イタリア映画黄金期の寵児となった巨匠フェリーニ

2020年に生誕100年を迎えたイタリア映画の巨匠フェデリコ・フェリーニ。1920年1月20日に北イタリアの沿岸都市リミニに生まれた彼は、「映画がなければサーカスの座長になっていた」と本人が語るほど、幼少期はサーカスの世界に魅了されていたという。しかし、フェリーニが大人になる頃には旅回りのサーカスも衰退し、その代わりに映画が娯楽の王様となっていた。’39年にローマの新聞社で働くようになったフェリーニだが、そこで知り合った同僚がチェザーレ・ザヴァッティーニやエットーレ・スコラ、ベルナルディーノ・ザッポーニなど、後のイタリア映画界を背負って立つ偉大な才能たち。この新聞社時代のエピソードは、スコラの遺作となったドキュメンタリー映画『フェデリコという不思議な存在』(’13)にも詳しい。

やがてラジオの放送作家としても活動するようになったフェリーニは、取材で意気投合した名優アルド・ファブリーツィの紹介で映画の脚本も手掛けるように。その頃出会ったのが、後にフェリーニ映画のミューズとなる女優ジュリエッタ・マッシーナだった。当時ラジオの声優をしていたジュリエッタとフェリーニは’43年に結婚。戦争末期に生活のため風刺画屋を始めた彼は、店を訪れた映画監督ロベルト・ロッセリーニの依頼で、ネオレアリスモ映画の傑作『無防備都市』(’45)の脚本に参加する。これを機にロッセリーニやアルベルト・ラットゥアーダのもとで修業し、映画作りのノウハウを学んでいったフェリーニは、そのラットゥアーダとの共同監督で映画『寄席の脚光』(’51)の演出を手掛ける。

次回作『白い酋長』(’52)で一本立ちした彼は、3作目『青春群像』(’53)で早くもヴェネツィア国際映画祭の銀獅子賞を受賞。続いて妻ジュリエッタを主演に据えた『道』(’54)は日本を含む世界中で大ヒットを記録し、アカデミー外国語映画賞にも輝いた。そんな飛ぶ鳥を落とす勢いのフェリーニにとって、大きな転機となったのがカンヌ国際映画祭のパルムドールを獲得した『甘い生活』(’60)だ。

当時のイタリアは高度経済成長期の真っ只中。それまでの作品では、貧しい市井の人々やサーカスの道化師といった弱者の視点から社会の厳しさを見つめ、ネオレアリスモ的な作家性で高い評価を得てきたフェリーニだったが、しかしこの『甘い生活』では一変。経済発展した大都会ローマの享楽的な上流階級の人間模様を通して、堕落した現代イタリア社会を痛烈に風刺。抽象的なシンボリズムを多用したモダンで実験的な演出や、スキャンダラスで過激な内容も大きな物議を醸し、文字通りの社会現象を巻き起こす。時を同じくして、一連のネオレアリスモ映画で戦後復興を果たしてきたイタリア映画界も、この『甘い生活』やミケランジェロ・アントニオーニの『情事』(’60)などの世界的な大成功によって黄金期を迎えていた。フェリーニはそうした激変する時代の寵児として、その名声をいよいよ不動のものとしたのである。

スランプに陥った映画監督が苦悩の先に見出したものとは?

そんなモニュメンタルな傑作『甘い生活』に続く、フェリーニ監督待望の新作として発表され、3度目のアカデミー外国語映画賞受賞をもたらしたばかりか、モスクワ国際映画祭のグランプリにも輝いた『81/2』(’63)。厳密にはオムニバス映画『ボッカチオ’70』(’62)の短編エピソード「アントニオ博士の誘惑」を間に挟む。タイトルの『81/2』の由来には諸説あるようだが、それまでフェリーニの発表した単独監督作がオムニバスの短編を含めて合計8本、さらに共同監督作『寄席の脚光』を2分の1本と数えれば‟81/2“になるからというのが定説だ。このことからも、本作がフェリーニにとって少なからずパーソナルな意味を持つ映画であることが推察できるだろう。

主人公は43歳の有名な映画監督グイド・アンセルミ(マルチェロ・マストロヤンニ)。渋滞に巻き込まれた車から脱出して空高く舞い上がったものの、足に巻きつけられたロープを地上から引っ張られて墜落する…という悪夢から目を覚ました彼は、実は新作映画の構想がまとまらないまま2週間も撮影を延期しており、すっかり映像作家としてのスランプに陥っていた。医者の勧めで人気の湯治場に滞在しているものの、ホテルには映画プロデューサーのパーチェ(グイド・アルベルティーニ)やスタッフ、俳優やジャーナリストが次々と集まり、とてもじゃないが気の休まるような環境ではない。たまたま再会した旧友マリオ(マリオ・ピスー)がアメリカ人の若い愛人バーバラ(バーバラ・スティール)とよろしくやっているのを見て、自分もダブル不倫の相手カルラ(サンドラ・ミーロ)を呼び寄せたものの、自由奔放で勝手気ままなカルラにかえって振り回される。

