映画ファンには言わずと知れたカルトな西部劇である。’54年の劇場公開時、アメリカでは多くの批評家によって失敗作とみなされたが、しかしフランスではフランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダール、ジャン=ピエール・メルヴィルらの映像作家に称賛され、’70年代に入るとウーマンリブの視点からも再評価されるようになり、今では『理由なき反抗』(’55)と並んでニコラス・レイ監督の代表作とされている。

舞台はアリゾナ州の小さな田舎町。ギターを担いだ流れ者ジョニー・ギター(スターリング・ヘイドン)の到着するところから物語は始まる。町はずれの酒場へ足を踏み入れたジョニーを待っていたのは、鉄火肌で強靭な意思を持つ女性経営者ヴィエナ(ジョーン・クロフォード)。鉄道開発が行われることを見越して、この荒れ果てた土地を手に入れたヴィエナは、かつてジョニー・ローガンの名前で世間に恐れられた凄腕ガンマンであり、自らの恋人でもあったジョニーを用心棒として雇ったのである。

しかし、よそ者の流入によって自分たちの既得権益が奪われることを恐れた町の権力者たちは鉄道開発に猛反対し、駅の建設を支持するヴィエナを目の敵にして町から追い出そうとしていた。その急先鋒に立つのが女性銀行家エマ・スモール(マーセデス・マッケンブリッジ)だ。しかし、エマには他にもヴィエナを恨む理由があった。この近辺を縄張りにする無法者集団のリーダー、ダンシング・キッド(スコット・ブレイディ)である。若くてハンサムなダシング・キッドに秘かな恋心を抱くエマだが、しかし彼は女性的な魅力の乏しいエマになど目もくれず、美しく誇り高い熟女ヴィエナにゾッコンだ。可愛さ余って憎さ百倍。ヴィエナとダンシング・キッドを善良な市民の敵として糾弾するエマは、町の人々を煽動して彼らを葬り去ることに異常な執念を燃やしていた。

ジョニーの到着早々、ヴィエナの酒場へなだれ込んできたエマ率いる町の自警団。彼らは駅馬車強盗事件の犯人をダンシング・キッド一味だと決めつけ、その共犯を疑われたヴィエナも24時間以内に町から出ていくよう警告される。もちろん、ヴィエナにはそんな命令など従う義理はない。ところが、濡れ衣を着せられたダンシング・キッドたちは、ならば本当にやっちまおうじゃないか!とばかりに銀行強盗を決行。しかも運悪く、その場にヴィエナも居合わせてしまった。つまり、敵に魔女狩りの口実を与えてしまったのだ。かくして追われる身となったヴィエナ。逃げも隠れもするつもりなどない彼女は、自分の城である酒場にて怒り狂った自警団を待ち受けるのだったが…!?

 

マッカーシズム批判とフェミニズム

 メルヴィルは本作を「異形の映画」と呼んだそうだが、なるほど、確かにそうかもしれない。西部劇と言えば伝統的に男性映画に属するジャンルだが、本作はヒーローのヴィエナもヴィランのエマも女性。一般的に西部劇映画における女性は色添えのお飾りだったりするが、本作の色添えはむしろジョニーやダンシング・キッドといった男性陣だ。このジェンダーロールの逆転に加え、本作は善と悪の立場にも逆転現象が見られる。女を武器に成りあがってきた酒場経営者ヴィエナ、かつて大勢の人間を殺した拳銃狂いのジョニー、犯罪行為を重ねる無法者ダンシング・キッドなど、本作において観客の同情を呼ぶ登場人物たちは、従来のハリウッド西部劇であれば間違いなく悪人として描かれる側だったはずだ。反対に、自分たちの町を守ろうとするエマや自警団は、本来ならば善の側であって然るべきなのだが、しかし本作では時代の変化と異質なものを頑なに拒む、排他的で利己的な偽善者集団として描かれている。

この本作の歪んだ善悪の対立構造に、当時のハリウッドで吹き荒れた赤狩りへの痛烈な風刺が込められていることは、ブラックリスト入りした脚本家たちに名義貸ししていたフィリップ・ヨーダンが脚本に携わっていることからも容易に想像がつくだろう。かつて共産党員だったニコラス・レイ監督自身も赤狩りのターゲットにされたが、当時の上司だった大富豪ハワード・ヒューズの政治力に守られた過去がある。モラルや良識を盾にして基本的人権を蹂躙し、異質な他者への憎悪を煽って自らの既得権益を死守しようとする町の権力者たちに、民主主義を守るという大義名分のもとで無実の共産主義者を迫害した赤狩りの恐怖を重ね合わせていることは明白。赤狩りの公聴会で密告証言を強要されたスターリング・ヘイドンをジョニー役に、映画界の保守タカ派として赤狩りに加担したワード・ボンドを町の権力者マッカイヴァーズ役に起用しているのも意図的だったはずだ。

また、『大砂塵』には後の『バッド・ガールズ』(‘94)や『クイック&デッド』(’95)などを遥かに先駆けたフェミニズム西部劇という側面もある。もちろん、それは単に強い女性を主人公にした映画だからというわけではない。金と力が全ての弱肉強食な男社会で、生きるために強くならざるを得なかった女性たちの物語だからだ。劇中で多くは語られないものの、かつてはしがない酒場女だったというヴィエナ。唯一の武器である女の性を利用して成り上がり、今や一国一城の主となったヴィエナだが、そんな彼女と5年ぶりに再会したジョニーは、かつて愛した女が傷物になってしまったと嘆く。なんで俺が帰ってくるのを待っていてくれなかったのかと。そればかりか、お前は男の誇りを傷つけたとまで言い放つ。ヴィエナが怒りまくるのも当然だろう。

