実は『殺しが静かにやって来る』の姉妹編!?

リアルタイムでは過小評価されながらも、今やマカロニ西部劇ファンの間ではセルジオ・レオーネとも並び称される巨匠セルジオ・コルブッチ。西部劇を通して人間の欲望と暴力に彩られたアメリカという国の裏歴史を炙り出そうとしたレオーネに対し、コルブッチは西部劇を現代社会の腐敗や不条理を映し出す暴力的な寓話として描いた。そんな彼の代表作といえば、『続・荒野の用心棒』(’66)と『殺しが静かにやって来る』(’68)。これには誰も異論がないだろう。そして、不幸にも長いこと見過ごされてきたものの、実はその『殺しが静かにやって来る』の姉妹編的な存在であり、なおかつコルブッチの作家性を語るうえで重要な作品のひとつが、この『スペシャリスト』(’69)である。

舞台は山々に囲まれた緑豊かなアメリカ北西部。全米に悪名を轟かせる凄腕のガンマン、ハッド・ディクソン(ジョニー・アリディ)が、生まれ故郷の田舎町ブラックストーンへと戻って来る。無実の罪で処刑された兄チャーリーの死の真相を突き止めるために。この付近ではエル・ディアブロ(マリオ・アドルフ)率いるメキシコ人の盗賊団が治安を脅かしており、銀行頭取の未亡人ヴァージニア(フランソワーズ・ファビアン)は、幼馴染でもあるチャーリーに銀行の現金をダラスへ運ばせたのだが、その道中で大怪我をしたチャーリーが発見され、彼が持っていたはずの現金は忽然と消えてしまった。そして、銀行に全財産を預けていた町の住民たちは、チャーリーが現金を奪ってどこかに隠したものと決めつけ、怒りのあまり暴徒と化して嬲り殺してしまったのだ。要するに私刑(リンチ)である。

そんなハッドを出迎えたのは、非暴力主義者の保安官ギデオン(ガストーネ・モスキン)。この町での暴力沙汰は二度と御免だと考えるギデオンは、拳銃の所持を厳しく禁止しており、ハッドもまた例外なく拳銃を没収される。しかし、町の住民は彼が自分たちに復讐するつもりではないかと警戒し、何者かに雇われた殺し屋たちが次々とハッドの命を狙う。一方、ヴァージニアをはじめとする町の有力者たちは、ハッドを利用して行方不明となった現金の在処を探し出し、それが済んだあかつきには彼を始末しようと考えている。そればかりか、エル・ディアブロ一味やよそ者のヒッピー(!?)たちも現金の行方を虎視眈々と狙っていた。果たして、いったい誰がチャーリーを陥れたのか、そして多額の現金はどこに隠されているのか…?

西部劇なのにヒッピーが登場!

マカロニ・ウエスタンと言えば、その大半がメキシコ国境付近の荒れ果てた砂漠地帯を舞台とし、主にスペインのアルメリア地方で撮影されていたことは有名だが、しかし本作は『殺しが静かにやって来る』と同じくフレンチ・アルプスでロケされており、まるでテレビ『大草原の小さな家』のような美しい大自然が背景に広がる。マカロニらしからぬルックだ。また、『殺しが静かにやって来る』ではルイジ・ピスティッリが狡猾な銀行頭取ポリカットを演じていたが、本作で登場する銀行頭取の未亡人ヴァージニアの姓もポリカット。もしかして、これは後日譚なのか…?などと勝手な想像も膨らむ。ブラックストーンの町並みもローマ郊外にあるエリオス・フィルムの西部劇セットを使用。かように『殺しが静かにやって来る』との共通点は少なくない。まあ、エリオス・フィルムの西部劇セットに関しては、『続・荒野の用心棒』をはじめコルブッチの西部劇には欠かせないロケーションなのだけれど。

また、コルブッチ作品では往々にして無法者が世の不条理を正すヒーローとなり、本来尊敬されるべき社会的地位の高い人々が強欲で卑劣な悪人、一般市民もまた偽善的な日和見主義者として描かれることが多いのだが、本作は特にその傾向が強い。なにしろ、町を支配する有力者も善良なはずの市民もみんな金の亡者。金銭欲に駆られればリンチで人を殺すことすら厭わない。反対に、どんな時も冷静で正直で良識的なのは、売春婦や黒人奴隷、墓堀人など、普段は一般社会から爪弾きにされている弱者たちだ。コルブッチは『続・荒野の用心棒』や『殺しが静かにやって来る』などでも、世間から後ろ指をさされる底辺の人々に対し、ことさらシンパシーを寄せている。そして、『殺しが静かにやって来る』の保安官がそうであったように、本作の非暴力主義を掲げるギデオン保安官もまた、清廉潔白な理想主義者であるがゆえに最も無力な存在として描かれる。

