航海の中で水兵さん(海軍)の叛乱っていう事件がよく起きましたから(戦艦バウンティ参照)、それを防ぐため艦内警備を海兵隊が任されていた、その頃の名残りですな。げに、海軍と海兵隊は繋がりが深いのです。

 だからこの映画では、海軍兵学校に海兵隊の教官がいて、海軍の士官候補生をシゴいてるのですが、別におかしな話ではないのです。あと懐かしいところだと、軍法会議法廷サスペンス『ア・フュー・グッドメン』で、海軍の弁護士が海兵隊員の容疑者を弁護したりもしてましたね。海軍と海兵隊は、別組織とはいえ繋がりは大変深いのです。という、以上、海軍と海兵隊は違う、という一席。お粗末様でございました。
 

ここらでヒロインの話を始めましょう。

 都市生活を謳歌する都会人。自然が大好きな田舎者。これほど幸福な人はいません。そして、この組み合わせがズレてしまうほど不幸なことはない。都会が好きなのに辺鄙な片田舎に生まれちゃった、とか、田舎暮らしに憧れているのにゴミゴミした都会で生活している、とかです。なんたる不幸!
 
 個人的にワタクシの場合は完全に後者タイプでして、東京のド真ん中で働いておりますが、もう、イヤでイヤで堪らない。昔『アドベンチャー・ファミリー』って映画がありました。あれには激しく同意しましたねぇ。冒頭、LAに住む一家の父ちゃんが、娘が公害で喘息にかかり、「こんな所は人間の暮らす所じゃねえ!」と呪うように叫んで、熊とかが出没するロッキー山脈の山小屋に引っ越し、挙げ句の果てには熊ちゃんとお友達になっちゃうのですが、都会のボーイスカウト団員だったワタクシ、ゴールデン洋画劇場で観ていて、これには大いに憧れたもんです。ヘヴィーデューティーな父ちゃんの服装がまたカッコ良かったのなんの!あのスタイルで何でもDIYしちゃうんですから、憧れずにはいられない。ま、実際の田舎暮らしはそんなに甘っちょろいもんじゃなく、『おおかみこどもの雨と雪』をさらに過酷にしたようなものなんでしょうけどね。でも世の中には、これとは真逆の立場・考え方の人というのもいるでしょう。つまり、ロッキーの山奥とまでいかずとも、田舎に今現在は住んでおり、心底、その田舎にウンザリし果てている人たちのことです。

 デブラ・ウィンガー演じるヒロインがそうです。

 その上、彼女が生まれ育った町は、寂れた工場が唯一の産業としてあるだけの、鄙びた田舎の貧しい港町。彼女も貧しい家庭に育っている。母親はその唯一の工場の女工で、彼女自身もそう。友達もそう。みんなそう。職業選択の自由が事実上かぎりなく無いに等しい町なのです。この環境から脱出する方法で、いちばんの正攻法は勉強することでしょうな。勉強して“良い大学”なるものに入り、いわゆる“良い企業”とやらに就職して、自ら中流階級へのチケットをゲットすることです。そうすれば、望んだ土地で、儲かる職業や好きな職業に就ける…かもしれない。少なくともチャンスは増える。でも、そんな社会の残酷な仕組みに子供の頃に気付くことができなかったとしても、それはその子の罪ではないでしょう。小学生の頃には遊ぶ。それのどこが悪いのか!ハイスクールで色気付き、異性とキャッキャ戯れる。それのどこが悪いのか!しかしそれをやっていると、ハイスクールを卒業した後、この町から逃れるすべはなくなる。人生そこで決まってしまう。きっとデブラ・ウィンガーや彼女の女友達はそうだったのでしょう。
 
 地元が好きならそれでも良い。そうでないなら、彼女たちにとって良くはないでしょう。勢いで地元を飛び出し、裸一貫都会に出てみたところで、かなりの幸運に恵まれない限り、そう簡単にリッチにはなれない。都会で憧れのライフスタイルを築くカネもない。ぜんぜん解決にならない。
 
 
 しかしこの町の女子には、裏技的にもう一つだけ、この町を出て中流階級に昇格できる、一発逆転の奥の手があります。それが、海軍兵学校の生徒と結婚すること。彼らは卒業すれば少尉に任官します。いきなり課長クラスです。しかもアメリカ海軍という、これ以上ない超“大企業”、安定的な職場の課長職です。不況だろうが何だろうが潰れることはありません(戦争が起きたら旦那が“労災”で死ぬことはありそうですが…)。その妻となり、夫にくっついて世界中の米軍基地にある、国家から支給された官舎に住み、主婦として暮らす。古風かもしれませんが、そうなればもう立派な中流階級です。

