裁判の行方を根底から揺るがす容疑者の妻の証言とは…?

ハリウッドの巨匠ビリー・ワイルダーによる、それは見事な法廷サスペンスである。『お熱いのがお好き』(’59)や『アパートの鍵貸します』(’60)を筆頭に、『麗しのサブリナ』(’54)に『七年目の浮気』(’55)、『あなただけ今晩は』(’63)などなど、師匠エルンスト・ルビッチ譲りの洗練されたコメディが日本でも親しまれているワイルダーだが、しかしその一方で出世作『深夜の告白』(’44)や『失われた週末』(’45)、『サンセット大通り』(’50)など、意外にダークでシリアスな作品も実は多い。まさしく硬軟合わせ持つ芸術家。彼が「ハリウッド黄金期における最も多才な映画監督のひとり」と呼ばれる所以だ。本作などは、そんなワイルダーの「多才」ぶりが遺憾なく発揮された映画だと言えよう。

舞台はロンドン。法曹界に名の知られた老弁護士ウィルフリッド卿(チャールズ・ロートン)は、心臓に大病を患い入院していたものの、看護婦ミス・プリムソル(エルザ・ランチェスター)の付き添いを条件に退院が許可される。久しぶりに事務所へ戻ったウィルフリッド卿だが、大好物の葉巻もウィスキーも禁じられているうえ、なにかと口うるさいミス・プリムソルにも辟易。すると、そんなところへ旧知の事務弁護士メイヒュー(ヘンリー・ダニエル)がやって来る。未亡人殺人事件の最重要容疑者と目されている男性レナード・ヴォール(タイロン・パワー)の弁護を、ウィルフリッド卿に引き受けて貰えないかというのだ。

それは、裕福な初老の未亡人エミリー・フレンチ(ノーマ・ヴァーデン)が自宅で何者かに撲殺されたという事件。自称発明家であるレナードは、ひょんなことからエミリーと親しくなり、彼女からの出資を期待して自宅へ出入りしていたらしい。自分は無実だと主張するレナードだったが、しかし未亡人の女中ジャネット(ユーナ・オコナー)が最後にエミリーと面会した人物は彼だと証言しており、なおかつ死後に発見された遺言書には8万ポンドの遺産相続人としてレナードが指名されている。はたから見れば遺産目的の殺人。明らかに状況は彼にとって不利だ。最初は病気を理由に弁護を断るつもりでいたウィルフリッド卿だったが、弁護士としての長年の勘からレナードが無実であると信じて引き受けることにする。

そうこうしていうちに警察が到着し、レナードは逮捕・起訴されることに。すると、入れ替わりでレナードの妻クリスチーネ(マレーネ・ディートリヒ)が弁護士事務所へ現れる。夫が殺人事件の容疑者として逮捕されたにも関わらず、顔色一つ変えることなく落ち着き払ったクリスチーネに違和感を覚えるウィルフリッド卿。ドイツ人の元女優である彼女は、終戦直後の貧しいベルリンで場末のキャバレー歌手として働いていたところ、当時駐留軍の兵士だった年下のレナードに見初められたという。夫のアリバイを証明するつもりのクリスチーネだったが、しかし被告人の婚姻相手の証言は裁判で疑われやすい。それに、彼女には重大な秘密があった。豊かなイギリスへ移住するため重婚を隠してレナードと結婚していたのだ。ウィルフリッド卿は不安要素の多いクリスチーネを証言台に立たせないことにする。

かくして、ロンドンの中央刑事裁判所オールド・ベイリーで始まった未亡人殺人事件の裁判。検察側は証人を巧みに誘導して裁判を有利に進めようと画策するが、老練なウィルフレッド卿は鋭い洞察力で次々と切り返していく。まさしく互角の戦い。むしろ、弁護側が優勢のように見えたのだが、しかし検察側はとっておきの隠し玉を準備していた。なんと、クリスチーネを証人として呼んでいたのだ。これはさすがのウィルフレッド卿も計算外。しかも、証人席に立ったクリスチーネから驚くべき発言が飛び出す。未亡人を殺したのはレナードだ、自分は夫から偽証を強要されたというのだ。どよめきに包まれる法廷。これにてレナードの有罪は動かしがたいものとなったと思われたのだが…?

