本作『パリ、テキサス』(1984)の日本公開は、1985年9月。
 大学1年だった私は、同級生の女の子とアルタ前で待ち合わせし、新宿文化シネマへと向かった。今はシネマート新宿かEJアニメシアター新宿に名を変えている、2スクリーンの内のどちらかの劇場での鑑賞だった。
 当時日本の映画業界では、「カンヌ国際映画祭」の最高賞を、パルム・ドールという正確な呼称は使わず、“グランプリ”と謳っていた。その「カンヌでグランプリ」の触れ込みで、今はなきフランス映画社が配給だった。
 監督のヴィム・ヴェンダースの名は、映画マニアの間では知られていたが、過去作の日本公開は、まだ数少なかった。そしてそれらを全く観ていない私の、彼に関しての知識は、「小津安二郎を敬愛する、ドイツ人監督」で、『ゴッドファーザー』(72)のフランシス・フォード・コッポラに招かれてハリウッドで作品を撮ったが、色々とトラブってうまくいかなかったというぐらいだった。
 ヴェンダース作品が日本で、一般の口の端に上るようになったのは、それから3年近く後。『ベルリン・天使の詩』(87)が88年春に公開され、アート映画や単館系作品として、記録的なヒットを飛ばしてからだったと思う。
 私はヴェンダースよりも、脚本のサム・シェパードの名に惹かれた。アメリカの劇作家であると同時に俳優だったシェパードに関しては、本作の前年=84年に日本公開された、フィリップ・カウフマン監督の『ライトスタッフ』(83)で演じた、孤高のテストパイロット、チャック・イェーガーがあまりに格好良く、強烈な印象が残っていたからである。彼はこの役で、アカデミー賞助演男優賞の候補になっている。
 因みに目が早い映画ファンの間では、更にその前年=83年に公開した、テレンス・マリック監督の『天国の日々』(78)でのシェパードが話題になっていた。この作品での彼は、若くして死病に侵された、農場主の役だった。
 5年もオクラになっていた『天国の日々』が突然公開に至ったのは、82年暮れに公開された、『愛と青春の旅立ち』(82)の大ヒットがきっかけ。リチャード・ギア人気に火が点き、その過去の主演作として掘り起こされたためだ。そして公開館に「ギア様目当て」で駆け付けた中に、結果としてサム・シェパードの方に熱を上げるようになった女性ファンが、少なからず居たのである。
 些か余談が過ぎたが、『パリ、テキサス』が、私が当時はあまり好んでは観なかった「アート系」(そんな言葉は当時はなかったが…)であることは、フランス映画社が買った作品であることからも、察しがついた。しかしまあ「カンヌ」であるし、当時日本でも美人女優として人気があった、ナスターシャ・キンスキーも出てるし等々で、デートムービーとしてチョイスしたのであろう。
 終わってみると、私より何倍も感受性が強かった連れの女の子は一言、「悲しいね」。色々と感じ入ってたようであったが、それに対して私は、正直ピンと来ていなかった。その理由は、後ほど記す。

***

 テキサスの砂漠を、彷徨う男がひとり。水を求めて入った、ガソリンスタンドの売店で、氷を口にすると、気を失った…。
 ロスアンゼルスで働くウォルトの元に、1本の電話が入る。4年前に失踪し、死んだと思っていた兄トラヴィスらしき男が、行倒れて入院していると。ウォルトは兄を迎えに、テキサスへと向かった。
 トラヴィスは何を聞いても口を開かず、すぐに逃げ出そうとする。挙げ句は飛行機での移動を拒否したため、ウォルトはレンタカーで、ロスまでの遠路を連れ帰ることにする。
 途切れ途切れに記憶を取り戻すトラヴィスは、通信販売で買ったという土地の写真を弟に見せる。それは<パリ、テキサス>=テキサス州のパリという、辺鄙な場所。かつて兄弟の両親が初めて愛を交わし、トラヴィスが生を受けた地だという。トラヴィスも愛する者たちと、その地に暮らすのを夢見たのだろうか?
 ロスで待っていたのは、ウォルトの妻アンヌと、トラヴィスの息子で間もなく8歳になる、ハンター。トラヴィスの失踪後に、その妻ジェーンが、ハンターをウォルト邸の前に置き去りにしたのだ。それ以降ハンターは、ウォルトとアンナを両親として育った。
 トラヴィスを実の父親と知りながらも、なかなか心を開かないハンター。しかしウォルトとアンナが5年前、幸せだった頃のトラヴィス一家を訪れた際に撮った、8mmフィルムのホームムービーの映写を機に、2人の距離が縮まる。
 アンナはハンターを失うことになるのではと恐れながらも、ジェーンから毎月息子宛に送金があることを、トラヴィスに伝える。彼女が金を振り込んでいる銀行は、テキサス州のヒューストンにあるという。
 トラヴィスは中古のフォードを駆って、ジェーンを探しに行くことを決める。そしてその旅には、「ママに会いたい」という思いが募ったハンターも、同行する。
 ヒューストンの銀行前で、車を運転するジェーンを遂に見付けた2人。彼女の後を追っていくと…。