男はいくらヤンチャしたって武勇伝として誇れるが、しかし女に良妻賢母たることが求められる男社会においては、一度でも道を踏み外した女は世間から白い目で見られる。そもそも、なぜ女だからという理由だけで、自分ばかりが耐え忍んで待たなくちゃいけないのか。どうして男は好き勝手に生きてもよくて女はダメなのか。無自覚に女を踏みつけにしてのさばっている男たちに反旗を翻し、彼らの一方的に押し付ける理想の女性像を破壊する。それこそがヴィエナという女性の強みだ。

一方の宿敵であるエマは、町の支配者層における唯一の女性として、周囲の男たちと対等に渡り合っていくため、ヴィエナとは反対に女性性を捨てざるを得なかった。なぜなら、ホモソーシャルな男社会で女性性は弱みとなりかねないからだ。それゆえに彼女はダンシング・キッドへの恋愛感情を押し殺さねばならず、その抑圧がやがて彼への憎しみへと変わり、自分と違って女性性を最大限に有効活用してきたヴィエナへ敵意を抱くこととなったのである。ある意味、男社会の犠牲者だと言えよう。

自らの性を武器に変えたヴィエナと、自らの性が弱点となったエマ。そんな2人の激しい女同士の戦いを、まるでイタリアンオペラのごとくエモーショナルに盛り上げつつ、本作は現実を見据えながら未来を切り拓いていこうとする聡明な女性の強さと、争いに明け暮れ生き急いでいく男たちの子供じみた愚かさを浮き彫りにしていく。エマの本当の弱点は女性という属性ではなく、むしろそれを封印して名誉男性になろうとしたことだろう。ウーマンリブ運動がまだ産声を上げる以前の時代にあって、本作の明確なフェミニズム的志向は先見の明だったように思う。

 

再起を賭けた大女優ジョーン・クロフォード

 ただ、原題が「Johnny Guitar」であることからもうかがい知れるように、もともと本作の実質的なヒーローはスターリング・ヘイドン演じるジョニーだったらしい。原作はジョーン・クロフォードの友人でもあるロイ・チャンスラーが、彼女をイメージして書き上げた小説で、クロフォード自身が映画化権を獲得してリパブリック・ピクチャーズに企画を持ち込んだ。かつてMGMとワーナーを渡り歩き、ハリウッドを代表する大女優となったクロフォード。しかし人気の低迷で’52年にワーナーとの契約を解消し、ランクの落ちるRKOで主演した『突然の恐怖』(‘52)こそオスカー候補になったものの、10年ぶりにMGMへ復帰した『Torch Song』(‘53・日本未公開)が批評的にも興行的にも大惨敗してしまった。そうした状況下にあって、恐らく彼女は本作にキャリアの復活を賭けていたのかもしれない。

監督は以前に企画段階でボツとなったクロフォード主演作のニコラス・レイを起用。オリジナル脚本は原作者チャンスラーが担当したものの、しかしクロフォードはその内容が不満だったらしく、ロケ地のアリゾナに旧知の脚本家フィリップ・ヨーダンを呼び寄せてリライトを指示する。というのも、ヴィエナの役割がジョニーの相手役になっていたからだ。ヨーダンの回想によると、彼女はクラーク・ゲイブルのようなヒーローを演じることを望んでおり、そのためにもジョニー・ギターではなくヴィエナが主人公でなくてはいけなかったのだ。クライマックスの一騎打ちも、本来はジョニーとエマが対決するはずだったものを、この段階でクロフォードがヴィエナとエマの対決に書き換えさせたという。なにしろ、もともとはクロフォードが持ち込んだ企画。現場も実質的に彼女が仕切っていたらしいので、恐らく誰もが従わざるを得なかったのだろう。

そのせいもあってなのだろうか、やがてエマ役の女優マーセデス・マッケンブリッジとクロフォードの確執が表面化する。そもそも、マッケンブリッジの夫フレッチャー・マークルを巡って2人は過去に因縁があったらしい。レイ監督やスタッフの多くがマッケンブリッジの肩を持ち、それに腹を立てたクロフォードは彼女の衣装をビリビリに破いて投げ捨てたという。共演のスターリング・ヘイドンも、マッケンブリッジに対するクロフォードの態度を「恥ずべきものだった」と後に回想している。

ただ、その一方でレイ監督にとって、これはまさしく天の恵み。女優2人の確執はそのまま演技にも色濃く反映され、ヴィエナとエマの激突になお一層の真実味が増すからだ。さらに、この状況をいち早く嗅ぎつけた芸能マスコミが、クロフォードとマッケンブリッジのいがみ合いを面白おかしく書きたて、それが映画のプロモーションにも役立った。おかげで、先述したようにアメリカの批評家からはこき下ろされたが、興行的には大きな成功を収めることができた。とはいえ、これを最後にクロフォードは目立ったヒットから遠ざかり、あの『何がジェーンに起ったか?』(’62)までしばらく低迷することとなる。■

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