今年の8月、齢83となったアラン・ドロンが、脳卒中のため入院中というニュースが流れた。2年前=2017年にすでに引退を表明していたドロンだが、今年5月には「カンヌ国際映画祭」で、映画への長年の貢献を称えられて“名誉パルムドール”が贈られ、元気な姿を見せたばかり。

子どもの頃から親しんできたスターの老齢化やリタイアといった話題は、そのまま自分自身の、寄る年波を実感させられる。長く映画を観続けるというのは、そういうことでもある。

さて改めて、1964年生まれの筆者の少年期に、“二枚目”“美男子”と言えば、イコールでアラン・ドロンだった。「アラン・ドロン=二枚目」という認識が、その頃どれほど一般的だったかを説明するには、私が中1の時=1977年のヒットCMと歌謡曲を、例に挙げるのがわかり易い。

当時若手俳優として、人気上昇中だった水谷豊が出演した、「S&Bポテトチップ」のコメディ仕立てのCM。インタビュアーに「ライバルは?」と問われた水谷が、スター気取りで「アラン・ドロンかなぁ~?」と答えながら、コケてみせる。

その年にアイドル歌手としてデビューした榊原郁恵が、「日本レコード大賞」の新人賞を獲った際に披露したのは、「アル・パシーノ+(たす)アラン・ドロン<(より)あなた」。森雪之丞作詞・作曲によるこの楽曲、「アル・パシーノのまねなんかして ちょっとニヒルに 笑うけど…」と始まる。ハリウッドスターとして全盛期で、女性人気も高かったアル・パチーノ(当時はパシーノ表記が一般的だった)に続き、歌詞に登場するのが、フランスの大スターであったアラン・ドロン。

「アラン・ドロンのふりなんかして甘い言葉 ささやくけど…」

こんな風にアイドル歌謡に登場して、聴く者がすぐにイメージできるほど、「アラン・ドロン=二枚目」だったわけである。

因みに当時は、各民放が毎週ゴールデンタイムに劇場用映画を放送していた、TVの洋画劇場の全盛期。その頃確実に視聴率を取れる“四天王”と言われたのが、スティーブ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジュリアーノ・ジェンマ、そしてアラン・ドロンであった。

“四天王”と言いつつ、中には出演作がそれほど多くない者も居るし、放送権料の問題もある。つまるところ、最もコンスタントにオンエア出来て「数字が取れる」のが、アラン・ドロンの主演作品だった。

ドロンの出世作と言えば、もちろんルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』(1960)。この作品をはじめ、1960年代から70年代はじめまで、ドロンの主演作には、数多の名作・人気作が並ぶ。

イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』(60) 『山猫』(63)、フランスのスターとして大先輩の、ジャン・ギャバンと共演した、『地下室のメロディー』(63) 『シシリアン』(69)、ロベール・アンリコ監督による青春映画の金字塔『冒険者たち』(67)、フランス製フィルム・ノワールの最高峰『サムライ』(67)、未だに高いカルト人気を誇る『あの胸にもう一度』(68)、現代の視点からは、チャールズ・ブロンソンとのBL映画とも言える『さらば友よ』(68)、ドロンと共にフランスが誇る二大スターと称されたジャン=ポール・ベルモンドが共演の『ボルサリーノ』(70)等々。1964~66年に掛け、ハリウッド進出を試みて失敗に終わるという“蹉跌”はありながらも、豪勢なラインアップと言えよう。

 しかし実は70年前後から、ドロン主演作には、ちょっと微妙な作品が増えてくる。プレイボーイとしても知られるドロンだが、かつての婚約者ロミー・シュナイダーと共演した、『太陽が知っている』(68)、当時の愛人ミレーユ・ダルクとの同棲生活を再現したような、『栗色のマッドレー』(70)、5年間の結婚生活の末69年に離婚した元妻ナタリー・ドロンと意味深に共演した、『もういちど愛して』(71)等々。ドロンの私生活を彷彿させる、スキャンダラスな作品群である。

 これにはドロンが巻き込まれた、「マルコヴィッチ事件」の影響があるとも言われる。68年10月、ドロンのボディガードで近しい存在だった、ステファン・マルコヴィッチという男が、射殺体で発見された。ドロンと当時の妻ナタリーは、重要参考人として捜査当局に召喚され、特にドロンは52時間もの尋問を受けることとなった。

 その最中に、様々な醜聞が噴出。ドロンとマフィアの癒着、ドロン夫妻とマルコヴィッチの“三角関係”、マルコヴィッチが経営していた上流階級相手の“社交場”に、大統領夫妻が常連客として出入りしていた等々である。結局真犯人は不明のまま、事件は迷宮入りとなったが、ドロンへの疑惑は残った。スターとして、致命的なダメージを負ってもおかしくなかったのである。

 そこでドロンが打った手は、疑惑の渦中にあった自らを晒すかのように、本人を想起させるスキャンダラスな舞台設定の作品に、次々と出演することだった。そして事件に巻き込まれる以前の作品よりも、多くの観客動員を得ることに、成功したという。