***

 77年、ヴェンダースはコッポラ率いるゾーエトロープ社から依頼を受け、ハードボイルド小説の著名な書き手ダシール・ハメットを主人公にした小説「ハメット」の映画化に取り掛かる。サム・シェパードによると、まずは脚本を書いて欲しいと、ヴェンダースから依頼があったという。
 60年代はじめに21歳で劇作家として、デビュー。映画でもミケランジェロ・アントニオーニ監督の『砂丘』(70)やボブ・ディランが監督・主演した『レナルド&クララ』(78)などの脚本を手掛けたシェパードだが、撮影所システムの中で脚本を書くことには気乗りせず、その依頼を断った。
 そうすると今度は、「主演してくれ」との依頼。ヴェンダースは、『天国の日々』で観たシェパードの演技を、気に入っていたのだ。
 ところが当時のシェパードは、「知名度不足」のため、製作会社からNGが出る。そのため彼が、映画『ハメット』(82)に参加することはなかった。

 しかしここで、いずれは一緒に仕事をしようと、2人の間で約束が交わされた。具体的な一歩を踏み出したのは81年、シェパードの初めての本「モーテル・クロニクルズ」の草稿を、ヴェンダースが読んだ時点からだった。
 モーテルからモーテルへと旅をしながら綴った詩と散文が収められたこの書物のイメージを膨らませて映画にしたいと考えたヴェンダースは、ラフに脚色したものを書き上げる。しかしシェパードが内容を気に入らず。そのシナリオは流れた。
 その後2人で過ごす内に、「砂漠にいきなり現れた記憶喪失の男」というアイディアが浮かんだ。そしてそれを基に、共同で脚本を書き進めていくことになる。
 はじめは兄弟を軸とした話で、妻を探し求めるエピソードはあったものの、妻が見付かるかどうかは、決まっていなかった。子どもを登場させることになって、大体のアウトラインが固まったという。
 トラヴィスが失踪する原因として、第1稿では妻が師事する“教戒師”が登場した。それが転じて、トラヴィスが古いアルバムを頼りに、自分の謎めいた家系を辿るために、あらゆる人を至る所に訪ねていくという話になっていく。
 更にそこから変わって、ジェーンの父親がテキサスの大地主で、彼女を閉じ込めているという設定が、考え出された。シェパードは父親役として、ジョン・ヒューストンにオファーすることを考えていた。

「この映画は、アメリカについて私がずっと語りたいと思ってきたことを入りくんだ形で語っています…」

 ヴェンダースが完成後にそう述懐する本作の物語の出発の地として、シェパードはテキサス州を挙げる。そこにアメリカを凝縮して、描こうという提案だった。ヴェンダースは3カ月掛けてテキサスを旅し、ロケハンを行った。

 主演のトラヴィスには、ハリー・ディーン・スタントン。ヴェンダースにとっては意中のキャスティングだったが、50年代後半から脇役として活動してきたスタントンのことを、シェパードはまったく知らなかった。
 しかしたまたま、コッポラ主催の映画祭で邂逅。スタントンと飲み明かして意気投合したシェパードは、「…トラヴィスについてぼくが思い描いたことをすべてもちあわせている…」と、ヴェンダースに電話を掛けてきたという。
 トラヴィスの妻のジェーン役には、ナスターシャ・キンスキー。13歳の時のデビュー作が、ヴェンダースの『まわり道』(74)だった彼女は、その後トーマス・ハーディの原作をロマン・ポランスキー監督が映画化した文芸作品『テス』(79)などに主演。先に記した通り日本でも人気が出て、「ナタキン」などという略称で呼ばれた。
 彼女とスタントンでは、随分と歳が離れた夫婦という印象になる。スタントンは1926年生まれ。ナタキンは61年生まれで、歳の差は実に35。まさに「親子ほど歳が離れた」2人だが、その歳の差が、結果的には本作の展開には効果的であった…。