 だから、この町の娘たちは、工場で働きながら、全員が同じ夢を見ている。付き合っている飛行士官養成学校の生徒が、卒業式を終えたその足で、真っ白のドレスユニフォームに、金のラインが1本入った真新しい少尉の階級章を付けた格好のまま、工場まで迎えに来てくれる。というか救い出しに来てくれる(男の方が白い“ドレス”ってのが面白い)。彼にお姫様抱っこされて、仲間の女子工員たちが羨ましそうに見守る中を、開け放たれた工場の扉から広大な外の世界に連れ出してもらうのです。薄暗い工場内から見ても、陽光があまりに燦々と眩しく輝いていて、外の景色はよくわからない。不確か。でも、夢と希望に満ちていることは確かです。待っているのは世界のどこの海軍基地での新婚生活だろう?アメリカ本土のどこかか?ハワイのパールハーバーか?あるいはヨコスカか?エキゾチックでエキサイティングな毎日がもうすぐ始まるのです。薄暗い工場の扉をお姫様抱っこで出て行く時、それは、彼女にとっても、そして今、士官となり紳士となり、さらに生涯の伴侶まで得た彼にとっても、まさに、愛と青春の旅だちの瞬間です。 
 
 男たちは13週間、地獄の努力をして“旅だち”をする。では女たちは?中には、とにかくデキちゃった結婚でも何でもすりゃ妊娠したモン勝ちだ、と思っているフシの娘もいて、どうにかして前途有望な生徒の子種をいただこうと、男の隙をうかがっている。もう、ゴムに針で穴を開けるといったような感じの話ですなぁ…恐い恐い。でも、そういう魂胆で最後に彼の愛を勝ち取れるの?という話じゃないですか。

 ヒロインのデブラ・ウィンガーは、それをしない。ひたむきにギア様と恋愛するのです。ひたむきに恋愛しようが、腹にイチモツ閨房術を駆使して籠絡しようが、夜、ベッドの中でやることは同じなんですが、それとこれとは話が全然違う、とデブラ・ウィンガーは考えている。やることは同じなんだから、こっそり策略をめぐらしてメオトになってやろうか、という悪女な気持ちも無いではないが、それを押し殺して、裏の無い、清く正しい肉体関係(?)を続けるのです。
 
 
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 この映画が日本で公開されたのは1982年。31年前の今と同じ師走でした。60年代の所得倍増、高度経済成長を達成して就いた“世界第2の経済大国”の座を、すっかり自分の指定席だと思い込むことにも慣れた日本国民の間では、この時代もまだまだ、70年代から続く“一億総中流”というのん気な意識が生きていました。日本人の誰もが横並びに「自分は中流階級である」と自己規定していた、まぁ黄金時代と言っていい時代です。もちろん実際には当時だって貧しい方もいたでしょうが、個々の世帯ではなく国民総体の気分として、確かに我々は中流意識を抱いていた。

 1982年。時はまさに日米貿易摩擦の真っ最中。アメリカをも経済的におびやかした我々は、この後一時、プラザ合意により円高不況というのに見舞われはしますがさしたるダメージにもならず、その後すぐに、いよいよバブルへと突入していくのです。82年は、21世紀の日本に長い長い不況が待ってようなど、20年が失われようなど、“世界第2の経済大国”の座から追い落とされようなど、まさか経済不安が永遠に消えない未来が到来しようなど、1つたりとも誰も想像できない、前途に経済的な不安など無い(ように多くの国民が思い込んでいた)時代、だったのです。

 当時の日本人の大半は、ギア様の「いつかのし上がってやる」という切迫したハングリー精神にも、デブラ・ウィンガーの貧困と閉塞感への切実なあせりにも共感できず、この映画を、ただのロマンティックなラブストーリーとしか受け止められない、今からすれば実に羨ましい時代に生きていました。

 しかし、こんにち、あれから31度目の年末を迎えた日本。長く続いた不況で「自分は中流だ」という意識をかつて一度も持ったことがなく、いつか中流になれるという将来の希望も持てず、いま中流でも一生そのままでいられる保証も無く、アベノミクスの好況感も他人事、消費増税困ったなぁ…そんな日本の、特に経済が疲弊しきった地方で探せば、そこには和製ギア様や和製デブラ・ウィンガーが、おそらく大勢いるはずなのです。

 もし、あなたが若者で、この映画を一度も観たことがないのなら、むしろ80年代にリアルタイムで観た世代よりも、この映画が訴えている本来のメッセージをより正しく受け取ることができるのではないでしょうか。もしあなたが80年代にリアルタイムでこの映画を観た世代なら、いま改めて見直すことで、当時とは違った受け止め方をできることでしょう。欲を言えば、経済的に不安がある方が、この映画の鑑賞者としては望ましい。この映画は、やっぱりラブストーリーなんかではない。この映画は、現状貧しき人たちに捧げられた、最高のアンセムなのです!皆さん、来年も頑張りましょう!かく言うオレもな!!
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