26歳のチャーリー・バビットは、ロサンゼルスに住む、中古車のディーラー。車を安く買い付けては、詐欺師顔負けの巧みなトークで、顧客に高く売り付けている。

そんな彼の元にある日、不仲で没交渉だった父の訃報が届いた。チャーリーは恋人のスザンナを連れ、シンシナティの実家を訪れるが、遺言により、父の財産300万㌦が「匿名の」人物に贈られたことを知り、ショックを受ける。

納得がいかないチャーリーは、亡父の友人で財産の管財人となった医師の病院を訪問。そこで、今までその存在を知らなかった、実の兄レイモンドと出会う。

他者との意思疎通が難しい“自閉症”のため、この病院に長らく預けられていたレイモンド。そしてチャーリーは、この兄こそが、父の遺産が贈られた当人だと知る。

チャーリーは遺産を手に入れようと、レイモンドを強引に連れ出す。“自閉症”だが、天才的な記憶力を持つ兄との旅は、トラブル続き。しかし当初は金目当てだったチャーリーに、忘れていた“大切なこと”を思い出させていく。

そして長く離れ離れだった兄弟の絆も、徐々に深まっていくかのように思われたが…。

1988年12月のアメリカ公開(日本公開は翌89年2月)と同時に、観客からも批評家からも圧倒的な支持をもって迎えられた、本作『レインマン』。「第61回アカデミー賞」では、作品、監督、脚本、そして主演男優の主要4部門を制した。

その結果からもわかる通り、“タイトルロール”である“レインマン”=兄のレイモンド役のダスティン・ホフマンの演技が、とにかく素晴らしい。アカデミー賞の演技部門は、伝統的に“障害者”を演じた俳優が有利というセオリーはあるものの、そのリアルな“自閉症”演技は、製作から30年余経った今日見ても、色褪せない「名演」である。

一方で今回初見の方などは、弟のチャーリーを演じた、20代中盤のトム・クルーズの「美青年」ぶりに、驚きを覚えるかも知れない。その演技も、賞賛に値する。父との確執が起因して、傲慢且つ偽悪的に振舞いながら、兄との旅の中で、持ち前の繊細さや優しさが滲み出てくる様など、確実に、ホフマンの演技を引き立てる役割を果たしている。

1962年生まれ、50代後半となった現在は、すっかりスタント要らずの“アクションスター”のイメージが強いトム。しかしこの頃の彼には、そんなイメージは、微塵もなかった…。

元々トムが注目されるようになったのは、『タップス』(81)『アウトサイダー』(83)など、青春映画での脇役。この頃は、80年代前半のハリウッドを席捲した、若手俳優の一団“ブラット・パック”末端の構成員のような見られ方もしていた。

しかし、初主演作『卒業白書』(83)がヒット。続いて『トップガン』(86)が、世界的なメガヒットとなったことで、若手の中では頭ひとつ抜けた存在になっていく。

更に高みを目指すトムが挑んだのは、今どきの言い方で言えば、“ハリウッド・レジェンド”たちとの共演だった。年上の大先輩の演技を間近で見ることによって、彼らの仕事っぷりを吸収しようというわけだ。

 その最初の機会となったのは、1925年生まれ、トムより37歳年長であるスーパースター、ポール・ニューマンが主演する『ハスラー2』(86)。ニューマンが若き日に『ハスラー』(61)で演じたビリヤードの名手エディを、再び演じるという企画だった。

ニューマンと、監督を務めるマーティン・スコセッシの熱望を受けて、トムが演じることになったのは、才能はあるが傲慢なハスラーで、エディの弟子となる若者の役。若き日のエディ≒ニューマンを彷彿させるような役どころだが、当初は偉大なニューマンの邪魔になることを恐れ、トムは出演を躊躇したという。

しかしいざ撮影を控えてのミーティングに入ると、ニューマンとトムとの相性は、最高だった。役に必要なビリヤードの腕を磨きながら、リハーサルそして撮影を通じて、交流を深めていった2人。私生活で12歳の時に実父に去られているトムは、ニューマンを父親のように慕った。数年前に28歳だった長男を、麻薬の過剰摂取で亡くしているニューマンにとっても、トムは息子のように思える存在になっていった。