 ジェーンの父親が夫婦間の最大の障害になるというシナリオには、ヴェンダースは納得がいかず、後半部が未完のまま、本作は83年9月29日に、クランクイン。現場にはシェパードが居着きの予定だったため、ほぼ物語の進行通りに順撮りで撮影を進めながら、未完の部分を考えていこうというプランだった。
 ところがフランスやドイツなど、主にヨーロッパから製作費を得た本作は、急激なドル高の影響などを受け、何度か撮影の中断を余儀なくされる。そのためシェパードが、時間切れ。彼は出演作の撮影に参加するため、本作の現場から去らねばならなくなった。
 それ以降のヴェンダースは、脚本家のL・M・キット・カーソンと作業を進めることになる。カーソンは、トラヴィス夫妻の息子を演じた子役のハンター・カーソンの、実際の父親であった。そして2人で、次のようなクライマックスへと、辿り着く。
 ヒューストンでジェーンを見つけたトラヴィスが、その後を追うと、彼女がのぞき部屋で働いていることがわかる。客はマジックミラー越しに彼女の姿が見えるが、彼女の方からは客が見えない。電話越しに問いかける客に、彼女が応えるというシステムだ。
 客になりすましたトラヴィスは、ジェーンに相対して会話することになる。その中でトラヴィスは、自らの気持ちにも対峙し、やがて思いの丈を語ることになる。そしてジェーンも、客が失踪した自分の夫だと、気付く…。
 カーソンと共に思い付いたこの展開を、ヴェンダースがシェパードに送った。すると、「ようやく、ぼくたちが延々と語り合ったことがやっと見つかったね」と、シェパードは言い、そのシーンのためのセリフを書いて、電話で伝えてきたという。
 こうして本作は完成へと向かい、「カンヌ」での最高賞をはじめ、世界的に高く評価されることになる。トラヴィスの失踪の原因が明らかになり、夫婦の、そして家族のこれからが提示される、覗き部屋でのくだりは、特に高く評価されていたと思う。

 ここでいきなり話を戻すが、新宿で本作を観た際に、私がピンと来なかったのも、このくだりに集約されている。これからご覧の方のために詳細は省くが、まだお互いに愛があるのを確認したのに、なぜトラヴィスは去らねばならないのか?よくわからなかったのだ。
 撮影現場でも、私と同じような感情を抱いた者が居たという。主演のハリー・ディーン・スタントンだ。彼は、~せっかくジェーンとハンターという家族と再会できたのにまたひとりで去ってゆくなんて嫌だ~と本気で怒ったのだという
 まあスタントンの場合は、トラヴィスになり切ったが故の反発であろう。二十歳そこそこの未熟な鑑賞者であった私と一緒のわけは、もちろんないのだが。

 そんな私でも、初鑑賞から36年近く経って本作を見返すと、今ならわかる気がする。「こんなに想っているのに」「こんなに愛しているのに」という気持ちが高ぶり過ぎると、自分も相手も深く傷つけることになる。トラヴィスは、年が離れた美しいジェーンを愛しすぎて、失踪せざるを得なくなった。そして残されたジェーンは、我が子を手放す他はなかった。
 覗き部屋で何人もの男に応じてきたジェーンは、トラヴィスに言う。「どの男の声も…あなただった」
 トラヴィスは、わかった。まだジェーンのことを愛している。それも狂おしいほどに。だから一緒に居るわけには、いかないのだ。
 サム・シェパードは本作の結末に関して、次のように語っている。

「私なりに言うなら、すでに壊れたものをくっつけなおしただけでは不十分だということですね。本当に壊れたものは彼自身のなかにある。それを満たすためには、壊れたものの正体を見るためには、彼は自分ひとりで見つめるべきなのです。彼は母親と子供を一緒にした。今度は彼自身も一緒にできるように旅立つのです」

 最後にもう一つ。今回再見して、私の記憶が改竄されていたことに気が付いた。
 ラストでトラヴィスが、ジェーンとハンターを再会させるのは砂漠で、それを見届けたトラヴィスは再び、荒野に去っていくのだと思い込んでいた。観ていただければわかる通り、そんなシーンはない。
 因みに作者たちの構想の中のひとつとしては、ラストでトラヴィスとハンターの父子が、一家の愛の原点とも言うべき<パリ、テキサス>に向かって、砂漠に消えていくといったアイディアもあったという…。■

『パリ、テキサス』© 1984 REVERSE ANGLE LIBRARY GMBH ARGOS FILMS S.A. and CHRIS SIEVERNICH PRO-JECT FILMPRODUKTION IM FILMVERLAG DER AUTOREN GMBH & CO. KG LOGO REVERSE ANGLE