ドロンの70年代前半、その他の出演作をざっと眺めれば、三船敏郎、ブロンソンと共演した『レッド・サン』(71)をはじめ、『暗殺者のメロディ』(72)『高校教師』(72)『リスボン特急』(72)『スコルピオ』(73)『燃えつきた納屋』(73)ビッグ・ガン』(73)『暗黒街のふたり』(73)『個人生活』(74)『愛人関係』(74)『ボルサリーノ2』(74)…。個々の作品の評価はさて置き、やはり粒揃いの60年代と比べると、見劣りするラインアップと言えよう。

そんな中に位置して、しかも飛び切りのスキャンダラスな内容と言えたのが、72年に製作されて本国フランスで公開、日本では73年夏の封切となった本作、『ショック療法』である。

この作品の実質的な主役は、かつて名作『若者のすべて』でドロンの相手役を務めた、アニー・ジラルド。それから12年経って本作では、日々の生活に疲れてしまったアラフォーのキャリアウーマン、エレーヌを演じている。

エレーヌは男友だちの薦めで、リフレッシュのため、海辺のサナトリウムに滞在することになった。そこの主な患者は、社会的な地位が高く、金銭的に余裕がある中高年の男女。そしてサナトリウムの医院長ドクター・デビレを演じるのが、アラン・ドロンである。

海遊びやサウナ、海藻療法などで十分リラックスした後、患者たちが受けるのが、デビレの処方による、“奇跡の注射”。正体不明の注射によって、患者たちは若さと生気を取り戻す。エレーヌもその例外ではなかった。

しかしサナトリウムの職員である、ポルトガルの青年たちが次々と倒れ、中には失踪する者も居て、エレーヌの疑念が募る。更にはここを彼女に紹介したゲイの男友だちが謎の死を遂げるに至って、エレーヌは真実の究明に乗り出す。

世にも魅力的なデビレとベッドを共にし、その隙を見て真相を探る彼女は、やがてサナトリウムの恐ろしい秘密を知る。そんな彼女に、デビレの魔の手が…。

「弱い者を、強い者が喰う」そんな“弱肉強食”思想が描かれているこの作品だが、実は最大のセールスポイントとなったのは、天下の二枚目ドロンのオールヌードであった。製作された72年は、「コスモポリタン」誌に、かのバート・レイノルズが、熊の毛皮に全裸で横たわったヌード写真が掲載されて、センセーショナルな話題になった年。それに負けじと…だったかはわからないが、時流に乗って本作では、患者たちの全裸での海遊びに誘われたドロンが、すべてを脱ぎ捨てて、フルチンで走るシーンがある。

筋肉質で均整の取れたドロンの裸体は、とても美しい。しかし当時の日本では、男性器をそのままスクリーンに映し出すことは、不可能。肝心の部分は、ボカしが掛かった状態でのお披露目となった。

そして劇場公開から4年経ち、水谷豊のCMや榊原郁恵の歌謡曲が話題になった77年の秋に、『ショック療法』はフジテレビの「ゴールデン洋画劇場」で初オンエア。その際も「売り」として押し出されたのは、ドロンのフルチン姿。もちろんボカし入りの…。

77年は、春先に最新主演作『友よ静かに死ね』(77)の公開キャンペーンで、ドロンが久々に来日したことも、大きな話題となっていた。日本のお茶の間的には、ドロン人気が相当に盛り上がった年であった。

しかし実のところで言えば、本国フランスでは、長年ライバルと目されたジャン=ポール・ベルモンドに、人気面で大きく水を開けられるようになっていた。また日本では70年代前半、「東宝東和」や「日本ヘラルド」などの洋画配給会社間で、ドロン主演作の争奪戦が繰り広げられて、上映権料が高騰。それに見合うほどの配給収入が上がらなくなってきていた。

トドメを刺したのが、札束で「東宝東和」「ヘラルド」を出し抜いた、「東映洋画」が配給した、『ル・ジタン』(75)『ブーメランのように』(76)2作の不振。続く「東宝東和」配給の『友よ静かに死ね』公開時のドロン来日は、そんな状況に危機感を抱いてのことだったと思われる。しかしお茶の間の盛り上がりの一方で、やはり興行の方は、思わしい成績を上げられなかった。

ちょうどドロン作品の主な買い手だった「東宝東和」は『キングコング』(76)など、「ヘラルド」は『カサンドラ・クロス』(76)といった“大作路線”に、買い付けの舵を切り始めた頃。「ヘラルド」配給の『チェイサー』(78)を最後に、日本ではドロン主演作が、鳴り物入りで公開される時代は終わったのである。

それから40年以上、いま80代のドロンの近況を耳にしながら、「アラン・ドロンの時代」に想いを馳せてみる。『ショック療法』のような作品は、その内容とはそぐわないが、私のように映画館とTVの洋画劇場の薫陶を受けて育った世代には、もはや甘酸っぱい思い出とも言える。■

『ショック療法』© 1973 STUDIOCANAL - A.J. Films - Medusa Distribuzione S.r.l.