因みにスピード狂で、プロのレーサーとしても実績を残しているニューマンの影響を受けて、その後トムも、カーレースに夢中になる。これはカーチェイスシーンでもノー・スタントを通す、今日のトムの在り方に、繋がっているとも言える。

『ハスラー2』は、大ヒットを記録すると同時に、それまでに6度もアカデミー賞主演男優賞の候補になりながら賞を逃し続けてきたニューマンが、7度目の候補にして、初のオスカー像を手にする結果をもたらした。ニューマンはアカデミー賞の候補になった時点で、トムに電報を送ったという。

「もし、私が受賞したら、オスカー像は私のものでなく、我々のものだ。きみは、それだけの働きをした」

自らは助演男優賞の候補にもならなかったトムだが、その電報には感動の涙を流し、大切に額に入れ、ニューヨークのアパートの壁に飾ったという。

そしてニューマンに続き、トムが共演することになった“ハリウッド・レジェンド”が、1937年生まれでトムより25歳年長の、ダスティン・ホフマンだった。

『レインマン』でホフマンには、当初弟のチャーリー役が想定されていたという。しかし脚本を読んだホフマンが、兄のレイモンドを演じることを熱望したと言われる。

その上でホフマンがチャーリー役の候補として挙げたのは、当初はジャック・ニコルソンやビル・マーレー。こちらのキャストが実現していたら、かなり毛色の違った作品になったであろうが、最終的にはトムにオファーすることとなった。

実は映画界に入りたての頃、トムは友人のショーン・ペンと共に、ビバリーヒルズのホフマン邸の前に車を乗りつけて、呼び鈴を押してみろと、お互いをけしかけ合ったことがあった。結局2人とも怖気づいて、呼び鈴を鳴らすことはなかった。それから数年が経ち、トムは憧れていた大スターのお眼鏡にかない、その弟を演じることが決まったわけである。

しかし『レインマン』の製作は、様々な局面で難航した。まず“自閉症”の男が主役という題材に、製作費を出そうという映画会社がなかなか見つからなかった。

更には、監督交代劇が相次いだ。『ビバリーヒルズ・コップ』(84)や『ミッドナイト・ラン』(88)などのマーティン・ブレストや、あのスティーヴン・スピルバーグ、ホフマンとは『トッツィー』(82)で組んでいるシドニー・ポラックなどが、製作準備に入っては、様々な事情で去っていった。

このような局面にありながらも、ホフマンとトムは、精力的に本作のための取材を進めた。サンディエゴと東海岸の医療専門家に話を聞き、数十人の“自閉症”患者やその家族と面会。患者たちと一緒に、食事やボウリングをしたりなどの交流を行った。

因みにホフマンが、“自閉症”ながら天才的能力を持つ、レイモンド役のモデルとして参考にしたと言われるのが、キム・ピーク氏(1951~2009)。本作の中でレイモンドが、宿泊したホテルの電話帳を読み、そこに載った電話番号を全部記憶してしまったり、床にばら撒かれた楊枝の数を咄嗟に言い当てるエピソードなどが登場するが、そのモチーフとなったのは、キム氏が実際に持つ能力だった。

何はともかく、監督が決まらない中でも、この企画が頓挫しなかったのは、熱心なリサーチを続けた、主演2人の情熱があったからこそだと言われる。トムにとっては、「演技の虫」とも言えるホフマンの役作りを間近に見たことは、大いに刺激となった。

そうこうしている内にようやく、それまでに『ナチュラル』(84)や『グッドモーニング,ベトナム』(87)といったヒット作を手掛けてきたバリー・レヴィンソンが、『レインマン』のメガフォンを取ることが決まった。レヴィンソンは本作に関して、チャーリーとレイモンド以外のキャラクターの葛藤を排した、兄と弟の“ロードムービー”という要素を、より強めるという方針を打ち出した。