そんなグイドの脳裏をよぎるのは、田舎の祖母(ジョージア・シモンズ)の家で若い乳母たちにチヤホヤされて育った幼少期、海辺の小屋に住む大女の娼婦サラギーナ(エドラ・ゲイル)とルンバを踊って神学校の教師に折檻された少年時代などの甘酸っぱい思い出。そして、理想の美人女優クラウディア(クラウディア・カルディナーレ)の幻影。夢の中に現れる両親(アンニバーレ・ニンキ、ジュディッタ・リッソーネ)に救いを求めるが、当然のことながら叶うはずもない。そうかと思えば、ホテルでたびたびすれ違うミステリアスな貴婦人(カテリーナ・ボラット)に興味をそそられるグイド。とりとめもない記憶やイメージを脚本に盛り込んでいくが、助言を求めた高名な映画評論家カリーニ(ジャン・ルゲール)からはことごとくダメ出しを食らう。

心細くなってしまったのか、グイドは夫婦仲の冷めかけた妻ルイーザ(アヌーク・エーメ)とその親友ロセッラ(ロセッラ・ファルク)らを湯治場へ呼び寄せるものの、運の悪いことに愛人カルラと鉢合わせてしまう。嘘に嘘を重ねる不誠実な夫に愛想を尽かすルイーザ。とはいえ、グイドの女好きは少年時代からの筋金入り。それをしつこく責められてうんざりした彼は、これまでの人生で出会ってきた女たちを支配する自分だけのハーレムを夢想して現実逃避する。一方、そんなグイドをよそに映画の製作準備は着々と進み、宇宙船発射台のオープンセットまで完成。もはやこれ以上は待てないと、製作者パーチェはテストフィルムを上映してグイドにキャスティングの決断を迫る。しかし、私生活を自分の都合よく解釈した内容に激怒したルイーザが彼のもとを立ち去り、ようやく出演オファーを引き受けてくれた女優クラウディアからは脚本を批判され、あなたは愛を知らないと言われてグイドは茫然とする。そして、製作発表の記者会見が行われることに。いよいよ逃げ場を失ってしまったグイドの取った行動とは…?

理解する映画ではなく心で感じる映画

これといって明確なストーリーラインはなく、そればかりか夢と現実と空想の境界線すら曖昧なまま、とりとめのないイメージやエピソードを羅列することによって、創作の危機に追い詰められた映画監督の混沌とする精神的な深層世界を掘り下げていく本作。実際、『甘い生活』で世界的な巨匠へと上りつめ、次回作への期待が高まる存在となったフェリーニは、大物製作者アンジェロ・リッツォーリと新作映画の契約を交わしたものの、肝心要となる脚本の執筆は思うように進まず、しまいには自分が何を描きたいのかも分からなくなってしまったという。そこで閃いたのが、今の自分が置かれた状況をそのまま映画にすることだったというわけだ。

今でいうメタフィクションの手法を用いながら、スランプに陥った監督の苦悩と迷いを通して「映画とは何なのか?」を問うていくのが本作の核心。主人公グイドは「嘘や妥協のない映画を作る」ことを信条とするが、しかし彼の私生活はむしろ嘘や妥協にまみれており、その大きな矛盾がグイドを苦しめていると見做してもいいだろう。つまり、彼は映画監督として自分自身に「真実を追求する」という創造的な制約を課し、私生活でもカトリック的な道徳概念に縛られて嘘や誤魔化しを重ねているが、しかし心の中ではその全てから解放されることを望んでいるのだ。それは「映画とは自由でなくてはならない」というフェリーニ自身の言葉にも裏付けられるだろう。劇中の有名なセリフ「人生は祭りだ、共に生きよう」とは、まさにそういうことだ。同時にフェリーニは本作を「理解する映画ではなく心で感じる映画」と呼んでいるが、そういう意味で本作はフェリーニの理想とする自由な映画の到達点であり、これをもってして「フェリーニ映画」というひとつのジャンルを確立したとも言える。

ただ、当時のフェリーニは本作を「到達点ではなく到達点の始まり」と呼んでおり、事実これ以降の映画でも同様の演出スタイルが応用され、さらなる洗練の度を深めていき、『魂のジュリエッタ』(’65)や『サテリコン』(’68)、『アマルコルド』(’73)といった数々の傑作を世に送り出すこととなる。特に中年の危機を迎えた主婦の迷いと葛藤を描いた『魂のジュリエッタ』は本作の姉妹編的な映画であり、夢と現実と空想の交錯するカラフルな幻想美の世界は『81/2』を凌駕する完成度だ。そういえば、フェリーニの熱烈なオファーに応えて本作で映画界復帰した戦前のトップ女優カテリーナ・ボラットや、チャーミングでコケティッシュな愛人カルラ役のサンドラ・ミーロ、娘と同い年の若い女性に入れあげる友人を演じたマリオ・ピスーなど、『魂のジュリエッタ』と被るキャストも少なくない。また、主人公グイドが夢想するハーレムは同じくマストロヤンニが主演した『女だけの都』(’80)を彷彿とさせるし、フェリーニの故郷リミニに実在したという大柄な娼婦サラギーナなど少年時代の回想は『アマルコルド』とも相通じる。ただし、フェリーニ曰く彼の描く少年時代のエピソードは創作が多く、そのまま額面通りに受け取ってはけないそうだが…(笑)。■