「読んでから見るか 見てから読むか」

 50代以上ならば、ほとんどの方が記憶しているであろう、有名なキャッチコピーである。

 1970年代後半より、日本映画界に旋風を巻き起こした、「角川映画」の第2弾である、『人間の証明』(1977)公開に当たって、原作(森村誠一の長編推理小説)と映画両方を強力にプッシュする惹句として、テレビやラジオのCMなどで、当時大々的に流された。出版界から映画界に殴り込みを掛けた、プロデューサーの角川春樹お得意の“メディアミックス”戦略の一環だが、結果的に『人間の証明』は、小説も映画も大当たり!このキャッチコピー自体、流行語として巷を大いに席捲した。

 このコピーが生み出される以前から、原作のある映画を鑑賞する場合に、「読んでから見るか 見てから読むか」は、映画ファンにとって、常に悩みのタネになってきたことだと言える。原作がベストセラーだったり文学賞を受賞しているなど、大きな評判になっている場合は、特にそうであろう。

 第2次世界大戦下を舞台に、ドイツ空挺部隊によるイギリスのチャーチル首相誘拐作戦を描いた、本作『鷲は舞いおりた』の原作(日本での出版タイトルは、『鷲は舞い降りた』)は、イギリスを代表する冒険小説家ジャック・ヒギンズの代表作。1975年7月に英米で出版されるや、半年以上に渡ってベストセラー入りを続けた。

日本でも翌76年、翻訳されて出版。「日本冒険小説協会」のあの内藤陳会長が激賞したのをはじめ、後に専門誌の読者投票でも上位に食い込むなど、長年に渡って非常に人気の高い作品となっている。

 これほど話題になり、尚且つ評価の高い作品故に、出版前のゲラ段階から“映画化”の申込みが殺到したというのも、頷ける。結局イギリスのプロダクション「ITC」の製作により、『荒野の七人』(60)『大脱走』(63)などでお馴染みの、アクション映画の名匠ジョン・スタージェスがメガフォンを取っての“映画化”となった。主要キャストは、マイケル・ケイン、ドナルド・サザーランド、ロバート・デュバルといった、当時脂ののった40代の男優たちで、渋いながらも豪華な顔触れ。製作も早々に進み、原作刊行から2年足らずの77年春、英米で公開されて、ヒットを記録している。

 そして本作の日本公開は、同年の8月。件の『人間の証明』の公開には2カ月ほど先立つが、当時まさに、「読んでから見るか 見てから読むか」のホットな案件だったと言って、差し支えないだろう。

 それから42年の歳月が流れた2019年の夏、これから「ザ・シネマ」で本作を初めて鑑賞しようという方には、私は躊躇なく言いたい。「『鷲は舞いおりた』は、読んでから見るな!見てから読め!!」である。原作本である「鷲は舞い降りた」が、「早川書房」による“文庫版”か“電子書籍版”で今でも入手が容易な状態であるからこそ、敢えて「見てから読む」ことを強く推奨する。

ではその理由を書き連ねるためにも、ここで映画のストーリーを紹介しよう。

 1943年9月、ドイツ軍は、イタリアの山中に監禁されていたムッソリーニの救出作戦を決行!見事に成功し、気を良くしたヒトラー総統は、新たなミッションを下した。

 それはナチスドイツにとって最大の敵の1人である、イギリスのチャーチル首相の誘拐作戦。実現不可能と思われたが、軍情報局のラードル大佐(演;ロバート・デュバル)の元にスパイから、イギリスの地方であるスタドリ―村で、チャーチルが極秘に静養するとの情報がもたらされ、作戦が現実味を帯び始める。

 ラードルは、IRA=アイルランド共和国軍の活動家として反イギリス闘争を行い、現在はベルリンの大学で教鞭を取るリーアム・デブリン(演;ドナルド・サザーランド)を、現地に先乗り潜入する工作員にスカウト。しかしこの作戦に乗り気でない、上官のカナリス提督によって、作戦は中止の憂き目となる。

 ところが、捨てる神あれば拾う神あり。と言うよりは、拾う“悪魔”が居た。チャーチル誘拐作戦は、ゲシュタポ=国家秘密警察のヒムラー長官によって、極秘裡に復活!ヒムラーは、ヒトラー総統の署名が入った作戦実行命令書をラードルに渡し、全権を委任した。

 ラードルが作戦の実行部隊として白羽の矢を立てたのは、数々の武勲を持つシュタイナー中佐(演;マイケル・ケイン)が率いる空挺部隊。英雄として尊敬を集めていたシュタイナーだったが、ゲシュタポの残虐行為からユダヤ人の少女を救おうとしたことが“反逆行為”と見なされ、部下たちと共に自殺的な特攻任務に就かされていた。

 ラードルが持ち掛けた誘拐作戦に対して当初懐疑的だったシュタイナー。しかし説得を受け入れて、部下たちと共に懲罰を解かれ、全員が元の階級に戻される。そしてシュタイナーの部隊は、勇躍作戦に挑むこととなった。

 チャーチルがスタドリ―村に静養に訪れる日、シュタイナーたちは落下傘にてその近くの海岸に上陸。連合国の一員であるポーランド義勇軍を装い、先乗りしたデブリンらの手引きによって、スタドリ―村への潜入を果すのだが…。