 

原作は「ミステリーの女王」が手掛けた舞台劇

ネタバレ厳禁の作品ゆえ、これ以上のことをレビューに書けないのは惜しまれるが、とにかく終盤のどんでん返しに次ぐどんでん返しは圧巻で、数多のミステリーやサスペンスを見慣れた映画ファンでも驚きを禁じ得ないだろう。原作はアガサ・クリスティの戯曲「検察側の証人」。もともと短編小説として発表したものを、クリスティ自身が’53年に舞台劇として脚色した。細部まで徹底的に計算し尽くしたストーリー構成は、やはり「ミステリーの女王」たるクリスティの腕前であろう。とはいえ、作品全体としては明らかに「ビリー・ワイルダーの映画」に仕上がっている。

病院を退院して事務所へ戻ったウィルフリッド卿と看護婦ミス・プリムソルによる、夫婦漫才的な丁々発止のやり取りを軸としながら、最終的にウィルフレッド卿がレナードの弁護を引き受けるに至るまでの冒頭30分間の、スリリングかつ軽妙洒脱でリズミカルな展開の素晴らしいこと!これが単なる法廷サスペンスでもなければ犯罪ミステリーでもない、あらゆる要素を詰め込んだエンターテインメント映画であることを如実に印象づける。しかも、随所にフラッシュバック・シーンを織り交ぜてはいるものの、しかし全編を通して主な舞台は弁護士事務所と裁判所の2か所。それにもかかわらず、最後まで一瞬たりとも退屈したり間延びしたりすることがない。ウィルフリッド卿の眼鏡や魔法瓶、薬のタブレットなどの小道具をきちんとストーリーに活かした、細部まで遊び心を忘れない演出にも舌を巻く。映画的なストーリーテリングとはまさにこのことだ。

実は、クリスティの原作舞台劇にはウィルフリッド卿が病み上がりという設定も、看護婦ミス・プリムソルというキャラクターも登場しない。これらは映画版の脚本を手掛けたワイルダーとハリー・カーニッツ(『暗闇でドッキリ』『おしゃれ泥棒』)のアイディアだという。しかし、このウィルフリッド卿とミス・プリムソルこそが、欺瞞と虚構に彩られた本作における「真実」と「良心」の象徴であり、ストーリーそのものを牽引していく中核的な存在だ。恐らく、クリスティの原作をそのまま映像化していたら、ここまで面白い作品にはなっていなかっただろう。サプライズはあっても感動がなければ映画は成立しないのである。

もちろん、役者陣の卓越した芝居に負う部分も大きい。中でも、頑固でへそ曲がりだが人間味に溢れるウィルフレッド卿役のチャールズ・ロートンと、世話女房のように口うるさいがチャーミングで憎めないミス・プリムソル役のエルザ・ランチェスターは見事なもの。演技の息は完璧なくらいにピッタリ。さすが実生活で夫婦だっただけのことはある。撮影当時43歳と決して若くないものの、しかし母性本能をくすぐるダメ男レナード役にタイロン・パワーというのも適役。彼はこの翌年にスペインで心臓麻痺のため急逝し、結果的に本作が遺作となってしまった。

そして、クリスチーネ役のマレーネ・ディートリヒである。そもそも、彼女はビリー・ワイルダーが演出することを条件に本作のオファーを引き受けたと伝えられているが、フラッシュバックではミュージカル・シーンに加えて自慢の美脚まで披露するというサービスぶり。法廷シーンでの気迫に満ちた大熱演も見ものだし、ネタバレゆえ本稿では詳しく触れられないシーンの怪演にも驚かされる。本来ならばアカデミー賞ノミネートも妥当だったはずだ。

 

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ちなみに、そのディートリヒの怪演が光る鉄道ヴィクトリア駅のシーンだが、実はこれ、丸々全てスタジオのサウンドステージに作られたセットである。パッと見では分からないが、奥に映っている列車ホームは大きく引き伸ばされた写真だ。美術デザインを担当したのはフランス映画『霧の波止場』(’38)や『天井桟敷の人々』(’44)で知られるアレクサンドル・トローネル。『昼下りの情事』(’56)以降のワイルダー作品に欠かせないスタッフとなったが、一見したところロケ撮影としか思えない見事な仕事ぶりを披露している。もちろん、中央刑事裁判所もスタジオで再現されたセットだ。

なお、本作は当時からヒッチコック監督作品と誤解されることが多かったという。確かに、作品の雰囲気やストーリーはヒッチコックの『パラダイン夫人の恋』(’47)と似ている。あちらも主な舞台はロンドンの中央刑事裁判所で、セットの作りはほぼ同じだった。しかもチャールズ・ロートンまで出ている。ディートリヒは同じヒッチコックの『舞台恐怖症』(’50)でも、悪女的な役どころを演じていたっけ。なるほど、間違えられても無理はないかもしれない。■

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