こうした善悪の逆転したコルブッチの人間描写は、その根底にアメリカ的な資本主義や物質主義、拝金主義に対する彼の強い嫌悪感があることは間違いないだろう。さらにいえば、そうした社会的構造を土台として現代社会に蔓延する、権威主義や経済格差、汚職や差別など、あらゆる不正義に対する皮肉と風刺精神が感じられる。いわば、社会が偽善的で腐りきっているからこそ、ハッドのように筋の通った男はそこからドロップアウトせざるを得ないのだ。その視点は極めて左翼的である。なにしろ、本作が作られた’60年代末は革命の季節。メキシコ三部作と呼ばれる左翼色の強いマカロニ・ウエスタンを撮っていた人だけに、コルブッチが革命世代に共鳴する形で本作を撮ったと考えても不思議はなかろう。

ただ、そうなると興味深いのはヒッピー風の若者たちの描写である。そもそも西部劇にヒッピーってどうなのよ?と言いたいところだが、しかしコルブッチは意図して本作に彼らを登場させている。’71年にフランスの映画雑誌「Image et Son」に掲載されたインタビューによると、コルブッチは映画『イージー・ライダー』(’69)が大嫌いで、ヒッピーやドラッグを嫌悪していたそうだ。つまり、そうしたカウンター・カルチャーへのアンチテーゼとして、表層的にアウトローを気取るだけの無軌道で軟弱なヒッピーたちを西部劇の世界に投入したのだ。ファシスト政政権下のイタリアで育ち、青春時代に第二次世界大戦を経験した、いわば“パルチザン世代”のコルブッチにしてみれば、当時の革命世代の若者たちが掲げる理想には共鳴しても、彼らのやり方は軽薄短小に感じたのかもしれない。

本来の主演はリー・ヴァン・クリーフだった!

ちなみに、実はもともとコルブッチ監督とリー・ヴァン・クリーフの初顔合わせとして企画がスタートしたという本作。ストーリーのアイディアにも、ヴァン・クリーフの提案が採用されていたそうだ。ところが、フランス側の出資者が主演に推したのは、当時フランスのみならずヨーロッパで絶大な人気を誇ったロック・シンガー、ジョニー・アリディだった。“フランスのエルヴィス”とも呼ばれたアリディは、57年間のキャリアで1億1000万枚ものレコードを売り上げたスーパースター。しかも当時はその人気の絶頂期で、日本でも大ヒットした『アイドルを探せ』(’63)を筆頭に、数多くの映画にも出演していた。とはいえ、俳優としては正直なところ大根。決して芝居の巧い人ではない。ただ、そのニヒルでクールな反逆児的ルックスはとても画になり、しかも本作では感情表現が必要とされるドラマチックなシーンも少ないため、寡黙で謎めいた凄腕ガンマン、ハッド役にはうってつけだったと言えよう。

一方、ファム・ファタール的なヒロインのヴァージニアを演じているのは、エリック・ロメール監督の『モード家の一夜』(’69)で有名なフランス女優フランソワーズ・ファビアン。若い頃はいまひとつキャリアが伸びず、中年になってから上品な大人の色香で人気を集めた遅咲きの女優さんだが、本作では珍しくヌードシーンまで披露している。というか、基本的にコルブッチはエロスや恋愛の要素にあまり関心がなかったので、彼の西部劇映画に女性のヌードが登場すること自体が異例だったと言えよう。ただ、彼女がレイプされるシーンはもともと脚本になかったらしく、撮影時はコルブッチと激しい口論になったらしい。

ギデオン保安官役のガストーネ・モスキンは、『黄金の七人』(’65)シリーズの泥棒や『暗殺の森』(’70)の捜査官でお馴染みの名脇役。『ゴッドファーザーPARTⅡ』(’72)ではリトル・イタリーの恐喝屋ドン・ファヌッチを演じていた。また、『ダンディー少佐』(’65)や『ブリキの太鼓』(’78)で有名なイタリア系スイス人の怪優マリオ・アドルフが、フェルナンド・サンチョ的なメキシコ盗賊のリーダー、ドン・ディアブロ役で登場し、その豪快かつアクの強い芝居で主役のアリディを食っている。ちなみに、酒場のギャンブラー、キャボット役のジーノ・ペルニーチェは、『続・荒野の用心棒』の生臭坊主ならず生臭宣教師を演じて以来、コルブッチ作品の常連だった俳優だ。

というわけで、本来であればリー・ヴァン・クリーフがハッド役を演じるはずだったものの、大人の都合でジョニー・アリディが起用されたことによって、コルブッチとヴァン・クリーフの夢の初タッグは幻となってしまい、残念ながらその後実現することはなかった。また、本作自体がコルブッチのフィルモグラフィーの中で埋もれてしまい、なおかつ長いこと画質の悪いソフトしか出回っていなかったことから、近年になるまで正当な評価を受けてこなかったことは惜しまれる。■

『スペシャリスト(1969)』©1970- ADELPHIA CINEMATOGRAFICA - TF1 DROITS AUDIOVISUELS - NEUE EMELKA