 映画『鷲は舞いおりた』は、今は失われてしまったジャンルとも言える “戦争娯楽アクション”“男性アクション”という範疇に於いて、上々の出来栄えの作品と言える。ナチスが現実に成功させた、ムッソリーニの救出作戦をドキュメンタリー映像で紹介するオープニングから、チャーチルの誘拐作戦という虚構へと踏み込んでいくまでのテンポの良さには、一気に引き込まれる。

俳優陣では、やはりマイケル・ケインのシュタイナー中佐が、格好良い。そしてロバート・デュバルが演じる、隻眼隻腕のラードル大佐の風格が、素晴らしい。冷酷無比なゲシュタポの長ヒムラーを、まるで『007』の“ブロフェルド”のように無表情で演じたドナルド・プレゼンスにも、唸らされる。

 ミスキャストとの指摘も散見されるドナルド・サザーランドのデブリンに関しては、IRAの戦士という役どころからも、先にオファーされていたと言われる、リチャード・ハリスに演じて欲しかった気がしなくもないが…。

 監督のジョン・スタージェスが特に得意としてきたジャンルは、先に挙げた『荒野の七人』をはじめ、『OK牧場の決斗』(57)『ガンヒルの決斗』(59)『墓石と決闘』(67)などの“西部劇”。本作はドイツ軍人を主人公にした“戦争映画”ながら、登場人物たちの心意気や振舞いに、“西部劇”的な興趣を多分に盛り込んでいる。デブリンが酒場でシュタイナーの部下たちに絡んだ際、窓ガラスを破って表に放り出されるシーンなど、正に端的なそれと言える。

 1960年代末より長らく、「スランプ」と言われ続けたスタージェス。結果的に“遺作”となった本作で、「これが最後」と得意技を生かして本領を発揮したように、今となっては思えてくる。

 物語の後半、村人たちに正体がバレたシュタイナーたちは、駐留していたアメリカ軍の部隊と一戦を交えることとなる。死を覚悟した部下たちによって脱出させられたシュタイナーは、チャーチルの命を狙って、独り敵陣深くに忍び込んでいくが…。

 公開当時「戦争映画の快作」「巨匠スタージェス復活!」などという声も上がった本作だが、それは主に、原作を読まぬまま映画を鑑賞した者たちからの賞賛であった。実は原作を高く評価していた識者たちからは、本作は概して評判が悪い。「箸にも棒にもかからない駄作」などと、これ以上にない酷評までされている。

 作戦の発端からシュタイナーがチャーチルに対峙するクライマックスまで、ほぼ原作に忠実な展開である“映画版”なのに、なぜこんな評価となったのであろうか?一つは、数百ページに及ぶ長編小説を、2時間強の映画にするに当たって、どうしても生じてしまうダイジェスト感であろうか。これは如何ともし難いことにも思えるが、スタドリ―村に先に潜入したデブリンが、村の娘と恋に落ちたことが原因となって、ある村人にその正体を見破られるくだりなど、「かなり雑」に省略されている部分も、少なくない。

 また各登場人物に関して、原作との相違で大きく気に掛かる部分もある。父はドイツ陸軍少将だが、母はアメリカ人という出自のシュタイナー、戦闘が原因で隻眼隻腕となり、自らの余命が幾ばくも無いことを知るラードルをはじめ、主役から脇役まで、その人物の行動原理になっている設定が、きれいさっぱり取り払われているのである。結果的に主人公たちが、ヒトラーやヒムラーをまるで信用していないにも拘わらず、チャーチル誘拐作戦にのめり込んでいく背景が、些かボヤけてしまっている。

 先に「ほぼ原作に忠実な展開」と書いたが、実は物語の幕開けは、全く違っている。原作冒頭は現代に始まり、作者のジャック・ヒギンズ本人が登場。彼は別件の調査に訪れたスタドリ村の教会墓地にて、隠匿されていた墓石を発見する。そこには、「1943年11月6日に戦死せるクルト・シュタイナ中佐とドイツ落下傘部隊員13名、ここに眠る」と刻まれていた。このことがきっかけとなって、ヒギンズが秘められた歴史を掘り起こして執筆したのが、「鷲は舞い降りた」という設定なのである。

 このオープニングがあってこそ、「鷲は舞い降りた」は、伝奇ロマンの香りさえ漂わせる、冒険小説の傑作になったとも言える。

 作者のヒギンズにとっても、「鷲は舞い降りた」は特別に思い入れのある作品なのであろう。後に登場人物たちのその後を詳しく補完した「鷲は舞い降りた〔完全版〕」が刊行され、更には91年、シュタイナーとデブリンが再び登場して新たなミッションに挑む続編、「鷲は飛び立った」をリリースしている。

 このような原作の“映画化”であるが故に、もしも原作を先に読んでから映画を観ると、興を削がれる部分や物足りない部分が、否が応にも目に付くこととなる。しかしその逆に、映画を観た後に原作を読むと、チャーチル誘拐作戦のオペレーションや登場人物の心理や行動原理など、映画では省略されてしまって、語り切れていない部分を、良い意味で補完できるわけである。

だからこそ、私は断言する!『鷲は舞いおりた』は、「見てから読む」べき作品であると。■

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