いざ撮影が始まると、「朝早く起きてエクササイズをして、撮影が終わってからはセリフの練習。寝る前にもう一度エクササイズ。そしてその合間にはとにかくリハーサルをやりたがる」というトムの姿勢に、ホフマンからの称賛がやまなかった。トムは撮影が終わった夜も、ひっきりなしにホフマンの部屋を訪れては、相談を持ち掛けたという。

本作ではホフマンは、基本的には“自閉症”患者として、喜怒哀楽を表すことがほとんどない。一方でそれを受けるトムは、様々な演技のバリエーションを見せないと、そのシーンがもたなくなる。先にも記したが、結果的にホフマンの「名演」も、トムの頑張りがあってこそ、引き立ったわけである。

ホフマンは『レインマン』で、『クレイマー、クレイマー』(79)以来、8年振り2度目のオスカーを手にすることになった。一方で今回もトムは、アカデミー賞の候補になることはなかった。

しかしニューマンに続く、ホフマンとの共演によって、トムのこの時点での“映画スター”としての方向性は、固まった。当然偉大な先輩たちのように、いずれ“アカデミー賞俳優”になることを、視野に入れていたと思われる。

 『レインマン』に続いての出演作は、オリバー・ストーン監督の反戦映画『7月4日に生まれて』(89)。ベトナム戦争の戦傷で、車椅子生活を余儀なくされる、実在の帰還兵ロン・コーヴィックを演じたトムは、初めてアカデミー賞主演男優賞の候補となった。

“障害者”を演じると、アカデミー賞が近づくセオリー…。しかしこの年のオスカーは、『マイ・レフト・フット』で、脳性麻痺の青年を演じた、ダニエル・デイ=ルイスへと贈られた。

 その後トムは、『ア・フュー・グッドメン』(92)で、ジャック・ニコルソンと共演。アカデミー賞の作品賞、助演男優賞、編集賞、音響賞にノミネートされたこの作品では、自らのノミネートは逃したが、キャメロン・クロウ監督の『ザ・エージェント』(96)では主演男優賞、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『マグノリア』(99)では助演男優賞の、それぞれ候補となった。受賞はならずとも、いずれはオスカーを手にする俳優という評価は、この頃までは揺るがなかったように思う。

そんな中で、自ら製作・主演する『ミッション;インポッシブル』シリーズが、96年にスタート。その時はまだ、「へえ、トム・クルーズって、“アクション映画”にも出るんだ」という印象が強かった。

しかしそれから20数年経って、今や『ミッション…』は、トムの代名詞のようなシリーズに。と同時に彼は、すっかりオスカー像からは遠ざかった、“アクション馬鹿一代”的な存在のスターになっていた。

ここで比較したいのが、初のノミネート時のライバルで、トムを破ったダニエル・デイ=ルイス。彼はその後、靴職人になるための修行で2000年前後に俳優を休業するも、『ハスラー2』のスコセッシ監督に乞われて、『ギャング・オブ・ニューヨーク』(02)で復帰と同時に、いきなりオスカー候補に。

その後『マグノリア』のポール・トーマス・アンダーソン監督の『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』 (07)、スピルバーグ監督の『リンカーン』(12)で、2度目・3度目の主演男優賞を獲得。アカデミー賞史上で唯一人、主演男優賞を3度受賞するという偉業を成し遂げた。

アカデミー賞を度々獲るような俳優の方が、高級なキャリアというわけでは、決してない。しかしポール・ニューマンやダスティン・ホフマンといった名優に実地で学びながら、明らかにそちらの方向を目指していたであろうトムの歩みは、どこから大きく違っていったのであろうか?

世界各国でカルト宗教と目される「サイエントロジー」を、トムが熱心に信仰するようになったことと、無関係とは言えまい。一流の“映画スター”でありながらも、いつしかスキャンダラスな印象が拭えなくなっていったのが、こうした歩みを選ばせたのか?

しかしそれはまた、別の話。稿を改めないと、とても語り尽くせないことである。■

『レインマン』© 1988 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved